ボーダレス ホルダー   作:紅野生成

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33 水の玉に浮かぶ者

 おばばが居ない泉の脇に投げ出されたまま、ヤタカは仰向けに転がっていた。

 大人が二指を差し込めるほど大きく開いた傷口からは、心臓が脈打つたびどくりどくりと血が溢れ出す。

 

「血は吹き出ていないから、太い血管は無事だろう。でもこの出血じゃ長くは保たない」

 

 でもね、と水気の主は唇を噛む。

 

「血が流れ出て心の臓を止める前に、ヤタカは死ぬ。蔦から注がれた毒が抜けない限り、助かる道はない」

 

 血を流す肩口に下駄の歯をかけようとしたゲン太を、そっと水気の主が押し留める。

 

「お止めよ。この男の血は今や毒そのもの。触れたら下駄の坊やだってただじゃ済まないよ」

 

 身を引き鼻緒を振るわせるゲン太に脇目も振らず、泉の周りで紅が呑み込んだ異種の種を撒いていた。

 濡れた葉をひらひらと渡り、赤と白の入り混じった尾が柔らかく揺れる。

 ゲン太の脳裏を過ぎったのは和平の顔だった。今すぐ和平を呼び出せたなら、ヤタカは助かるかもしれないと、連絡の手段が弾頭のように頭の中を過ぎていく。

 たとえ和平が駆けつけたとしても、それなりに時間はかかる。毒と出血。時間との争いを考えると、どう足掻いても打ち勝つ方法が見いだせなかった。

 

――どく 

 

 ゲン太の木肌に墨の文字が浮かぶ。

 

――うつせるか

 

「移すって、どこにだい?」

 

――はなおから しみる

 

 ゲン太の木肌に浮かんだ文字を見て、水気の主は寂しそうに優しく眉尻を下げる。

 

「下駄の坊や、それは無理だよ。毒は移せる。だがその方法だと血も同時に抜けて無くなる。ヤタカが命を落とすことに変わりはないんだ」

 

 ゲン太の木肌に、もくもくと墨が渦巻く。

 悔しくて、悔しくて自分の身を焼いてしまいそうな程に。

 小屋で眠るイリスを起こそうとする者は誰もいない。水気の主はイリスに駆ける言葉を見つけられず、ゲン太はイリスが泣くのを見たくなかった。

 方法が見つからないなら、後で恨まれようとイリスには穏やかな眠りについていて欲しかった。

 泉の中で紅と戯れてすっかりふやけた下駄より重く、ゲン太の心は身動き一つ取れずに重く固まっていた。

 ゲン太は思う。

 ヤタカなんて、顔を顰めて毎日痛い目に合えばいいと。清い下駄に臭い足を突っ込んだりする奴なんて、死なない程度にくたばれと願っている。

 イリスとの楽しい時間を邪魔する馬鹿なんて、熱にうなされて一日寝込めばいいと本気で思う。

 でも……こんな状態を望んだことなど無い。

 本当にくたばってくれと思ったことなどない。腐っても生きて、ゲン太と小競り合いをしてくれなくては張り合いがない。

 何より、イリスが泣き叫ぶ姿など見たくなかった。

 ヤタカの身を案じる心の隅で、ゲン太はふっと考える。

 どうして自分はこんなに、イリスを大切に思うのだろうと。

 かわいくて優しくて、明るい女の子だから大好きだ。でもそれだけじゃない。自分でも認識できない記憶の遠い遠い場所が、命に代えてもイリスを守りたいと訴える。

 イリスを泣かせないためなら、ヤタカの為に命を投げ出してもいいと思えるほどに。 

 

――さがって

 

 ゲン太の木肌に浮かんだ墨の文字に、訝しげに眉を顰めながら水気の主が後退る。

 

 からり ころり

 

 ゆっくりと、けれど確かな足取りで肩口から湧き出る血の流れに身を寄せたゲン太は、敵を前に跳躍の構えを取る獣のようにぐっと鼻緒を引いた。

 せめて傷口を押さえようと思った。血が流れるのを止めたかった。

 自分の身など、死にかけてから考えればいい。そう思った。

 ゲン太が後ろの歯で土を蹴り、飛び上がろうとした刹那、泉の水面に水しぶきが立ち上がり、突進しかけたゲン太の鼻先を掠めて横切る影があった。

 掠めただけだというのに、前進しようとした勢いを弾かれて、ゲン太は後方の大地に転がった。

 身を横たえたヤタカから少し離れた場所で、水しぶきに濡れた白い小花の葉の表面を、紅がゆったりと尾を振り泳いでいる。

 風もないというのに泉の水面に波が立った。さして広くない泉の対岸で盛り上がった水面が押し寄せ、勢いをそのままに跳ね上がった波頭が、ヤタカの体を直撃した。

 

