イリスの足が岩を捕らえるのを確かめながら、手を引くヤタカはゆっくりと緩やかな傾斜をくだっていく。
「あれから四季が一回り以上したのか、早いな」
二十歳になったというのに、この一年で更に身長の伸びたヤタカは、相変わらず片目を隠すほど伸びた黒い前髪を掻き上げ、よいしょ、と背負った荷物を担ぎ直した。
二人きりの旅路の中でヤタカは、一生胸に納めておくはずのイリスの秘密を打ち明けたが、真実を少しだけ押し曲げて、女性であることを慈庭から聞かされたことにした。悪意がないとはいえ、水浴びを覗いたとは口が裂けてもいえない。
二人きりで旅を続ける以上、知らない振りを続ける事は良い結果を生むとも思えない……ヤタカの出した答えだった。そしてそれは今まで以上に、若いヤタカに違う決意と鉄の意志を必要とさせる決断だった。
焚き火を挟んで打ち明けられたイリスは、大きな目を見開いてぱちくりと何度も瞬きを繰り返し、しまいに指先までぴんと硬直させたから、決意して告白したヤタカでさえその様子にちょと後悔したほどだった。
焚き火の炎が小さくなっていくのを眺めながら、黙ってイリスが頷いてくれるのを待っていたヤタカが「そうだよ」と答えたイリスの澄んだ声を耳にした時の驚きは、言葉にしがたいものだった。
盆と正月が一度にやってきたような喜びと、口がきけたのだという困惑に黙り込んだヤタカに、イリスは慈庭のいいつけだったから、とだけ説明してくれた。
話せば声で女性だと解ってしまう。だから慈庭は男女の声にさして違いのない子供の頃から、イリスに話すことを禁じていたのだという。
日に弱い病ではなく、両目に宿った異種の発芽を押さえるためには、布で目を覆っていなければならなかったのだと。薄衣を幾重にも羽織っていたのは、体型から女性であることが知られないようにとの慈庭の策だったらしい。
そんなやり取りから既に一年が過ぎ、寺のことを話題にすることができるようになったのも、ここ数ヶ月になってから。
今では昼間こそ布で目元を覆っているが、日が沈むと布を取り素顔を晒すイリスの顔に、かつてのひび割れた泥は塗られていない。
年頃の女の子など、ヤタカにとっては行動も思考も未知の生物なのだが、イリスだけは少しだけ心に手が届く気がする。
旅の道連れとして、せめてそう思っていたかった。
「日暮れにはゴテが山小屋に着くと繋ぎがあったから、俺達も何とか明るい内に辿り着けるといいんだけれどな」
「大丈夫。平地に降りたらヤタカより早く歩く」
「むっちゃくちゃ~」
ゴテとは、二人にとって幼なじみにも似た存在のゴテ師。焼きゴテが由来といわれるゴテ師は、普段は村を回って病の者に灸を据えたり、あん摩として体をほぐすことを生業としている。村人達はゴテのことを「あん摩のゴテさん」などと呼び、ゴテ師という本来の家業、血筋によって受け継がれる生業を知らない。
ゴテ師が担う本来の仕事は、異種宿りの発芽を遅らせ、異物憑きが取り込んだ異物の引き起こす奇怪な行動や奇妙な体の変化、精神の変調を押さえるために、
ゴテ師にゴテと安直な名付けをするあたり、親爺さんのいい加減な性格が伺える。だが仕事はきちりとこなす人であったし、それだけの腕も持っていた。三人いた息子の末っ子だというのに、親爺さんに見込まれて徹底的に技術と知識を叩き込まれたゴテは、やはり腕だけは一流だった。
「ゴテが食い物も持ってきてくれるって。楽しみだろ?」
「シカ肉の燻製だと嬉しい」
「あるかもよ? ゴテはいっつもイリスの好物ばかり持ってくるから。俺の要望はなんてどうせ右から左に抜けているさ」
梅干しが食いたいと伝えたことを思いだし、ヤタカはどうせ持って来やしないさと舌を打つ。
「手を離してくれない? もう平地だと思う」
