迷走大戦   作:萩原@

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第3話

    

    

    

    

 軍用トラックを飛ばして数時間。何度か休憩と言い争いを続けながら、ラグナ達は目指していた荒野を抜けた先の都市跡にたどり着いた。昼を過ぎたやわらかな日差しにはっきりと浮かび上がったのは、巨大な廃墟だった。

 今は荒野となってしまった都市近郊の住宅地とは異なり、高層建築や巨大建造物が多くある都市はかつてそこに人が住んでいた痕跡を色濃く残していた。瓦礫の間からは基礎に支えられたビルが倒壊せずに突き出しているが、いびつに歪んで直線を保っているものはひとつとしてない。窓枠が外から押しつぶされたように歪んで、中には一階部分が押しつぶされたものもある。

「黒き獣がやったのか、これを」

 舗装が剥がれて下の土が見えた路面には砕け散ったガラスが砂のように降り積もり、ラグナが歩く度に耳慣れぬ音を立てる。その足跡を踏みながら、後ろからセリカがついてくる。やや離れた所ではミツヨシが軍人から渡された地図を確かめ、今の廃墟と過去の都市の立地を比較していた。

「黒き獣だけじゃないの。黒き獣を倒すためにたくさんミサイルが撃ち込まれたの」

 なんとなく、それが過去の兵器であることをラグナは察したが、同時にその意味を理解して顔をしかめた。確か、黒き獣には通常の攻撃手段は一切意味をなさなかったはずだ。どれだけ威力があろうと魔法や術式以外ではダメージを与えることができないために、人類は追い詰められたのだと聞いている。

 セリカの声に重なるようにテルミが語りだす。

「全土を覆う熱量と衝撃波の飽和攻撃で魔素ごと黒き獣を徹底的に叩き潰そうとしたんだろうが、結果がこれだ」

 テルミは車のそばで、ひしゃげた元が何だったのかもわからない赤い金属の箱に腰掛けじっとしていた。肩をすくめて片方の口の端をつり上げる。

「国ひとつ吹っ飛んだだけで何の成果もねぇ。むしろ放っといた方が日本から出てこなくてマシだったっつぅのによ」

 握った手を開いて吹き飛ぶ仕草をするが、他人の不幸を嘲っているにしては表情が硬い。違和感を覚えるが、それが何を意味するのかラグナにはわからなかった。

「みんな黒き獣が怖かったの。怖くて怖くて、戦うしかなかったの」

 セリカは正面に広がる廃墟に向かい合いその大きな目にこの光景を焼き付けようとしているようだった。

 その光景が、黒き獣による破壊なのか兵器による余波なのかラグナには判別がつかない。おそらく黒き獣の被害を受けていなかった場所も、ミサイルが使用されたことで破壊されたはずだ。黒き獣を倒せると判断され投入された兵器の威力は人知を超えたものだったのだろう。

「黒き獣も人間もこうなっちまうとかわらねぇな」

 悲しそうなセリカが何かを言おうとした時、ミツヨシの呼ぶ声がラグナたちの耳に届いた。セリカの様子に気づかずラグナがふり返る。

「場所がわかったぞ!」

 小柄なミツヨシが大きく手をふってこちらに来るよう促していた。車のそばにいたテルミも立ち上がり服についた汚れを払って支度をしている。

 忌々しそうに目に入った緑色に舌打ちをするラグナの機嫌が下がりきる前に、セリカがラグナの視線を引き戻した。服の裾を引かれる感覚に俯いたラグナをふくれっ面のセリカが見上げる。

「カズマさんとまた喧嘩するつもりだったでしょう」

 子供が大人ぶったような幼い仕草に膨らみかけた闘志が萎んでいく。理由を知らないセリカからしてみれば因縁も喧嘩でしかない。

 けれど、この少女に陰惨な理由を説明してまでテルミと殺し合おうとする気持ちはラグナにはもうなかった。いくら殺し合おうとしても、今のテルミ相手では刃が鈍る。憎しみが薄まったわけではないが、黒き獣の件がある。この惨状を目の当たりにすればなおのこと。

「もう危ない喧嘩はしねぇよ」

 今は倒す時ではない。

 黒き獣が死んだら絶対にテルミも殺す。

「セリカ、俺がテルミと喧嘩しそうになったら、今みたいに止めてくれ」

「わかったラグナ!」

 ぱぁと顔を輝かせ元気に返事するセリカにかつて共に旅をしたカカ族の少女を思い出し、思わず頭を撫でた。セリカも嬉しそうに頭を撫でられている。こうして気安く誰かを頼ることなどラグナはしたことがなかったが、セリカ相手なら肩の力を抜いて頼める気がした。これも彼女の人徳のなせる技なのかもしれない。