 浴びた水に誘われて、傷口から流れる血が勢いを増す。

 堪りかねて駆け出そうとしたゲン太の鼻緒を、水気の主が摘み上げた。

 暴れるゲン太をそっと手で包み、水気の主はゆっくり首を横に振る。

 

「下駄の坊やは、あの子を信じないのかい?」

 

 一枚の葉の上に留まって尾を揺らす紅を見ながら、水気の主が静かに問う。

 

「信じておやりよ。金魚の坊やに何かあったら、その時に助けてやるのがあんたの仕事だろ?」

 

 暴れていたゲン太の体から力が抜けた。

 

――わかった

 

 ひと言だけ木肌に文字を浮かばせ、水気の主の手の平に包まれたまま、ヤタカと紅を交互に見た。紅が何をしようとしているのか、ゲン太の頭では想像すらできない。だからこそ、何が起きるかわからなくても、最悪の結果が待っているとしても、紅を信じてみようと思った。

 

 ぴしゃり

 

 濡れた葉の上で、紅が大きく尾を叩き付けた。葉から葉へ渡り濡れた大地の草を泳いで、紅は気を失ったまま横たわるヤタカの、首の下へ周り姿を消した。

 傷口からとうとうと流れ出す血の川に身を浸していた白い小花が、大きく花弁を広げて震えたかと思うと、闇を吸い取ったように黒く染まり、淡い光を失ってくたりと首を折り枯れていく。水気の主が止めていなければ、近付こうとしたゲン太も同じ道を辿っていただろう。ゲン太は鼻緒を縮め、ぶるりと身を震わせた。

 

「金魚の坊やは勇気がある。だがあれは、さすがに無鉄砲じゃないかねぇ」

 

 鼻緒を跳ね上げることも忘れて、ゲン太は目を懲らす。

 ヤタカの首の下に潜り込んだ紅が、濡れたヤタカの頬を泳いでいた。まるで葉の上を渡り歩くのと変わらないとでも言いたげに、ゆったりと揺れる尾が美しい。

 濡れたヤタカの肌は紅が尾を跳ね上げると、湖面のようにさわさわと水紋を広げる。

 首筋を渡って作務衣の下に入って行った紅は、しばらくすると投げ出された手首をくるくると周り、指の間を通って布の下へ戻っていった。

 奇怪な紅の行動をじっと見つめていたゲン太は、作務衣の裾からでて脛の上をゆるゆると泳ぐ紅の姿に目を見張った。

 

 がくがくと震えながら激しく身を打ち鳴らし、後ろ歯で立ち上がって水気の主を見上げたゲン太は、すとん、と前の歯を大地に戻す。

 

――べに あつめてる

 

「何を……だい?」

 

――どく

 

 ヤタカのふくら脛を周り、足首まで泳ぎ着いた紅の体はすっかり色を変えていた。

 白に鮮やかに混ざる紅色のなごりは、今はどこに見当たらない。

 汚泥を溶かしたように濁った白い鱗に色を差すのは、毒々しく黒ずんだ濃い紫。

 紫に変色した尾をゆらりゆらりと振りながら、紅はヤタカの親指まで泳ぐと、足の甲の裏側に回り姿を消した。

 はっと我に返ってゲン太が駆けつける。濡れた葉に身を潜める力も無くした紅が、苦しげにエラを動かし、ぱくぱくと口だけを動かしていた。

 泉に戻してやろうと、下駄の頭で紅を押すゲン太をひょいと摘み上げ、水気の主が紅に手を翳す。

 大地を湿らせていた水気が引き寄せられ、毬のように大きな水の玉となり紅を包み込む。水の玉に包まれても、その中心で紅は腹を上に向けて力なく浮かんでいるだけだった。

 

「泉に戻せば、吸い込んだ毒が多少なりとも水に溶け出す。そうなったら、この泉の主も毒を受けることになるんだよ。わたしは水を操れる。だがこの毒を抜く術を持たない。水で包んでも、金魚の坊やは自力で回復するのは無理だろう。持って三日……いや、一日かもしれない」

 

 どうしよう、どうしよう。

 紅とヤタカを交互に見て、ゲン太は落ち着こうと鼻緒を何度も膨らませる。

 はっとしてゲン太は跳ねた。毒が抜けたらな、ヤタカに触れられる。

 

――くすり ぬって

 

