士道くんは中二病をこじらせたようです 作:potato-47
『士道、ちょっと<フラクシナス>に来てもらえないかしら』
朝食の準備をしていた五河士道は、右耳に装着したインカムから聞こえた声に包丁の構えを解いて、空中に放り投げたキャベツを片手でキャッチした。今日の調子ならば『秘技・
「分かった、すぐに向かう」
士道は鍋に掛けていた火を止めて調理中の食材を冷蔵庫に戻すと、手早く身支度を整えて玄関に向かった。
外へ踏み出すと不思議な浮遊感に包まれた。眩い光が視界を覆い尽くし、一瞬で景色が変わる。転移装置により、士道は上空一万五千メートルに滞空する空中艦<フラクシナス>へと回収されたのだ。
黒いリボンで髪を括った五河琴里が、不敵な笑みで士道を出迎えた。
「待っていたわよ。別にリビングで話しても良かったんだけど、内容が内容だから念の為に<フラクシナス>に来てもらったわ」
盗聴対策ならば五河家でも万全だ。そうなると聞かせたくない相手は、精霊マンションに移り住んだ、士道が封印してきた精霊に限られる。別居を始めたとはいえ、彼女たちは食事を一緒に取るので五河家に毎朝やってくるのだ。
「士道はもう、巻き込みたくないんでしょう?」
「琴里は反対か?」
「<ラタトスク>の方針としては、その方が嬉しいわ。私個人としても精霊が平穏を享受できるのは好ましいと思うわね」
「引っ掛かる言い回しだな」
「だって、本人たちの意志は無視してるじゃない」
「……そうだな、ああ、分かってるよ」
士道は理解している。八舞姉妹も十香もそんなことは望んでいない。
考えていることは同じだ。誰だって大切な者が傷付くのを見たくない。
それでも士道は、彼女たちを戦場から遠ざけたかった。
目の前で撃ち落とされた耶倶矢の姿。見る見る内に血の気が失せていく十香の顔。
過去の敗北が脳裏に浮かび上がり、士道は己の無力を嘆いて奥歯を噛み締めた。もっと力があれば、機転を利かせることができれば、誰も傷付けずに勝利を収められた。
理想主義に終わりはない。
貪欲により良い未来を追い求める。
それがどれだけの傲慢で、過去への否定なのか自覚しながら――士道は止まることができない。
夜空を駆け抜けたあの一瞬で魅入られてしまったのだ。
――この世界はきっと理想郷へと至れる。
例え巨悪が立ちはだかろうと、心が折れない限り可能性は潰えない。
「本当に最低のわがままね」
琴里は義兄の歪みに気付いており、迂闊に肯定するような言葉を口にしない。
精霊が傷付く以上に士道は血塗れになって、何度も立ち上がって、無様で凄惨な姿を晒している。琴里にとってはそちらの方がトラウマものだ。
だからこれからも支えていこうと覚悟を決める。
「あんたがどれだけ私を除け者にしようとしても、意地でも手伝わせてもらうからね」
士道は苦笑を浮かべる。
欲を言うのならば琴里だって巻き込みたくない。
しかし、所詮は個人でしかない士道に<ラタトスク>を拒む力はなかった。彼らの協力がなければ精霊が日常を手にするなど夢物語に成り果てる。
二人の会話が途切れる。気付けば目的地であるブリーフィングルームに辿り着いていた。士道は部屋に入ると、円卓を挟んで琴里と向かい合う位置に座った。
「これから話す内容には機密事項が多く含まれているわ。他言無用にしてちょうだい。……まあ、誰かに話したところで無意味だとは思うけど」
「それを俺に話していいのか?」
琴里は足を組んで背もたれに深く腰掛ける。
「不都合な部分は隠させてもらうわよ。情に流されて身内に話す訳じゃないんだから、心配は要らないわ」
最近は更に司令官モードが板に付いてきた気がする。その成長を喜ぶべきなのかどうなのか、士道の胸中は複雑だった。
「十香攻略中に<フラクシナス>でトラブルがあったでしょ? それで士道に迷惑かけちゃったし、説明ぐらいするべきだと思ってね」
思い当たるのは高台公園の戦いで、無線が途切れたのと転移装置が一時的に使えなくなったことだ。確かにあれのせいで何度も死線を潜ることになったが、逆に追い詰められたからこそ機関へ大打撃を与えられた。
「それは結果論よね。あんな絶体絶命的な状況は金輪際お断りよ」
「……それで、あれは単なる機器の故障じゃなかったのか?」
「最新鋭の空中艦を舐めないでもらえないかしら。士道のエラー吐きまくりの脳味噌と違って、<フラクシナス>のシステムは優秀よ」
「エラーって……」
地味に凹む士道を無視して琴里は話を続ける。
「最高幹部連である円卓会議に裏切り者が出たのよ。……いえ、正確には最初からそれが目的だったのかもしれないけど」
<ベルセルク>の空間震に巻き込まれた損傷で一時的にシステムがダウンすることがあった。その反省から現場で素早い復旧をするためにエンジニアの追加要員が<フラクシナス>に乗り込むことになったのだが、精霊を手にしようと画策する幹部の一人が、その中に手駒を紛れ込ませていた。
そして絶好の機会を得た彼は動き出した。送り込んだエンジニアに、システムのコントロールを奪わせて、琴里を脅迫したのだ。
「結果から言えば士道のお陰で失敗に終わって、幹部は入れ替えになったわ。今度はまともな人間よ。ちょっと癖が強いところが難だけど」
士道は琴里の顔を覗き込んだ。そもそも<ラタトスク>にまともな人間は居るのだろうか。自分のことを棚に上げて言えば、個性的な者ばかりだったように思える。
「何よ、その目は?」
「……いや、なんでもない」
「まあいいわ。次の話に移りましょう」
琴里は端末を操作して円卓中央のモニタを起動する。五年前に発生した大火事の映像が再生された。幼い頃の士道と琴里の姿が映ったところで停止させる。二人の視線は自然とモザイクを纏った謎の人物に吸い寄せられた。
「ここに居た何者かを、今後は<ファントム>と呼称することになったわ」
「亡霊ということか。良いセンスだ」
「ネーミングセンスで士道に褒められると身投げしたくなるわね」
士道は膝から崩れ落ちて、床に拳を叩き込む。自分を理解してくれる親しい者からの否定に対しては豆腐メンタルである。それを分かって実行するのだから、司令官モードの琴里は容赦がない。
耐えろ、耐え抜け! 寧ろ妹が中二病への一歩を刻んだことを祝福しようではないか!
