ボーダレス ホルダー   作:紅野生成

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18 へそ曲げ鼻曲げ ゲン太の家出

 緑の龍が降らせた透明な雨は日暮れいっぱいまで降り続き、乾ききって表面を灰色にひび割れさせていた街道の土を十分に湿らせた。

 

「降ったのはこの辺りだけだと思うが、伊吹山もこの状況なら野草探しは無理だな」

 

「心配ないよ。まだ辿り着いてもいないもの。道案内が道に迷っているから」

 

 イリスの嫌みにけっと喉を鳴らし、顔を背けてもヒシヒシと伝わる冷たい視線の矛先を変えようと、ヤタカはぱしりと手を打った。

 

「それにしても誰かさんの絵はひどかったなぁ。小手毬さんを描けば潰れた丸い餅で、威厳ある龍の姿を描けば太った芋虫によれた角……くくっ。あれで理解しろっていうのが無理だ」

 

 跳ね上がって横っ面を蹴ろうとしたゲン太を、ひょいとかわしてヤタカが笑う。

 幼児に筆を持たせたような絵を思い出したのだろう。口元に手を当てイリスも笑いを堪えている。

 

「ヤタカ、あんまりいっちゃ駄目だよ。ゲン太が可愛そう……ははっ」

 

「イリスだって、新種のムカデって思ったくせに」

 

「だって、足が、糸みたいににょろにょろした足がいっぱい……くふ」

 

 イリスに気を取られていたヤタカの側頭部に、カーンといい音を立ててゲン太が蹴りをかます。

 

「痛っ! アホ下駄、今のは俺じゃないだろ? 蹴るならイリスを蹴れよ!」

 

 イリスは笑いのツボにはいったのだろう。口を押さえていた手で腹を抱えて笑っている。 きーっと鼻緒を三角に立てたゲン太は、床に投げ出されたヤタカの脛に脳天からダイブを決め、ヤタカは上げる声もなく脛を抱えて床を転げ回った。

 

「ゲン太、怒っちゃったの?」

 

 目尻に一粒浮いた涙を拭いながらいうイリスに、べ~!! と鼻緒を突きだし、ゲン太は戸口の隙間を押し開けて外へ出ていった。

 

 すっかり小屋を立つ準備は整ったというのに、日が高く昇っても戻って来ないゲン太を探しに表へ出たヤタカは、はぁ? と呆れた声を上げる。

 

「イリス、アホな下駄画伯はここに置いていこう」

 

「どうして? ゲン太が戻るのを待とうよ」

 

「いや、無理だ。家出するってさ」

 

 湿って柔らかくなった土には、下駄の歯の太さで大きく、『いえで』と書かれていた。

 

 

  

 もう二度と戻るもんかと息巻いて、ゲン太はのしのしと山の斜面を登っていた。お荷物の二人がいなければ、こんな風に鬱蒼と茂った山の斜面だって簡単に行き来できる。

 むしゃくしゃするから、適当に異種の種を集めて寺に戻ろうか。

 必要無い種を集めてもおばばは呆れるだろうが、今は紅でもいいから飽きるまであの二人の文句をいいあって、憂さを晴らしたと思うゲン太だった。

 だいだい親切にモノの正体を知らせてやろうとしただけだというのに、あの言い様はなんだ? 文字には自信がある。気付いたときから、流れるような曲線の平仮名を書けた。 絵を描くには下駄が持つ木肌が狭すぎるのだ。

 それだけの理由であって、けっして絵心がないわけではないというのに。

 

――いたい

 

 折り重なった小枝のてっぺんからでんぐり返って落ちたゲン太は、たまたまそこに立っていた細い木立に跳ね上がって二連チャンの蹴りを入れ、ふんふんと尻を振りながら山道を登り続けた。

