ボーダレス ホルダー   作:紅野生成

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21 花紅虫

 

 この日は朝から森の様子が違っていた。

 からりころりと、いつもより力ない音をたてるゲン太の横を歩きながら、ヤタカは自分が必要以上に口数が多くなっていることに気付き、胸の内で舌を打つ。

 凝視した先に見えるのはいつもの森だというのに、視界の端に光りの粒が流れていく。

 昼間に見えたことなどなかったというのに。

 やつらはまるで木々がつくり出す僅かな陰りを渡るように、ちらりゆらりと飛び交っていた。

 

「もう春も終わりだね。布を厚手のものに変えないと駄目かな」

 

 口を尖らせながら、目元の布をイリスが指先で突く。

 

「色気のない布だよねぇ。どうせ巻かなけりゃいけないなら、年相応にかわいらしくしちゃどうだい? そうだ、こんど花の刺繍でもしてあげようか? こう見えて手先は器用なんだ」

 

 胸の前で嬉しそうに手を組み合わせたイリスがぴょんと跳ね上がる。白い歯を見せて笑ったかと思うと、両腕を広げてわたるの首に抱きついた。

 逃げる間もなく腕を垂らしたまま、目を見開くわたるの肩に頬ずりしたイリスは、ぎゅっと腕に力を込めて肩の上にとん、と頬をのせる。

 

「ありがとう、わたる姉。黄色いお花がいいな。太陽をいっぱい吸い込んだ色でしょう?」

 

 わたるの目元が優しく緩む。細い指先が、イリスの髪をそっと撫でた。

 

「黄色いお花……わたる姉みたいに、太陽の下で咲くことができるお花って素敵」

 

 囁くような独り言にも似たイリスの声に、わたるの睫が伏せられる。

 

「残念ならが、あたしはせいぜい赤を垂れ流す彼岸花だねぇ。艶やかに見えて、寄り添えるのは死体だけ」

 

 顔を離したイリスが、きょとんとして首を傾げる。

 はっとしたように、わたるは口元に笑みを浮かべた。

 

「腐っても、あたしは医者だからって意味さ」

 

 そっか、と頷いてイリスはわたるから体を離した。

 

「ゲン太、どこかで美味しい匂いがしている。桜餅? 行くよ!」

 

 慌てて駆け出すゲン太を目で追いながら、わたるは自分の肩にそっと手を当てた。

 無邪気にのせられた、イリスの頬の感触と体温が残る肩。

 柔らかな筈の温もりに、まるで焼きゴテを当てられたかのようにきつく目を閉じ、わたるは爪の先を己の肩口にぐいと食い込ませた。

 

 

 最後尾を離れて歩くヤタカは、二人のやりとりに気付くことなく、視界の隅で泳ぐ光りの粒に意識を集中していた。

 

――数が増えている

 

 僅かな影を渡り泳ぐ光りの粒。闇に閉ざされたなら、いったいどれほどの数になるのかと思うとぞっとした。

 わたるがいうように御山が呼んでいる、というなら自分が行くべき伊吹山に近付いている印なのだろう。

 伊吹山でヤタカが成すべきことはただひとつ。寺で詰め込まれた知識を、残らず伊吹山に記すること。少なくとも、慈庭にはそう教えられた。

 方法は聞いている。

 

『呼ぶ木あらば、呼ぶ草あらば、それらを使って指先に深く傷をつけるがいい』

 

 慈庭はそういった。

 問題はその方法で何がどうなるのか、ヤタカには教えられていないこと。もしかしたら、慈庭さえ、その先は知らなかったのかもしれない。

 

 大きく頭を一振りして、ヤタカは道の先を大股で歩きだす。

 俯き加減のわたるを追い越し、妙な節をつけて桜餅を連呼するイリスも追い抜いた。イリスの横を歩くゲン太の足音は心なし不揃いで、からん、ころころからんと街道に鳴り響く。酔っ払っているのかと疑ったが、どうもそうではないらしい。

 

「まぁ、クソ下駄なんざどうでもいいさ」

 

 わざと聞こえるようにいったのに、ゲン太は鼻緒をむきっと三角に立てることもせず、心ここにあらずといった様子だった。

 

「ない頭で、何を考え込んでいるんだか」

 

 溜息ひとつ吐いて、ヤタカは大股で街道をいく。イリスの口ずさむ桜餅という言葉の意味が、香となって街道の遠くから風に乗って流れてきた。

 

「桜の香りだ」

 

