膝を折り足が痺れるのもそのままに、更けていく夜をぼんやりと過ごした。
薄っぺらい布団を蹴飛ばして、ひょろひょろと伸びた細い大根みたいに足を投げ出して眠るイリスの寝顔を見て、幼児のようだ――と黒い霧の立ち籠める心の隙間を縫って、薄い笑みが口元へのぼる。
あのゴザ売りを信用したわけではなかった。
けれども、無駄話はしない男だと思う。
端金や己の命を対価に、意に反した言葉を吐く男とも思えない。
悪意ある真実も、善意の嘘さえ、あの男の口が動いたならそこには必ず意味がある。
――空――
堂々巡りの思考は、同じ一点で立ち止まる。
たった一文字で行き止まる。
時を空けることなく、不意にイリスがこの一文字を口にしたのは偶然だろうか?
寺に関わる者は、並の者とは異なる技を持つ。知恵を持つ。
眠っている間に耳から迷い入る言葉は、受けた者に何をもたらすだろう。
迷い込んだ言葉が技ある者に操られた言葉なら、確実に眠る者の脳を神経を、意識を突くだろう。
霧のように漂う言葉は夢へと誘う。
夢は記憶への地図に過ぎない。
目覚めたときに残るのは、追憶の彼方に覗いたものの残滓だろうか。
――空――
ぽかんと口を開けて眠り呆けるイリスの寝顔に、ヤタカの知らない素顔の影がちらつく。それを認めることは、ヤタカ自身が未だ認識していない過去があると認めることに他ならない。知らない自分が過去に存在したなど、思うだけで恐ろしかった。
――俺達が本当に最初に出会ったのは、いったい何時なんだい、イリス
そそくさと逃げるように、薄い月明かりは街道を囲む山向こうへと姿を消し、新しい一日が外の空気を青白く染めていく。
「風呂に入らないとイリスが……嫌がるな」
水と同様に湯に浸かることもヤタカは得意としない。桶でザブリと湯船の湯を浴びながら、色濃く流れ出した不安を具現化したように粘つく汗を、淡々と洗い流していった。
お湯の温かさにどっと滲みだした眠気と戦いながら部屋に戻ると、早々に仕度を調えたイリスが、ゲン太を従え足踏みしながら待っていた。
「朝飯は?」
「なかなか返ってこないから、先に食べちゃった。ヤタカの分は荷物に入れてあるよ。さぁ、出発しよう~!」
目元に布を巻きながら慣れた足取りで部屋から出ようとするイリスに、ヤタカがぼんやりとした頭で声をかける。
「出発って、どこへ?」
「……それを決めるのは、ヤタカのお仕事」
ゲン太がカン、と下駄の歯を鳴らして相づちを打つ。
「はいはい」
荷物の中の握り飯に手を付ける気にすらならず、イリスの後について街道へと出た。
春は季節の進みが早い。無造作に若草色の絵の具を撒き散らしたように、昨日より濃く、山は春の色に染まっていた。
朝もまだ早く、街道の人通りも疎らだ。
ヤタカの体調を心配してか、やたらと朝飯を食えと勧めるイリスに根負けして、ヤタカは乾いた口の中に握り飯をがぶりと頬ばった。
――なんだこりゃ?