 普段であれば十分に注意深いゲン太であるから、どんなに草が茂っていようと先の道を見誤ることなどなかっただろう。

 だが今は、ぷんぷんに臍を曲げていた。

 鼻緒から湯気が立ちのぼらんばかりに頭が沸騰したのは久しぶりだ。こんな時は、ぷんぷん虫が頭に巣くっているのだと……笑いながらいったのは誰だったか。記憶が曖昧だ。

 頭に巣くったぷんぷん虫は、道が途切れた先へゲン太をひょいと踏み出させた。

 下駄の歯に感じるはずの柔らかな土の感触も、ごつごつした小枝の感触もない。

 

――しまった

 

 気付いたときには、ゲン太は山間の谷底へと回りながら落ちていた。

 

――くるくる めがまわる

 

 目がまわるせいで、読むモノもいないというのに心の叫びが、幾重にも重なった文字となって木肌に浮かぶ。

 どこに目があると問われても答えようもないが、空の青と山の緑が渦を巻き、打ち付けられた下駄の背の痛みさえぐるぐると回っている気がした。

 

――おや おや?

 

 一瞬またもや何処かに落ちていくのかと思った。目をまわしたまま、ふわりと下駄が宙に浮き無造作に振り回されて、ない口からげろが出そうになる。

 

――もう だめ

 

 ゲン太は、何者かに掴まれた鼻緒をべろりと伸ばし気を失った。

 

 ヤケに周りが騒がしい。固い物にあちこちを突かれる感覚に、ゲン太は意識を取り戻した。

 

「ぜんぜん動かねえよ」

 

「さっきは動いたんだってば! 間違いねぇって」

 

「ほんじゃ、こいつはお化け下駄か?」

 

 子供の声が幾重にも重なり合う。五、六人はいるだろうか。それぞれが手にした小枝でゲン太の木肌を遠慮なく突き回している。どうしてこの子らに自分が見えているのかと、湧いた疑問を捻り潰す勢いであちらこちらから枝先が責めてくる。

 

――いたい

 

 木肌に文字が浮かびそうになるのを、ゲン太はグッと堪えて黙りを決め込んだ。

 気を失っている間に、もぞりと動いたところでも見られてしまったのだろう。このまま唯の下駄で通すに限る。

 どのくらい突き回されただろう。いい加減木肌がぴりぴり痛んできた。

 

「やっぱ唯の下駄だって。古いしさ」

 

「捨てておくとゴミになるから、小枝と一緒に燃して芋でも焼くか?」

 

 手を叩いて子供らの歓声があがる。

 

――まずい ひはまずい

 

 崖から落ちた時の打ち身とぐるぐるに回った目の気持ち悪さは、ゲン太から予想以上に体力を奪い取っていた。

 

――にげるか

 

 この辺りを知る子供達の手から、すんなり逃げられるとも思えなかった。せめて夜ならなんとかなったのにと、ゲン太はない歯を摺り合わせる。

 と、その時だった。

 

「こら~悪がきども! 何してる!」

 

 ゲン太を突いていた子供達より少し年上の少年が、手にした棒で子供達を追い払った。

 

「何すんだよ。オレ達が見つけたんだぞ!」

 

 文句を言いながらも、ぱっと散った子供らが口を尖らせる。

 

「馬鹿いうな、これはオレの下駄だ! 勝手に燃やすんじゃねぇよ」

 

「うっそだい! こんな所に置き忘れたのかよぉ~」

 

 べろべろと舌を出して反抗する子供を、少年はぎろりと睨み付けた。

 

「置き忘れたんじゃない、置いていったんだ。文句があんならやるか!」

 

 拳を振り上げて少年が一歩踏み出すと、わっと声を上げて散り散りに子供達は逃げていった。

 

――たすかった

 

 この少年の意図はわからないが、今は焚き火から逃れただけで十分だった。

 

「汚れてんな。湧き水で洗ってやるか」

 

 手に持つのが面倒だとでもいうように、自分の履き物を脱ぎ捨て、少年がゲン太の鼻緒に足の指を突っ込んだ。

 ゲン太が、一瞬にして喉を詰まらせる。

 

「なかなか良い履き心地じゃないか」

 

 颯爽と進む足に履かれて、からんころんと下駄が行く。

 

――く くさい 

 

 この日二度目の失態、ゲン太はない白目を剥いて意識を手放すこととなった。

 

 

 ヒンヤリと澄んだ水が木肌を滑る感触に、ゲン太は目を覚ました。

 

――イリス? ヤバカ?

