ボーダレス ホルダー   作:紅野生成

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29 灯りを纏う者

 街道にでたヤタカは、木々の隙間から差し込んだばかりの朝日に目を細めた。

 白い雲の隙間を縫って差す光は、後光の様に細い線を重ね白く柔らかい。

 数日前、目にした金糸の蝶。

 あの蝶が日の光の下に羽を広げたならと想像する。細く筋を成して広がる朝日は、まるで蝶の片羽を見ている様だと思った。

  

「イリス、わたるに貰った薬、ちゃんと飲んでいる?」

 

「うん」

 

 軽く跳ねるようにゲン太と歩くイリスの背に、ヤタカはほっと息を吐く。

 わたるの女の勘、とやらは当たったらしい。けっこうな騒動が起きた直後だというのに、辻読みの老婆と出会ったあとは静かすぎる日々が続いていた。

 本来なら三日に一度飲めばよい薬だったが、体に変調が見られるときは毎日飲むべきもの。ゴテと野グソも人目を盗んで懐に入れてきたのだろう。三日に一度飲んでも、十日持つかどうかという量しかない。

 ここ数日、ヤタカは自分の分もイリスに飲ませていた。ヤタカが薬を飲んでいないことをイリスは知らない。

 

――元気なんだが、どうもな……

 

 元気なイリスだったが、背中や腹、肩口の辺りをやたらと痒がる。眠っている間も疼くのか、うむぅ、と寝言で小さく呻き声を漏らす。

 だからヤタカは、自分よりイリスに薬を飲ませることを優先した。

 素人の憶測に過ぎないが、きれい好きのイリスが毎夜水浴びをするたびに、症状は悪化している様に思えていた。

 

――まさか衣を下げて、肌を見せろとはいえない。

 

 思い切って一歩踏み込むには中途半端な不調。ましてや衣に隠された肌となると、軽いノリで見せろと言うわけにもいかない。心配だからと実力行使にでて、万が一ただの湿疹程度だったら、イリスにぶち殺される……くらいでは済まない悪夢が待っている。

 

――もう少し様子を見て、駄目ならゴテ師か野草師を探すしかないな。

 

 イリスの痒みがただの湿疹なら、本当の不調を抱えているのはヤタカの方。

 忠告されたように、身代わり草は毒と一緒に必要な薬効も体内から持ち去ったらい。  後頭部に重石をぶら下げたような不快感は、日ごと肩へ腕へと降りてきていた。

 

「ヤタカ、そこに何かある?」

 

 立ち止まったイリスが指差したのは林道の入口。細い道の端に、こんもりと人型に盛り上がり苔むした小山があった。

 

「あったよ。異種だ」

 

 人型の胸辺りから伸びた固い茎が、ずぶりと地中へ潜り込んでいる。

 根のように地中を這い回り、どこかで土から音もなく顔を出し一番種を実らせる。

 ヤタカは懐から採取用の小刀を取りだし、地中に伸びる茎をばさりと切り落とした。

 茎の断面から濃い緑色した粘液質な雫がどろりと垂れて、水気を一気に蒸発させた茎は枯れ葉色となり砕けて落ちた。

 

「行こう、採取して売れるような異種じゃない。今日は何処かで早めに休もう」

 

「もう疲れたの? 年寄りっぽいね」

 

「違うって。遅くまで起きていたから寝不足なだけだよ」

 

 ふうん、といってイリスはすたすた歩き出す。

 ぱりぱり

 杖を持たない手が、爪を立てないように首筋を掻いた。

 

「どこかで、イリスの体を見てくれる奴を探そうな。痒いんだろ?」

 

「大丈夫。小虫が這っているような気持ち悪さで痒いけど、痛くないもの」

 

 心配そうにうろうろするゲン太を視線で促し、ヤタカは平静を装う。

 

「ゴテと野グソ、ちゃんとごはん食べているかな」

 

