ボーダレス ホルダー   作:紅野生成

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34 夜闇を泳ぐ金魚

「ゲン太?」

 

 和平が呼びかけても指先で押しても、ゲン太はぴくりともしない。

 外れた歯を手にした和平は、顎を捻って暫し考え水気の主に向き直る。

 

「すみません。ゲン太の泥を落として、その辺りで乾かしてやって貰えますか?」

 

「下駄の坊やは、あたしがここに着いたときには既に泉の中でけっこうふやけていたけれど、これ以上水に晒して大丈夫かい? 洗うのは構わないが、ただ気絶しているようには思えないんだがねぇ」

 

 水気の主の言葉に和平はにこりと頷く。

 

「確かにゲン太が元に戻るかはわからない。でも今は、紅の回復が最優先です。あぁ、干すときは、下駄を揃えてやってくださいね。こいつ、どうも離れると駄目みたいだから」

 

「あぁ、わかった。金魚の坊やを頼んだよ」

 

 頷いた和平は厳しい顔つきで水の玉に目を戻した。紅の色は変わらず、薄い鱗の下で黒い固まりが細く尾を引いて忙しく動き回っている。

 

「まだ気づいていないな。欲にかられて我を忘れている」

 

 和平が紅の体内に送り込んだのは、肉眼では黒い粉にしか見えない小さな動植物。その存在は異種の中でも更に特殊。毒を体内に宿す生き物が近付かないとまったく動きを見せない。幾年かかろうと、獲物が近付くのを身を潜めて待つ。

 活発に動き出すのは、毒を持つ者の血肉に触れたとき。獲物を待つ間は土や鳥の羽根、木の皮などに潜み、毒の香が感じられるのをただひたすらに待つ。

 集団で行動し、毒を吸い切って苗床から花を咲かせる様子は美しいと文献に残っている

花と呼ばれるのさえ便宜上のこと。

 その生態は、文献に残っているとはいえ今だ謎多き異種だった。

 和平でさえ、手に入れたのは偶然。毒消しの研究に使えると胸躍らせていたというのに、用途はまったく違ってしまった。

 

「助かってくれよ……。値が付けられないほど貴重な異種なんだからな? この上死んでゲン太を泣かせたら、焼き魚にしてやるから」

 

 ただ1つ疑問があった。紅は異種を取り込み撒くことができる。なら吸い取った毒も吐き出せなかったのかと。

 

「この辺りは毒で汚したくない者ばかり居たか、あるいは毒を吸い始めてから、吐き出す場が無いことに気づいたか。毒を吸いきった後、捨てに行く力が想像以上に削がれていたか……」

 

 どっちにしてもお人好しを通り過ぎて馬鹿ばっかだ、と和平はぽりぽりと頭を掻いた。 

「はじまったな」

 

 一塊で動いていた異種が、紅の中で花火のようにぱっと散り、どす黒い影が尾の先にまで広がった。紅の鱗が、黒と紫に染まっていく。空気中に放り出された魚のように、ぱくぱくと動いていた口元の動きが鈍くなり、エラもほとんど動かなくなったのを見て、和平は心配げに眉根を寄せる。

 

「まだ気づくなよ。こんな上等な毒には二度とあり付けないぞ? 食らい尽くせ。飛び立つのはそれからだ」

 

 動きが鈍くなった紅の命がそれまで持ってくれなければ、毒が消滅したところで何にもならない。ほとんどの毒を吸い尽くす前に、異物の中に居ると気づいて飛び立たれたら、そこで希望は潰える。

 

「がんばれよ、紅。元気になって、しゃべらなくなったゲン太をどうにかしてくれ」

 

 僅かに動いていた口もぽかりと開いたまま、紅のエラの動きがぴたりと止まった。

黒と紫が入り混じっていた鱗が紫一色となり、エラさえ動かせなくなった紅の体は、腹を上に向けたまま胴がゆるりとくねり、まるで泳いでいるかのようにゆったりと尾ビレが揺れる。

 自らの手で作りだした水の玉で起こる変化を察した水気の主が、ゲン太を並べる手を止めて振り返った。

 水の玉を覗き込んでいた和平は、四つん這いのまま後退り身を引いていく。

 和平が開けた小さな穴から、紫の固まりがもぞもぞと競り上がり、引いてはまた盛り上がる。

 

