ボーダレス ホルダー   作:紅野生成

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2 黒曜石の双眼に惹かれる血

 

 

 寺へやってきて十日が経つころには、素堂の助言も空しくヤタカは岩牢の常連となっていた。岩牢へと放り込まれる理由が、これまたくだらない。

 素堂の座布団の上に蛙をのせた。

 慈庭の茶の中に、苦い草の汁を混ぜた。

 草履を紐で結んで、それを履いた若い僧がひっくり返った……などなど。

 そんな悪戯をしても、ヤタカは顔を合わすたびに寺の者達に構われた。慈庭だけは鬼の形相でヤタカを追いかけ襟首を引きずっては、岩牢へと放り込む。

 若い僧達は慈庭に見咎められないよう、袖に顔を隠してくすくすとその様子を笑って眺めていた。

 

「ほら、夕飯だ。いっそのこと荷物も岩牢に運び込んで、ここで暮らしたらどうかってみんな笑っているぞ? 慈庭(じてい)様も飽きずによく追いかけられるものだ」

 

 夕飯を盆にのせて運んでくれた円大が笑う。

 

「だってさ、掃除や飯炊きの手伝いと痛いだけの山歩きばっかりじゃつまらないよ。どうせ一日中痛いなら、慈庭から逃げ回っていた方が気が紛れるんだもの。あっ、素堂の爺ちゃんは好きだよ」

 

「こらこら、慈庭様、素堂様だろ? 懲りずに呼び捨てにしやがって」

 

 人前では丁寧な言葉で話す円大も、年齢が一番近いこともあってかヤタカと二人きりの時には、少しだけくだけた口調で話すようになっていた。近いとはいっても、五つ六つは離れているのだろう。

 

「野草師の置いていった薬、塗り忘れるなよ」

 

 そういって円大は寺へと帰っていく。

 笑顔で手を振っていたヤタカだが、円大の背が闇の向こうに見えなくなると顔を顰め、なるべく肌を擦らぬように、身につけている作務衣をそっと脱いだ。

 腕も足も赤く腫れ上がり、今日の山歩きで擦った葉のせいで首筋には紫のミミズ腫れが浮いている。一人きりで黙っていると、自然と額に汗が浮く。

 

「こんなに痛いと、塗り忘れるわけないっての」

 

 ヤタカが寺に来て直ぐ、寺を訪れた野草師が置いていった練り薬を水で溶いて肌にかけていく。これがなければ、以前のようにのたうち回るほどの痛みに襲われていたのだと思うと、今の痛みは何とか我慢できるものだった。まんべんなく薬が肌を覆うと、心なし痛みも和らいでくる。

 ほっと息を吐いて、ヤタカは岩牢の柵から小屋が建っている場所を眺めた。毎日のように悪戯を繰り返し、馬鹿みたいに岩牢に放り込まれるにはヤタカなりの理由があった。

 我慢できるとはいえ、誰に気兼ねすることなく痛みに顔を顰め、呻き声を上げられる一人の時間が欲しかったのがひとつ。

 もう一つは、あの小屋に住む人物が出歩く夜にこの場所に居たいから。

 小屋に住む者の名はイリス。ここへ来てから昼も夜も、まるで幸せの呪文のように口の中で呟き続けた名前。

 姿を見せてくれたら、声をかけてみたかった。

 イリスの出歩ける夜だけでも、一緒に遊べたらいいのにと。

 寺のみんなが口にするイリスの話は、あまり明るいものとはいえない。  

 小柄な男の子。話せない子。笑わない子。何を言っても、反応しない無表情な子。

 誰もが同じことを口にする。

 それでも会ってみたいとヤタカは思う。話せないなら自分が話せばいい。大人相手では聞いて貰えないようなくだらない話だって、年が近いイリスならおもしろがってくれるかもしれない。

 月明かりに黒く染まった枝葉が揺れるのをじっと眺め、いよいよ体の痛みに睡魔が勝ろうとしたとき、ヤタカははっとして目を凝らした。

 木々の隙間に蝋燭の灯りがチラチラと揺れている。

 

「イリス? イリスなの?」

 

 思うより先に叫んでいた。横へと移動していた小さな灯りがぴたりと動きを止める。

 

「俺はヤタカ! いたずらして、慈庭に岩牢に入れられちゃったんだ」

 

 返ってくる声はない。

 

「ねぇ、こっちに来ない? ひとりっきりで暇なんだよ。一緒に遊ぼうぜ!」

 

