キリキリキリ
囁きに似た鳴き声に、蹲って横たわるヤタカはうっすらと目を開けた。
波打つ花紅虫の群れに囲まれた光景は、違う状況であれば幻想的な美しさに見とれるほどのものだった。
体に異常がないことを確かめ立ち上がったヤタカは、丸く囲む桜色の壁をそっと指先でなぞってみた。柔らかくともその先への侵入を許さない反発が続く中、滑らせる指先でふと緩む場所があることに気付いたヤタカがそっと腕押しすると、道を示すように花紅虫の群れが道を空ける。通路として開けた先にも桜色の壁はあるが、ヤタカの歩調に合わせて先へと進路を広げていく。
どれくらい歩いただろう。
先へ道を開くことを止めた花紅虫が行く手を阻み、ヤタカは再び桜色した円柱状の壁に囲まれた。
咽せるような桜の香りが増すと同時に風が巻く。
キリキリキリキリ キリキリ
一斉に鋭く鳴く花紅虫。
花紅虫の織り成す壁が一気に爆ぜた。
空中に散った花紅虫の、淡い桜色の光が徐々に失われていく。役目を終えて息絶えた花紅虫が床に散らばり、瑞々しく柔らかな桜色の羽が、息をかけただけで砕けそうに乾き切った枯れ葉色に変貌を遂げていく。微かな光原を失い、ヤタカは平衡感覚さえ曖昧にさせる漆黒の闇に包まれた。
摺り合わせた指先が、ずるりと血にぬめる。
ぽしゃり
静まった暗闇に血が落ちる音が反響して、ヤタカの足元に七色に光る水たまりが姿を現した。よくよく見れば、水とは異質のものだった。森を飛び交っていた光の粒が一所に集まったようだと――ヤタカはそう感じた。
足を持ち上げると、足先から光の雫が垂れた。落ちたそれは、七色の水面に美しい水紋を広げていく。
指先の傷から血の珠が、ぽとりぽとりと落ちていく。
その度に、鈴に似た美しく高い音を立てて広がる水紋はヤタカが左手で零れる血をせき止めても、内から外へ広がる動きを止めることはなかった。
押さえていた左手を離すと、溜まっていた血がたらりと流れ落ちた。光の水面が震え、堰が外れたように一気に床一面に広がっていく。
「ここはいったい」
ヤタカが立っていたのは円柱状の空間。周りを囲む岩壁に人の手で造られた石垣の精巧さはなく、自然に生みだされたままの岩が大小積み重なり、起伏の激しい壁面をつくりだしていた。
奇跡に近い組み合わせで、一分の隙もなく積み重なる岩。人の叡智のなせる技ではないだろう。
床に淡く広がった七色の光を、まるで呼吸するかのように岩の壁が吸い上げる。
吸い上げられて薄く光る白銀に色を変えた光は、薄暗い闇に隠されていた鉱石をちらりちらりと輝かせた。
止まることなく流れる血を押さえてヤタカは静かに拳を握りしめる。ほんのりと照らし出された空間を見渡すと、今立っているのとは反対側に大人一人が通れる大きさの横穴が、ぽっかりと黒い口を広げているのが見えた。
「あそこから入ってきたのか?」
たとえ御山に呼ばれた者であっても、この場所は教えぬ――黒い横穴が無言で語っている気がした。
淡く白銀を纏った岩肌は、障子を透かして天井に映る庭の池を見ている様に、ゆらりゆらりと光の水面を揺らす。白銀に溶け込んでいた異質な影の筋が、幾本も身をくねらせ一点に集まりはじめた。中心点に寄せる影は幾重にもなり、やがて赤く揺れる丸いひとつの点となる。
「血の色だ」
傷口を包み込んで握られた、ヤタカの拳がふっと緩む。
手の平に溜まっていた血が、たらたらと床に零れ落ちた。
「いったい何が起ころうとしている?」
床に落ちたヤタカの血が欲しいと言わんばかりに、白銀に光る岩壁で揺らぐ赤い点がぶわりと身じろぎ、光の水面が怪しく揺れた。
赤い点に呼応して心臓が跳ねあがる。
「くそ」
