翌朝、ゲン太を抱きしめたまま眠るイリスを置いて、ヤタカは小屋の外へ出た。
山のてっぺんに茂る木々の隙間から朝日が差し込んで、寺を失った平地に色を持たせていく。
シュイが持たせてくれた竹筒を手に水場へ向かう途中、空を見上げた視界の隅に岩牢の柵が目に入った。
毒草に苦しんでのたうち回った岩牢。
イリスと出会った懐かしい岩牢。
そして、記憶が途切れた場所。
ごちゃ混ぜの思いを引きずって足先が岩牢へと向かう中、ヤタカの気持ちはまだ揺れていた。
慈庭の手荒い修行のおかげで、ヤタカの体は植物の毒に対してかなりの耐性を持っている。毒を見極め避けて通れるようになっただけではない。その毒その物への耐性を得ることが、慈庭が据えた本来の目的ではなかったかと、旅に出てからヤタカは身を持って感じるようになっていた。
同じ山を駆け回っていれば、幾度も同じ植物に触れる。一定の期間を空けて、慈庭は必ず駆け回る山の範囲を変えていた。
あの頃は同じ場所を走り回って体が腫れ上がらなくなるのは、単に上手く植物を避けられるようになったからだと思っていたが、本当にそうだったのか。場所を変えてはまた腫れ上がった肌。
理由などわからない。全てを水の器の所為にするのは安易すぎる。
おそらくだが、ヤタカの体は同じ毒を幾度か受けると――その毒を毒と感じなくなる。
異物憑きなどと特殊な者でなくとも、異質な生業で生きる者の中には毒慣れするために、自ら毒を少量ずつ口にする者がいると聞いたことがある。
目的もやり方も異なってはいるが、慈庭はヤタカに似たような状態を故意に引き起こしたのではないだろうか。
「答えが無いものを、考えてもしゃあない」
ふくらはぎに意思を込めて、ヤタカは岩牢へ続く道を登っていった。
岩の柵が三本だけ膝の高さあたりで砕けて、その残骸は岩牢の外と内に大小の破片となって転がっていた。
「イリスはここから入ったんだろうな……たぶん」
記憶にないのは自分に関する最後の部分だけ。遠目とはいえ寺を襲う異常は見えていたのだから記憶がない状態でも、この岩牢から安易に外へ出たとは思えない。
岩牢の手前側に僅かに盛り上がる枯れ葉と小枝の山を避けて、端の方をひょいと飛び越した。
途切れた柵をくぐって中へ入ると、あの日円大が差し入れてくれたまんじゅうがのせてあった皿が、土埃に塗れて転がっていた。
細部まで探したわけではないが、小屋までの道程に骨の一つも落ちてはいなかった。
慈庭、素堂、円大をはじめとする懐かしいみんなの顔が浮かんでは消える。
「あの日俺は、みんなが朝に飲む茶に苦草の粉を入れて怒られたんだ」
額まで真っ赤に茹で上がって怒った慈庭の表情を思い出すと、くすりと笑いが漏れる。
「人の来る気配がして慌てたから、慈庭の分だけどっさり苦草の粉が入っちゃったんだよな。慈庭だから良かったようなものの、普通の人間なら気絶して三日間は腹を下している」
懐かしさに口元が自然と緩む。
数え切れないほど頭の中で辿った道を、視覚を通して追っていく。
今はイリスの泉が陣取る平地に立っていた寺が、記憶を写して朝日に照らされる。
笑いを噛み殺す寺の仲間達の間を縫って、慈庭に襟首を掴まれ岩牢まで引きずられた。 明日まで飯抜きだといった慈庭の目を盗んで、円大がこっそりとまんじゅうを乗せた皿を持ってきてくれたとき、辺りにはまだ日が差していた。
年の一番近かった円大は、いつだってこっそりヤタカに手を差し伸べてくれて、時には悪いこともこっそり教えてくれた。