あぁ、とヤタカはイリスの手を離す。目を布で覆っていても、自分を取り囲む状況にイリスは敏感だ。手にした杖さえあれば、ヤタカの足音を頼りに一人で横を歩けるのだから、背後から見たなら布で目を塞いでいるなど想像もできないだろう。
「昼から歩きっぱなしだ。少し休まなくて大丈夫か? ゴテなら小屋で一時間でも二時間でも待たせたって平気だぞ?」
眉を寄せて首を横に振ると、行く先の地面を杖ですっとなぞるように、イリスはさっさと前を歩き出す。
「イリス?」
イリスがぴたりと足を止める。
「シカ肉の……燻製」
ひと言残してさっさと先を行くイリスの後を、大きな溜息を吐き出したヤタカが追っていく。ゴテと合流するということは、今夜は騒がしい夜になる。三月に一度ほど繋ぎを取っては、イリスとヤタカにゴテを当てるため、遠い道程をやってきてくれる友に、口に出したことのない感謝を心の中だけで呟いた。
「遅いお着きだな。道ばたで昼寝でもしていたのか?」
古びた小屋の戸を開けると蝋燭の灯りに揺れる横顔で眉をつり上げ、ニッと笑うゴテがいた。精悍な顔つきに、五分刈りの頭が妙に似合っている。
「ゴテが早く着きすぎなんだよ。まだ日が暮れたばかりじゃないか」
小屋に入るとイリスはもどかしそうな手つきで目を覆う布を解き、ゴテの前に腰をおろすと「久しぶり」といってちょこりと頭を下げ、ゴテに向かってぐいっと膝を寄せた。
「なんだよイリス?」
「シカ肉の燻製……ある?」
「ちぇ、オレより土産目当てかよ」
文句を言いつつも袋の中から紙に包んだシカ肉の燻製を出して見せると、今回の出来は最高だといって、ゴテは得意気にイリスの手へとそれを渡した。
「ありがとう、ゴテ」
柔らかいとは言えないシカ肉の燻製の端を千切り、口へと入れたイリスは満足そうに頬を緩める。
「イリス、ゴテを当てる前に水浴びをしてくるといい。オレはその間にヤタカにゴテを当てておく。わかっちゃいると思うが、ゴテを当てたら明日の水浴びは厳禁だぞ? 効果が薄れちまう」
こくりとゴテに頷き返し、イリスはヤタカの背負っていた荷物の中から、一着しかない着替えを取りだし立ち上がると、戸口の前で立ち止まった。それからむすっとした顔で見返ると、眇めた目で男二人を見下ろした。
「覗いたら殺す。ぶち殺す」
涼やかな澄んだ声で物騒な言葉を放つイリスに、ヤタカは口の片傍を上げて鼻で笑う。
「かやぼっこに用はないよ」
「かやぼっこじゃないのに……」
不満げな音を立てて戸が閉められ、ヤタカとゴテは笑いを押し殺す。
旅にでてからずっと、水浴びのたびに繰り返されるお決まりのやり取り。何気ない日常。
「どう考えても、つるっとしたぼっこだよな」
「それだけはヤタカに同感だ。夏なんて薄衣の上からでも、わかるもんな」
亀裂が入りそうな勢いで、外から蹴られた戸の音に手で口を押さえると、今度こそ二人は目だけで笑いながらイリスが立ち去るまで沈黙を守り通した。
「なぁ、ヤタカ。ガキの頃一度だけ聞いたことがあるんだが、おまえが唇を噛んで押し黙っちまったあの話、今なら聞かせてくれるか?」
作務衣をはだけて背中を出し、胡座をかいて座るヤタカは、何のことだというように首を捻る。
「取り込んじまった時の話だよ。おまえの体に宿る、水の器を」
あぁ、とヤタカは小さく頷いた。
「別に構わないさ。ガキの頃は、自分のヘマのせいでこんな体になって親元を離れなければならなくなったことを、口に出すのが悔しかっただけだ。自分がもっとしっかりしていたら普通に暮らせていたのにって、ガキなりの後悔さ」
首の根元に押し当てられたゴテの、じりじりと肌を焼くすり潰した薬草の痛みに僅かに眉を顰め、ヤタカはゆっくりと息を吸った。
ヤタカは大量に水を飲む。異物憑きであるヤタカは、その身に水の器と呼ばれる異物を宿している。
「あの寺へ引き取られたのが八歳の頃だから、水の器を取り込んだのは七歳の終わりごろ。まだ太陽の眩しい季節だった」
