迷走大戦   作:萩原@

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第9話

    

    

    

    

 セリカの笑顔が消えたと同時に、周囲の音が戻ってきたが、それを精査する時間はラグナにはなかった。

 爆音は、飛び退ったラグナを後から追随した。ごそりと先程まで踏んでいた鉄板の床の一部が消失する。不可視に等しい速度で振るわれた何かがラグナを襲ったのだ。轟音が反響する中でラグナが片目で捉えたのは、絞り上げられた黒い布とも鞭ともつかぬものが床でのたうつ姿だ。真っ黒な雑巾かモップに見えないでもないそれが自分の意思を持って動きまわる。霧のように歪んだ輪郭が震えると、再びそれは霧散して空気中に散った。

 着地する地面にも、すね辺りまで霧が満ちてきている。黒き獣の残滓というには多すぎる。この目に見える魔素は獣の呼び水だ。今もまた密度を増して細長い影となり、鎌首をもたげる。

「ちっ」

 影は弾けて床にぶちまけられた。ラグナが左手で薙ぎ払った刃が、影より早く影を切り裂く。しかしこの場に残った獲物を逃すまいとするように、影達がぞろぞろと立ち上がる。切り裂いてもきりがない。

 けれど、不思議なことにどれだけ影が増えてもラグナが遅れを取ることはなかった。

 広間は先さえまともに見渡せない霧に覆われている。なにも足元から噴き出しているわけではない。霧は上から流れ落ちてきている。その先にいる黒き獣が落ちてくるのも時間の問題だ。

 そんな中で人間がまともに動けるはずがないのだが。霧を吸ってもまるで苦しいと思わない。むしろ身体が軽くなっていく気さえした。

「どうなってやがる」

 そして、焦燥よりも高揚がラグナを奮い立たせていた。それは息を潜めていた獣が身を起こすように。着実にラグナを支配していく。

 また轟音が響く。

 頭上の天井が膨れ上がる圧力に耐えかねて砕け散り、そこから大量の黒い霧が噴きだした。その闇の向こうで炯々と輝く赤い光は、目だ。

 トリニティがラグナに施した防護魔法は飛び散った瓦礫を全て受け止めたが、それの気配までは遮断しなかった。

 それは突然、ラグナとテルミの視界へと割り込んだ。巨大な、あまりに巨大な、巨大過ぎる何か。見上げるほどの巨体は、悪夢のようにその存在感を主張し、広間へと雪崩れ込んできた。数十メートルの影の塊。足も頭も胴もあるようでない。

「こいつは笑えない冗談だ」

 恐怖を覚えていた。圧倒されてもいる。だれだってこんな理不尽に立ち向かえば怯える。自分を一瞬でくびり殺せる海のような質量が、明確な殺意を持って押し寄せてきている。ちっぽけな自分を思い出し失望さえする。だが、それ以上の何かがラグナを突き動かしていた。

「黒き獣」

 ずっと閉じていた右目が当たり前のように開いて、黒き獣を映しだした。どろりと目玉が溶けてしまったような感覚が頭を揺さぶる。快楽と吐き気が一気に襲ってくる。それがただ魔道書に再び支配されたゆえのものだとは、ラグナは気づかなかった。気づかないが、身体が自由を取り戻したことだけは理解した。

「突っ立ってんじゃねぇぞ!」

 衝撃波が、ラグナの視界を歪めた。歪んだのは世界ではなく、より柔らかいラグナの眼球だ。横薙ぎにラグナは吹き飛んでいた。床なのか壁なのかわからない直線を含んだ面が破砕され雨のごとくラグナへと押し寄せる。

 テルミの警告が届くより先に、ラグナは身をゆすった黒き獣に跳ね飛ばされていた。

 地面に叩きつけられ二転三転、瓦礫と共に転がるラグナを見下ろす位置に、ナイフを構えたテルミの姿があった。無事と言いがたいラグナが視界の先で両手をついて身を跳ねあげると、獣の追撃をかわし立ち上がった。だらりと垂れていたはずのその右腕はしっかりと剣の柄を握っている。

