階段を順当に降りていくこともできたが、彼はあえて最短経路をとった。つまり、窯まで一直線に掘り下げられた縦穴の縁を駆け降りる道を選んだのだ。
以前はこんなことができる身体ではなかったが、今では平坦な道を歩くのと変わりない簡単な動作に感じる。もっとも、記憶から掘り起こせる『以前』は曖昧なものであったが。
蹄のついた足が、数階層分の壁面を一歩で踏み渡る。緩やかな傾斜が付き下に行くほど狭まった大穴を囲う壁は、駆け降りるにしても十分な足場だった。底に近づくほど崩落が激しいのは黒き獣が這い出したからに相違ない。
黒き獣。己が滅すべきものの名を思い出す度に胸中がかき乱される。
ハクメンと己を称し過去を捨てても、その過去に今の信念の全ての始まりがある以上、忘れ去ることなどできるはずがない。その矛盾から目を背け、それでも前に進む道を選んだハクメンは、ただ黒き獣を狩るためだけに集中すべく前を向いた。
わずかではあるが、この先から黒き獣と同種の気配がする。ここ数日は動きが沈静化していた黒き獣が再び這い出してくる前兆である可能性も高い。黒き獣は魔素に触れるものを感知する能力がある。ならば、先駆となる残滓かあるいは魔素が噴き出しているのやもしれない。
日本までハクメンが赴くには十分過ぎる理由だった。
特に、この窯は全てが始まった窯だ。何が起きてもおかしくない。
突き抜け崩れた最下層の天井が、薄暗い中でもハクメンにははっきりと見える。面のような顔には目鼻は存在しない。甲冑と筋肉が溶け合ったような身体には隙間に赤い硬質な眼球が十六個あり、それが全方向への視界を確保している。戦うために人間の身体を棄ててスサノオユニットと融合して以降、人の時には持ち得なかった様々な感覚器官がハクメンには備わった。
悪しき者につながる黒くおぞましい線《凶》も、この眼によってより鮮明に捉えることができる。
それをひたすらに追って、ハクメンは地面に降り立った。音は酷く軽く、尾のような九条の白髪が風圧に広がり流れる音さえ聞こえるようだった。
足を進める先には、開いた窯があった。
高さはハクメンの身長に倍する巨大な門が、ぱっくりと口を開けてドームの中心に鎮座している。窯からは黒き獣が這い出した轍が蛇のようにのたくって、先ほどハクメンが降りてきた穴へと続いていた。窯の蓋は弾け飛んで中からは魔素が溢れ出しているはずなのだが。
おかしなことに、先程まで確かに感じていた黒き獣の気配が急速に薄れ始めている。
「……不可解な」
《凶》をハクメンが捉えられないなどと言うことは今まで一度たりとてなかった。ハクメンにとっては眼を開けば光が見え、色を識別するのと同様の当たり前のことが突然できなくかったように感じられた。
よもや黒き獣が《凶》を隠すなどと言う器用な真似ができるようになったとも思えないが。
「確かに此処に、黒き気配が在った……」
黒き獣が発するのは、かつて自分が兄に見たそれと同じ《凶》だ。辛うじて思いだせる幼少の時分の記憶に《点と線》として散らばる何か、あれは兄から染み出した弱々しい《凶》だ。自分が兄にすがるほど怯えていたのは、生まれながらに破滅を背負った兄の宿命そのものへの恐怖だったのだから、皮肉でしかない。
「黒き者よ。如何した」
すべての目が周囲を入念に見回す。背の柄に手をかけて、いつでも切りかかれるよう構えをとる。油断なくゆっくりと足を進めるが、黒き獣の気配はますます薄くなっていく。この異変にさしものハクメンも仮面の下で顔をしかめた。実際は仮面の下に顔などないのだが、古い記憶がそう感じさせた。
「…………ナ……!」
聞こえたのは、少女の悲痛な叫びだった。
「ぬ?」
このような場所に人がいるはずがないのだが、という疑問は声に続いてどかどかと響いてきた階段を駆け降りる数名の足音で霧散した。疑問符を浮かべたハクメンが足を完全に止めた。
そして、別の疑問が氷解する。足音の持ち主たちが広間へ降りてきた瞬間、清浄すぎる空気が入り口から一気に吹き抜けた。ハクメンを目にして慌てて陣形らしきものをとったのは四人の男女だった。
「アンタ、何者?」
ピンク色の髪に三角の魔道帽をしたきつい顔の少女が、後ろ手に茶色い髪を括った少女をかばっている。
ハクメンの目は、その背後の少女に釘付けになった。広間には風など吹いていない。風に感じたのは、一瞬で魔素が浄化されきった余波だ。少女を中心にあらゆる悪しきものが浄化されている。
「……秩序の力か」
ハクメンにも備わっている力だが、少女の秩序の力は桁違いの浄化作用でハクメンが追っていた《凶》まで根こそぎ消し去ってしまったのだ。これが、気配が唐突に消えた原因だと理解する。これではもはや黒き者を追うことはできない。下手をしたら、追っていた標的そのものが浄化された可能性さえある。
