ボーダレス ホルダー   作:紅野生成

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30 金粉は森を渡り 肌に呑まれて意味を成す

「おいおい、ご老人かよ」

 

 むっくりと起きたヤタカの口から漏れたのは、まだ日も昇らない内に簡単な朝飯の用意を調え、がつがつと食べている和平に向けられた愚痴。

 

「おはよう、兄ちゃん」

 

「お早過ぎるだろ? 俺達も日が昇る前に大抵起きるが、どっちかっていうとまだ夜だろうに。普段からこうなのか?」

 

「うん」

 

 どこで釣ってきたのか、焼かれた小魚と炊きたての米で握られた握り飯が人数分、床にしかれたゴザの上に葉っぱに乗せて置いてある。

 飯を作ってくれたのはありがたいが、睡眠を邪魔されたことを天秤にかけると、ほとんど迷惑に近い。

 

「今日は姉ちゃんにゴテを当てて、姉ちゃん用の薬を調合する。兄ちゃんのは用意した薬で大丈夫だと思うんだ」

 

「そうか、助かるよ。ところでさ、依頼したあいつらとはどういう関係なの?」

 

 和平に依頼したゴテと野グソ。彼らから和平の話を聞いたことがない。

 

「山が嵐に見舞われたとき、三日間一緒にいたことがある。その時、色んな話をしたんだ。いい人達だよ。優しくて腕が立つ」

 

「そうだな」

 

 嵐なら命懸けの中を乗り越えた仲なのかも知れないが、たった三日で和平を信用することにした二人の心が読めなかった。

 

「あいつらは俺の幼なじみだ。俺はともかく、イリスの診させてもいいと判断するには、相当な下調べをした者か、古い馴染みだと思っていた。三日で和平のことを信用するなんて、らしくない」

 

「どうして信用してくれたのかな? でもオレは、あの三日間で信用したよ」

 

「どうして?」

 

「あの薬を使って、あん摩のゴテさんの怪我を手当てした。けど、訊かなかったんだ」

 

「何を?」

 

 最後の握り飯を飲み込んで、つかえた米に胸を叩きながら和平が目を白黒させる。こうやたて眺めていると、本当に普通の少年だった。

 

「薬の原料、配合。何も訊かなかった。それどころか、この薬を無闇に使うなって。人につくれることをいっちゃいけないって」

 

「そうか」

 

 自分の体で効能を確かめたなら、あの薬がもたらす益も、忍び寄る闇も直ぐに察しがついただろう。効能の高い薬なら、その道に携わる誰もが製法を知りたがる。だが、あまりにも秀でたモノに手を出せば、火傷くらいでは済まない。幼なじみ達は、それほど馬鹿ではなかったということだ。

 

「今日はもう一回薬草を集めに行く。手持ちの薬と合わせて渡すから、ちゃんと飲んでね。オレは明日の朝早くに帰るから。何かあったら繋ぎを付けて、薬が切れる前にね」

 

「ずいぶん早く帰るんだな」

 

「オレだって、毎日忙しいんだよ?」

 

 言いたいことも聞きたいこともあるが、眠っているとはいえイリスの耳があると思うと、肝心なことは何一つ聞けなかった。二度寝を諦めたヤタカはむっくりと起き上がり、少し考えてからこういった。

 

「なぁ和平、俺も売れそうな薬草を少し集めたいから、昼間の採取は一緒に行かないか?」

 

「いいよ。でもオレが先に行って戻って来るから、それまでは待っていてよ。朝日が昇る前じゃないと咲かない花を取りにいくから」

 

「そのまま他のも取りに行けばいいだろう?」

 

「あの場所は秘密の穴場なの! 貴重なんだから、教えないよ~!」

 

 そういうことか。腕のいい野草師やゴテ師は、自分だけの穴場を必ず持っている。そこへ勝手に付いていくのは、この世界では御法度だ。

 

「わかった。迎えに戻って来いよ」

 

「うん。じゃあ行ってくる」

 