「俺の魂はこの程度で砕けはしない」
脆い代わりに復活も早い。
「話を続けよう」
「それなら遠慮無く続けるわよ。士道のネーミングセンスがいかに残念なのか――」
琴里は士道が心臓に手を当てて頭が垂れ下がっていくのを目にして、追い打ちを掛けるのを中断した。
「真面目な話に戻るけど、識別名<ファントム>は姿形も曖昧だし、その能力にも謎が多いわ。精霊化の力を私にだけ使ったとは考え難い。この意味は分かるわよね?」
「精霊化した人間が他にも居る。そこに正体を探る糸口があるということだろう」
「理解が早くて助かるわ」
鋭い勘や優れた洞察力、中二病をこじらせたことで得た能力だ。漫然と日常を過ごす上では無駄なハイスペックだが、既に半分以上を非日常に身を置いた士道には、もはや生き延びるために必須のスキルだった。
「だが、日常に溶け込む精霊を警戒する必要があるとも言えるな」
「そうね。十香のように無知ならば目立つし、八舞姉妹のように派手ならば寧ろ無視するのも難しいけど……人間としての生活基盤を持っているとなると、非常に厄介よ」
「能力者として過ごしてきた俺にはよく理解できる。己の特異性を隠す筈だ。さもなければ異端として排斥されるのは目に見えているからな」
「表側の対応はそうでしょうね。裏側としても正体がばれるのは危険だから、尻尾を掴むのは容易ではないわ」
士道は妄想と現実が重なり合う感覚を久々に味わえて、事態の深刻さとは裏腹に中二心が癒やされる。
正体を隠して日常を演じる能力者たち。そこへ謎の人物が現れる。彼は『組織』のエージェントを名乗り、能力者の生存権を懸けた戦いへと導いていく。王道であるからこそ実に心が踊る展開ではないか。
「相手も表立って行動はしないと思うけど、一応は頭の片隅にでも置いてちょうだい」
「ふっ、任せておけ、いついかなる時も俺の心に油断などありはしない。不意打ちなどこの身に通用しないさ」
「はいはい、期待してるわよ」
琴里はモニタ端に表示された時刻を確認して、画面を切り替えた。映されたのは何の変哲もない報道番組だった。
この状況で占いが見たかった、などというオチはないだろう。
ちょうど天気予報がやっていたので確認しておく。どうやら今日は晴天が続くようだ。降水確率はほぼ〇パーセントらしいので、洗濯物は外に干して行こう。
天気予報が終わりニュースが流れる。特に気になる内容はなかったが、画面がスタジオからリポーターに切り替わったところで、琴里が見せたかったものを理解した。
記者会見場に問題の人物が姿を現すとフラッシュの嵐が巻き起こった。いかにも即席といった会場で、フラッシュを浴びる男が腰掛けたのはその地位に見合わぬパイプ椅子だった。
「佐伯防衛大臣か」
「ええ、元防衛大臣だけどね」
それならば彼にはパイプ椅子こそが相応しいのかもしれない。
画面端のテロップには『突然の辞任、その理由は?』と煽り文が書かれていた。本人にとっては政治家人生の終わりでも、マスコミにとっては垂涎のネタであり、多くの一般市民にとっては画面の向こう側の出来事である。
「政治献金で豪遊してたとか、それも事実らしいけど、実際は士道の知っての通り裏側の事情で首を切られたわ。尻尾と言った方が正確かしらね」
「……これで、ASTの方針が変わればいいが」
「後任には味方とは言えないけど、穏健派が着くことが決まっているわ」
「そうか。未来に期待するとしよう」
琴里は映像を切ると長く息を吐き出した。一先ずは肩の荷が下りたようだ。
「これでようやく表裏含めて一段落だわ」
士道は立場や役職などを取り払い、一人の兄として必死で戦ってくれた妹の頭を優しく撫でた。
「良く頑張ったな、琴里」
「……ありがとう、おにーちゃん」
*
「…………なあ、琴里」
『今頃になって怖気づいたなんて言うつもりかしら、この中二病兄は?』
「俺を<フラクシナス>に呼んだのは、これをやらせたかっただけじゃないのか」
『疑い過ぎよ。そうに決まってるじゃない』
最初と最後が繋がってないぞ、我が妹よ。さっきの心温まる兄妹の一幕を返せ。和んだ心が一気に荒んでしまったではないか。
『不満そうね。いいわよ、もっと寝顔を堪能したいなら鳶一折紙の家にも行かせてあげるわ』
「任せておけ、俺に不可能はない」
士道は即座に覚悟を決めた。少し折紙に悪いとは思ったが、誰だって無意味に死にたくない。肉食獣の巣に不用意に踏み込むだなんて、自殺志願者だってもっと楽な死に方を選ぶだろう。
ブリーフィングルームでの話を終えた士道は、五河家へと戻ろうとしたところで、琴里からまだ眠ったままの精霊を起こしに行くように頼まれた。
精霊マンションならインターフォンを鳴らすだけで気付くだろう、と考えていた士道に対して、琴里はニヤリと笑った。
『どこへ行くつもりよ、士道? みんなこの<フラクシナス>に居るわよ』
定期検査が長引いたせいで、十香が途中で疲れて寝てしまい、八舞姉妹もそれに付き合って泊まっていくことにしたらしい。
――そして、現在に至る訳である。
士道は誰から起こしに行こうかと悩んだ。
