日が昇らない内から和平が山菜を刻む音に、ヤタカは渋々身を起こした。
料理の為に外で火を熾しているのだろう。長年の風雨に腐れ落ちた壁板の隙間から、微かに枝が燃えた煙が漂ってくる。
「眠れたか?」
「うん。よく寝た」
背を向けて飯をつくる和平の声に濁りはない。一睡もできなかったヤタカは、張りついた喉に竹筒の水を流し込んだ。
昨夜の光景が瞼に焦げ付いて今はどうにも、この辺りに湧き流れる水を口にする気になれなかった。
「大丈夫か?」
和平もまた、姉の生存を知り心が揺れているだろう。
「平気だよ。うっすらそうじゃないかなって思っていたしね。それよりこの先に必要となる薬とゴテの方が問題だよ? 治療方針が完全に変わっちゃったから」
金に輝く文字列を体に取り込む、イリスの細い指先と背中が鮮やかに蘇る。
「難しいのか?」
振り返って座り直した和平が、ゆっくりと首を横に振る。
「難しいというより、未知の領域」
ちらりと横を見た和平は、イリスが深く眠っている様子にふっと息を吐く。
「姉ちゃんみたいな役目は、長い歴史の中で繰り返されてきたことかもしれない。だとしても、捨て置かれてきたのだと思う。今までの誰か……はね」
長い歴史の中繰り返されてきたであろう役目。その担い手達。ヤタカは静かに目を閉じ、歴史の泥に名を埋めた者達の顔を思い浮かべてみる。どれも皆、肌色の砂が砂丘を描いたように表情は浮かばない。
何に縋り何を諦めて生きたのか、人格に色を持たせられない。
「彼らを生かそうとか、楽にしてやろうとか、周りで関わる者達にそんな概念はなかったと思うよ。もしあったらな、家にあった膨大な資料の何処かに記されている筈だもの」
家に火が放たれた頃、和平は幼かった筈。寺で膨大な知識を頭に詰め込まれたヤタカと比べても、あまりにも幼い。だというのに読んでいた、理解していた。わたるに和平、想像さえつかない火隠寺家の頭脳に、ヤタカは舌を巻く。
「まるで忘れられた存在だな」
「見て見ぬ振りをしたのだろうね。負った役目を終えたなら、その後どうなろうと構わない。いや、どうにも手の施しようなど無かったのかもね。知る者もほとんどいなかっただろうから」
ごろりと寝返りを打ったイリスが、ぽんやりと口を開けて顔をこちらに向けた。
「イリス、今夜は寝ながら痒がらなかった」
「あれは感覚だから。痒みは酷くなると痛みより辛いこともある。薬は置いていくよ。一緒に旅を続けることはできないから、なるべく様子を見に来る」
「居場所をどうやって知る?」
「兄ちゃんの居場所はわからないな。でも姉ちゃんの居場所は今ならわかる。体に取り込んだ文字が増えたせいかな」
ヤタカは顎を捻り眉根を寄せる。
「それとおまえがどう繋がる?」
「これだよ、これが姉ちゃんのいる場所を教えてくれる。まるで見えない糸で指し示すようにね」
ゆっくりと背を向けた和平が、胸元をはだけて一気に肩から衣を引き下げる。
まだ少年の細さを残した背が露わになった。
ヤタカの目がじわりじわりと見開かれ、見たモノを受け止めきれずに眼球がカタカタと揺れる。
「何だよそれ……まるで……」
「まるで蜘蛛の巣みたい、だろ?」
和平の背中に赤く浮き出た、血管のように張り巡る蜘蛛の巣。ミミズ腫れのごとく浮き上がる赤の痣。
風に吹かれたかのように、生きているかのように細く脈打ち赤がうねる。
「これがあるから、ぼくは特異なんだ。オレは男なのにね。 姉さんのは見た? これで解ったでしょ? 一つであるべきモノが、姉さんとぼくに分かれちゃったんだよ」
わたるのこめかみで蠢いた蜘蛛の痣が、目の前で赤く糸を広げる蜘蛛の巣の赤に重なっり、ヤタカはぶるりと頭を振った。
「分かれたって、双子じゃあるまいし」
少し目を伏せ指先を弄びながら、和平は静かに首を振る。
「どうしてだろうね。でも分かれたモノはいつか一つになる。そうじゃなけりゃダメでしょう? 何の為にあるのか解らない。だからぼくは動けないでいる」
「わたるは、動き出した」
「うん。姉さんは強いね。強くて、優し過ぎるから馬鹿を見る。いつだってそうなんだ」
いつの間にか寄ってきたゲン太が、和平の膝に前の歯をかけて鼻緒を萎ませる。