 イリスは幼なじみとの経緯を知らない。だからこそ、会えない友へ心配の言葉を口にする。

 

「食ってるさ。食い意地じゃあイリスに負けない」

 

 イリスの言葉がちりちりと胸に刺さる。それを吹き飛ばすように、へなりと鼻緒を下げたゲン太を小石のように蹴飛ばして、ヤタカはぺろりと舌をだす。

 

「ねぇヤタカ、行き先は特に決めていないんでしょう?」

 

「ああ。取りあえずは風の向くまま……だな」

 

 視線を上げると少し先の道は二股に分かれていて、一本は真っ直ぐに、そしてもう一本は右手の山を迂回するようにゆったりと曲がっていた。

 

「右の道に行こうよ」

 

 イリスの提案に違和感を覚えたヤタカは顎を捻り、蹴り飛ばされた先からよたよたと戻ってきたゲン太を見たが、ゲン太も不思議そうに木肌に薄墨を雲のように浮かせるだけだった。

 

「ちゃんと布を巻いているんだろうな?」

 

 日の光を避けるために目元に布を巻くイリスが人の足音や気配で察するには、二股に分かれた道はまだ先だ。浮かんだのは当然の疑問。

 

「巻いているよ。この先、最初の分かれ道が来たらっていう意味でしょう?」

 

「なるほど。それなら別にいいよ」

 

 ちらりとゲン太を見ると、うへぇ、と惚けた文字を浮かばせた。

 

「直ぐ先に分かれ道があるから、右に行こうか?」

 

「うん」

 

 道の分かれ目に来て声をかけると、イリスは元気に道を右へと歩いて行った。

 こめかみの辺りに、理由のわからない棘が刺さったあような違和感を拭えないヤタカだったが、このまま直進しても寺跡からどんど遠ざかる。戻らざる得なくなった時のことを考えるとイリスの体力を考慮した場合、この道を選ぶ方が懸命かも知れないと思った。

 

――くそ、体が重い

 

 まるで水の器が体積を増したようだった。野グソとゴテがこの症状を抑えてくれていたのかと思うと、こんな状況になっても感謝の気持ちが湧いてくる。

 天敵がいなくなった水の器が、自由にヤタカの体に染みだそうとしているような倦怠感に、ヤタカは口の中で舌を鳴らす。

 

「イリス、少し早いが今夜はここで休もう」

 

 夕暮れにさえまだ早い。そよ風に前髪をさわりと浮かせイリスは小首を傾げたが、何かを問うことなく頷いて小屋へと入っていった。

 

――つらいのか

 

 ゲン太の木肌に文字が浮かぶ。

 

「大丈夫だ。少し疲れただけさ」

 

 つま先で小突いて、ゲン太を先に小屋へと入れる。どこから湧いてきたのかと思うほど、人通りの多い街道だった。まだ賑やかに商いを続ける露天商を横目に、ヤタカは小屋に入ると後ろ手に引き戸を閉める。

 

「ごはん、食べていい?」

 

「いいけど、もう少し日が暮れてからな。まだ日が高い」

 

「俺は少し寝るよ。水浴びに行くときは、ゲン太を連れていくんだぞ?」

 

 は~い、という気のない返事に背を向け、布団をひくことさえせずにヤタカは固い床にごろりと身を横たえた。

 体が動かなくなる前に、ゴテ師を見つけなくては不味いことになる。この感覚をねじ伏せるには、ゴテを当てた方が薬を飲むより効くだろうだろう。

 

――かといって、腕の立つ奴が転がっている訳もない

 

 ゴテと野グソ以上の腕を持つ者に出会えるなど、イリスが淑女になる可能性より低い。

 思い浮かんだくだらない喩えに苦笑いして、ヤタカはそっと目を瞑った。

 