 黒き獣を倒すことは、ひいてはセリカを助けることにもつながるはずだ。そう思うと少しだけ思いつめていた心が軽くなった気がした。

「場所がわかったと言っているだろう!」

 遠くでミツヨシが叫んでいた。

    

    

    

    

 先頭を行く獣人の後を女がついて行き、女とテルミの間ではラグナ=ザ=ブラッドエッジがきょろきょろと周囲を警戒している。テルミは胃を押し上げる不快感に苛まれながらも、何でもないように集団の後を歩いていた。ラグナが壁になっているので多少マシだが、胸糞が悪いのには変わりがない。

 風に含まれた微量ならざる魔素が、空気中の毒素を中和しながら引き潮のように何処かへと流れ集積していくのをテルミは感じた。

 いや、散らされぬように身を寄せ合おうとしている。それだけセリカ=A=マーキュリーの秩序の力が強い。息をするだけで世界の在り方の歪みを矯正してしまう。

 テルミも蒼の魔道書も黒き獣も、世界に敵対するものは秩序の力に近づくだけで力を殺がれるのだ。

 セリカにはハクメンのような悪を識別する能力こそなかったが持って生まれた力の大きさが格段に大きい。大都市一つを無意識に浄化し続けるなど常識を逸脱しすぎた力だ。

 できれば関わり合いになりたくないが、そういうわけにも行かない理由がテルミにはあった。

 どこに向かっているのか確かめなくとも知っている道を、興味も無さそうに付いて行きながら思考を巡らせる。

 一つは、黒き獣。精神拘束を受けようが受けまいが、あの失敗作を処分しなければ未来に進むことはできない。暴走した窯は今も人間の魂を喰らって無目的に肥大化し続けている。もはやテルミ一人の手でどうこうできる限界を超えた窯を叩いて潰すには、秩序の力が必要だ。

 そして二つ目、今回の大本命は……

「そう言えば、ラグナはどうしてカズマさんをテルミって呼んでるの?」

「あ?」

 ……唐突なセリカの言葉に間抜けな声を出したこの男だ。

 ラグナ=ザ=ブラッドエッジ。

「こいつがユウキ=テルミだからだ」

「それってカズマさんの本当の名前なの?」

 だらりと下がった力ない右手が、体が揺れる度に目の前で左右に振れている。包帯の下の腕を形作った蒼の魔道書はセリカの力の前に完全に沈黙している。魔素の結合こそ寸断されずに済んでいるが、コードがエラーを起こしているのは明白だった。

「他の名前なんざ俺は知らねぇよ」

 肩越しに碧色の左目がこちらを見たので鼻で笑っておいてやる。先が見えないほどの未来にあっても、このガキを取り囲む連中はコイツに何一つ教えていないらしかった。

「なーんにも教えて貰ってねぇみたいだなテメェはよぉ」

 白髪を揺らしながら唸るが挑発には乗らず、それだけに留めてラグナはすぐ視線を逸らした。前から状況を正確には把握していないセリカのため息とミツヨシの苦笑いが聞こえる。

「せっかくラグナもカズマさんも記憶が戻ったのに何で喧嘩するかなぁ」

 呆れたようにセリカが続けるのを聞き流しながら、テルミは赤いコートをまとった背中を目で追っていた。テルミには、ラグナの一挙手一投足から透けて見える進むべきループの先の方がはるかに重要だった。

    

    

    

    

 髪を逆立て雰囲気が大きく変わってはいても、その声は間違いようもなく自分の姉の同級生カズマ=クヴァルのものだ。セリカが彼について知っていることは、ほとんどが姉とトリニティの会話から得た知識だ。それは同時に、トリニティが常にカズマのことを心配していたことを意味していた。彼と初めて会った日から、何かとトリニティは彼のことを話題にするようになった。

 きっとトリニティさんは聞いて欲しかったんじゃなく、私達にもカズマさんのことを好きになって欲しかったんだ。それは自分がみんなに姉のことを好きになって欲しいと思うのと同じような気持ちなのだろうとセリカは思っていた。

 だから、セリカはトリニティからたくさんのことを聞いた。記憶をなくして何かと不便なのかもしれないとか、いつも一人でお昼を食べているとか。他愛のない話から心配事まで、あまりお喋りではないトリニティがゆっくりと話すカズマの話は、彼女の雰囲気も相まって聞いていて苦痛になるものではなかった。