風に運ばれた枯れ葉が積もる岩牢の中、ヤタカはそっと冷たい岩の壁を指先でなぞっていく。
徐々に腰下まで下ろしていった指先が、一つの岩の出っ張りに引っかかる。
「懐かしいな、秘密の抜け穴」
岩牢の中は刳り抜いたような岩肌を覆うように、人の手で様々な形の岩が積み重ねられ、その段差が体を横たえる場所となり、座禅を組む場となっている。その中の一つの岩を避けると岩牢の外へ繋がる抜け穴に通じていることを、最初に教えてくれたのも円大だった。人が膝を抱えたくらいはある大きな岩は、見た目にはびくりともせずに岩壁にはまっているように見えるが、大の男が力を込めれば簡単に壁から外れる。
ヤタカが力を込めると、岩牢の中に転がった岩は外見とは違って薄っぺらい一枚岩。
しゃがみ込んだヤタカは、抜け穴から吹き込む風が頬を撫でる心地よさに目を閉じた。
この抜け穴を素堂や慈庭が知らなかった筈はないだろう。だが二人とも、一度も抜け穴のことを口にはしなかった。堅物なりの温情だろうか。
「相変わらずきれいだな」
子供の頃ここから見る朝焼け雲が、ヤタカは好きだった。
寺のみんなはとっくに目覚めていて、山間に素堂の読経が響き渡る中、自由に浮かび自然に染まる雲を眺めながら羨ましさを感じたり、今日最初に訪れるのが鬼面の慈庭ではなく、湯気の立つ飯を笑顔で運んでくれる円大でありますように、とくだらないことまで祈っていた。
立ち上がって柵を握り隙間から外を見る。
鮮やかに記憶に残る寺の姿はもうない。毎日繰り返し思い返しているようでいて、無意識に遠回りに眺めていた記憶を、ヤタカは胸の底から引きずり出す。
記憶に残る最後の寺を、あの日の朝から辿ってみようと思った。
「些細なことも、変わらぬ日常も全てだ」
あの日も朝焼けを眺めながら、坂を登ってくるのが円大でありますようにと祈っていた。 急な坂の向こうから、つるりとした頭が見えたときには満面の笑みが浮かんでヤタカは思い切り手を振った。
人の手が入らなくなり一年、一冬を雪の下で過ごした枯れ葉と小枝が散らばる道の向こうから、人なつっこい円大の幻影が手を振る。
慈庭の目を盗んでまんじゅうを持ってきた円大は、しっと人差し指を口に当て悪戯っぽく目を細めて、柵の隙間からまんじゅうの乗った小皿を差し入れた。
飛びついて皿を取ろうとすると、ふざけた円大が皿を手放さないせいでしばしの引き合いとなり、ヤタカが作務衣の袖から伸びる円大の手首を思い切引っ掻いて勝負は付いた。
右手首に二本のミミズ腫れをつくり、血が浮いてきたと騒ぐ円大を手の平でひらひらと追い返して、ヤタカはひとりまんじゅうを頬ばった。
昼間はイリスも小屋に閉じこもったままだったから、慈庭が苦り顔で柵を開けてくれに来るのをじりじりとして待っていたというのに、あの日に限って日が暮れかかっても慈庭は姿を現してくれなかった。
「ありゃ相当怒っているなって、やばいなって思ったっもんな。今思えば、昼間から予兆はあったのかもしれない。慈庭や素堂の爺ちゃんにしか感じられないほどに、まるで砂山の砂が一粒転げ落ちる程度の変化が」
急な坂を登って早く慈庭の鬼面が姿を見せないかと、背伸びして柵にしがみつくヤタカの顔を夕日が赤く染め、その紅色が藍色へと谷間を染め始めた頃だった。
地の底を大槌で突き上げたような振動に、ヤタカの体が跳ね上がった。
突き上げる振動の波が徐々に早くなっていくことに気付いたヤタカは、這いつくばって岩の床に耳を当てた。
