ボーダレス ホルダー   作:紅野生成

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25 身代わり草

 一瞬頭が空白になった。

 何を信じるべきか、どう動くべきか決めて生きてこられたのは、ヤタカの中に揺るがぬ核があったからだというのに、その外殻が痛みを伴って脆く剥がれかける。

 この世に己の意志でどうにもならないことなど掃いて捨てるほどあるように見えて、その実は少ない。

 どうにもならないと呟いて、一歩踏み出せない言い訳にしているに過ぎない。

 少なくともヤタカはそう思って生きてきた。

 異物憑きになったこと、親と引き離された寺での暮らし。ヤタカにどうにもできなかったのは、これくらいだと思っている。

 だからこそ頭を真っ白にして無理矢理動き回ることはあっても、頭が空白になって動きを止めたことなどなかったというのに。

 

――真実は、どこにある

 

 わたるの赤い紅が浮かぶ、ゴザ売りのひねた口元、真一文字に閉じられた幼なじみの薄い唇、素堂の口元に寄った深い皺、笑わない慈庭の口。

 それぞれの唇が、異なることを口にする。

 ヤタカはきつく閉じた瞼をゆっくりと開く。

 

「何だっていうんだか」

 

「何がだ?」

 

 かつて友と呼んだ男の呟きに、野グソが訝しげに眉根を寄せ問いかける。

 

「妙なことだ」

 

 ゴテと野グソが腰を下ろす中間地点に突き刺された視線は、ヤタカが手放しかけた思考を取り戻したことを示していた。

 

「はっきりいえ」

 

 痺れを切らせたゴテが、チッと舌を鳴らす。

 

「俺達を襲った奴もいた。命を奪って異種と異物を取り出そうとした者も。自分達の組織の為、理念の為に俺を利用したのは……寺か。産まれ持った家業に従って、俺の側にいたのはお前達」

 

「裏切り者ばかりだな」

 

 野グソが、歯の隙間から声を漏らす。

 

「ふふ、てめぇで認めんな。こっちの立つ瀬がないだろうが。俺の前に面を見せた奴の中に、居ないんだよ。少なくとも、言葉を交わした者のなかに、根っからの悪党がいないんだ」

 

「おまえはお人好しか? それともアホか? そんな甘っちょろい考えを浮かばせてると、思わぬ所で足をすくわれるぞ」

 

 吐き出すようにいって、視線を逸らせたゴテは眉根を寄せる。

 

「すくわれるだろう―――な。だが、すくわれて転んだ後にしか見えないものもある。これだけ糸が絡んでいたんじゃ、先を見越して難を避けて歩くだけじゃ埒があかない。転んだ時に千切れた糸がにょろにょろと、他のどの糸と繋がるかを見極めるしかない」

 

「立ち上がれなくなる転び方だってあるだろう?」

 

 野グソが、ちらりと視線を向ける。

 

「あるだろうな」

 

 こめかみで視線を受け流し、ヤタカは小さく頷いた。

 

「だからこそ、目的をはき違えないことだよ。俺がこの先の道に望むのは、自分が白髪頭になって、呑気に縁側で茶を啜っている姿じゃない。孫を背負って、皺だらけの目尻を下げて歩くことでもない……まぁ、そんなことが叶うんなら、そりゃ幸せかもしれないが」

 

 望めやしないだろう―――

 

 軽口を叩くようなヤタカの口調に、幼なじみは僅かに顔を伏せる。その様子にヤタカはふっと息を吐き出すと、蝋燭の光にちらりと姿を見せる塵が、ふわりと浮いた。

 

「襲わない。殺しもしない……そういったよな?」

 

 ヤタカの言葉に、ゴテは小さく頷いた。

 

「その言葉に嘘がなかったから、俺はここに座っている」

 

「信じる……のか?」

 

 がしりと筋肉のついた足を組み替え、ゴテが問う。

 

「いいや」

 

 ヤタカはゆっくりと首を横に振る。

 

「殺そうと思うなら、俺がここに入った瞬間、意識を奪うことも命を奪うこともできたはずだ。俺は自分を弱いとも思っていないが、ガキの頃から見てきたお前達の力量を読み間違えてもいない」