「ちょっと待て、もって何だ!まさかテルミも記憶がなかったってのか!」

 驚きを隠せないラグナが、またカズマさんの方をふり返って足を止める。

「うん、カズマさんもずっと記憶がなかったんだって」

 一番後ろを歩くカズマさんは、ラグナの影になってこちらからはよく見えないけれど声は聞こえる。

「そうそうカズマちゃんはずーっと記憶ないまんまでなぁ、ユウキ=テルミのことをすっかり忘れちまったままだったんだぜ?ひでぇ話だろ。オラ、足止めてんじゃねぇ歩けや子犬ちゃん」

「蹴るんじゃねぇ!」

 あの引っ込み思案で気弱そうなカズマさんが、今は明るい性格になってラグナと喧嘩をしている。言葉遣いも荒くてちょっと悪そうだけれど、なんだか楽しそうで。

 ラグナのことを思い出しても、カズマはセリカのことを忘れなかった。ならきっと、カズマのことを誰よりも思っていた彼女のことも覚えている。今のカズマを見たら彼女はとても驚くだろう。

 セリカはラグナと喧嘩しながらのびのびと振る舞うカズマに小さく笑った。

 

    

    

    

「……ここだ」

 廃墟のはずれに着いたとき、先導していたミツヨシは何故かぐったりとしていたが、誰もそれに気づくことはなかった。ふさふさの尻尾をどこかしんなりとさせ、ミツヨシがオレンジ色のコートに覆われた丸い手で先を示す。セリカの胸ほどまでしかない獣人の指し示す先は焼け焦げた建物だった。

 大きいとはいえ背の低い建物が二つ、他の崩れた周囲の建物から隔離されるようにひらけた場所にぽつんと佇んでいた。半ば倒壊はしていたが、門らしきものに看板がついており名を確かめることができた。

 《西王大サンプリング研究所》

 記録に残っているシュウイチロウ=アヤツキが最後に所属していた組織の研究所は、熱波に焼かれ本来の白亜の壁を真っ黒に煤けさせていた。

「全然、知らない場所みたい……」

 幼い頃に父に連れられ訪れた父の職場が見る影もない。

 息をつまらせるセリカの想像が、考えたくはない最悪の事態を思い浮かべる前に、ミツヨシが一歩前を行きセリカを呼ぶ。

「セリカ、一緒に来てくれ。シュウイチロウ=アヤツキの研究室を探したい」

 顔を上げたセリカの肩を、追い越すように隣に並んだラグナが叩いて後押しする。

「探しに来たんだろ」

 ラグナは知らないが、セリカはほとんど脱走するようにイシャナを飛び出してきていた。絶対に反対するだろう姉にばれないように結界の穴を抜けて。それがどれだけ姉を心配させるか承知で、それでもいても立ってもいられずにここまで来たのだ。

「うん!」

 力強く頷いたセリカに迷いの色はなかった。

 それに安堵の息を吐いたミツヨシが残りの男二人にも声をかける。

「お前たちも来るのだろう、ラグナ、それと……テルミだったか?」

 セリカとラグナが和気あいあいとしてる後ろでげんなりとした男が立っているがミツヨシは男をどう呼ぶか迷った。

 ラグナと因縁浅からぬ仲なのは明らかなのだが、どういう訳がセリカと同じ学生で彼女の顔見知りらしかった。セリカの仲裁で言い争い程度で済んでいるが、ラグナが男に向けるのは殺意だ。のらりくらりと躱している男は、まともな部類の人間には見えなかった。

「それとも、カズマと呼んだ方がいいか?」

 ラグナにはテルミ、セリカからはカズマと、それぞれ違った名前で男は呼ばれていた。逆立てた緑の髪以上に鋭い金の目が印象的な、独特の雰囲気を持つ男は、嫌そうにミツヨシを見る。

「ユウキ=テルミだ糞猫」

「……そうか」

 あまり好きにはなれそうにない男の答えに引きつった笑いを返すことしかミツヨシにはできなかった。

    

    

    

    

 タイルの白さが失われた床に四つの短い影が落ちている。昼の光が全て割れた窓から注いで、廊下は破壊されてはいても外よりはずっとまともな状態だった。日のぬくもりを受けてもそこに育つものがないからかもしれない。外気の侵入を防ぐすべがないはずの室内にも虫一匹いない。六年も経てば蜘蛛の巣が張っていてそうな部屋の隅も、地虫がいそうな壁の割れ目も、異常な清潔さを保っている。一度この国のことごとくが死に絶え、生態系が破壊され尽くした証拠だった。

