迷走大戦   作:萩原@

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第4話

    

    

    

    

 冷や汗でインナーがぐっしょりと濡れている。

 怪物の音を間近で聞いた耳がしびれた感覚を残し、急に戻ってきた静かさに耳鳴りがする。自分の荒い息さえ聞こえてくる研究所の中庭には、もう何の脅威もない。来た時と同じ死んだような静寂がゆっくり満ちているだけだ。

 化け物が突然消えたことが未だ信じられない。

 あれは、おそらく逃げ出したのだ。何の根拠もないが、ラグナはそう感じた。セリカに触れられそうになっただけで逃げ出すなどにわかには信じられないが、事実化け物はいなくなった。

 ラグナは剣を支えに立ち上がる。打撲箇所の多いラグナの身体は一向に治る様子がない。右手が動かなくなってから傷の治りがぐんと遅くなった。蒼の魔道書による異常な回復能力は、ここに来てからなりを潜めたままだ。テルミの言うことが正しければ、ここでは魔道書が使えない。

 そのテルミは、と見ると、先ほど立っていた場所で座り込み嘔吐していた。

 セリカが、顔色が悪いと言ったのは本当だったのかと納得するが、同時にある疑念がラグナの胸に広がった。なぜあそこまでテルミが必死でセリカを退けようとしたのか、その答えがラグナの推測通りなら化け物が逃げた理由も恐らくは……。

「ミツヨシさん、しっかりして、お願い!」

 悲痛なセリカの声がラグナを引き戻した。

 黒い球体から吐き出されたミツヨシに、必死でセリカが手をかざしている。庭の中央にいるセリカの元へ慌てて駆け寄ったラグナは、倒れているミツヨシの無残な様子に顔をしかめた。

 ミツヨシの額から流れた血がべったりと顔を覆っていた。セリカが何度も泣きながら呼びかけても、何の反応も示さない。かざした手から柔らかな白い光が広がりミツヨシを包み込んでも、それは変わらない。

 毛皮は血で身体に張り付いて、本来の色形を失っている。毛の下の身体は完膚なきまでに打ち据えられ引き裂かれ、大小様々な傷が刻まれていた。

 それを一つ一つ治そうと、セリカが回復魔法をかけ続けている。

 しかし傷が癒える様子はない。うっすらとした裂傷でさえ一向に塞がらないのだ。

 信じられない光景に、見開いたセリカの目から大粒の涙が溢れる。頬を伝った涙で乾いた地面を黒く濡らしながら、セリカが渾身の力で魔法を使う。それ以外、セリカにはなにもできない。

 ぼう然とそばに立ち尽くしたラグナが、二人を見下ろす。ミツヨシの流した体液がセリカの膝まで広がっていく。セリカの魔法でさえ癒せない傷に為す術がなかった。

「なんでだよ……」

「……無駄よ」

 最初に香ったのは、濃密な薔薇の芳香だった。次に渦巻く風が淀んでいた場を吹き抜け、空気を変えてしまう。昼の日向にいるはずなのに、星空の満月に睨まれたような息苦しさと肌寒さ。この感覚は、記憶を取り戻したラグナには肌に馴染んだ威圧感だ。

 鈴が鳴るような、侵しがたい硬質さと可憐さを併せ持った声。聞き覚えがありすぎる。

 倒れ伏して意識のないミツヨシを庇うセリカの視界に、先程まで誰もいなかったはずの中庭の隅にいる人物が入り込んだ。唐突な出現にも慣れているラグナは呆れたよう背後へ向き直る。

「ウサギ」

 記憶にあるより、彼女はずいぶんと幼い。十を過ぎてはいまい。子供特有の丸みと細さを持った曲線が柔らかに肌の輪郭を描き、結わえた金糸の髪がつややかに左右に流れている。

