ブラック・ブレット -弱者と強者の境界線-   作:緑餅 +上新粉

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56.狩場

「…!?」

 

 

 道中、布施翠は唐突に言い知れぬ悪寒を覚えた。具体的な表現へ変えるとするなら、背をナイフの(ブレード)で撫でられるような感覚。

 

 本能が発した警鐘に任せ、すぐさま四方を確認。並行して発達した耳で周囲を索敵。…異常は、ない。

 

 そんな彼女の脈絡のない警戒行動を見た薙沢彰磨は、腰のSIG SAUER P226 に手を伸ばしながら、夜目である程度慣れた森の中を見回す。

 

 

「どうした、翠。近いか?」

 

「いえ…すみません。勘違いでした」

 

「いや、ささいなことでもいい。何かあったら躊躇わず口にしろ」

 

 

 申し訳なさそうに肩を落とす翠の頭を軽く撫で、彰磨は必要なことだと過剰な警戒行為を肯定する。

 

 人間では感知できない領域にある情報。それを手繰れる彼女が感じ取ったものだ。決して意味のない行動と片付けていいものではない。

 

 そうして警戒を続けながらも移動を再開する。翠が先行し、そのすぐ背後を彰磨が続く形だ。翠が近距離戦、彰磨が中・近距離戦を担えるのだとしたら、妥当な配置だろう。

 

 

「む────、森が開けたな」

 

「はい、先に廃墟が見えます。市街地ですね」

 

 

 予想されたガストレアの集団が拠点とする場所は、この廃市街を抜けた先の森だ。突っ切ってしまった方が時間効率はいい。が、その際のリスクはどうか。

 

 彰磨は少々勘案する素振りを見せたものの、しかしすぐに結論を出した。

 

 

「廃墟を直進し、抜ける。変わらず先行、索敵を頼む」

 

「了解です」

 

 

 森の中は見通しが悪く、足場も悪い。廃墟となった街も同様だろうが、どちらがと問われれば森中の方に軍配が上がるだろう。

 

 両者は木々の合間から飛び出し、街へ入る。森へ呑まれつつあるコンクリートジャングルは、自然の奮う猛威を前に為すすべなく緑に侵食されていた。

 

 ところどころ罅割れる、しかし舗装の残ったアスファルトの道路を二人分の足が前後と移動する。倒れた電信柱がぶちまける電線、倒壊した家屋や外壁の瓦礫、路面を貫く水道管、そういったものを避けながらも、しかし足音は鳴らさず、速度も緩めない。

 

 人の営みを失って久しい市街地。日常の喧騒は最早忘れ去られ、ただ静寂のみがこの地を支配していた。

 

 だが、公園に停められた錆びついた三輪車や、砂場に転がる空気の抜けたサッカーボール、直前まで手入れされていただろう花壇など。人々が謳歌していた日常を思い起こさせるような、そんな『痕跡』が確かにあった。

 

 飛び込んできた景色に、在りし日の人々の姿がオーバーラップする。

 それを自覚した彰磨は、眉を顰めながら振り払うように駆けた。…ここは少々、精神(こころ)に毒な場所だ。

 

 そうして行軍はスムーズに行われ、一度の接敵もなく廃市街を抜けると、再度森の中へ足を踏み入れる。

 

 

「この先は河川がある。地形の変化に気をつけてくれ」

 

「はい。了解です」

 

 

 不規則に絡み合う樹木の根を迂回し、平地を選びながら進む。多少の時間ロスは承知だが、安全を考慮するならこの方策を取るべきだ。

 

 彰磨も翠も、こういった地形での戦闘経験は皆無。だからこそ不測の事態は多岐に渡って存在する。であれば、戦闘の際は少しでもこちら側の土俵へ引き込むことこそ肝要。

 

 極度の緊張、慣れない戦場。この二つは疲労の蓄積を加速度的に引き上げる。必然息は上がり始め、思考にも少しばかり靄がかかりつつあった。

 

 しかし、そんな中でも、彰磨の中には一つの疑問が渦巻いていた。

 

 

「翠、周囲に敵の気配はあるか?」

 

「…いえ、ありません」

 

「そう、か」

 

 

 敵が、ガストレアがここまでいないのは、妙だと。

 

 自衛隊の人間たちも取り込み、兵数などそれこそ二千以上はあるのだ。例え撹乱が行われていようと、千以上は確実に居座っているはず。

 