 いつの間に眠ったのか、イリスが引き戸を開ける音と、その後をゲン太が付いていくからりころりという音に目を覚ました。一本の蝋燭に照らし出されたほの暗い壁が、とっくに日が暮れたことを教えてくれる。

 

「さすがに体が固まった」

 

 ほとんど寝返りも打たずに固い板張りの上で眠っていたヤタカは、痺れた腕を擦りながら体を起こす。

 明かり取りの窓から、薄雲に覆われた月が見える。

 

――あいつら、何しているかな

 

 袂を分かった幼なじみに思いを馳せた。

 イリスが残してくれた饅頭を口に含んだが、どうにも喉を通っていかない。喉が渇いたわけでもないというのに、水の器に水分を舐め取られたように口の中が乾いていた。

 柔らかな饅頭さえ砂を噛んだようにばさついて、眉を顰めながら飲み込んだヤタカはことりと壁に頭を預け、苦し気に目を閉じる。

 どのくらいそうしていただろう。

 

――遅すぎる

 

 イリスが水浴びに出かけたときに窓から見えた月は、すっかり木枠の外へ流れて姿を消した。ゲン太が戻らないから大丈夫なのだろうが、長過ぎる水浴びに不安が過ぎる。

 

「くそ、だらしねぇ」

 

 立ち上がろうと片膝を立てただけでふらついたヤタカは、壁に手を付いて体を支える。

 回る目を閉じて、壁伝いに引き戸まで辿り着く。よろけたヤタカの体に押されて、ガラガラと戸が開いた。

 

「どっちへ行った?」

 

 さすがに日が暮れると人通りは疎らになっていた。この辺りの小屋に宿を求める者達の手にした灯りが、ぼやけて滲む。

 灯りを持って来なかったことに気付いたヤタカだったが、三歩とかからない小屋の入口まで引き返すこともままならない。回る視界に抗う体を支え切れず、手で押さえた両膝ががくがくと震えた。

 思っていたより、切れた薬効が体の自由を奪うのが早い。

 用心深いヤタカだったが、予想外の速さで奪われていく体力。

 

――まずい……

 

 膝を押さえていた右手が、ずるりと滑って上体が傾ぐ。

 このまま倒れると思った体が、枝に引っかかったようにだらりと止まった。

 

「大丈夫か、兄さん? しっかりしろ」

 

 左腕を強い力で支えられ、聞こえてきたのは覚えが無い男の声。

 

「おい、小屋の中に運ぼう」

 

「いや、動かさない方がいいぞ。原因が解らないんだからな」

 

――二人いるのか

 

 力を振り絞り顔を上げたが、霞む目にはぼんやりと滲む蝋燭の灯りしか見えない。

 

「大丈夫だ、オレ達はゴテ師と野草師だ。この男の事はまかせてくれ」

 

 この騒ぎに、通りすがりの人々が足を緩めたのだろう。二人の男達が人を払う声が響く。

 

「まさか野草を食ったら毒草だった、てわけじゃないよな? 駄目か、話す力もなさそうだな」

 

「薬をくれ、ゴテを当てる」

 

 土の道に横たえられたヤタカの横で、がちゃりがちゃりと道具を広げる音がした。

 

――ゴテ師……なのか

 

 少しでも動けたなら、ヤタカは歯を食いしばってでも治療を断っただろう。腕も解らない素性も知れない者にゴテを当てさせるには、ヤタカの体は複雑な事情を抱え過ぎている。 

 

――舌が痺れて、断ることすらできない。

 

 仰向けに転がされ、作務衣の胸が広げられる。熱されたゴテに塗られた薬草の、嗅いだことのない匂いにヤタカは内心眉を顰めた。

 

「少し痛むが我慢しな」

 

 男の声は若い。濃くなる薬草の匂いが、ゴテがヤタカの胸に近づけられていることを示していた。

 

「うぐっ」

 

 舌が痺れたまま、喉の奥でヤタカが呻く。薬草に焼かれる痛みではなく、焼けた肌に薬草が浸みる痛み。

 

