ボーダレス ホルダー   作:紅野生成

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11 ゲン太と紅と花咲くおばば

 波のように寄せては引く吐き気を奥歯で噛み殺し、ヤタカは泉の周りに目を懲らす。

 白い釣り鐘状の小花がびっしりと生える隙間を縫うように、見覚えのある異種が幾種類も一番種を実らせる直前まで育っていた。それぞれの異種がどのような種類に属するかを知るヤタカにとって静かに葉を広げる姿は、狙う獲物を待ち腰を引き下げる獣にしか見えなかった。

 

「お月様だ。まんまるお月様」

 

 イリスのいうとおり、上空を吹く風に雲が流され丸い月が顔をだした。

 

 かん

 

 ゲン太が身を鳴らす。眠ったように動かなかった赤い漆の金魚が、飴色の木肌の表面を水を得たようにすい――と泳ぎ出した。

 

「イリス、ありゃ何だ?」

 

 突然吹き付けた風は、泉を囲む外側から中心に向けて一気に駆け抜け、白い小花達を茎ごと激しく揺らした。

 

「花粉……かな」

 

 山間を照らす月明かりでさえはっきりと、黄色い微粉が宙に舞ったのがわかる。手にした松明の灯りを、霧のように舞散った粉が反射させる。

 

「ヤタカ、変だよこの花粉。ほら、泉の向こう側を見て。あそこだけ黄色い煙が渦巻いているみたいに見えるでしょう?」

 

 指差すイリスの腕を引き、泉の側から引き離す。

 イリスが手にした紐に必然的に引かれる形となったゲン太が、飛び上がってヤタカの前に着地した。

 

――ばばあ あう

 

「今はそれどころじゃない。異種に囲まれたうえに得体の知れない現象が起きているんだ!」

 

 かん

 

――しんぱいない

 

 浮かんだ文字が揺らいで消える。

 

――あれ ばばあ

 

「あの黄色い煙の固まりみたいなモノが?」

 

 それ以上ゲン太は文字を浮かばせず、まるでばばあの出現を見逃すまいと目を懲らすように、じっと身を固めて黙り込んだ。

 花粉とおぼしき黄色い煙状の固まりは、渦を巻きながら徐々に小さく形を変えていく。

 ヤタカの膝上くらいの大きさまで縮まると、渦巻いていた黄色い煙の動きはぴたりと止まり、月明かりにその姿を露わにした。

 

「あいや、やっとまともにしゃべれるわいな」

 

 泉の縁に背を丸めてちんまりと座る、老婆の姿があった。

 人がそこにいるのかと問われれば、否。黄色い煙の微妙な起伏が月明かりを浴びて、老婆の姿を映し出している――そうとしかいいようがない。

 

「おや、出来損ないの下駄ぼんずじゃないか。おやおや紅まで連れて」

 

 朧な姿と裏腹に、老婆特有の嗄れた声ははっきりとしたものだった。

 手招きする老婆に引き寄せられるように、イリスがゲン太を連れて歩き出す。

 

「わたしの、おしゃべりさん?」

 

 肩を掴もうと伸ばしかけたヤタカは、拳を握って腕を引いた。ここで何が起きようと、止めようもなければ逃げようもない。ならば、成り行きを見守ろうと思った。

 イリスを追い抜いて、ゲン太が跳ねていく。

 膝にぴたりと寄り添ったゲン太の鼻緒を、月明かりに淡く浮かぶ枯れ枝のような指先が撫でる。嬉しそうに身じろいだゲン太の木肌に、ばばあ、と文字が浮く。

 

「おんやまぁ。出来損ないの下駄ぼんずが、一丁前に口を利けるようになっとる。イリス、久しぶりじゃのう。覚えておってくれて、嬉しいよ」

 

 イリスのいうおしゃべりさんと、ゲン太のばばあは同一人物ということか。だがそんな話を、寺でイリスは一度もしたことがなかった。

 首を捻るヤタカの心中を察したように、ばばあがくくっ、と笑う。

 