 

「それは、ありがたい言葉だな」

 

 野グソの薄く整った唇が歪む。

 

「襲わない。殺しもしないといった後に仕掛けるとしたら、そりゃあ相当に意地が悪い。だがそうじゃない。おまえらには、俺が失意のどん底で悶え死ぬのを楽しむ趣味はないだろうし、騙して聞き出すに値する情報を俺は持っていないからな」

 

 だとしたら―――

 

「俺の知るアホな幼なじみ達は、本当に俺と話をしたかっただけということになる。俺から伝える情報はない。お前達の言葉を聞きに来たに過ぎない。俺に伝えたいことがあるなら、さっさと済ませろ。できるだけ、早くここを後にしたいんでな」

 

 顔を見合わせ頷き合ったゴテと野グソは、ヤタカを避けるように背けていた膝小僧を、真っ直ぐに向け直す。

 ゴテが懐へ入れた手に握られていたのは、黄ばんだ古い紙。

 ぐしゃぐしゃになるのも気にかけず、それを一度握り潰したゴテは、鼻紙でも捨てるようにヤタカへと投げてよこした。

 股の間に落ちた紙に手を触れることなく、ヤタカは方眉を上げ片膝を立てる。

 

「なんだこりゃ?」

 

「オレ達はおまえの力にはなれない。手を差し伸べることもできない。家を守るためだ。野グソもそうだが、家には先代から抱えてきた者達がいる。あいつらを、路頭に迷わせるわけにはいかないんだ」

 

「そうだな」

 

「イリスのことは、何よりも大切に思っているよ。全て捨てて、盾になれたらと思う。嘘だと思うだろうが、本気でそう思っている。でもね、それは許されない。青っちょろい考えで衝動的に動けば……自分達がどうなろうと構わないが、身内の者が狙われる。裏切りへの制裁は厳しい。それこそ容赦ないんだ。共に過ごしてきた身内の者を、そんな目に合わせられない。狡いと思うか?……思うよな」

 

 野グソが目を細め、真っ直ぐにヤタカを見据えながら握る拳に筋が立つ。

 

「お前達にとって、自分じゃ変えられないものは生まれ育った家だ。両親であり、家業。その家に生まれていなければ、俺とだって出会っちゃいない。野グソの家のおばば、ゴテを家で待っているチヨちゃん。あいつらを見捨てろというほど、俺は弱くない」

 

 守ってやれよ。守ってやってくれ―――

 

 ヤタカの呟きに口を開き駆けたゴテが、目を細め片膝をつき耳をそばだてた。

 ざっと立ち上がった野グソが、ヤタカが手に取らなかったくしゃりと丸まった紙をひっつかみ、無理矢理ヤタカの懐にねじ込んだ。

 

「ゴテの技術と丸薬がなければ、イリスもおまえも生きづらい。後釜は他の者に頼んであるよ。その子は訳あって中立の立場を貫いている。お前達のことも知っている」

 

「そいつは誰だ?」

 

「素性は明かせない。いや、誰も知らないんだよ。だが今は、唯一信用できる存在だ」

「裏切りを公言する野郎の言葉を、信じろってか?」

 

「イリスの為だ。だがこの先は、絶対に俺達を信じるな。何があろうと、おまえに本当のことは言わない」

 

「まったく、訳がわからんよ」

 

 戸口から遠い所で、下駄の木肌がかん、と鳴った。

 

「その訳なら、直ぐにわかるさ」

 

 更に遠ざかった場所で、下駄の木肌がかかん、と鳴る。

 横穴の入口からそよ風と共に流れ込む草の匂いが、一気に濃くなったことにヤタカは眉根を寄せる。

 

「この場所を教えた」

 

 後悔も感情さえ見せずにゴテがいう。

 

「囲んでいるのは、誰だ?」

 

 音を立てずに草をしならせ忍び寄る足に揺らされて、侵入者の存在を山の草木が知らせていた。ヤタカの為ではない。植物達の命を脅かす何かを、奴らが持っているから、山全体へ危険を知らせているに過ぎない。

 

―――毒か、火か

 