「施設の生き残りってわけじゃなさそうね」
実験動物か何かだと思われているのか、魔道士の少女はじろじろと無遠慮にハクメンを観察する。その横では薄汚れた黄色いフードの男が、一歩前に出てナイフを構え、白いフードをした少女の前に立ってじっとこちらを見ている。ぎろりと金色の目で睨んでいる男から何か言い知れぬ嫌悪を感じたが、《凶》を見て取ることは出来ない。
「また面白ぇもんがいるじゃねぇかよ」
「アンタ、アレが何か知ってるの?」
口の端を吊り上げる男に、魔道士の少女がきつく問い詰める。互いに警戒心からか視線をハクメンから外さない。
「ありゃクソ吸血鬼んとこの英雄様だ」
「吸血鬼って、レイチェルさんのところの?」
「ちょっと待ちなさい!なんでセリカも知ってるの!」
少女たちが口々に喋り出し、あっというまに場の空気がごちゃつく。アルカード家を知っている関係者はそう多くなく、ましてやこのような少女達が本来知っているはずなどないのだが。
「黒き気配は消えた」
場を仕切りなおすようにハクメンが口にするが、聞いているのはこちらに視線を向けたままの男だけで、少女たちはわいわいと言い合いをしている。刀を抜く雰囲気ではないし、倒すべき相手でもないだろう。
アルカード家を知っているこの時代の魔道士の少女に該当する者を、ハクメンは一人しか知らない。そして未来の記憶は、この少女が出会うべくして出会った相手であることをハクメンに指し示していた。
大魔道士ナイン。術式の開祖となった六英雄の中核をなす女である。
「今が邂逅の時と謂うのなら、其れも良いだろう」
「……なにを知っているのあんた?」
男から目線を動かし睨みつけると、少女の方が怯えで跳ね上がった。ハクメンの顔に目などないが気配を察することはできたらしい。
今は争う時ではない。だが、出会うべき時でもない。未だ時は満ちていない。
「……何れまた相見えようぞ、大魔道士ナインよ」
言うと、ハクメンはその場を後にした。蹴った地面から一足飛びで入ってきた天井の崩落した縁に足をかけると、そこから壁面を駆け登る。ここではないどこかで殺戮を繰り返す黒き者を倒すために、時間を悪戯に消費する事はできなかった。
背についたハクメンの目が遠ざかる地下の広間を見下ろす。天井の穴からは、先ほどのフードの男がこちらを見上げている小さな姿だけがハクメンには見えた。
どっと吹き出した汗が、テルミの顎先から地面へと落ちる。久しぶりの驚きに踊る鼓動に押し上げた体温が急激に冷めていく。ここまで予想外のことが起こるとは思いもしなかった。見上げた天井の穴の先で豆粒ほどになった白い影はじきに見えなくなった。
「ビビらせんじゃねぇよ」
ハクメンがラグナの居場所を感知できなかったように、テルミもハクメンの存在に気付けていなかった。ハクメンよりも強い秩序の力を持つセリカの影響下にいたせいだ。セリカのそばにいるおかげで体調は安定しないし、術式もまともに使えない。挙句に五感まで狂わされてしまっては、とてもではないがハクメンと対等に殺り合うなどできはしない。今は気づかれなかったことに腹立たしいが胸を撫で下ろす。
「なんなの、あの妙な男は」
何から何まで怪しい男に名前を呼ばれたナインは、困惑するしかない。少なくともナインはあんな奇っ怪な知り合いはいなかった。トリニティも不安げに感じたことを口にしようとするが、うまく言葉にできない。
男が去ったことで圧迫感が緩んだ広間には、思い出したように窯からあふれる風が吹き抜ける。大量の魔素を含んだ風が隠れていたラグナの白髪を揺らした。その揺らめきを目の端に捉えたのは、皆が釘付けになっている中で一人きょろきょろとあたりを見回していたセリカだった。
「ラグナ!」
物陰で膝を抱えてうずくまっていたラグナ目掛けて一目散に駆け寄る。セリカが動かないラグナの肩に手を掛けて揺すると、すっとラグナが顔を上げた。顔色は良くなかったが、意識ははっきりしているようだった。
「大丈夫?怪我は?」
セリカが駆け出すと、咄嗟に身体が動くナインは、振り返ったままの格好で慌てた表情から一転、眉をつりあげた。ナイン達が降りてきた階段から広場を挟んで反対側にある瓦礫の裏にラグナがいるのが見える。
テルミも隠れていたラグナに、ようやく気づいた。そして口の端を吊り上げる。
二、三言セリカと言葉をかわすラグナに、ナインとテルミがそれぞれの思惑を抱いて近づいていく。
「あの高さから落ちて、よく無事だったわね」