 桜の盛りはとっくに過ぎた。

 本来ならまだ満開に咲いていてもおかしくないが、咲き誇った桜の花に挑むように吹いた数日前の春の嵐が、桜色の花びらを無残に散らしてしまったのはこの辺りも変わらない。

 その証拠に花見を目当てに遠方から足を運んできた旅人達が、街道のあちらこちらで残念そうに、禿げた桜の木の下で酒を飲む姿が見えた。

 前方の街道にも、見渡せる限りの山々にも桜色の欠片もなかったが、ひとっ所に桜の花びらを集めたみたいに、濃い香が鼻孔をくすぐる。

 その香に酔ったかのように、木陰を飛び交う光りの粒はよろよろと数だけを増し、ちらちらとたなびく薄衣のように折り重なっていく。

 

「ヤタカ、ちょっと待って。石を跳ね上げちゃったのかな? 足首の辺りに小石があるみたい」

 

「ドジだな」

 

 わたるの肩を借りて小石を取り出そうと奮闘するイリスを横目に、ヤタカはゆっくりと歩き出す。離れすぎるわけにはいかないが、どうにもこの香が気になってならない。

 

「おっと、大丈夫ですか?」

 

 辺りを見回しながら歩いていたヤタカがぶつかったのは、杖をつき腰の折れた老人だった。近くに住んでいるのか、巾着ひとつ持っていない。灰色の布を頭に被り、端を顎の下で結んでいる。

 よろけた老人の体を支えようと差しだしたヤタカの手が、腕に触れる前にびくりと止まった。

 どこから湧いて出たのか厚い雲の固まりが日の光を遮り、春に染まった街道が、その色を一気に無くす。

 

「ここから先は、引き返せないぜ」

 

声を発したのは、目の前で足元をよろつかせる老人だった。

 ヤタカは瞬時に記憶の糸を手繰り寄せる。

 低くもなく、高くもない。手が届きそうな範囲の者にしか聞こえない。特殊な声は地声とかけ離れ、訓練された一握りの者にしか使えない。

 寺でこの声を使えたのは、素堂と慈庭のみ。

 二人はもう、この世にいない。

 声色は違っても、老いた姿に隠れる男の素顔をヤタカは悟った。

 

「ゴザ売りの男か。屋号は……忘れたな」

 

 耳をそばだてる者の存在を恐れているなら、この男が日頃持ち歩く提灯に入った屋号さえ、今は口にしてはならないのだろう。よろよろと杖を引き摺って、ゴザ売りの男が右へと歩いて行く。その後には、老人が杖を引き摺ってつけたとは思いないほどくっきりと、地面に一本の線が引かれていた。

 

「止められなかった……」

 

 男の喉がうぐっと呻る。

 

「何のことだ? 新しいアメでもつくれたのかい?」

 

 耳をそばだてる者がいても、届くのはヤタカの声だけだろう。

 他人が聞けば飴売りとの会話でも、ゴザ売りの男に真意が伝われば十分だ。

 

「桜の匂いが濃いだろう? 御山の口が開く証拠だ。オレが狙うなら、お前達が引き離される瞬間を逃しゃしねぇ」

 

 ヤタカは戯けた表情のまま、伏せた瞼の隙間から鋭い眼光を男へ向けた。

 

「それなら、アメを買いに来た道を戻ったらどうだろう」

 

 男は小さく頭を振る。

 

「戻ればおまえの血に潜むモノが、羽化してその身を喰らい尽くす。てめぇの命なんざどうでもいいが、嬢ちゃんをどうするよ……。たとえ正面切って寝返っても、オレじゃあ嬢ちゃんを守り切れねぇ」

 

「赤いアメに仕込まれた飾りって……どんなもんなのさ」

 

 ヤタカには、そんな物騒なものを仕込まれた記憶がない。

 

「最近、野草師に血を採取されたことはあるか? その結果を見たか? 葉は何色に染まっていた? 野草師は、顔を強ばらせちゃいなかったか?」

 

 毒を調べるといって野グソが使った葉の葉脈が、毒々しい赤紫色に染まった日を思い返す。

 あのとき野グソは、蔦が自ら毒を調節している……といっていた。

 

「確かに不味い飴だったが、細工が見事でね。ちょっと砕いてみたのさ。だが、アメに流し込んだ細工の質を調べる為だった。別に細工以外の何かがあるとは……」

 

 野草師とゴテ師の本来の生業を、そして更に闇へ埋もれた正体を思った。聞かされた話が本当なら毒ではなく、最初からヤタカの血に潜むモノを調べていたのか?

 どこまで羽化が近付いているか、調べていた?