「あんたはヤタカじゃの。わっちのことを知らなくても、そのことでイリスを責めちゃいかん。わっちのことを知っとったんは、寺でも二人しかおらなんだ」

 

「俺の事も知っているんだね。二人ってことは、イリスともう一人は素堂のじっちゃんか」

 

「いんや、もう一人は慈庭だで」

 

 直ぐには返す言葉が見つからなかった。イリスが自分に秘密にしていたことよりも、あの寺の中で慈庭が素堂に隠し事をしていたなど、俄には信じがたいことだった。

 

「慈庭がね、おしゃべりさんのことは、誰にもいっちゃいけないって。だから言わなかったの。ヤタカに宿っているのが、水の器だから時期が来るまで伏せていなさいって。水の器がね、自分が何者なのか思い出すまでは、きっとおしゃべりさんのことを嫌うだろうからって」

 

 少しだけ申し訳なさそうに、ヤタカの顔を覗き込むイリスの顎をぺちりと弾いて、構わないよ、と頷いてみせる。

 

「おばば、あなたは異種の意思が人を模ったものなのか? こんなことを言いながら、俺は異種に本能意外の意思があるなんて、これっぽっちも信じちゃいないんだが」

 

 おばばは目を閉じ、瞼の裏から記憶を探るように首を傾げた。

 

「わからんの。だがここに留まり、寺跡に集まる者達が持つ記憶の欠片を繋ぎ合わせて、見えてきたこともある。だがそれは継ぎ合わせた記憶じゃからの、憶測に過ぎんともいえる。その憶測に縋って、わっちは此処におるのだがの」

 

「おしゃべりさん、寺にいた頃は一度も人の姿になったことなんてなかったもんね。たった一本の茎に咲いたいっぱいの白い小花が風に揺れて、話してくれるだけだった」

 

「あの時の自分がどうして単独で咲いていたのか、今は群生してここに咲くのか、本当のところはわからん。覚えておらんのじゃよ。ただきっと」

 

 異種と呼ばれるものなのだろうよ――と、ばばあが呟く。

 

「繋ぎ合わせの記憶でも構わない。教えてくれないか? 俺はこの寺が消えた日の最後の記憶だけがない。思い出すきっかけに成るかもしれないから」

 

 ヤタカをちらりと皺の底から覗き見たおばばは、梅干しみたいに口を窄めて頷いた。

 

「ヤタカの失われた記憶の意味はわからんよ。じゃがの、わっちら異種や異物にとって必要な記憶が抜け落ちたのは、イリスとヤタカが原因じゃろな」

 

 イリスが息を呑む音が聞こえた。大きく息を吸い、ヤタカはおばばに話の先を促した。

 

「イリスの目に宿る異種と、ヤタカが身に宿す水の器はの、何らかの理由があって共存していたはずだというのじゃよ。多くの者の記憶の断片が、本能のようにそう告げるらしい。この二つが自然界で引き離されるどころか、二つの体に別れてしまったことこそ、わっちらの記憶の中核が失われた事の始まりだと思うておる」

 

 異種と異物の共存。寺にいた時は考えもしなかった。ヤタカの視線がすとんとゲン太の背に落ちる。行き場を見つけたように、表へ裏へと赤い漆の金魚が泳ぐ。

 寺はいったい自分に何を教え、何を隠そうとしたのだろう。寺へ向けた岩版の様な信頼が、岩場の小石を突いたようにぱらぱらと崩れ落ちるような――あってはならない心の揺らぎがヤタカを襲う。

 

「異種や異物との意思の疎通など、出来るわけがない。百歩譲って、あいつらに意思と呼べえるものがあったとしても……」

 

 おばばに反論したつもりが、揺れるヤタカ自身へ無理矢理言い含めるような口調は尻窄みで、最後まで言い切らずに口の中でもごもごと噛み砕かれる。

 

