ボーダレス ホルダー   作:紅野生成

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16 百度石、左に回るは逆さ廻り

 気付けば部屋を形作っていた壁も燃えかすのように剥がれ落ち、周りには支えもないというのに、絡み合って立ち上がる蔦が残されているだけだった。畳と思っていたのは剥き出しの地面で、夜風に冷やされた土の感触が尻から這い上がって背筋をぶるりと振るわせる。

 返す言葉を見つけられずにいたヤタカを構うことなく、イリスがすくっと立ち上がる。

 

「お宿がなくなっちゃったね。眠れる小屋を探そうよ」

 

 いつものイリスの声だった。

 

「少し歩けば小さな宿場があるはずだ。今日は宿に泊まろう。当たりくじの宿だと思って、ゆっくり休もう」

 

 頷いて歩き出したイリスの後を追いながら、ヤタカは一度だけ宿の建っていた場所を振り返った。

 どうして気付かなかったのか。以前この街道を通った時、この場所に宿などなかった。

 記憶力は決して悪い方ではないと自負してるヤタカにとって、この出来事は体調の悪さに頭が朦朧としていただけでは説明の付かないものだった。

 狐に化かされる……そんな古くさい言葉を思い出す。

 前をいくイリスは、いつものようにゲン太とふざけ合いながら楽しげに歩いている。

 宿での出来事など、まるで森の見せた幻だとでもいうように。

 

 あの女との関係、泉とはどこを差すのか、まるで幼い日からきちりと躾けられたような言葉遣いは何処で身に付けた? 聞きたいことが湧いては泡となって弾けて消える。

 舌が鉛のように重さを増して、何度も開きかけた口からは細い息しか出てこなかった。

 

「安いお宿発見!」

 

 思いにふけって歩く内に、いつの間にか宿場の入口まで来ていた。玄関で灯された提灯に照らされて縄暖簾が揺れている。

 縄暖簾には黒字で『安屋』と書かれていた。

 

「いいよ、ここにしよう。安い宿って意味じゃないと思うけれど、まぁいいや」

 

 ふくよかな頬を揺らして迎えてくれた愛想の良い仲居は、最後の一部屋なので他にお客さんがいらしたら相部屋で、と頭を下げた。

 こぢんまりとした畳の部屋で窓際に腰を下ろし、熱い茶を飲むと体の内側から冷静さが戻って来る気がして、ヤタカは目を閉じ壁に凭れる。

 

「おいしいよ、このおにぎり」

 

 出された夕食は二つの握り飯と汁物、香の物の小皿が一つ。口いっぱいに頬ばるイリスを眺めながら、ヤタカはほっと胸を撫で下ろす。大切なのはイリスが今、自分の隣にいることだと心からそう思った。

 自分の分を平らげたヤタカが横を向くと、囓りかけの握り飯を手にしたまま、こくりこくりとイリスが船を漕いでいた。

 そっと手の中から握り飯を取り上げると、壁に背中を預けたままゆっくりと上半身を傾げ、ヤタカが肩を支えてやると、ぱたりと畳に頬を当てて寝息を立てた。

 目が覚めたら欲しがるだろうと、木の薄皮に残った握り飯を包み直し、イリスの巾着の上にそっと乗せる。

 

 部屋の入口の木戸が叩かれ、襷掛けの仲居がちょこんと頭を下げた。

 

「お客さ~ん、相部屋をお願いいたしますうー」

 

「どうぞ」

 

 眠るイリスに自分の上着を掛けていると、畳を踏む音もないうちに独り言のように小さな男の声がした。

 

「隅っこで寝させて貰うよ。じゃましてわりぃな」

 

ゲン太のゲタの歯が、小さくカンと鳴る。

 荷物がドサリと置かれた音に顔を上げたヤタカと、男の視線がかち合った。

 外套を脱ぎかけた男の手が止まり、眉根を寄せてチッと舌が鳴らされる。

 置いた荷物を乱暴に担ぎ上げ、出ていこうとする男にヤタカは表情なく声をかけた。

 

「逃げることはないだろう? 心配すんなよ。イリスなら爆睡中だ。それに宿での争い事は旅人にとっちゃ御法度だろ? まぁたまにゃ酒くらって殴り合う奴らもいるが、俺達がやり合ったらそのくらいじゃ済みそうもない。だろ? ゴザ売りの旦那」

 