カツンッと甲高いヒールの音が広間によく響く。声には忌々しささえ感じられる。落ちて死んでいればよかった、と思っているのは明らかだった。
無遠慮な視線にさらされながら、ラグナは立ち上がる。セリカに手を借りられる雰囲気でもなく、ハクメンの視線を遮るのに使った天井板に手をついて身体を起こした。
「ラグナちゃんビビリすぎだろぉ?」
同じように心配など欠片もしていないテルミが、笑いを堪えるように腹を押さえてラグナを見下ろす。その手は鎌を握ったために血だらけだったが、ラグナは見なかったふりをした。
「まぁ、制限なしのハクメンちゃん見んの初めてだからしゃーねーか」
ラグナが息を呑む。
「あれが、全開なのかよ……」
先ほど感じた恐怖を思い出し、背筋が震える。左手で右腕を抱えたラグナの様子を、面白くも無さそうにテルミは見ていた。
ラグナの恐怖は秩序の力に対するそれではない。力の大きさならセリカのほうが強いが、ラグナはセリカに負の感情など抱いていないからだ。ハクメンに対する無条件の恐怖心は、ラグナが抱えている数少ないループ中の記憶。殺され続けたことを黒き獣が覚えているがゆえの本能からの警告だ。蒼の魔道書に接続しているラグナは、わずかだがループの記憶を思い出すことができる。だがそれは同時に、黒き獣へ近づくきっかけになりかねない危険な性質だった。
「あんた達、あの男を知ってるのね」
蚊帳の外にされたナインが一歩踏み込んで、二人の視線に割り込む。
「ああ。つっても何回かやり合っただけで素性は知らねぇ」
ラグナの知っているハクメンにはあれほどの威圧感はなかった。ココノエの紐付きだったハクメンとは何度か争ったが、それでさえ苦戦を強いられた相手だった。
「あんたの方が詳しそうね」
使えない、と目線でラグナを射殺したナインが次の標的を視界に入れる。
テルミはにやつく口元を隠しもせず、手で弄んでいたナイフをどこかに隠しているらしい鞘に手品のように収めた。
「ハクメンっつうバケモンだよ、化け物」
「そう、ハクメンって言うの」
肩をすくめて見せるが、ナインの表情はきつくなるばかりだ。返答次第では何発か魔法をぶち込むのもやぶさかではない、そう言いたげな物騒な目つきをしている。
自分の聞きたいことが聞けるまで引き下がりそうにない女にテルミの機嫌も下がっていく。
「窯から出てきたオリジナルユニットっつった方が、テメェにはわかりやすいか?」
「なんですって!なんでそ」
テルミが自分の耳に指を突っ込み、詰め寄ってきたナインの大声を強制的に遮断する。
「ギャンギャン喚くんじゃねぇよクソアマ。ハクメンちゃんは黒き獣ぶっ殺して回ってる正義の味方気取りの化け物なの。それ以上はテメェが知っても何の意味もねぇから黙れやうるせぇ!」
ナインの声を遮るほどの大声で叫ぶが、それで黙るナインではない。
止める間もなく罵詈雑言の舌戦に突入した口の悪いテルミとナインをよそに、セリカはラグナの身体に目立った怪我がないか入念に調べていた。べたべたと触られるラグナはされるがままだ。
「痛む?」
「いや、平気だ」
緊張で凝り固まっていた筋肉が、セリカが触れたおかげで弛緩し、ずいぶんと楽になった。どういうわけか、ハクメンを見るだけでラグナの膝は震えそうになる。それを人前で晒すのには抵抗があった。
「こんなとこで足止め食らってる場合じゃないしな。早く親父さん探しを再開しないとな」
そっとセリカの耳に手を当てて、横から聞こえてくる不適切な表現をふんだんに含んだ男女の罵り合いの声を片耳分でもとラグナが遮る。
「……うん!」
不思議そうな顔をしながらもセリカが頷いた。セリカが姉に似なくて良かったとラグナは心底思った。
「あのう~、これってなんでしょう?」
ひとり完全に存在を忘れられている事さえまったく気にしていなかったマイペースなトリニティは、せっせと壁にあった隠し扉の発掘に勤しんでいたが、彼女の声に返事をするものはいなかった。
隠し扉を蹴破り通路を進んで、その先の電子ロックの扉さえこじ開けて、先を目指す。
テルミも一応把握はしていた隠し区画だが、実際に来てみると胸糞が悪い気配が漂っている。じわじわと近づいていった先にあった部屋で、テルミはその正体を目の当たりにした。たどり着いた部屋の奥に、緑色の照明に照らされてそれはあった。
実際にそれを目にするのは初めての事だったが、直感的にテルミはそれが何か理解した。
『櫛灘の楔』
数メートルの直径を持ち、長さはそれに倍する円筒形の巨大な釘が、鎖に吊るされ壁際に鎮座していた。金属質な表面には、魔法技術を応用した緑の刻印がびっしりと描かれている。魔素を流動させるためのコードではない。