 ラグナがウサギと評する黒い大きなリボンと、真っ赤な眼に真っ白な肌。こんな人間離れした容姿の存在がそうそういるとはラグナには思えなかった。

 しかし、たおやかな黒いドレスは、ラグナが知っている大人びたシルエットではなく、どこか愛らしさがあるやわらかなものだった。

 それでも外見相応とは言いがたい格好だがレイチェルの容姿を損なうことなく静かに調和していた。

 幼女は荒らされた中庭の惨状にはあまりに不釣り合いで、先程まで誰もいなかった場所に忽然と現れたのもあって、セリカを酷く怯えさせた。敬意を払わなければいけないような気がしてくる威圧感は、年端もいかない幼女が持つべきものではない。

「む、無駄って、どういう意味……?」

 セリカの問いに赤い目をゆっくりと瞬かせたレイチェルは、薔薇の花弁を思わせる唇で無情な事実を淡々と告げる。

「その傷は、治癒魔法なんかでは治らないわ」

 半ばラグナが予想していた答えに、セリカが青かった顔をさらに暗くする。

 こぼれ落ちる涙にも興味を示さないレイチェルは、くるりと身を翻しラグナの方を向いた。冷ややかな目線はいつもと何も変わらない。

「無様ね」

 当たり前のようにラグナを罵ってくる幼女に、ラグナの眉が跳ね上がる。

 いつもそばに連れていた執事のヴァルケンハインや、五月蝿い蝙蝠の使い魔、傘の形をした猫の使い魔の姿はないが、間違いなくこの高圧的な態度はレイチェルだ。ラグナが幼い頃から何度会っても容姿が変化しなかったので想像できなかったが、吸血鬼も定命である以上は年をとるのだ。想像もつかないほどゆるやかに成長している少女の過去の姿がこの幼女なのだ。

「テメェは、俺の知ってるレイチェルか?」

 歳若いといっても吸血鬼である以上、ラグナより歳上なのは確かだ。少しでも油断すればからかわれる程度では済まない可能性が大いにあるが、聞かずにはいられなかった。もし自分を知っているレイチェル=アルカードならこのわけのわからない状況を脱する手がかりになると思ったのだ。

「……気安く呼ばないで。どこで聞いたか知らないけど、貴方ごときが軽々しく呼んでいい名ではなくてよ」

「知らないんだな俺を」

 無表情にほんの少しだけ不快感を乗せて言い放つレイチェルに、ラグナはため息をつく。このレイチェルはラグナ=ザ=ブラッドエッジを知らない。

「不愉快ね。その獣人を助けたくないの?」

 尋ねるというより詰問する鋭さで幼いレイチェル投げた問いに、ラグナはつきかけたため息を飲み込んで目を見開く。セリカが希望を見出したように、顔を上げた。

「助かるのか!だったら早くなんとかしてくれ」

 レイチェルの軽やかな歩みは土を踏むこともなく風にのって進む。金色の髪を揺らす薔薇の香り渦巻く風が、彼女をミツヨシのそばまで運び、そこで小さな靴が地面を踏んだ。ふわりと広がった黒いスカートがゆっくりとしぼむ。

「ミツヨシさんを助けて!お願いします!」

 動かないミツヨシにすがりついたセリカは真っ赤に腫れた目で小さな少女を見上げて訴える。しゃがんだせいで傷ついた膝にミツヨシを抱き上げ、無駄だとわかってもそえた手で魔法を掛け続ける。

「貴方は、助けたい?」

「あ?助けたいに決まってんだろ!」

 ゆったりと優雅なレイチェルの余裕がラグナの心を逆なでする。一刻も早くミツヨシを治療したいのだ。怪我の程度がわからない以上、手当が遅れれば命に関わってくる。叫んで牙を剥くラグナに、レイチェルが大きな瞳を揺らして目を細める。