冷たい岩を通して、ごおぉぉ、という地鳴りが響く。
――これは地震なんかじゃない。
ヤタカの人としての本能か、それとも水の器が体の内で囁いたのか、瞬時にヤタカは岩を押し退け抜け穴から外へ出ようとした。
そして、凍り付いた。
耳を劈く悲鳴と怒号が、距離を無視して耳の奥に響き渡る。
固まった足を引きずって、柵の隙間に顔をねじ込み寺の方へと視線を向けた。
群青色の空気に包まれかけた山間で、寺を囲む広い平地の土が無数の強大なミミズを地中に放ったかのように、ところ構わず盛り上がって筋をなしている。
その盛り上がって筋をつくるものが向かっている先は、みんながいる寺だった。
ヤタカが駆けつけたところで、どうにか出来る状態とは思えなかった。
抜け穴を通って寺へ行くのは、恐ろしく遠回りになる。抜けた先は山の斜面の反対側。
――間に合わない
そう思って柵を殴った感触と共に蘇る感情に、ヤタカは早鐘を打ち始めた胸をこぶしで押さえ込んだ。
遠目にもバリバリと土を割って津波のごとく押し寄せるモノが、異常を察して外へ飛び出した二人の作務衣姿を呑み込んでいく。
盛り上がった土に押し倒されるのではなく、牙を剥くように押し寄せる土の尖端に地中へと引き摺り込まれる姿を、ヤタカは為す術もなく見つめていた。
「イリス!」
小屋に居るはずのイリスを大声で呼んだが、幾度声を上げても小屋の扉が開く気配はない。折ることも砕くことも出来ない岩の柵を、がむしゃらに叩いていたヤタカの手がぴたりと止まる。
「じいちゃん……素堂の爺ちゃん!」
止むことなく山間の空気を宥めるように響き続けていた、素堂の読経の声が強く大きく響き渡り、それはヤタカでさえ一度も耳にしたことのない抑揚の言霊へと変わっていた。
水の器がヤタカの体内で身震いする。。
その震えを乗せた血流が、ヤタカの聴覚に人以上のモノを与えたのかも知れない。
地面を押し上げて響く地鳴り中、止むことの無かった読経がぴたりと止んだ。
『――我と共に、全てを葬り去らん――』
打ち鳴らされた寺の鐘の中に、頭を突っ込んだときのように素堂の声が全身に響き渡る。
水の器が身を震わせ、ヤタカの内を駆け巡る血流が波打った。
「寺が……寺が呑まれていく」
寺を囲むように渦巻く土の津波に、歴代の僧侶達の汗を、笑いと涙を吸い取ってきたであろう厳かな佇まいの柱が、板張りの廊下が嫌な音を立てて崩れ落ちていく。
渦潮に呑まれた小舟のように、盛り上がった土の中心に最後に見えたのは、空を仰ぐように傾いだ縁側だった。
素堂の爺ちゃんが愛した山の木々を眺めるための、古く黒光りした縁側の板張り。
「イリス……イリス……イリス!」
叫ぶ視線の先で、波打つ大地が凪いでいく。
イリスは姿を現さない。
びくともしない岩の柵に手をかけ、手の平の皮が剥けるほど揺すったその時だった。
「―――」
野太い声が、聞こえた気がした。
声の方へ視線を向けたヤタカの目に入ったのは、寺を呑み込んだ土の盛り上がりから蛍のように湧き出て、空高く四方八方へと散っていく大小の光りの粒。
どくんと爆ぜた心臓に視界が白く染まる。
視覚を取り戻したときには、すっかり日の昇った現在の山の景色が一面に広がってるだけだった。
記憶を辿るはずの回想がすっかり記憶に溺れていたのかと、ヤタカは口の端で苦笑いを零しながら頭を振る。
現場に来たことが記憶を掘り下げてくれたのだろうか。最後に聞いた気がした野太い声のことなど覚えていなかったのに。
