「ぺっぺっ」
口の中にはまだ砂が残っている。
水で濯げばすっきりするが、砂漠を抜けていない今の状況で、飲水を浪費するほど馬鹿ではない。唾液と一緒に出来る限りの砂を吐き出す。きらきらと光る地面は吐き捨てられた水分を一瞬で蒸発させるほど熱い。
違和感をこらえ、ラグナは正面を向いた。かろうじてだが、地平線に人工的な建造物が見える。車を飛ばせばすぐ辿り着くような距離をかれこれ一時間は走り回っていたことになる。一時間で済んだだけましだろう。その内の半分以上を化け物に引きずり回されていたラグナは全く生きた心地がしなかった。
テルミに『助けられ』なければ、あのまま飲み込まれていたのは間違いない。助けられたのは二度目だ。だが、今までの所業を考えれば欠片も感謝の念など湧いてこない。
「糞面倒くせぇだけのザコだったじゃねぇか大魔道士様よぉ!」
通信機に向けて怒鳴りつけているテルミを見れば、いつも通りラグナの胸には抑えがたい憎悪が渦巻く。
やけに長細い手足と、耳障りな甲高い声。過去の惨状と共に脳裏に焼き付いた影が、今の姿にだぶる。腸が煮えくり返る前に、ラグナは頭を振って殺気を散らした。
ラグナたちは先ほどから位置を変えていない。テルミがナインと通話をしているすぐ脇には、倒したばかりの化け物の死骸が長々と横たわっていた。
横倒しになった化け物ミミズはそれでもテルミを影に飲み込むほどの巨体だ。ラグナも直射日光から逃れるために同じ影に入っている。壁にも思えるごつごつした真っ黒な体表からは濃厚な魔素が拡散し息苦しい。
「あ?知るかよんなこと、テメェの都合に付き合ってやるほど暇じゃねぇんだからとっとと運び込めや」
離れていても通信機の向こうの女の怒鳴り声が聞こえた。テルミも盛大に舌打ちする。
ラグナとテルミ以上に、ナインとテルミは仲が悪い。顔を合わせればだいたい罵り合っている。互いに嫌悪し合っているのが傍目からでもよく分かる。恨みのあるなしではなく、根本的に生き物として仲良くなれない、そういう仲だ。
周囲からすれば、利害関係が一致して辛うじて小康状態を保っているラグナの方が、まだテルミと『仲が良い』と勘違いされるほどの剣幕で二人の当て擦りが続く。
そもそも、今回の作戦が何のために行われたのか、ラグナは説明されていない。ただ黒き獣の落とした欠片、それに類する魔獣を倒せばいいだけだと思っていたが、どうも雲行きが怪しかった。
「善行でやってんじゃねぇんだよ気持ち悪ぃ!」
ついにテルミが通信を打ち切った音がした。投げ落とされた通信機が砂に逆さに突き刺さっている。
「あー知るか知るか!知ったこっちゃねぇんだよ糞女!マジウゼェ!」
それをさらに蹴飛ばす。高々と蹴り上げられた小さな機械は巨大ミミズの壁に当って跳ね返り、もう一度地面に刺さった。肩で息をするテルミをラグナは嫌そうに見た。テルミも嫌いだが、ナインと仲良くしたいとも思わない。そういう顔をしているのをテルミが見咎めた。
「なに他人ヅラしてんだ?テメェにも次からクソ女とクソ楽しくねぇお話させてやろうか?マジ楽しいことなんざ、かっけらもねぇ話をよ」
「断固断る」
フードの影になっているが、こめかみに血管が浮いていそうな地を這う声でテルミが言う。
不快極まりないと顔に書いてある。
「難しい話ができねぇオツムしてまちゅからねーラグナくんは、仕方ねぇよなぁ……」
後半は素だと、ラグナにも分かる勢いのない声だった。いちいちテルミに突っかかっていたらきりがないが、下手に乗ると本当にナインの相手をさせられかねないと言う思いが、ラグナを踏み留まらせていた。場を濁すように、ラグナは無事だった水筒に口をつける。半ば熱湯だが諦めるしかない。半口だけ含んだ水を砂ごと飲み干した。
「まだ帰らねぇのかよ」
喉はざらつくが、乾き始めていた唇が潤う。セリカから離れたことでラグナの両手は自由に動く状態だった。難なく右手で水筒に栓ができた。
「帰るぜー後は勝手にどうにかしろっての」
座り込んだラグナに背を向けて、テルミは日向へと歩き出す。遮蔽物から出ると、すぐに強い風がテルミの黄色いコートをはためかせた。テルミは来たとき同様に歩いて帰るつもりらしかった。