 それを一か所に固めて置くなど、果たして有り得るだろうか。

 主要な拠点を決め、別動隊を配置する数的余裕など幾らでもあるはず。それをしないのは何故か。

 

 ───まさか、三ヶ月樹万はこれすらも織り込み済みだというのだろうか。

 

 次々去来してくる疑問に対し、殆ど明確な結論は出せないまま、翠と彰磨の二人は河川に到着。警戒しながらも渡り切り、対岸の森へ踏み込んで間もなく、僅かに先行する翠が制止を促した。

 

 

 

「居ます…一。いえ、二です」

 

「距離、方角は?」

 

「二つともこちらから見て正面。距離は10mほどです」

 

 

 ────ついに、来た。

 翠の言葉を聞き終わらぬうちに彰磨は腰のSIG SAUER P226を抜き、初弾装填。森の中へサプレッサーを取り付けた銃口を向ける。

 

 一方の翠は腰を低くし、爪の変形、硬質化を行う。そして、

 

 

「!」

 

 

 闇に紛れて突進してくる影。数は二つ。敵は敢えて迂回し、左右から挟み込むように仕掛けた。

 

 彰磨はそれに驚くことなく、腕と目のみを動かして再照準。一匹の頭蓋へ穴を空ける。

 

 翠は地を蹴り、喉元へ指を束ねた突きをめり込ませ、硬直したところに続けて片腕の手刀で一閃。もう一匹のガストレアは頭部をスライスされ、大量の体液と共に地面に散らばる。

 

 彰磨は死体を一瞥。発達した鋭い歯。白い(たてがみ)。これらの特徴から、狼がベースのガストレアと推測した。

 集団を作り、その中からリーダーを選出することで、類まれな統率力と狡猾さを演出して狩猟を行う危険な動物だ。ガストレア化したとして、人間にとっては非常に危険と言える殺戮者(ハウンド)

 

 ここで、複数の遠吠えが大気を震わせた。距離は、近い。

 

 

「ッ!?そんな、囲まれてる!いつの間に?!」

 

「何ッ」

 

 

 敵に包囲された?あの一瞬で?馬鹿な。

 

 彰磨は動揺を呈するが、一瞬で鎮める。今は状況を打開することに思考のメモリを使わねばなるまい。

 

 早まる拍動を自覚しながら、彼はサプレッサーを捻って取り外すと、事態の急変で冷静さを欠いた翠の名を叫ぶ。

 

 

「翠っ!迎撃するぞ!」

 

「は、はい!」

 

 

 正面から先行して飛び出してきたのは、先ほどのガストレアと同じく狼が三匹。彰磨はうち二匹を射殺。残りの一匹は翠が八つ裂きにした。

 

 次に後方。首を巡らせて認めた狼型ガストレアに向かい、照準もそこそこに発砲。二匹を仕留めるが、もう二匹がこちらへ迫る。

 

 

「前から来る敵を頼む!俺は後ろを請け負う!」

 

「分かりましたっ!」

 

 

 迫る二匹へ、拳を打ち込む。その衝撃がどう伝わればそうなるのか、首から上を破裂させて狼は事切れる。

 

 翠は猫の俊敏さを活かし、不規則な動きをしつつガストレアを翻弄。あっという間に三匹を解体する。

 

 爪にこびりついた体液を払い落とした翠は、すぐさま彰磨の背後に舞いもどる。それと同時に足音や息遣いを『聞いて』敵の位置を捕捉。己のパートナーに伝える…前に、一つの憶測へと辿り着いた。

 

 

「これは…もしかして、待ち伏せ?」

 

「なるほど。翠の耳で探知できなかったのは、最初から潜んでいた、と考えるのが妥当なところだろうしな」

 

「でも、そんなことガストレアにできるはずが…!」

 

「里見の言っていた、アルデバランの飛散するフェロモンによる統率だろう。元々の狼の狡猾さを合わせれば、ここまで周到な『狩り』を行うことも可能、ということだ。…しかし、これは相手の方が数段上手だな」

 

 

 彰磨は、こうなることをある程度予想していた。

 総勢一千超の敵本陣目掛けて突っ込むのだ。攪乱で削れた数は良くて百、二百ほどだろうし、自殺行為に変わりはない。

 