 風呂敷を肩に提げ、空の小さな麻袋を手に和平は出ていった。

 せっかちな奴だと苦笑しながら、ヤタカはごろりと横になる。香ばしい焼けた魚の匂いにイリスが目を覚まさないなど、いつもなら有り得ない。

 相当疲れているか、あるいは必要な薬が足りていないか。どちらにしても、この先の旅はイリスの体調次第になりそうだと、微かに痛む首筋を撫でてヤタカはごろりと寝返りを打った。

 

「いったい、どこまで話していいものかな……」

 

 連れて行けと言い出したのは自分だったが、わたるを差し置いて自分が口を出して良いものかと、ヤタカはまだ迷っていた。

 先に食べたらイリスが膨れるだろう。外の空気でも吸って目を覚まそうと、薄着のまま外へでた。蝋燭の灯り一本では足元さえ見えないほど暗い。見渡しても揺れる五つの灯りが見えないということは、和平はとっくに山の奥へ入って行ったのだろう。戸の横で壁に凭れようかと足をずらしたヤタカは、休めるために草履を履いた素足に、カサリと触れた物の感触にさっと足を引いた。

 

「何だ?」

 

 屈んで蝋燭を翳すと、くしゃくしゃに丸められた紙包みが置かれていた。

 安易に触ると碌なことにならない。用心深く紙包みを転がすと、これまた拾ったような汚い紙に、達筆な墨跡で屋号が残されていた。

 

「アメ藤……あいつか」

 

 立ち上がったヤタカは、周りの暗闇に耳を澄ませる。風に揺れる葉の音一つ無く、遠くで季節外れの虫が誇らしげに鳴いている。

 

「いるなら出てこいよ。イリスは、まだ眠っている」

 

 ヤタカのすぐ脇で、履き物が土を擦る音がした。

 

「別に会いたかなかったが、薬が切れてるって噂を聞いてな」

 

「まさか、薬を届けにきたのか?」

 

 さも嫌そうに、ちっという舌打ちが暗がりの向こうで響く。

 

「あの嬢ちゃんにはまだ死なれちゃ困る。おまえはどうでもいいが、死ねば嬢ちゃんが守り刀を失う」

 

「まったく、どいつもこいつも。俺の事はどうでもいい奴ばっかりだぜ」

 

 声の方へ蝋燭を向けると、ゴザ売りの男が頬被りしたまま立っていた。今度は足音さえしなかったというのに。

 

「だが必要なさそうだな。どうやら先客があったようだ」

 

「ゴテや野グソとの経緯は、どうせもう耳に入っているんだろ? あいつらが頼んだ後釜だよ。見た目はタダのガキだが腕は立つ」

 

 そうか、といってゴザ売りは屋号を書き記した紙を丸めて懐へ押し込んだ。

 返事もせずに踵を返したゴザ売りを、ヤタカはおい、といって呼び止めた。

 

「この名に覚えはないか?」

 

 どこに耳があるとも限らない。乾いた土をならし、ヤタカは落ちていた枝で1つ名を書いては消し、また一つ書いては消しを繰り返す。ゴテ達から受け取った紙に記されていた名前を、ゴザ売りは無言のまま眺めている。

 

――危険な賭だが

 

 ゴザ売りを信用したわけではないが、危険を回避してばかりでは前に進めない。

 身の回りが紛い物の平和に包まれている分、あらゆる意味で八方塞がりだった。

 

「どうせ言わないだろうから、入手手段は問わんよ。だが厄介なものを掴まされたな。全ては知らない。おれが知るのは、一番目と二番目の名だけだ」

 

 一番目に書た名は火隠寺、二番目は音叉院。音叉院を知る者が初めて現れた。ヤタカは高鳴る心臓を、深く吸い込んだ息で何とか押し留める。

 

「二番目の名の正体を知っているのか?」

 

「あぁ、知っているとも」

 

 あっさりとした答えだった。

 

「表面上のことなら、おまえだって知っている」

 

 ゴザ売りの言葉に、ヤタカは思考を巡らせる。

 鈍いな、と言わんばかりに息を吐いたゴザ売りは、顎を引いてあの特殊な声色で先を語った。近くに潜む者が居ても、男の声は届かない。

 

「音叉院、字のごとく音だよ。音の波長で操る者達と考えてみろ」

 

 はっとヤタカは目を見開く。

 

「まさか」

 