現実に意識が戻った今となっては、野太い男の声というだけの曖昧な印象で、何を言われたのか、誰の声だっがのかさえまったく思い出せはしなかった。
「取りあえずは、水だな」
砕けた柵の間から外へでようとしたヤタカは、柵の前にこんもりと吹き溜まった枯れ葉に目をやり、何気なくその表面を手で払った。
さらさらと払っていた手がぴくりと止まる。退けた枯れ葉の下から灰色に乾ききった蔦が出てきた。更に葉を退けると、こんもりとした固まりの僅かな表面を枯れ葉が覆っていただけで、下には細い蛇がとぐろを巻いたように蔦が幾重にも絡まっていた。
「これって本当に蔦なのか? こんなに棘の生えた蔦なんて見たことがない」
枯れているとはいえ、目にしたことのない植物に興味が湧いた。しゃがみ込んだヤタカは蔦の根元付近には棘が無いことに気づいて、そこを掴んで引き寄せようと柵の隙間から腕を伸ばした。
「痛い!」
片膝を立てようとしてバランスを崩した手が、乾いた蔦の棘の先を擦った。あまりの激痛にざっくり指先が裂けたかと思ったが、ぷつりと血が滲んでいるだけで大げさな傷など見当たらない。
「この蔦、もしかして棘に毒を含んでいるのか?」
すっと引いた痛みの代わりに、指先から腕へと痺れが這い上がる。
毒を運ぶ血流を止めようとしても手段が無い。止めることで毒が滞り、悪い事態を招くこともある。ほんの一瞬の躊躇を見逃すまいと、あっという間に痺れは首筋を這い上がり、ヤタカの思考と視界は己の手から完全に離れていった。
二つの景色が、重なり合う。
「ヤタカ?」
薄れていく現実の尻尾に聞こえたのは、目を覚ましてヤタカを探すイリスの声だった。
自分の体が柵を掴んで揺さぶっている。夢から覚めたばかりのように朦朧としたヤタカ自身にそんな意思はない。もう一人の自分にぼんやりと意識だけが乗っている――そんな感じだった。
――これは記憶だ。さっきまで辿っていた記憶の途中。
意思を持ったとしか思えない地面の盛り上がりに、縁側の端が浮かびあっという間に呑まれて消えた。
イリスを呼ぶ自分の声が、聞き慣れない他人の声みたいでヤタカは目尻を押さえようとしてはっとする。
今のヤタカの意思で動かせるものなど何も無いのだ。目尻を押さえる指先さえ、過去の物なのだと。
少しでも気を抜くと視界が霞みに曇っていく。理屈などどうでも良かった。今見ているのは――
――俺の持つ過去の記憶だ。
思い出そうとする意思に関係なく進んでいく景色に、心がわなわなと震えた。同じ場所で途切れるかも知れない。だがその先があったなら、見たことを後悔するのではないだろうかという思いが不安と共に湧き上がる。
「ヤタカ! 無事かヤタカ!」
野太い声が坂の向こうから響く。
――記憶が続いていく。
心が震えたのは続いた記憶への驚きだけではなかった。聞こえてきた野太い声は、懐かしい慈庭のものだったから。
全力で駆けつけたであろう、慈庭の体はボロボロだった。法衣は裂け、覗く肌からは赤い鮮血が流れている。
勢いのままぶつかるように柵にしがみついた慈庭の膝が折れ、傷の所為か小刻みに震える太い腕で鍵の束を握る。
「ヤタカ……逃げろ!」
大きな鉄の錠前に、鍵が届く寸でに慈庭の胸が跳ね上がった。
「慈庭!」
過去のヤタカが慈庭へと手を伸ばす。
「逃げろ……許せよ……ヤタカ……」
「慈庭、駄目だ!」
鍵を握る手がだらりと下がり、慈庭の大きな体が後ろへと引き倒された。
はだけた法衣の胸からは、背後から突き刺さった三本の蔦が鋭い切っ先を蠢かせ、慈庭の体を引き摺っていく。