 吹き消したように灯りが消えた。草を踏んで歩く音がしんとした森に響く。

 小屋の戸が閉まる音がして、主を失ったように森の闇が深みを増す。

 

「だめか……顔くらい見せてくれるかと思ったのにな」

 

 かぶれた肌の傷みも眠気も忘れるほどに、ヤタカの脳みそはフル回転していた。

明日からは毎日岩牢に放り込まれなければならない。ということは同じ回数分、新たな悪戯を考えなくてはならないということ。これはヤタカの得意分野だ。

 

「あきらめるもんか。イリスはここで生きていく俺の、ちっちぇーきら星なんだから」

 

 痛みに耐えながら目を閉じて、明日は慈庭の足袋に毛虫を仕込んでやろうと、ヤタカはひとりにやりと笑った。

 

 

 

「ヤタカよ、おまえが岩牢に放り込まれる回数が減れば、あやつらもちっとは楽をできるだろうにのう」

 

 息を詰まらせながら慈庭に引きずられるヤタカを、呆れた笑みで見送るのは素堂。慈庭はといえば、数日ほど前から赤鬼を通り越して青鬼と化している。足袋に毛虫を仕込んだ日には、足首を掴まれ逆さまに担がれたまま岩牢に放り込まれたヤタカだった。たとえ慈庭の顔色が紫に変わろうと、ヤタカは悪戯を止める気などさらさらない。

 最初の夜から少しずつだが、蝋燭の灯りが近寄ってくれるようになっていた。相変わらず返事はなくとも、灯りが吹き消されるまでの時間は確実に延びている。

 数日前からヤタカは、日が暮れると同時にイリスの名を呼ぶことにしている。山々に木霊しないよう抑えた声でも、蝋燭の灯りは必ず姿をみせてくれた。

 

 今日も山の向こうへ日が落ちる。辺りが闇に包まれて、いつものようにヤタカは岩牢の柵にみっちりと顔を押しつける。

 

「イリス、イリスってば。早く出てこいよ」

 

 離れた場所で揺れる灯りに、ヤタカが勝手にしゃべり続けるのが日課になっていた。

 大きな蛍みたいに木々の隙間に灯りが灯る。にこりと笑ったヤタカが、今日は何を話そうかと口を開きかけた時、灯りがゆっくりと近づいて来る様子に、ヤタカは胸が高鳴った。岩牢の柵との間に蝋燭を置いて、目の前にイリスが腰を下ろした。想像していたより、ずっと小さな少年だった。

 

「やっと来てくれた。よろしく、俺はヤタカ」

 

 イリスはこくりとも頷くことなく、真っ直ぐにヤタカを見つめている。柵の隙間から腕を伸ばし、置かれた蝋燭をにぎってイリスの顔に近づけた。体は幾重にも重ねた色とりどりの薄衣で覆われ、手の先足の先までしっかりと布で覆われている。首から頭部にかけては目元を除いてぐるぐると長い布が巻き付けられ、露わになった目元意外、周りの肌は塗られた泥が乾いて灰色にひび割れていた。

 

「夜は太陽が当たらないから、布を外しても大丈夫なんだろ? まあいっか。はじめて顔を合わせるのに、いきなりじゃ照れるよな」

 

 灯りを翳してイリスの顔に目をやったヤタカは、はっと息を呑む。

 体中を流れる血が、イリスに向かって逆流するような感覚に肌が粟立った。

 泥にまみれた灰色の肌の中、真っ直ぐにヤタカを見つめる瞳に心ごと吸い込まれる。大きな目の中でちらちらと灯りを映し出す瞳は、薄暗い中でさえはっきりとわかるほどに濡れたような漆黒。まるで、黒曜石をはめ込んだようだった。

 体の中がざわついて、ヤタカは息を吸うのさえ忘れた。

 

「綺麗な目」

 

 この夜ヤタカが口にしたのはこの一言だけ。あとは過ぎていく時間を、二人はただ向き合って過ごした。

 微動だにしないイリス。

 己の意志では制御できないほどにざわつく体に、ヤタカはひたすら耐えた。この血のうねりが自分の心に起因するものなのか、取り込んでしまった異物がざわついているのか、まだ子供のヤタカに解るはずもない。

 日が昇る直前にイリスは無言で立ち去ると、それを待っていたかのようにヤタカは座ったまま岩の床に倒れ込んだ。

 この日だけは、円大が食事を運んできても、見かねた慈庭が怒鳴りつけても、日が落ちるまでヤタカが目を覚ますことはなかった。

 

 

 