「そのまさかだ。素堂様は読経に使われるお声で、寺に望まぬ者が侵入するのを防ぎ、一度受け入れたモノは外に出さないようにされていた」

 

 それが本当なら、寺はこの戦いの中心を支える枝葉などではなかったことになる。

 

「あの寺の中、どこまでがその名を知っていた?」

 

「おまえと嬢ちゃん以外は知っている。その為に寺にいたのだから。あとは出入りしていた寺付きの者も、その当主なら知っている」

 

「訊いておいてなんだが、俺に話して良かったのか?」

 

「いずれ知れることだ。寺はもうない。だが、寺を支えていた者達は生き残った。それも含めての音叉院だと覚えておけ」

 

 今はこれ以上話すことはない――ゴザ売りの背けた顔が無言で語る。

 

「ガキのことを訊かないってことは、どこの誰だか察しがついているんだろ?」

 

「あぁ。来なきゃ良かったと後悔しているさ。亡霊に会った気分だ」

 

 案外人が良いんだな……というと、ゴザ売りはケッっと唾を吐いた。

 

「あんたが残した言葉だが、「記憶の深追い無用」とはどういう意味だ?」

 

 少しずつヤタカとの距離を離していくゴザ売りの姿は、肩の辺りが蝋燭の灯りに辛うじて照らされるだけで、表情を伺い知ることはできない。

 

「文字通りの意だ。記憶ばかりに頼るな、今、そしてこれから自分で目にすることだけを新たな記憶に刻み、己で判断しろということだ」

 

 己で判断する。情報に振り回されている自分を見事に言い当てている。

 

「この戦いは、いったい誰の為のものなんだ? 何の為に……」

 

「 植物を静植物と動植物……そんな風に分けちゃいないか? 普通の植物はその辺に生えて森を作り、たまにゃ人間様の役に立つ薬草もある……その程度に思ってんなら、おまえは自分に教えられたこと、見知ったことの整理なんかつきやしねえよ。しゃべらないから、何も考えていないか? 役割は、そこに生えているだけか? 異種と呼ばれる植物は、本当に人間の敵なのか? 異種はすべて一個ひとかたまりの玉だとか、思う馬鹿じゃないことを祈るぜ」

 

「まるで謎かけだな」

 

「おまえがもっと利口なら、こんな余計なこともいわずに済んでいるのにな」

 

「そりゃ悪うございますね」

 

 蝋燭の灯りが届く範囲から、すっとゴザ売りに姿が消えた。

 

「なぁ」

 

 遠ざかりかけた、ゴザ売りの気配が止まる。

 

「あんた、どうしてイリスのことをそこまで気にかける?」

 

 闇の奥で僅かに土が擦れる音がする。

 

「前にも言ったはずだ。嬢ちゃんは、てめぇみたいにむさっ苦しい野郎じゃねぇからだ」

 

 砂粒が転がる音さえ立てずに、ぷつりと気配が消えた。まるでしゃぼん玉が弾ける音に耳を澄ましていたような虚しさに、ヤタカは目を閉じ息を吐く。

 

「嘘つきが……大切にしていなけりゃ、誰が何度も危ない橋を渡ったりするもんか」」

 

 蝋燭の灯りを吹き消して、ヤタカは空を見上げる。空を覆う雲は月も星も隠して、溶けてしまいそうに純粋な闇だけがヤタカを包んでいた。

 

 

 

「おい、兄ちゃん、どこで寝呆けてるのさ」

 

 こつりと頭を叩かれて目を開けると、小さな麻袋をいっぱいにした和平が、にこにこ笑みを浮かべて立っていた。空はまだ薄暗い。

 

「眠ったか。おまえが変な時間に起こすからだぞ?」

 

「飯を食ったら出かけよう。日が出たら育っちまう植物も多い」

 

「そうだな」

 

 小屋の中に入ったヤタカは、自分の遠慮がムダだったことに肩を落とした。ヤタカなど眼中になく、黙々と飯を頬ばるイリスがいた。

 

「俺の分はちゃんと取ってあるんだろうな?」

 

「和平がつくってくれたんでしょう? ヤタカが握ると固いんだ、おにぎりが」

 

 背を向けて和平が笑う。

 