 

 悪い夢を見たと思った。枝で突かれ、焚き火にくべられそうになり、最後はこの世の物とは思えぬ悪臭に襲われた。

 早くイリスの側に行こうと思った。ヤバカはどうでもいい。ヤタカを、心の中ではヤバカと呼んでいるなど終生の秘密だ。知られたら、それこそ火にくべられる。

 

「よしっと。きれいになったぞ」

 

 聞き慣れない少年の声にびくりとした。一気に記憶が蘇る。

 まだ木肌が乾いてもいないというのに、少年の足がゲン太の鼻緒目掛けて迫っていた。

 

――しぬる

 

 唯の下駄の振りをしている余裕などなかった。肥溜めと腐った植物を混ぜたような悪臭が今しがた嗅いだように蘇る。

 全力で地面を蹴り上げ横に飛ぶと、ゲン太を履こうとした足が行き場を失って土を踏んだ。 

 

「おまえ、動けるのか?」

 

 目を丸くした少年が、下ろした足をそのままに呆けた顔でゲン太を見る。

 

――さわるな

 

 こうなったら物は試しだ。木肌に文字を浮かばせてみる。

 

「こりゃすげぇ。話せるる下駄だ」

 

 見えるのか。子供達が全員ゲン太を見ることができたのもが異常だった。たとえゲン太が見えても、木肌に浮かぶ文字を目にできる物は、更に数を減らす。

 胡座をかいてすとんと座った少年が、ゲン太に手招きした。

 

「触らないからこいよ。話でもしようぜ」

 

 用心しながらすり足で近付いた。

 

――つかまえない か

 

「つかまえねぇよ。どっからきたのさ?」

 

 木肌に多くの文字は浮かばせられない。ゲン太は少しずつ、そして少年は先を急かせることなく、ゆっくりと文字を読み進めていく。

 真上にあった日が斜めに傾ぐ頃には、すっかり意気投合した、へんちくりんなコンビが出来上がっていた。

 

「ばっかだなぁ。そんなことで臍曲げてでてきたのかよ。そりゃ責められないぜ? その絵はどう見たって未発見の芋虫だ」

 

 膝を叩いて笑う少年に、ゲン太はむきっと鼻緒を吊り上げる。

 

「でもそうやって笑ってくれるだけいいじゃないか。悪口じゃないぜ? 影でこそこそいったわけじゃないもんな」

 

 そんなことは解っている。ただ、意思を疎通できる唯一の手段である、木肌に浮かべる墨を馬鹿にされた気がしてむくれただけだ。

 

「そいつらと長い付き合いって訳じゃないみたいだし、戻るのが嫌ならオレとここに残るか? 妙だと思うだろう? どうしてこんな山奥に村があるんだってさ」

 

 そうだ、そこが疑問だった。

 

「昔はもっと山奥に村があった。異種が蔓延り始めてからは、少しだけ山の浅い場所へでてきたらしい。ずっと山にいる。理屈は解らないけれど、おまえが見えるのはこの村の風習のせいだよ。山奥で生き延びる為の知恵なんだってさ」

 

――ふうしゅう

 

「産まれた赤ん坊にすぐ、異種の種を宿らせる。獣にも襲われないし、山歩きで厄介な異種に宿られる心配もないって」

 

――ばか

 

「知らないよ。昔っからしていることだもの。宿った人間の寿命と共に芽吹く異種の種を、使うんだって」

 

 そんなことが有り得るだろうか。でもこうして少年はゲン太を見ている。話の筋は通る。

 

「だからさ、大人も最初は驚くだろうけど、すぐ仲良くなるさ。おまえは異物なんだろ?オレ達みたいな異種宿りは、異物を本能的に嫌がるって聞いていたのに平気だぞ?」

 

 それはゲン太が、その身に異種を宿しているからだろう。

 それにしても異物の存在まで知っている。その情報をこの村にもたらしたもは誰だ?