壮大に顔をしかめたテルミの背後で、同じような顔をしたナインが散らばった書類に目を通している。離れたところにいるラグナ達はトリニティが操るコンピューターのディスプレイを覗いていて、背後の不穏な動きを見ていない。
ナインが手にしていた分厚い櫛灘の楔の設計資料を手近な装置に叩きつける。驚いて振り返った妹達の目の前で、怒り狂ったナインは資料をひたすらに靴で踏みにじった。
「……冗談じゃないわ……どこまで、根性腐ってんのよ!」
激高して息さえ上手く吸えないナインが机の上の資料をひっつかんで床に撒き散らす。
父親の手がかりをわけもわからぬまま拾い集めるセリカ。驚いてナインを止めようとするラグナ。ナインを落ち着かせようと声を掛けるトリニティ。
背後の騒ぎをただの音としてテルミは処理する。
ヒヒイロカネに次ぐ懸念材料である櫛灘の楔の、その原型。ひとたび発動し境界に撃ち込まれれば、間違いなく黒き獣の動きを止めることができる。しかし同時に全ての術式と魔道書が魔素の供給を失い崩壊する。
こんな厄介なものを使われたら計画が頓挫するのは目に見えていた。何とかして処分しなければ。
テルミが踵を返すと、奇しくも全員がテルミと同じ方向を向いていた。
「……っお父さん!」
部屋の開け放たれた入り口に、見覚えがある男がいる。六年前に何度か目にしたはずの顔は痩せこけ、走り寄ったセリカに掛ける声もしわがれていたが、間違いない。シュウイチロウ=アヤツキだった。
一人の男の生死になどテルミはまるで頓着しない。死体のそばであろうと、何くわぬ顔で昼寝するような男だ。情報を聞き出した後の搾りかすがどうなろうと、知ったことではないのだ。
シュウイチロウ=アヤツキの死に打ちひしがれた室内で、テルミとトリニティだけが忙しなく指を動かし資料に残された文字を追っている。切々とシュウイチロウの手記を読み上げるトリニティとは異なり、テルミはひたすらに残された知識を吸収することに全力を注いでいた。
「……お父様の研究は、そもそもレリウス=クローバーという方が依頼を受けて始めたものだったようですねぇ」
「てことは、てめぇも噛んでやがったなテルミ」
資料から上がったレリウスの名に覚えのあるラグナは間髪入れずテルミに食って掛かった。
床の上に座り込み泣いているセリカを抱えたラグナの、斜め前の机の上にテルミは腰掛けていた。手にした紙束をテルミがぱらぱらとめくる。
「何でも俺のせいにしてんじゃねぇよラグナちゃん。レリウスの野郎がやってた事なんざ、イチイチ把握してるわけねぇだろが」
テルミの言葉はぼやきに近かった。だが、半分は嘘だ。黒き獣が現れた錬成実験は間違いなくテルミがレリウスに依頼したものだ。
だが櫛灘の楔はシュウイチロウ=アヤツキが勝手に作り出したもので、テルミには想定外の邪魔者でしかない。そしてそれを「計画には支障がない」と放置することを決めたのはレリウスだ。
まさか数十年後にその櫛灘の楔を探すために戦争を起こすはめになるとはテルミも思いもしなかった。
「別に仲間じゃねぇし」
「そうなのか?」
「利害関係の一致ってやつ?今のラグナちゃんと俺様みたいなよぉ」
言って喉を震わせるテルミにラグナは軽く殺意が湧いたが、取り決めも何もないのに互いに手出ししない状況では言い逃れしにくい。ラグナがテルミに手を出さない理由ははっきりしているが、テルミがなぜラグナを殺さないのか、それは曖昧だ。
「しかも、レリウスに嫉妬した馬鹿男がトチ狂ってクソみてぇなもん作って勝ち誇っておっ死んだ、なーんてこと知るかよクソが」
「……まったくクソみたいな話よ」
ぴりぴりとした物言いのテルミとナインの声にセリカの嗚咽が深くなる。ナインの親に対するとは思えない言葉も、テルミの出所が謎な怒気も、セリカを無駄に怯えさせる。ラグナにはセリカに掛ける言葉がない。慰めるべき血縁は死んだ男を血の滲む声で罵っている。
「こんなもの……!」
眼前の櫛灘の楔に父親の顔を重ねたナインが、乱れた心のまま魔法を紡ぐ。あわてたのはトリニティだ。
雷をまとったナインの手の中で光の球体がみるみる膨れ上がる。こぶし大から一抱えの大きさまで成長した雷球が撒き散らす紫電が、部屋の中の機器の表面を舐めてあちこちで火花が上がる。
そばにあった機器から離れたトリニティをセリカとともにラグナが抱き寄せた。
「おい!まさか壊すつもりか!」
「当たり前でしょう!こんなおぞましいガラクタ!」
もはや確認するまでもなく、雷球の照準は吊り下がった釘に定められている。
細い雷撃が制御から離れ、室内を暴風とともに蹂躙する。
さすがにテルミも資料を抱えて机の下に潜り込んだ。