「文句があるなら自分でつくれよ!」

 

「や~だ~」

 

 どかりと座り込み、一気に飯を胃袋に詰め込んだ。

 確かにふんわりと握られていて、美味い握り飯だった。

 

「ゲン太、俺は和平と一緒に薬草を取りに行ってくる。その間、この小屋から出ないようにイリスを見張っていてくれな」

 

 自分も行きたそうに鼻緒をもじもじさせたが、イリスのことを思ったのだろう。

 

――わかった

 

 しょんぼりと鼻緒をへたらせて、ゲン太は渋々という感じで了承した。

 

 

 

 山の歩き方を見れば、その人物の熟練度がわかる。和平のあとを付いて歩くヤタカは、その足運びに何度も舌を巻いた。毒草を確実に避ける知識。緩んでいる地面の見極め。目に付かない場所から、薬草を探し当てる嗅覚と経験。

 この若さでモノにしたのは天性の素質だろう。家の血筋がそうさせた、と考えなくては納得がいかないほどの足さばきだ。どう計算しても、どんなに無理をさせたとしても年齢にそぐわない。

 

「帰って薬を調合するから、あまり長居はしないよ。兄ちゃんも、集められる薬草は早めにね」

 

「わかった」

 

 自分の薬草を集めながら、どうしても和平の手元に気を取られる。薬草に通じているヤタカでも、何をつくろうとしているのか首を捻る。次々に和平が袋に収めていく薬草は、どう調合しても、ヤタカが知っている薬には辿り着かないものばかりだった。

 山を照らすくらいには日が昇り、肌を撫でる空気も温かさを増した頃、和平は額の汗を拭って満足げに鼻を膨らませ、引き返そうと笑った。

 登りより経験を必要とする下りも、和平の足運びは淀みない。離れないように後を追いながら、ヤタカは思い切って胸に溜めていた言葉を投げかけた。

 

「和平、おまえの周りに舞っている、五つの灯りはいったいなんだ?」

 

 滑るように動いていた、和平の足が一瞬緩む。

 

「さすがだね。あれが見えるんだ」

 

 だんだんと遅くなった歩みが止まり、少し休もう、そういって和平は木の根に腰を下ろした。

 自分の膝小僧を眺めたまま、和平は何度も上唇を吸い込む仕草を見せたが、ヤタカは静かに彼が口を開くのを待った。

 

「あれはね、本当は一人の人間に十個取り憑くものなんだよ」

 

 わたるが纏う五つの灯りが脳裏を過ぎる。

 

「どうして五つしかないんだい?」

 

「わからない。でもね、残り半分は、姉ちゃんが持っている。姉弟で分け合っちゃった感じ。本来あるべきモノが半分になったのだから、他のモノも目減りする。ううん、これはオレの直感。生き物の本能かな。たぶん、オレの寿命は短いと思う」

 

 背筋が冷えた。

 

「風の噂で、姉ちゃんは死んだと聞いている。でもね、感じるんだ。五つの灯りが、まるで片割れを探すように騒ぐから。姉ちゃんはね……」

 

 生きているよ―――寂しそうに和平が微笑む。

 

「和平、俺は弟を捜している女性を一人知っている」

 

 じっと膝小僧を凝視していた和平が、はっとして顔を上げた。

 

「自分の道を決めかねているといった。本当は日陰を歩くようにひっそりと生きたかったのだと思う。真意はわからないが、彼女は表舞台に姿を見せた」

 

「その人の名前は?」

 

 握りしめた和平の拳が震えている。

 

「頼りないほど儚げな、五つの灯りを纏っていたよ。彼女は、わたると名乗った」

 

「姉ちゃんだ……姉ちゃん」

 

 和平がへへへ、と笑い、袖でごしごしと目元を拭う。

 

「ゲン太が貰ってきた薬を、ひょんなことでわたるに渡した。その後に追ってきて、この薬を渡した者を教えて欲しいといった」

 

「探してくれていたんだ、元気でよかった」

 

「和平の身の安全を思ってだろうが、ゲン太はおまえのことをしゃべらなかったよ」

 

 ゲン太と過ごした時間を思い出したのか。和平の目元が柔らかく緩む。

 