「結局何のために来たんだよ!」
ラグナも遅れて立ち上がる。赤いコートの皺からさらさらと砂がこぼれ落ちた。テルミが首を後ろに向けると、砂で不自然な黄色い色を帯びたラグナの頭が見えた。テルミを睨む色違いの眼は、馬鹿正直に真っ直ぐだ。
テルミの考えていることの仔細など、ラグナには分からない。情報が、足りないからだ。嫌な話ではあるが、ラグナは徐々に、テルミの強さの意味が理解できるようになってきていた。
無防備で短絡的なようだが、テルミは策を弄する男だ。その策の中に、自分もしっかりと組み込まれている。恐らくずっと、下手をしたらノエル以上に。体一つで戦うような真似をテルミはしない。卑怯なほどに武器を揃え、許す限りの守りを備え、他人を踊らせて戦う。そんな戦い方はラグナにはできない。
だからレイチェルは、いやレイチェルだけではない、何人もの人間が『勝てない』と言ったのだと今は分かる。同じ土俵に上がってしまえば、ラグナに勝機はない。なら、殺すためにはその土俵から引きずり下ろすしかない。
「知りてぇか?」
引きつった笑いをするテルミを見据える。躍らされるままでいては、勝てない。
「ああ、知りてぇな」
テメェが、何を考えてるかをよ。
この男の禍々しいだけではない、その先にある正体を射抜くつもりで睨む。
「材料だよ、素材」
ラグナの復讐心など先刻承知のテルミは、涼しげに答えた。押え付けはしても隠しはしないラグナの憎悪は、心地よくさえある。
「利用できるもんは何でも使わねぇとな。捨てちまうなんて勿体無ぇ。リサイクルすりゃまだまだ使えるんだぜ」
何より面倒がなくていい。同じ嫌悪でもラグナのそれは単純明快、曲がった所がない真っ直ぐな殺意だ。『ラグナ=ザ=ブラッドエッジ』はそうあれかしと定められたままに機能している。
「……人間の魂もよ?」
赤と碧の眼に、ざわりと影が落ちる。それはラグナの眼に反射して映ったテルミの姿だ。
「おっ死んだ連中の魂そのものに復讐させてやろうってんだ、クソ女もお優しいこって。俺達はよ、死人に鞭打つために遠路はるばる来たんだよ、わかるラグナちゃん?」
深淵を覗きこんだがゆえに、見つめ返されたラグナの息が一瞬止まった。あえて一番ラグナの精神を逆なでする言葉でテルミは真実を語る。
「まさか、だからジンは……」
「お、勘がいいねぇ!そうユキアネサ!ありゃ精神汚染を通り越してたから、わかり易かっただろ?」
数万人の魂と怨嗟を核とする禁忌の兵装。そんな物を使って精神に異常をきたさない方がおかしいのだ。
「なんつぅ物作ってんだよ!」
事象兵器は、ただ強力すぎるからその製造法が秘匿されたわけではない。後世にもう二度とそんなものを作らせるわけにはいかなかったからだ。
「勝てねぇんだから、しょうがねぇだろ」
ここまでしなければ、黒き獣には勝てない。そうテルミは笑う。ナインに選択させた時と同じように。
「あ、考えたの俺じゃねぇからな?文句はクソ女に言えよ?」
けらけらと可笑しそうに、日の下でテルミが身を捻った。そう、他人が考えた筋書きと方法に、意気揚々とテルミは乗っているだけだ。
「クソったれ!」
「ひーひっ!マジいい顔してるわ!そう、テメェが泣こうが喚こうが世界は変わらねぇぜ」
暗黒大戦という舞台は、いつだって血腥い。割り込んだラグナ一人の力でどうにかなるほど、人類の危機は甘くない。拳を握るラグナはテルミに殴りかかろうとはしなかった。殴れば多少気は晴れるかもしれないが、それで何か変わるわけではない。
「ま、せいぜい足掻けや、面白ぇからよ!」
いい気晴らしをしたテルミは、憤るラグナをよそに晴れ晴れとしていた。ラグナがループから抜け出そうとも、テルミの手の平の上で踊っていることに変わりはない。雛に匙で餌を与えるように、悪意しかない世界の真実を丁寧に教えてやる。その些細な行為は、思った以上にテルミを愉快な気持ちにさせた。与えすぎているなど思いもしないまま、テルミは軽い足取りで家路への一歩をまた踏み出した。