「お姉ちゃん!駄目っ!それがあれば黒き獣を止められるかもしれない!私がいれば完成するってお父さんが!」
「だから壊すのよ!完成なんかさせないっ絶対に!」
ナインの背には怒り以上の悲壮感があったが、それを察する余裕はラグナ達にはなかった。トリニティが三人を包むための防護魔法を唱え、テルミも障壁を展開するための魔法を準備する。
ぎりぎり間に合った防御と同時に、ナインの雷撃が放たれた。
「あ?」
誰より早く事態に気づいたテルミが嫌そうな声を上げたが、異変に気を取られて誰も聞いていなかった。
櫛灘の楔を貫くかに思われた雷球は、何かに阻まれて直進できずに屈折、そのまま斜めにすっ飛んで天井に突き刺さった。質量を持たない雷撃はエネルギーを熱に変えるべく接触した天井に高電圧の負荷をかけ、耐え切れなくなった石材は融解するより先に結合限界を迎え爆散する。
触れた無機物を掘削する勢いで破砕しながら魔法は天井に穴を開け、破片を室内にまき散らした。
防護魔法に突き刺さる石つぶてと、喉に張り付く砂塵が四人を襲った。
ナインだけは全てを魔法で防ぎ、自分の魔法を弾いたものを睨みつける。
「こいつを破壊させるわけにはいかない」
小柄な人影はナインが初めて見る生き物だった。形だけで言えば見知ったものだが、大きさと、そして知性を感じさせる瞳が、それが単なる獣ではないのだとナインに確信させた。獣人と呼ばれる人と獣、両方の性質を持つ種族だ。
「ミツヨシ!」
「話は聞かせてもらったぞラグナ」
「またあんたの知り合い?」
眼帯をした凛々しい顔がナインを睨みつける。気さくな物言いとは裏腹に、殺気を放つ男が床に降り立つ。
ラグナが目にしたミツヨシの刀の表面からは、蒸気が立ちのぼっていた。信じがたいことだが魔法もなにも掛けられていない鉄の刃でナインの魔法をたたき落としたらしい。
「黒き獣を止めるために、櫛灘の楔を今すぐ起動して貰えないか十聖のナインよ」
穏やかに乞うミツヨシがナインに刃の切っ先を向ける。一瞬その眼差しに怯んだナインだったが、すぐに気を取り直して指先で魔法を紡ぎにかかる。
「ずいぶんな美形が現れたと思ったら、勝手なこと言ってくれるじゃない……そう、あんたがアルカード家の手先ってわけね」
鼻を鳴らしたナインにアルカードの名をだされたミツヨシが、わずかに目を細める。
「悪いけど、それは絶対に出来ない相談よ。これは化け物退治なんてできない、ただ足止めするだけのガラクタよ!」
「だが使わないよりはずっといい。黒き獣と戦うためには時間が必要だ」
異常な嫌悪を櫛灘の楔に示すナインに、さしもの十兵衛も顔をしかめる。なぜそれほどまでに忌み嫌うのか、理解しているものはこの場ではテルミだけだった。
「ミツヨシさんの言う通りだと思う。少しでも止められるなら、その間に助かる人がいるかもしれない。短い間でも、戦う手段が見つかるかもしれない」
セリカがラグナの肩に手をつきながら立ち上がる。訴える声がナインの背に投げ掛けられた。
「父さんは、私の力が完成には必要だって言ってた。私、何でもするよ。だからお願いお姉ちゃん」
まっすぐ向けられた言葉が、視線が、ナインの心に突き刺さった。それが真摯であればあるほど、残酷な真実が逃れられない現実となってナインを押しつぶす。言うまいと噛み締めた唇から血が滲んだ。
「できねぇんだよ、それはよ」
ナインの代わりに言葉を続けたのはテルミだった。いつの間にか、櫛灘の楔のそばに立っていたテルミが、目の前の忌々しい建造物を見上げて、独白のように言う。
「こいつの動力源はな、生きた人間の魂だ」
ナインがテルミの声から逃れるようにうつむく。目を見開いたセリカにはテルミの背が映っている。
「生半可な魂じゃ、一瞬で食いつぶされて終わり。境界に放り込んだって役に立ちゃしねぇ。必要なのは、境界にも耐え切りシステムを稼働させ続けられるほどクソ強ぇ生命力を宿した人間だ」
そこでテルミは言葉を切った。自分を見ているものたちの顔を見るために、ゆっくりと背を向けていた部屋の内側へと体をひねる。カツリと蹴飛ばした小石が転がって、テルミとセリカの目線があった。
「テメェの親父は、最初っから治癒魔法の天才であるテメェを組み込むことを前提に櫛灘の楔を作ったんだよ。組み込んだ自分の娘がどれだけ無残に死んでいくかわかった上でなぁ。そりゃ許せるわけねぇよな、そんな外道と血が繋がってるなんてよ。使えるわけねぇよなぁんなシステム」
見下しきったテルミが、本当におかしそうに死んだ男の妄執を笑う。
「これを使うってことは、セリカに死ねと言っているのと同じことよ」