ヤタカの絶叫が山間に木霊する。
――あの声は、慈庭だったのか。俺を助けようとして、慈庭は死んだ。
感情に反して感覚が研ぎ澄まされていく。全ての音が光景が、一欠片も拾い損ねるなと言わんばかりにヤタカの中へ流れ込む。
過去の自分が柵から腕を伸ばし、遠ざかる慈庭の体を掴もうと足掻いていた。
慈庭の命を奪った者への怒りと、イリスの側に得体の知れない危険が迫っている焦りが記憶を追うヤタカの中にも滝のように流れ込む。
寺を呑み込んだ大地は何事も無かったかのように、静かに山間にのっぺりと広がっていた。慈庭の体が崖の向こうへ姿を消し、膝を着いたヤタカの耳に新たな声が響いた。
「ヤタカ! いるかヤタカ!」
「円大! 生きていたのか?」
慈庭が引き摺り込まれた崖の、かなり離れた場所から這い上がって来たのは、つるりと丸めた頭から血を流す円大だった。
「慈庭が殺された。イリスも姿を見せない!」
「落ち着くんだヤタカ。寺はやられたが、何がどうなったのか解らないんだ。とにかく逃げろ、今すぐだ」
「柵の鍵は慈庭が持っていた。開けられないんだ。イリスがまだ小屋にいる」
円大は頷くと、作務衣の袂から小さな壺を取りだした。
「これは人の体に害はない。ただ、岩に染み入って脆くする。少し離れて」
ヤタカが後退るのを確かめた円大は、壺からねっとりとした黒い液状の物をすくいとり、数本の岩の柵に乱暴に塗りたくった。
岩には何の変化も見られない。これで本当に砕けるのかとヤタカが不安に眉根を寄せると、円大は頷いて微かに微笑んだ。
「イリスを連れて、抜け穴から山を越えて街道に出るんだよ。はっきりしたことが解るまで、目立たないように生きるんだ。いいね?」
「円大も一緒にいくだろう?」
その問いに、円大はゆっりと首を横に振る。
「ぼくは腐っても寺の僧侶だ。まぁ、似非坊主だけどね。ここで少し調べたいことがあるから。それが寺のみんなの供養になるって、信じているんだ」
「どうやってあの場から逃げ出した? あっという間の出来事だったのに」
「兄弟子達の言いつけで、寺からは離れた場所で作業をしていたから。一番の役立たずが生き残っちゃったよ」
黒い液体で汚れた手を、尻に回して拭き取る円大の体が跳ね上がる。
「円大!」
円大の肩からは、慈庭の胸を貫いたのと同じ蔦が一本突きだしていた。
反射的に黒く塗られた岩の柵を拳で砕いた。
「イリス!」
墨の燃えかすを砕くように、あっけなく岩の柵が砕けて落ちる。
小屋を飛び出してきたイリスが見えた。
そこからはあっという間だった。
片手を後ろに、固まったまま目を見開く円大の体を、どこから湧いたのか蔦が幾重にも絡まっては伸びる。
蔦の隙間から円大の右手を掴んだ。手首には、昼間ヤタカが引っ掻いたミミズ腫れが赤く盛り上がって残っている。
「今助ける! 外へ出るからまってろ!」
走ってきたイリスが、砕けた柵の間から体を滑り込ませヤタカにしがみつく。
「外へはでるな、直ぐに逃げるんだ」
「嫌だ!」
「いいから……行けよ」
円大の手を握るヤタカの手に、イリスの手が添えられた。
鞭のように一本の蔦の先が二人の手を弾き、焼けるような痛みに僅かに力ら緩む。
「行け」
円大の手がするりと抜けて、棘だらけの蔦に囲まれた体が崖の向こうへと転がっていく。
「イリス、逃げるぞ!」
イリスの手を取って横穴へと潜り込む。
繋いだイリスとヤタカの手の甲には、点々と棘が刺さった後が血を滲ませていた。