「人にものを頼むなら、相応の態度があるのではなくて?」

 人を喰った言い様に一気に頭に血が登りかけるが、ぐっとこらえた。

 今はごたごたと言い争っている場合ではない。ミツヨシを救う術があるならラグナはすがる以外に道がない。

「……頼む、ミツヨシを助けてくれ」

 多少の屈辱感はあったが、この吸血鬼相手に毎回毎回キレていてはきりがないと言う思いもあった。慣れてしまっているのが逆に腹立たしさを増長させるが、目を瞑った。

 ラグナが素直に頭を下げたのにレイチェルは小さく赤い目を見開いたが、その事について何も言うことはなかった。

「糞猫死んだか?」

 なにかを言う前に会話に男が割り込んできたからだ。ラグナとレイチェルはほぼ同時に顔をしかめ、セリカも声のした方をふり返る。

 倒れていたテルミは身体を引きずるように歩き、脂汗を浮かばせながらも皮肉げに笑っていた。ミツヨシが見える位置まで来ると足を止め、遠巻きにこちらを見る。

「よぉクソ吸血鬼のクソガキ」

「黙りなさい。不快よ」

 ぴしゃりと言い放ったレイチェルに、テルミが腹を抱えて笑う。しかし上手く笑えず、急に顔色を悪くして口元を手で押さえ嘔吐いた。

 そこまで体調が悪いのに、わざわざレイチェルを嘲るためだけに立ち上がってきたらしい妙な根性に、さすがのラグナも呆れる。

「そうね、不快だけど、貴方も連れて行ってあげるわ」

 小憎たらしさに輪がかかったような、明らかに良くないことを思いついた顔のレイチェルは、ラグナのよく知るレイチェル=アルカードと同じ顔をしていた。

 人をからかいおもちゃにする魔性の鱗片を伺わせるレイチェルに、ラグナが苦虫を噛み潰した表情で黙りこむ。この顔をしたレイチェルに会った後は、ろくな目にあわないからだ。

「連れて行くって、どこに?トラックはもう夕方まで来ないんだよ」

 まだ昼も半ばで、迎えの軍用車は来ない。連絡を取る手段もミツヨシ本人以外にはわからない。だからこそ搬送ができずに困っていたのだ。

 疑問と不安をたたえたセリカの目を、赤い宝石のように揺るがないレイチェルの目が見返す。ついっと興味無さげにそらされた視線は、ラグナの方を向く。

 ラグナは思い出す。いつもレイチェルや彼女の執事のヴァルケンハインが、どうやって自分の前に現れていたのかを。ほんの数回だけ足を踏み入れた、この世であってこの世ではない場所のことを。

「私の家よ」

 血の気の感じられない青白い指先だけが覗いた袖が、小さく振られる。すると、生き物のように地面に無数の黒い線が走り、何かを描くように曲線を生み出していく。

 セリカには、辛うじてそれが魔法陣であることがわかったが、複雑な紋様が示す意味を理解することはできなかった。

 黒い大きな薔薇の紋が、地面の凹凸を無視した平滑な面を持つ方陣として瞬時に、人間では不可能な演算速度で構築されていく。

 その魔法陣は、離れたテルミの足元までもを飲み込む。ぎょっとしたテルミが方陣から抜け出す間もなく、黒い線の縁から柱のように薔薇色の光が伸び上がる。

「まさか、空間転移!」

「おいおい待てやコラ!」

 セリカとテルミの驚いた声を無視して、光が強さを増す。足元からわき上がる浮遊感にテルミがまた吐き気を覚えて上体を崩した。力なく浮きそうになったミツヨシの身体をセリカが慌てて抱える。

「この子と一緒なら、居させてあげてもいいわ。嬉しいでしょう?」

 レイチェルが不快そうに見た先のテルミは、歯ぎしりが聞こえてきそうなほど悔しげな顔をしていた。意味がわかっていないのは、引き合いに出されたセリカだけだ。

 ラグナもようやく合点がいった。理由まではわからないが、テルミはセリカのそばにいることを極端に嫌がっている。それもナイフを振り回すほど過敏にだ。

 そしておそらくは、テルミのこの体調不良の原因もセリカなのではないか。レイチェルの背後から見たテルミは、血の気の引いた顔で怒りに満ちた目をしていた。おそらくその考えは外れていないだろうと、ラグナは確信した。