 口をうっすら開け、頬に手を当てて眠るイリスの横顔をちらりと見て、ゴザ売りの男は腐った飯でも含んだかのように唇を歪めると、ヤタカから一番離れた部屋の隅に腰を下ろした。

 

「話したいことがある。口にしたくないことは知らぬ存ぜぬで構わない。独り言だと思ってくれ」

 

「おまえの話なんざ聞く義理はねぇよ」

 

「イリスの為なら聞けるだろう? 俺は嫌いでも、どういうわけかあんたはイリスを嫌っちゃいない……違うか?」

 

「嬢ちゃんはおまえみたいに、憎ったらしい面構えじゃねぇからな」

 

 さっさと話せと言わんばかりに顎をしゃくり、関心なさ気に男は上を向いて目を閉じた。

 

「寺を後にしたときに受けた毒と同じモノを、またこの体に受けた」

 

 二度目の毒のこと、寺で受けた治療のことを事実のままに話していく。蘇った記憶もそのまま言葉にした。紅のこと、おばばの事は黙っていた。彼らの許可無しに口外してはならない気がしたから。

 

「ここへ来る直前に、妙な宿屋に足を踏み入れてね、そこで女に会った。イリスを知っていたし、イリスも女のことを知っていた」

 

 睫さえ振るわせることなく能面を貫いていたゴザ売りが目を見開き、ヤタカを拒絶するかのように胸の前で組んでいた腕が解けて宙に浮く。

 イリスの口調が妙だったことなど、ヤタカはゆっくりと話して聞かせる。

 語り終わってヤタカが口を閉ざした後も、何かを思い出すようにぎょろぎょろと忙しなく動いていたゴザ売りの目玉が、イリスの寝顔にぴたりと止まる。

 

「その嬢ちゃん、寺に貰われる前に百度を踏んだのかも知れねぇな」

 

「百度参りのことか? 寺の書物に仏教用語として書かれていた程度だが、平安後期から今に至るまで密かに残っている、ただの民間信仰じゃないか。それがどうした」

 

「気は持ちよう。己の足で百度を踏み願を掛けることで、神仏に願いを届ける道を得ようとする。無心の行いが、願いを叶えることもあるだろうよ」

 

「だとしても、寺に入る前のイリスは小さな子供だ。そんな幼子が何を願う? 本殿と百度石の間を百回廻るなんて、体力的に考えても無理だ。仮に百度参りをしていたとして、それが何の害になる? 足に豆ができた程度だろうよ」

 

「だといいがな」

 

 イリスの寝顔を見つめたまま、ゴザ売りの寄せられた眉根が緩むことはなかった。

 

「その女、固有の姿を持たぬ者ゆえ、人の形をとったのだろうな。寺が崩壊してから、ある噂が流れた。雨雲の移動と共に場所を移しては、雨降る夜に聞こえてくる声。雨音が泣くっていうんだよ。寂しそうに、恋しそうな声を上げて女の声で泣くんだと。昔からこの手の噂は多いがオレ達の内輪じゃ、女のことを水気の主と呼んでいる。雨に葉が擦れる音を、肝の小さい野郎が聞き違えたとばかり思っていたが、そうとも言えなくなっちまった」

 

 あの人を返しておくれ……女の声がヤタカの耳の中で木霊する。

「オレ達の世界は、嘘も真もひっくるめて噂が飛び交う。当てにならない戯れ言と思って聞くといい。旅人の耳を潤す戯れ言だ」

 

 ヤタカは頷き、足を組み直して正面からゴザ売りに向き直った。

 

「ある村があってな、そこはやたらと女ばかりが産まれる村だった。長男がいればそれで良し。男がいなくとも、長女以外は年頃になれば外の村へと嫁いでく。女腹の村だったんだろうな。ある年、女の子が生まれた。なんてことない普通の出産だったらしい」

 

 ゴザ売りは今気付いたようにばつの悪い表情を浮かべ、イリスの寝顔から視線を剥がすと冷えかけた茶を湯呑みに注ぎ、ごくりと喉に流し込んだ。

 

「産まれた子は、内側から光りを放つような漆黒の瞳を持つ女の子だという。普通の者でさえ惹きつけられる瞳だがこの目ん玉、数十年、百年越しの年月を経てぽつりとその村に女児として産まれていた。頑なに語り継がれても、目にした者が亡くなって世代が変わればただの伝承となる。当の村人達でさえ言い伝えと思い込んだ頃に、必ず産まれるんだとよ」

 

「その瞳を持つ子は、他の子と何が違う? 課せられる役目でもあるのか?」

 