ヤタカの住んでいた村の直ぐ側には、細く幾本もの水を垂らす小さな滝があった。滝壺は子供達の大事な遊び場で、滝壺から続く川には小魚が泳ぎ、取れないと解っていても幼いヤタカは毎日ザルで小魚を追い回し、滝壺に潜っては遊んでいた。
兄弟はいなくても村の子供達と遊び、小さな村ならではの厳しくも温かい大人達に囲まれて育った。元気すぎるがゆえにたまにげんこつを貰いなら、それでも毎日を楽しく過ごしていた普通の子供だった。
ただし、一点を除いては。
野山を自分の庭のように駆け巡るヤタカには、幼い頃から奇妙なモノが見えた。
めったに目にすることはなかったが、真冬に一輪だけ咲く桜の花や、地面から盛り上がる大木の根がタコの足みたいにもぞもぞと、うねるところなどを視てしまう子供だった。
目の錯覚、珍しいものと簡単に記憶の隅へと追い遣られていったのは、不思議を恐ろしいと思わない子供特有の感性だったのかもしれない。
ヤタカ自身は自分が変わっているなど、一度も思ったことはなかった。
その日は空雷が鳴っていたが、ヤタカは一人で滝壺で遊んでいた。子供でも足が着く程度の深さしかない滝壺に潜り、水底の石をひっくり返して何か出てこないかと探検家気分でいたときだった。
誰かが小岩を除けたのか、それとも遊んで水底の砂を掘りでもしたのか。見慣れない穴を見つけてヤタカはぐっと頭を近づけた。お椀ひとつほどの穴の中、透明な水をきらきらと輝かせる日の光が、そこだけ妙な反射をみせる。
――何かな?
伸ばした指先には、確かにモノに触れた感触がある。見えるようではっきりとは姿を現さないそれを手探りで握りしめ、限界まで止めていた息を吸いに水面へと浮かび上がる。
「はぁー、げほ。なんだこりゃ?」
ヤタカの手の平には、日の光を浴びて輝く透明な器があった。
小ぶりな湯呑みほどの大きさしかない器は透明で、まるで厚みのあるガラス細工のようだったが、ヤタカは器の表面が揺らいでいることに気づき目を細めた。
「まるで水みたいだ。ちゃんと形はあるのに、川の表面みたいに揺れている。それに固くないや。握っても潰れないけど、まるで水に手をつけたみたい。へんなの」
宝物を見つけたヤタカは、そっと器を元の穴に戻してから走って帰ると、家の中にいた母親に自慢げに不思議な器を見つけたことを報告した。
その時、隣の部屋でヤタカの父親にまたがり肩を揉んでいたのが、ゴテの父だった。障子越しに話を耳にしたゴテの父親は、その器のことはしばらく誰にも内緒にしてくれないかとヤタカにいった。すぐにでも友達に自慢しようと思っていたヤタカは、ふくれっ面で臍を曲げたが、何度も言って聞かせるゴテ師に仕方なしなし頷いた。
「後日、知っている僧をこちらへ寄越すから、それまでこの事は内密に」
そう言い残してゴテの父親が帰った十日ほど後、遠い場所にあるという寺から体格の良い僧がひとり尋ねてきた。
その僧が後にヤタカを引き取る慈庭だったが、この時のヤタカがそのような運命を知るはずもない。
宝物を奪いにきた盗賊を睨むような目で見上げながら、母親にせっつかれてヤタカは慈庭を滝壺へと連れて行き、穴のなかから器を取りだして岩に腰掛ける慈庭へと持っていった。
「ほう、これは珍しい」
「きれいだろ?」
自分が見つけた宝物を褒められた気がして、ヤタカはにこりと笑った。
だが次ぎに慈庭が静かに発した言葉で、ヤタカの笑顔は一気に曇る。
「その器、元の場所へ戻しておきなさい。もう二度と、それに触れてはならない」
ぴくりとも笑っていない慈庭の表情は、どうしてそんなことを言われなくてはいけないのかと、反論したいヤタカの口を押さえ込むには十分な威圧感を持っていた。
「まるで水そのもので模られたような器であろう? 人の世が名付けるなら水の器。それは、人が手にして良いものではないのだよ」