 そしてセリカに抱えられたミツヨシを見る。レイチェルが助けると言った以上は、ミツヨシは助かるだろう。自分の師匠と同じ顔をした獣人を見殺しにせずに済んだことに胸を撫で下ろす。

 その直後、音もなく広がった光が全員を包み込み、薔薇の方陣は上に乗せた術者と客人ごと一瞬で消え失せた。

    

    

    

    

 レイチェルの空間転移は五人を一瞬きで世界の果てへと連れ去る。目に映った何もかもを置き去りにしてたどり着いた場所で、音もなくラグナの足が地面を踏んだ。

 靴底の石畳の感触とひんやりとした空気に、感覚が違和感を覚える。先程までの昼の暖かさも乾いた土の臭いもここにはない。計算しつくされた曲線を描く石のアーチの向こうには、真っ暗な空に月が浮かんでいる。夜のただなかに放り出されたラグナは驚きに立ち尽くしていた。

 千年以上姿を変えていないだろう灰色の古城も、風以外に音のしない果てどない夜も、日本の残骸に比べればよほど馴染みがあるものだった。

 けれど、ラグナの知っている城は、こんなにも寂れてはいなかった。枯れ果てたおどろおどろしい影の庭園は、いつも花びらが散る真っ赤な大輪の薔薇に覆われていた。朽ちようとする城壁にからむ茶色い枯れた蔦も、黒々とした葉に覆われた若い蔦だったはずだ。

 打ちひしがれたラグナが片方だけ開いていた碧の目を閉じた。永遠に変わらないと思い込んでいた千年を生きる吸血鬼の居城さえ、ラグナの越えた時間の前には同じ姿を留めることはなかったのだ。

 ここは、どこにも通じていない世界の果ての夜の世界。アルカード家の城。

 夜の住人たるレイチェルの居城だった。

    

    

    

    

「畏まりました」

 頭を下げた男はこの城の執事らしかった。が、やはりラグナはその男を見たことがない。

 ラグナより上背のある屈強な身体に張り付いたバトラースーツがなければ、執事であるなど思いもしなかっただろう。彫りの深い顔の造詣と浅黒い肌は、軍人をやっている方がよほど似合っている。硬そうな紺色の髪を几帳面に整えているのか、頭を上げても髪は乱れない。低い位置で一つに結った髪の束だけが尾のように執事の背で左右に揺れていた。

 姿は違えどこの男が誰なのかラグナは思い当たった。

 執事は血まみれのミツヨシを清潔なタオルケットで包んでセリカから取り上げる。白いタオルケットに真っ赤な血が染みこんでいくのにセリカが再び目を潤ませた。

「ミツヨシさん」

 ひとつきりになってしまった目を閉じたミツヨシを抱え、長身の執事は立ち上がるとレイチェルに会釈をし、来た道を戻ろうとする。城の正門から続く石畳からそれた横道を行くその後姿に、ラグナの知るレイチェルの執事、白髪のヴァルケンハインがぴたりと重なった。

「おい待てよオッサン」

 衰えなどないヴァルケンハインの背を見ていたラグナの隣を、緑色が通り過ぎる。言うまでもなく、テルミだ。

 レイチェルに促されるまま城に入ろうとしていた一行から離れ、テルミはヴァルケンハインの後を追う。声を掛けられてもふり返りもしない執事が、すたすたと横道から白の壁沿いに続く小道を通り、角を曲がって姿を消した。

「待てつってんだろが!」

 テルミも駆けるように靴を鳴らして角を曲がる。二人が消えた城壁の向こうからは、テルミのヴァルケンハインを呼ぶ声だけが聞こえてくる。ゴミ捨てがどうしたとか、猫がどうしたとか。ヴァルケンハインが返事をしたらしい反応は声が聞こえなくなるまで一度もなかった。

「……テルミと知り合いなのかあの執事」

 レイチェルに無理に連れて来られた割にテルミが静かだとは思っていたが、まさか執事と知り合いだとは予想外だった。テルミとレイチェルが因縁浅からぬ仲なのは知っていたが、どういう事だ?