まるで熱を帯びた無数の鉄線が心臓から腰へ肩へと這い進むような、ぞわりとした感覚にヤタカはぶるりと身を震わせた。
「羽化した……か」
赤い点の揺らぎが、おいでおいでとヤタカを呼び寄せる。
一歩、また一歩とヤタカが足を進めるたび、赤い点を中心に水紋が広がり、その輝きをどんどん増していく。森で見た色取りどりの光の粒が、針の穴ほどの小さな身を浮かばせては消えていく。
熱を帯びてヤタカの体内を進む無数の尖端が、肩口を過ぎて腕へと這い降りる。眉を顰めたヤタカは、ざっと袖を捲り上げた。
細くとも筋肉で固められたヤタカの腕に浮く血管が、まるで内側に赤紫の管を通したように色を変えていく。血液の流れに呑まれることなくゆっくりと這い進むモノは、青みがかった血管を毒々しい赤紫に変えていた。あの日、自分の血が葉脈を染めたと同じ赤紫に、ヤタカは訝しげに眉根を寄せる。
「出口を探している……といったところか」
体内を目に見えぬ微細な虫が這い進む気味の悪さと共に訪れた、酸欠に似た目眩にふらりと足元をぐらつかせ、ヤタカは不快感を露わにチッ、と舌を鳴らした。
深く傷つけた指先から血が滴るたび、それを迎えるように水紋を広げる赤い点が、ヤタカがすべきことを無言の内に伝えてくる。
役目を背負う者の第六感、あるいは霊感にも似た本能。
「そんなに呼ぶなよ。逃げやしない」
ヤタカは血に湿った指先を、白銀の岩肌で揺れる赤い点の中心に押しつけた。
どくり、と心臓が飛び爆ぜヤタカは一瞬息を詰まらせた。。
既に手首を過ぎて手の平、手の甲の太い血管を染め上げた赤紫は、毛細血管を支配しヤタカの指先を完全に変色さていた。
指先から一滴、また一滴と赤紫の血が溢れ出す。微細な虫を含んだ赤紫の血を舐め取るように赤い点がぶわりと揺らぎ、岩壁を覆う光の水面に、森で騒いでいた色取りどりの光の粒が一斉に跳ね上がる。
赤い点に舐め取られた血は、光の粒が舞う岩壁を蛇行しながら昇っていく。ヤタカの手が届かない高さまでゆっくりと昇っていった赤紫の筋は一度大きくのたうつと、一気に斜め上へと駆け上った。
思案するように動きを止めた赤紫の筋は、するすると下降し、意思を持った文字列となって垂れ下がった。
光の水面に揺れる文字列を、ヤタカははっきりと覚えてた。寺に出入りする者の集めた情報を、晩年の素堂はヤタカの目の前で巻紙に記することがあった。痺れた足をこっそり擦りながら、達筆な素堂の筆跡を目で追い、一文字も漏らすまいとヤタカが記憶したものだった。
体内に仕込まれた虫の正体は解らない。この場を訪れたなら、ヤタカの意思には関係なく必要な記憶を性格に抜き取り御山へ収める。おそらくはそれが赤紫に血を染める虫の役目なのだろう。
花紅虫と同じように、役目を終えたなら誰の目に触れることなく羽化してからの短い命を終えていくのだろうか。
「素堂のじっちゃん。これで、これでいいのか?」
答えてくれ、そう胸の中で叫ぶ。
舐め上げられた赤紫の血が昇り、さらさらと次の文字列が垂れ下がる。それを待っていたのか、最初の文字列は直ぐ近くの岩の合わせ目に呑まれて消えた。文字列を呑み込んだ岩と岩の間からたらりと吐き出されたヤタカの血が、白銀に溶けることなく赤い染みをつくった。
「確かにこれじゃ終わらないな。一日あっても足りやしない」
桜色の花紅虫が舞う隙間から見えた、イリスとわたるを掠めた黒い影が、ヤタカの心に不安の暗雲を立ち籠めさせる。。
焦ってどうなるものでもない。解っていても、こめかみにじわりと冷たい汗が浮く。
ヤタカは懐に手を入れ、ゴザ売りに渡された棒アメを三本取りだした。
『御山に入ったら、赤いアメを口に入れて噛み砕け』