 水気の主を急かせて、ヤタカの荷物を開けさせた。

 

――ち とまる

 

 和平から貰った薬の残りが、ヤタカの命を救うかもしれない。それに賭けるしかない。

 

「わかった。最初に塗るのはこれだね?」

 

――なるべく おくまで

 

 一度に話せない下駄の身が恨めしい。

 

――くすり ぬる

 

「わかった。やってみるよ」

 

 水気の主はさっと薬を指先に塗りつけ、ヤタカの肩をはだけると蔦に穿たれた穴に指を押し込んだ。

 

「がっ!」

 

 意識を失っていたヤタカがカッと目を見開き、痛みに体を跳ね上げる。表情を変えることなく、水気の主は更に奥へと指を押し込んでいく。

 大きく仰け反ったヤタカは、痛みに再び意識を失った。

 

「たいした薬だねぇ。これだけの傷の血を止めはじめたよ」

 

 傷口を綺麗に拭い貼り薬で覆うと、ゲン太に指示されたとおり薬を飲ませようと、水気の主はヤタカの顎を指で引いた。試しに葉にすくった水を流し込んでみたが、迫り上がった舌に阻まれ口の端から全て漏れてしまう。

 

「しょうがない。下駄の坊や、イリスには内緒だよ?」

 

 水と共に薬を口に含むと、水気の主は迷うことなくヤタカの唇に自分の唇を押しつけ薬を注ぎ込む。水気の主の唇に覆われたヤタカの口から薬が逆流することはなく、喉元が小さくゴクリと動いて和平の薬は飲み込まれた。

 ほっと鼻緒を下げたゲン太は、はっとして下駄の身が跳ね上がるほどに鼻緒を立てる。

 

――べに たすける

 

「何か方法が見つかったのかい?」

 

――たすかる かも

 

――あきらめない

 

「あたしは、ここに居ていいんだね?」

 

――イリス おきないように

 

 イリスには眠っていて欲しかった。その思いは多分、ヤタカも変わらないだろうと思った。

 

「イリスはもうちょっと眠っているように、あたしが細工しておくさ」

 

 ゲン太は持てる力の全てを呼び覚ますように、大きくカン、と身を打ち鳴らす。

 

――いってくる

 

「これでもあたしは、あんたが気に入っているんだ。戻っておいでよ?」

 

 ふいと顔を背け、水気の主が払うように手を振る。

 腹を上に向けてだらりと浮かぶ紅の姿を目に焼き付け、ゲン太は駆け出した。

 早く辿り着く為なら、もう一度あの崖を転がり落ちてやろうと思う。

 ゲン太は、和平の元へ全力で走った。

 

 

 

 和平はイリスの場所ならわかるといっていた。イリスを起こして、呼び出しの言葉を飛ばして貰えば和平は来るだろう。

 だがイリスの気配を頼りに和平が寺跡を目指すより、近道を知っている自分が道案内をして駆けた方が、ぜったい和平を早く寺跡に連れて行けるとゲン太は思った。

 向かえに行く時間が致命的な時の浪費にならないよう、ゲン太は山の急斜面を駆け上がり、川の流れに乗って細い滝を流れ落ち、考えられる最短の道で和平の住み処を目指した。 日はすでに真上に登ろうとしている。

 

――この山の向こうだ

 

 まともな道程なら一日では着かない場所へ、尋常ではない手段をつかって辿り着いたゲン太はぼろぼろだった。なりふり構わず森の中を駆けていたとき、大木の向こうから飛びだしたシカに気付くのが遅れたゲン太は、驚いて跳ね駆け出したシカの後ろ足に蹴り飛ばされた。下駄の底に丁寧にはめ込まれていた後ろの歯が片方、その時の衝撃で外れかけ、いつも文字を浮かべる木肌の台が、いっぽ進むたびにがくりと傾いだ。

 

――あと少し、あとすこし

 

 色を変え無残に浮かぶ紅を思い浮かべ、ゲン太は最後の一滴まで気力を絞る。

 

――駆け下りるのは無理だな

 

 以前見誤って落下した崖の上で、ゲン太は鼻緒を大きく上下させていた。道を回れば一度山を下って迂回するから時間がかかりすぎる。かといって外れかけた下駄の歯で、崖にそそり立つ木々を飛び移りながら降りるのは不可能だった。

 ただ大地に立っているだけで、疲れ切った下駄の身がかくかくと震える。ゲン太は鼻緒を大きく広げ、すとんと落ち着かせ前を向く。

 

――よし、いこう

 