「応急処置だ。体が痺れて動けないのだろう? 痛いだろうが、これで視界も少しは晴れる。舌も動く。話せるようになったら、名前くらい教えてくれないか? 名前がわからないと、物を相手にしているようで嫌なんだ」

 

 目元で頷いて、ヤタカは同意の意を示す。

 素性は知れないが、ある程度の腕と経験がある者達なのだろう。霞がかかったていた目から靄が晴れ、揺れる蝋燭の灯りが眩しく映る。

 声の印象より年のいった男達だった。三十路はとうに過ぎているだろう。

 人好きのする柔らかな笑みを浮かべ、二人の男はヤタカの顔を覗き込んでいた。

 

「目の焦点があってきたな」

 

 蝋燭の灯りでヤタカの目を照らし、満足そうにゴテを手にした方の男が微笑んだ。

 

「心配しなくていいよ、ここで会ったのも何かの縁だ。わたしが練り込んだ薬を、この男にゴテに塗って当てて貰えば、直ぐに楽になるからね」

 

 こちらが野草師なのだろう。体格の割りに柔らかな物腰の男だった。

 目は見えるようになり痺れは急速に薄らいでいたが、しゃべることはできなかった。まだ指先一本動かない。

 

――イリス、今は戻って来るなよ

 

 危険な者には見えないが、万が一ということもある。今のヤタカにできるのは、心の中で祈ることだけだった。

 押さえ込まれる危険を感じたのか、水の器がヤタカの内で煩く存在を主張する。

 蝋燭の炎で熱せられたゴテから、薬草の焦げる匂いが漂う。幼なじみのゴテ師の治療では嗅いだことのない、嫌な匂いだった。

 

「そろそ話せるか? 名前は?」

 

 熱されたゴテに、薬草を塗りつけながら男が問う。

 

「名は……ヤタカ」

 

 掠れた声に目を細めた男は、野草師とちらりと目を合わせて頷き合った。

 

「それじゃ、次のゴテを当てるぞ。これで……直ぐ楽になる」

 

 男が手にしたゴテがヤタカの首筋に近づけられ、鼻を突く薬草の激臭にヤタカは僅かに眉を顰めた。

 

「心配ない」

 

 優しげに微笑む男の目。その目が笑っていないことにヤタカが気付いた瞬間、肌に触れる寸前だったゴテが、横から飛んできた下駄に薙ぎ払われた。

 

「何をする! だれ……」

 

 叫びを途中に、男の体が飛んでヤタカの視界から消えた。呆然と目を見開く野草師が、声を上げることなくその場に崩れ落ちる。

 野草師の首筋を打ったのは、大人というには小ぶりな手。

 

「お~危ねぇ。間に合わないかと思った。兄ちゃん大丈夫か?」

 

 蹴り飛ばした下駄を取りに行った少年が、指先に下駄をぶら下げ器用に片足で跳ねて戻って来た。

 

「あちゃ、もうゴテを当てられてたのか」

 

 眉を顰めた少年が、ヤタカの胸に鼻を近づけくんくんと匂いを嗅いだ。

 

「これは普通に薬草だな」

 

 腕を組んで少年が頷く。

 

「おまえ……誰だ?」

 

 ヤタカの問いに、少年は白い歯をにっとさせる。

 

「それは後で教えるよ。とりあえずこの二人、丸二日以上は目を覚まさないから、林の端に転がしてくるわ。ここに置いておくと邪魔だ」

 

「いったい何をした?」

 

 頭二つ以上はでかい大人を腕力で倒すには、少年の腕は細過ぎる。

 

「気絶している間に、皮膚から薬が染みこんでいく。死なない程度とはいえ、強力に筋肉を緩めるから、目覚めても動けやしないよ」

 

