ざあ、ざあ、ざあ、ざあ…
流れる海流にぶつかる小さな飛沫の音がいくつも重なる。
満点の青空に響くその音は穏やかな海岸の波打ち際に響くものなどではなく、この世界が残酷で罪科に塗れた地獄の装丁を成している証の音だった。
飛沫を起てるのは砂ではなく砕けた鋼と人の肉。
それは砕けて朽ちて血と油で海を汚す屍と成り果てた艦娘だった物(・・・・・・)。
屍が沈む僅かな間の間に更に数多の屍が積み重なり、赤黒く汚れた海はそこだけが屍で作られた浮島の様に地獄を作り上げてしまった。
どうしてこんな事になったのか。
彼女達を送り出した者達は一様にその地獄に後悔した。
あの駆逐艦の忠告を退け海に平穏を取り戻さんと送り出された精鋭は、空を埋め尽くしたB-29とそれを庇護する艦載機の群れに対立していた南方棲戦姫とその取り巻きである浮遊要塞ごと吹き散らされ、誰ひとりとして本懐を成すことなく撤退出来た一握りを残し悉とくの海の藻屑と成り果てた。
この惨状を生み出す片棒を担いだ彼等は自らを慕う者達の死の悲しみと共に、深海棲艦達がいかに慈悲深い者達であったかを思い知った。
海を奪い来る者をいかなる理由であろうと撃滅させる深海棲艦(彼女達)は間違いなく怨敵であったが、同時に逃げるものを執拗に追い立てる事はしてこなかった。
来る者は排し、去る者は見逃される。
そして打ち破られればその海域を明け渡し、されど勝利をただ謳歌することは許さないと海域に潜み時に牙を剥く。
長らく続いたその構図が今回もそうなのだと勝手に思い込み、それが外れて始まった怪物の猛追は逃げる者を執拗に啄み屍を山と築いた。
それに到った理由は彼等の奥に根付いた慢心。
今回が駄目なら次がある。
逃げることは恥では無い。
だから危険と判じたなら引き返せ。
また来れる。だから帰ろう。
そう教え、それを守り、そうして結果を出し続けた彼等は、今回も、例え深海棲艦が怪物と慄く相手であってもいつも通りやっていればそれで行けると信じきってしまった。
だがそうではない。
この海にはもう慈悲はない。
在るの智と理を以って海から人を排し支配する深海棲艦ではなく、ただ破壊と殺戮のみを執り行う『怪物』なのだ。
怪物が怪物たる所以は唯一つ。
どんな手段を用いようが人間には決して勝てないこと。
お伽話の怪物ならば弱点を穿てば倒せるだろう。
物語の怪物ならば伝説の勇者や英雄が屠るための武器を手にして打倒するだろう。
だがこれは現実なのだ。
都合のいい英雄や武器などどこにもいない。
唯一の希望さえも太刀打ち敵わないと知り、もはや倒す手段も希望もなく、ただただ、怪物が自分達を獲物と見定めることがないよう祈る事しか人間には許されないのだ。
しかし、それでも、人間という種は敵わぬ相手を前に愚かにも踏み止まってしまう。
恐怖から目を背けてはいけないと勝手に思い込み、必ず勝つ術は在るんだと幻想に縋り、今度こそ勝たねばならないと自らを追い込んで立ち向かってしまう。
それがどれだけ愚かな行為なのか、それにすら誰も気付かない。
いや、気付かない振りをしているのだ。
そうしなければ、これまで築いて来た死に申し訳が立たないと感情が逃げることを許さない。
どうしようもないほど愚かで、だからこそ人間は今日までの繁栄を続けてこれた。
だから、今回も繰り返す。
一隻の艦娘が怪物を屠るため沈み逝く同報の骸を踏み抜くように進んでいく。
怪物を屠るために選ばれたのは、彼等が自らの手で生み出した『怪物』。
彼女は何物を排するため戦艦大和を素材に、人類の悪意と狂気を配合し深海棲艦をも素材に組み込み生み出された。