「ヤタカったら、意地っ張り。おしゃべりさんに反撃するってことは、認めたのと同じだよ? 理屈はわからないけれど、自然には意思を持つ者がいる。それでいいんじゃない? 動いて表情があって、言葉を話せる者意外は何も考えていないなんて、人が勝手に思っていたことでしょう?」

 

 イリスの顔には何の疑念も浮いていない。その純真さと真っ直ぐな心根が、ヤタカには少し羨ましく思える。

 

「そうだな、納得はしていないけれど、否定もしない。否定する材料もないし、肯定する材料もないからな」

 

 小さく頷きながら、おばばはシワシワの手で泉の水を撫でた。撫でられた水面が、筋を造っては凪いでいく。

 物に触れて干渉できることに、ヤタカは素直に驚いた。

 まあいい。おばばを信じるわけではない。おしゃべりさんを信じている、イリスを信じようと思った。

 

「わっちが異種だとして……異種なのだろうな。わっちらの意思の疎通は人とは違うで。時に風が運び、地中を通して語り合う。人にわかるように話せる者がどれほどいるかは知らん。人とはいってものう、お前達のような変わり者相手でなけりゃ無理じゃろうよ。異物とて同じであろう。出来損ないの下駄ぼんずのように、意思を示せるモノもいるが、黙して語らぬモノの方が多かろう。いや、語る口を持たぬ。人と同じ言語を持たぬ。話せるモノ達は、何らかの形で人が関わっているであろうと、わっちは思うとる」

 

 おばばの近くにぺたりとイリスが腰を下ろした。

 

「こんなに異種に囲まれているのに、体がもぞもぞしないの。異種がそこにいるのは感じるよ。でもぞわりとくる感覚じゃないんだよね。実はね、ぞわりって感覚が薄らいできたのは少し前からで、不思議だった」

 

 ヤタカは不思議なものでも見つけたように、口を半開きにイリスに見入る。

イリスだけじゃない。ヤタカもまた、感覚の変化に気づき始めていたのだから。確信を持ったのは生意気な紳士の住む、あの宿屋に泊まった日だが。

 

――泉の側へ寄った時に感じた吐き気も、いつの間にか収まっている

 

「酔っ払ったり、文字を浮かべるゲン太に会って、そのゲン太に金魚が宿って……そんな光景を見ていたら、自分の中でずれていた何かが正しい場所に組み直されたんだと思うの。たとえば思い込みとか、認識とか」

 

「どういうことだ? 聞いている俺にもわかりやすくいってくれよ」

 

 ぺろりと舌をだして、イリスは肩を竦める。イリスはいつだって感覚でものをいう。

 

「だからね、思い込みによって絡まった糸の一本が解けたら、他の糸も抜けやすくなったってこと。異種は異物に宿らない。異物は異物に宿らない。その概念が間違っていたって自分の目で確かめた途端、ああそうかって。異種を宿す者は異種に敏感だけれど、本来はそれだけの事だったんじゃないかなって。訓練されない異種宿りが異種に近付けば、体や心が不快を感じるのは、単にそう教えられてきたからかもって」

 

「そう思いついた途端、異種が周りにあっても感じ方が変わったっていうのか?」

 

「うん」

 

 どうだ、上手く説明できただろう! というようにイリスが得意げにくいっと顎を上げた。苦笑いにも似た表情を浮かべて、ヤタカは呆れたように頭を振る。

 

「俺だけが感じる変化かと思っていた。どうして早くいってくれなかった?」

 

 すると不思議そうにイリスは小首を傾げる。

 

「だって、ヤタカもそうなんだなって思ってたから」

 

 そうか、イリスはぼんやりのびりしているようで、自分の周りはちゃんと見ている子だということを、共に旅する間に失念していた。

 

「話が収まったところで、さぁて。この子らの目的を遂げさせてやらんとのう」

 