 ひと月、ふた月と時間が経つ内に、イリスは少しずつヤタカとの距離を縮めていった。

 慈庭が更に山深く、獣道さえ見当たらない場所へヤタカを連れ出すようになり、我慢強いヤタカの体も流石に悲鳴を上げはじめていた。

 赤く皮膚が腫れ上がるどころか、接触したことのない植物に擦れた場所は時に爛れ、熱を持って腫れ上がる。

 倍近くに腫れ上がったふくらはぎでは、まともに歩くことさえままならず、山へ入るのは三日に一度、症状がひどい時には七日に一度の頻度となっていた。

 腫れが少しでも退けば、情け容赦なく慈庭はヤタカを山へと連れ出した。山歩きの最中に慈庭に憎まれ口を叩く気力さえ残っていないヤタカが、それでも日々の悪戯を這ってでも止めようとしないのは、寺が寝静まった後止めることのできない呻きを他の者に聞かれないため。その為だけに、岩牢を望んだ。

 

「イリス、小屋に戻って眠りなよ。ここにいてくれても、冗談いってやる元気もないや」

 

 岩牢の中、柵に背を預け膝を抱え、痛みに耐えるヤタカの声は聞こえているのだろうが、今夜もイリスは帰ろうとはしなかった。痛みに耐えられなくなった最初の頃は、こんな情けない姿をイリスに見せたくなかったヤタカだが、今ではすっかり諦めていたし、柵の外でヤタカの背中に寄り添うように背を預けるイリスが、物言わずとも夜明けまで一緒に居てくれることが気持ちの救いになっていた。

 

「ごめんなイリス。明日には痛みも少し引いているさ。そしたらまた面白い話をしてやるからな」

 

 物言わぬイリスが微かにこくりと頷いたのが柵の隙間で触れ合う髪の動きで伝わってくる。イリスがそっと蝋燭の灯りを吹き消し、やせ細った三日月が浮かぶ闇夜の中、冷えた岩の柵越しに背中を合わせたふたりの時間が過ぎていく。

 

 

 年月が過ぎ去っても二人の関係は変わることなく、ヤタカが楽しげにしゃべり、イリスは物言わずにこりともせずに話を聞く。

 ヤタカが十六才になった頃には、岩牢の柵越しでなくともイリスはヤタカの呼びかけに応じるようになっていた。

 すっかり野草の知識を身につけたヤタカは、余程のヘマをしない限り手足を腫らすこともなくなり、イリスが姿を見せてくれるなら無理に岩牢に入る必要もなくなっていた。

 数年前からめっきり悪戯をしなくなったヤタカの成長ぶりに、慈庭意外の寺の僧達は少し残念そうな寂しそうな表情を浮かばせたが、日常の変化が少ない寺で陽気に駆け回るヤタカが、みんなに笑いを振りまいているのは今も変わらない。

 

 相変わらず日に当たれないイリスを尋ねていくのは、寺のみんなが寝静まった夜中と決まっている。小屋を自ら訪ねていってはならないと慈庭にいわれてはいたが、小屋から離れた場所で呼びかけるとイリスが出てきてくれるのだから問題はないだろうというのが、ヤタカの勝手な解釈。事実、慈庭も素堂もヤタカとイリスが頻繁に会っているのは知っていたが、黙認しているのが現状だった。

 

「イリス」

 

 呼びかけると小屋の戸が軋んだ音を立てて、中からイリスが姿を見せた。今では夜にヤタカと会う時、イリスは頭に巻いた布を取っている。それでも顔に塗りたくった泥は決して取ろうとしなかったから、ヤタカはイリスの素顔を見たことはない。

 厚く塗られた泥はひび割れて、必要以上にイリスの顔から表情を奪っていたが、これだけ長い付き合いになると、ヤタカにはイリスの感情の機微が解るようになっていた。

 驚くと左の眉がぴくりと上がり、むくれると小さな唇を僅かに尖らせる。

 おもしろいと感じた時には口を真一文字に結び、小鼻をぴくつかせる。

 見ているだけで面白い子だとヤタカは思っていた。

 理由はわからないが、イリスは故意に人に好かれるのを避けているように思えてならなかった。感情を押し殺し、無表情の面を被るイリスは、本当は感情豊かな子ではないのかと、ヤタカは勝手に思っている。

 イリスがヤタカの隣に腰を下ろす。まるでそこが自分の居場所であるというように、前を向いたまま黙って膝を抱えて座り込む。

 