ゲン太と巫山戯合いながらイリスが先を行く。ヤタカは口の中に感じる米粒とは異質の固まりを指先で摘みだした。小さく丸められた紙の固まりが、数粒の米にまみれて取り出される。
『記憶の深追い無用』
開いた紙に書かれていた文面は簡潔で、的を外さぬ意味を持つ。
――ゴザ売りの男か
宿の近くに潜んでいたか、昨夜の内に仲居の女に金と紙を握らせたか。ヤタカは紙を細かく千切り、残りの握り飯と一緒に口の中に放り込んだ。
『書き込むなら頭に刻め。他の者の目に触れる形で、残してはならないものもある』
慈庭の言葉を思い出す。口を動かすだけの気力が戻ったら、ヤタカはイリスに問うてみようと思っていたのは事実。それが正しいかなど、考える気持ちの余裕さえなかった。
あの男は、ヤタカの心の揺らぎを見越していたのだろう。
――年の功、今回はあちらさんが一枚上手だったてことか
あの男が敵か味方か、チクリと胸に引っかかる疑念さえ今は意図的に無視しようと、ヤタカは速度を上げてイリスの横に並び、見えないのを承知でにこりと微笑んで見せた。
大丈夫だ、そう自分へ言い聞かせる為の声なき笑顔だった。
「ねぇヤタカ、どこに向かっているの?」
「うん、これだけ山の緑が濃くなれば、薬草が手に入りやすい。この先の伊吹山で少し採取して金を造っておこうかなってね」
「そっか」
案内しろというように、イリスの手がヤタカの腕を覆う布を掴む。
面白くなさそうに、ゲン太が大股で砂埃を上げながらのしのしと先を行く。
ヤタカはイリスに隠した目的を唾と一緒に胃の底まで呑み込んで、誰にも見咎められることなく苦笑いを漏らす。
目指す伊吹山は小さな小山が幾つも折り重なる起伏の激しい場所だ。
あちらこちらに風穴があり、人が足を踏み入れない洞窟が塞がれることなく今も残っている。いや、残っているといっていたのは慈庭だ。
「伊吹山って、前に行った? 覚えてないよ?」
「行くのは初めてだよ。寺でね、薬草が多く自生している有名な場所だって教えて貰っていただけさ。きっと、寺を離れる事態になるかも知れないと思って、外の世界のことも教えてくれていたんだと思う。鬼瓦の慈庭がね」
「慈庭は優しいよ。すっごくやさしい」
「そうだな、仏が鬼の面を被っていたのかもしれないな」
満足そうに頷くイリスに、ヤタカもほっと笑みを漏らす。
無意識であれ故意であれ、秘密を抱えているのはイリスだけじゃない。時には必要な嘘もあるだろう。必要な嘘だってある。自分そ納得させるように、ヤタカは小さく頷いた。
手書きの地図で見せられ想像していた道程を過ぎても、伊吹山には辿り着けないまま日がすっかり傾いでしまった。あと一時間も経たずに、山間の道は夕暮れに閉ざされる。
かんかん
打ち鳴らしたゲン太の木肌に、のんびりとした文字が浮かぶ
――あめ くる
見あげた空は、上空の風に流され吹き溜まった雲に覆われ、どんよりと灰色に染まっている。
「どうりで体がむずむずするわけだ」
湿気を含む空気がちりちりと皮膚を擦る感触に、ヤタカは首筋をばりばりと掻いた。
「お宿はなさそうだね。近くの小屋に泊まろうよ」
見えないイリスが適当に指差す先には、錆びたトタン板を屋根代わりに張っただけの質素な小屋が立っていた。
「あるにはあるが、雨の夜を過ごすには心持たないぞ? 少し先に行けばもうちっとはまともな小屋があるんじゃないか?」
雨に降られるより先に、次の小屋を見つけられるか思案していたヤタカの視線が林の入口で止まった。
「おいボウズ、早く家に戻らないと雨が降るぞ?」
ヤタカに声をかけられた二人の子供は、はっとして振り向くと、手にしていたものをさっと尻の後ろに隠して、じっとヤタカを見つめたままカニ歩きで大股に横へ横へと進んでいく。
「こらこら、怖い人じゃないから逃げるなって。何をしていたの? 林の中に秘密基地でもつくったのかい?」
ひとつのネジで動いたように、男の子の頭が同時にふるふると横に振られた。
歳の頃は十歳前後だろうか。背の小さな坊主頭の少年が、すいと視線を地面に落とし、まん丸く目を見開いた。
「なにそれ、生きているの? すごいや!」