 それでも、あの場にいる全員が美ヶ月樹万の策に乗ったのは、終始一切損なわれなかった自信をうかがわせる口調と、持ち札を切るタイミングの良さ、プレヤデス討伐の重要性に因る。

 

 正直、彰磨は一ペア単独でのプレヤデス討伐を樹万に提案する際、十中八九断られるだろうと鷹を括っていた。無駄で無謀な行為だと一蹴されてお終いだろうと。

 しかし、それに反して彼の口からもたらされたのは、『よっしゃ、それでいこう』という当初の予測を大きく裏切る言葉であった。

 

 それに対して思うところはある。実は策が他に無いから『コレ』を採用した?二人なら実力的に可能であるという信頼の現れ?何かしら援護できる手段を持ち合わせている?…あらゆる憶測が脳内を飛び交った。

 ただ、確実に言えることが、一つだけある。

 

 美ヶ月樹万は、決して意味の無い行動や行為を赦す人間ではない、ということだ。

 

 

「ふッ!」

 

 

 次々と湧き出る狼型ガストレア。耳ざわりな弾む呼気を響かせ、腐葉土を蹴り上げながら間断なく四方より牙を剥いて来る。────対応が、間に合わない。

 

 ならば、間に合わせるよう調()()すればいい。

 

 

「────」

 

 

 撥刃総倦(はつばそうげん)の構え。思考の空白、予備動作の速度を極限にまで縮め、結果乱戦時の戦闘能力を飛躍的に高める型。

 

 使用頻度は決して高くはない技だ。その理由は、偏に対人戦においては強力過ぎる、という理由にある。

 

 講ずるは只一点、孜々忽忽。───活眼。

 

 右方から牙を突き立ててきた一匹へ拳を振り下ろし、ほぼ同時に前方のもう一匹へ跳ね上げた膝を顎へ撃ち込み、後ろ足で跳躍力し上方より飛来した一匹は下顎を掴み、他一匹を下敷きに地面へ叩き付ける。

 

 一息の間も置かず、拳を二発撃ち込んで二匹の脳髄へ打撃。水風船を落としたかのように脳漿の混じった体液が地面へ飛散する。

 

 

「はぁッ」

 

 

 翠も負けていない。地を舐めるような前傾姿勢でガストレア群の間を駆け抜け、足を切断。もんどりうって倒れた個体から容赦なく頭部のみを細切れにしていく。

 

 暗い戦場に、肉を叩き潰す音、引き裂く音、イヌ科特有の悲鳴が連続して木霊する。常人であればとうに貪られるだけの死肉と化しているはずが、彰磨と翠の両名は超常の奮戦を見せ、未だ健在であった。

 

 しかし、森の闇間に並ぶ赤目は数を減らすどころか、増えていっているような気さえする。

 

 彰磨は体液の滴る拳をそのままに、肩で息をしながら翠に問いかける。

 

 

「翠、ここから突破はできそうか?」

 

「…難しい、です。一方の壁に集中しても、およそ二十の個体から一斉攻撃されます」

 

 

 翠の絶望的な言を受け、彰磨は苦虫をかみつぶしたかのような表情を浮かべる。

 

 一つの層で、その数だ。ここに集まっている敵は、恐らく五十以上に昇るだろう。

 

 それでも。この絶対の死地を突破しなければ、先などない。そして、ここで終わるつもりなど欠片とてない。

 

 

「翠ッ!川伝いに突破するぞ!敵の補足は最小限でいい!足を止めるな!」

 

「はいッ!」

 

 

 コートを翻し、彰磨は森を抜けて川縁を伝い疾走。その後に翠が続く。そして、両名を追うように他三方からガストレアの群が大挙して飛び出し、赤眼の参列を作る。

 

 彰磨は素早くSIG SAUER P226の空弾倉を排出。少しでも時間を短縮するために空弾倉は廃棄し、予め手の内に忍ばせて置いたものをセット、装填。

 

 装弾後すぐに前方から迫る群れを引き連れる中央三体を射撃。いずれも頭部にヒット。

 

 力尽きて地面へ頽れる前に彰磨は肩を突き出し、ガストレア一匹の体躯へ激突。亡骸は首の骨を折り、血飛沫をあげながら前方へ吹っ飛び、仲間の無惨な死体姿が飛来したことで、群れの間に多少の硬直が生まれる。

 