「水を丸めている力を、少し弱めて貰えますか?」

 

「承知した」

 

 和平に頷いて、水気の主は水玉へ向けた手の先で人差し指をぱちりと弾く。

 押し合っていた力の均衡が崩れ、小さく鱗に穿たれた穴から一気に滑り出た紫の尖端が、水の玉の結界を破り弾けさせた。

 ぽとり、と紅が塗れた草の上に落ちた。

 どくどくと、背びれの付け根の穴から全てが抜け出し、全貌を露わにする。

 紅の体表の模様をそのままに、薄紫と濃い紫で彩られた金魚が宙を泳いで空へと登る。 まるで幻影のように淡く発光しながら泳ぐ金魚はどんどん大きさを増し、子供が両腕を広げたほどの大きさになった。

 金魚の姿は朧気で、昼間であったなら向こうの景色を透かせて見せたことだろう。

 

「あれは……」

 

 水気の主が、呆けたように空へと登る紫の金魚を眺めている。

 

「あいつらは、毒を吸って増殖するんです。吸った毒を多くの個体で分け合うことで、自分達に害をなすほどの量は身に含まない。そして宿主と同じ姿となって去っていく。なぜ同じ姿を取るかは謎のままです」

 

 興味深げに頷いていた水気の主は、はっと我に返って紅の元へ駆け寄った。手を翳し大地の水を引き寄せ、清らかな水の玉で再び紅の身を包み込む。

 悠然と尾を揺らし薄紫の光を放ちながら夜空へ登る金魚の姿を、和平は黙って見つめていた。夜の濃い闇に呑み込まれ、優雅にゆるりと揺れる金魚の尾が視界から消えた。

 

「金魚の坊やが呼吸をしていないよ? 毒は抜けたんだろう?」

 

 変わらず腹を上に向けて水でかたち取られた玉の中、中央で浮かぶだけの紅に水気の主は不安げに眉を顰める。

 

「紅色が元に戻っているから、毒は完全に抜けたはずです。後は紅次第。励ましてやるべき仲良しのゲン太は、今は居ないもの」

 

 水気の主が並べて干したゲン太の木肌は、綺麗に水で清められ平らな石の上に並べられていた。濡れた鼻緒は下がり、木肌は水を吸い込んで飴色になっている。

 和平が指先でそっと擦っても、薄墨は湧いてこなかった。

 

「ヤタカの兄ちゃんを、小屋で休ませないと。怪我人に夜の冷え込みはまだきついからね」

 

 さて、どうやって運ぼうかな、そういって和平が腕組みして息を吐く。

 薬の知識は大人以上でも、腕力はただの子供である和平に、脱力しきったヤタカを抱えて坂を登るなど無理だった。

 

「運んでもらうといいさ」

 

 水気の主の言葉に、和平はきょとんと首を傾げる。

 

「そんなところに潜んで居ないで、さっさと出ておいでな。おまえさんの真の目的など知らないが、今ヤタカに死なれちゃ困るだろ? 敵も味方も、利害の一致が全て……違うかい?」

 

 水気の主が視線を送った森の闇で、がさりと枝を分ける音が響き、闇の中を歩く足音が近付いてきた。

 

「どうしてわかった?」

 

 闇から顔を出さずに、男の声だけが響く。

 くくくっと笑って、水気の主が袂で口をそっと押さえた。

 

「小屋で眠るイリスを守りにいっただろう? その後は、辺りの森に潜む輩が居ないか見廻っていた……違うかい?」

 

 ちっと舌を鳴らして、白い小花たちが照らし出す淡い景の中に姿を見せたのは、黒い旅着に身を包んだゴザ売りの男だった。

 

「この気配はもしかして……すごいな、ここまで近付いてくれて初めてわかった。知る人間の気配を感じ取れないなんて初めてだ。あなたはイリス姉ちゃんの薬をヤタカ兄ちゃんへ渡しに来た人でしょう?」

 

 和平の言葉に嫌そうに眉を顰めたゴザ売りは、ふん、と鼻先を背け何も言わずに腕を組む。

 

「てめぇらが居るのが気にくわねぇ……が、取りあえず運ぶぜ」

 

 

 大柄とはいえないゴザ売りの男だったが、軽々とヤタカを肩に担ぎ上げ小屋へ続く道を灯りも持たずにいってしまった。

 