 危険を身内に知らせる、草の濃い香が鼻孔を撫でる。

 閉鎖された横穴に火を投げ込まれたら、やり方によっては逃げる暇さえないだろう。

 空気に溶けて流れる毒でも、この閉鎖空間は敵に味方する。

 ゴテと野グソがじりじりと、横穴の入口へ足を擦らせていく。

 

「素性がばれたからね、家を守るにはこうするしかない。イリスと引き離せて良かった。連れてきたら、どうしようかと思っていたよ」

 

 がしりと鍛えられたゴテの体と、野グソの線の細い影が逆光で影となり立ちはだかる。

 

「おまえに手を出さないと口でいったところで、信用するような連中じゃないんだ。ヤタカを引き渡すことのみが、家とこの身を守る唯一の護符となる」

 

 狭い入口に立たれては、おいそれと逃げることもできない。それでもヤタカは機会を覗った。横穴の周りを完全に塞がれるまで、一寸の時間がある。

 

 だがな―――

 

 ゴテが声を潜める。

 

「俺達を殴り飛ばして、外へ駆け出ることまで止めようとは思わない。そのくらいの失態なら、言いつくろうこともできる。まあ、表へ出てあの連中の手を逃れられるかは、おまえの運次第だ。腕で勝てる相手じゃない」

 

「だったら、痛い思いをするだけむだじゃないのか?」

 

 吐き出したヤタカの言葉に、ゴテが鼻から息を吐き口の端を上げる。

 

「だからいったろう? 運次第だ。砂粒ほどの運でも、無駄にすんじゃねえぞ」

 

 周りを囲んで、気配を消す必要もないと判断したのだろう。

 いくつもの足が草を踏む、しゃらしゃらとした音が微かに聞こえる。

 

――十人じゃ……すまない数だな

 

 たかが一人に、ずいぶんな人数をつぎ込んだものだ。

 さらに遠ざかった下駄の音が、無事に抜け出したことを知らせてかん、と鳴る。

 

――ゲン太、イリスを頼む。

 

 二人が止めないというなら、玉砕覚悟で横穴を飛び出すしかない。たとえ二人を盾に取ったところで、表の連中は二人ごと自分を射貫くだろうと思った。

 自分の何にそれほどの価値がある?

 いや、価値があるのはわかっている。わからないのは、価値がもたらす中身だ。

 

――何とかいえよ、このクソ野郎

 

 物言わぬ水の器に毒づいて、ヤタカは入口に向けて目を眇める。

 片足を引いて、駆け出そうとした。

 

「なっ?」

 

 押し倒すついでに一発づつ拳を喰らわせてやろうと思っていた、幼なじみの体が崩れ落ちた。二人の胸には、毒を仕込む為の細い吹き矢が刺さっていた。

 身構えて振り返ったが、背後にあるのは小石を多く含む乾いた土壁。

 訳がわからず入口に向き直る。

 毒矢を打ち込まれた二人は、入口を塞ぐように折り重なって倒れたまま微動だにしない。

 

――まさか死んだか

 

 何かを失った寒気が背筋を這い上がる。

 一瞬、敵に追い込まれた状態だということを忘れそうになる。

 一歩前に踏み出し、駆け寄ろうとした襟首を引く力に後方へと引き摺られる。

 振り返ろうにも、気道が締め付けられて首が回らない。

 裏切った幼なじみの姿が掠れていく。

 体がずるずると引きずられ、ヤタカはとうとう尻をついた。それでもヤタカを引く力はかわらない。

 

――背後の壁まで、さほど距離は無かった筈なのに

 

 歯を食いしばったヤタカの、首の付け根に重い衝撃が走った。

 自分を襲った者の正体を知ることなく、ヤタカは気を失った。

 

 

 

 鼻の穴に流れ込んだ水が喉元に詰まって、跳ね起きたヤタカはげほげほと噎せ返った。

 どれほど咽せても眼球が湿る程度で、決して涙を流すことのないヤタカの瞳が、注意深く辺りを見回した。

 水をかけた者が近くに居る。それを推測できる程度には、目覚めた意識。今すぐ殺すつもりがないから、水をかけてヤタカを目覚めさせたのだろう。

 重い痛みが残る首筋に手を当てると、いったいどれだけの衝撃を受けたのか、柔らかくぶよりと腫れ上がっていた。

「目が覚めたかよ」

 