 ヤタカの問いに、ゴザ売りはゆっくりと首を横に振る。

 

「村の古い覚え書きにも、役目については何も書かれていないって話だ。ただな、そういう子が産まれる前の年は、必ず山が騒いだという。山深いところから、異種が集団ではぐれたように姿を見せる。今みたいに異種が人里にでかい顔して降りてくる前にも、山と生活を共にする者には感じられる異変は起きていた。その間隔はまちまちだ。子供がぽつりと産まれるのと同じくらいに」

 

「歴代の女の子と、異種の暴走の因果関係は?」

 

「わからねえ。ただな、漆黒の瞳を持って生まれた子は、十歳を待たずに命を落とすことが多かったらしいぜ。短命なのさ。生き延びたとして、両目の視力を失うのが常だったというから、惨い話じゃねぇか。何の因果かね。子供が死ぬか、視力を失って数ヶ月もすると、山のざわめきはぴたりと止まる。」

 

 山裾へ散らばった異種が、人の気配のない山奥へ戻ったということか? ヤタカは指先で顎を捻って眉根を寄せる。

 

「因果関係も解らない話をなぜ俺に? イリスにも関係ない話だ?」

 

 そう急くな本題はこの後よ、とゴザ売りは考えるように顎を撫でる。

 

「その村の背中を守るように座する小さな山を二つ越えると、山間の平地に寺があった。朽ち寺だという噂だ。漆黒の瞳を持つ子を産んだ母親は、娘の歳が三歳の終わりに近づくと幼子の手を引いて、寺へ出向いて願を掛ける。いわゆる百度参りってやつさ」

 

 ゴザ売りが茶で喉を潤すのを見て、ヤタカも湯呑みから一気に茶を口に含んで飲み込んだ。張りついた喉が、生温い渋さに押し開かれていく。

 

「ただの風習だと思われていたらしいぜ。百度参りへ行くことは定められていても、今まで百度を踏んだ者達がどうしたのか、どうなったのかはいっさい記録に残っていなかったらしい。願いは母親の自由。娘の延命を願う者が多かったんじゃねえか、ってのは噂好きな野郎どもの憶測だ」

 

「命を奪われるくらいなら、両目を失う方を願ったのか。辛い選択だな」

 

「だがな、ある母親はこう願った。『娘の願いが叶いますように』ってな。小さな娘は、自分が特別だなんて思っちゃいない。大きくなったら、お嫁さんになるんだと張り切っていた。生きて幸せを掴んで欲しかった……親心からの願いだろう。だが、その願いがややこしい事を引き起こしちまった。百度を踏んだ母親の願いは、娘の願いを叶えちまったのさ」

 

「結婚できたってことか? ならいいじゃないか」

 

 ゴザ売りが呆れ顔で首を横に振る。

 

「お嫁さんになるって願いが、一番の願いじゃなけりゃどうなる? 幼子だって本心ばかり親に明かすとは限らない。素直で正直な子供なんてのは、大人が産みだした幻想さ。その子には、親には言っていない秘密の願いがあった。願いは受け入れられ、それを叶える方法を母親は娘に話してしまったのさ」

 

「話が見えてこねぇよ」

 

「母親に聞いてその子がやったのは、百度参りじゃねぇ。逆さ廻り、そう呼ばれる参り方だ。あの村と、あの寺だけに言い伝えられてきた、逆さ廻り。間違っても、子供がするようなもんじゃねぇ。村の存亡がかかっている大事に、遠い昔、村の長老が試したって記録が残っているだけだ」

 

 顔の見えない幼女が小さな足でぺたぺたと、本殿で手を合わせては百度石を廻り小枝を積み上げて回った回数を残していく様子を想像して、ヤタカはぶるりと首を振る。

 民間に伝えられる百度参りなら昼間がよいとされてはいるが、人に見られたり知られるのを良しとしない地方もある。そんなときは人目を忍んで夜中に参る。裸足で廻るのが良いともいわれるが、百回廻れば柔らかな足裏の皮も剥がれるだろう。

 一回りしては百度石の脇に小枝や小石を重ね、参った数を数えていく。

 人目を忍ぶ若い娘などは百日の間、毎夜通って百度を踏むこともあったという。

 逆さ廻り……嫌な言葉だとヤタカは奥歯をぎりりと鳴らす。

 