イリスとヤタカは、まさかと言うように顔を見合わせる。
「何がすごいんだい?」
「ほら、下駄だよ! 下駄が勝手に歩いている!」
「すごいな、ゲン太が見えるのか」
「あたりまえじゃん。だってそこにいるし」
少しだけ背の高い少年もゲン太に気づいて、口と目をあんぐりとあけた。
少年達に異物や異種が宿っている気配はない。
ただ……
――この辺りは、ちと臭う
巧妙に林に隠されてはいるが、周囲の林一帯に紛れる特異な臭いは、異種とも異物とも違う得体の知れない何かだった。
「おまえゲン太っていうのか、おもしろい奴だな!」
二人の少年に撫で回され鼻緒を突かれ、ゲン太が無い目で白目を剥いている様子が目に浮かぶようだった。
「ねぇ、ふたりとも林の中で何を見ていたの? お姉ちゃん今は見ることができないから、言葉で教えて欲しいな。ゲン太はお姉ちゃん達の秘密なんだぞ? だから、二人の秘密も教えてよ。ねっ?」
きょろきょろと泳がせた視線を幾度か交えて、少年二人は頷いた。
「これが秘密の道具なんだ」
隠す様に持っていた物を、少年達は自慢げに翳して見せた。
「なんだそりゃ? 家の障子を枠ごと切り落としてきたのか?」
「ちげーよ!」
少年二人の手の中にひとつずつ大切そうに握られているのは、格子戸を一枠外してきたような四角い木枠に、透けそうに薄い和紙を張ったものだった。
「それにしてもすごいね。こんなに薄い和紙は初めて見たよ? 村の特産品なの?」
好奇心に負けて曇り空を良いことに、ちらりとだけ布を捲ったイリスに、二人は得意そうに小鼻を膨らます。
「これはね、内緒で秘密の和紙なんだ。オレ達のじっちゃんが和紙職人でさ、もう死んじまったけど、じっちゃんの作業場を片づけた時に見つけてこっそり持ち出したんだ。そしたらさ……なぁ~」
くすくすと目を合わせて少年が笑う。
「これを透かすと、いいモンが見えんだぜ」
「へぇ、お姉ちゃんも見てみたいな」
「その布を巻いていたら見れねぇだろ? それにもう曇ってきちまったから駄目だ。雨が上がって、お日様が顔を出したらばっちり見えるんだけどな」
へへへ、と顔を見合わせて少年が得意そうに口を窄める。
「ゲン太を見たんだから、おまえたちも見せてくれよ。明日晴れたら、見られるんだろう? 今夜はそこの小屋に泊まるから明日、いいだろう?」
ヤタカがいうと、ごにょごにょと顔をつきあわせて相談し、二人は世界の大事を決めたように重々しく頷いた。
「でも、村のみんなには絶対秘密だぜ?」
「おう。ゲン太のことも秘密にしろよ?」
にこりと頷いて、手を振りながら少年達が帰っていく。
「こりゃあ明日が楽しみだ」
小屋に入ろうと振り向くと、日が陰ったのをいいことに布を外したイリスが、ゲン太を相手に相づちを打っては何度も首を傾げていた。
「ヤタカ、あの子達は見えるっていうだけで、普通の子だって。問題はあの和紙だってゲン太がいうの。さっきね木枠に翠って字が彫ってあったって。その名はね、有名な職人の名で、なのにある時からぷつりと和紙をすくことを止めた人だって」
「へぇ、こんな辺鄙な場所にねぇ」
「あの和紙がゲン太の知っているものなら、木枠に張られたあの二枚の和紙を手に入れるために、人を殺すことさえ厭わない人間がいるって。あの和紙だけは特別で、翠は破棄しようとしていたらしいけれど、できなかったってゲン太がいってる」
「ずいぶん詳しいな。大丈夫なのか? そんな曰く付きのモノをあんなガキが持っていて」
ここらに漂う臭いと関係あるのだろうか。
「おっと、雨だ」
ぽつりぽつりと雨粒が土の道に滲みていく。
濡れない内に小屋に飛び込んだヤタカ達は、トタン屋根に激しく当たる雨音の中、雨漏りのない部屋の端に固まって、蹲り一晩を過ごした。
ひとり落ち着かない様子のゲン太だけは、雨だれの音に合いの手を入れるかのように、かたり、かたりと一晩中小屋の中を歩き回っていた。
「起きろよ! ぴっかぴかに晴れてるぞ!」
勝手に小屋に入ってきた少年二人に揺り起こされ、ヤタカは浅い眠りから起こされた。
しぶしぶ体を起こすと、イリスは目のまわりに布を巻きすっかり準備を整えている。