 声変わり前の澄んだ声。生意気な口調が、ヤタカの記憶から少年の姿を引きずり出す。

 振り返ると、顎を逸らせて片目を細めた少年が、大きすぎる外套にすっぽりと身を包んで立っていた。片手を腰に当て、もう片方には空のバケツがゆらゆらと揺れている。

 

「シュイ? どうしてここにいる?」

 

「なに寝ぼけたことをいってんだ? 誰のおかげで助かったと思ってるわけ?」

 

「誰のおかげ?」

 

 シュイの片眉が、雷を受けたようにぴりぴりと歪む。

 

「オレ様!」

 

 勢いよく投げられたバケツが、小気味よい音を立ててヤタカの額を打って転がった。

 わかったわかった、といいながら痛む場所の増えたヤタカが口をひん曲げる。

 

「どうして居場所がわかった? それも謎の通路の情報網ってやつか? それよりあの横穴のどこに隠れていたんだい? 身を隠す場所なんて、どこにもなかっただろう?」

 

「宿屋あな籠もりの入口と同じ仕掛けだよ。横穴へ繋がる道は、おまえを引きづり出して直ぐに塞いだ。貴重な出入り口が、一つなくなっちまった」

 

「そうか、すまなかったな」

 

 細い縄暖簾に似た手触りを思い出す。見た目には、周りの岩や土と同化して見える不思議なもの。

 

「じっちゃんが行けっていうから。おまえなんか助けに来るのは、面倒臭くて嫌だっていったんだ。そしたら、お姉ちゃんを助ける為だっていうからさ。仕方ないだろう?」

 

 結局はイリスかよ、と舌を打ちながらヤタカは苦笑いする。

 

「なぁ、横穴でゴテと野グソを倒したのもおまえか?」

 

「うん」

 

「生きている……よな?」

 

「打ったのは眠り薬だ。半日もすりゃ目を覚ますさ」

 

 頷きながら、ヤタカは安堵の息を漏らす。裏切られていたとはいえ、二人を憎みきれない。あいつらには守るべき者がいる。裏切りの理由を堂々と告げてくれたことが、二人の妙な律儀さを示していた。

 

――黙って裏切るなり、白を切ればいいものを

 

 少しだけ思いに耽ったヤタカに、珍しく細く弱気な声がかけられた。

 

「お姉ちゃんは、安全な所にいるんだよな? 元気なんだよな?」

 

 シュイの生意気な眉尻がへなりと下がる。

 

「正直、責任を持っていえることはない。だが、今はまだ安全だと俺は信じている」

 

「頼りにならねぇな」

 

「おまえに言われたくないっての。このクソガキ」

 

「なにを!」

 

 まだ小さな拳を振り上げ、シュイが眉を吊り上げる。

 

「マセガキが」

 

「はあ? 置いていくぞコラ! 唐変木! お姉ちゃんの腰巾着!! 荷物持ち!」

 

「わけわかんないよ。いいのか、そんなこといって。協力してくれないなら、うっかりバラしちまうかもな……俺、口は堅いのに」

 

「な、何をだよ!」

 

 引っかかった。にやりと、ヤタカは口元に意地の悪い笑みを昇らせた。

 

「どこぞのクソ生意気なガキが、イリスのことをだ~い好きだって……本人にいっちゃったらどうしよう。まずいな、最近ぼんやりすることが多くてな」

 

 破裂寸前の鬼灯みたいに頬を染めたシュイが、目を見開いて唇をぐいと噛む。ばさりと慌てて被った外套のフードも、赤らんだ頬を隠しきれていない。

 

「最低だ! クズだ! ぜったいおまえみたいな、腐れ大人にだきゃならないからな!」

 

――ちょろいな、ガキンチョ

 

 肩でくつくつと笑いながら、ヤタカは表情を真顔に戻していく。

 

「イリスの元へ戻りたい。協力してくれ」

 