「あの人、味方なの?」

 

 ぼそりと訊いた和平に、水気の主が可笑しそうに首を振る。

 

「あんな物騒な奴、味方にしたら枕を高くして寝られやしない。かといって、敵に回したくはないがねぇ。敵の敵は味方。あの男が命に代えてもイリスを守ろうとしている今は、正面切ってぶつかる必要のない相手さ」

 

「へぇ、要は心底気を許すなってこと?」

 

「ふふ、共通しているのは、イリスを大切に想う気持ちだけ。それを抜かせば、あたしだって、あんたが気を許して良い相手じゃあないんだよ、坊や」

 

 柔らかく微笑んでいた水気の主の眼が、言葉の真意を伝えるようにすっと細められた。

 

「大丈夫、オレは誰も信じちゃいませんよ」

 

 和平は、にかっと白い歯を見せて笑顔を見う。

 

「その笑顔が曲者さねぇ」

 

 流し目で和平を見ながら艶っぽく口元だけで微笑んだ水気の主は、すっと視線を足元に落とす。

 

「できるなら坊やも、敵に回したくないものだよ。あんたが只者じゃないって、イリスやヤタカは気づいているのかねぇ」

 

 水気の主の言葉に幼さを残す表情で和平は苦笑を漏らす。少し寂しそうに、僅かに唇を開いたが声を発することは無かった。

 

「さあ、あの男を追うとしようか。下駄の坊やも連れて行くかい?」

 

「はい。ゲン太ははオレに任せて、紅をお願いします。オレが水の玉のまま運ぶのは心配です」

 

 あいよ、そういって水気の主が手の平を上にさらりと引き上げると、紅を包んだ水の玉がふわりと浮かび、行き先を心得ていると言わんばかりに、小屋がある闇の向こうに消えて行った。

 

「ゲン太、いくぞ」

 

 物言わぬゲン太を両手で大事に包み込み、和平もまた灯りを手にすることなく闇の向こうへと姿を消す。

 

「利口な上に、凡とは言えぬ技を持つ奴ばかり集まったものだねぇ。あの手合いは、敵にするも味方にするも面倒な連中だよ」

 

 さわさわと集まってきた細い水の流れに、水気の主は身を溶け込ませ姿を消した。

 人の腕ほど細く、ゲン太の板より薄い川がさらさらと大地を流れていく。

 人の道から外れ草木を分けて小屋へ続く崖を、水気の主を含んだまま静かに登っていった。

 

 

 

 小屋の中では水気の主の術で今だ眠りにつくイリスから少し離れた場所に、乾いた血にまみれたままのヤタカが横たえられていた。そのすぐ横に、歯がひとつ外れたまま乾き切らないゲン太が布の上に並べて置かれている。

 

「ヤタカだが、回復するのにどれくらいかかる?」

 

 呻くように低く、ゴザ売りの男がいう。

 

「ヤタカの兄ちゃんなら大丈夫。傷は深いけれど、毒が抜けたなら心配いりません。普通の人間なら十日経っても身を起こすことさえきついでしょうが、兄ちゃんは異物憑きだから。残った痛みにさえ耐る覚悟さえあれば、明日にだって歩けます」

 

 和平の答えに安堵するでも心配するでもなく、そうか、とだけ呟いてゴザ売りの男は口を閉ざした。

 

「さて、あたしは先に帰らせて貰うよ」

 

「帰っちゃうの? イリス姉ちゃんに用があったんでしょ? まだ話さえしてないじゃない」

 

 きょとんと目を見開く和平に、水気の主は涼しげな笑みを浮かべ立ち上がる。

 

「イリスは明日の昼くらいに目を覚ますさ。ここに居ても、することがないからねぇ」

 

――なにより

 

「あの子達が大地に滲みすぎると、呼び戻すのが難しくなる。そうなると、帰ることさえ難儀だからさ」

 

 水気の主が闇夜に向けて入口の戸を開くと、まるでそこに川が流れているかのようにせせらぎが小屋の中にまで聞こえてきた。水気の主があの子と称した水達が、主を求めて集まる音。

 

「またどこかで会うだろう。その時、刃を交える……なんてことにならないことを願っているよ」

 

