窯にたどり着いたのは夕方前だったはずだが、時計は既に月が天高く登る時刻を指していた。
そもそも、ここでは時計さえ無意味なのかもしれない。窯の影響で時間の流れが停滞し、歪んでしまっている。せめて空を見ることが出来れば外の時間がわかるかもしれないと隠し部屋を出たラグナの足は、窯のある広間へ向かっていた。寝るにはまだ早く感じたからだ。
話が全て終わった後、今すぐ帰ろうと言い出す物好きもいなかったので、ラグナ達は一泊この奇妙な研究施設で過ごすことを決めた。櫛灘の楔やセリカの父の遺体のある部屋で寝るのは色々と薄ら寒いものがあったが、いまさら縦穴に面した階段を何時間も掛けて登る気にもなれない。
ラグナが通路を抜けると、広間の中央で赤々と口を開けた窯と、そのふちに腰掛けているテルミが目に入った。隠し部屋から居心地悪そうに出て行ったので、ここにいる事はわかっていた。光の射さない天井の穴からほど近いところで、ぼろぼろの黄色いコートを羽織った背が見える。
「面白いもんでも見えるのかよ」
窯の中には溶岩のような境界がたゆたっている。そこに足を浸すように伸ばしているテルミの姿は、まともな学者が見ればひっくり返りかねないほどの奇行だ。境界は人が生身で触れられるようなものではない。高濃度の魔素と莫大な情報は人間の在り方を狂わせる。
「見えりゃ苦労してねぇよ」
開いた膝に肘をついて面白くも無さそうに、テルミが窯の中を覗く。ラグナはテルミから少し離れた窯のふちに、同じように座り込んだ。足こそ伸ばしはしないが、膝を組んで境界を見つめる。
「アマテラスでも探してんのか」
境界のどこかの座標に存在する『神』に等しい物。マスターユニットアマテラス。テルミが探し求めていたもののはずだ。
ラグナの言葉は、ずばりテルミの思惑をついていた。
境界の明かりに照らされ、フードの下のテルミの表情がはっきりと見える。
「マジでループの外から来やがったのか」
今までに見たことがないほど吊り上げられた三日月の口が浮かべるのは喜悦だ。
未だこのテルミは、繰り返す世界の呪縛から逃れられていないのだと、ラグナは確信する。
「ヒッヒヒヒヒヒッ……最高だぜ、今回は」
嗤いが止まらない口元をテルミが手で覆うが、蕩けたような目元は隠しようがない。ラグナは胸糞の悪い笑い声に若干引いた。
「今だったら、抱きしめてやってもいいぜぇラグナ君!」
「近寄ったら刺すッ!」
虫でも払うように剣を振り回すラグナにも、機嫌のいいテルミは頓着しない。箸が転がっただけでも面白いのだろう。
「ヒヒヒヒ…………まぁ冗談は終いだ」
ひとしきり笑ったテルミが急に声をひそめた。ラグナも剣を床に置く。こんな戯れをするためにここへ来たわけではない。ラグナが抱えていた疑問を口にする。
「蒼の魔道書で確実に黒き獣を止められるのかよ」
もし、止められなければ、セリカは櫛灘の楔を使うだろう。それだけは避けなければいけない。テルミが嘘を言っているようには思えなかったが、テルミを信用することはラグナにはできなかった。
「黒き獣が何か知ってるか、ラグナ=ザ=ブラッドエッジ」
すうっと細められたテルミの金の目が、ラグナに向けられる。何の感情も見いだせない色の眼だ。背筋を氷塊になめられるような怖気がラグナを襲う。喜怒哀楽を撒き散らしてはいても、この男はまともではないのだと、改めて思い知らされる。
「蒼の魔道書の、成れの果てだ」
「そうだ、あれはループを抜けれなかったできそこないのテメェだ」
ノエル=ヴァーミリオンに窯から引き上げられなかったラグナ=ザ=ブラッドエッジ。ニューと共に窯に落ちたラグナ=ザ=ブラッドエッジ。デジャヴのように僅かばかり今のラグナにも残っている繰り返した記憶が、黒き獣が何だったかをラグナに教える。
「んじゃあ、蒼の魔道書を作ったのは誰だ」
「……ユウキ=テルミだ」
「満点の答えだぜ」
また笑い出す。よほどここにいるラグナの存在がテルミには得がたいものらしかった。
「だったら、何でテメェは黒き獣を止めなかったんだよ」
制御できないものを生み出してこの時代の世界を滅ぼし掛けている張本人が顔を上げる。肩をすくめて見せるテルミにラグナが眉間に皺を寄せる。
「ちょっとご主人様が死にかけてる間にあのクソ犬、人間喰ってブクブク太りやがってまるで言うこと聞かなくなっちまってなぁ」
「ハァ?」