 おばばはそういうと、ゲン太を摘み上げ泉の中にそっと沈めた。

 水面から鼻緒だけを浮かばせるゲン太の木肌を、一周くるりと回った赤い漆塗りの金魚が下駄の踵を乗せる方へと泳いでいく。

 もう一周するのかと思った矢先、ぴしゃりと尾ビレが水を弾く音が響く。

 

「うわぁ、きれい」

 

 四角い下駄の端で裏へと平坦に回っていくはずの、赤い漆塗りの口先がゆっくりと水面に躍り出る。木肌も水も変わらないと言わんばかりに、白と赤の入り交じる柔らかそうな尾ビレが水面に揺れる。それを確かめると、おばばはそっとゲン太を泉から引き上げた。 草の上に下ろされたゲン太が、雨上がりの犬のようにぶるりと身を振るわせた。

 

――へっくちん 

 

 浮かんだ文字にイリスが笑う。

 

「くしゃみをしとるところ悪いが、もう一度入っとくれな。終わったら、労いに酒を貰うといいじゃろ」

 

 おばばに見つめらて、ヤタカは荷物に手をやった。シュイが持たせてくれた酒入りの竹筒が指に触れる。

 

「どうして酒のことを?」

 

「臭っとるでよ」

 

 くぇくぇ、とおばばは顔をくしゃりとさせて笑った。

 

「さあ、お役目の時間だでよ。紅が待っとるで」

 

 おばばに鼻緒を摘まれてゲン太が、再び水面に沈められた。小さな泉の中を我が物顔で泳いでいた紅が、ゲン太の周りで円を描いて泳ぎ出す。

 ゲン太が激しく身震いすると、水面に細かく波が立った。

 水底に生える水草が、たった今月明かりに気づいたかのように若草色の光りを放った。

 淡い逆光に照らされて、ゲン太がゆるゆると下駄の尻を振る様が見てとれた。

 

「何だありゃ、まさか異種の種なのか? どうして泉の中で? どうしてだよ!」

 

 思わずヤタカの語気が荒くなる。

 ゲン太が尻を振るたびに、木肌から産み落とされるがごとく、黒い粒が水の中へと撒き散らされる。

 

「あら、紅が種を食べちゃった」

 

 イリスがそう思ったのも無理はない。撒き散らされる黒い粒を口の中に掻き集めるように、紅が忙しく泳ぎ回っている。

 ヤタカが見る限り一粒さえ残すことなく、紅は全ての種を口に収めた。

 

「お疲れじゃったの」

 

 そういって、おばばは水中からゲン太を引き上げた。

 

――ぺっくちょん

 

 さっきより大きな文字で、ゲン太が一発くしゃみをした。

 そんなゲン太を尻目に、泉の表面で悠然と紅の尾ビレが揺れる。泉の中央まで進んだ紅の動きが止まったかと思うと、身を半分に捩るほど紅は大きく尾ビレを曲げた。次の瞬間、水面から浮くはずもない紅の尾ビレが水を打つ。

 

 泉から数本の太い水柱がたち、互いにぶつかり合った反動で花咲くように大輪を描いて泉の外へと水を撒いた。

 体にかかった水の冷たささえ忘れて、ヤタカは紅に見入っていた。

 異種も異物も見慣れたヤタカでさえ、目を奪われる光景。

 

 ぴしゃり

 

 泉の端まで泳いでいった紅が、水際に生える水草の葉の間に紛れ込んだ。身を翻して泉を我が物顔で泳ぐ筈の紅が、ゆらりと尾ビレを揺らして真っ直ぐに進んでいく。

 草の合間から見え隠れする紅の姿に、あの辺りがまだ泉ならずいぶんと変形したものだなど、のんびりとした思いは直ぐにヤタカの頭から吹き飛んだ。

 座り込んだイリスの横に生える、丈の低い草が大ぶりの葉を重ねる中を、紅は悠然と泳いでいく。

 泉の水しぶきに濡れた葉の表面を綱渡りするように、紅の赤い体がゆらりゆらりと泳いでいく。

 