ビー玉みたいなアメをちらりと見て、ヤタカは赤いアメの棒を口の中に突っ込み奥歯で一気に噛み砕いた。
ヤタカの血に紛れて這いずり回っていた虫が、一瞬動きを止める。
「うがっ!!」
肺の空気を一気に吐き出して体を折ったヤタカの口から、白い泡が飛び散った。反射的に痙攣した手に弾かれて、握っていた残りの棒アメがばらけて床に転がる。
全身の血が一気に指先へと押し寄せる圧迫感に、思わず手首を押さえたヤタカの目の前で、指先だけに留まっていた変色は、あっという間に手首の上まで広がっていく。
手の甲は細々とひび割れ、その様は干ばつに捲れ上がる大地を見ているようだった。
胃の奥から再び迫り上がってきた白い泡を吐き出し、腰を折って咽せるヤタカの肩は激しく上下したが、それでも右の人差し指は赤い点にぴたりと張りつき離れない。
けして、ヤタカが弱いわけではない。
人の力でどうにかなるものではない……ただそれだけのこと。
「体に力がはいらない。くそったれが!」
耐えきれずに膝を折ったヤタカは、赤い点から離れない指先を高々と上げたまま、腰までは落とすまいと震えて噛み合わない歯を食いしばる。
血走って歪む視界で見上げた光景に、一瞬痛みを忘れて放心したヤタカは、白い泡と共に大きく息を吐き出した。
もはや文字列の間に、産まれては呑まれるというリズムも間隔もありはしない。
糸状の滝と化した文字列は、読み取ることもできない速さで産まれては岩間へと呑まれていく。
それほど多量の血を失ったわけではないというのに、体の感覚はあやふやで、首をもたげ続けることさえ難しかった。
「黄色いアメが必要な理由はこれか……」
項垂れたヤタカの思考に、なぜ自分はここにいるのか、と言葉にしたことのない疑問が浮かんだ。
記憶を受け渡すために必要な、羽化する虫が体内に仕込まれていることさえ、ゴザ売りの男に聞くまで知らなかった。目にするまでは、半分疑っていたことも事実。
だが、経験したことを否定はできない。
誰が仕込んだのかも解らない。
長い寺の歴史の中、この役目を受けるのは自分が初めてではないだろう。寺にゆかりのある者から、一定期間ごとに誰かが選ばれ、同じ経験をしてきたのだろうか。
心の奥底に閉じ込めてきた寺への疑念が、もろい泡となって意識の表層に浮かんで弾け、疑いという名の浅黒い染みを心に残す。
ゴテ師と野草師さえ、ヤタカが信じてきた姿が紛い物だとするなら……。幼なじみへの拭えない猜疑心を抱えたまま、ゴテと野グソの顔が浮かべた。
ヤタカの心に反して、思い出したのは幼なじみの見慣れた明るい笑顔だった。
「このままじゃ意識が飛ぶ」
余計な思考は知らない内に意識を奪う。酸欠に陥った脳にとって、己の内に沈む思考に溺れるのも、気を失って夢を見るも同じこと。
――ゲン太、イリスとわたるを……
膝を着く床と自分の境目さえ曖昧になりかけたとき、ヤタカの体重全てを支えていた指先が、不意に赤い点から解き放たれた。
どさりと床に仰向けに崩れ落ちたヤタカの目の前で、記憶を記する最後の文字列の尾が、するりと岩の隙間に吸い込まれる。
岩壁を内から照らす、白銀の光さえ呑み込んで最後の一文字が消えた時、岩に囲まれた空間は真の闇に閉ざされた。
痺れが体から抜けるのと引き替えに、内臓を竹刀で打たれるに似た重い激痛が体内を駆け巡り、ヤタカは呻いて体を折り曲げる。
今は痛みだけが、ヤタカの意識を繋ぎ止めていた。
たとえ砂一粒程度の光でも、視覚を通して人の感覚は保たれる。
それさえない真の暗闇は、人の平行感覚を想像以上に狂わせ、己と空間の境目さえ曖昧にする。