 説明を求めてレイチェルの方を向き直るが、既に城のドアを開けて中へと小さな体を滑り込ませる所だった。セリカもレイチェルのすぐ後に大きな装飾が施されたドアをくぐる。置いていかれたことに気づいたラグナも問いを投げ出して慌ててドアを目指した。

    

    

    

    

 テルミがふんぞり返ったソファは、美しい彫刻が施された足に支えられていた。宝石を象嵌するような華美な装飾はない。緻密かつ丁寧なラインで木目色の花弁が刻み込まれている猫足は、職人の執念さえ感じる瑞々しい薔薇を咲かせていた。恐ろしく品がいいのはソファだけではない。揃いの薔薇が咲いたローテーブルも、磨き上げられた暖炉も、毛足が整ったカーペットも、踏み入れることを躊躇うほど部屋そのものが調和のとれた絵画のようだった。

 しかし、そこに紛れ込んだ男の神経はことさら図太かった。美しいソファもテルミからしてみれば座り心地が多少良い椅子でしかない。さほど広くはないが狭苦しくもない城の一室で、ぼんやりと時が過ぎるのをテルミは待っていた。

 右手に持ったティーカップからは、シャンパンのような爽やかな香りが立ちのぼっている。白い陶器の中で波立つ赤い液体は、口をつけると砂糖を入れていないのにほんのり甘く舌に乗る。唇が触れたカップも温められていて、紅茶の温度を適温に保っていた。

 居心地が良すぎるのも居心地が悪い。さしものテルミでさえそう思った待遇だった。

 テルミがこの城に来るときはいつも年単位で長居するが、好き好んで居座るわけではない。地下牢の床と尻が組織癒着するんじゃないかと思うほど長く牢獄に繋がれるだけだ。

 柔らかな布地に埋もれて微睡むことも、優雅に紅茶を飲んでもてなされたことも、ただの一度もない。

 紅茶にしても、催促する前に出てきた。それも多少は気分が良くなるだろうと言われ、上質なダージリンをだ。

 頭の中身以外の体調をヴァルケンハインに気遣われた記憶などついぞない。

「何考えてんだよオッサンよぉ」

 ヴァルケンハインの配慮のおかげで、テルミの体調はすっかり回復していた。

 セリカによる肘鉄、揺さぶり、首に手を回すの連続技で、テルミの精神はわずか数分で限界まで磨り減った。胃をぐちゃぐちゃと手で揉まれ続け、頭は前後左右では飽きたらず回転まで加わって撹拌される感覚が延々と続く。もういっそ狭間に落ちて何もわからなかった時の方がまだましだと思えるほどの不快感に、胃をひっくり返して嘔吐したのは数時間前だ。

 これ以上実害を被る前にセリカと別行動をしようと心に決めたテルミを、嫌がらせのために運んだレイチェルの顔を思い出す。あのレイチェルは境界に触れておらず記憶を持っていないので、まともに会ったのは今回が初めてのはずだ。多少話を又聞きしただけの初対面の相手に渾身の嫌がらせをしてきた様子から、ループのせいでああ言う歪んだ性格になったわけではない事が今回新たにわかった。わかった所で糞の役にも立たないが。

 問題は、ヴァルケンハインの方だ。

 ミツヨシを治療のために連れ去ったヴァルケンハインに案内されたのは、こことは別の部屋だった。そこでしばらく待ってから、帰ってきたヴァルケンハインに連れられ、より上質なこの部屋に通されたのだ。