少しだけ緩んだ慈庭の口調に、かえってヤタカの目尻に涙が浮かぶ。
「戻してくる……バカ、 大嫌いだ! 禿げオヤジ!」
思いつく限りの悪口を並べて、ヤタカは滝壺へと走った。慈庭に涙など見られたくなかったから、早く水に浸かって流れかけた涙を隠したかった。その焦りが、悪い足場への注意を怠らせた。
「いってぇ……あ、あぁ!」
石に躓いて四つん這いになったヤタカの膝の前で、音もなく水の器が粉々に砕け散る。
正確にいうなら砕けて水の粒となり、乾いた石の表面を濡らしていた。ぺたりと座り込んで慈庭を振り返るヤタカの目からは涙が溢れ、頬から顎へと伝わり石に落ちて染みていく。
「割れちゃった」
慈庭が難しい顔で眉を顰めているのが、涙に歪んだ視界にも見てとれた。
石原に手をついておんおんと泣き続けるヤタカは、自分の目の前で起きた変化に気づくのに遅れてしまった。本人さえ気づかない変化に、慈庭が駆けつけるのが遅れたのも仕方のないことだった。
ぽろぽろと零れる涙は、砕け散った水の器の飛散した雫と所々で重なり合い、まるで歩み寄るように一つの雫となって転がりだしていた。ヤタカの指先へ次々と這い上がる雫は、甚平の袖を通り抜け細い首へと這い上がる。そして今だ流れ続けるヤタカの涙を更に吸い取り、頬を逆流して目へと向かった。
「うぅ、目が、目が!」
最初の雫が目に呑み込まれ、痛みにヤタカは両手で顔を覆ったが、隙間をすり抜けてなおも雫は目へと向かう。その様はまるで、涙が逆流しているようだった。
ヤタカの異変に気づいた慈庭が走り寄り、小さな肩を掴んで顔を覗き込んだときには、僅かに残った奇妙な涙の尻尾が、目へと吸い込まれるところだった。
「まさか、このようなことが……」
言葉を失う慈庭と、更に泣き声を上げるヤタカ。ヤタカの細い膝元の石を濡らしていた水滴は攫われたように消え去り、乾いた灰色の石原だけが広がっている。
石原に座り込んだままヤタカは泣き続けたが、その頬を流れる涙はなく、その日以降も目を湿らす以上の涙の雫がヤタカの頬を濡らす日は来なかった。
あの日以来ヤタカは大量の水を欲しがるようになり、人で在りながら人の暮らす土地に根を下ろすことのできない体となった。
ゴテを当て終わり、一通り話を耳に収めたゴテは寝転がって目を閉じる。
「異物に馴染みのあるゴテ師から見たら、聞いてしまえば何だそうか程度の話だろう?」
シカ肉の燻製を少し千切って口に入れ、ヤタカもごろりと横になる。その隣でゴテが腕を枕にヤタカの方へと寝返った。
「その通り、この程度珍しくもない……といってやりたいところだが、何一つ安心させてやれるようなことは言ってやれそうもない」
「普段ヘラヘラしている奴にそういう口調で話されると、意外にぐさりと胃を抉るな」
「無駄に心配することもない。異物に関しては、ほとんんど何も解っちゃいないんだ。だから異物によって引き起こされる現象も障りも千差万別ってことさ。曰く付きとされる木を切り出して造られた異物なら見たことがある。モノは違っても、木から生まれる異物は今までも存在したからな。だが水の器は……前例がない。少なくともオレは耳にしたことがない」
心情の揺れを悟られないようヤタカは唇を尖らせ、ふっと吐いた息で前髪を跳ね上げさせた。
「イリスに迷惑をかけるようなことにならなければ、それでいいさ。
そうか、といってゴテは寝返りを打ちヤタカに背を向ける。
「ゴテは寺に出入りしていた最初の頃から知っていたんだろ? イリスが女の子だって」
「あぁ、厳重な口止めの元に慈庭様に聞かされた。ゴテを当てるのに、男女の差は知っていなければならないからな。今思えばガキのオレによくゴテを当てさせたよな。最初はオヤジの指示の下だったが、すぐにオレ一人に任されたもんな」