「ゲン太も見るかい? イリスの姉ちゃんには内緒だよ? 見たって気持ちの良いものじゃないからさ。気味が悪いだろ?」
和平がにこりと笑う。そっと背中にまわったゲン太は、固まったように動かなかった。 何を思っているのか、得意の墨さえ木肌に浮かばない。
「ゲン太、こういうときの減らず口だろ? 黙るなよ」
柔らかな笑みと共に、和平がゲン太の鼻緒を指先で弾く。
ふるふると身を震わせ、ゲン太がぴしりと鼻緒を立てた。
――こわくない
木肌に太く文字が浮かぶ。鼻緒が震えている。ヤタカは安堵にそっと胸を撫で下ろす。 ゲン太の震えは怯えではなく、怒だと感じたから。
ゲン太はどうやってその思いを和平に伝えるだろう。伝えてやって欲しいとヤタカは願う。
「そうか? ゲン太は肝が座ってんな」
――もっとこわい のある
「おれに? おれ、ゲン太に何かした?」
――あし
「足がどうした?」
不思議そうに和平が裸足の足先を手でぐいと引き寄せ、しげしげ眺めてからゲン太の前に放りだし、指をむずむずと動かした。飛んで逃げようとしたゲン太を、もう片方の足が器用に押さえ込む。
――くさい しぬる
「なんだとぉ!」
鼻緒に指を通そうとする和平、本気で逃げようと慌てるゲン太。
今だ表情が固まったままのヤタカをも巻き込んで、どたりばたりと小競り合いの振動がぼろい小屋の床を軋ませる。
珍しくヤタカの横に逃げてきたゲン太が、激しく鼻緒を上下させている。人間ならばぜーぜーと息が上がった状態なのだろう。
「何をぴったりくっついていやがる! 離れろクソ下駄!」
ヤタカの口元に、微かだが笑みが浮かぶ。
はだけていた衣を着直して、和平も肩で息を吐く。
「おまえは優しいな、ゲン太」
白い歯を見せた和平は、ゲン太を見ながら愛しそうに目を細めた。
ゲン太の精一杯の思いやり―――とヤタカは思う。背に何を背負っていようが、和平は和平だと、ゲン太は別の言葉で指し示した。
「地震? ごはん?」
騒ぎに目を覚ましたイリスが、寝ぼけたことを口にしながらむくりと起き上がり目を擦る。
「おはよう、姉ちゃん。ゲン太と遊んでいたんだ。起こしちゃってごめんね!」
ゲン太に向けて悪戯っぽく片目を瞑って見せた和平は、朝飯の仕上げに戻っていった。
「ぐっすり眠れた……お腹すいた」
イリスの頭が前に後ろに揺れている。
「お寝ぼけイリス、飯を食ったら和平は帰っちまうんだから、さっさと目を覚ましなよ」
こくん、とイリスが頷く。和平の足の臭いを拭い取りたいのか、イリスにすり寄ったゲン太が浴衣の裾でころころと転がっている。
握り飯と山菜の汁物で体が温まり、一時は冷えた心臓も緩んで落ち着いたヤタカは、和平を手招きして懐から出したものを見せた。。
「乾き切っているが、おまえの脳みそにこの蔦の情報はないだろうか」
慈庭を貫いた蔦の残骸。泉でヤタカを引き上げ救った蔦。野グソの曾爺様が見たという蔦を宿す者。持ち得る情報は全て話した。
「この蔦かは解らない。けれど、居たらしいよ。成長した異種と同化して生きる者が。一種のお伽噺に近いけれど、兄ちゃんと姉ちゃんが身に宿している物もまた特殊。それだって知らない者からみたら、ただのお伽噺だから」
「この地一帯に張り巡る地下道のことは知っているかい?」
「うん。あれは便利だよね」
「地下道にある宿の主人がいった憶測が当たっているなら、俺の記憶の中に、まだ誰も顔を知らない犯人の姿が眠っているかもしれない」
「身を隠していた者、水面下で動いていた者が、表に姿を見せ始めている。記憶の中のその人は、案外に普通の人として、兄ちゃんの中に残っているのかもしれないよ?」
和平の言葉に背筋が冷える。
大切な記憶まで泥で塗りつぶされるなら、自分には何も残らないのではないだろうか。沈みかけたヤタカの意識を、額目掛けてぺしゃり振り抜いたイリスの手が引き戻す。
「寝ぼけてるの? 早く準備しないと日が昇っちゃうよ」
「あぁ、そうだな」
目の前にいて、今命を持つ者達を守ろう。
――イリスには慈庭がいた。ゲン太がいる。俺がいる。
ヤタカは立ち上がり、履き物の紐を締めなおす。
――人知れず花が枯れるような……そんな生き方は絶対にさせない