 床を這うように獣の一撃を避けてテルミが大きく息を吸う。喉を通って胸板を膨らせる空気は大量の魔素を含有している。そしてその魔素は、テルミの身体にこびり付いた『嫌な気配』と中和し、霧散する。一息ごとにテルミの動きが速さを増し、キレを取り戻す。ラグナに限ったことではない。テルミも本来あるべき力を取り戻していた。セリカの近くにいた事で抑圧されていた力が開放される。

「らああああああっ」

 テルミは単純に目の前の障害物を蹴りつけた。せり出していた獣の前足のような部位だ。無論生身の人間がいくら蹴った所でどうこうなる代物ではない。

 しかし、蹴ったのはテルミだ。

 一撃目で前足を覆っていた魔素の霧が吹き飛ぶ。二撃目で獣の身体を形作る魔素の強固な結合が耐えかねて悲鳴を上げる。三撃目で直接叩きこまれた術式の圧に耐え切れず無数の傷口から破片をまき散らして足がへし折れた。

 無尽蔵に魔素が満ちた空間であれば術式を編むのは容易い。肉体そのものに術式強化を施したテルミの手足は一撃ごとに砲撃に等しい破壊力でもって黒き獣を強襲した。

 明確に足を使って黒き獣が移動しているわけではない。獣は本来不定形の窯だ。そこから『獣』の形を選択して窯が活動しているにすぎない。本来なら手足をもがれれば手足を捨てて動けばいいはずなのだが。

 テルミに前足を破壊された黒き獣は目に見えて動きが鈍った。魔素をかき集めようとする間、ほとんど動いていない。魔素が集まりきれば体を震わせ、再生した足を動かし進む。それは掘削に近い動きだ。天井の穴を広げて広間の床を削り取る。

 再度テルミが足を砕いても同じ手順で再生させようとする。そこに、黒い霧と砂塵の膜をぶち抜いた剣撃が突き刺さった。テルミの真横を突っ切りラグナの大剣が前足の中の骨の当たるであろう部分を寸断する。巨体が傾ぐ。甲高い悲鳴を上げながら獣の残った足が地面を抉った。

「魔道書の調子はどうよ、ラグナちゃん」

 振り切った大剣が石材を掻く火花と共に、被った土砂をばらばらと撒き散らながら、ラグナがテルミの横を通り抜けた。慣性で横滑りしつつも体勢を立て直す。

「第六六六拘束機関解放!」

 握りしめた右の拳を地面に叩きつけて無理矢理に止まる。擦り切れ弾け飛んだ包帯の下から、ラグナが隠していた異形の腕が現れた。人の肌よりきめ細やかな表面は、炭のような質感で覆われている。肩口まで露出した腕は黒き獣と同じ色をしていた。

「次元干渉虚数方陣展開!イデア機関接続!」

 硬質化し床に突き刺さっていた腕に赤い縦筋が走る。それも無数に。枝分かれし迎合しひび割れのようにラグナの腕を覆い尽くした線は、脈動のように赤黒く明滅を繰り返す。そして、腕は周囲の魔素を急激に吸収し始めた。

 イデア機関。発動のコードには本来含まれぬはずの単語にテルミは目を輝かせた。組み込んだ覚えのない機械的な模倣事象兵器がラグナの腕の中で駆動する。

「《蒼の魔道書》起動!」

 腕が完全な変異を遂げる。魔道書に絡め取られた魔素は黒き獣に似た黒いゆらめきを右腕に与えていた。

「おい!次はどうすりゃいい!」

 ラグナが発動した蒼の魔道書が突き刺さった床から開放される。巨大な黒い爪のような威容。黒き獣に呼応するように、腕はラグナの意思を無視して膨れ上がっていく。

 そこに新たな術を紡いだテルミが手を伸ばす。黒き獣に干渉して制御する術式を発動させるための魔道書の作製は、対象が強大過ぎるためにテルミにも成し得ていない。だが、魔道書の代替え品なら目の前にちょうどいい物がある。

「出来損ないにも使いようってもんがあんだよ」

 試作品にして失敗作である蒼の魔道書。窯としては欠陥品だが、出力だけならば申し分がない。テルミは錬成に備え、硬く閉じている蒼の魔道書のコードに触れる。魂を喰って汲み上げるだけ汲み上げて使われていない莫大な蒼が、コードの隙間からテルミの指先に絡みつく。