 昨日も今日も明日も、全てを失ったまま時を止めた建物だけが変わらず佇んでいる。

 そんな光景をラグナは連想した。

 恐らくはラグナが生きる時代まで徐々に朽ち果てながらもこの国はずっとこのままなのだろう。滅びるとはこういうことなのだ。大国の亡霊であり亡骸なのだ。

 そう思うと思わず背筋が寒くなり、頭を振って考えを追い払う。ラグナは幽霊とかお化けとか、そういったものを信じていない。信じたくないし、お化けなどいない。足がなかったり壁を突き抜けたり、人が入れないような隙間にもいないし、ちょっと暗くなった場所のなぜか一個だけ無事なロッカーの薄く空いた扉から血走った白目に濁った黒目をしてこっちを見ていたりなど絶対にしないはずだ。

「ラグナ?」

「ひぅっ」

 転びそうな勢いでラグナがふり返る。そこには恐怖があった。片手で開けて覗きこんだ男子更衣室の入り口に立ち尽くしていたラグナにセリカが声を掛けただけだった。

「な、なんだセリカか」

「どうしたの?慌てて?」

 不思議そうに緊張感のない顔をするセリカの肩を押して廊下に戻ったラグナは何でもないと誤魔化した。苦しい言い訳じみたことも考えたが、セリカはあっさり納得してラグナと共に戻る。

 セリカの古い記憶を頼りに探す父親の研究室は、結局のところしらみ潰しの探索だった。結局手前の建物で何かを見つけることはできなかった。紙の資料は熱波で炭になり、電子情報は端末ごと失われている。予想は十分していたが、セリカの落胆は大きかった。

 中庭を抜けた先にも別棟があり、そこで父に会ったことを思い出したセリカの発言で一行は庭を横断する。植物が建物の影になって形をとどめているが、全て茶色く枯れ果てている。ミサイルの雨の中を生き残れたとしても、山が吹き飛ばされ川が干上がった状態で何年も生育できるわけがない。

 屋根に穴の空いた渡り廊下が、かさかさと風に音を立てる中庭をまっすぐ横切っている。ラグナ達はその廊下を渡ろうとした。

「……来たみてぇだな」

 テルミの声を聞くまでもなく、皆が足を止めた。

「あれ、なに?」

 セリカが息を呑む。距離にすれば十メートルほど。渡り廊下の終わりは別棟へ段差なく飲み込まれているが、その前に何か黒いものがわだかまっている。最初は黒焦げになった何かがうずくまっているように思えたほど、何の光も反射しないつやのない真っ黒な塊。それがもし静止していればゴミか何かだと思えたかもしれない。多少動いたとしても風がある。ゴミ袋か何かだと思い込めただろう。

 けれどさざ波のような小さく耳障りの悪い音が漂ってくる。風のそれではない奇妙な唸り。

 生き物にしては、単純すぎる形をしたものが人を不快にする音を立てて波立っていた。

 黒い霧と一言で言ってしまっていいかもしれない。そこに意思や本能のようなものを感じられないと言う意味では、生き物ではなく自然現象に近かった。拡散することはなくじわじわと色を濃くしていく霧は、そこにぽっかりと穴が開いて向こう側の良くないものが流れ込んできているような、そんな印象を人に与える不快なものだった。

 いち早く剣を握ったのはラグナだった。続いてミツヨシが構えをとる。ラグナはあれに似たものをよく知っていた。だが馴染み親しんだ右腕のそれとは明らかに違う悪意のようなものを目の前のものからは感じた。

「嫌な予感しかしねぇぞ」

 意識などないのだろうが、それは身を打ち震わせて伸び上がり形を変える。何の傾斜もない地面を水が溢れて流れるように広がり、布を絞るような動きでこちらを向いた。目も鼻も耳も顔もなければ頭も四肢もない。向いたのが正面なのかどうかさえ曖昧な影の塊が、確かにラグナを認識した。

「下がれセリカッ!」

 咄嗟に自分でセリカが逃げられたのは、何かと姉のトラブルに巻き込まれ慣れていたからだった。魔法使い同士の喧嘩では姉のナインが圧倒的に強く負けることはない。けれど、もしそのトラブルでセリカが少しでも怪我を負ってしまったらどうなるか。小さな切り傷であったとしても、ナインは相手に対価として命を要求する。根こそぎ相手の研究室を焼き払ったのも記憶に新しかった。