不意に床に投げ出され、自分の頭がどの方向を向いているのかさえ解らなくなったヤタカにとって、最後の文字が吸い込まれた岩壁がどの辺りだったかなど、断定できる筈もない。ましてや転がって散った棒アメの在処など……。
「アメ……アメはどこだ?」
痛みに歯軋りしながら、辺りの床に手を這わせる。
『黄色のアメを噛み砕け。動かない体も、無理矢理に動かせるはずだ』
ゴザ売りの男がいった言葉。
羽化して血液と共に流れ出た微細な虫は、必要の無くなった宿主の体内に歓迎しかねる置き土産を置いていったのではと、推測がヤタカの脳裏を過ぎる。
痛み以上に厄介なのは、関節から徐々に全身へと広がりはじめた猛烈な痺れだった。
この場から逃げる間もなく侵食する痺れの中、まだ辛うじて自由の利く左手を動かし、どこにあるかも解らないアメを必死に追い求めた。
どれほど手を這わせても、肌に感じるのはうっすらと積もる砂のざらつきだけ。
左手にも痺れが回りはじめ、血が出るほどヤタカが唇を噛んだその時、顔の横でカラリと乾いた音がした。
息を詰めるヤタカの顔に、周囲に、ぱらりぱらりと岩の欠片が落ちては当たる。
――崩壊し始めている
宿り主の肉体が命の危機に晒されているというのに、水の器は身じろぎもしない。辺りに水気がないからなのか、あるいは虫の置き土産が、水の器にまで及んだのか。
辺りに響く音はどんどん大きくなり、剥がれ落ちる岩の粒が大きくなっていることを
知らせていた。
――棒アメを見つけたところで、こう暗くては色の見分けがつかない
ゴザ売りの言葉と、アメの効力に嘘がないことは証明された。だとするなら、紫の棒アメを口に含めば、ヤタカの命は確実に失われる。
それでもいい。せめて半々の確率に賭けるチャンスが欲しかった。
棒アメを求めて彷徨うヤタカの手に、尖った岩の欠片とは違う感触がことりと落とされた。はっとしてそれを握りしめたヤタカは、痺れる腕を引き摺って手にした物を鼻に引き寄せた。
ほんのりと薬草の青臭さを纏った、甘い香りが鼻孔をくすぐる。
誰か居るのかと疑ったか、構っている猶予はない。
それほど時間をかけずに天井は崩れ落ち、ヤタカは大岩に潰されるだろう。
――賭けるしかない
ヤタカは握りしめた棒ごとアメを口の中に押し入れ、躊躇することなく奥歯で一気に噛み砕いた。
――イリスの好きな、花の色と同じであってくれ
目を閉じて強く願う。
砕けたアメの中から、どろりとした苦い液体が溢れ出す。
「がふっ!」
意志とは関係なく、鷲爪のように指が張る。食道を流れ落ちる液体が胃へ辿り着いた途端、内から炎で焼かれたような痛みと衝撃に、ヤタカの体が跳ね上がった。
ひゅうひゅうと全身で息を吐くヤタカの頬を、大きさと重さを増した落石が打つ。
「くそ、いけるか」
度を過ぎた痛みは諸刃の剣。痺れが薄らぎ体の感覚が戻ると同時に、白い泡を吹いた時に勝る激痛が、ヤタカの意識を押し潰そうと暴れ回る。
「出口はどっちだ!」
ぜいぜいと息を荒げながら四つん這いにはなったものの、通路の方向に見当さえつかなかった。壁伝いに探すしかないのかと思った時、雨のように床を打つ落石の音に混じって、異質な音が響いた。
ガラン カン
幻聴でも構わない。ヤタカは希望に目を見開いた。
「ゲン太? ゲン太なのか!」
叫んだヤタカの耳に、今度ははっきりと聞き慣れた音が響く。
カカン カラ カラカン
焦り怒ったように、激しく木肌を打ち合わせる音が響く。ヤタカは力の入らない太ももを思い切り拳で殴り、こっちへ来いと呼ぶ下駄の音に向かって一気に駆け出した。
「痛みには強えーんだよ! くそったれが!」
毒草に触れて腫れ上がり、爛れた体を抱えて泣いた痛みを忘れてなどいない。