「今日はね、やっと棚ひとつ分の巻物に目を通し終わったよ。もう目がしょぼしょぼさ。素堂の爺ちゃんの言いつけだからしかたないけれど、倉の中の巻物全てを読むなんて気が遠くなる。しかも内容を頭に叩き込めなんてさ、慈庭は鬼ジジイだ」

 

 膝の上で組まれたイリスの指先がもじもじと動いたのに気付いて、ヤタカはふっと笑う。

 

「ごめんごめん、イリスは慈庭が好きだもんな」

 

 否定したいのか肯定したいのか、もどかしそうに動きを早めたイリス指先を見て、ヤタカは声を上げて笑った。

 

「異種と呼ばれる植物の種が人里に近づくようになって、八十年近く経つんだって。人間が生まれるよりもっと昔から、異種はこの世に存在していたらしいよ。人里離れた深い深い山奥で鳥や虫、獣を苗床として種を繋げてきたのに、どういうわけか人里近くまで種を宿した獣や鳥が下りてくるようになって、人を苗床にするようになったらしい」

 

 夜行性の鳥が羽ばたく音が頭上に響く。

 

「俺も一度だけ見たことがある。隣村で大騒ぎになったからね。五年くらい前から雨が降る日を正確に予測するおじさんがいるって噂になってさ、父さんと一緒に近いうちに長雨はないかと聞きに行ったときだった。そのおじさんは朝、奥さんが庭に出たら家の戸口の前で死んでいたんだ。正確には、まるで人型の苔むした小山があって、そこから見慣れない植物が芽を吹いていた」

 

 いつだって反応のないイリスだが、今夜は体調でも悪いのか陶器の人形みたいに固まっている。あまり聞きたくない話だったのだろうか。

 

「誰だって異種に宿られる可能性はある。でも、俺は異種より毒草のほうが恐いよ。イリスも知っているだろ? 俺には異物憑きだから、異種の種は俺を苗床には選ばない。異物であれ異種であれ、他のモノが宿る個体をあいつらは避けるらしい」

 

 月が傾くまで、ヤタカは色々な話をした。異種の話から話題がそれると、心なしイリスの肩から力が抜けたようだった。いつもはイリスが嫌がる話は避けるのに、胸のもやもやを零すみたいに異種の話をしてしまったことを、ヤタカは少し後悔した。

 

「今日はヤケに喉が渇くな。明日は久しぶりに山に入って植物の分布を調べるから、川の水を飲んで早めに帰るよ。イリスもたまには早く寝な」

 

 軽く手を振ってヤタカは川へと向かった。イリスといると心が落ち着く。それでも時折、イリスが話せたらと思ってしまう。ひと言でもいい、文句でも構わないからイリスが話せたらどれほど楽しかったろうと寂しく思う。

 イリスの側に居ると自分の中で騒ぐ血を、イリスに向かって全てが流れ出しそうな感覚を意識して押さえる術も身に付けた今、尚のこと寂しかった。

 

「はぁ、まだ飲みたいけれど、腹がきつい」

 

 川に突っ込んでいた頭を引き上げ、ヤタカは濡れた黒髪を犬のように振って水を切る。 そのまま石原に仰向けに転がると、片目を隠すほどに長い前髪がぺたりと顔に張り付いた。そよ風が心地よくて目を閉じると、うつらうつらと睡魔に襲われたが、直ぐ近くを流れる水の音と存在に体がざわついて、溜息を吐いて立ち上がる。

 

「相変わらず水の側は落ち着かないな」

 

 川から少し離れた場所で倒木に腰掛け、そよぐ風に髪を乾かす。森の闇夜に溶けそうなほどぼんやりとしていたヤタカは、肩口まで濡れた服に体温を奪われぶるりと身をふるわせた。

 

「久しぶりに部屋で寝るか」

 

 月が細いうちにと言わんばかりに瞬く星を見上げながら、岩牢の前まで戻ったヤタカは倒木を乗り越えようと上げた片足を止め、木々の向こうから響く音に耳を澄ませた。

 

「水の音?」

 

 イリスの小屋の向こう側、山の斜面を下った所に小さな泉がある。こんな夜中に妙だと思った。イリスなら、とっくに水浴びを済ませているはず。泉はイリスの小屋からそれほど離れていない。

 

「素堂の爺ちゃんが朝夕欠かさず読経を続けているから、寺の敷地に妙な者が入り込む隙はないはずだよな」

 

