ボーダレス ホルダー   作:紅野生成

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1 異物憑きの少年~過去

 やっと雪溶けを迎えた山裾の道に、土の道を擦る木の杖と二つの足音が響く。                                       

「イリス、手を出せよ。俺が誘導するから」

 

 ヤタカが伸ばし握りかけた手を、イリスはさっと後ろ手に隠した。払われた自分の手を眺めてヤタカは鼻から息を吐く。

 

「自分の感覚や杖を過信しすぎるな。なだらかだが岩の斜面が続いている。俺の手を握っていないと、転んで低い鼻が更に顔にめり込むぞ?」

 

 口を尖らせ自分の鼻を撫でたイリスは顔を背けながら、それでもヤタカの方へと手を差しだした。イリスに聞こえないように口の中でクスリと笑って、ヤタカはイリスの手を引き歩き出す。ヤタカは背中に大きな旅の荷を背負い、イリスは目元を布で覆い、手には奇妙に曲がった枝を杖の代わりに握っている。イリスが歩くと服の上から纏った薄衣と共に、黒髪が耳の辺りでふわりと跳ねた。

 

 

                   ***

 

 この世には土と水、日の光のもとに根付き種を落とす見慣れた植物とは別に、異種と呼ばれる植物が存在する。古より人が立ち入ることのない奥深い山で、ひっそりと命を紡いできた異質な静植物と動植物。

 自然の摂理を守る糸が何処で切れたのか、百二十年ほど前から異種は、人の住む平地へと山から湧くように這い出てきた。

 日を好むのは普通の植物と変わらないが、種を落とし芽吹く先は土ではない。

 異種は、血の通う生き物を苗床とした。

 獣、鳥、虫などに種として宿り、まるで蝉の幼虫が土の中で生涯のほとんどを終えるように、何年もその体内で眠りについた後に新たな種を落とし、子孫を残すために芽吹きの時を迎える。

 その時が来ると宿られた個体は一夜にして苔むし、生き物の形そのままに地に倒れた小山となる。種を落とし異種が枯れれば、かつて生き物であった苔むす小山は、自然の一部となり時間をかけて大地へと返っていく。

 異種を宿した獣が頻繁に人目につく平地へと、行動範囲を広げたのがことの始まりだったといわれている。種を落とした先に人がいれば、異種は迷うことなく宿るだろう。

 異種にとっては獣も人も、血の流れるただの生き物に過ぎないのだから。

 異種に宿られた者を、人々は「異種宿り」と呼んだ。

 

 そしてもう一つ、人々にとっては異種に比べまったく馴染みのない、異物と呼ばれる物が存在する。

 遺物や遺跡が人の手によって造り出された物ならば、異物は自然が気まぐれに吐き出した物なのかもしれない。異物とは、人間の手に触れて初めて人の目に見える物。少なくとも普通の人々にとってはそうである。

 たとえ目にしたところで、それを異物と気付く者はほとんどいない。

 自然に潜む姿をそのまま視ることができる者はごく僅か。野草師、ゴテ師の家系に生まれた者は血筋なのか、異物を視て感じることができる者が多いという。

 更にその内のひとつまみの者達が、悪意なき偶然か、異物の意思か……その身に異物を取り込むことも希にあった。

 異物を取り込んだ者は、宿した異物によって様々な奇行や奇弁を繰り返すようになる。 あるいは身体が可視、不可視の変化に見舞われる。

 異物の存在理由など、知る者は誰もいない。

 この世に異物が存在することを知る僅かな者達は、異物を宿した人間を「異物憑き」と呼んで古より哀れんだ。

 

 

時を遡ること十数年、まだ夏の盛りが過ぎない頃、八歳担ったばかりの少年を連れて、旅姿の僧が一歩、また一歩と山の木々の間を歩いて行た。

 遮る薄雲さえない夏の空のした、鬱蒼と生い茂る木々の枝葉に覆われた獣道は、陽光を遮る以上にじっとりと肌に纏わり付く湿気と熱を閉じ込める。

 

「ヤタカ、遠回りになるが、できるだけ川に沿って山を越えよう。水が無ければ辛いでああろう?」

 

 獣道をゆっくりと歩く僧の手には、ヤタカと呼ばれた少年の手が握られている。息を荒げながらも、僧についていこうとする 少年の細い足は、がしりと大柄な僧の歩みの倍の速さで必死に動いていた。