「ん? いや、耶倶矢と夕弦なら同じ部屋か」
五河家に居候していた時は、クイーンサイズのベッドで一緒に寝ていた。
『言い忘れていたけど、八舞姉妹なら別々の部屋で寝てるわよ。折角のシチュエーションだもの、存分に楽しまないとね、士道』
「…………」
死亡チャンスが増えただけじゃあないかな。
琴里の口振りからするに、八舞姉妹には今回の計画は伝わっているのかもしれない。
「やっぱり最初は十香かな」
理由は単純に一番安全だからだ。子どもっぽいところが多い十香のことだから、いきなり服を脱ぎ出したり、布団に引きずり込もうとしたりはしないだろう。
「……俺は一体、何と戦っているんだ?」
日常に潜むトラップが怖過ぎる。強大な敵よりも、女の子の誘惑の方が怖いって難易度調整を間違っている。
琴里の案内で十香が泊まる部屋の前までやってきた。まずはノックをする。返事はない。何度か呼び掛けとノックを繰り返したが一向に反応は返ってこなかった。
「なあ琴里、まさかお前……」
『これに関しては信じられないと思うけど、本当にただの事故よ』
「事故で深い眠りって……それは意識不明とか気絶じゃないのか?」
『そういうことではないわ。ほら、令音が睡眠導入剤を大量に飲んでるでしょ? しかも甘くて美味しいとか言ってて、どうも十香が興味を持っちゃったみたいで』
令音解析官、あんたって人は余計なことをしてくれたな。
「分かった、それじゃあ夕弦と耶倶矢は普通に寝ているだけなんだな」
『素直に起きてくれるかは別問題だけどね。夕弦は少女漫画で予習するとか言ってたわよ』
うん、とりあえず折紙の愛弟子である夕弦は最後に回そう。折紙と少女漫画の化学反応で捕食されかねない。
「これ以上うだうだしていても仕方ない。行くか」
気を取り直した士道は、もう一度ノックをして反応がないことを確認してから扉を開いた。
十香はベッドの上でぐっすり眠っていた。寝相が悪く手足を布団の外に投げ出しており、寝間着も捲れ上がってヘソがちょこりと顔を覗かせていた。
「十香、朝だぞ」
近付いて呼び掛けてみるが、むにゃむにゃと夢世界の言語を返されてしまった。
「起きろ、さもなければ朝飯は無しだ」
肩を軽く揺すると、十香の瞼が震えてパチパチと瞬きを繰り返す。
「おはよう、十香」
「おはようだ、シドー……シドー?」
「それ以外の誰かに見えるのか」
十香の寝ぼけ眼がクワッと見開かれた。
「な、なな、なぜ私の部屋に居るのだ!?」
「正確に言えばここは十香の部屋じゃないと思うが」
十香は昨日の記憶を思い出したのか頷きを見せた。それから何か不安を得たのか顔を青くして口端で輝く涎を袖で拭い取り、布団を頭まで被って丸くなった。
「み、見たのか?」
「主語をくれ」
「…………」
やはり、寝相の悪さで服を乱れていたのを気にしているのだろうか。だとしたら悪いことをした。十香が寝坊しても起こしに行くのは夕弦か耶倶矢だったので、異性に見られる心配はしていなかった筈だ。
「ちょっと服は乱れていたけど、別に下着とかは見えていなかったから安心しろ」
「そうではない! いや、それもあるが……やっぱり見たのだろう? 寝顔を……!」
そっちだったか。士道は余り気にしないが、女の子としては重要らしい。中二濃度が薄い十香はクラスメイトとの交流も多く、色々と教わっているのを良く目にする。寝顔に関しても何か言われたのかもしれない。
気にするな、と言って納得するならこんなに取り乱したりはしないだろうし、どうすれば十香を納得させられるだろうか。
士道は少し考えてから、あれこれ悩むのをやめた。
こんな時は誤魔化したりせずに、真っ直ぐに行こう。攻略なんて言葉で本音を隠して、上辺だけの態度で好感度を得ても本当の価値は得られない。
「俺は十香の寝顔、好きだぞ」
「えっ……?」
「幸せそうで、見ているだけでこっちまで幸せを分けてもらえる」
「そうなのか? シドーはだらしないとか、はしたないとか思わないのか?」
「思わないさ」
十香は布団から顔を出した。安心したのか微笑みを浮かべていた。
「そうか……うむ、ならば良いのだ!」
すっかり元気になった十香を琴里に任せて、士道は耶倶矢が眠る部屋へと向かった。
手順は十香の時と同じくノックと呼び掛け。しかし反応は無かった。
「接近戦あるのみか」
士道が部屋に入っても、耶倶矢はまだ狸寝入りを決め込んでいた。布団を頭まで被って頑なに目覚めようとしない。実力行使に出ろということなのか。
「颶風の御子たる者が、だらしがないぞ」
一気に布団を引き剥がそうと力を入れる。予想に反して簡単に布団は持ち上がる。
しかし、布団の中には枕が積み上げられているだけで、耶倶矢の姿はなかった。
「後ろかっ!?」
背後に人の気配を感じ取った時には手遅れだった。
両腕を拘束され、羽交い締めを完全に極められていた。
「くくっ、腑抜けていたようだな、士道」
耶倶矢が耳元で囁いた声に士道は凍り付いた。あれだけ琴里に豪語しておいてこの様である。相手が味方であるからこそ言い訳にならない。もしも日常の中に敵が溶け込んでいたならば、抵抗もできず敗北することを意味していた。