 ゴテ師か野草師だとしても若すぎる。だが、とヤタカは思う。

 野グソとゴテも、少年より幼い日からヤタカとイリスの治療をしていた。

 数人の旅人が通りかかったが、遠巻きに道の端を早足で過ぎていく。妙な争い事に巻き込まれたくないのだろう。直ぐそことはいえ、少年の手で引き摺るには大人の男は重い。

 荷を引く馬のように鼻息を荒くして、男を除ける少年をヤタカは用心深く眺めていた。

 

「よしっと。兄ちゃん、ゆっくり動いてごらん。当てられたゴテが、そろそろ全身に効いてくるはずなんだ」

 

 左半身の痺れはまだ強く残っている。だが少年のいうとおり、右半身は辛うじて動く程度に痺れは取れていた。肘を着いて体を起こすヤタカの背に、少年の手が添えられる。

 

「兄ちゃんまで引き摺って、小屋まで行く力は残ってないからな。時間がかかってもいいから、自力で何とかしてくれよ?」

 

 どかりと座り込んだ少年は、少し大きすぎる下駄を履き、膨らんだ風呂敷を肩に斜めにかけている。肌は少年らしく浅黒く日焼けしていた。屈託のない笑みが、ヤタカに諦めの溜息を吐かせる。

 

「倒れた俺を助けようとしていた男達を、どうして気絶させた?」

 

「助ける?」

 

 はははっ、解っているくせに。少年はそういって鼻の下をごしごしと擦った。指先に着いていた土で、鼻の下が黒くなる。

 

「オレが蹴り飛ばしたゴテが肌に当てられていたら、三日後には兄ちゃんの葬式だったぜ? 胸に当てられたゴテは、ちゃんとした薬草を使っているけれど、それだって兄ちゃんの名前を聞き出すためだもの」

 

 薬草の激臭が蘇る。

 

「俺の名を聞き出して、どうするつもりだったと思う?」

 

「確認だよ。間違った相手に、あのゴテを当てて殺したら大変だろ?」

 

「あの匂いは毒草のものだったか」

 

 全身の痺れが取れてきたヤタカは、ぐるりと首を回して肩をほぐした。

 

「もう一度聞く。おまえは何者だ?」

 

 立ち上がった少年は、乱暴に膝小僧を叩いて土を払う。

 

「兄ちゃんの友達に頼まれた」

 

 ゴテと野グソの顔が浮かぶ。

 

「まさか、おまえみたいなガキが?」

 

――後釜は他の者に頼んであるよ……唯一信用できる存在だ……その子は訳あって中立の立場を貫いている――

 

 幼なじみの言ったことを、ヤタカは何度も口の中で繰り返す。

 

「そうか、あの時あいつらは、託した相手をその子と呼んでいた。言葉のあやかと思っていたが、まさか本当に子供とは。驚いたよ」

 

「子供で悪かったな。そんなに元気にしゃべれるようになったんなら、さっさと小屋に入りなよ。夜は冷えるんだからさ」

 

 ヤタカが立ち上がろうとすると、少年が男達を放り込んだ林とは反対側から、からんころんと下駄の音が聞こえてきた。

 

「やっと帰ってきたか」

 

 安堵の溜息が漏れる。

 

「俺の連れに、今のことは話すなよ」

 

 小声で言うと、少年はちょっと小首を傾げたが、下駄の音にちらりと目をやりこくりとひとつ頷いた。

 

「ヤタカ? 道に座り込んでどうしたの? あらかわいい! その男の子は誰?」

 

 目を丸くするイリスにひらひらと手を振り、ヤタカは立ち上がる。

 

「取りあえず中に入ろう。話はそれからだ」

 

 イリス手前、平静を装って小屋向けて歩き出したヤタカは、動こうとしない少年に足を止めた。

 

「おい、早く来いよ。何して……」

 

 くりりとした目を更に大きく広げ、ぽかりと口を開けた少年がイリスの足元をじっと見つめていた。

 

「まさかおまえ……見えるのか?」

 

 ゼンマイ仕掛けの人形みたいに、少年がこくこくと何度も頷く。その後に続けられた言葉は、驚いているヤタカの目を更に見開かせた。

 

「うわぁ、すげぇ。おまえ、あの時のしゃべれる下駄!」

 

 ゲン太を指差して、少年が満面の笑みを浮かべる。ゲン太がぴょんと跳ね上がり、嬉しそうに鼻緒を立てた。

 

――まさか、ゲン太が家出したときに会った少年か?