 

慈庭(じてい)、あといくつ山を越えるの?」

 

「二つほど」

 

 慈庭が振り向くことなく答えると、黒髪の前髪をはらりと揺らして、ヤタカはがくりと項垂れた。すでに三日は歩いている。うだるような暑さの中、ヤタカには大きすぎる作務衣を重ね着させられ、手には軍手、首から頭部にかけては目を除いて布をぐるりと巻き付けられていた。

 慈庭がいうには、山道には口にしなくとも微弱な毒を持つ植物が多いのだという。そして、ヤタカは恐ろしくそれらに弱い体質なのだと。普通の人間ならかぶれる程度で済むものでも、ヤタカが触れれば痛みを伴って赤く晴れ上がる。暑くてたまらなかったけれど、ヤタカは毒草に触れた苦しみはもっと辛いと知っていたから、文句を言うことなく歩き続けた。

 

「慈庭、水が飲みたい」

 

「もう少しで川が見える。少しだけ辛抱しなさい」

 

 張り付く喉の渇きに、ヤタカはこくりこくりと首を振るだけで答えた。とにかく水が欲しかった。大量に飲んだ水が何処に消えているのかと、幼心にも不思議だった。飲んだに見合う量の小便がでる訳でもない。底なし沼に沈むように、飲んだ水は何処かへ染みて消えていく。

 

「あの斜面を少し下れば川がある。飲んでくるといい」

 

 ぱっと慈庭の手を離し、ヤタカはころげるように斜面を駆け下りる。怪我をするぞ、とか背後から慈庭の声が聞こえた気もしたが構ってなどいられなかった。

 渇いた喉が、乾燥しきった鼻孔が流れる水の匂いに反応して抗えない。

 

「水だ」

 

 知らぬ者が見たら溺れているかと勘違いしただろう勢いで、ヤタカは顔から川の水面へ突っ込んだ。耳元でごぼごぼと音をたてて冷たい水が流れていく。息が続かなくなっては顔を上げ、何度も水に頭を突っ込んだ。飲んでも飲んでも、ヤタカの体内に巣くうモノが十分だとはいってくれない。飲んだ先から乾きが襲う。

 

「まだ幼いというのに、水の器に魅入られるとは。哀れなことよ」

 

 慈庭の呟きは、ヤタカの耳には届かない。

 

「ヤタカ、水浴びをしたければ良いのだぞ。里をでてからそのままであろう?」

 

 川からやっと顔を離して尻をついていたヤタカは、慈庭の言葉に首を振る。

 

「寺に着いてからでもいい? あの日から、水浴びは好きじゃないんだ。水に浸かるとさ、体が水に溶けてしまいそうな感覚がして、それがイヤ。自分がいなくなっちゃうみたいで」

 

 そうか、慈庭は無理強いすることなく再びヤタカの手を引いて歩き出す。しばらくは川沿いを進めるから、ヤタカが乾きに苦しむこともないだろう。

 あの日、とは異物である水の器を取り込んで、ヤタカが異物憑きとなった日のこと。

 二度と人里では暮らせない少年を哀れんでか、歩みを止めることなく慈庭の頬が奥歯を噛みしめたようにみしみしと動いた。

 

 

 

 村を出てから七日目、目前に開けた景色にヤタカは感嘆の息を吐いた。

 

「でっけぇ寺だな。すっげぇ」

 

 深い山間に神が造り間違えたかのような平地がぽかりと広がり、大きな古い寺が山向こうに沈みかけた夕日を受けて朱く染まっていた。

 四方を囲む山の斜面の一部は岩が剥き出しで、岩を掘り出した人工的な建造物が遠目に見える。

 

「あの岩場からは水が湧いている。小さく水が溜まり細く川を成しているから、ヤタカが水に飢えることはない。森の中には泉もあるが、危急でもない限りは川の水を飲むようにしなさい。あの泉は別の者が良く使っているからな」

 

「お坊さん?」

 

「いや、ヤタカより少し年下の少年だ。日光に弱い病を患っていてな、日の光を避けるために奇妙な恰好をしているが笑ってやるなよ。ヤタカが水を欲するように、あやつも……イリスも辛い業を背負った子なのだから」

 