「我がヒュプノスの呪縛如きで屈すると思うたか?」
どうにか抜け出そうと抵抗するが、耶倶矢は身体を密着させて自由を極限まで奪ってくる。
「……ッ!?」
これは不味い。
「耶倶矢、離れた方が身のためだぞ」
「ほう、何を企んでいる? まあいい、どんな逆転の一手を披露するのか、期待させてもらうぞ」
「違う。今の体勢を考えろ」
「言の葉で油断を誘うつもりか?」
「俺は耶倶矢のために言っているだけだ」
「…………あっ、へ、変なこと考えるんじゃないわよ! こ、こここれはワザとなんかじゃないんだから!」
何が不味いって、それは士道と耶倶矢の身体が密着しているのだ。羽交い締めの体勢からして、背中に耶倶矢の小さな……げふんげふん、慎ましく美しい胸が押し当てられていた。
慌てた耶倶矢に突き飛ばされて、士道は受け身を取ろうとベッドに身を投げ出す。それが失敗だった。布団の中に詰められていた大量の枕が腰裏にあたり、海老反りの体勢を強要される。
「こ、腰がっ!」
「今助けるから、じっとして――きゃああっ!」
床に落ちた布団に躓いて、耶倶矢が士道の上に覆い被さった。
ベッドの上で絡み合う士道と耶倶矢。士道の腰に掛かる負担。呼吸を荒らげる耶倶矢――これだけ聞けば淫靡な響きだが、実際は士道の腰が逆パカされるバイオレンスなプレイも真っ青な危機的状況である。
「し、死ぬ……!」
「士道っ!?」
耶倶矢が立ち上がり、すぐに助け起こしてくれたお陰で、士道は再生能力に頼ることなく一命を取り留めた。
「……わ、悪かったわよ。日常を取り戻してまた腑抜けているかと思って、こんなことしちゃって」
「心配するな。無意識の内に気が抜けていた部分があったのは否めない。寧ろ感謝している」
士道の意図を理解して、耶倶矢は腕を組んで片頬を吊り上げた。
「くくっ、それでこそ我が盟友に相応しい」
中二病同士らしく特に意味のない微笑みを交わして、去り際潔く二人は部屋から出た通路で背を向け合い歩いて行った。耶倶矢が荷物を取りに引き返し、士道が夕弦の部屋は逆方向だと言われて引き返す――十秒前の出来事であった。
格好良い去り際を最悪の再会で台無しにした士道は、気を取り直して
サバンナも戦々恐々せざるを得ない肉食系が跋扈する日本の未来――ああ、第三次ベビーブームも夢じゃない、少子化問題なんてすぐに解決だ。
念の為にノックを試す。反応無し。
呼び掛けも試すが、同じく反応無し。
「――行くぞ」
なんで戦場に赴く覚悟を決めているのか、やっぱり日常がベリーハード過ぎる。
夕弦は大人しくベッドで眠っていた。耶倶矢のように身代わりを使ってないことは、布団から顔が出ているので簡単に確認できた。
肩を軽く揺すって声を掛ける。
夕弦は布団の中に逃げ込むように丸くなった。腕を掴まれて引きずり込まれるかと警戒したが、そんなことにはならなかった。
「寝言。あと五分」
「いや、寝言って言ったらアウトだろ」
ぷいっと顔を背けられた。
難儀な口調である。
「ほら、起きろって」
「睡眠。…………」
「…………」
難儀な口調である。
「そろそろ本当に起きてくれ」
「拒否。おはようのキスはまだですか」
「まだも何もない」
そんな布団から目元だけ出して、萌え袖のように指先だけ出すように布団を掴んで、期待の眼差しでチラ見されても――というか狙い過ぎだろう。これが少女漫画で学んだ技術なのか。
「一つ疑問がある。折紙要素が足りない気がするんだが?」
士道は自分から地雷を踏みに行ってしまった。思わぬ防戦態勢を取られて戸惑っていたのだ。
「回答。マスター折紙からは、押し倒してだめなら引き倒せと学びました」
「……どっちもやること変わってないぞ」
いや、折紙の教えならそれで正しいのか。そろそろ夕弦を折紙から引き離すべきか真剣に検討した方がいい気もするが、折紙の歩み寄りを否定するようで今日まで実現できていない。
「訂正。押してダメなら引いてみろです」
「ああ、うん、安心した」
夕弦は上半身を起こして、士道を無言で見詰めてくる。
「どうした?」
「質問。士道は下も見たいですか」
「見たいかどうかはともかく、布団からは出てもらいたい」
「動揺。士道は大胆ですね」
「どうしてそうなる?」
「告白。夕弦は現在、はいてません」
「…………」
予想外の告白だった。
「理解。士道は下半身露出系女子が好みなのですね」
「そんなジャンルが存在することにビックリだよ」
「疑問。『はいてない』は、流行している筈ですが」
どこでだろうか。たぶん漫画やアニメなのだろうけど、二次元は殿町が担当なので、士道はそれほど詳しくない。
もう終わりかと思ったら、夕弦は更に攻めの一手を打ってきた。
「質問。あざとい女の子は好きですか」
夕弦は足先を布団から出して床に下ろす。膝下まで隠されているとはいえ際どい状態だ。ゆっくりと布団が捲られていく。膝小僧に続いて眩しい太腿が露わになる。
士道は瞼を閉じるだけでなく顔を横に向けた。
両頬をひんやりした手の平が包み込む。