「そっか。いま姉ちゃんはどこにいるの?」

 

「わからない。今度会う時は、自分のことを信じるなといっていたから、敵対するのかもしれないな。おまえは……どうする?」

 

 和平の顔から笑顔が退いた。その横顔を見てヤタカはわたるを思った。同じ表情だ。何かを諦めた、諦めざる得なかった者が見せる表情。

 

「どうもしないさ」

 

「表舞台に立った姉さんは、裏じゃ一躍有名人だ。狙われるんだぞ?」

 

 ぎゅっと下唇を噛み、和平は眉根を寄せる。

 

「姉さんが定めた道、オレが進むべき道。それが交わることはないよ。交わってしまったら、二人に分かれた理由が無くなる。いずれどちらかが表舞台に引きずり出されると思っていた。どこに隠れたって、一所に居続ければ見つかるからね」

 

「和平は、表に出るつもりはなかったんだな?」

 

「このままあの家が途絶えるなら、それで良かった」

 

 意味を考え、ヤタカは黙り込む。

 

「さあ、行こう」

 

 尻をほろって立ち上がった和平の顔には、いつもと変わらない明るい笑顔。

 すたすたと山を下りだした和平の後を、ヤタカも慌てて追いかけた。

 

「他にも理由はあったと思う。でも姉さんは、オレに人生を与えるために表舞台に上がったんだ。オレを生かそうとしてくれた」

 

 わたるの寂しげな、けれど柔らかい笑みを思い返す。

 

「これからどうする?」

 

 和平に遅れまいと足を速めるあまりに、避けきれない枝葉が何度もヤタカの顔を打つ。

 

「姉さんが表舞台にでたなら、オレは裏方に徹する。それ以外に道はないよ。二人が揃って表に出たら、力が倍になるどころか、厄災を招くからね」

 

――厄災か

 

 その後は、山に慣れたヤタカでさえ間を離された。もう何も言わないでくれと言うように、加速をつけて和平は山を下りていった。

 

 

 

 小屋に戻ってからはイリスとにこやかに話しながら、ゲン太を道具置きの台代わりにして薬草を調合していた和平だったが日が落ちると、ゴテを当てる前に水浴びをしてきてね、とイリスにいい、手慣れた動きで手持ちの米を炊き始めた。

 

「それじゃあお先に! ヤタカも後で水浴びしなくちゃだめよ?」

 

「はいはい。ゲン太、イリスを頼むぞ」

 

 かん

 

 ひと鳴りしたゲン太がでていくと、入れ替わりに和平が小屋へ入ってきて後ろ手で静かに引き戸を閉めた。

 

「兄ちゃん、少したったら、姉ちゃんが水浴びしている泉にいくよ」

 

「はぁ? ガキンチョの気持ちは解らんでもないが、イリスに殺されるって。俺は嫌だからな」

 

「いいから……行くよ」

 

 顔を上げたヤタカの目の前で、和平は両手の拳を握りしめていた。唇を引き結び、らしくないほどに眉根を寄せている。

 

「俺に何を見せる気だ?」

 

「兄ちゃんは、疑問を持ったことはないの? オレは本当に小さい頃だけれど、古い書物を読んで、色んなことを盗み聞きして、ある程度のことは知っている」

 

 わたると同じ頭を持っている、ということか。

 

「兄ちゃんの幼なじみから概ね話は聞いた。御山のこと、おそらくそこで、兄ちゃんが死にかけたこと。だから思うんだ。兄ちゃんの役目には、どんな理由が在る? 何の為に寺で得た知識を、御山に渡す必要があったのかな?」

 

「それは」

 

 ヤタカ自身、誰かから答えて欲しい問いだった。

 

「だから、兄ちゃんは見ておくべきだよ。姉ちゃんの体を診て感じたぼくの憶測が外れていなければ、体を痒くさせているモノの正体がわかると思うんだ」

 

「その勘が外れていたら、どうする?」

 

 話しきってほっとしたように、和平は白い歯をにっと見せた。

 

「その時は、一緒に姉ちゃんに殴られようぜ」

 

「俺は嫌だ、ぜってぇ嫌だ」

 