 さほど難しいコードではないが、窯の開放と蒼の循環を維持し続けるのは容易ではない。しかし発動自体は魔道書の製作者であるテルミからしてみれば、戸棚の掛け金を外すに等しい単純なものだ。指を一度すべらせるだけで事足りた。

「なんだっ」

 ラグナが呻く。腕の形が変わったわけではない。何がどうなったかわからないが、密度が増したように急激に腕が重さを増していく。腕の赤い筋の脈動が激しくなるのに合わせ、自分の鼓動も引きずられて速くなっていく。

「ヒヒヒヒヒヒヒッ……蒼の魔道書を、テメェの窯を開けてやるよぉラグナ=ザ=ブラッドエッジ!」

 本来錬成を行うための蒼は境界の奥に眠る劇物だ。魔道書が汲み上げたその蒼を、すべて魔道書自身の出力に回したらどうなるか。魔道書そのものを錬成したら。

「ウオオオオオオオオオオオッ」

 焼け爛れるような熱さと重みがラグナを襲う。腕の表面が波立つ。崩れそうになる足で、それでもラグナは前を向いた。眼前には人ひとり飲み込む大口を開けた黒き獣が迫っている。足元が揺れる中ラグナは右腕を大きく振り上げた。ラグナの爪が黒き獣の頭を引き裂く、と同時に閃光が迸る。

 はじけて溢れて逆流し。それは、信じがたい光景だった。

 右腕の爪が刺さった所から黒き獣の表皮とも言うべき黒煙が捲れあがった。それも、はじけ飛ぶように。傷は見る間に広がっていく。わずか一メートルの引っかき傷が、獣の長い首一つをずたずたにするまでに伸びた。ぱっくりと口を開けた真っ黒な傷口からは血のように魔素が流れだし、黒き獣が吠えて身悶える。地団駄を踏むように首を振るが、傷口は閉じる様子がない。

「しっかり狙えや、バカデケェ的なんだからよぉ!」

 制御の反動がテルミの神経を襲うが、笑いが止まらない。

 汗だくになったテルミの声に、ラグナが腕を今度はなぎ払うように振るった。獣の肉を爪が捉える。同じ存在同士が衝突し、互いに互いを食いつぶし合う。しかし、テルミに支配されているラグナの魔道書は、拡散しない。破損したコードが蒼のバックアップを受け瞬時に構築し直され、獣だけが朽ちていく。

「行くぞ!このデカブツ野郎がぁっ」

 もう一度、二度、三度。振るうたびに黒き獣の肉がはじけ飛んでいく。

 蒼を浪費しながらラグナの《蒼の魔道書》が黒き獣に干渉していく。止めるなどという生易しいものではない。結合を引きちぎり、獣を無秩序な魔素へ還元しているのだ。

 黒き獣が後退する。ラグナの腕を恐れるように、残った首で叫び声を上げた。ちっぽけな存在のはずのラグナに劣勢を強いられている。

 テルミが勝ち誇った顔でラグナの背を見ていた。ラグナが止めとばかりに一際大きな雄叫びを上げる。

 ラグナのすべての力を乗せた爪が黒き獣を引き裂き、そしてラグナ達のいた研究施設の最下層ごと、黒き獣は窯の中へと沈んでいった。

    

    

    

    

 扉をノックする音を無視したテルミは、ネクタイを結ぼうとして、少し考えてからネクタイ自体を首から抜いてベッドに投げ捨てた。黒いネクタイが真新しいシーツの上で蛇のようにとぐろを巻く。新品のはずのネクタイには、既に結びじわが付いてしまっていた。

 なにも制服ではないのだ、無理にきっちりと着る必要はない。どうしてもスーツを身に付けるとネクタイまでしめてしまいそうになるのは、長年染み付いた癖だった。

 また扉がノックされる。今度は二度、強い力で。放っておいたらドアノブくらいもぎかねない男が扉の向こうで直立不動しているのかと思うと、テルミはげんなりした。

「起きているのはわかっているぞ、早く支度を済ませろテルミ」

 件のノックをした相手が扉越しに話しかけてきた。それほど大きくない声だというのによく聞こえるのは、単に扉が薄いからだ。集合住宅にありがちなワンルームの部屋は扉も壁も薄い。