「請願。目を開けてください」
耳元で誘惑する囁きに、士道の鼓動が早くなる。しかしそう簡単に理性の壁が崩れたりはしない。幾度も襲われた彼はもはや鋼やダイヤモンドを越えて、ミスリルやオリハルコンの領域に至っている。
「脅迫。目を開けなければマスター直伝のテクニックが火を吹きます」
士道は恐る恐る瞼を押し上げて薄目で確認する。
腰に布団を巻いた夕弦が悪戯な笑みを浮かべていた。絶妙な影を作って、股の間がどうなっているのか見えなくなっている。
「解説。はいてないとは、確定してはいけないものだそうです」
「良く分からないが、心臓に悪いのでやめてくれ」
無事に任務を果たして五河家に戻った士道は、八舞姉妹と十香に手伝ってもらい残りの調理を片付けた。それから琴里を呼んで一緒に朝食を取る。大飯食らいの十香によって家計が逼迫するのも、食事中の幸せな笑顔を見ると瑣末な問題に思えた。
学校の用意をするため皆が精霊マンションに戻っている間に、戸締まりを念入りに確認していると、玄関先から呼び掛ける声が聞こえてきた。
「シドー! 急がねば遅刻してしまうぞ!」
「くくっ、まあ岡峰教諭の点呼は遅いからな、「や」で始まる我らには余裕がある」
「同調。困るのは士道だけですね」
勝手なことを言ってくれる。
思わず士道は柔らかな表情を浮かべていた。
「分かったよ、すぐに行く」
誰かを待たせるというのは、誰かが待っていてくれるということ。それはきっと幸せなことだ。
*
来禅高校の一日が終わる。元気良く部活へ繰り出す者、無言のまま一人で帰路に着く者、教室に残って駄弁っていく者、成績不良のため補習を受ける者――自由を与えられた生徒たちは、それぞれの選択と過去の柵を抱えて未来へと進む。
無数に広がる確率時空の中で、士道はババを引いていた。
具体的に何があったかというと、修羅場である。
「鳶一折紙、貴様の思う通りにはいかぬぞ。シドーは私とこれからデェトなのだ!」
確かに、今日の買い物は荷物が多くなりそうなので、十香に手伝ってもらうように予め約束していた。だが、タイムセールへの殴り込みは断じてデートとは呼ばない。
「意味が分からない。あなたは一度、病院に行くべき」
対する折紙は、悪意を露とも隠さずに応じる。
「なんだとっ!? 私を愚弄するのか!」
「そう聞こえなかったのなら、正気を疑う」
「ぐぬぬ、それ以上の狼藉を働くならば、もはや捨て置けぬぞ!」
人類と精霊の仁義無き戦いが始まりそうだったので、士道は無駄に決め顔で両者の間に割って入った。
「落ち着け、十香は何か誤解をしている」
「士道の言うとおり。夜刀神十香、あなたは落ち着くべき」
「ぬっ……確かに、冷静を見失っていたようだ」
修羅場が収束して落ち着いたところで、士道は改めて十香に事情を訊いた。士道は折紙から内密の話があると呼ばれて、人気のないところへ移動していただけなのだ。何をどう勘違いしたのか、そこへ十香が突っ掛かってきたのである。
「ハァレムは攻めた者勝ちだと――」
「いや、もういい」
説明しようとする十香に制止を掛ける。誰かに邪なことを吹き込まれたようだ。十香は人間社会に不慣れである。そのせいで時折、小動物的な反応を見せては母性を刺激させる。中二濃度が薄いこともあってか、クラスメイトの一部が何かと十香の面倒を見るようになり、特に
「耶倶矢、夕弦、ちょっと十香を頼めるか」
廊下の角に向けて呼び掛けると、八舞姉妹が橙色の髪を棚引かせて飛び出してきた。それから背を預け合うようにポーズを取った。
「くくっ、気配を読まれたか。どうやら勘が戻ってきているようだな」
「驚嘆。流石は士道です」
「お陰様でな」
士道が折紙に呼ばれた時点では、まだ八舞姉妹も教室に残っていたので、恐らくは付いて来ているだろうと予想してのことだ。気配を読むなんてどこぞの格闘家や工作員のような高等技術を用いた訳ではない。
八舞姉妹に連れられて十香が立ち去り、折紙と二人っきりになると、早速本題を切り出した。
「それで、折紙、話したいことっていうのは?」
「あなたに会いたいと言っている人が居る」
「俺に……?」
「そう」
「それは表裏どっちだ?」
「対応次第で変わる」
裏に関わっている人間で、士道に会いたい人物。折紙が<アポルトロシス>の正体を明かすとは思えないので、
「何者だ?」
「それを決めてほしい」
折紙の表情は些細な変化だが、困惑しているように見えた。
まるで謎掛けだ。危険はないと思うが念の為に<ラタトスク>に報告しておいた方がいいかもしれない。
「これから買い物に行くが、その後だったら大丈夫だ」
「では、士道の家で待っている」
「了解した。六時……一八時には帰宅できると思うから、それぐらいに来てくれ」
折紙はコクリと頷いた。
無表情の奥に不安を見付けて、士道は立ち去ろうとした足を止めた。
「どうした?」
「精霊が出現しても……無茶を、しないでほしい。今の私は無力。何も、士道の助けにはなれない」
一ヶ月の謹慎処分を言い渡された折紙は