震える唇を噛みしめ、それでも泣き声を上げなかったのは、イリスに情けない姿を見られたくなかったから。イリスに心配そうな顔をさせたくなかったから。そして、笑っていてほしかっただけ。幼くとも、男の意地がそうさせた。
「ゲン太! 走れ!」
声に弾かれて走り出したカラリ、カラ、カラリという音だけを頼りにヤタカは走った。
拳くらいの岩の欠片があちらこちらに転がっていて、何度も足を取られ手をついては立ち上がる。
カカカカカン
立ち止まって高く打ち鳴らされた下駄の音にはっとしたヤタカは、一か八か音を目掛けて飛び込んだ。
頭から滑り込んだヤタカは、膝を抱え込んで身を縮める。暗闇の中、激しい振動と共に響き渡った轟音が、駆け抜けてきたばかりの空間を、崩れ落ちた天井の岩が埋めたことを教えてくれた。
しんと静まりかえった中そっと足を撫で、潰れていないことにほっと息を吐く。
体を起こして手を伸ばし、通路へ飛び込んだ入口が崩れた岩ですっかり塞がれたことを確認した。
火事場の馬鹿力を使い終えれば、痛みは当たり前のように蘇る。
「おぇ、うぇ、げほ!」
突然込み上げた吐き気に、ヤタカは胃液ごと全て吐き出した。胃液が喉に張りつき、口の中に特有の苦みが広がる。
暗闇で腰を下ろし背後の壁に凭れて目を瞑る。ヒンヤリとした岩の感触が、限界を越えた体に染みていく。
胃の内容物を吐き出すと同時に、徐々に激痛が和らぎはじめた。
「すげぇな……痛みが引いてきた」
痛みが引くと同時に、立ち上がる体力さえ尽きかけていることに愕然とした。
「ゲン太だろう?」
カラン
疲れ切ったヤタカの口元に、微な笑みが浮かぶ。
「どうしてついてきた? あいつらを頼むっていったのに」
返事の代わりに、バシリと音を立てて下駄の歯がヤタカの頭を蹴り飛ばす。
「痛いって……死に損ないにすることかよ……この……クソ下駄」
くくく、と力なく喉を鳴らしてヤタカが笑う。
「ゲン太、道は解るか?」
カラン
下駄の歯をひと鳴りさせて、カラリコロリとゲン太が先を行く。
左手で膝を押さえ、右手を壁に当てながらゆっくりとヤタカも歩き出した。
ない体力なら後から利子を付けて払ってやる、と自分の体に言い聞かせる。思い浮かべるイリスとわたるの顔が、ヤタカの足に力を与えた。
なにより、
――クソ下駄の前で、歩けないなんて弱音を吐くくらいなら……死んだ方がまし
胸の内の呟きに、にやりと口の端を上げたのも束の間、すぐに歯を食いしばり少しずつ歩調を早めた。緩慢な動きだが、今はこれが限界だ。
壁に手を這わせて進む中、脇道が幾つも存在していることに気付いたヤタカは首を傾げる。
「ゲン太、本当にこの道で合っているのか?」
カカカーン
黙ってついて来いというのだろう。
湯気がでそうなほど、鼻緒を三角に立てるゲン太の姿が目に浮かぶ。
イリスを思って、今すぐにでも駆け出したいのはゲン太も同じ。動けるというのにヤタカの歩調に合わせているゲン太の方が、余程に辛く焦りは増しているのかも知れない。
「あの時、飛び込んできた影はおまえか。ありがとな……て、いってぇ!」
わざと蹴り上げられた小石が、ヤタカの額にぱしりと当たる。
額を撫で苦笑しながら、ヤタカは心の中でイリスとわたるに思いを馳せた。
―― 無事でいてくれ
痛みが引けば、削がれた気力も少しは戻る。
「ゲン太、もう少し急ごう。俺なら大丈夫だ」
カラン
歩調を早めるヤタカの目には、闇に光る獣に似た鋭さが宿り、閉ざされかけた未来の先を真っ直ぐに見据えていた。
読みに来て下さったみなさま、ちらりと覗いてくださったみなさま、ありがとうございました!
固めお話が続いたな……
では!