子供には荷が重かっただろうが、寺が失われることを見越したかのような慈庭の選択は、今になって功をなしている。足腰が今だ丈夫とはいえ、日を決めて定期的に遠出するには年をとった親爺さんだ。この先を生きるヤタカとイリスのことを長い目で見るなら、最初からゴテに任せるのが最良の道だったといえるだろう。
とはいえ長い目で見るほどの人生が残っているなら、の話だが。
「イリスが女の子だから、こんなにも惹かれるんじゃないかって何度もそう思った。でも違うんだ。万が一にも俺の体から水の器が離れる日が来たら、こんなにもイリスに惹かれることはない気がする。俺自身はイリスに惹かれるというより、大切に思っているんだ。友達なんだよ。どう考えても、失いたくない友人だ」
ごろりと上を向き、そうかよ、と呟いたゴテが右の鼻をくいっとほじる。口に出しづらいことを胸に秘めているとき、時には嘘を吐くとき、ゴテはいつも右の鼻をくいっとほじる癖があった。
「友人として守り通すと決めたんなら、尚更……きつくないか? 女の子とわかっていながら、イリスと旅を続けるのは」
言葉を濁すゴテの喉元に突っかかっている気遣いを察して、ヤタカは小さく頷いた。
「大丈夫さ。たとえ俺が血迷っても、この体に宿るモノがそれを許しはしないだろうから。何となく感じるんだ。それくらい水の器は、イリスに惹かれているよ。多分ね」
「あぁ」
「それに俺は、ゴテほど色々な面に緩くないんだよ。何しろおまえは、あの親爺さんの血を濃く受け継いでいるからなぁ。未来の嫁さんを泣かすなよ?」
「余計なお世話だっての! これでもオレは、どこの村にいってもモテモテなんだぜ?」
「それが問題なんだろうが! 馬鹿か? ドアホなのか?」
どちらからともなく笑いがおこる。イリスが小屋の戸口から入ってきた時には、寝転がって丸まったヤタカとゴテは、腹を抱えて笑い声を上げていた。
「お帰りイリス。それじゃあさっそく始めようか」
目尻の笑い涙を拭って起き上がると、ゴテは大小様々な棒ゴテを収めた布袋を巻物をほどくように床に広げた。
「うん。背中でいいの?」
「あぁ。今日は小ゴテで三カ所ほどだ。乾かしては三度重ねて当てるから、直ぐに衣を羽織るなよ」
ゴテの言葉に頷くと背を向けて、イリスは躊躇なく寝間着代わりの浴衣をするりと腕の中程まで下げると、色白な背中をさらりと晒した。
イリスの背に指を当て、気穴を探る目つきは腕の立つゴテ師のもので、陽気でへらへらとしたいつものゴテはすっとなりを潜めている。
ゴテとは対称的に何とも言い難い表情で、イリスの背中から目を背け腕を枕に目を閉じたヤタカは、首筋に残るゴテを当てた跡の、軽い火傷にも似た痛みに意識を集中させた。
「ヤタカ、終わったよ? ゴテがね、おにぎりを持ってきてくれたんだって」
声に目を開けると浴衣の襟を合わせたイリスが、ヨダレを垂らしそうに頬を緩めてにこりと笑う。
「握り飯? ってことはもしかして梅干し入り? 梅干しなのか!」
跳ね上がり期待の眼差しで見つめるヤタカを一瞥して、ふん、と鼻を鳴らしゴテが握り飯の包みを広げる。
「ほとんどは鮭だよ。でも一つだけ梅干しが入っているって、お手伝いのチヨちゃんがいっていたな。当たりくじみたいで楽しいでしょ? だとさ」
「どれ? 当たりくじはどれなんだ!」
「知らねぇよ」
ヤタカが手を伸ばすより早く、イリスの手が握り飯を摘み上げる。
「いただきます!」
ぱくりと一口で握り飯の三分の一ほどを口に放り込んだイリスが、満足そうに目を細めた。
「おいひい……うめぼひ」
「くぅっ!」
もぐもぐと頬を膨らませるイリスを見て、ヤタカの目に微かな殺意が宿る。
その様子をみて口に入れた飯粒を吹き出したゴテに蹴りを入れ、ヤタカは二つ手にした握り飯を、やけくそで交互に口に突っ込んだ。
見に来て下さったみなさん、ありがとうございます!
次ぎも読んでいただけますように……