 だが、万一ということもある。泉に近い場所で一人眠るイリスのことを考えると、音の正体を確かめた方がいいだろう。

 ヤタカは足先の向かう方向を変え、泉へと向かった。

 朝夕欠かすことなく山に響き渡る素堂の読経は、寺の敷地へ異種が入ることを防ぎ、寺が許した物意外は異物さえも近寄らせない。外部の者が耳にしても知らない宗派の経にしか聞こえないだろうが、腹の底に響く素堂の読経は異種と異物の自由を妨げる音を孕み、空気を振るわせ言霊を運ぶ。

 人に宿ったモノに、この読経は意味をなさないのだという。獣の耳を介せば何らかの影響を及ぼし、異種を宿した生き物は境内に入って来ることはないというのに。

 ましてや寺の敷地内にある泉で、動植物が繁殖するなど考えられない。

 小屋の横を通り過ぎ、足音を立てないようにゆっくりと山の斜面を下っていく。月明かりが薄い分手探りで進むしかなかったが、泉の周りを囲む岩場はこの地方特有の光り苔に覆われ、青白い光りを放っている。動くモノがあれば、そのシルエットくらいは見てとれるだろう。

 木々の隙間からぼんやりと青白い光りがのぞく。

 

「何かいる……」

 

 ヤタカはぼそりと呟き目を細めると懐に手を入れ、植物の採取用に持ち歩いている小刀を取りだし前方へ刃を向けた。それを胸の前に構えて大きく息を吸う。

 バシャリと泉の水が弾ける音が響く。

 ヤタカは葉を茂らせ視界を遮る細い枝を、音を立てないよう用心しながら押し上げた。  

 闇の中、ヤタカの目が見開かれる。

 大きく吸い込んだ息を吐き出すことさえ忘れ、これ以上吸い込める筈のない空気を求めて肺が藻掻く。

 

「イリス……」

 

 口から押し出された言葉と共に、歯の隙間から息が漏れる。

 膝を着いているのだろう。泉の真ん中で腰から下を水に浸す背中が見えた。光り苔を背景に浮かぶシルエットは、幾重もの薄衣を脱ぎ捨ててはいても、短い髪の形ですぐにイリスだとわかった。

 イリスの背中から無理矢理に視線を引き剥がし、ヤタカは押さえていた枝からそっと手を離す。ゼンマイ仕掛けの人形より劣る足取りで踵を返し、元来た道を戻った。背後から浴びる水の音が追ってきて、ヤタカは唇をくっと噛む。

 気がそぞろで何度も躓いては転んだように思う。気づけば自分の部屋に立っていた。

 気力のみで動いていた足から一気に力が抜け、ヤタカは畳に転がった。暗い天井に泉で見た光景が幻となって蘇る。

 

「嘘だろ……」

 

 幻を遮るように手の平で目を覆う。

 イリスは昔から小さくて、線が細いひょろひょろの少年だった。それを疑ったことさえなかったが、今なら真実が見える。

 光苔に浮かんだ丸みを帯びた細い腰、細い腕と小さな肩は、柔らか曲線を描き折れそうに細い首へと繋がっていた。

 

「イリスは……女の子だ」

 

 他の女性の水浴びを見たことなどあるはずもない。だが本能が、あれは自分とは違う生き物なのだと断言する。

 ヤタカの頭を巫山戯て撫で回す僧達のごつい手と違い、腫れ上がった肌の傷みに呻くヤタカの口を、時折そっと叩くイリスの小さな手は柔らかいなと思っていた。その違いは日々の作業に明け暮れる者の手と、労働をしない者の手の差だと思っていた。無意識にそう信じ込もうとしていたのかもしれない。

 男ばかりの寺でイリスを守るために、女であることを隠して生きるよう策を練った者がいるとしたなら、それは素堂か慈庭だろう。

 ならば今夜目にしたことは、けっして口にしてはならないとヤタカは思った。この寺で生きていく限り、墓場まで知らない振りを押し通すことが、イリスを守ることになる気がした。

 

「まいったな」

 

 静まりかえった寺の中、聞こえる筈もない跳ねる水の音が耳の奥で木霊する。

 何度も吐き出されたヤタカの溜息が漏れるたび、月明かりさえ差し込まない部屋の暗闇が、更に濃い闇へと塗り替えられていくようだった。

 

  

 

 ヤタカが秘密を胸に閉じ込めたまま時は経ち、この出来事から二年ほどして寺は全てを呑み込み消失した。ヤタカとイリスを残して、何もかもが跡形もなく、山間の大地へと呑み込まれた。

 

 

 

 

 




のぞいて下さった方々、ありがとうございます。

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