 この辺りは麓よりずっと多くの異種に溢れている。その中でも感覚を澄ませば、少年の中で宿主の命つきる日まで深い眠りについている、異種の存在がはっきりと感じられた。

 

「なあなあ、一緒にここで暮らそうぜ?」

 

 気の良い少年だった。ヤバカのように敵対することもない。地面にめり込むほど踏みつけるなど、この少年はしないだろう。

 だが……。

 

「うおっと、すっげぇ突風だ」

 

 枝をしならせ山を這い上がってきた風が、物思いに耽っていたゲン太のいる谷へと吹き降りる。

 

――なに

 

 はっとしてゲン太は耳を澄ませた。

 葉が擦れる音に混じって、馴染みのある声が聞こえた気がした。

 

「おい、何か聞こえるぞ。誰か大声で叫んでる」

 

耳を前方に向けて少年も耳を澄ませた。

 

  イリス、大丈夫か……布を巻いたまま馬鹿下駄を探そうなんて……しっかりしろ……    血がでてるじゃないか……くそ、布で押さえてろ……イリス!

 

 ゲン太は思わず後ろ歯で立ち上がった。

 どうしよう、どうしよう。

 

「おまえの連れ合いの声か? 怪我をしたのか?」

 

――けがした

 

――おんなのこ

 

 じっと考え込んだ少年は大きく息を吐いて立ち上がる。

 

「でもおまえは戻らないんだろ? あんなやつらどうでもいいから出てきたんだもんな?」

 

 ゲン太の鼻緒がふるふると揺れる。

 イリスが自分を探して怪我をした。イリスの血が止まらない。いったい何処を切ったのだろう。痛いだろうか。想像しただけで下駄の歯がぎゅっと萎む。

 

――ごめん

 

「なんだ?」

 

――たすけ もどる

 

 無表情でゲン太を見下ろしていた、少年の口元から真っ白な歯が覗く。

 

「いうと思ったぜ。どうせあいつらのことが好きなんだろ? ちょっと待ってな」

 

 いうが早いか少年は走り出し、森の中に姿を消した。今すぐにも駆け出したいゲン太には長く感じられたが、少年が姿を消していたのは僅か数分だったろう。

 森から駆けだして来た少年の手に掴まれているのは、人の握り拳ほどの大きさの布袋だった。何かがつめられて、ぱんぱんに膨れている。

 

「これを持っていけ。止血に効く薬草を練ったものと、傷口が腐らないように守ってくれる貼り薬。あとは体力を付けるための煎じ薬だ。連れの女の子に持っていけ。仲直りしたいんだろ?」

 

 少年はゲン太の鼻緒をひとつ摘み上げ、そこに布の口を縛る紐をきっちりと結わえた。

 

「これで外れない。早く行ってやれよ。死んじまったら仲直りもできなくなるそ? このひねくれ下駄め」

 

 ゲン太の木肌を撫でて少年がいう。

 

――ありがとう

 

「おうよ!」

 

 落ちてきた崖を一気に駆け上がる。崖に根を張り天に向けて伸びる木々を足がかりに飛べば、ゲン太の行く先を隔てるような崖ではなかった。

 最後に一度だけ振り向くと、谷底で少年が手を振っていた。

 二度と会うことはないかもしれない。

 だからあの笑顔を忘れない。ゲン太は、まだあどけない少年の笑顔を胸に刻んだ。

 