 何があっても、イリスの元へ駆け寄ったり声を上げたりしないこと。何度も言い聞かされて耳にタコができそうだった。ゲン太が気づいたら騒ぐだろうというと、用意周到なことに、ゲン太には事情を話してあるという。

 ああ見えてゲン太は、妙なところでクソ真面目だ。おそらくイリスが水浴びしている間、下駄の誇りにかけてしっかり背を向けているのだろう。

 

――クソ下駄が納得したというなら、今夜の出来事。ゲン太も目にするだろうか

 

 二人の間の会話は途切れ、足音を立てることなく水浴び場へと近付いていく。

 ばしゃり、と手で水をすくい上げる音が、木立の向こうから聞こえてきた。

 蝋燭でも立てているのか、向こうの木立の隙間からぼんやりと薄黄色の灯りが漏れる。 進み続けるヤタカを、和平の手がすっと制した。

 

「もう少しだ、もう少しで始まる」

 

 和平が囁くと、さらさらと木々の葉を撫でて風が走った。ヤタカは目を細めて風に耳を澄まし、肌で風の道を感じ取る。

 

――泉を中心に、風が巻いている

 

 弱い風にさらさらと葉がなびく。泉の方へ、泉の方へとまるで引き寄せられているようだった。この辺りに生息しているのは、目に見える限り普通の植物だ。だというのに、泉の周りを囲む植物の葉が、木立の葉が金粉を撒いたようにちらちらと輝き出した。

 木々の葉から糸のように金糸が垂れる。それが地上の葉に当たると糸は粉となり、きらきらと泉へ向けて葉から葉へ渡っていく。

無意識にヤタカは立ち上がっていた。

 小さな湖面を、金色の砂が泳ぐ。

 その中心に、両手を広げて立つのはイリス。

 こちらに背を向け、腰まで水に浸かっている。

 長い髪が細い背中を隠して、毛先が水面でふわりと広がる。

 

 ぴしゃり

 

 イリスの両手がゆっくりと下げられ、手の平が水面に付けられた。

 

「イリス……そんな」

 

 思わず身を乗り出したヤタカを、和平の手ががしりと掴む。

 見上げた目が、駄目だとヤタカをこの場に張り付けた。

 

 イリスが喉を逸らせ、天を仰ぐ。

 金粉と見紛う輝きが、泉に浸したイリスの指先から白い肌を這い上がる。

 五指から登る輝きは、手首で数本の糸となった。

 身をくねらせて文字を描き出した金色の輝きが、白いイリスの肌を染めていく。腕から背へ、おそらくは胸へ、森から泉に流れ集まった金粉がイリスの体に滲みていく。

 

 

 押さえていた和平の手をゆっくりと引き剥がし、ヤタカはイリスに背を向けた。

 見渡す限り森全体が、微細な金の粉を纏ってちらちらいと輝いている。

 さざ波のように泉へと向かう輝きは、おそらく全てイリスの体に取り込まれるのだろう。

 ヤタカはぎりりと歯を食いしばった。

 ゆっくりと来た道を引き返す。足音など気にしなかった。あの状態のイリスに、外部の音が聞こえているとは思えなかい。

 やはりゆっくりと和平がついてくる足音が、かさりこそりと響く。

 

「和平、俺は目が良いんだ」

 

「そう」

 

「あれは、俺が記憶した寺の記録だ。御山に吸い取られた記憶が、文字を成してイリスの体へ……」

 

 ヤタカが伊吹山へ渡した知識の文字列が、どこをどう廻ったかこの辺りの山へと染み渡、イリスの体を目指している。

 

――右の道に行こうよ――イリスの声が、耳の奥で木霊する。

 

「イリスは、自分の身に起きていることを知っていると思うか?」

 

「わからないよ。でもね、知っていて黙っているなら、訊いてはいけないと思う。それはきっと、姉ちゃんが生きてきた何かを、無駄にすることだと思うから」

 

 小屋に戻っても、双方口を開くことはなかった。

 からり、かそり、と元気のない下駄の音が戸口まで迫っても、寝たふりのまま布団を被り、全てに蓋をするようにヤタカはぎちりと目を閉じ続けた。

 

 

 

 




読んでくれてありがとうです。

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