 まさか……とヤタカは大きく頭を振る。

 

 線を引き終えた男が、腰を叩いて老いを演じる。

 

「血を流さなくとも、羽化する前兆を御山は感じ取る。保持者の汗からは、普通じゃ解らない独特の匂いがするらしい」

 

 ヤタカが作り笑いを拳で隠したとき、背後からイリスの声がした。

 

「ヤタカ、もうちょっと待ってね。まだ何かあって、ちくちくするの」

 

「ゆっくり取りなよ。待っているから」

 

 振り返ったヤタカがいうと、イリスは嬉しそうに頷いてどかりと道に座り込み、わたるは靴の奥を覗いている。

 

「嬢ちゃんを足止めしたくて、ちょっとイガ草の細い毛を仕込んだ。害はないさ」

 

「そうか」

 

 下を向いたまま懐に手を入れ、男が取りだしたのは三本の棒アメだった。

 

「なんだよ、新作を売ってくれるのかい?」

 

 力なく頷く男が、ぐいとヤタカの胸に棒アメを押しつける。

 

「御山に入ったら、赤いアメを口に入れて噛み砕け。羽化したばかりの奴らが嫌うといわれる薬草を煮詰めた液を仕込んである」

 

「赤いアメの味は?」

 

「丸一日かかる知識の放出を、一時間で終わらせる。御山からどれだけ早く出られるかが、嬢ちゃんの生死を分ける」

 

「そんなことまで知っているのか。それじゃ、次はどれを舐めたらいい?」

 

「黄色のアメを噛み砕け。動かない体も、無理矢理動かせるはずだ」

 

「紫のアメの味は?」

 

 まるで本物の飴売りのように、男が曲げた腰のまま頭を下げて背を向けた。

 

「死にたくなったら、水場で紫のアメを噛み砕け。水の器は体を抜けて水へ逃げ込む。おまえは、どんな方法より楽に死ねる」

 

 棒の先についた丸いアメ玉に視線を落とし、顔を上げた時にはすでに、男の姿は消えていた。

 

「ヤタカ、お待たせ!」

 

 イリスの声に、アメ玉を懐に仕舞い込んで小さく手を振った。

 

「迷子ちゃん、伊吹山への道は見つかった?」

 

 いたずらっぽく首を傾げるイリスの頭を軽く小突くと、ぺろりと舌を出して首を竦めた。

 

「イリス、腹が減ったから、あそこの屋台で何か買ってきてくれないか」

 

「いいよ!」

 

「ゲン太、おまえがお目付役だ。買い過ぎないようにしっかり見張ってくれよ」

 

――わかった

 

 ゲン太の気乗りしない返事に苦笑しながら、手で払ってイリスを屋台へ追い遣った。

 ゲン太が感づいていない訳がない。それはわたるも同じだろう。

 

「わたる」

 

「なんだい? わざわざ二人きりになるなんてさ」

 

「今回だけ、わたるを信じたい。いや、信じるしかないんだ。この線を越えたら引き返せないらしい。かといって、戻れば俺は死ぬ。イリスを一人にするわけにはいかない」

 

 土の道に彫られた線にすとんと視線を落とし、わたるは薄い笑みを浮かべる。

 

「いっておくが、一時預かるだけだからね。一生面倒はみられない。戻って来ると約束してくれんなら、それまであの娘さんの側に居る」

 

「あぁ、約束する。一時間だ。一時間で、伊吹山から必ず戻る」

 

 何かいいたげに開きかけた、わたるの唇が結ばれる。

 無言で向けられた視線が、無理だと語っていた。

 

「いっぱい買ってきたよ!」

 

 腕いっぱいに袋を抱えたイリスが、満面の笑みで戻って来た。

 

「こんなに買ったのか? まったく下駄坊主はお役目放棄かよ」

 

 むきっと三角につり上がったゲン太の鼻緒が、物言わずに萎んでいく。

 

「ゲン太、頼むぞ?」

 

 ゲン太の萎れた鼻緒をひょいと持ち上げ、ヤタカは肩で大きく息を吸う。

 

「行こうか。伊吹山へ」

 

 線の向こうへと足を踏み出す。

 じゃり、と音を立てて街道の土が鳴る。

 桜の香りをのせたそよ風が、さわさわと街道沿いの枝葉を揺らす。

 御山に呑み込まれる瞬間まで二人を見失わないように、ヤタカはイリスとわたるの肩に手をかけ、引き寄せるようにして境界線を乗り越えた。

 

 

 ゴザ売りの男が引いた境界線を越えると、ふいに音が消えた。

 風に木葉が擦れ合う音も、イリスが杖を土に擦る音も、気の張りを感じさせるわたるの息遣いさえぷつりと途絶えた。

 

――あれか

 

 真っ直ぐに見通せた筈の街道の真ん中に、桜の木が立っていた。

 春だというのに若葉もひとつも付けず、ささくれた木肌から春の息吹は感じられない。

 二人の肩を抱いたまま、ゆっくりと木に近付いた。

 街道を抜けてきた風が、この世に溢れる音を再びヤタカの耳へ戻してくれた。

 