早く早くと手を引く二人に急かされて、荷物もそのままに小屋の外へと引き摺りだされたヤタカは、眠い目を擦っていた手を止め、うっすらと開いた目を懲らす。
外に出て直ぐに、違和感を覚えたヤタカは眉根を寄せた。
「どうなってんだ……土が乾いている」
ひと晩止むことなく続いた土砂降りの雨が夢であったかのように、街道の土は灰色に乾ききっていた。そんな外の様子に構うことなく、林を少し入ったところまで強引にヤタカの手を引いて歩いた少年が足を止める。
「にいちゃん、この和紙を透かして林の中を見てみろよ」
得意気に渡された木枠を林の奥に向けて翳し、ヤタカは小さく首を振った。
「確かに薄い和紙だが、何にも見えないぞ?」
「見方が下手なんだってば。和紙と林の間を見るような感じでさ、ぼんやりと見るんだ。それがコツなんだよ」
じれったそうに足踏みする少年に向け大げさに肩を竦め、ヤタカは何処を見るともなく、ぼんやりと焦点をずらして木枠の中の和紙を眺めた。
「ほう……」
思わず感嘆の息が漏れる。
「ヤタカ、何が見えたの? 面白い物?」
日の下では布を解けないイリスが、好奇心丸出しで尋ねてくる。
「水面の反射光が見える。ほら、宿屋の縁側で庭の池の反射が壁や天井にゆらゆらと映り込むことがあるだろう? あれがね、この和紙を通して見えている」
「綺麗?」
「あぁ、綺麗だ。この世のモノではない美しさだよ」
そう、この世のモノではない水面の揺らぎ。和紙を透かして見えるはずのない光り。
木枠を掲げていた手をゆっくりと下ろし、現実の林の奥を見回しても、そこには泉どころか昨夜の雨が無数に造りだしている筈の水たまりさえ見当たらなかった。
「なぁボウズ、和紙を通して見える水のきらめきは、どこにある? お前達にはそれが見えるのかい?」
「見えやしないさ。でもね、木枠を向けてキラキラと光りが見える場所には、見えなくても小さな泉があるんだ。きっと、夜に降った雨をぜんぶ溜め込んでいるのさ」
子供の想像からでた言葉だろうが、ある意味的を射る答えだった。
地中に平等に染み込み大地を潤すはずの雨水が、目に見えない無数の泉となって大地を乾かしている。ヤタカの中に疑問が浮かぶ。翠は何を目的にこの和紙をすいたのか。それとも偶然の産物なのだろうか。
――この和紙を欲しがる者が狙っているのは、和紙その物じゃないってことか
和紙を透かして見える、向こう側にあるものが狙いなのだろう。
ヤタカの中で血がザワザワと騒ぎ出す。
和紙を透して目にしたことで、そこに存在する水に気づいたとでもいうように。
水の器が鼓動する。
「ボウズ、大地の乾きはいつまで続く? 大人達は騒いでいないのか?」
二人は顔を見合わせ、ちょっと困ったように首を傾げる。
「昔っからなんだって。何年かに一回は、雨が降ったあとに土が乾いていることがあるって。でもね、乾いた後に降る雨が潤してくれるのをみんな知っているから、だれも騒いだりしないよ。泉のことは知らないし」
「恵みの雨が降ると、この泉はどうなる?」
「次ぎに土が乾くまで、どこかへいっちゃう」
「そうか」
もじもじと突き合っていた少年が、でもね、と話を続ける。
「今回は、恵みの雨が遅いんだ。いつもなら続けて降る乾いちゃう大雨が二回くらいで、ちゃんと恵みの雨が降ってくれるのに、今回は4回目の……湿らない雨なんだ」
どういうことだ? 何が今までと違うのだろう。泉の正体もわからないのに考えても答えは出るわけもないが、ヤタカは顎に手を当て首を捻る。
「和紙を貸してくれないか? もう一度見ていたい」
背の小さい方がすっと差しだした、木枠に張られた和紙を受け取りヤタカが外へ出ようとすると、ゲン太が噛みつかんばかりの勢いでごつりと尻にぶつかってきた。
「なんだよ? 遊んでいる暇はないぞ」
不満げに下駄を踏みならしたゲン太の木肌に、丸がひとつ描かれた。
「団子?」
ばたばたと地団駄を踏み、丸が揺らいだ木肌に新たな模様が浮かび上がる。
「角の生えた芋虫か? 気持ち悪いな」
きぃー! と歯軋りが聞こえそうに三角に鼻緒を立てたゲン太が、おまえでは話にならんとでもいうように、のしのしとイリスの元へ向かっていく。