げしりと蹴られた脛の痛みにヤタカが飛び上がる。眉間によった寄った皺が伸びた。
「痛いって、俺が何したのさ」
蹴った足をぴょこりと上げたまま、イリスが下唇を突きだしていた。
「難しい顔しちゃって。ゲン太を見習いなよ。一日の始まりは、やっぱりあのくらい元気じゃなくちゃ!」
目元に布を巻きながらイリスが指差す方を見て、ヤタカは呆れて肩を落とした。
「イリス、あれは元気じゃなくて、馬鹿なんだよ」
少年と下駄がもみくちゃになって転げ回っている。
「でも楽しそうでしょう?」
「いや、ゲン太は必死だと思うぞ」
遊びを通り越して鼻緒を三角に立てたゲン太が、ちょうど和平の鼻っぱしに蹴りをかましたところだった。勝負あり……だろうか。
「日ごと爺むさくなっていくヤタカよりマシ! 行くよ!」
イリスの号令で、全員が素直に街道にでた。鼻を押さえた和平は楽しそうに白い歯を見せているが、ゲン太の鼻緒は激しく上下している。
――爺むさいより、マシか
文句の捌け口を失って、ヤタカはぽりぽりと頭を掻いた。
和平が早く発つというのに合わせたが、空は暗く夜明けの気配さえない。
「おれと違ってゲン太は優しい。だってあいつは、守りたい者の為に、自分自身を壊したんだから」
優しい表情でゲン太をちらりと見て、和平がいう。
少し離れた場所に居るイリスに聞かせたくなかったのか、和平の声は小さかった。
肯定も否定もせず、ヤタカは和平の言葉を何度も胸の中で反芻した。
「そうだ、ゲン太! 昨日教えてくれた特技を使って、これを持っていて」
ゲン太を手招いて和平は腰を屈めると、瓢箪型した種を一つゲン太の木肌に呑み込ませた。
「これは友達の紅に渡さないで、ちゃんとゲン太が持っているんだぞ?」
――ともだち ちがう
「素直じゃないねぇ」
楽しげに声を上げて和平が笑う。
「それは何の種だ?」
瓢箪型の小さな種は白く、ヤタカが目にしたことのないものだった。
「これはね、異種の種を取り込むことでゲン太にかかる負担を和らげてくれる。万が一限界に達したら、ちゃんと効き目を発揮してくれるんだ」
「へぇ。種を取り込むのって、以外と大変なんだな」
そういえばこの馬鹿下駄、他人の痛みは気にするくせに、自分の痛みを木肌に浮かばせたことがない。以前わからないと言っていたが、思い返せばゲン太は自分を語らない。わからないことを気に病む様子さえ見せずにいる。
「種は小さいけれど、ゲン太だってこの大きさだもの。兄ちゃんだって、重すぎる荷物を持ち続ければ疲れるだろ? それと同じさ」
そういうものか。何となく、取り込んだモノは重さも大きさも関係なく、ゲン太の内側に広がる小宇宙で浮いているような感覚でいただけに、ヤタカには意外な事実だった。
「それじゃあ、また。できるだけ、おれ以外の人間にゴテを当てさせないでね。薬も駄目だよ。あぁ、でも兄ちゃんが昨夜手に入れた薬は大丈夫。渡した薬ほどの効き目はないけれど、ちゃんと姉ちゃんの体に合うものだよ」
「調べたのか? 俺のどこにそんな隙が……」
「人間は眠っていないように思えて、ほんの少し意識を途絶えさせているものだよ。おれは、その僅かな隙を利用しただけ。ごめんね勝なことして。でも、心配だったから」
「驚いたな、あいつの気配に気付いていたのか」
ゴザ売りが薬の切れたイリスに薬を渡すためだけに、闇に紛れて姿を見せたのだとしたら……。
――あの親爺、本気で危ない橋を渡ってやがる。
「じゃあ行くよ。姉ちゃん、無理しないでね。ゲン太、また遊ぼうな!」
手を振るイリスの横でぴしりと構えるゲン太だが、ぴんと張った鼻緒が時折くたりとへたれるのは、内心寂しいからなのだろう。
「和平、おまえも気をつけろ。姉さんがいう女の勘とやらではこの平穏、長くは続かないらしい」
和平がくるりと振り向き、提灯の灯りがヤタカを照らす。
「そうだね、夜中過ぎから山が騒がしい。姉さんの勘は当たっていると思うよ」
「山が?」
「うん。表に姿を見せてまで動きはじめたのは、人間だけじゃないってこと。元々は、彼らの問題だから。そこに人間が介入して秩序を乱した。乱された秩序を取り戻そうとしているんだろうね」
彼らとは、異種のことか?