そうして生み出されたそれは歪み狂いなによりあまりに危うい存在だった故に彼女以降同じ技術を用いて生み出される事はされなかったが、彼女のそれを差し引いても強かった。
白い面で顔を隠した大和の表情は解らない。
累々と広がる艦娘を悼んでいるのか、それとも目的を果たせなかった事を蔑んでいるのか、白い面は何も映さない。
ただ一つ、彼女が沈んでいく艦娘達の誰にも顔を向けていないことだけは確かだ。
彼女が見据えるのは唯一つ。
屍の浮島のその先に待つ『怪物』のみ。
白貌の戦艦大和は一度として屍の浮島を省みることなく『怪物』の元へと向かい続けていく。
それこそが、自身の産まれた理由だと理解するがために。
〜〜〜〜
「バイド化って…正気かアルファ?」
アルファはバイドになることが悲しいことなんだと語っていた。
なのに、それを提案する理由が俺には解らない。
氷川丸も訝みながらアルファの話に耳を傾ける。
『バイドニハ強力ナ自己再生能力ガアリマス。
バイド化ヲ促セバ対象ハバイドニ成リ果テマスガ、肉体ノ欠損程度ナラ再生出来マス。
代ワリニ対象ハ戦闘本能ニ支配サレ理性ヲ失ウ可能性ガ高イデス』
おもいっきりダメじゃねえか。
「それも問題だがよ、バイドって感染するって言ってたよな。
前から気になってたんだが、なんで俺は感染していないんだ?」
今までずっとそれが気になっていた。
バイドはそこに要るだけで汚染を広げると言うが、アルファと接した俺達に視界の琥珀化を始めとするらしいバイド化の兆候は全く現れなかったから。
俺の疑問にアルファは言う。
『私ノ身体ハ他ノバイドト違イ感染能力ガ外デハナク内側ニ向イテイマス。
デスカラ私ノ細胞ヲ直接取リ込ムヨウナ事ガナケレバ感染シマセン』
すまんアルファ。
何を言ってるのか全然わからん。
「取り敢えずアルファに触っても平気だってのは分かったけど、お前が艦娘をバイド化してもそれは変わらないのか?」
そうでないならこの会話に殆ど意味はない。
正直否定して欲しかったが、アルファはそれを肯定した。
『ハイ。私ノ組織ヲ使用定着サセレバ汚染ハ対象ノミデ留マリマス。
セックス等デモ行ワナケレバ拡大ハシマセン』
「そこは輸血でいいだろうに…」
生々しい例えにそう突っ込んでしまう。
「つまり、アルファの感染力はエイズウィルス並って事でいいのかな?」
『ソノ例エデ間違イハソウアリマセン』
それなら理解できるよ。
治療出来ないって点でもそっくりだし。
『御主人ガ望ムナラ、私ハバイド化ヲ行イマス。
ドウシマスカ?』
「え?」
なんで俺に振るんだ?
『御主人ハ艦娘ヲ助ケタイト考エテイマス。
デスガ、現実的ニ救ウ事ハ困難デス。
モシ、御主人ガ件ノ艦娘ヲマタ戦エルヨウニシテアゲタイトイウナラ、私ガ協力シマス』
「しかし…」
俺に一体どうしろっていうんだ?
アルファの提言を飲めば、テントの向こうの艦娘はバイドになってまた戦えるようになる。
だけど、俺の勝手でバイドにしてしまうのは正しいのか?
本当は素直に楽にしてやるのが正しいんじゃないか?
そもそも関わることが本当に…
『御主人』
悩む俺にアルファは言う。
『今ノ御主人ハアノクソヤロウ以下デスヨ』
「……っだと?」
正直今のはかなり頭にキた。
沸いた頭にガソリンをぶっかけるようにアルファは言う。
『悩ムグライナラ手ヲ引クベキデス。
悩ムノハ当然デスガ、重要ナノハ御主人ハドウシタイノカデス』
「じゃあどうしろってんだ!?」
つい怒鳴ってしまう。
一度怒鳴るともう限界だった。
濁流のように俺の口は感情を吐き出してしまう。
「助けたいよ!!
