来るんじゃなかった。
生まれてから一度として足を踏み入れたことがない……記憶が一部戻っていないので確証はないが自ら足を向ける場所ではない……女の花園ともいうべき喫茶店の店内に足を踏み入れた瞬間、ラグナの脳裏に悲鳴に近い思考が走った。
昼を過ぎていたのがなお悪かった。少し早い午後のティータイムを楽しむ女学生や主婦らしき女性たちで、店内は華やかだった。席もほぼ埋まっている。甘やかな焼き菓子の香りに混じって、ほのかな花の香りがする、そんな店だ。
先頭を行くトリニティについてずかずかと店内に入っていけるテルミの神経を疑う程度には、場違いな場所だ。背後から見ているだけでテルミの怪しさと店内の華やかさに目眩がした。当たり前だが、店内にラグナたち以外の男は存在しない。店員も女だ。
「ランチタイムは過ぎてしまいましたが、フードはまだ頼めますから」
いつものおっとりした動きはどこへ行ったのか、さっさとトリニティは案内された席に座りメニューを手にしていた。丸いテーブルには四つの椅子があり、テルミもそのうちの一つに座る。ちょうどトリニティの横の席だ。
ラグナは少し迷って、テルミの隣、トリニティの正面に座った。大剣も置いてきてしまったので、手荷物はない。空席の椅子には何も置かれていなかった。
「どれだよ」
テルミが横から覗き込む。店内でもフードを外さない暗い目元で、ちらりと金の眼が動く。
「ここですぅ。取り分けられるタワーサンドが人気ですねぇ。卵サンドが美味しいと評判なんですよ」
トリニティとテルミが同じ部分を眼で追っている。ラグナは、無言でもう一つ置かれていたメニュー表を広げた。
「二人前ぇ?足りんのかよこの量で」
「一緒に、ケーキやパフェを頼めるコースがありますから」
「痩せてぇのか肥えてぇのかマジ理解に苦しむな」
ここに自分が居なかったら、それはそれでテルミは馴染んだのではないか。仲睦まじい空気をかもしだす二人の余波に晒されながら、ラグナはメニューで顔を隠すようにして正面を見ないようにした。
ちょうど同じページを開いているせいで、さっき言っていたタワーサンドの写真が眼に入る。鳥かごのような金色のフレームに三枚の皿が乗せられている。それぞれ別のサンドイッチが盛りつけられているが、男なら全部合わせて一人前といった量だ。他も見るが、これ以上にボリュームのある料理はない。選択肢は少なかった。
結局、テルミとラグナはタワーサンド、トリニティは普通のサンドイッチを頼んだ。不審なラグナ達に嫌な顔ひとつ見せず、店員は注文を取って奥へ戻っていった。フロアには店員は少ないが、女性客しかいないため追加注文もなく、慌ただしさはなかった。
「ここに人と来るのも久しぶりですねぇ」
トリニティはメニューを戻しながら、懐かしそうにつぶやく。この店はマーキュリー姉妹の実家に近いので、下校時に彼女達と利用する事が多い店だ。セリカが失踪して以降足が遠のいていたので、トリニティも久々にここを訪れていた。
「たかだか二ヶ月だろが、テメェらと『カズマ』がここに来たのはよ」
何でもないようにテルミは言う。
「もっとも、あん時ゃまともに味なんざ分からねぇわ、クソ女の奇行がキメェわ散々だった記憶しかねぇがよ」
そう、あの時が『カズマ』にとって全ての転機だった。芋づる式に、トリニティもその日のことを思い出したのか、華やかだった表情に影が落ちる。
「……あの日だったよなぁ、セリカ=A=マーキュリーが失踪したのはよ」
冷えきった氷水のように、その声はトリニティに染みわたる。賑やかな店内の中で、そのテーブルだけ影が落ちたように空気が変質していく。
セリカの失踪。ラグナは既にセリカ自身の口から聞いていた。イシャナを抜け出すためにテルミの手を借りたのだと。善意でそんな真似をする男ではない。その裏で間違いなく陰謀を張り巡らせていたはずだ。
「あの失踪は、テルミさんが仕組んだこと、だったのですね」
「おうよ、外に出てぇっつってたからな。優しく外に出る方法を教えてやったんだよ。俺にしちゃぁそれはもう丁寧に、丁重に。なぁんも悪いことはしてねぇ、特別サービスってやつだ」
きひひと笑いを殺すが、口元はにやついている。トリニティの言葉は確認だった。承知の上で、テルミの口から事実であることを聞きたかった。それだけだ。
「どうして……」
「どうして!どうしてだ?どうしても何も、テメェにはちゃんと説明してやったろうが。もう忘れちまったのか、教えがいがねぇなぁ」