「あぁ。まずはじっちゃんの所へいくぞ。来るようにいわれているんだ」

 

「わかった。ご主人は元気か?」

 

「元気だけれど……」

 

 シュイが表情を曇らせ長い睫を伏せる。

 

「どうかしたか?」

 

「この間怪我した足の傷が、良くないんだ。今は歩けないから、少し時間はかかっても、ぼく達が宿屋あな籠もりまで行くしかない」

 

 ご主人が怪我をしたのか。ヤタカは懐に手を当てる。

 

「それなら、なおのこと急ぐぞ」

 

「うん」

 

 歩き始めたシュイの後を追うヤタカが、床に転がるモノを見て足を止める。

 

「なあ、横穴で俺を殴ったのもおまえだろう?」

 

「そうだよ」

 

「何を使って殴った? おまえの拳にしちゃ威力がでかすぎた」

 

「それ」

 

 ヤタカの視線の先を、ぴたりとシュイが指差した。

 

「てめぇ……死ぬだろうが!」

 

「生きてるじゃないか?」

 

「あぁ、奇跡だよ! てか石器時代かここは!」

 

 シュイがふんと鼻を鳴らす。

 

「どうやって俺を引き摺り込んだ?」

 

「宿屋あな籠もりに置いてある異物さ。一種のバネだよ。くっついては縮み、またビヨンと伸びては縮む。そうやって地道におまえをここまで運んだ」

 

「ようは引き摺ってきたわけか? どうりで全身土まみれなわけだ。そんな弱っちい腕じゃ、イリスのお姫様抱っこは当分無理だな、もやし小僧め」

 

 シュイの頬が、再び真っ赤に染まる。外套の内側から突きだした手には、十センチほどの金属の筒が握られていた。

 

「最大十メートルくらいは伸びるぜ? じっちゃんは昔、迷い込んできたクマをこれで撃退したってさ。嘘っぽい話だから、試してみようか……一回だけ、ぶっ飛んでみる?」

 

 わざとらしく小首を傾げるシュイに、こいつ、やりかねない……とヤタカは思わず一歩引いた。

 

「黙って歩けよ、荷物持ち! お邪魔虫!」

 

 太い枝の先に無造作に括り付けられた、大人の拳ほどある石を蹴飛ばし、のしのしとヤタカは歩き始める。お邪魔虫は、ただの焼き餅じゃねぇか……笑いを漏らさないよう口の端を引き締めた。

 頬の赤みを引っ込め涼しい顔で踵を返したシュイの、外套の裾がひらりと舞った。

 

 

 シュイと馬鹿なやり取りをしながらも、わたるの側に置いてきたイリスや、横穴の入口で折り重なって倒れた二人のことが頭から離れない。

 二人は結局ヤタカを仲間に差し出せなかった。逃げるのを止めないとはいっていたが、ここまでのしくじりを、仲間があっさり見逃すだろうか。かといって、眠り薬を打ち込んだシュイを責めるわけにもいかない。シュイのおかげで助かったのは事実なのだから。

 

「おい、早く歩けよ。飯を食わないですっとんできたから、腹へってんだよ」

 

 振り返ったシュイが唇を尖らせる。

 

「ちゃんと歩いてるじゃないか。おまえが急ぎすぎなんだ……あっ」

 

 がくりと膝が折れた。

 

――そうか、薬の効果が切れたらしいな。

 

 何とか立ち上がろうとしても、力の抜けた膝から這い上がる寒気に体が震え、腕で体を支えていることさえままならなくなった。

 

――飲み過ぎた薬は、副作用もでかい。くそ

 

「どうした? 大丈夫かよ?」

 

 目を丸くしたシュイが駆け寄り、ヤタカの体を立たせようと、まだ小さな手に力を込める。

 

「シュイ、俺はしばらく動けそうもない。先にご主人の所へ戻ってくれ」

 

 震える手で懐から小袋を取りだした。

 ゲン太がイリスの為に必死に運んだ薬の残りを、半分に分けたもの。

 

「この中の薬を傷に塗って、貼り薬を当てろ。薬も飲ませるんだ。そうすれば、ご主人はすぐに良くなる。大丈夫だ、良い薬だから」

 