「ほれ、あれが紅の役目さね」

 

 おばばの言葉に目を懲らすと、濡れた葉の表面を器用に泳ぎ渡りながら、紅は口から一粒ずつ黒い種を吐き出していた。まるで田畑に種を植えるように、規則正しく黒い粒が吐き出され、転がり落ちては土へと呑まれる。

 さわさわと葉擦れの音が重なり合い、地面が揺れたようにふわりとした目眩を覚えたヤタカは一瞬目を覆った。

 

「広がった?」

 

 きょとんとしたイリスの声に、泉の周辺を見渡したヤタカは大きく息を吐く。

 泉を囲むように茂っていた植物の範囲が、僅かではあったが明らかに広がっていた。

 

 ぽちゃりと音を立て、紅が泉へと戻っていく。

 おそらくは含んだ種を、全て吐き出したのだろう。 

 

「紅は水で繋がれていれば、何処へでも泳いでいけるでな。どこでどう役目を決めたかは知らんが、出来損ないの下駄坊主が、この世に飛び散った一番種を集め、紅がそれを一所に集めることにしたんじゃろう。誰かに言われたか、自らの考えなんかは、わっしゃわからんな」

 

 宿屋あな籠もりで、紅が深皿に宿った理由がわかった気がした。汁物が注がれれば紅は器を自由に泳げる。動けるなら、これぞと思うときに僅かに零れた水を辿って、宿移りも容易い。

 

――最初から、ここへ来るつもりだったのだろうな

 

 だとしたらゲン太の様な存在が、異種の種を集めていたことも知っていたことになる。 どんな手段を使っても、役目を負ったモノは必ず横穴を通る。

 こいつらはいったいどこから情報を仕入れているのかと、ヤタカは首を傾げずにはいられなかった。

 

「ここに異種を集めて、どうするつもりなんだろう。人里から引き離すことが目的なんだろうか」

 

 独り言に近い言葉に、おばばはゆっくりと首を振る。

 

「記憶や確証があってやっていることではないだろうよ。わっちと変わらん。無い記憶の底で疼く何かにしたがって此処におる」

 

 月が揺れる訳もないというのに、おばばの姿がぐらりと撓む。

 

「ちょっと疲れたの。今宵はここまでじゃて」

 

「明日また話せる?」

 

「昼間は花言葉じゃけ、もどかしいがの」

 

 花言葉か。白い小花が鳴らす人の声。 

目を閉じたおばばを模る黄色い粉が、渦を巻いて夜の空へと散って消えた。

 

「水を被ってすっかり体が冷えたな。小屋はきっとあのままだろうから、今夜はあそこで眠ろう。途中で俺は湧き水を飲んでから行くよ。イリスは先に小屋に入って、着替えておくといい。風邪を引く」

 

「うん、ゲン太と一緒に先にいってる。紅は泉が気に入ったみたいね」

 

 水底から湧き上がる若草色の光りはいつの間にか消えていた。

 おばばの消えた後、月明かりは湖面に自分の姿を写すだけとなり、泉にいるであろう紅の姿は見えなかった。松明で覗こうと思ったヤタカは、水に繋がれていれば何処へでも泳いでいけるといった、おばばの言葉を思い出し慌てて手を引っ込めた。ずぶ濡れの肌を渡り泳ぐ紅を想像してぶるりと身震いする。

 

 山裾で荷物を預けてイリスと分かれ、久しぶりに腹一杯に水を飲んだ。シュイに貰った水は、今夜枕元に置くことにしようと思った。

 月明かりにぼんやりと影を浮かばせる岩牢に立ち寄りたい気持ちを抑え、真っ直ぐに小屋へと向かう。色々なことが一度に押し寄せて、岩牢に行っても何も思い出せそうになかった。