 セリカは本能に近い部分でそれを避けた。刷り込みの賜物だった。

 驚いたのは、そのセリカの背後にいたテルミだった。のんびりと高みの見物を決め込もうとしていたテルミに向かってセリカがバックステップで突っ込んできたのだから。

 さすがに動けないようなへたれた反射神経はしていなかったが、なにぶん気分も体調もすこぶる悪かった。反応は早かったが、身体が思うように付いてこない。恐怖で引きつったテルミに向けてセリカの背が迫る。そしてテルミが宙で身を捩る。けれどほんの少し距離が短かった。

 少し斜めになったセリカの肘が、こつんっとテルミの腹に当たった。

 そんな背後の攻防など知らず、ラグナが弾き飛ばされながら波濤のように押し寄せた黒い塊を受け流す。小さな爆発が剣の上で起こり、強い風が枯れ木の葉を根こそぎ落とす。打撃音とともに身体をふっ飛ばされたラグナが転がりながらも片目で黒い影を探す。

 自ら弾けて攻撃を仕掛けてきた影は磁石に吸い寄せられるように再び一ヶ所に渦巻いて集まっている。足をついて起き上がったラグナの隣にミツヨシが軽い砂埃を立てて降り立つ。

 塊は無尽蔵に思えるほど霧を吸い寄せて色を濃くしていく。最初に飛び散ったより多くの霧がどこからか現れて塊を肥大させる。のっそりと身を起こした影の塊は既にラグナの背を越えて巨大化していた。直に建物の二階に届くほどの大きさになるだろう。

 輪郭を濃くしながら大きくなるそれは、影の化け物と言うに相応しい。そしてそれから連想するものがラグナ達には一つしかなかった。

「この気配、この臭い……‥」

「カズマさんしっかりして!」

「……黒き獣だっ!」

 どちらに反応するか迷ったラグナは剣を構えて横目でセリカを見た。比較的離れた場所にいるセリカのそばでテルミが倒れているのに驚いたが、自分の足元がひび割れそれどころではなくなった。

 敵意をあらわに牙をむき出すミツヨシの足元もひび割れが走る。地割れは化け物を中心に広がり、割れ目からは黒い霧が一斉に吹き出した。霧は粒子の一つも残さず化け物になだれ込み、小さかった唸りが耳が痛くなるような咆哮に変わる。化け物の体表を流動する霧が立てる音だ。塊は流れのままに伸びて大蛇の形をなすとその先がばっくりと割れて大口を開けた。

 破壊すべきものをこの生きるものがない荒野で見つけたことに歓喜するように、うねりを激しくする。獲物を前にした舌なめずりを思わせる間に勝機を見たミツヨシが襲いかかる。

「一族の仇、ここで討たせてもらうぞ!」

「待て、無茶だ!」

 ラグナの制止を振りきってミツヨシが駆け出し抜き放った刀と爪で化け物の喉元を狙う。巨体をくねらせ頭を振った怪物をやり過ごし身をひねる。小柄なミツヨシが地につくとゴム毬のように急角度で跳躍、凄まじい勢いで背後から縦に塊の背を裂いた。