 手にした小袋と震えるヤタカを見比べ、シュイはおろおろと腰を浮かせる。

 

「具合が悪いなら、おまえが飲めよ。すごく利く薬なんだろ?」

 

「駄目だ。俺は、薬の飲み過ぎなんだ。どんな良薬も、今口にすれば毒と変わらない。だから遠慮せずに持っていけ。あとで、迎えに来てくれよ」

 

 この地下道の道はわからないからな―――

 

 ぎゅっと拳を握りしめたシュイは、強く頷いて立ち上がった。

 

「宿屋あな籠もりに、何か使えるモノがあるかもしれない。直ぐに戻って来るから、ここから動くなよ」

 

 小さく頷いて、ヤタカはごろりと身を横たえた。

 小さな蝋燭の灯りと、竹筒の水を残してシュイは全力で駆け出した。

 シュイの背中が、地下道を染める闇の向こうへ消えて行く。

 

「来るなら三日後でいいぜ、どうせしばらく動けねぇ」

 

 わたるはヤタカが戻るまで日数がかかっても、約束を守ってくれるだろうか。もともと陽炎みたいに虚ろな約束だというのに、ヤタカは心からわたるに願った。

 天に舞い上がったヤブカラシを思い出す。

 

――あの世に連れていくなら、俺にしてくれ

 

 届かない願いだとしても、今は祈らずにいられない。

 意識が途切れてはぼんやりと瞼を開ける、その繰り返しだった。

 目を開けるたび、シュイが残してくれた蝋燭が短くなっていく。二日酔いの朝に似た喉の渇きに襲われたが、水の入った竹筒に手を伸ばすことさえできなかった。

 

 数えられないほどの出口と繋がっているせいか、この地下道には緩い風が吹き込む。

 横たわったままのヤタカの長い前髪も、さらさらと流されて目元にかかっていた。

 長い前髪が邪魔だと、笑いながらわしゃわしゃと掻き上げてくる、イリスの冷たい指の感覚が蘇る。

 

――イリス

 

 最後に見たのはわたるの側に横たわる寝顔だった。笑った顔を、もう一度見たい。せめて、最後に目にするのは、笑顔がいい。

 体内で混ざり合った毒と薬草の効力など、もやはヤタカにも想像がつかない。

 痺れが増すたび、最悪の結末が頭を過ぎる。

 ヒトデのように蝋を垂らして短くなった蝋燭の灯りが、吹き込んできた空気に消えた。 張り巡る迷路の端に位置するのか、通路を照らす灯りは見えない。

 失われつつある体の感覚が、暗闇と自分の境目を曖昧にする。

 

――水の器がヤケに静かだ。まだ死なないということなのか? それとも

 

 定期的に大量の水を必要とするヤタカにとって、喉の渇きは致命的だ。

 空腹よりも、直接的な死を感じる。

 

――ゲン太は無事にイリスの元へ帰れただろうか

 

 死の匂いが濃くなるにつれて、思い出すのは他人のことばかりだった。

 

――あいつは無茶するからな、枝に引っかけて鼻緒が切れていないといいが

 

 どうでもいいことばかりが頭に浮かぶ。

 必死に山道を駆け下りる、ゲン太の姿を瞼に浮かべた。暗い瞼の裏でゲン太が転ぶ。

 それでも、あいつは諦めたりしないだろう。

 目を閉じたまま吐き出す息も浅くなったとき、うっすらと瞼を通して光が見えた。

 

「シュイ?」

 

 せっかく来てくれても、無駄足だったな……ぼんやり目を開けたヤタカは、大きく見開くことさえできなくなった目に、驚きの色を浮かばせた。

 この場から逃げ出すことは叶わない。

 顔を背けることさえ。

 通路の天井から垂れ下がり、ヤタカの目前で光を放っていたのは。

 

――異種か?