 セリカからわざわざ距離を取るために遠い部屋へ案内し直されたのだと、しばらくして回復しだした体調で気づいた。

 尻の座りが悪くなって仰向けに近い状態だったテルミは身を起こして、飲みかけのティーカップをテーブルの上のソーサーに置く。小さな音を立てて元あった場所に戻ったカップに興味を失い、ソファの上でだらしなく足を組みかえる。自分の靴の先がテルミの視界に入った。その向こうには部屋の扉がある。いつものように羽織っていた黄色のコートが入り口の扉横のハンガーに掛けられているのも見えた。ヴァルケンハインが掛けた上着にはシワひとつない。

 災難な理由とは言えせっかく生身のままここまで来られたのだから、たっぷり嫌がらせをしようと暖めていた考えの出鼻をくじかれた気分だ。蛇蝎の如く嫌悪されている自分がなぜもてなされているのか釈然としない気分で、テルミは待ち続ける。

 手巻き式の柱時計が夕方を告げる鐘の音を打ち鳴らす音がどこか遠くから聞こえた。

    

    

    

    

 客人と話を終えた主達と別れたヴァルケンハインがテルミを待たせていた応接室に戻った時、そこには思いがけない先客がいた。

 多少礼儀を欠いてもテルミ相手だと思い、ノックもせずに開けた扉に室内の視線が集中する。顔を上げたヴァルケンハインの視線と金と赤の目がかち合う。あまりのことに一瞬固まる。

「ク、クラヴィス様っ?」

 見慣れた赤い宝石の目が皺に埋没するように細められている。車椅子に腰掛けたまま、首をヴァルケンハインの立ち尽くす扉の方へ向けた。会話を中断したテルミも、面白そうに口の端を歪めソファの背にもたれかかる。

「ノックぐらいしろやオッサン」

 明らかにからかう声色のテルミに、主の前で恥じ入るヴァルケンハインは言い返すことが出来ない。事実礼儀を欠いたのはヴァルケンハインだ。中の会話にも気づかず、勝手に扉を開けてしまい会話を遮ってしまった。

「申し訳ありません」

 生真面目な仕草で非礼を詫びるが、ヴァルケンハインの乱入に気を悪くしたものはこの場には居ない。微笑ましいものを見る目のクラヴィスに手招きされては立ち去ることもできず、室内に留まるしかない。ことさら丁寧にドアを音もなく閉めた様子に、テルミが面白そうに笑う。

 ますます羞恥心で大きな身体を縮こまらせたヴァルケンハインは、一刻も早くこの場から立ち去りたかった。

「気にすんなよ、ジジイも気にしてねーし」

 冷めた紅茶の残りをカップの中で回しながら、テルミがわざとらしく優しげな声で言う。羞恥心の中にぞわりと行き場のない憤りがこみ上げる。

「ヴァルケンハイン、客人も私も、気にしてなどおらんよ」

 柔和な声で主に言われては、ますます立つ瀬がない。

 そのクラヴィスの前にはティーカップがない。自分が気づかなかったばかりに、主に紅茶も何も用意することができていなかった失態がヴァルケンハインを苛む。

「お茶をお持ちします」

 真っ赤になったヴァルケンハインが一目散に、けれど優雅な足取りで部屋から飛び出していくのに耐え切れず、テルミが吹き出した。

「真面目すぎんだよオッサンは」

 閉まる扉は無音でなおさら笑いを誘う。

「からかうには持って来いだろ?」

 上機嫌なテルミは、向かいに座ったヴァルケンハインの意地の悪いご主人様に、腹を抱えながら同意を求める。

「ヴァルケンハインは私の自慢の執事だ」

 暗に同意したクラヴィスに、テルミが目を細めた。ヴァルケンハインに気付かれないよう気配を消して待ち構えていた口で、いけしゃあしゃあと言う。この老いたくたばり損ないの吸血鬼も、長い時間に飽き飽きしているのだろう。テルミのように人間の中に身を置くリスクを負わない観測者ならなおさら、世界は退屈に満ちて暇に違いない。