「これは憶測だが、村の山奥にあった寺だけはたったひとつの目的のために在り続けたのだと思う。寺ってのは形だけ。漆黒の瞳を持って生まれた子を持つ母親に、娘の先を決めさせる為じゃねえかな。昔の事だ。盲目の娘として生涯ひとりで生きていく運命を背負わせるか、いっそ親の腕の中で安らかに生を終わらせるか」

 

「だとしたらなぜ、その母親はなぜ娘の願いを叶えようとした? 決まり事を破ったのか?」

 

「言い伝えだと疑っても、娘の万が一を思えば願うことは自ずと決まる。だから、明確な文言なんてものはなかったんだろうよ。嫁に行くなら生きている証。嫁に行ったなら、娘は孤独ではない幸せな人生が得られるかも知れない。そんな思いだったんじゃねぇか?」

 

「だが、寺を司る意思は人の想いの裏など読み取らない。言葉そのモノを叶えた……か」

 

 寺に宿る意思とはいったいどのような者だと、考えたところで何も浮かばない。

 

「願いを聞き入れられたことで、娘の願いを叶えるための方法を母親の口が勝手にしゃべりだした。意思に反して口が動く、言葉がでる。勝手に口から零れる言葉を耳にした母親は、その時初めて娘の本当の願いを知った。自分の言葉が、娘と自分にどのような運命をもたらすかもな。直立不動で逆さ廻りの方法を娘に語りながら、無表情の母親の目からは涙が流れていた。自分の意思では、どうにもならない理の向こう側へ行っちまったのさ」

 

「言われた通りに逆さ廻りをする我が子に、母親は止める言葉さえかけられなかったんだな。止めれば、娘の願いを邪魔することになる」

 

 そうだ、ゴザ売りが頷いて大きく息を吐く。

 

「普通なら何の決まりもない。ただ往復するだけ。だがあの寺は拝殿に参った後右回りに百度石をくるりと廻って参る決まりだった。鈴は最後に一度だけ鳴らす。逆さ廻りは百度石を左に廻る。あらかじめ百本積んでおいた小枝を、廻る事にひとつずつ遠くに投げて捨てていく。積むのではなく捨てる。後戻りできないことの証なんだとよ」

 

「その準備も母親が?」

 

「母親と一緒に数えられもしない数をいいながら、小枝を積んだのは娘だ。逆さ廻りを実行したら、何が得られて何を失うか聞かされたところで、幼い頭で理解できやしない」

 

「その子は、逆さ廻りをやり遂げたんだな」

 

「あぁ。小枝を折って集めた時点で指先からは血が滲んでいた。ちっさい素足で、きっちり百一回廻った。百個の小枝が全てなくなってから更に一回廻り、黒ずんだ賽銭箱に一滴自分の血を入れて鈴を鳴らす。願いは……叶えられた」

 

「いったいどんな願いをかけたんだ?」

 

「それは本人にしかわからない。逆さ廻りは知りたいと願うことを知ることができる。だが、記憶が残るのは百度石に戻るまでの間だけ。答えを得る代わりに、記憶を失うといわれている。ただひとつ、腕に一文字残すことだけが許される。何を知ろうとしたのか、誰の事なのかは覚えてるというが、肝心の内容は記憶に残らない。その答えを、逆さ廻りをした者は腕にしたためる一文字として残す。そして百度石を通り過ぎて、我に返った時には、自分がどこの誰だかわからなくなっている。その日、寺を出て行く幼い子の左腕には、福笑いみたいにミミズが這った字で『空』と書かれていた。女の子は、それをみてにっこり笑った」

 

「まるで寓話だな」

 

「どうだかな。十何年前になるかな……山中の荒れ寺の脇で、獣にやられた女の骨が見つかったぜ」

 

 ぞわりとしたものがヤタカの背を這い上がる。

 

「おまえが山中を歩いても獣の心配をしなくて良いのは、あの嬢ちゃんが異種宿りだからだ。母親も同じこと。獣を払う娘に山中に取り残され、身動きもとれないとなれば生き残る確立は極めて低いだろうよ」

 

 ゴザ売りの言葉に、ヤタカの胸で産まれた曖昧な疑問が、燻された虫のように表層に這い上がる。

 

「まさかその娘、生まれつきの異種宿りだとでも」

 

「おそらくは」

 

 黙り込んだ男二人の隙まで、イリスが顔を顰めて寝返りを打った。

 

「その子が、イリスだっていうのか?」

 

「当てにならん戯れ言といったろう? 旅人の耳を楽しませるために風が運んだ話だ」

 

 ちらりとだけゴザ売りの男を見遣り、ヤタカは組んだ手元に視線を落とす。

 