 

 ヤタカとイリスのことなど、存在さえ忘れたように喜び合う一人とひと下駄。

 

「それじゃあ、おまえは……」

 

 わたるの弟か、という言葉を慌てて喉元で呑み込んだ。 

 

「もう訳がわからんよ。とにかく入ろうぜ」

 

 わしゃわしゃと頭を掻きむしり、ヤタカは全員を小屋の中へと押し込んだ。

 再会を喜ぶ少年とゲン太が、代わる代わるに説明した内容を繋げて、ようやくこの少年とゲン太の繋がりに納得した。

 

「オレの名は和平。おまえゲン太っていうんだな。あの時は話に夢中で、名前聞かないで別れちゃったもんな」

 

――あえた うれしい

 

 ゲン太の木肌に浮かんだ文字を指先で撫で、和平は嬉しそうに目を細める。

 

「兄ちゃん、眠る前にゴテを当てるからね。今夜は応急処置だけど、明日の夜にはきちんとしたゴテを当てる。あとイリスさんもね。イリスさんは、よく診させて貰ってからにするよ。聞いていたのとは、少し体調が変わっているように思えるから」

 

 ゴテと野グソから得た情報と、目の前のイリスに微妙なズレを感じているのだろう。イリスが体を痒がるようになったことと、何か関係があるのだろうか。とにかくあいつらに劣らないほど、和平は腕が立つのだろうとヤタカは思った。

 

「そういえば、おまえの大好きなやつらって、この人達のこと?」

 

 背中を見せるヤタカの肌に指を当てながら、和平がくいっと片眉を上げてみせる。

 

――ちがう 

 

 鼻緒をぴりりと上げるゲン太。

 

「好きだから心配して、大慌てで帰ったんだろ?」

 

――ぜんぜん ちがう

 

 ヤタカの背中に、とんとんと指先を当て気穴を探りながら、ゲン太を見る和平の目が意地悪げに細められる。

 

「でも、嫌いじゃないだろ?」

 

――だいっきらい

 

「へぇ……」

 

 頬を膨らませ、イリスがじろりとゲン太を睨む。

 ゲン太の鼻緒がぴくりと跳ね上がった。

 

――ちがう

 

「なにが?」

 

 今のゲン太にとって、イリスの視線は松明の火で炙られるより痛いだろう。ちらりと見て、ヤタカは口の端でニヤリと笑う。

 

――イリス は すき

 

「うん、それならよろしい!」

 

 イリスに鼻緒を撫でられ、焦りに張り詰めていたゲン太の鼻緒がへなりと下がる。

 そんな様子に、和平がくすくすと笑っている。

 

「俺への謝罪はなしか、アホ下駄?」

 

 和平が手にしたゴテが左肩の真上に当てられて、ちりちりと痛む肌にヤタカは鼻の頭にシワを寄せた。ゲン太の木肌に墨が渦巻いたかと思うと、小さな文字がポンと浮かんだ。

 

――ちっ

 

「はぁ!? おまえ今、チッっつったな? 舌打ちか!」

 

「ほら、動かない!」

 

 反射的にゲン太を蹴ろうとしたヤタカの頭を、ぺしりといい音をたてて和平の手が叩く。 

「馬鹿下駄! 後で覚えてろよ!」

 

 ゴテを当てて動けないヤタカを、ここぞとばかりにゲン太が蹴る。

 