飼い犬に噛まれた、くらいの調子でテルミが黒き獣の暴走を語る。
「でもまぁ今回は自由が効くし止める程度ならわけねぇぜ。なんせ頭は子犬ちゃんだから単純で扱いやすいからよ」
じわりと染み出した殺意を敏感に感じ取ったテルミはラグナを嘲笑う。
「『こうしてる』だけで大喜びで走ってくるとか、マジちょろすぎだろ」
ラグナが、理解できないものを見る目でテルミを見る。テルミは黒き獣の話をしていたはずだが、いつの間にか話題が切り替わってしまったように会話が飛んだ。
テルミはラグナの困惑をよそに、指先で窯のふちをなぞり、じわりと染み出した魔素を指先でもてあそんでいた。窯の周りの影が色濃くなったように感じたのは、影のような魔素のせいだ。
「なに言ってやがんだ」
「ほーら、テメェにもじきに聞こえてくるぜ」
言われるがままラグナが耳をすませると、慌てふためいた足音がこちらに近づいてきていた。振り返ると隠し通路からちょうどミツヨシが飛び出してきた所だった。二股の尾の毛が逆立ちただならぬ様子のミツヨシに、ナイン、セリカ、そして遅れたトリニティが続く。
「どうしたってんだ」
立ち上がったラグナが、窯から離れてミツヨシ達のもとに近づく。
「よくわからんが、何かがここへ近づいてきているぞ!それも尋常ではない速さだ!」
ミツヨシの獣人の知覚が、言い知れぬ悪寒を拾い上げる。
「もうちょっと待ってくださいねぇ」
遅れて後を付いてきたトリニティの手の中には淡く輝く小ぶりな魔法陣が浮いている。それをしばらく指先でつついて調整すると、えいっと床の上に放り投げた。慌ててラグナが飛び退く。
「あっぶねぇ!」
「遠見の魔法ですから~大丈夫ですよぉ」
床に触れた魔法は百合が花弁を開くように広がり、逆円錐型の光になって何かを形づくりはじめる。
「これは、外か?」
円錐の中にもやが現れたかと思うと焦点が合い、夜の地上の風景を映しだした。辛うじて荒野の岩の凹凸が見えるが、映像は暗く不鮮明だ。
「これは、いったい」
地表を覆い尽くしているのは夜の帳ではない。もっと黒く、うごめく何かだ。地面と闇の境界がぶれてじわじわと黒い部分が広がっていくのが手に取るように見えた。
黒い、霧だ。
「嘘だろう……ッ!」
声を上げたのはミツヨシだ。数日前に遭遇した黒い霧とは規模が違いすぎるのだ。とっくに霧とは言えない濃度になった影が映像の端から端まで映り込んでいる。全長がどれほどになるのか想像もつかない影にセリカが呆然と立ち尽くす。欠片と言える大きさではない。今まで影を見たことがないナインやトリニティにも、慄きが伝染していくようだった。
「来たぜ、黒き獣だ」
テルミの声に地響きが重なった。あまりに巨大過ぎる影が質量さえともなって、魔素でできた身をよじっている。まだ遠い地上。しかしそれは地を這って、確実にこちらへと向かってきていた。
窯のある広場にいた全員が、頭上を見上げた。
穴の開いた天井の先にはすり鉢状の穴が広がり、その先には鋼鉄のひしゃげた蓋があるはずだ。あまりに遠い地上の様子をそこから窺うことはできないかに思われた。
「あっあ……あれ」
見つけたのはセリカだ。いや、見つかったのだ。穴の先でちらりと光った赤をじっと見たセリカは、ぎょろりと『こちらを向いた』光に、それが大きな大きな目だと気づいた。
続いてめりめりと何かが押しつぶされる音と、地鳴りが反響して地下深くまで聞こえてくる。黒き獣が隔壁を押し広げて縦穴の中に降りてくる音だ。
「来る……!」
ナインが身構え、トリニティが映像の魔法を解く。二人の魔女は油断なく魔法を紡ぎに掛かった。穴を睨みつけたミツヨシは刀を抜き、セリカを背に庇う。同じように剣を抜き放ったラグナにも緊張が走る。
唯一テルミだけは悠然と窯のそばで立って上を見ていた。
「ナイン、空間転移を使って、逃げろ」
「逃げろってどういうことよ!」
数度息をしただけで乾ききった舌がもつれそうになる。気丈なナインもじっとりと嫌な汗をかいていた。
酷くなる地響きの中、天井から落ちてくる石よりもずっと恐ろしいものが足元から噴きだしはじめる。岩の隙間から小さな音を立てて黒い霧が一筋、また一筋とミツヨシの眼前でその数は増していく。
「あんた一人で残るつもり」
強い口調のナインにも、ラグナの意図はわかった。わかりはしたが納得はいかない。そして誰よりも納得がいかないのは、セリカだ。
「だめ、ラグナを置いていくなんてできない!」