震えるナインの声がテルミの哄笑に重なる。全て事実だった。ナインが資料から読み取った櫛灘の楔の稼働条件は、外道の域を超えるおぞましいものだった。一度組み込まれれば人でいることもできず、魂が摩耗し自我が崩壊しその果てになにも残さずに消える。
「そしてセリカの命が潰えたとき、何事もなかったように黒き獣は復活する!そんなもの使わせられるわけないじゃない!」
一時しのぎにセリカの命を使って、それで世界を救える保証など、どこにもないのだ。ナインの悲痛な叫びに、歯を食いしばってミツヨシが食い下がる。
「それでも……それでも、黒き獣を野放しすれば終わりがくる。世界の終わりだ。人類は反撃せねばならない……どれだけ犠牲を払ってでも」
それが自分であろうと、自分の愛するものであろうと、誰かの唯一であっても。犠牲を払わねば先に進めないならば、選ばねばならないのだ。
「他に方法はない!」
「セリカを犠牲にすることだけは許さない……どうしてと言うなら、力づくでも排除するわ!」
ラグナは呆然と立ち尽くした。ラグナは知っていた。暗黒大戦の最中、一年だけ黒き獣が不自然に活動を休止したのを。そしてその間に人類が反撃の狼煙を上げたことを。
櫛灘の楔が黒き獣の活動休止を引き起こしたなら、人類が生き残るためにはセリカが犠牲にならなければならない。そしてそれは、歴史として確定していることになる。そんなことが、あっていいはずがない。
とてもではないが歴史を知っていても、ラグナはセリカを犠牲にできる気がしなかった。ナインと同じだ。例えセリカ本人がそれを良しとしても、だ。
動けないラグナの前で、ミツヨシとナインが争いだす。剣撃と魔法が入り乱れ、余波で再び室内が崩れ始める。
その揺れとは無関係に大きく揺れたセリカの結んだ髪に気づけたのは、僥倖だった。
腕を掴んで力いっぱい引いてしまったので、セリカは駈け出した形のままラグナの胸に転がり込んだ。
「飛び出すんじゃねぇバカが!」
一直線にミツヨシとナインの争うど真ん中へ突っ込んでいこうとしたセリカを逃げ出せないよう片手で抱え上げる。止めるつもりだったのだろうが、頭に血の上った今の二人が飛び出したセリカに反応できる確率は低い。セリカ自身も落ち着きを失っているならなおさら。
「でも!」
涙ながらに訴えるセリカをラグナは離すまいとする。ここでほだされて手放せばどうなるか想像に難くない。
「わかってるよ。止めたいんだろ」
「うっせぇぞテメェら!」
セリカをさとそうとしたラグナは、横槍のように飛来したものの直撃を脇腹に受け、セリカの目の前で吹っ飛んだ。テルミに蹴り飛ばされたミツヨシは体勢を立て直す前にラグナを巻き込み地面を転がる。ナインもナインで、テルミが障壁ごと魔法を蹴り飛ばす荒技を食らわせたために腕を押さえ壁際まで後退していた。
「テ、テルミッ」
よろよろと立ち上がるラグナをセリカが支える。突き刺さった方のミツヨシも心配気に声を掛けていた。その様子にナインは一度放ちかけた魔法を握りつぶし、上がった息を整え次の一戦に備え始める。
二人を蹴り飛ばしたテルミは何くわぬ顔で、トリニティと並んで立っていた。
「やりすぎですよぉ~もう少し弱くてよかったんですが」
小首を傾げたトリニティがいけしゃあしゃあと言い放つ。テルミは喉を鳴らすだけだ。提案した、と言うか指示を飛ばしたトリニティと、従っただけのテルミは、暴挙などなかったかのように涼しい顔をしている。
「落ち着いてください~。温かいお茶もありますから、少し休憩しましょう?……今日はとてもたくさんのことがありましたから、ね?」
柔らかに言うトリニティに場の空気が少し緩む。人柄というものは偉大だと思わずにはいられなかった。ラグナもここぞと口を挟む。
「ふたりとも言いたいことはわかるけどよ。トリニティの言うとおりだ。一旦落ち着こうぜ」
苛烈に叫んでいたナインが黙り、ミツヨシは所在無さげに顎の下をぽりぽりと掻く。
ふたりの顔には疲れの色が色濃く、それは体力的なものではなく精神的なもののように思えた。
「うん」
誰よりも重い決断を迫られているはずのセリカが、真っ先に頷いた。邪気なく笑う彼女はこの場の誰よりも姉とミツヨシが争うことに心を痛めていた。ましてそれが自分と世界の命運を秤にかけたからなど、泣き出したいほどであるはずなのに。
大きく息を吐いて、ミツヨシが先に刀を収めた。殺気を失った獣人は、セリカのよく知る優しいミツヨシへと戻っていた。ミツヨシとて、共の旅をした少女を犠牲になどしたくない。
「そうか、一杯いただけるかな?」