だがな、ジョニーとバケモノ、そんな救いもみあたらねえ二択をどう選べってんだ!?」
『撰べナイナラ見捨テルベキデス。
彼女達ハタマタマ死ニ損ナッタタダノ他人。
拾イ上ゲズトモ誰モ責メル資格ハアリマセン』
「俺が許せねえんだよ!!」
吐き出してみてよくわかった。
俺は唯の馬鹿野郎だ。
分相応なんて考えもしないで自分勝手に助けたいからって感情だけ一人前の半端モノ。
だけど、それでも助けたいんだよ。
「ちょっと」
過熱した俺に水を掛ける氷川丸。
「騒ぎすぎて患者が全員目を覚ましたんだけど、どう責任を取ってくれるのかしら?」
「……すまん」
『申シ訳アリマセン』
全力で謝ったよ。
武装とかそんなもん関係ない。
患者を前にした医者に逆らうなんて、姫六人にソロで挑むほうがよっぽど気楽だよ。
ついでに頭も真っさらに冷めてふと気付く。
「全員?」
「ああ。
生存者は全部で三人だった。
今は二人だけどね…」
そう語る氷川丸に俺は何も言えない。
「それゆりも、今の話を本人が聞きたがっているんだ。
医者としてあまり賛成したくはないけど、患者が望む以上断るわけにもいかないの。
中に入ってちょうだい」
そう促す氷川丸に続きテントに入る。
テントの中には剥き出しの地面に三つのパイプベッドが設置された野戦病院地味た光景が待っていた。
そしてベッドに横たわっていたのは、全身に包帯を巻かれた姿の少女が三人。
内一人は…もう生きていない。
「お前が表で騒いでたのか?」
亡くなった艦娘を見ていた俺に、ベッドからそう声を掛ける声に俺は振り向く。
「はっ、深海棲艦がよくもまあほざくもんだ」
首だけをこちらに向けた、おそらく天龍だと思しき少女は皮肉げに口を歪ませる。
「で、深海棲艦様はどうやって俺を助ける気だ?
生きたまま深海棲艦にでもするつもりか?」
向けられる敵意に俺は少しだけ安堵しながら口を開く。
「もっと酷いバケモノだよ。
アルファ」
『ハイ』
背中から離陸したアルファに目を丸くする天龍に俺は言う。
「こいつはバイドシステムαという名前のバイド生命体だ」
「そいつが、生物だって?
ひっでえ冗談だなオイ?」
「だけど事実だ。
こいつの細胞を上手く扱いこなせるなら、お前はまた戦えるようになる。
だけど、失敗すれば…」
「そいつみてえな肉の塊になるか?」
「おそらくな」
そう頷くと天龍は鼻で笑った。
「ハッ、助けたいとほざきながら結局バケモノにしようってのか。
随分な偽善者だなオイ?」
真っすぐな怒りをぶつける天龍。
「帰れ。
俺はバケモノになるぐらいなら死んだほうがマシだ」
強い拒絶の言葉に俺は黙ってもう一人に尋ねる。
「お前は…どうする?」
問いに顔まで包帯に巻かれた少女はベッドに横たわったまま言う。
「魅力的な案だけど、私も遠慮しておくよ。
不死鳥と呼ばれるのももう疲れたし、なにより、姉妹が向こうで待ってるんだ」
「…そうか」
その答えを聞き届け、俺はテントを出た。
翌日、氷川丸から夜明けを待たず二人とも息を引き取ったと、そう聞かされた。
正直言うと今回はバイド化ルートと拒絶ルートのどちらにするか最後まで悩みました。
ですが、結局イ級にフラグを折らせなかったので拒絶ルートに入りました。
イ級の悩みについては次の回の別キャラ視点で触れてきます。