ゲン太に突かれて布の隙間から少しだけ目を覗かせたイリスが、しゃがみ込んで頭を捻る。
「ゲン太、どれどれこれは……えっと……新種のムカデかな?」
がくりと鼻緒の肩を落としたゲン太が、開いた戸口の隙間からとぼとぼと外へ出て行った。
「ばか下駄は放っておいて、俺達もいってみよう」
太った芋虫によれよれの角が二本、足が何本も生えている。あれを絵と呼ぶのは、世の中の絵師達にあまりにも失礼だろう。
「なあボウズ。土が乾いている間、水はどうしているんだい?」
「井戸も一晩で干上がっちゃうし、この近くに川はないよ。だから隣村の近くの川まで樽を背負って水を汲みに行くんだ。もう慣れっこさ。ほんの数日の我慢だもの」
そうか。ヤタカは登りはじめたばかりの朝日の中、和紙を透かして林の奥を覗いてみた。 昨日と同じように、ところどころにゆらゆらと、水面の反射が光の帯を造りだす。
和紙から視線を離せば、そこに広がるのは何処にでもある疎らに木の生えた林の景色。
「うっわ~! まん丸い苔発見。おじさん、これもう枯れている? 死んじゃってる?」
背の高い方の少年が、手の平にビー玉ほどの大きさしかない緑色の固まりをのせて、ヤタカに差しだし首を傾げる。
夏の盛りの葉を集めたように深い緑色の固まりは、少年のいうとおり枯れかけているのか、所々に乾いた茶色い色を浮かばせていた。
「おじさんじゃない! お兄さんだ!」
軽くこつりと拳固を当ててやると、へへっと笑って少年は首を竦めた。
少年の手から固まりを指で摘み上げる。もっとかさかさと固い物を想像していたのに、指に伝わってくる感触は柔らかで、人肌に温め丸めた苔を触っているみたいだった。
「めちゃくちゃ寒い地方に、これに似た植物が生息する湖があったって聞いたことはあるが、なんていう名だったかな」
「マリモ」
見ることができない退屈を紛らわせているのか、子供達に分けた棒飴を自分も舐めながらイリスが答える。
「そう、それ。でもな、その植物とはちょっと違う。マリモを実際には見たことはないが、聞いた話と比べると、こいつはマリモより毛足が長い。それにマリモは成長するが、目に見える動きを見せることもない」
「じゃあ何だと思うの? その子は生きている動物?」
「いいや、そんな単純な分類には当てはまらない連中さ。地方によって呼び名は異なるよ。小手毬さん、そんな呼び方をしていた場所もあったはずだ。俺の推測が外れていなければ、こいつらは集団で移動する。まるで持ち場が決まっているように、決まった場所をてんてんと廻るらしいよ」
話がちんぷんかんぷんなのだろう。頷くイリスの横で、少年二人はぽかりと口を開けてヤタカを見あげている。
「場所によっては、こいつらは神と呼ばれる。どんな姿の神かは知らんが、鎮守といって、一定の場所、あるいは地域で起こる災いから民を守る神とされる者の一種だ」
「この辺りで、良くないことが起こるの?」
不安そうに眉尻を下げる二人の頭をこづいて、ヤタカはいいや、と首を振る。
「起こるはずの災いを転じて福と成す。それがこの手の者さ。正体が解らないから、人はそれを総じて神と呼ぶだけだ。俺の体は毒に敏感でな、ほら見てごらん」
深緑色の丸い固まりをのせていた手の平を少年達に見せると、うわっという声と共に、小さな手が口元を押さえた。
ヤタカの手の平は、毒に爛れて赤と紫が入り交じり、熱を持って剥がれた皮がよれていた。
「心配すんな。すぐに治るよ。イリスも今なら感じるだろう? この辺り一帯の林には
「みんな病気にならないの?」
不思議そうにイリスが聞く。
「地表に滲みても、水に溶け込み流れるまで粒子を細かくするには時間がかかる。細かくなった頃に、こいつらはそれを集めに姿を見せるのさ」
「毒を集めてどうするの? その毒は何処へ行くの? 他所に住む人が困ったりしていやしないだろうか」
自分達が綺麗だと喜んで眺めていたものの存在理由を知って、はしゃぐ気持ちも失せたのだろう。ヤタカの袖を引きながら尋ねる少年の目にはうっすらと涙が溜まっていた。