「――違うよ、折紙。こうして協力しようしてくれるだけで、今を生きてくれているだけで、それだけで救いなんだ。十分に助けになっているよ」
「…………」
「それに俺はもう自分自身を蔑ろにはしない」
「嘘を吐いている。士道はいざとなれば、自分を犠牲にする」
「ああ、折紙はいつだって正しいよ」
言い訳はしない。誰にも譲れない士道の在り方なのだから。折紙が復讐のために感情の一部を捧げたように、士道は中二病をこじらせて本来の自己を見失った。
このまま会話を続けても、互いに譲れないものがある以上は平行線だ。
理解できるからこそ分かり合えない。
<ラタトスク>とAST、所属と組織の在り方が示すように――二人の手は完全に繋がれない。少なくとも今はまだ。
*
士道は一人、雨の中を強行軍で突き進む。せめてもの抵抗に、通学鞄を濡れないように胸に抱え込んだ。天気予報などという曖昧な情報を信じたが故に、彼は雨から身を守る術を持ち合わせていなかった。
「やはり機関の陰謀か。だが、屈しはせんぞ!」
本来の予定ならば、雨宿りしながらゆっくりと歩いても間に合う筈だったが、十香と折紙の修羅場や折紙との会話で予想以上に時間を食ってしまった。
十香も連れて行く予定だったが、流石に雨の中を走らせるのは悪いので、八舞姉妹と一緒に学校に残ってもらっている。
「今日のタイムセール、逃す訳には行かんのだ!」
家庭を預かる身として、士道は節約の二文字から逃れられない。<ラタトスク>からの援助があるとはいえ、無限の資金がある訳ではないのだ。
商店街は緊迫した空気に覆われていた。歩道を擦れ違う主婦の顔は既に戦いに備えて引き締まっている。
士道は鞄からタオルを取り出して濡れた頭を拭いた。制服もびしょ濡れになっているので、店のトイレを借りて男性物の変装に手早く着替えた。
「よし、準備完了だ」
――午後五時を回った。
戦いの幕開けだ。
準備のために一時的に閉鎖されていた一角が、店員の振るうハンドベルの祝福の音と同時に解放される。そこへ主婦の群れが雪崩れ込んだ。鬼気迫る形相は日常の皮を剥いで現れた
運動不足で培った脂肪はなんのためにある?
――前に出る不届き者を弾き飛ばすためだ!
馬鹿息子や娘、役立たずの夫を怒鳴り散らした声はなんのためにある?
――並み居る小者を恐れ慄かせるためだ!
親戚一同の愚痴で溜め込んだ鬱憤はなんのためにある?
――戦場で溜まりに溜まった力を解放するためだ!
専業主婦は伊達や酔狂じゃ務まらないんだよ! こちとらたった一円の節約のために鎬を削ってんだ。死ぬ覚悟もできてない臆病者はお呼びじゃない! そんな奴は10%引きとか書いてんのにちゃっかり元値を上げて割高の商品でも買っていやがれ!
まさに激流の如し。滝登りなど生易しい。川の流れを逆向きにさせる超常すら成し遂げるこの力――牙を剥いた主婦は、ヒエラルキーの頂点へと至る。
怪しい通販番組で購入した筋トレマシーンで手に入れた――と思いきや三日で飽きたため、ただの脂肪の塊パワーで、一気呵成に攻め立てる。
その戦場に士道の姿はあった。主夫歴も長い彼は、もはやこの戦場でも馴染みの顔になっていた。
「あら、五河さん家の士道くんじゃない」
なんて呼び掛けてくれる顔見知りが居るぐらいだ。
もちろんお互いに手加減をするつもりは微塵もない。大切な家族のために知り合いとも争う。それが特売日の宿命。タイムセールという名の呪縛。
「今夜はハンバーグ、半額の挽き肉は俺のものだ!」
脂肪の壁を分け入り、熱気で汗たっぷりの二の腕を掻い潜り、確実に前へ前へと突き進む。気付けば先頭集団に躍り出ていた。
「挽き肉は渡しませんよ!」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには見慣れぬしかし毎日のように目にする格好をした少女の姿があった。
本名は知らない。ただ呼び名はある。
愚直で傷付くことすら厭わずに突き進む妥協なき姿に、士道は二つ名を与えていた。
――<
彼女はいつもセーラー服を着ていた気がするが、今日は来禅高校のブレザーを纏っていた。転校してきたのだろうか。
「気付けば、そこそこの付き合いになっているな」
公園で偶然の出逢いを果たして、格好付けてアドバイスしたところ、彼女の人生に少なからず影響を与えてしまったので、商店街における戦い方など色々と教えていた。
最初は泣いてばかりの少女だったが、こうしてタイムセールの中でも生き残る姿を見ると感慨深いものがある。これが弟子の成長を喜ぶ師匠の気持ちなのかもしれない。
「とはいえ、手加減はしないがな」
「あっ……<
「だとしたら、どうする?」
「それでも勝ち取ります! 今月はピンチですから!」
士道は頬を釣り上げた。このノリは購買部に近いものがある。もしも転校してきたのなら、彼女にも
*
アシュリー・シンクレアは、日本での生活にすっかり馴染んだと思っていた。だが、どうやら自分はまだ日本についてまだまだ無知だったようだ。
「なんだこの戦場は……本当にこいつら一般人なのか?」
午後五時、商店街のタイムセール。