 そんな生き方など願いさげだ。

 笑いに嘲りを混ぜて、テルミが先ほどの話の続きを切り出す。

「それで……その自慢の執事を俺につけるってのは、マジな話かよ」

 中断された会話もまた、件のヴァルケンハインに関することだった。

 クラヴィスは膝の上に置いた節の目立つ指で、白い手の甲をゆっくりと撫でる。逡巡する仕草をしてみせはするが、とっくにクラヴィスは決断を下している。テルミの声にも疑問はない。あくまで確認の問いかけだ。

「貴公は世界を変えることを諦めぬな」

「ジジイも反逆してみたらどうだ?楽しいぜ」

 これもわかりきった問答だ。

 クラヴィスとテルミ、両者はけして相容れない。歩み寄ったように見えても、見つめる先が違いすぎる。

 円環を描く世界を見つめ続ける観測者と、そこから抜けだそうと輪の中であがき続ける特異点。終わりも始まりもなくなってしまった世界で、戦うことの意味を消失し、慣れ合ってはいても、元来敵対者だ。

「私は観測者を辞めるつもりも、タカマガハラに逆らうつもりもない」

 人間が生み出したタカマガハラシステム。

 神のように振る舞うプログラムにより、世界は管理されループを続けている。

「ケッ!あんなもんに支配されるなんざ、胸糞悪ぃんだよ、マジ死ねっての」

 このアルカードの古城と同様に、世界から隔絶された場所で演算と観測を続けるタカマガハラに接触することは現状ほぼ不可能だ。接触した所で、マスターユニットに対抗すべく設計されたシステムの自己防衛機能に焼きつくされる。それこそ、アマテラスクラスの大規模事象干渉能力でもない限り。

 クラヴィスは、タカマガラハラの存在を知ってなお逆らおうとするテルミの足掻きが届くとは思っていない。だがタカマガラハラも人の作ったものなのだ。人間の可能性が不可能を可能にし、神の領域を踏破しようとした残骸。

「貴公が神殺しを諦めぬならば、止めねばなるまい」

 境界の底に沈んだ三輝神の一柱、マスターユニットアマテラスをテルミは狙っている。この世界を観測し物理法則を支えるアマテラスを殺そうとする暴挙を過去何度も行なってきたのだ。もはや執念を通りすぎて本能のように。

「世界が滅日を迎えることだけは避けねばならん」

 そして、この男ならば、もしかしたら万に一つよりずっと低い確率の糸に手が届くかもしれない。そう思わせるものがテルミにはあった。クラヴィスが人に見出した人間だけが持ちえるはずの無限の可能性をテルミは持っていた。

「なら精々妨害してみろや」

 不安を掻き立てる笑みにも千年を生きた吸血鬼は揺るがない。ただ赤い瞳を閉じ、流れた時の分だけ刻まれた皺に感情を埋没させる。会話はそうして途絶えた。

    

    

    

    

 トモノリの命を無駄にしてまでテルミを開放しながら、テルミを止めると言い放つクラヴィスの矛盾。諦観に膿んだ吸血鬼は誰も彼も下らない事に拘泥して無様にあがいている。自分で突き崩す根性もないくせに、歪んだ世界を嘆くなど馬鹿のすることだ。

 ましてや、他人任せにするなど。

 テルミには理解できない思考だった。あの干物吸血鬼が何を思ってテルミを開放したかなど知りたくもない。

 不機嫌を囲ったテルミが気分を変えようと温かい紅茶を口にする。

「…………」

 テルミはクラヴィスが来る前から座りっぱなしだったソファで横向きにくつろいでいた。最初は土足で肘掛けを足置きにしていたが、紅茶を持って入ってきたヴァルケンハインに革靴を叩き落された。灰色のくつ下だけになった足をそれでも肘掛けに伸ばしたのは、テルミの意地だろう。

 天井から落ちる陰影の濃いランプの明かりと、卓上で揺れる燭台の柔らかな輝き。異なる方向から投げかけられる時代遅れはなはだしい弱い光が、表情豊かなテルミの横顔に静かな陰影を描き込んでいる。そこには常に燃えるような喜怒哀楽が浮かんでいた。人を人とも思わぬ文字通りの人でなしではあるが、陰惨な心理からくるありがちな生臭さがテルミにはない。怠惰と言う物を知らないかのように目をぎらつかせる。