トリニティの元へ歩むミツヨシの二股の尾がナインの前で揺れる。顔を手で一度覆うと、ナインも身体の力を抜いた。妹のためならばどれほどの犠牲を払っても構わないと決めたナインと言えど、実力が伯仲した相手と戦うことになることは想定していなかった。
接近戦に持ち込まれても踏みとどまれたのは、一歩も引けないという死に物狂いの矜持があったからだ。
自分の敗北がそのままセリカの死につながる状況で戦うことは、鋼鉄の神経を持つと噂されたナインの精神をも疲弊させていた。
「私にもちょうだいトリニティ」
嬉しそうにハーブティーを用意するトリニティの周りに人が集まっていく。その輪に入ろうとして、表情をゆるめたラグナは足を止めた。
「どうかしましたかぁ?」
視線を周囲へ巡らせるラグナに、不思議そうにトリニティが問いかける。まだラグナの分のハーブティーは用意できていない。
「いや、今誰かに……」
トリニティには誰の声も聞こえないが、ラグナは耳をすませるような仕草を見せる。そして声を拾ったらしく、はっとする。
「ちょっと外、出るぞ」
ラグナが明らかに不審な動きをするのをナインが見咎めた。電子ロックの扉は開け放たれたままで、そこへとラグナは向かおうとしている。
「どこに行くの?」
「頭冷やしてくるだけだ、すぐ戻る」
立ち止まったラグナが、言い訳がましくそう言うと、ナインはそれ以上なにも言わない。これ幸いと、ラグナは扉を抜けて廊下へと出る。その先にあるのは、窯のあった広間だけだ。
「……下手な言い訳ね」
ラグナの姿が見えなくなってから、ナインがぼそりとつぶやいた。トリニティは、そんなナインに温かいハーブティーを手渡す。
「あら、ナインが止めなかったのでしょう?」
トリニティもラグナの動きを目で追っていたが、ナインが止めなかったのだからと、そのままにしていた。
「魔法で話しかけられて出て行ったのよ、あの男。覚えのある魔法だったから見逃してあげただけ」
渡されたハーブティーの淡い黄色の液面をナインは睨みつける。何かと気に触ることが多い男だが、今の妙な気配でその苛つきが確定的なものになった。
「アルカード家と繋がりのある人間なんて、ろくなもんじゃないわ」
ナインが知る古の吸血鬼が使う魔法の色濃い余波と同じ物が、ラグナから漂っていた。いけ好かない。けれど、今このタイミングで接触してきた吸血鬼にナインは一抹の希望を持ってしまった。それがセリカを救う術になるかもしれないという、漠然とした希望だった。
そして、ナインの希望は現実となった。
「黒き獣を止める別の手がある。それなら『櫛灘の楔』を使わなくてもいい」
ナインが待ち望んでいた言葉を、帰ってきたラグナが口にした。どれだけ曖昧で不確かな方法だっていい。それがセリカを踏みとどまらせ、周囲がセリカを生贄に捧げようとするのを止められるならば何だって。
「急にどうしたの?何か外であったの?」
自らが犠牲になる決意をした直後の言葉にあっけにとられたセリカが口を開ける。
「いや、まぁ……思い出したんだよ」
記憶喪失という言葉の便利さにこの時ばかりは感謝した。未来から来たとか、吸血鬼に教えられたとか、レイチェルとの会話の内容まで説明していたら、逆に信じてもらえそうにない。
「別の手って、どんな?」
降って湧いた話に納得がいっていないセリカが、少しばかりの似合わない疑いをラグナに抱いているのが手に取るようにわかった。ぐうっと出そうになる声を飲み込んで、目をそらさずにセリカを見つめる。
「く、詳しくは話してやれないんだけどよ。俺が黒き獣の近くまでいければ、それでなんとかなる。十分だ」
実のところ、ラグナ自身それ以上なにをすればいいかなど知らない。
境界を通ってやってきたこの時代の異物であるラグナが、同じ異物である黒き獣に近づくことで、事象に何らかの影響が起きるはずだ。そしてうまく行けば、黒き獣を一年間封じることができる。
しかしセリカの不安は、ラグナの自信のない口調のおかげで煽られる一方だ。
「それってもしかして、私の代わりにラグナが犠牲になるってこと?」
黒き獣に近づくなど、正気の沙汰ではない。
「んなわけねぇだろ。突っ込んで、戻ってくる。それだけだ」
じっとセリカの背中をナインが見ている。ナインは、ラグナが犠牲になってそれで済むなら文句はなかった。あと少し、あと少しでセリカの決意が折れる。セリカは一度決めたら誰が止めようと飛び出して行ってしまう。この場で力づくで止めただけでは、隙を見つけてすぐに自分を犠牲にしようとするだろう。ナインが人に頼るなどそうそうないことだったが、ことセリカの意思を曲げることに関してはラグナに任せるしかない。ナインが手を組んで祈る。
「近づくなんてできっこないよ……」