 進行の緩んだ彰磨の脇を抜け、今度は風のような速度で翠が先行。動きの鈍った両脇のガストレアの前脚を切断する。

 

 間髪入れずに銃撃。足を失った個体を飛び込えて来た二匹を死体へ変えるが、ここで彰磨は悟る。

 

 ────層が、厚すぎる。

 

 二十どころではない。少なく見積もってもその倍はいる。ここを突破する事は物理的に不可能だ。

 

 それでも、もう戻れない。数瞬前の判断が誤りであろうと、前に進むしかない。

 

 彰磨は己に言い聞かせる。もう、やるしかないのだと。天童から教えを受けていたという矜持はあるが、今はそんな利己的な欲求を優先させるつもりはない。

 

 翠の命が、最優先だ。

 

 

 天童式戦闘術三の型三番────鬼亟咒々(きこくしゅうしゅう)

 

 

 呼気を短く、ひたすらに短く保つ。血流は豪雨の後の河川が如く激流へ転じ、心臓へ猛烈な負荷がかかる。

 

 薙沢彰磨は、天童流を破門された。それは師範である助喜与から、『悪事に技を使用する』と断じられたが故だ。

 

 信じるものに裏切られ、空虚となった彼は、それでも『天童流』を追い求めた。その結果の一つが、これだ。

 

 脈拍、血流の高速化による、一時的な運動能力の向上。彰磨はこの瞬間を境に、人をして人を超えた鬼人と化した。

 

 

「────!」

 

 

 近場のガストレア五匹の頭を一瞬で破壊。続けて手首を捻り、逆巻く疾風を纏う掌底を繰り出し、もう一匹の胴体を四散させる。

 

 臍下丹田に力を込めながら、更に半身を前へ。そして、緩慢となった時間へ追いつくために限界を超えた筋収縮を行使する片腕が射出。

 

 ガストレアの喉を捉えたそれは、天童式戦闘術一の型五番・虎搏天成。紫電と見紛う突き技。

 

 

「翠ッ!全力で走れ!」

 

 

 敏捷さに特化した生物因子を持つ翠であれば、猫の身体能力で包囲網を駆け抜けることはできる。だが、通常の人間としてのポテンシャルに止まる彰磨はそうはいかない。

 

 だが、一時的に運動能力を強化した状態であれば、彼女の動きにも辛うじてついて行ける。

 

 彰磨の言葉に、翠は行動で応えた。再び彼の脇を通過し、先行する。

 

 それに追いすがるため、彰磨は全力を以て地面を蹴る。人が運動する際のスペックを大きく逸脱した筋力行使の連続に、猛烈な吐き気と激痛を覚えるが、構わず足を動かす。止まればどうなるかなど、火を見るよりも明らかだ。

 

 一、二、三四と進むうち、体格差による歩幅の差も手伝ったか、視界に移る翠の背が近づいてきた。

 

 密集する敵の間隙を縫う。先を往く翠は数瞬後に変化する陣形を予測し、比較的安全な道へ誘導する。

 

 とはいえ、それにも限度はある。

 

 

「ぐっ!」

 

 

 彰磨の右肩にガストレアの牙が擦過。視界の端に血が舞うが、軽傷と断じ構わず足を動かすこと、技の効果を持続させることにのみ注力する。

 

 彰磨は超高速度の世界に慣れていない。翠の背に追いすがるので意識が埋まっているため、周囲への対応力が著しく低下している。

 

 だが、彼とてそれは承知だ。そして、翠もそれを理解した上で、より良い退路の選出を行っている。

 

 それでも、速い。視線では姿を捉えられても、攻撃という動作を完遂する前に視界からは消え失せている。

 

 狼とて逃走する得物を捕捉し続けるため、動体視力は高いはずであるが、両者の動きはそれを大きく上回っていた。

 

 故に、

 

 

「────!」

 

 

 包囲網を抜けた。あともう少しだ。

 

 そう思った矢先、視界に巨大な何かが突如として割り込む。それは、白い毛に覆われた二つの柱だった。

 

 『狼型ガストレアをそのままスケールアップさせたら、こんな形になるのでは?』

 

 そんな思考が脳裏を掠めた瞬間、叫びながら横に跳んだ。

 

 

「避けろッ!」

 

 

 直後、それまで二人が居た地点を何かが通過し、爆轟を響かせる。地面はめくれ上がり、土砂が辺りへぶちまけられる。

 