 残った力の全てを込めて、崖から宙へと身を投げた。 

なるべく遠くへと思ったところで、下駄の跳躍などたかが知れている。ぶち当たっては木の枝を折り、幹に当たっては跳ね飛ばされた。せめて鼻緒が枝先に引っかかってしまわないようにゲン太はぎゅっと鼻緒を縮め、青い空と森の緑が入り乱れる色彩の渦に身を任せた。

 

 ふわり

 

 下駄の歯が全て外れるほどの衝撃を覚悟していたゲン太の体が、柔らかく浮いては沈みを繰り返す。ぐるぐると回って天も地もわからなくなっていたゲン太は、まだ定まらない目を懲らして、やっと自分の置かれた状況を知った。

 

――まずい

 

 びっしりと葉を茂らせ重なる枝葉の上に片下駄が乗り、しなる枝に揺られて上下していた。その枝の先に引っかかったもう片下駄は、外れかけた下駄の歯と台の隙間に枝先を食い込ませ、こちらも上に下にと大きく揺れている。

 

――和平、どこにいる? 和平!

 

 叫ぶ声をゲン太は持たない。焦るゲン太の木肌には、心の内を浮かばせたように墨の渦が巻いていた。気力を尽くして下駄の身を揺すっても、柳のようにしなる枝は外れようとも折れようともしない。枝葉の上に乗ってしまった片方も、片割れが枝に囚われ身動きが取れないのではどうにもならない。理屈はゲン太も知らないが、下駄とはそういうものだった。片下駄同士があまりに離れれば、ゲン太は何もできなくなる。片下駄だけ飛び降りて和平を探すなど、無駄死にも同然だった。

 

――いっそ嵐になって、枝ごと吹き飛ばしてくれればいいのに。

 

 地面はすぐそこだ。大人が枝を振るえば届く程度の高さだというのに。

 血の気が抜けたヤタカの姿を思い出す。

 一緒に遊んだばかりの元気な紅の尾を思い出す。悔しさにない歯をぎりりと食いしばる。 走れない下駄などただの板だ! とゲン太は自分を罵り身を捩った。

 

――いたい

 

 枝にぶら下がった下駄を突かれ、身を捩って下を見たゲン太は驚きに息を詰まらせた。

 

「な~にしてんの、おまえ。新し遊びかい?」

 

 長い枝を両手に持って、呑気に見上げている和平がいた。

 

――この枝に棒が届くなら……

 

 枝葉の上に乗っていた片下駄が、ころりと和平の横に落ちた。

 

「おいゲン太、もう片方はどうすんだよ? ねぇ、ゲン太ってば」

 

 転がったきり物言わぬゲン太を、首を捻りながら突いていた和平はぶら下がる下駄を見上げ、再び視線を落としてしゃがみ込む。

 

「まさか、下駄が揃っていないとしゃべれない?」

 

 そうだそうなんだ、と身動きできないゲン太は心の中で叫んだ。こんな少しの距離だというのに、離れてしまえば動くどころか文字を木肌に浮かばせることさえできない。

 

「しょうがねぇなあ」

 

 和平は長い枝を持ち直すと、勢いよく振りかぶってゲン太がぶら下がる枝を折った。

 勢い余ってふっ飛んだ下駄を枝ごと抱えてきた和平は、外れかけた下駄の歯と台の間に挟まった枝をそっと引き抜き、下駄を並べて土に置いた。

 歯の取れかかった片下駄が傾いでころりと横になったが、構わずゲン太は木肌に文字を浮かばせる。

 

――たすけて

 

「どうした?」

 

 こやかだった和平の表情が引き締まり、ただ事ではないと理解する。

 

――ヤタカ、たおれた

 

――べに どくすった

 

「いったい何があったの?」

 

――なかよし しぬ

 

「ゲン太、毒の種類はわかるか? それによって持っていく物が大きく違う」

 

 短い文を木肌に何度も浮かべ、必要なことだけを急いで和平に伝える。黙って文字を読み取っていた和平は、納得いったように頷くと道具を取りに走っていった。

 膨らんだ風呂敷を肩掛けして戻ってきた和平は、ひょいとゲン太を摘み上げ両手に持ってにっと笑う。

 

「最短での道案内を頼むぜ、ゲン太。ただし、崖はなしだかんな!」

 

――わかった あっち

 

 走り出した和平の姿は、あっというまに森の茂みに消えて行った。和平の手の中で途切れ途切れとなる意識を何とか繋ぎ止め、ゲン太は道を教えていく。

 和平の足は速かった。

 このまま進めば夜中までには着けるだろう。和平は紅が助かるとはいっていない。ゲン太も助かる見込みはあるのかと、怖くて訊けない。

 日が落ちても和平は走り続けた。まるで夜目が利く獣かと疑いたくなる速度で、木を避け倒木を避け進んでいく。 

 