「いいかい、毒っていうのは、薄まれば薬になる。うんちだってさ、山になっていると臭いだけだけれど、畑にまけば肥料になるだろう? それと同じで腐煙のつくり出す毒は、薄めて雨と共に撒けば山を育てる栄養になる。山を疫病から守る薬になる。腐煙が自生する場所から毒を集め、腐煙を持たない山々に雨と共に撒いてやるのがこいつらの仕事さ。誰が決めたわけでもない、自然の摂理だ」
偉そうに言ってはみても、所詮は慈庭の教義の受け売りだ。これに関しては、小さく丸い玉という噂があるだけで、その他のことは謎に包まれていた。どうやって毒を集め、どうやって集団で移動するのか。記録に残る限り、目にした者は数人に過ぎない。異物を宿した者が古に目にした光景が語り継がれた……その程度の情報でしかなかった。
「俺の感が外れていなければ、これから面白い物がみられるよ。その和紙を透かせて見たら、影くらいは映るんじゃないか? 直ぐに返してあげるから、ちょっとだけ待ってくれよな」
ヤタカは和紙を透かして光りの揺らぎを見定めると、それがあるであろう方向へゆっくりと歩みを進める。
「ここか」
地面にしゃがみ込むと、同意するようにヤタカの中で水の器がドクリと鼓動する。
「仲間の元へお帰り」
手の中の小さな玉を、和紙の向こうにあるであろう小さな泉へ転がした。
ぽちゃり
水に落ちた音がして、少年達が息を呑む音が続く。
「彼らを驚かさないように、ゆっくり林からで出るんだよ」
和紙を貼った木枠を返してやると、こくりと頷いた少年達はイリスの手を引いてゆっくりと街道へ歩いて行く。
「ゲン太、おまえが描いた丸って、こいつらのことだったのか?」
すっかり臍を曲げたらしいゲン太は、ふんと鼻を鳴らすように鼻緒をねじ曲げそっぽを向いた。
「見ろゲン太、これがこの林の本当の姿だ。四度雨が降り続けても大地が乾いたままだったのは、無数にいる仲間の一匹がこの不思議な水たまりに戻れずにいたせいだったのさ。全員が揃わないと、こいつらは移動できないらしい」
木立の隙間を埋めるように、所狭しと小さな泉がきらきらと水面を光らせている。
視界を遮っていた林の騙し絵が、風に流され剥がれたように目の前に広がる幻想的な光景は、無数の水面が反射する朝日が木立の若葉をちらちらと光りの粒子で染め上げ、その揺らぎは水面下から林を見あげているような錯覚を覚えさせた。
「ほら、動き出した」
目の前の透明な泉を覗き込むと、底にはビー玉くらいの丸い固まりが折り重なり、細く長い毛先をふわりと泳がせて水面へとひとつ、またひとつと浮かび上がってくるところだった。
「ゲン太、俺達も林を出よう。こいつらの邪魔をしないようにな。あ、ちょっと待って」
水嫌いのヤタカだったが、毒に変色した手をそっと泉の水に浸す。
もしかしたら……と思った。
ひんやりとした感触は、この季節の水その物だった。ヤタカの手の平から、薄い緑色が水へと流れ出す。水に溶けることなく筋を描いて流れ出るその横を、浮き上がってきた丸い玉が毛を揺らして通り過ぎる。
「ほう……」
緑色の筋は枝分かれして、それぞれの玉に吸い込まれていく。吸い込んだ玉はぶるりと一度だけ身を揺らし、何事もなかったかのように再び、ゆるりゆるりと水面を目指す。
「ありがとう。よし、行こう」
点在する泉を践まないように、ゆっくりと後退る。ヤタカの手の平には剥がれた皮だけが残され、毒々しい赤と紫の変色は跡形もなく消えていた。
――毒を体内に取り入れるっていう話は、どうやら本当らしいな
水面から浮き上がった丸い玉が、ふわりふわりと浮かんでいく。あっという間に数を増やし、林の中の緑が丸い玉のモノなのか、若葉のモノなのか見分けさえつかなくなった。
街道へでて見上げた空に、林のあちらこちらから湧き出た玉が昇っていく。
天高く昇るにつれて玉の輪郭は朧となり、人の目ではただの緑色の固まりというしかなくなっていた。
どん
地鳴りと共に、ばしゃりと水がはじけ飛ぶ音が林全体に響き渡る。
林から濃い霧が立ちのぼる。
煙のようにうねりながら昇る霧が、上空で緑の渦を巻く固まりにぶつかった。
林の枝葉をしならせて、風が大地から吹き上がる。