 こちらを向いていないテルミの目を、ヴァルケンハインは真横から見ていた。机を挟んで向かい側、ヴァルケンハインは先程までクラヴィスが車椅子を止めていた位置より少し右側にあった椅子に、深く腰を掛けていた。手には主であるクラヴィスのために入れてきた紅茶のティーカップが握られている。白い手袋の内のカップは手に比べていくぶん小さく思える。

 従者より先に席を辞したクラヴィスに紅茶を入れることはできなかったのだ。間に合わなかった紅茶をテルミと共に飲んでいるのは、単に勿体なかったのと心を落ち着けるためだ。考え事をしているテルミが柄にもなく無言だったのがヴァルケンハインには好都合で、紅茶を飲みほすまでと思っていたが長居してしまっていた。

「…………」

 テルミはヴァルケンハインを認識していない。ただそこにある家具のように視界に入れても意識を向けない。それを心地よく感じる。

 三人で暮らすには広すぎる城で一人になることは当たり前すぎて、ヴァルケンハインは孤独に慣れていた。その孤独を上回る孤独を肌に感じるのだ。失敗を一人で反省したくとも、どこかから主に見られているのではと思う妄想に苛まれ落ち着けないヴァルケンハインには、いながらもいないものとして扱うテルミの存在はありがたかった。

 この男が何を見ているかなど、ヴァルケンハインは知らない。主のクラヴィスが危険視しトモノリに消息を追わせていたテルミは、今やその主の居城にいる。警戒が杞憂だったかのように、先程までクラヴィスとテルミは談笑していた。監視の任務を放棄し命をかけてまでテルミを殺そうとしたトモノリの事など忘れてしまったかのように、場は和やかだったのだ。その場で何が話し合われ、テルミがそこに何を見出し思考に沈んでいるのか。ヴァルケンハインには、二人の考えを察することなどできなかった。

 ぼんやりと現実逃避を続けていたいが、もう時間も遅い。いつまでも応接室にテルミを転がしておくと、ここで平気で寝かねない。城の二階に用意してある客間に案内する必要がある。

「テルミ」

 ソーサーに置かれたティーカップの足が音を立てる。ヴァルケンハインのものではなく、テルミの持っていたカップだ。呼ばれてもテルミは振り向かない。どうして自分にヴァルケンハインが声を掛けたかわかっているからだ。

 欠けない月の下に吹く夜風が窓枠を揺らす音に耳を傾けているようにさえ思えるほど反応がない。

「部屋に行くぞ」

 ゆっくりとテルミが立ち上がり、左右を無視して床に散らばった靴を探しだす。見つけた靴を足先で転がして履いている間に、テルミが置いたものと自分のもの、二つのカップを机の端の方に避ける。テルミを案内した後で下げればよいだろうと、ヴァルケンハインも立ち上がった。

 いつも持っている懐中時計の文字盤を見ると、既に短針が夜を指している。昼夜が逆転したこのアルカード城では早朝に相当する時間。ベッドに入るのが遅かったレイチェルや、最近は起きている時間の方が短くなってしまったクラヴィスが目覚めるまであと少しといったところだ。ミツヨシの容態も安定しており、定時に様子を見に行く以外することもない。

 思いがけぬ来客は、眠れない夜を紛らわすいい暇つぶしにはなった。ヴァルケンハインはテルミたちの来訪をその程度に考えていた。世界の存亡を掛けた動乱の渦中の、それもど真ん中に自分が投げ込まれたなど、ヴァルケンハインはこの時思いもしなかったのだ。

 自分の後ろをテルミが何の感慨も示さない顔で付いてきていたからなおさら、同じ応接間でテルミと主の間で交わされた言葉を想像しようなど思いもしなかったのだ。

    

   

   

   

 


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