――みえた

 

「あそこか……間に合えよ!」

 

 泉におばばの姿は無い。場所を変えずに横たわるヤタカと、傍らに座る水気の主の姿だけが白い小花が放つ淡い光に照らしだされていた。

素早く山を下った和平が駆け寄ると、その手に握られたゲン太を見て、水気の主がほっと安堵の息を漏らす。

 

「大丈夫。金魚の坊やはまだ生きているよ。現世とあの世を繋ぐ細い糸が、辛うじて繋がっている程度だが」

 

 ゲン太を地面に下ろし、まずはヤタカの元へ行き膝を着いた和平は、脈を取り自分がつくった薬が使用されたことを確認して、無言のまま頷いた。

 

「ヤタカ兄ちゃんは、取りあえずこのままに」

 

 水の玉に囲まれた紅の元へ駆け寄り、触れることなく観察する和平の眉根が寄っていく。

 

「この子はたしか、ただの金魚じゃないよな?」

 

 和平の視線を受けて、ゲン太は力なく鼻緒で頷いた。

 

――べには いぶつ

 

――いしゅ のみこむ

 

――いしゅ まく

 

 指先で顎を捻り目を閉じた和平は、よし、といって風呂敷を広げ中を漁りだす。

 

「この子が普通の金魚なら助からない。でも異物なら……賭けてみるか」

 

――なにするつもり

 

「毒を必要とする異種がいる。そのほとんどは宿主から毒を吸い出し、肉体を苗床として花咲かせるが、毛色の変わったやつもいるのさ」

 

 普通の人間なら、どのみち死ぬけどね、と和平は無表情のまま荷物の道具を並べはじめる。

 

「そして異種は異物を嫌う。滅多に手に入らない毒と、嫌いな異物。そこに生まれるせめぎ合いが、吉と出るか凶とでるかはわからない。けれど目論見どうり事が運べば、紅は助かる」

 

 不安げに、ゲン太の鼻緒がくしゅりと垂れた。

 

「助かると断言はできない。でも他に方法はない。それでもいいかい?」

 

 和平に問われて、ゲン太は真っ直ぐに鼻緒をたてた。

 

――うん やって

 

「わかった」

 

 ゲン太は鋭く尖った道具の先に粘り気のある液を塗り、紙に包まれていた黒い粉を残らず付けた。

 

「この先は見ない方がいいよ? ゲン太は、誰かが痛いのは嫌だろ?」

 

 優しく微笑みかける和平に、ゲン太は立てた鼻緒に力を込める。

 

――みとどける

 

「そっか。そうだな。紅とゲン太は仲良しだもんな」

 

 以前は拗ねてむくれた言葉が、今はゲン太の胸を締め付ける。言葉を交わさなくても、側に居るだけで互いを感じられるのが紅だ。人では無い、唯一無二の友だった。

 

「よし、はじめるよ」

 

 水の中に差し込まれた道具が、紅の体を挟みぴたりと固定する。黒い粉を塗った鋭利な尖端が、右手で慎重に水の中に押し込まれた。背びれの付け根にぶすりと刺された尖端から、黒い粉が紅の体内に流れていく。外にはみ出た部分の粉も、まるで引き寄せられるように紅の体内に潜っていく。小さな穴を残して、鋭利な棒が引き抜かれた。

 

「こいつらは、紅の体内にある毒に引き寄せられているのさ。毒の誘惑に、我を忘れている。さて、自分達が潜り込んだのが大嫌いな異物の体内だと、こいつらは何時気づくだろうね」

 

 体を固定していた道具も水の玉から引き出されても、腹を上にしたまま水玉の中心に浮かぶ紅。その体表を覆う薄い鱗を通して、その下で蠢く真っ黒なもの。

 集団で動く性質なのか、オタマジャクシのように尻を細らせ、まるで紅の体内を泳いでいるようだった。

   

――べに がんばれ

 

 無意識に力が籠もった、ゲン太の片下駄がころりと転がった。

 取れかけていた歯がぽろりと外れ、乾いた音を立てて傍らに転がる。

 ゲン太の動きが止まった。

 ぴんと立っていた鼻緒はくたりと下がり、訝しんだ和平が声をかけても、土埃にまみれた木肌には、文字一つ浮かばなかった。

 

 

 

 

 




 読んでくれたみなさん、ありがとうです。
 

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