 彰磨と翠はそれぞれ左右に跳躍して回避し、目立った外傷はない。しかし、それからすぐに彰磨の身体に異変が起き始めた。

 

 鼻孔からとめどなく朱い血液が溢れ、視界が酷くぼやける。それは言うまでもなく、先の技による弊害だろう。血流の高速化で、体内の血管のいくつかが破断したのだ。

 

 しかし、駄目だ。このまま立ち止まっていては────、

 

 そう思って身体を動かしかけたとき、彰磨自身の意志とは無関係の外的な力により、右横へ大きく投げ出される。予想外の事態に対応が遅れ、肩を打った痛みに呻く。

 

 それからすぐ、肉を重い金鎚で打ったかのような嫌悪感を伴う音が響き渡り、彰磨は弾かれるように上体を起こす。

 

 

「み、どり?」

 

 

 霞む視界には、頭から血を流して地面に倒れ伏す翠の姿があった。衝撃から身を守るために咄嗟に手で防御したのか、片腕が異様な方向へ曲がっている。

 

 そんな彼女の近傍に、巨大な怪物が立つ。それは、これまで戦っていた狼型ガストレアが子どもと思えてしまうほどの巨躯を誇るガストレアであった。役どころは群れを率いる長、といったところだろう。

 

 怪物は樹木の幹のような前脚を持ち上げると、転がる翠に向けて照準。せせら笑うかのように口角を上げ、粘度の高い唾液を彼女の右足へ落とし汚す。

 

 そこまで見た彰磨は、怒りによって意識を完全に覚醒させる。滞った血流を僅かな間で回復させ、四肢に力を通わせると、数秒後に展開される凄惨な結末を何としてでも回避するため、全霊を以て跳ぶ。

 

 

「ラァァアッ!」

 

 

 足裏を滑らせながら両者の間に割り込む。そして、悪夢のような速度で振り下ろされた鎚に向かって、円運動させる左拳を放つ。それは天童式戦闘術一の型三番・轆轤鹿伏兎。

 

 壮絶な打撃音。あまりの重量に彰磨の五指が潰れ、手首が曲がり、肩の関節が外れる。しかし、直後にガストレアの前脚は大きく膨張、炸裂。激痛と上体を支える支柱の一つを失ったことで、彼の手により弾かれた巨体は態勢を崩し、大きく傾いで横倒しになる。

 

 そこへ続けて右腕を引き、落とす。紛う事なき全力の拳打。

 インパクトを受けた点から胴体が波打ち、心臓も含め爆裂。波濤の如き血液を辺り一帯へぶちまけ、絶命させた。

 

 

「ハッ、ハッ…ぐ、翠」

 

 

 使いものにならなくなった左腕をだらりと下げ、激痛を呑みこみながらパートナーの名を呼ぶ。

 

 己の不注意で彼女がこうなったのかと思うと腸が煮えくり返るほどの怒りを覚えるが、先ずはここを離れることが先決だ。

 

 そう断じた彰磨の横腹を、飛び掛かって来た狼型ガストレアの牙が貫く。

 

 

「ぐ────ァッ!」

 

 

 地面を転がる最中に態勢を入れ替え、肘を鼻面へ落とし、靴底でガストレアの腹を蹴り飛ばして拘束を解く。傷を検めると、開けられた穴は背まで貫通していた。重傷だ。

 

 親玉の方に気を取られ過ぎた。彰磨は己の浅慮さに舌打ちを零す。

 

 急いで寝ていた身体を起こし、SIG SAUER P226をドロウ。奇襲を講じた狼を撃ち抜く。手は震え、視界は大きく揺れていたが、何とか一度の撃発で目的を達した。

 

 それに安堵する間もなく視線を巡らせると、翠の横たわる場所に次々と狼型ガストレアが集まってきていた。

 

 カッと血が上り、思考に任せて飛び出そうとしたが、真横から飛び掛かった別の一匹の体当たりを喰らい、樹木の幹に激しく叩き付けられる。その拍子に蓄積していたダメージが再び鎌首を擡げ、視界が明滅する。

 

 

「ぐ、あ…」

 

 

 ここで意識を失えば、終わる。彰磨も翠も、群がるガストレアに喰われて死ぬ。

 