「頼む」

 

 ヤタカのひと言に、隣でわたるが静かに頷いた。

 

「イリス、伊吹山についたから、野草を集めてくるよ。その間はわたると一緒にいてくれ」

 

「本当に? うん、気をつけてね。迷子ちゃんなんていったけど、取り消す~」

 

 目元を布で隠したままイリスが微笑む。

 地面に下ろすと、鼻緒を微かに振るわせたゲン太をちらりと見て、ヤタカは枯れたように立つ桜の木肌へ手を伸ばした。

 わたるが、ヤタカからイリスをそっと引き離す。

 背後でからん、と下駄の鳴る音がした。

 見えるはずのないこの木を、街道を行き交う人々は自然と避けて歩いている。もしかしたら無意識に人が避けているのではなく、この木が人間を寄せ付けないのかも知れないな、そんなことをヤタカは思った。

 固くささくれ立つ、乾いた木肌の尖端に人差し指を押しつける。

 切れない刃物で抉られたような痛みと同時に、指先から赤い血がつうっと流れた。 

 

「なに? うわ!」

 

 最後に聞こえたのは、唐突に巻き上がった風に驚いたイリスの声だった。

 滑る土の道に前後に広げた足を踏ん張り、風を避ける腕の隙間から枯れたような木を見あげたヤタカは、目を見開き息を呑んだ。

 これほどの風が吹き荒れているというのに、地面の土埃は微塵も巻き上げられることなく、風はゴザ売りの男が使った声のように、自らが影響を及ぼす範囲を正確に定めているかのようだった。

 木を中心に風が渦巻く。

 乾いて浮き上がっていた、ぼろぼろの木肌が捲れ上がる。その様は太い幹から細い枝先へと広がっていく。

 まるで、ぱらぱらと魚の鱗が剥がされていくような光景だった。

 

――これが、花紅虫(かこうちゅう)か……

 

 破片となって飛ばされる無数の木肌。風が乾いた木の皮をぱらぱらと散らす。

 木の周りで舞い吹く風の中に残されたのは、ほのかな桜色を纏う透明な羽だった。蝶のように二枚の羽が優雅に羽ばたく様とは異なり、一枚の花びらが、風の流れに己の行く先を任せているような動き。  

 寺の書物で見た知識。だがそれは、簡素な絵と花紅虫という名が記されているだけで、寺で収集された情報としてはあまりにも詳細に欠くものだった。

 花びらをぷちりとちぎると抜けてくる、細く白い付け根の部分。

 あの小さな尖端こそが、今舞っている虫の本体。

 存在理由は憶測さえ記されていなかったが、実際に目にしたヤタカは、伊吹山と共に在る虫なのだろうと、張り詰めた神経の末端で感じていた。

 枝の周りに渦巻く風が集まっていく。

 はらはらと、はらはらと、重なり合って色を増す花紅虫は現実から解離した、夢で咲く満開の桜そのものだった。

 

 キリキリキリキリ……キリキリ……

 

 互いの羽を摺り合わせ、花紅虫が一斉に鳴く。

 渦巻いていた風が一瞬にして凪ぎ、景色が止まった。

 木を中心に圧縮されつつあった空間が、一気に爆ぜ飛ぶ。

 

「伏せろ!」

 

 飛び散った花紅虫の群れが、ヤタカとイリス達の間に一筋の帯となって流れ込む。

 桜色の隙間から、目元に布を巻いたまま腕で顔を覆うイリスの肩を引き寄せ抱える、わたるの姿が見えた。

 ほんの一瞬、わたると視線がかち合った。

 その背後に、黒い影が数本走る。

 

「逃げろ!」

 

 悪夢のような光景を見せつけるかのように、花紅虫の太い帯がぶわりと穴を広げた。

 日の陰った街道を駆けて押し寄せてきたのは、森の陰で数を増やした光りの粒。

 桜色の花紅虫の羽に、光りの虹が混ざる。

 手を伸ばす隙もなく閉じられたその穴から、飛び込んできたのは一筋の影だった。

 刀の太刀筋にも似た孤を描いて、その影はヤタカの頭部を突き倒した。

 光りの粒を纏った花紅虫が、傾いでいくヤタカの体に纏わり付く。

 咽せるような桜の香りの中ヤタカの目に映るのは、折り重なる淡い桜色の群れだけだった。

 

 

 

 




 読みに来て下さったみなさん、ありがとうございました。
 書き直して書き直して、こんなに遅くなっちゃいました。
 次話もお付き合いいただけますように!

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