毒のせいだろうか、意識が朦朧としていた。
最後に振り返った崖の縁に誰かが立っていて、頭上に伸ばした手に黒い影が吸い込まれていくように見えたが、まるで影絵でも見ている様で、ヤタカの意識はぷつりと途絶えた。
「ヤタカ? 起きてよヤタカ」
イリスの声に目を覚ましても、しばらくは深い霧の中にいるようだった。白い霧の中イリスのシルエットがふわりと浮かんでは消えて行く。
体を起こされて口の中に冷たい水が流し込まれ、心配そうなイリスの表情が目の前にあるのに気付いたヤタカはふっと笑みを零した。
「近いよ、イリス」
鼻緒をぺたりとさせたゲン太が、ヤタカの膝の上で不安そうにカタカタと揺れている。
「なんだ、ゲン太も一丁前に心配してくれたのか?」
ヤタカの憎まれ口に安心したのか気分を損ねたのか、ゲン太はさっさとイリスの後ろに隠れてしまった。
「イリス、柵の前の枯れた蔦には触るなよ。俺は色々と思い出したよ。その棘の毒は、前にも一度刺されている。だから今回は回復が早い。その上、予想外の土産もつけてくれたしな」
「歩けるの?」
「大丈夫だ。ゲン太は、慈庭や円大のことは知らないよな」
とことことヤタカの横にやってきた、ゲン太の木肌に文字が浮かぶ。
――えんだい まじめ
「知っているのか? じゃ慈庭のことは?」
文字が揺らいで新たな文字が浮かぶ。
――じてい おとなになった
「なんだそりゃ?」
――じてい つまらない
「大人になった慈庭は、つまらかったっていいたいの?」
珍しくイリスの問いを無視して、ゲン太はさっさと歩き出した。
「まあいいや、行こう。何を見たかは歩きながら話すよ」
くらくらする頭の芯にふらつきながら、ヤタカは岩牢を出た。
山を離れるときに、この蔦の残骸は燃やしていこうと思った。
足で蔦の一部をへし折り、棘が刺さらないように布に包んで懐にしまう。ヤタカでさえ知らないこの蔦の正体は、いずれあの人影へ繋がる手がかりになるだろう。
立ち上がろうとしたヤタカの視線が一点に吸い寄せられた。
イリスに気づかれないようさりげなく摘んだそれを、そっと懐に押し入れる。
雨風にさらされ変色してるが、この切れた鼻緒には見覚えがあった。
何度この鼻緒がついた下駄に悪戯したかわからない。
色褪せた紺色の鼻緒は、庭に出るときだけ慈庭が履いていた、愛用の下駄のものだった。
慈庭の形見だが、この場でイリスに見せるのは、あまりにも記憶が生々し過ぎるだろう。
イリスが泣くのは、やっぱり嫌だった。
「ここを出たら、ゴテと
「野草師の野グソ? うん、もうそろそろ薬草のお届け時期だから、黙っていても来るかもよ?」
「あいつら二人揃うと、騒がしくてな」
「にぎやかでいいじゃない」
――ばばあ まってる
急かすように、ゲン太がかんかんと身を鳴らす。
「今の俺には、おまえらだけでも十分煩いよ。あぁ、あったまイテぇ」
ぽつりぽつりと話すヤタカの声に、イリスは黙って聞き入りながらゆっくりと歩いて行く。
そんな二人の様子に構うことなく岩場を踏みならして先を行く、ゲン太の下駄の歯の音だけが途切れることなく朝の山間に響き渡っていた。
読んで下さったみなさん、ありがとうございます!
すっかり、どっかり遅くなってしまいました。
年によって、秋と春先はだめなのですねぇ……アレルギーのバカヤロー!
次話は通常モードでさくっと仕上げられたらと思います。
次話もお付き合いいただけますように。
もう少しで、野グソ登場ですっ 品がないですね~(笑)