 そんなことは許容できない。まだ目的の一部も果たせていないのだ。終わるには、あまりにも早すぎる。

 

 彰磨は血に濡れる歯を食いしばり、目前にまで迫っていたガストレアの(アギト)を右腕で砕く。

 

 血飛沫を上げて倒れ伏す怪物の向こう側の景色では、今まさに一匹の狼に腕を食まれ、関節の可動域外にまで折り曲げられている翠の姿があった。

 

 

「やめ、ろ…ッ」

 

 

 やめてくれ。そう叫びたかったが、そうするに足る気力すら彰磨の中には残っていなかった。

 

 弱肉強食こそ、世の摂理。敗北したものは命を犯し貪られ、息絶えるのが常だ。

 

 だからといって、薙沢彰磨は無感動にこの状況を眺めていられるほど理性的ではなかった。武人である彼とて一皮むけば一個の人間。一般論を盾に感情を押さえつける機械的思考など、持ち合わせている筈もない。

 

 届くはずの無い手を、伸ばす。この後に及んでも、恐らく彼女は彰磨に恨み言を零すことなどないのだろう。

 

 薙沢彰磨の人生は空虚であった。

 だが、彼女が傍にいる毎日は、暖かくて、安らかであったことを思い出す。

 

 伸ばした手は、鋭い牙に遮られる。

 肉が裂け、血が溢れ、そして薙沢彰磨は、ここで死ぬ。

 

 

「ふーん。終わりかな?まぁ、雑魚(おさかなさん)にしちゃあよく頑張った方なんじゃないの?」

 

 

 情報の受信を半ば放棄しかけていた聴覚に、およそ理解の及ばない言葉が飛び込んでくる。

 

 転瞬、轟音が鳴り響き、地面が盛大な悲鳴を上げる。

 

 衝撃で上空に投げ出された河川の水が落ち、周囲に激しい雨を降らす最中、彰磨は冗談のような深さにまで陥没したクレーターの爆心地に目を向ける。

 

 そこには、歪な黒い片角を生やした金髪の少女がぬいぐるみ片手に、不気味なほど楽しそうな笑顔で、こちらを見上げながら立っていた。

 

 場違いも甚だしい明るい微笑を漏らすと、少女は両手を広げながら宣言する。

 

 

「さーぁ、私が来たからにはもぅ安心だよ!ふふっ、なんでかというとねぇ───」

 

 

 言葉が続かなかったのは、彰磨と翠に屯していたガストレアたちが咆哮を上げ、一斉に少女めがけて飛び掛かったからだ。

 

 クレーターはあっという間に狼で埋まり、少女の矮躯は白い波に呑みこまれてしまった。中で行われている惨殺を想像すると、思わず彰磨は目を覆いそうになる。

 

 しかし、その前に違和感に気付いた。

 

 幾ら唐突に現れたとはいえ、ガストレア全員のターゲットが少女に向くことなどありえるだろうか、と。

 あぶれた連中でさえ、低い唸り声を上げながら穴の縁に立ち、その中心部に眼光を飛ばしている。

 

 些か行き過ぎた警戒行動だ。一体何故?その疑念が解消する前に、向こうで動きがあった。

 

 

「ッ!?」

 

 

 先刻、少女が地上へ降りて来たときの衝撃より、更に上の轟音。彰磨は地面に降ろしていた腰が大きく浮きあがり、落下の際に臀部を打ち付け、痛みに顔を顰めた。

 

 一体何が起きたのかと、当初より更に広がったクレーターの方へ改めて視線を投げる。そして、目に映った惨状を見て愕然としてしまった。

 

 一言で形容するのなら、血の池。そこには原型をとどめていないガストレアの遺骸が大量に浮かんでおり、さながら地獄の具現だ。

 

 縁に立っていたガストレア数匹は、その光景を前に恐れをなして遁走してしまった。

 

 

「助かった、のか」

 

 

 状況整理は全くできていないので、そう結論していいのかは実のところ不安ではあったが、ともかく直近の危機を切り抜けられたのは確かだ。彰磨は樹木の幹に背を預け、瞼を落としながら深く深く息を吐く。

 

 しかし、すぐに閉じた目を開いて上体を起こす。その理由は無論、己とともに襲われた翠の容態をまだ確認していないからだ。

 

 彰磨は疲労と痛みを訴える身体に鞭打ち、鉛のように重くなった身体を動かそうとしたが、その前に真横から快活な声がかけられた。

 