――イリス がんばれ

 

 自分が拗ねて家出などしなければ、イリスが怪我をすることもなかった。もっとヤバカに八つ当たりして、鬱憤を晴らしていれば良かった。

 後悔だけが、ゲン太の胸に渦巻いていた。

 起伏の激しい山道を走るゲン太の背後で、小さな袋が大きく弾む。

 突風は収まったというのに、そよ風が揺らす葉が今だヤタカの声を森に響かせる。

  

   イリス……ちゃんと押さえろ……血がち……

 

 イリスの命がかかった袋だ。下駄の歯が折れたって届けてみせる。ゲン太はがむしゃらに獣道を走り続けた。

 

 

 かすかだが、確かにイリスの血の臭いがする。血の臭いは昨夜泊まった小屋の辺りから漏れ出ていて、二人の居場所が遠く移動していないことに、ゲン太はほっと胸を撫で下ろす。流血は時間との戦いだ。

 

――がんばる

 

 ゲン太はない歯をぎりりと噛みしめる。イリスの体からどんなに血が流れ出ても、分けてやれる血をゲン太は持たない。失う血が多ければ、ほどなく呼吸が苦しくなる。

 イリスが苦しむ姿をただ眺めているなら、いっそ焚き火にくべられた方がましだった。 

――ついた

 

 ぬかるんだ最後の斜面を転げ落ちるように街道へ出て、ゲン太は小屋の戸口の隙間から体を滑り込ませた。

 

――イリス

 

 イリスが小屋の中に横たわっていた。

 隣に座るヤタカが、顔を上げてゲン太を見た。

 

――くすり

 

 疲れてよれよれの文字が木肌に浮かぶ。

 

「ゲン太、やっと帰ってきたかよ! 薬ってこの袋か?」

 

――ち とめる

 

「ほう、こりゃ珍しい。内臓にさえ届いていなけりゃ、刀傷の出血でも止められる。どこでこれを手に入れた? これを手がける者は少ない。闇で出回っても、恐ろしく高価だ」

 

――はやく

 

――イリス ぬる

 

 夢中でヤタカに薬を説明しようとしていたゲン太は、イリスの傷口を確かめようと振り向いて、驚きのあまり勢い余ってでんぐり返った。

 

「ゲン太おかえり! 心配したんだぞ?」

 

 いつもの笑顔でイリスが笑っている。

 

――けが ち いっぱい

 

 きょとんとした表情で、イリスが白い布を巻いた人差し指を差しだした。

 

「小屋の入口で転んで、棘が刺さったの。痛かったぁ~。この傷がどうかした?」

 

 イリスが無事だったことへの安心と、己のアホさ加減に下駄の歯が抜けそうに唖然としたゲン太の中に、ふつふつと湧き上がったのは怒りだった。

 

――だまされた

 

「誰に? 悪い人にでも会ったの?」

 

 事情を知らないイリスが、心配そうに眉を寄せる。

 

――あいつ わるい

 

「ヤタカが? ヤタカったら、またゲン太を虐めたの?」

 

 既に背を向けて肩を震わせていたヤタカが、耐えきれないように大声を上げ喉を反らせて笑い出す。

 

「ゲン太を早く呼び戻そうと思っただけさ。イリスだってゲン太を探そうとして怪我をしたのは本当だろ?」

 

――おおけが いった

 

 ゲン太の抗議に、ヤタカが惚けた顔で大げさに肩を竦める。

 

「誰がそんなことを? イリス大丈夫か? 血が! 血が! そう言っただけだ。大怪我だなんてひと言もいっていない。大出血だともいってない。棘が刺さってぷっくりと血の珠がでたのは本当だぜ?」

 

 ゲン太の鼻緒がぷるぷると揺れる。

 冷静になれば解ることだった。街道で叫んだ声が、幾ら大声でも山中にまで聞こえるはずがない。ヤタカが森を操ったに決まっている。

 