 開け放たれた戸口に水柱が立ち、渦を巻いて水気の主を包み込む。

 バシャリと水が大地に落ちた音が大きく響いたかと思うと、川の流れが遠くなっていった。ゆっくりと立ち上がった和平がちょこりと外を覗き込み、呆れたように肩を竦めて戸口を閉める。

 

「行っちゃった。すっごく綺麗だけれど、解らない人だな」

 

「あの女のことなんざ理解できるもんか。そんな奴が居たら、人間じゃねぇ」

 

 吐き捨てられたゴザ売りの言葉に、こっそり首を竦めてぺろりと舌を出した和平は、ヤタカの傷口に薬を塗り直して綺麗な布を当てた。

 水気の主が姿を消しても、紅を包む水の玉はゆらゆらと形を保ち、床から僅かに浮いて紅を守り続けている。

 ゲン太を摘み上げ、和平は大きく溜息を吐いた。

 

「後はゲン太だな。いつもなら水に濡れたってこんなことにはならないのに。文字を浮かばせられない上に、すっかり水が染みこんでぶよぶよじゃないか」

 

 指先で弾いても、摘まれた鼻緒の下で揺れるだけで、ゲン太はただの下駄だった。

 

「少し乾いたら、明日にでも取れた歯をはめてみようか? 薬が効かない症状なんて、オレにはどうにもできないんだぞ? この太っちょゲン太め」

 

 外を見張る。そう言い残してゴザ売りの男が外へ出て、小屋の中はヤタカとイリスの寝息だけとなった。

 

「あのおじさん、どうせ朝には姿を消しちゃってるんだろうな」

 

 この夜、和平は傷口に何度も薬を塗り直し、滲む血が赤い染みをつくる布を張り替えた。 その合間に火鉢で起こした火で薬草を煮だし、煮詰めて濃くしたものを一滴、紅が体を浮かべる水の玉に落とした時には、山間の小屋にも明かり取りの窓から朝日が差し込んでいた。

 微かな動きだが、紅のエラは生きようと動き始めていた。

 この世に戻って来ようと、足掻きはじめていた。

 大きく欠伸をして目を擦り、細くなった目しょぼしょぼさせながら和平は持ち合わせの米を炊き出す。

 

「目が覚めたとき、食べ物がないとイリスの姉ちゃんがぷっくりふくれっ面になりそうだもんな」

 

 大の大人の面倒を一晩みつづけた和平は、もう一度ごしごしと目を擦り頭を一振りして息を吐く。

 

「ゲン太、紅ぃ。頼むから目を覚ましておくれよぉ。オレひとりじゃ辛いっての。おまえらだけが頼みの綱なんだからさぁ」

 

 情けない声で叫んでも、小さな友はぴくりともしない。

 

「ば~か!」

 

 ぺろりと舌をだし、鼻筋に皺を寄せて和平は再びヤタカの傷の手当てに戻った。

 

「姉さん」

 

 擂り粉木で薬を混ぜるしゃりしゃりという音に混じって、か細く和平の声が響く。

 

「オレさ、姉ちゃんが大好きだよ」

 

 しゃり しゃり

 

「でもこいつらも嫌いになれないんだ」

 

 しゃりしゃりしゃり

 

「駄目かな? こいつらを……」

 

 しゃり しゃり しゃり

 

「守っていたいと思っちゃ……駄目なのかな」

 

 擂り粉木の中に、ぽたりぽたりと雫が落ちる。

 

「初めて、友達になりたいと思ったんだよ……姉さん」

 

――姉さんも、こいつらのこと嫌いじゃないだろ?

 

 だったら……

 

 和平は止めどなく流れる涙をごしごしと擦って唇を噛む。

 誰よりも大切に思う姉に思いを馳せて、また涙が流れた。

 背負った蜘蛛の巣が、中央から外へ向けてどくりと脈打つ。

 

「姉さんは生きて」

 

 和平の目元が柔らかく笑みを模る。

 ばりばりと音を立てそうな程に膨れあがった蜘蛛の巣の痣が、和平に抵抗するかのように痛みをもたらす。

 

「オレを殺していいから」

 

 和平の言葉を聞く者はいない。全てに闇を打ち消すように、朝日が眩しく小屋の中に差し込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 読んで下さってありがとうです。
 今回は、ちょびっと短めなり……

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