彼女もまたその戦場に居た。
「まさかセシルの奴、これを知っていて、気晴らしのために買い物を頼んだのか?」
作戦は順調とは言い難い。そのせいでアシュリーは待機を命じられてフラストレーションが溜まりっぱなしだった。本来であれば相手の戦力を削る段階に入っているのに未だに情報を掴めないでいる。こうして節約を強要されるのも、情報収集に使う資金が増えているのが大きな理由だった。
「まあいいか、あたしのやることは変わらねーし」
アシュリーは口端を引き裂くように笑う。上等だ。商店街の連中に本当の戦いってのを教えてやる。
前傾姿勢から一気に加速。目にも留まらぬ速さで人混みに突貫する。小さな身体を活かして、縦横無尽に駆け巡る。無理に最短ルートを押し通る必要はない。道があればただそこを抜けていく。
無駄が多いように見えて、彼女の選択は一つの正解だった。
「こんなものレオの狙撃とか、セシルの目から逃れるのに比べたら、ただの遊びだぜ」
目的の品は挽き肉。どうやら半額になっており、相当にお買い得らしい。金銭感覚の乱れたアシュリーには良く分からないが、セシルに怖い顔でこれだけは手に入れなさいと念押しされたので、相当にお買い得のようだ。
「よし、あそこの棚だな!」
跳躍で視界を確保し、挽き肉を積まれた棚を発見した。
同じく挽き肉に向かう集団の中に、少年と少女の姿を見付ける。
「なんだ、てめーらも狙いは同じか?」
少年は<無反応>と名乗り、隣を走る少女を<黒字家計簿>と紹介した。明らかに本名じゃないが、こんな戦場があることを知らなかったアシュリーは、もしかしたらここでの流儀なのかもしれないと納得した。
「新人か……それにしては、良い動きをしている」
自分と同じぐらいの身長の<黒字家計簿>は余裕がないらしく話し掛けても顔を向けてくるだけだったが、<無反応>はまだまだ余裕があるようだ。
「はっ、この程度の戦場じゃ、まだまだ生温いね」
アシュリーは最初こそは物珍しさから楽しめたが、慣れてくると歯応えを感じられず退屈していた。
「――分かっていないな、本当の戦いはこれからだ」
アシュリーは後方から迫り来る巨大な気配に気付いた。<無反応>の警告通り、どうやらまだまだこの戦場は楽しませてくれるようだ。
――<
それが巨躯の呼び名だ。本名は知れ渡っているが、この戦場においては誰も彼女をそんな生易しい名前で呼んだりはしない。
<聳え立つ愛>は四つ子の母である。いよいよ中学進学した子どもたちに、出費はかさむばかり。子どもたちの笑顔のためにヘルパーを始めて、それでも生活は苦しい。追い詰められた彼女は節約の修羅と化した。
棚の前に辿り着いたアシュリーだが、その後ろからまるで鞭のように手が伸びてくる。圧倒的な身長差は手の長さにも影響する。アシュリーにとっての一歩を、<聳え立つ愛>は腕を伸ばすだけで届かせる。
<無反応>は自分の体を盾にして、巧みに腕の進行を阻んでいた。アシュリーには体格的に真似できない芸当だ。
「あなたにもやし生活の苦しみが分かりますかっ!」
<黒字家計簿>は謎の叫びを上げて泣きながら必死で手を伸ばしているが、<聳え立つ愛>に掠め取られていた。
「ああ……っ! 私の一週間分のおかずが!」
は? 一週間分? どう考えても一日分しかねーぞ。
アシュリーはなんだか貰い泣きしそうになって堪える。まずは自分の挽き肉を確保しなくてならない。戦場では他人を頼った奴と、他人を優先した奴から死んでいくのだ。
「ちっ……弾かれたかっ!」
ようやく掴んだかと思ったが、腕の鞭によって空中へと放り出されてしまった。その数は二つ。
アシュリーは反射的に跳び上がった。
それと同時に三つの動きがあった。
一つは、<黒字家計簿>が同じく跳び上がったこと。
一つは、<無反応>が低く身構えて溜めに入ったこと。
一つは、<聳え立つ愛>が標的を空中の挽き肉に切り替えたこと。
「私の一週間を掴み取ります!」
「それはあたしのものだっ!」
二人の少女の叫びがぶつかり合う。
刹那、風を切る音が聞こえた。
「そこはまだ間合いに入っている!」
誰もまだ名を知らぬ新技がお披露目となる。
――『秘技・
<無反応>の手にした濡れタオルが凄まじい速度で放たれた。まさに一瞬、空中に浮かぶ挽き肉を絡め取り回収した。本来は空中に居る対象を高速で捌く技だが、鞭の腕からヒントを得て始めから応用に至ったのだ。
残すは一パック。
<聳え立つ愛>が迫る恐怖をひりひりと感じながら、アシュリーは全神経を指先に注ぐ。手の平で掴み取ることを考えるな。まずは触れろ――そして、
「弾くっ!」
「私の一週間がもっとお空に!?」
跳躍の勢いはまだ生きている。対して、最初から到達点を計算して跳んだ<黒字家計簿>は失速し後は落ちていくだけだ。<聳え立つ愛>の腕もまた届かない高度にまで達した。
「貰ったぜ!」
アシュリーは余裕の笑みで挽き肉を掴み取る。胸に抱え込んで横から奪われないように警戒を忘れない。着地と同時に駆け出す。レジまで直行だ。
「ううっ……負けました、強くなったはずなのに、また私は」