「テルミ」

「わかってるつーの!」

 しつこく呼ばれてテルミは口をへの字に曲げた。

 鏡の前でホルターネックのベストにしわがないか確かめてから、椅子に掛けたままだった新しいコートを手にとる。色は無論黄色だ。

 わずが数歩の距離しかない玄関とベッドの間を移動して、玄関のドアを開ける。

「遅い」

 当たり前のように腕を組んで待ち構えていたのは、縦にも横にも質量のある人狼だった。朝の涼しい空気の中で見ても何となく暑苦しさを感じる。

「だったら先にいけよオッサン」

 ヴァルケンハインは無言で持っていた紙袋をテルミに差し出した。思わずテルミも受け取る。中を覗きこむと手帳らしきものがいくつか入っている。

「もうできたのかよ」

 テルミが中から適当に取り出したのは顔写真付きの身分証明書だ。イシャナにおいて部外者が咎められずに島内を歩きまわるにはこれが必要だ。

 カードの名義はユウキ=テルミになっている。カズマの名は聖堂の一件で目をつけられてしまい使えないので、今はテルミで通していた。もはやこのイシャナにカズマとして帰ってくることはないだろう、

 玄関先でしげしげと偽装書類を眺めていると、ヴァルケンハインが苛ついた仕草で腕を指先で叩く。

「いつまで見ている。集まりに遅れるつもりか」

「正直行きたくねぇし」

「許されると思っているのか?」

 今度こそヴァルケンハインが口の端をひきつらせ、手袋で覆われた拳を握って指を鳴らしだす。

「冗談通じねぇなぁ」

 十聖の前に引きずり出される集会と言う名の詰問会にすすんで行きたいわけがない。ヴァルケンハインに紙袋を持たせると、テルミは腕にかけていたコートを羽織って渋々出て行く準備をする。日本で着ていた制服ともどもずたぼろになったので新調したコートには、蛇がのたうったような左右対称の黒い紋様が描かれている。

 コートを着終わり革靴を履いていると、ヴァルケンハインの手がぬっと伸びてきてフードを頭に被せた。

「なんだよ」

「顔は隠しておけ」

 適当にヴァルケンハインに被せられたせいで先が折れたフードをテルミが直す。

「めんどくせぇ……」

 さぁ出ろとばかりにドアを開けて支えているヴァルケンハインに促されて外へと出る。どこにでもあるアパートの一室から出れば、廊下の手すりの向こうにはイシャナの住宅地が広がっている。朝日が右手から差して兎に角眩しい。

「まだ寝ててもいいだろう」

 右手からはまったく同じ事を考えて口に出した男が、同じように叩き起こしに来た人間と一緒に歩いていた。

「おはようござますヴァルケンハインさん!」

 元気よく挨拶をしたセリカにヴァルケンハインも挨拶を返す。テルミは朝からセリカになど会いたくなかったので無視をする。ラグナは目元を左手でこすっている。

「マジねえってまだ昼前だろ、寝てていい時間じゃねぇか」

「ラグナは放っておくといつまでも寝てるからだめ!」

 正直寝ていたいと書いてある顔でセリカに手を引かれているラグナは、閉じていない左目でセリカをぐったりと見る。また動かなくなった右手がぶらりと揺れている。

「それにお姉ちゃんが待ってるよ。待たせるとお姉ちゃん怖いんだからね!」

 ぐっとラグナとテルミが喉を鳴らした。重々承知していることだ。嫌そうに廊下を歩き出した二人にセリカが微笑んだ。これは夢の様な、夢じゃない光景。ほんの一週間前に起こった事件の方が嘘だったように、ラグナとカズマはセリカの目の前にいた。

 黒き獣が眠りにつき仮初の平和が訪れて一週間。

 イシャナのもっとも忙しい一年が始まろうとしていた。

    

    

    

     

 


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