椅子に背を預け、テルミが大きく手振りで呆れた風を装おう。
「…………記憶だよ」
あの日、カズマは選択し、お綺麗で退屈で虫酸が走る日常を自らの手でかなぐり捨て、引き裂いた。《蒼》に至る道を脇目もふらず全力で走りだした。そしてめでたく『ユウキ=テルミ』へと成ったのだ。
「あの女が出たかったからじゃねぇ、俺が、俺自身が、必要だったんだよ、どぉしても忘れちまった真実ってやつをよぉ」
レリウス=クローバーが作製したテルミ専用のデバイスであるカズマ=クヴァル。今こうしてトリニティの前で質の悪い笑みを浮かべている身体。精神が統合され、今や当時カズマが考えていたことなどテルミは簡単になぞることができる。
「おかげでこうして、俺は何もかも取り戻せたわけだ。しかも今までにねぇくらい、最っ高のシチュエーションでな」
テルミは上機嫌だった。トリニティの気まぐれに付き合ってやってもいいと思うくらいには、この事象を台無しにしない程度には人付き合いしとくか、と思うくらいには。
「ま、気分いいから教えてやっけどよ、カズマ=クヴァルは迷ってたぜ。記憶をとるか、テメェらをとるか」
口にした所で、巻き戻しの効かない戯言だ。テルミではなかったカズマは、あの時、ほんの少しだけトリニティではなく、テルミを疑った。テルミに踊らされている自分に気づきかけたのだ。
「それは、本当で、すか」
「嘘言ってどうすんだよ、事実だからおもしれぇんだろが?」
選ばれなかった選択肢は、選ばれなかっただけで事実には違いない。今回の事象の真実ではないというだけで。
「ほんのちょっと、テメェらの立ち回りがうまけりゃよ、ここにいんのは、テルミじゃなくてカズマだったわけだ」
テルミを選ばなかったカズマがどうなるか、なんてのは、確かめてみないとわからないが、そこそこ面白いものが見れたかもしれない。今ここで希望と絶望をないまぜにした顔でいる女が、カズマから永遠に真実を奪った上で、平気な顔をしていられるわけがないのだから。
「残念でしたーってか?ヒヒヒ、なぁおい、何にも知らないカズマちゃんのままじゃなくて。残念か?俺がいなきゃよかったってか?」
後一声押せば泣くだろう、この弱い生き物は。簡単に言葉だけで踏み躙れる認識の甘い子供は。肉に喰らいつくように大きく開けたテルミの赤い口は、瞬間閉じた。
ががっと椅子の足が床を擦る。身体を仰け反らせて避けたせいで、立ち上がるのは間に合わなかった。
「んだよぉイイトコなのに邪魔すんじゃねぇよ」
テルミが回避した軌道をラグナの左腕が真っ直ぐ通っていた。さすがに、同じ卓についていて見逃せるものでもない。テルミの所業はすべからく悪意に満ちている。ラグナの逆鱗に触れるには十分すぎる理由だ。
「テルミィッ」
「ハイハイ、店の迷惑になっから抑えて抑えて」
「テメェが原因だろうが!」
もう一発振りかぶろうとするが、テルミは器用に椅子を引きずってトリニティの真横に移動する。そしてトリニティの背後に身体を回りこませ盾にした。
「えっえっ」
「ラグナくん、ハイ、スマイルっヒヒヒヒ?」
背後から突然両肩に手を掛けられたトリニティは上ずった声で振り返る。すぐそこに、にやにやとしたテルミの顔があった。こうしてトリニティを盾にすれば、迂闊にラグナは手出しできない。下手に暴れ回られて事態を大きくされては、動くのが面倒になりかねない。名案とばかりにテルミは笑う。
その先で、ラグナは恐ろしい物を目撃した顔で固まっていた。椅子から腰を上げたはいいが、握った拳に込めた力がどっと抜け落ちる。
テルミは気づいていないのだろうか。今のテルミの姿を見て、あわや喧嘩かと引いていた周囲の客達が、ため息を吐いて自分たちの会話にもどったことを。店員でさえ目配せはするが、止めに入るのをやめてしまったことを。
トリニティの背に身体をぴたりとつけたテルミに、どぎまぎとしているトリニティ。先ほどまでの落ち込みを吹き飛ばしてしまったテルミの行動に、どうツッコミをいれるべきか迷ったラグナは、ツッコミそのものを放棄した。
「テメェは爆発しろ」
ますます真っ赤になったトリニティの様子など、テルミは全く気にしていなかった。
この男に何を言っても無駄だ。ラグナは今までとは異なる意味で、その言葉を再度心に刻んだ。
客と同じようにため息を付いて座り直したラグナの視界に、給仕のタイミングを見計らっていたらしい店員の姿が割り込んだ。その手には二つのタワーサンドがかかげられていた。