 イリスという名が、ヤタカの胸の中で木霊する。こんな山奥に年の近い子供がいるなんて思ってもいなかったから、少しだけわくわくした。ごま塩頭の爺さん坊主達に囲まれて一生を過ごすものと覚悟していたヤタカにとって、イリスという名は小さな希望そのものだった。

 甘い秋の果物を一口だけ含んだかのように微笑んで、イリス、イリス、噛みしめるように何度も口の中で呟いた。

 

「会いにいってもいい?」

 

「そのうち会える。自ら小屋に尋ねていくことは許されぬ。イリスが呼びかけに応じた時なら良いがな。それにおまえには、イリスと会う以前に覚えて貰わねばならぬことが山のようにある。明日からはその衣を脱いで手足を晒したまま野山を歩くのだ。己にとって危険な植物は、痛みを持って覚えると良い。そうしなければ、いつか命を落とす」

 

 希望の輝きがしゅくしゅくと萎んで遠ざかる。かぶれる程度の草に触れても手足が赤く腫れ上がったり爛れたりするようになったのは、異物憑きになってから。それまでは普通の子と同じく、ひりひりと赤くなる程度だったというのに。何度も味わったあの痛みが蘇って、ヤタカはくしゅりと顔に皺を寄せた。

 生き延びたければ野山の草花に精通しろ。里を出るときに厳しい修行が待っているとは聞かされていた。寺について修行が目前に近づたと実感するほどに、無理矢理の元気も湧かなくなる。

 

「今夜は休め。明日の朝、素堂(そどう)様に会いにゆく。休む暇はないぞ、昼からは森に入る。わたしも付き添って野草の名を教えよう。毒草には気をつけろ。泣いても痛みは引かぬ。痛い思いをしたくなければ、早く見分けをつけることだ」

 

 すっかり元気をなくしたヤタカに一瞥をくれ、慈庭はさっさと寺へ向けて歩き出す。慌てて後を追うヤタカは、にっと口の端を上げて白い歯を見せた。

 

――嘘でもね、笑った振りをしていれば本当に楽しいことがやってくるよ。

 

 ヤタカの母親の口癖だ。二度と会うことはないだろう。たとえ会っても、母親にヤタカはわからない。両親の記憶からも里のみんなの記憶からも、ヤタカが確かに存在したという記憶はきれいさっぱり消されているのだから。

 村人を集め滋養に良いからといって慈庭が焚いた香木の焚き火から立ちのぼる煙が、霧のように頭の中に立ちこめてみんなの記憶を消したのだとヤタカは思っている。

 戻れぬのに戻りたい場所があることほど、辛いことはないのだと慈庭はいう。

 二度と会えぬ子を手放した記憶を持って生きるほど、辛いことはないのだとも慈庭はいった。良くわからなかったけれど、それで母ちゃんと父ちゃんが苦しまなくて済むなら、いろいろなこと全てを我慢しようと思った。

 父ちゃんも母ちゃんも、里のみんなもヤタカの胸の中では今も笑ってくれている。ヤタカを忘れることなく、微笑みかけてくれている。

 それでいいと思った。

 こうなったのは、自分が悪いのだから。

 咳払いして、ヤタカはもう一度にっと笑う。母ちゃんは嘘を吐かない。だからこの作り笑いはいつかきっと、ささやかなの幸運を運んできてくれる。

 この夜ヤタカは、出された飯に口をつけること無く眠りに落ちた。床に大の字になって眠る、まだ小さな体を抱き上げ寝床まで運ぶ慈庭は、ヤタカが目覚めている時には決して見せぬ柔らかな笑みを浮かべ、ヤタカの目尻に浮かんだ涙を拭う。

 

「夢の中でまで苦しむな、ヤタカよ」

 

 布団に寝かしつけたヤタカの髪をそっと撫で、明日からヤタカが味わう痛みを思って慈庭は目を閉じる。

 

「わたしの行く先を御仏は通してくれまい。地獄行きだとして、その門が開くまではおまえを導こう。恨まれようと、鬼の面を外すことなく導こうぞ」

 

 慈庭が出ていった狭い部屋の中、ヤタカは夢の中にいた。

 ごつくて大きな手が頭を撫でる感覚がくすぐったい。肩を竦めて見上げたけれど、なぜか顔は見えなかった。夢の中で目を閉じて、ヤタカは柔らかな眠りの底の落ちていった。

 