 

「あの猫耳の雑魚(おさかなさん)なら大丈夫だよ?ちょっと腕折れてるけど」

 

「なッ?!」

 

 

 全く気配を感じ取れなかった彰磨は、あまりの驚愕に声を漏らす。その反応を見た少女はと言えば、悪戯が成功したかのように首を傾けて笑みを深くした。

 

 天童流を学んだ彰磨は、敵の存在を決定づけるあらゆる要素に対し敏感だ。音、匂い、殺気、そういったものは常人よりは高い精度で感じ取ることができる。

 

 そのはずなのに、彰磨はこの少女からいずれの情報も感じ取ることができなかった。

 

 仮にその面へ秀でていようとおかしい話なのだ。こうして対面しているにも関わらず、生命としてあるべき()()というものが、少女は決定的に不足していりのだから。

 

 あまりにも異常だ。もう相手がどういう意図で動いているのかを暗に探るなどできる精神状態ではない。彰磨は観念して、直接当人に尋ねることにした。

 

 与えられる情報が嘘だとしても、少しの気休め程度にはなる。そう思っての判断であった。

 

 

「君は、何者なんだ」

 

「おっ、よく聞いてくれたねぇ!さっきは分を弁えねぇクソ玩具からボーガイ入っちゃったから、決め台詞も言い損ねたし!じゃ改めてっ」

 

 

 問いかけられた少女は、待ってましたと言わんばかりに居住まいを正すと、片手に持ったウサギのぬいぐるみを肩に担ぎ、指でVサインを作りながら片目を瞑り、座り込む彰磨の目線と合わせるように中腰になる。

 

 その拍子に、口内と首のチョーカーの間に繋がれたアクセサリのチェーンが、じゃら、という音を立てた。

 

 

「私は『モンスタア・イエローギフト』!なんか面白そうな玩具の気配がしたからねぇ、きちゃった!」

 

「おも、ちゃ?…それは、ガストレアのことか?」

 

「んふ、そーだよ!」

 

 

 彰磨は言葉を失う。あのガストレアを、人を滅亡一歩手前まで追いやった災厄の生物を、弄ぶ道具…玩具(オモチャ)と称するのか。

 

 少女の思考すらも理解不能に陥った彰磨だが、先の戦闘と称するのも憚られる虐殺がフラッシュバックし、そうと言えるに値する実力を秘めているのは確かなのかもしれない、と認識を少しばかり改める。

 

 しかし、そうなると分からないことが出てくる。

 

 この世界において、ガストレアと正面から対抗できるのは、バラニウムで武装した人間か、ガストレア因子をその身に宿した呪われた子どもたち、そのいずれかに限られる。

 

 目前の金髪の少女はバラニウム武具など身に着けていないし、見たところ十代前後。であれば、先の候補のなかでは後者となるのだろうが…

 

 彰磨は、この少女に対し『呪われた子どもたち』という呼称を用いることを躊躇った。

 

 その明確な根拠を探すため、彰磨は生唾を呑みんでから、翼を捥がれた羽虫を眺めるかのような笑顔を湛えた少女に問いを投げかける。

 

 

「君は、イニシエーターなのか?」

 

 

 彰磨の絞り出すような声に、彼女は尚も笑顔を崩さぬまま、特別なものなど何もないかのような口調で答えた。

 

 

「うん?そうだよ。()()()()、モデルは()()()()()。ぷろもーたーはね、ホントはお兄ちゃんがよかったんだけど、今は『ダディ』で我慢してるの!」

 

「…!?」

 

 

 彰磨は、この少女に抱いていた数々の違和感すべてに合点がいった。

 

 異常でなければ、序列三位などという雲上の高みへ辿り着くことなどできはしない。故にこそ、彼女が異常なのは、寧ろ正常なのだ。

 

 ────『虚の少女(イミテーション・テンプテーション)』という二つ名を持つ、正体不明の高位序列の一角。

 それが、この少女である。




原作では、序列一位、二位のイニシエーターはステージⅤを討伐したということで存在が明らかになっていますが、一桁台だと恐らくその二名だけでしょうね。

ということで、属性もりもりのオリジナル三位ちゃん登場です。
『モデル・アンノウン』について一足先に知りたい方は、人物紹介の方を覗いて見て下さい。

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