「うおおおおおおおおおおお!」

 腹まで抜けた刃が尾に近いところから、ミツヨシの脚力全てを乗せた斬撃のままに、顎先まで走り抜ける。

 見事に真っ二つになった化け物の中身が霧となってぶちまけられる。仲間の未来を奪った獣への怒りがミツヨシを突き動かす。

 霧が再び動き出す前に上空のミツヨシが体勢を立て直す。ゆっくりと断面を接着しようとした二本の影を回転斬りが何度も輪切りにする。

 猛攻、と言うしかない。黒き獣に向かった同胞たちと同じように、ミツヨシが全力で影を叩き潰す。

「す、すげぇ」

 ミツヨシ、というか獣兵衛の全力というものをラグナは見たことがなかったが、おそらくはこれに近いのだろう。常識を逸して速い。

「カズマさん!カズマさん!」

 セリカは倒れたテルミの介抱をしようとしている。

 肩を揺さぶっているが、反応が鈍いのかセリカの声は悲痛だった。

 何で倒れているのかは知らないが、どうせ大したことではない。この場に留まる方がよほど危険だ。

「さっさと逃げろセリカ」

 何とか意識はあるのか自分でテルミが立ち上がろうと肘をついてうずくまる。その腕を持ってセリカが立たせようとする。

「だめ、置いていけない!顔色が凄く悪いの!」

「そいつはいい、放っといたって死なねえ!」

 テルミもセリカを引き離そうと手で押しのけようとする。けれど頑なにセリカはテルミのそばを離れようとしない。

 ふらふらとしたテルミの抵抗などものともしないセリカに、ついに限界を超えたテルミが声を荒げる。

「触んじゃっねええ!」

 驚いて身を引いたセリカをテルミがあまりに弱々しい力で突き飛ばした。セリカは倒れもしない。突き飛ばした方が足元をふらつかせいる始末だ。

 また近づこうとするセリカにテルミは隠し持っていたナイフを抜いた。尋常ではないテルミの様子にラグナがようやく気づく。

 千鳥足で、それでもなんとかセリカから距離を取ろうとするが数メートル離れるのが限界だった。この距離をもう一度詰められたら。焦りながら抜いたナイフの切っ先は震えている。

 ナイフを向けられたセリカも訳がわからない。

 近づこうとするとがむしゃらにテルミがナイフを振り回し近づけない。

「何やってやがるテルミ!」

「落ち着いて、カズマさん!何もしないから」

 口元を押さえたテルミはなにも言わず、明確な拒絶をセリカに突きつける。

 状況が混乱している。

「避けろラグナッ!」

 よそ見をしていたラグナが反応できるわけもなく、ミツヨシの警告は無意味だった。

 ミツヨシを追っていた化け物の巨体がラグナを弾き飛ばした。身をひねって盾にした右手に痛みはないが、地面に叩き付けられた左半身が圧迫され骨が軋む。

「ぐおおっ」

 通りすがりに引っ掛けらただけとは思えない衝撃。肺から息が絞られ、下敷きにした左手から剣が投げ出される。首が折れそうな力に耐えたが、あちこちの筋が違えてしまったように痛む。

 影はようやく自分が轢いたものを認識する。地面に這いつくばった赤い服の男が生きていると魔素が計測するやいなや、食いちぎろうと口を開ける。

「貴様の相手はこっちだ!」

 その口をミツヨシの爪が横に断って妨害した。頭を弾き飛ばされた化け物がのけぞり晒した喉を、喉を割かれ跳ね上がった腹を、筋肉の伸縮を最大に発揮した猫の体が両手でみじん切りにする。爪が刃が、体表も体内もなくめった刺しにして霧へと散らす。

 穴の空いた巨体の中を突っ切り、ミツヨシの身体が反対側に飛び出した。セリカを庇うよう怪物との間に立つ。次の再生と攻撃に備えた。

「なっ」

 けれど一旦収束するかに見えた霧は今までの動きを無視して爆散、嫌な音を立てる莫大な量の霧へと変わり素早くミツヨシを覆い尽くした。薄い黒い霧の向こうに見えた焦った顔が、濃さを増した霧に飲まれる。

「ミツヨシさん!」

 黒い竜巻というものがあったら、まさにこれだろう。

 螺旋と円の間を行き来する粒子の動きを目で追うことはできない。内側をすり潰すために加速し続ける統率された霧が空気との摩擦で羽虫が集うような異常音を立てる。その間にミツヨシの悲鳴が聞こえる。

 球体は徐々に浮き上がった。直径を縮めて密度が上げているのだ。徹底的に内側の敵を殺すために。

 立ち上がって助けに行こうとしたラグナの目の前で、セリカが球体に駆け寄るのが見えた。無力なセリカに何かできるわけがないのに。

「ミツヨシさんを返して!」

 抱きつくようにセリカが手を伸ばす。中からミツヨシをすくい上げるために自分の身を投げ出して。

「やめろぉぉぉぉ」

 しかし、弾け飛んだのは赤い血ではなかった。

 回転する球体をゴムに押し付けたような不快な音がして球体が唐突に静止する。文字通りブレーキでも掛けたような動きで球体は収縮を止めて、水風船のように弾け飛んだ。

 真っ黒な液体のように飛び散った黒い霧が地面にぶちまけられ、中から支えを失った塊が濡れた音とともに地に落ちる。それを覆っていた黒も潮のように引いていく。

「一体、何が……」

 砂に吸われた水のように黒い霧は地面に吸い込まれ、いや、地面へと逃げ込んだ。手を伸ばしたセリカの足元に、満身創痍のミツヨシだけが取り残された。

    

    

    

    


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