 

 茎も葉も、閉じた蕾さえ白い光を放っている。鼻先まで迫った蕾が二三度震えたかと思うと、ゆっくりと開花し始めた。

 その大きさはヤタカの顔と変わらない。

 サボテンのように実の厚い花弁は、まるでそよ風を受けた柔らかな野花のように揺れている。

 迫る恐怖と同時に、ヤタカはその花を美しいと思った。

 開ききった花びらの、中央に位置する花柱が伸びる。花柱の周りに王冠のようにひしめくやくに付いた花粉が、花が震えるたびぱらぱらとヤタカの顔に舞って落ちる。 

花柱はゆっくりと、ヤタカの顔を探すように身をくねらせ近づいてくる。

 

「かっ!」

 

 花柱が、ヤタカの鼻の中へ押し入った。ぬめる花柱が鼻の奥を過ぎ、喉の奥深くへ侵入していくのを、ヤタカは為す術もなく、ただただ苦しみに耐えるしかなかった。

 貫くかと思うほど体の奥まで侵入しつづけた花柱が、ぴたりと動きを止めた。

 揺れていた花びらも、次の風を待つようにしんと静まりかえる。

 

――花の色が

 

 白い光を放ちながら咲く分厚い花びらが、中央から斑に色を変えていく。

 赤、紫、青、黄色、毒々しいまでに混沌とした色が、花びらの先まで色を変えた。

 花が役目を終えたように、ヤタカの顔から離れていく。

 中央から伸びる花柱は、吸い上げる何かに所々を膨らませ、花びらへと送っていた。

  突然引き抜かれた花柱に、ヤタカは反射的な吐き気に口を押さえ、俯せに転がった。

 

「体が、動く」

 

 手を広げ、指の滑らかな動きを確かめる。

 ざっと尻で後退ると、ヤタカを見つめるように花が動いて顔を向けた。

 

 

「それは!」

 

 いつの間にかすめ取られたのか、白く光る葉の先に、幼なじみに押しつけられたぐしゃぐしゃの紙が、広げられてぶら下がっていた。

 用心しながら近寄ると、そこに書かれていたのは六つの名前。人の名、そうではない名。意味がわからないままヤタカが紙に見入っていると、縦書きの文字の間に黒いシミが広がった。鼻先に、焦げ臭ささが届く。

 

「待て! 燃やすな!」

 

 ヤタカの静止の声が届くことはなく、葉に跳ね上げられた紙は、空中を舞いながら真っ黒な煤と化した。ぱらぱら降り注ぐ燃えかすを手で受け、言葉もなくヤタカは異種の大きな花に咎めるような視線を送る。

 

「なぜ、なぜ助けた?」

 

 この異種に言葉が通じるかはわからない。それでもヤタカは語りかけるのを止めない。

 

「この紙に書かれた名は、どんな意味を持つ?」

 

 花は答えない。ヤタカから吸い上げた毒の色が完全に混ざり合い、花びらは濃い紫色の光を放つ。

 

「おまえは、誰の味方だ? 俺に、どうして欲しい」

 

 大きな花を支えていた、茎の根元が天井から剥がれ落ちる。切られた縄のように撓んだ茎の重みで、花は地面にべしゃりと落ちた。

 美しいとさえ思った光が薄れ、分厚い花びらがばらばらと乾き砕けていく。

 元の長さに縮んだ花柱の先で揺れる、柱頭がぽとりと首を落としたのを最後に、ヤタカは再び暗闇に包まれた。

 

「身代わり草……まさかな。助けられる理由がない。それにこいつは、お伽噺だ」

 

 体の痺れも痛みもない。手探りで探し当てた竹筒から、一気に水を飲み干した。

 燃える寸前に記憶した、六つの名前が頭を廻る。

 体を蝕んだ毒よりも遙かに嫌な後味に、ヤタカの思考はぴりぴりと音を立てそうに痺れていた。

 六列に分けて書かれた名前の列。

 先頭にあったのは見知らぬ名字で、その後に続く三文字がヤタカの不安を駆り立てる。

 

 火隠寺 わたる

 

 まだ残る、紙が燃えた煙の匂いが、誰かを弔う線香の香に思えて、ヤタカは両手で顔を覆った。

 

 

 




 読んで下さった皆さん、のぞいて下さったみなんさん、ありがとうございます。
 今回はちょっと長め……。
 次話もお付き合いくださいませ。
 では!

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