セリカは、ミツヨシを押しのけラグナにすがりついた。
「そうよ、私達だって戦える。あんたが黒き獣をとめる間の後方支援くらい任せて貰いたいわ」
それはこの場にいる四人の総意だった。だが、ラグナは首を横に振る。
「残られると困るってぇか邪魔だ。あんたらまで巻き込みかねない」
シュウシュウと足元に霧が溜まっていく。この霧が影に変わるまで幾ばくの時間もない。
「俺とテルミがいれば十分だ!早く行け!」
ラグナはセリカの手を引き剥がすと、ミツヨシに押し付けた。乱暴な所作に体勢を崩すセリカをミツヨシが抱きとめる。抗議の声を上げたナインにもう一度強く言い放つ。
「あんたらに死なれたら困るんだよ!時間がねぇ!」
ラグナの知っている歴史通りなら、このあと黒き獣を倒すのは彼女たち六英雄だ。それを巻き添えで失うわけにはいかない。
「黒き獣は、必ず止める」
ナインが言葉に詰まる。この男は本気で、黒き獣を止めるつもりなのだ。
「まだいたのかよテメェら」
首を傾げたテルミがようやく窯から降りてきた。
危機感のないテルミにラグナでさえ面食らうが、すぐに気を取り直した。テルミが焦っていないならば、自分も焦ることはない。
ラグナはじっとナインを見る。
ナインは唇を噛んで、声を荒げた。
「……全員、私の周りから離れないで!」
集中した意識が、はじけ飛ぶように遥か彼方を認識する。魔法への集中のため目を閉じたナインを、心配気にトリニティが見上げた。すぐに淡い光の輪がナインの周囲に広がり始める。
そこから抜けだそうと一歩踏み出したミツヨシの顔面を、テルミの足が蹴り飛ばした。
「な、なにをする!」
「クソ猫は残んじゃねぇぞ、邪魔だ」
赤くなった鼻を押さえるミツヨシをさらに蹴り転がして魔法陣の中にテルミは押し返した。扱いの雑さに顔をしかめはするが、ラグナはテルミに何も言わない。事実、残られては困るのだ。
「私たちは、先に行くわよ」
完成した陣の中心でナイン手を広げると、淡い光が円形に立ち登り始める。
ふわりとナインのピンク色の髪が浮き上がった。
トリニティも陣の中で同じように組んでいた掌を解き、魔法を発動させる。無論それは転移の魔法ではない。
「掛けっぱなしになりますが~防護魔法ですぅ」
掌から広がったのはきらめきを放つ薄布のような光。それがするりとラグナとテルミを包んで溶けるように消えた。
「助かる」
「カズマさんも、無事に帰ってきてくださいね」
それがトリニティの持ちうる魔力全てを使った魔法であるなどラグナは知らない。テルミも返事をしなかった。
「ラグナ……」
引き剥がされても、セリカはラグナに手を伸ばした。拒まれることなくその手はラグナに届く。
「戻ってくるって言ったよね」
切なさに泣き出しそうなセリカの目を、どうしてかラグナは懐かしいと感じた。ずっと出会った時から感じていた既視感。彼女をどこか拒めないのは、その暖かな声に、表情に見覚えを感じたからだ。
もしかしたら、未来のセリカにラグナは会ったことがあるのかもしれない。でなければこれほど、彼女を見て穏やかな気持になれるとは思えなかった。
「ああ、約束する」
例えセリカに次に会うラグナがセリカのことを覚えていなかったとしても。
これは嘘ではない。それに、勝算もあるのだ。今生の別れにはきっとならない。不吉な影を振り払うように、ラグナはセリカの手を握った。
「うん、わかった、信じる」
セリカは嘘をついた。ラグナがいなくなってしまう気がして、声を出すのさえ辛いくらい胸が痛かった。けれど、ラグナはまっすぐにセリカを見ている。ラグナは嘘なんかついていない。セリカよりずっとずっとラグナは強かった。その強さが倒れそうなセリカを支える。握りかえした手は大きくて、力強かった。
ラグナの顔をまっすぐ見たセリカは、そこに自分にできることを見つけて微笑んだ。足の爪先を立てて背伸びしたセリカの笑顔がラグナの目の前いっぱいに広がる。小さなセリカのキスは、ラグナの頬に刻まれた傷跡を跡形もなく癒し、暖かなぬくもりを残して離れていった。
「ラグナとカズマさんが帰ってくるの、待ってるからね!」
魔法陣に身を引いたセリカは、精一杯の笑顔でラグナに手をふった。その横でトリニティが唖然としたテルミに微笑んでいた。
「約束だよ!」
笑顔と声の残像を残して、彼女たちは次の瞬間、跡形もなくその場から消え失せていた。