 何気なく振り返った先の光景に、ヤタカは目を見開き息を呑む。

 寺を失い更地と化し、おばばが守る泉が闇に潜むだけの山間に大輪の花が咲いていた。

 大輪というより、もはや花と名付けるべき光景だった。

 泉の辺りを花の中心にたとえるなら、おばばの姿を模った花粉に似た粉が舞った辺りだろう。淡い若草色を中心に、薄い光りの絹をなびかせたように山裾に届くほど大きく、白い花弁を広げて咲く大輪の花。

 現実にそこにあるのかと言われれば、触れられそうもない。淡い光りが生みだす大輪は、流れてきた雲が月を覆い隠すと、月明かりと共に姿を消した。

 

――あれが、おばば本来の姿なのか?

 

 ぶるぶると頭を振って、目にしたばかりの光景を振り払う。

 イリスに話すのは、明日おばばに直接話をしてからでいいだろう。さっきの様子では、おばば自身も自分の在り方に気づいていないのかもしれない。

 頬を叩いて強ばった表情を緩め、イリスの待つ小屋へと足先を向けた。

 

 小屋の窓からイリスが灯した明かりが漏れる。

 懐かしい光景に、昔に戻ったような感傷が胸に押し寄せる。

 だがそんな物思いも戸口を開けるまでだった。

 

「やだ~! はははっ ゲン太ったら上手!」

 

 ひとり騒いでいるイリスの声に、良くも悪くも思い煩う暗い気持ちが散った。

 

「いったい何を騒いでいるのさ……って」

 

 イリスが腹を抱えて笑う目の前で、ゲン太がかたかたと身をくねらせている。

 イリスの横には、酒が入っていたはずの小さな竹筒が口を開けたまま置かれていた。

 

「また勝手に飲ませたな! こら、イリス!」

 

 ごめんごめん、と涙目で振り返るイリスに呆れて、何気なくゲン太に視線を移したヤタカの口から、ぶっ、と不本意な笑いが吹き出した。

 

 かたかたと小刻みに動くゲン太の腹には、水に流したように黒い墨が浮いては消える。

 人の顔に似せた丸や棒のパーツが、妙な配置で描かれては消える様はまるで……。

 

「見てヤタカ! ゲン太の腹踊りだよ!」

 

 下駄の腹踊りなど見たくもないと思いながら、口の端から笑いが漏れるのを止められない。

 

「お調子もんが! これじゃ下手っくそな福笑いだろうが。飲みたけりゃ全部飲みやがれ! へべれけになりやがって、飲んべえ下駄め!」

 

 ヤタカが残りの酒をふりかけると、ゲン太はころりと一回転した。

 

「飲んだ酒の分くらいは、上手に踊ってくれよ!」

 

「いいぞゲン太~!」

 

――あい あい

 

 寺にいるときは、一度も入ったことのないイリスの小屋。

 ここで幼いイリスが何を思って一人過ごしていたのか――いまは余計なことは考えないでおこう。ほんの少し、全てを忘れる時があったっていいだろう。

 ただの若者に戻れたと思い込んで笑う日もなければ、神経も心もいつか千切れる。

 人は弱い――そんな思いを、ヤタカは笑い声と共に腹の底から吐き出した。

 

 酔いどれの下駄が、かかんかん、と拍子を打ちながら千鳥足で夜を踊る。

 竹筒の水を飲みながら、ヤタカは目尻に笑みを浮かべた。

 今を笑うイリスと共に、手を打ってヤタカも笑った。

 小屋の外では、しんしんと山間の夜が更けていく。

 煩いとでもいうように、再び月に照らされた泉の縁で、ぴしゃりと水をはねる音が響いた。

 

 

 




読んで下さったみなさん、ありがとうございます!
このお話、ある意味ゲン太が一番の自由人(笑)

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