――わへい

 

「なに? ゲン太」

 

――いたいの あるか

 

「めっちゃヒリヒリするのが、ありますぜ……ダンナ」

 

 肩を揺らし、可笑しくて堪らないという風に和平が笑う。

 

――それ つかえ

 

「やっちゃう?」

 

 空いた片手で和平が、見るからに毒々しい練り薬を広げてみせる。

 

「おまえら、冗談じゃないぞ! 俺が何したっていうんだよ!」

 

「和平、やっちゃえ」

 

 イリスの締めのひと言で、小屋の中に笑いが満ちる。

 三対一では、ヤタカに勝ち目などあるはずもなかった。イリスが面白可笑しく、ヤタカの失敗談を話して聞かせる。話が三倍くらいに盛られていたが、抗議する気にもなれなかった。

 

「よし、終わった。イリスさん、ちょっとだけ肩の辺りを見せてくれる?」

 

「うん」

 

 ゴテにそうしていたように、躊躇なくばさりと浴衣の肩を下ろしたイリスに、和平はくっと息を呑んだが、すぐに見極める者の目に戻った。

 手の平を当て、ゆっくりとずらしながら目を閉じ探っていた和平が、イリスから手を離し、そこに何か付いているかのように、空の手をじっと見つめる。

 

「イリスさん。最近、体がむず痒くなったりしない?」

 

「うん。ちょっとね」

 

「そっか」

 

 少し考えた風に首を捻ると、直ぐに笑顔に戻った和平は、風呂敷を結んで肩にかけて立ち上がった。

 

「どこに行くんだ?」

 

 少年が出歩くには夜が更け過ぎている。慌ててヤタカは立ち上がった。

 体の倦怠感は、嘘のように退いている。

 

「明日、イリスさんに使う薬草を取ってくる。夜の方が見つけやすいんだ」

 

「夜道には慣れていそうだが、危険な時間だ。俺も付いていく」

 

「大丈夫。それに兄ちゃんは休んだ方がいい。ついでに水浴びもしてくるから」

 

 澄んだ目元をそのままに、口元だけで和平が微笑む。

 

「イリスさん、水浴びができる場所はどっち?」

 

 裏の林に入ると、近くに岩場の湧き水がある、とイリスは答えた。

 

「和平、おまえさ……」

 

 入口で振り向いた和平が、小さく首を振る。

 

「兄ちゃん、話は明日だ。月が完全に傾かない内に、仕事を済ませたいからさ」

 

 ひらひらと手を振る和平の背中で、引き戸がぱたりと閉められる。

 一度は座ろうとしたヤタカだったが、立ち上がって外へ出た。林も森も、今は獣たちの時間だ。

 

「どっちへ行った?」

 

 行き交う人も途絶えた夜の街道は暗く、森は更に闇を深くしている。呼びかけてみようかと小屋の後ろに回り込んだヤタカは、叫ぶことなく吸い込んだ息を止めた。

 

「わたると同じだ。同じ灯り」

 

 林の奥へ向かっているのだろう。和平の姿は見えないが、五つの淡い灯りがゆらゆらと舞っていた。

 

「明日、話すことが増えたよ和平」

 

 踵を返して、ヤタカは灯りに背を向ける。小屋で眠って、言うべきことと伝えるべきことの整理をつけようと思った。

 わたるがそうであったように、ヤタカなどいなくても五つの灯りが和平を守るだろう。

 

「わたる、見つけたぜ」

 

 呟きは夜風に流れ、耳にする者もなく消えて去った。 

 

 

 

 

 




 読んで下さったみなさん、ありがとうございます。
 完璧に折り返しを過ぎたので、がんばろう。
 パンパンに膨らんだ物語の回収袋も、何とかして減らさねば……お正月のお餅まき並の勢いで減らねば。
 次話もお付き合いいただけますように!
 ありがとうです。

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