「強者が勝ち、弱者が負ける……それが戦場だ」
<無反応>の達観した言葉を、アシュリーは冷めた顔で聞いていた。
その通りだぜ、弱い奴が負ける……だから、あたしは強くなきゃだめなんだ、絶対に。
「――だが、勝ち負けは別にセットじゃない」
アシュリーは続く言葉に足を止めていた。何を馬鹿なことを言っているのだろうか。勝者が居れば敗者は必ず存在する。それは必然だ。
「誰かを負けさせなくても勝つことはできる」
<無反応>はどこか遠くを見詰めた。
「これが俺の答えだ」
そして<黒字家計簿>に挽き肉を差し出していた。
「
手渡しても一パックは残る。最初からどちらかが負けても問題はなかったということだろう。アシュリーには詭弁に聞こえた。それ以外の誰かが割りを食って負けるだけではないか。
綻びを抱えた慈悲。帳尻合わせの予定調和。
そのわがままの矛盾にいつまで耐えられるのか。ミクロの視点では破綻しながら、もしかしたらマクロの視点では成立するのかもしれないが、そう考えているのならば――結局は幸福の最大公約数を求めるだけの偽善に成り下がる。
もしも、<無反応>と名乗った少年にとって救いたいと思う存在が天秤の両側にあったとしたら――果たして、どうやって勝者だけで場を収めるというのだろうか。
「別に日常の中で理想論を語るのは自由だな。あたしが気にすることじゃねーか」
馬鹿らしい、何を真剣になって考えているのだろうか。
生活苦ぐらいが精々の不幸である一般人に、自分たちの気持ちなんて分かる筈がないのだ。
*
雨が降り続けていた。
士道は商店街で傘を購入したので、もう濡れる心配はない。自分はどれだけ濡れても構わないが、食材を駄目にする訳にはいかないため、血涙を流す思いで出費を許容したのだ。
「それにしても、こいつはどうしたものか」
買い物袋の中から取り出したのは、売れ残り臭が漂うパペットだった。
商店街では、天宮クインテットに流れる客を繋ぎ止めるために様々なイベントを催している。その内の一つに抽選会がある。
全店舗共通のスタンプカードがあり、購入金額千円ごとに一つ押してもらえる。それが十個たまると挑戦できるのだが、商店街専用の金券などもらって嬉しいものもあれば、在庫処分に売れ残りを押し付けられることもある。
士道は運悪くその『魔の四等』を引き当てて、死んだ目をしたブサ可愛い白熊のパペットを手にすることになったのだ。
「プレゼントしたら誰か喜ぶかな」
このパペットにだって、相応しい居場所がある筈だ。自分が手にしたのも何かの縁だと考えて、少しぐらい居場所を探してやろう。
士道は買い忘れがないか確認しながらのんびり歩く。
「洗濯物の取り込みは琴里に頼んであるし、折紙が来るまでには余裕があるな」
足元の警戒は忘れていない。無駄にスタイリッシュに水たまりを飛び越えた。
雨は嫌いではない。音を消し、臭いを断ち、気配まで殺してくれる。隠密行動には最適だ。雪と違って痕跡を残し難いのも良い。
「しかし、通り雨だと思ったが随分と長い」
不自然な雨――どこか作為めいた魅力的な響きがある。
士道は曇天を見上げて呟いた。
「この雨……ふっ、なるほど。遂にその時が来たようだな」
もちろん、その台詞に意味など存在しない。敢えて言えば、無意味であるからこそ格好良い。
興に乗ってしまい、天に向けて手の平をかざすようにポーズを決めていた。
『ぁははははっ! おにーさん、一人でポーズなんて決めちゃって、ぁっはっは、もー、お腹が捩れちゃうよー!』
誰も居ないと思ったが、甲高い笑い声が聞こえてきた。
雨の中にぽつんと佇む少女が一人。ウサ耳フードのレインコートに似た外套。左手の眼帯を装備したウサギのパペットが元気良く口を動かしている。
――まさか、人形遣いの能力者なのか。
思わぬ登場人物に瞠目する。
外見だけで判断すれば、琴里と同じぐらいの年齢に見える。
それはつまり、士道の全盛期――中学二年を意味していた。
彼女もまたその道へ踏み込んだ強者ということか。パペットを自由自在に操りながら表情を一切変えない徹底振り、雨は浴びるものだと体現する在り方。現実を超越した領域に彼女は存在していた。
「これが
士道は未だかつてない強敵の登場に、日常の脆さを儚んだ。
――雨の中、中二病は新たな精霊と出逢いを果たす。
――雨の中、闇に生きる咎人は謎の人形遣いと対峙する。
現実と妄想が重なり合う非日常の中で、五河士道は知らぬ間に次なる戦場へと導かれていた。
次回! 最強の能力者――<
なんか、久し振りに士道くんが勘違いしている気がする。
『俺の青春ラブコメは選択肢が全力で邪魔して問題児たちが異世界から来るそうですけど愛さえあれば関係ないよねっ』
ラノベタイトルを繋げただけで、デート・ア・ライブの内容が説明できてしまったけど、これって中々にすごい発見ではないですかね。
いや、まあどうでもいいことですけど。
Q.折紙さんを起こしに行くシチュは?
A.やめてくださいたべられてしまいます
次回の更新はもっと間が空くと思いますので、気長にお待ちくださいませ。