――こいつ きらい

 

「こらこらゲン太。ゲン太が家出して心配したのは本当だよ? ゲン太が帰ってくるまでここで待ってもいいって、ヤタカもいってくれてたよ?」

 

 ぷいっと鼻緒を背けてゲン太は拗ねた。またもやぷんぷん虫が暴れ出したが、ぎゅっと鼻緒を縮めて我慢する。

 

「ゲン太、ありがとうね」

 

 イリスの白く細い指先がゲン太をそっと抱き上げた。

 

「家出したのに、わたしの事を心配して帰ってきてくれたんでしょう? お薬も持ってきてくれた。こんなに泥だらけになって」

 

――いたい?

 

「うん、もう痛くないよ。ゲン太、もう居なくならないでね」

 

――すこし

 

――あやまる

 

 ゲン太は木肌に文字を浮かばせた。

 昨夜の雨水を溜めた桶の中で、綺麗に泥を落として貰ったゲン太は、ぷんぷん虫もすっかり収まり、いつものようにイリスの膝の辺りでころころとじゃれていた。

 もうすっかり月が昇っている。壁の隙間から見えるこの月を、あの少年も見ているだろうか。ゲン太は小さな出会いに想いを寄せる。

 

「ゲン太、心配してくれたお礼に、これをあげよう!」

 

 とくとくとゲン太の木肌に酒がかけられた。

 

「イリス、おまえどれだけ隠し持っているんだ?」

 

 呆れたようにヤタカの声がする。

 

――ひっく

 

 山を走り回ったせいだろうか。今日はあっという間に酔いが回る。

 そんなゲン太に、イリスは次の酒をふりかける。

 

「そういえば、どうしてゲン太はわたしが怪我したってわかったの?」

 

 森で聞いた、忌々しい声が蘇る。

 

――こえ した

 

「誰の?」

 

――ヤバカ こえ

 

 文字に続いて丸に点が二つ、への字に曲がった棒が一本描かれた。

 

「ふふ、これヤタカ?」

 

早々に千鳥足になったゲン太がふらふらと後退ると、こつりと当たるものがあった。

酒の回った目で見あげると、口元をひん曲げたヤタカが、腰に手をあて見下ろしていた。

 

「へぇ、良いことを知った」

 

 ヤタカの足が一歩前に踏み出され、ゲン太は千鳥足でよろよろと、身を守るように後退る。

 

「おまえ、心の中では俺の事をそんな風に呼んでいたのか? そういえば昨日は雨で水浴びをしていなかったな……」

 

 ヤタカがおもむろに履き物を脱ぎ捨てる。

 

――ぎくり

 

「かわいくびっくりしても、俺には通用しないぞ? ヤバカだと? しかも俺をあんな下手くそに描くとは! このクソ下駄!」

 

 酔っ払いの下駄にまともな逃げ道があるはずもない。

 鼻緒にヤタカの足の指が強引にめりこんだ。

 遠退く意識の中、少年の足の臭いが霞んでいく。

 

――しぬる 

 

「あん? なんだと!」

 

 巫山戯たイリスが、下駄を履いたままのヤタカの足の上にちょろちょろと酒をかけ回す。色んなものの染みいった酒が、ゲン太の木肌に滲みていく。

  

――げろげろ

 

 ミミズの這ったような文字が浮かんだ。

 日に三度も意識を手放したゲン太は、翌朝になっても酔いが覚めることはなかった。

 イリスに紐で括られて街道を引き摺られる音が、からりころりと街道脇の森に響き渡っていた。

 

 

 

 




 読んで下さったみなさん、見に来て下さったみなさんありがとうございます。
 今回は、旅を続けていたらこんな日もあるよね……ていう一日のお話でした。
 章分けしていないので差し込みずらいのですが、またいつかこの手の話をぽんと入れられたらな……とか思っています。
 思うだけならただです(笑)
 では!

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