「その割りには詳しいな? 語っていて気付かなかったのかい? あんた、村での事は聞き語りだったが、寺の話はところどころ綻びが隠せなかった。語りながらあんたは、その目で見た過去を思い返しながら語っていたんじゃないのか?」

 

「勝手に解釈しやがれ。話を振ってきたのはてめぇなんだからな」

 

 荷物を手に立ち上がったゴザ売りは、座り続けて固まった膝を揉むと首をぐるりとまわして戸口へと向かう。

 

「泊まっていくんじゃないのか?」

 

「たまにはゆったり湯にでもつかろうと思っただけだ。これでも一応人なんでね」

 

「ならゆっくりしていけよ」

 

「そんな気分じゃなくなった。この部屋はてめぇの吐く息で空気がわりぃ。風通りのいい小屋ならまだしも、ここで布団を並べるなんざごめんだぜ」

 

 それ以上は引き留めなかった。ヤタカも本音をいえば、男といるのは息が詰まる。

 後ろ手に閉められた木戸が、僅かな隙間を残して動きを止めた。

 

「漆黒の瞳を持って生まれた子供は、水気の主にこよなく愛される。これも、風の残したお伽噺さ」

 

 水色の女の着物が脳裏に浮かぶ。

 

「ところであんた、幼なじみの二人に、毒気が残って体をやられたことは伝えたのか?」

 

「いや、毒が抜けていないことはあいつらも知っている。持ち直したからいいんだ。毒の正体が解らないのに、連絡しても無駄足を踏ませる」

 

 ふん、と馬鹿にしたような荒い鼻息が木戸の向こう側で漏れた。

 

「毒の種類が解らない……ねぇ。本当に、そうだといいが」

 

「いったい何を!」

 

 畳を蹴って立ち上がり、木戸をぶち抜く勢いで開けた向こう側に居たのは、目を丸く見開いて驚く仲居の姿だった。

 

「すみません」

 

 既に消えた男の姿を横目で探しながら、驚かせてしまった仲居に頭を下げる。

 

「いいぇ~」

 

 にこりと会釈して仲居は湯の道具を置き、布団を敷いて出ていった。

 騒ぎに目を覚ましたイリスがゲン太を手に、もぞもぞと這って布団に潜り込む。

 

「なあイリス、本当のわたしなんていないって、ずっと昔あの泉に置いてきたってどういう意味なの?」

 

 天井を向いて目を閉じたままイリスが首を傾げる。

 

「わからないや。浮かんだ思いを口にしただけ」

 

「宿であった女は、知り合いなんだろう?」

 

「うん、でもずっと会っていなかったの。寺の水辺にはおしゃべりさんがいたから、来ることができなかったのかな? ねぇヤタカ、許してあげてね」

 

「何を?」

 

「あの御方は本当はね、とっても優しいの。優しすぎて、いつか壊れてしまいそう」

 

「あの御方か。よほど身分のある者なのか?」

 

 さぁ、とイリスは目を開いて天井をみる。

 

「お宿ではいろんなことをはっきり思い出したつもりだったのに、何を思いだしたのか忘れちゃった。偉い人……なのかな?」

 

 イリスらしいといえばそうなのだが、普通の物忘れとは違う気がした。

 

「ばあさんじゃあるまいし、ちゃんと思い出しなよ」

 

 呆れ調子でヤタカがいうと、イリスはう~んと呻って口を尖らせ、指先で顰めた目頭を揉み出した。

 

「痛いのか?」

 

「思い出そうとすると、目の奥がチクチクするの」

 

 もう寝ろ、そういってヤタカはイリスの顔にどさっと布団を被せて立ち上がった。

 でもね、といってイリスがひょっこりと布団から顔をだす。

 

「ヤタカは大丈夫だよ! それは絶対なの!」

 

「わけわかんないよ? 何が大丈夫なのさ?」

 

 するとイリスは得意げに細い左腕を布団からだし、右の指先でとんとんと手首の下を叩いて見せた。

 

「だってわたしの一番大好きな字だもの。空、だもん!」

 

 おやすみ、小さく言ってイリスは布団を被った。

 がくりと畳に膝をつき、イリスが眠る布団をヤタカは呆然と眺めていた。

 

 

 

 

 




 読んで下さったみなさん、のぞいて下さったみなさんありがとうございます。
 今年は投稿スピードUPでがんばりたいです。
 次話も見に来ていただけますように。
 では!

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