 

 

 障子の向こうに紺色がかった夜闇が名残惜しげに残るころ、胃袋を揺さぶるほど低く響き渡った鐘の音でヤタカは目を覚ました。寝癖でぐちゃぐちゃの前髪を掻き上げ、四つん這いでこっそり障子を開けると薄暗い中、鐘を突く僧の姿が見えた。

 

「目が覚めたか? これに着替えて本堂に来なさい」

 

 味気なく野太い声に顔をあげると、風呂敷を持つ慈庭が表情のない顔でヤタカを見下ろしてた。

 

「おはようございます」

 

「おはよう」

 

 無地の風呂敷を渡して立ち去る慈庭を見送り、ヤタカはふっと息を吐く。悪い人ではないと思うのだが、半端な破落戸より筋金入りの鉄仮面だと鼻の頭に皺を寄せる。

 解いた風呂敷から出てきたのは、袖を切り取り下も尻が見えない程度に短く切った作務衣だった。無意識に唇がむんずと尖る。ここまで肌を露出して山を歩けば、今夜は全身が腫れ上がりとても寝付けるような状態では無いことなど想像するまでもない。

 

「死なない為に野草を覚えろなんて、これじゃ覚える前に死んじゃう」

 

すでに姿の見えない慈庭が居るであろう方向に、ヤタカはべっと舌を出す。

 枕元に用意されたどんぶり一杯の水を一気に飲み干し、全然たりないなと手の甲で拭った水滴をぺろりと舐める。だがこれ以上多量の水を側に置くのは得策とはいえなかった。大量の水を欲するというのに、飲む時意外にあまりにも近くに水があると体が疼く。身の置き所が無いほどにヤタカの身が疼くのは雨の日も同じ。だから寝床で飲みたければ、何度もどんぶりに水を汲んでくるしかない。肩で小さく息を吐き、障子の隙間から空を見上げた。これだけ空が青いなら、今日中に雨が降ることもないだろう。

 

「母ちゃん、父ちゃん、おはよう」

 

 聞く者のいない挨拶をそっと唇から零し、ヤタカは受け取った作務衣に着替えた。庭の隅でみかけた井戸の辺りから、しゃりしゃりと米をとぐ音がして、思い出したのは里を出てから最後に口にした握り飯の味。丸い握り飯は母ちゃんの味そのもので、思い出した途端不覚にも瞼の際が熱くなる。

 

「笑え……笑え」

 

 口の端をグッと上げ、ヤタカは無理矢理に白い歯をのぞかせると、勢いよく障子を開け放ち、薄っぺらな胸を張って駆け出した。

 

「こらこら新入り、廊下を走るなって」 

 

 声に振り向くと、箒を手にした作務衣姿の若い僧が古びた灯籠の向こうから顔を覗かせる。

 

「おはようございます。あの、本堂ってどこにあるの?」

 

「まさか場所も知らずに走っていたのか?」

 

 呆れたように目をしばたかせ、それから若い男は声を上げて笑った。

 

「本堂はあっちだ。走ってきた方に戻らなくちゃいけないよ」

 

 あちゃ、とヤタカは頭を掻く。慈庭が歩いて行った方向に何となく走り出したものの、本堂の場所など知るはずもなかった。

 

「ありがとう、俺はヤタカ」

 

「わたしは円大(えんだい) 。よろしく」

 

 円大に手を振ってまた走りだしそうになったヤタカは、慌てて踵で急ブレーキをかり、照れ笑いでもう一度手を振ってから足早に来た道を戻っていく。

 本堂に辿り着くまでに数人の僧に会ったが、想像していたより若い者が多く、みな気持ちの良い連中に思えた。

 

「素堂様がお待ちだ。きちんと正座をしてお言葉を聞くように」

 

 真逆へ進んだはずの慈庭が、板張りの廊下にどしりと座っているのを見てヤタカは目を丸くする。ヤタカはこの時確信した。慈庭はのっぺりと表情がない妖術使いだ。妖術に力を取られすぎて、顔の筋肉が固まっているに決まっている。そう思うと可笑しくて自然と小鼻がひくついた。慈庭に見咎められまいと、ヤタカは大げさな咳払いを一つして、これ以上ないほど真面目な表情を整えて本堂へと入っていった。

 