混ざり合った上空の固まりがぐるりと回って、その全貌を見せる。
「龍だ……巨大な緑の龍」
頭からは長く鋭い角を生やし、太く長い蛇身から四本の足が生えている。
「すっげぇ……」
少年の声が重なる。二人には肉眼で見る力はないのだろう。和紙を目一杯天に翳し、そこに映り込んだ龍の影絵を、あんぐりと口を開けて眺めている。
「この土地に溜まった毒を吸い上げ、浄化した雨を降らせてくれる。そして何処かへ行ってしまう。龍は外の国から伝わった伝説の生き物だが、案外昔の人は、この姿を見て龍と名付けたのかもしれないな。何しろ龍は水神だ。全ての水を司る」
一度大きく喉元を反らせた龍が、尾で宙を叩いて円を描く。
晴れ渡った朝の空に黒い綿飴みたいな雨雲が広がり、あっという間に顔を出したばかりの太陽を隠した。
「なぁボウズ。お前達を、男と見込んで頼みがある」
しゃがみ込んで二人の肩に手をのせたヤタカに、少年は顔を見合わせた。
「この和紙は、お前達の爺様にしかつくれない特別なモノだ。この世に存在するのは、おそらくこの二つだけだろう」
「うん。だから大事にしているよ?」
そうだな。ヤタカは二人の頭をそっと撫でた。
「この和紙を透して見えないモノが見える。それを知って悪用しようとしている悪いやつらがいる。和紙を透してお前達にも見えただろう? とても大きくて立派な龍だ。きらきら光る幻の泉も綺麗だっただろ?」
「うん」
「あいつらを、守ってやってくれないか? その和紙がある限り、あいつらは狙われる爺様が残した形見の和紙……これから降る綺麗な雨で、土に返してやってくれないか?」
驚いたように見開かれた目から、あっという間に涙がこぼれる。二人同時に鼻をすすり上げる。
近づいてきたイリスが、背後からそっと二人の涙を指先で拭った。
「あいつらの秘密を守り抜いてやろう? それは俺達が住む山々を守ることだ」
空の高いところで、獣の遠吠えに似た声が聞こえた気がした。
緑の龍が滝を下るように宙を駆け下りる。
巨大な龍が、ヤタカ達の鼻先を掠め飛ぶ。近くで目にすると龍の全貌は把握できず、小さな緑色の集団が長い毛を風になびかせ、ざっと音を立てて飛んで行っただけだった。
――レイヲ イウ
はっとして見あげた先を、緑の龍が天高く駆け上がる。
はたして聞こえたのか、二人の少年も空を見あげて片耳を手でそろりそろりと撫でていた。
力を込めて木枠を握っていた小さな手から、すっと力が抜ける。
「婆ちゃんは、泉のことも龍のことも知らなかったけれど、山を守る神様が居るっていっていたんだ。のの様って呼んで、いつも山に手を合わせていた。あのでっかいのが、きっと婆ちゃんが拝んでいたのの様だ」
小さな少年の言葉に、鼻を啜りながらもう一人が頷く。
「のの様を守るよ。男だもんな」
「うん。寂しいけど……うん」
木枠を差し出す少年達の手を、ヤタカはそっと押し留める。
「最後は、自分の手で終わらせるんだ。大切な形見だろう? いいね?」
「雨だよ」
イリスの声を追うように、ぽつりぽつりと雨の粒が落ちる。
顔を見合わせ頷きあった少年が、木枠を持った両手を胸の前に真っ直ぐに晒す。
落ちた雨が、ぽつりと薄い和紙に染みを広げる。
「さよなら……龍神と呼ばれたモノよ」
見上げた灰色の空で旋回していた龍が、鎌首をもたげて一気に天へと駆け上る。美しい曲線を描きながら、透明な雨だけを残して灰色の雲の彼方へと姿を消した。
叩き付けるように雨が降る。
少年の手の中で、木枠に貼られた薄い和紙は雨に濡れ破かれる。雨を含んで地に落ちた和紙は、更に水を含み雨に叩かれて土へと返るだろう。
林の奥へ目を向けても、雨に打たれる立木と草が茂るだけで、幻のように美しい泉は姿を消していた。
透明な雨が降る。
ヤタカの内に潜む水の器は、なぜかこの雨を嫌がらなかった。
透明な雨に打たれるまま、ヤタカは静かに目を瞑った。
読みに来てくださった皆様、のぞいて下さった皆様、ありがとうございます!
ちょっと長くなりました。
読んで下さる方が増えてきて、ひとりでかなり嬉しがっています(*^^*)
懲りずに次話も読んでいただけることを祈りつつ……
では!