「幾つもある小さな防壁、人間の感情や思惑が造りだした防壁が、あちらこちらで決壊し始めている。姉さんが動き出したこと、そしておれがはっきりと姉さんの存在を知り、何の為に動くか見定めようとしはじめたこと。まだ何も動いてはいない。いないけれど、音なき動きを彼らは敏感に嗅ぎ取っている。だから、動き出す」
「何が動くっていうんだ? 何に向けて動く?」
「それぞれが望む未来を見据える者の元へ。異種も静植物にだって意思はある。自分達が生き抜く為に、望む道がある。彼らも決して、一つの思いで団結している訳じゃないと思うよ。だから今、夜が明ける前に山を渡ろうとしている」
「山を渡る?」
和平がくるりと背を向け歩き出す。
「人が介入する前の自然な状態に戻そうとする者達と、介入する者を利用して、新たな在り方を探る者。望む力が及ぶ場所へ向けて、彼らは山を渡る。絡め取られて、身動きが取れなくなる前に」
考えを巡らせている間に、和平の背は遠ざかる。
和平の向こうで揺れる淡い提灯の灯りが不意に消えた。森の木々が、まだ冷えた夜明け前の空気を小刻みに揺らす。はっとしてヤタカは目を閉じ、全ての感覚を耳に集中させた。波が寄せるように遠くで森がさざめいている。
ぐるりと囲む山の向こうからサワサワと、山を割る街道の道筋に流れ込むように押し寄せてきたモノに、森の葉が揺さぶられ、それが生みだす空振がヤタカの肌を撫で上げた。
「イリス、ゲン太! 小屋に入って戸を閉めろ! 絶対に出てくるな!」
戸口でかんかんと下駄の身を打ち鳴らす音に、イリスが身を翻す。
「ヤタカは!?」
イリスが、心配気に声を上げる。イリスを急かせて、小屋の中でゲン太が激しく身を鳴らす。
「いいから閉めろ!」
木槌を打ち合わせたように鈍い音を立て、小屋の戸が閉められた。
提灯の灯りを消したのか、それとも消えたのか。和平は気づいていた。夜が明ける前に大きな動きがあることを。
――だから、こんなに早く出立するといったのか。
和平は何を見せようというのか、ヤタカは緊張に身を引き締める。
鬱蒼と茂る山の木々に茂る葉を伝って折り重なる光の粒が、雪崩のように押し寄せる。山のてっぺん辺りでは様々な色を成している彼らは、山裾に近付くにつれ色を変え、怒りにも似た赤が勢力を増していた。
――異種なのか?