「そこへ座って顔を見せておくれ。長旅で疲れたであろう?」

 

 素堂の親玉みたいな爺様を想像していたヤタカは、決まり文句のおはようございますを言うのさえ忘れてぽかりと口を開き、申し訳程度に頭を下げた。

 慈庭が黒なら素堂は白に喩えられるだろう。細く筋張った手に、皺だらけの顔が柔和な笑みを浮かべる。慈庭のような張りはないが、低く少し嗄れた声が耳に心地よい。

 

「ここでは慈庭の言うことを良く聞き、しっかりと学ぶのだよ。寺の掃除や炊事仕事は、順を追って若い僧達が教えてくれる。みなヤタカの兄のようなものだ。ヤタカがここに居て困る者などひとりもおらぬから、みなと仲良くするのだよ」

 

「はい、よろしくお願いします」

 

 正座をしてヤタカが頭を下げると、素堂は嬉しそうに何度も頷いた。そしてふっと目元から笑みを消し去り、静かな声でこう尋ねる。

 

「水の器を見つける前にも、その手のモノを目にしたことはあるのかね?」

 

 水の器、ヤタカが己の身に宿してしまった異物の名。水の器を取り込んでしまったがために、ヤタカは今ここにいる。水の器のせいで、里に居られなくなったのだから。

 

「変わったモノはあったけれど、わからないや。水の器ははっきり見えたし、この手で持てたけれど」

 

「そうか。子供であるなら、異物を目にしても気づかぬことは多い。子供にとって、目に映るモノはただそこに存在するに過ぎない。いいのだよ、何か思いだしたら教えておくれ」

 

「ねえ、俺もここでお坊さんになるの?」

 

 その問いに、素堂は目を細めてくしゃりとした笑みを浮かべた。

 

「おまえはここの僧にはなれぬよ。なる必要もない」

 

 こくりと頷いてヤタカはにこりと笑う。そんなヤタカに素堂はこの寺の成り立ちと、ここに住む者達の話を始めた。ここに寺を建ててからは八十年ほどしかたっていないが、場所を変えただけでこの寺の存在には数百年の歴史があること。万が一人目に触れたときのことを思って、寺と僧を装う在り方は、代々受け継がれてきたものだという。だからこの寺に名は無く、本物の僧も居らぬのだと。

 異種と異物の存在を見極め、時にそれらを人里から引き離し、ゴテ師や野草師と呼ばれる者達と共に、異種宿りや異物憑きとなった人々の助けになっているのだと。

 

「ヤタカのように、この寺に引き取られた子供も初めてではない」

 

 素堂はそういうと、かさかさに乾いた手でゆっくりとヤタカの黒い髪をなでた。

 異種と異物、名前だけなら知っている。異種のことなら里に住む普通の人々だって知っていたのだから。だがヤタカに宿った異物は別だ。異物は、この寺のような存在によって、歴史の中、闇に葬られてきたのだと慈庭がいっていた。

 素堂の話は難しくてヤタカには半分も理解できなかったけれど、一つだけ良くわかった。

 自分はもう、この寺と寺を囲む山の外には出られない。

 

 気付けば障子から朝の光が差し込んでいる。けっこうな時間を、素堂と向かい合っていたのだろう。

 

「さあて、朝飯の時間だ。行こうか?」

 

 朝飯とは何となく坊様っぽくない言い方だと思いながら、飯の前にまずは水をと口を開きかけ、片膝を立てたヤタカはその場でごろりとでんぐり返る。

 

「あ、足がしびれちゃった」

 

 転がったヤタカを見下ろして素堂が笑う。そのずっと向こうの方では、慈庭が眉間に皺を寄せてヤタカを睨み付けていた。

 すっとしゃがみ込んだ素堂が、慈庭に背を向けたままヤタカの耳元に口を寄せる。

 

「それからのう、心してかかれよ。湧き水の側にある岩牢だが慈庭は厳しくてな、少しのことでも直ぐに岩牢に閉じ込めるからのう」

 

 喉元でくつくつお笑いながら素堂が去って行く。

 

「どんと来い岩牢!」

 

 小声で言い放ち、顔を背けたままヤタカは大きく舌を出し、歯をぎりぎりさせながらジンジンと痺れる足を揉みほぐした。

 

 

 

 





覗いて下さった皆様、ありがとうございました。

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