今までもたくさんの人間が黒き獣に近づきすぎて、人間ではいられなくなったのだ。魔素を浴び続ければシュウイチロウ=アヤツキのように魔素中毒になる。それを越えるほどに魔素を取り込んでしまった動物たちは魔獣になってしまった。ラグナも、近づきすぎれば死んでしまう。
「思い出した、にしちゃあ、ずいぶん曖昧な代案だなオイ」
今まで黙って話を聞いていたテルミが茶々を入れる。ナインの殺意のこもった視線を横顔に感じながら、テルミは手に持ったハーブティーを味わうように飲む。
ラグナも嫌な顔をしてテルミを見た。今ここでせっかく丸め込めかけた事態を引っ掻き回されてはたまったものではない。
「それじゃあ俺も思い出したが、クソ吸血鬼の案にまんまと乗ると確実に死ぬぞ。事象干渉起こすならテメェの右腕だけじゃ足りねぇからな」
しかしナインとラグナの予想に反して、テルミは真面目にラグナの話を検討しているようだった。
「やっぱり、ラグナが……私、大丈夫だよ。ちゃんとやれるから」
「櫛灘の楔を使うのは却下だっつてんだよ」
「でもカズマさん」
「使わなくても問題ねぇんだよ」
なおもセリカはテルミに食い下がる。セリカを心配して行動しているとは思えないテルミだが、櫛灘の楔を使いたくないという部分だけは、ナイン達と利害が重なっている。
「テルミ、てめぇ何か知ってやがるな」
「クソ吸血鬼が知ってて俺が知らねぇわけがねぇだろ?やっぱ足りねぇオツムでちゅね~?」
「んだとコラ!」
煽り負けて飛び掛かろうとしたラグナに、セリカが張り付く。綺麗にセリカの肩がラグナのみぞおちに入り、鈍い音を立ててラグナが止まった。
「カズマさんと喧嘩しないって、約束したでしょう!」
律儀に約束を覚えていたセリカに食い止められたラグナがみぞおちを押さえて呻く。
邪魔がなくなったテルミが話を続ける。
「黒き獣に干渉すんには、櫛灘の楔並に魔素を散らす兵器を使うか、魔法で魔素を削り取るってのが今まで考えられてた案だ」
それはナインやミツヨシも既に承知している。
汎用の武器でミツヨシが戦えているのは、剣撃で魔素を払い続けているからに他ならない。魔法を切るほどの腕前がなければできない芸当だ。
「だが裏技が一個だけある。今度はわかるかなぁ、子犬ちゃん?」
「……《蒼の魔道書》か」
今はピクリとも動かない右手。テルミの前に立ったラグナは石のようになった腕を、動く左手で撫でた。黒い封がされた腕は生身ではない。魔道書が形作った義手だ。
「そう、黒き獣はあのバカでけぇ躯支えんのに、魔道書を使ってる。そこに同格の魔道書の命令を割りこませればまともに動けるわけがねぇんだよ。んで、あとは窯にブチ込みゃしばらくは帰ってこれねぇ」
「待ちなさい魔道書ってどういうこと」
ナインが口を出すが、テルミは手をふって遮る。
「その説明は後でたっぷりしてやっから黙れ」
「結局、俺が黒き獣に突っ込むしかねぇんじゃねぇか」
「テメェも、もうちょい頭使ってから口開けや。何か考えたか今?ん?」
「やっぱり私が」
「使うなっつったよな」
「ラグナが黒き獣に立ち向かうならば俺も行こう」
「今関係ねぇのに口挟むなやクソ猫!」
「お茶のおかわりはいかがですかぁ?」
「ちょうだいトリニティ、喉が渇いたわ」
「私ももらっていいかな」
「おお気がきくな、すまん」
「話し聞く気ねぇなら黙って向こうで茶してろやあああああああっ!」
テルミが耐えかねてコップを地面に叩きつけた。
「俺は聞いてるぞテルミ」
何となく、学園生活におけるテルミの立ち位置を察して、ラグナが一応聞いていることを主張してみるが、ラグナに気を使われた事のほうが、テルミにはこたえた。
「あんたの話に耳を貸してあげているだけ、ありがたいと思いなさい」
ナインが新しいお茶を受け取って椅子にふんぞり返っているが、テルミは完全に無視した。
「セリカが助かるなら、そのうさん臭くてずさんな案に乗ってあげてもいいわ」
青筋がうっすらテルミの額に浮かぶのを、相対したラグナだけが見た。
「……テメェはまともに魔道書の制御ができねぇから、俺がやってやる」
猫舌でぺろぺろと茶を舐めているミツヨシを囲んでいる女性陣には、先程までの悲壮感はない。けっして気楽に構えているわけではないが、セリカが一応は思いとどまったのでナインが落ち着き、トリニティが雰囲気のゆるさに拍車をかけている。
ようは、いつも通りのペースに戻っただけだ。
「それで、俺に何しろってんだ」
「死なねぇ程度に黒き獣に噛み付いてろ」
テルミが加わっただけでやることにそれほど変わりはない気がしたが、ラグナは空気を読んで黙ることにした。