羽音が聞こえる。何かが葉を伝う音は、無数に重なり不気味に空気を震るわせた。ヤタカはぶるりと跳ね上がった肩を押さえ込むように、右手でぐいと鷲づかみにした。
勢いを増した赤い光の波が山の中腹を過ぎた途端、視界が晴れたと言わんばかりにヤタカ目掛けて向きを変える。目前の山も遠くで折れ曲がる道の脇を固める山も、表面を流れ落ちる赤い光が一斉に向きを変えて大きくうねる。
――まずい
傍観者であるはずが、標的に変わったと気づいたヤタカは身を隠そうとした。足が地面に張りついて動かない。異様な光景に気を取られ、先に迫った危険を見逃した。
「くそ! 離れろ!」
地面から突きだし足首を絡めているのは、異種だろう。ヘビがぞろりぞろりと巻き付くように、枝と葉だとわかる感触が太股に這い上がる。
太い筋を成して下る赤い灯りの固まりは、山裾に近付くにつれ合流し、荒れ狂う太い川となった。
懐の小刀を出し絡みつく枝に刃を当てたが、切っても切っても下から別の枝が這い上がる。尖端はすでに、ヤタカの左腕を巻き込んで、胸に達しようとしていた。
「ここで騒ぐな! 今は騒ぐな!」
見開いたまま眼球ががくがくと揺れる。小刀を放りだし、押さえるようにヤタカはこめかみに右手を当てた。
目の奥深く水の器が跳ね上がる。まるで自分は此処にいると叫ぶように、己の存在を撒き散らす。
こめかみを押さえる右手を、細い枝が体にぴたりと縛り付ける。
ヤタカは広げた指の間から、迫り来る赤い光の川を睨んだ。
内側から眼球を裂くような痛みに、ヤタカは喉元で思わず呻く。目玉を取り出したくなるほどの痛みだというのに、ヤタカの目は涙を流さない。涙を流す事を許されない目玉は、光のうねりを見続ける。
――このままじゃ呑み込まれる
合流を繰り返し幅を広げた赤い川は、時化た波頭の勢いで跳ね上がり、四方からヤタカを呑み込もうと迫り来る。
――イリスには気付くなよ
ぐいと瞑ったヤタカの右目から、とろりと零れるものがあった。
――まさか、涙
大波が岩場に打ちつける大音が空気を振るわせ、ヤタカははっと目を見開いた。
指の間から見える光景に、身の危険も忘れてヤタカは見入る。
山裾で跳ね上がった幾本もの赤い波頭を、横から飛び入った薄緑の大波が打ち砕く。
赤い波を押して流れを変える薄緑の光の川。光のせめぎ合いはすでに頂上付近から始まり、その様は二色の龍が縺れるようだった。
弾き飛ばされた赤い波頭が、空気を伝って大地を揺らす。
――どうなっている?
弾き飛ばされた赤い波頭が、防波堤にぶち当たったように光の粒を撒き散らす。
更にそれを呑み込み押し続ける薄緑の光の川は、留まることなく山の頂きを越えて溢れ流れてきていた。
赤い川が流れを変えた。下ってきた山を這い上がり、薄緑の灯りの群れを避けるように跳ね上がって同じ方向へ流れていく。
「異種の群れが、山を渡っていく……」
ゆっくりと向きを変え、薄緑色にちらちらと光を放つ川が、ヤタカの背後にそびえる山へと進路を変えた。幾本もの光の川が街道で混ざり合い、巨大な光の薄衣のように森を埋める枝葉を這い上がる。
手の自由が利くことに気付いたヤタカは、足元に目を遣った。ヤタカの足元は、肉眼では個体を見分けられないほど微細な虫の群れに囲まれ、薄緑に輝く小さな泉となっていた。
巻き付いていた枝に付く葉が茶色く枯れ、かさりと乾いた音と共にはらはらと散っていく。枝が表面から灰となって砕けていく。むず痒さにヤタカは右の手の甲に視線を落とした。
「まさか……」
水の玉が、手の甲から腕の皮膚を登っていく。肩から首へ、首筋を通り過ぎたそれは、頬を登り、ヤタカの目の下までするりと登った。
この感覚をヤタカは知っている。遠く幼い日、ヤタカの目に遡った涙。あれ以来、ヤタカの目は涙を流さない。流せない。
「水の器」
下瞼を越えて、右目にするりと水の玉が吸い込まれた。
「うぅっ」
異物が入り込む痛みに、ヤタカは噛みしめた奥歯の裏で呻いた。
足元の光の泉が縁から色を失いはじめる。自由になった足を踏み出し、ヤタカは山々を見渡した。申し合わせたかのように同じ方向へ引いて行った赤い川の、最後の尻尾が山の向こうに姿を消した。
「和平!」
はっとして暗い街道の向こうへ目を懲らす。
まるでヤタカが向くのを見計らったかのように、淡い提灯に灯りが灯された。和平の背に隠れて、ゆらりゆらりと灯りが揺れる。
自分なら心配ない、ちゃんと見た? まるで和平がそういっているように。
「望む未来を描く者の元に……か」
提灯の灯りを追って、薄く細く薄緑の光の筋が続く。細く長く山裾のあちらこちらから湧きだして、和平の後を追っていく。
「おれを救ったのは、こいつらの意思かそれとも」
和平の意思だろうか。足元に残っていた僅かな光の粒が、線香花火が落ちるようにぷつりと消えた。
「いったい、お前達は何を望む?」
光を失い命の絶えた者が眠る足元に、ヤタカはひとり問いかける。
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