迷走大戦   作:萩原@

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第10話

    

    

    

    

 この城の夜は明けない。

 華やかな薔薇も、美しい月の下で咲き誇るだけで鮮血の赤を朝露に濡らすことはない。それは城の主が変わっても揺るがない日常だった。夜の住人たる吸血鬼が昼に生きられないわけではない。ただ夜をより好み、月の下でこそ咲くべき花もあるというだけだ。

 ヴァルケンハインは咲き誇る花束を抱え、膝をついた。大輪の薔薇は血よりも赤く夜露に濡れたように花弁が瑞々しい。今しがた選りすぐったばかりの庭の薔薇だ。

 城の薔薇は一斉に開花したのは数夜前の事だった。

沈黙したままその蕾が花開くことは、ヴァルケンハインの知る限り数十年なかった。主と同じく時の静寂に佇む薔薇は、黒く柔らかな蕾のまま風に揺れていた。その薔薇が突如として鮮やかな赤に染まったのは、城主であったクラヴィス=アルカードが息を引き取ったその夜のことだった。

 夜は明けずとも、浮世から隔てられようとも、時計の針は一秒を刻む。ヴァルケンハインの持つ金の懐中時計が止まることはない。

定められた刻をもって、この城の、そしてヴァルケンハインの主は代替わりした。

 覚悟していた事であったとしても、耐えようのない悲しみが男二人の胸に渦巻く。跪いたヴァルケンハインの側に立っているのは猫の獣人であるミツヨシだった。癒えぬ傷が包帯の下に隠されていても痛々しく、未だ休息を必要とする身体であるのは明白だった。一つきりになった目はヴァルケンハインの背と、その向こうの石造りの墓を闇夜でも、しかと映していた。

長命である獣人よりもさらに長い命を持つ吸血鬼の死は、ひとつの時代の終わりを意味する。過ぎる時を見つめ続けた男が、その最期に何を思い、何を次世代へと託したのか。ミツヨシにはその全てを知ることはできない。それはおそらくヴァルケンハインでさえも、思い及ばぬものなのだろう。ミツヨシの見るヴァルケンハインの姿は余りに静かすぎて、頼りなくさえあった。寄る辺ない幼子のような、心の柱の一つを失った男を慰める言葉をミツヨシは持たない。

たとえ慰めたとして、失ったものは戻らない。

ヴァルケンハインの悲しみはヴァルケンハインの中にしか存在し得ない。それを取り出し温めるすべは失われてしまった。

この男がどう生きていくのかを見守ることだけがミツヨシにできることだった。悲しみに封をして痛みが忘れ去られるのを待つのか、思い出を紐解き悲しみさえ絆として共に生きるのか。ヴァルケンハインがどちらを選ぶかなど、わかりきった事だった。

言葉を掛けずとも、よいのだ。

ヴァルケンハインが己で答えを出すのを待つように、ミツヨシはただ共に静かに側に佇んでいた。クラヴィスが選んだ男が、自ら立ち上がるまで。きっとそう時間はかからない。

夜風が花束の花弁を揺らす。夜よりなお暗い月影の下でも薔薇は赤かった。

この赤が誰よりも似合うあの娘が、ヴァルケンハインと、この城を導いていくだろう。

ヴァルケンハインは一人ではない。共に思い出を分かち合える者がいる限り、この男が道を誤ることはない。

薔薇の赤にレイチェルの幼い姿を思いながら、ミツヨシは同時にもう一つの赤を思い出していた。大輪の薔薇ではなく、どこか危なっかしく、けれど無限の可能性を持った小さな灯火のような赤を。

誰にもできなかった黒き獣の『封印』を成し遂げた赤いコートの男。ラグナ=ザ=ブラッドエッジ。

これからレイチェルの観測る世界を導いていくのはあの男に違いない。クラヴィスが託した未来を照らすにはまだ頼りない光ではあったが、あの男もまた一人ではないのだ。

ミツヨシは目を閉じて、男の真っ直ぐな碧い目を思い浮べる。ラグナの存在は、仲間を黒き獣によって奪われたミツヨシにとって希望だった。

人間の歴史はまさに大きな転機を迎えようとしていた。そして隠世にも、一人の男の選択がもたらした変化の風がゆっくりと吹き始めていた。

     

    

    

    

    

 およそ、生活臭というものを感じさせない男だと思っていたが。実際のところ、どれだけ浮世離れしていても生きている以上は衣食住というものが生じる。

ラグナは今まで思い描いていたこの男の生きている日々の姿を何とか思い出そうとしたが、ぼんやりした空想の中の虚像は、目の前の実像に上書きされて輪郭を失っていた。

 心底嫌そうな顔をしたユウキ=テルミがベッドに腰掛けている。座っているベッドはラグナのいた時代でも見かけたような木で出来たありふれたベッドで、ずり落ちそうになっているシーツはしわが入って、とても糊が効いているようには見えない。今朝までは間違いなくそのシーツの中でテルミが寝ていただろう証に、枕のところに緑色の抜け毛が一本落ちていた。シーツも自分で洗濯しているのだろうか。玄関先には狭い集合住宅にありがちな洗濯機が鎮座していた。時代が変わってもそれほど『庶民的な生活』には変化がないようだった。

「ジロジロ見てんじゃねぇよ」

 機嫌が悪い以上に、自分の領域に部外者が入ってきているのが気に食わない、そういう顔だ。

 今まで想像もできなかった仇敵の、ひどくプライベートな部分に自分が踏み込んでいる違和感にラグナは微妙な気持ちだった。端的に言えば、ラグナ=ザ=ブラッドエッジはユウキ=テルミの自宅にいた。成り行きとは時に思いもしない結果を呼びこむものだと、ぼんやりと本筋以外の部分で思考する。

 こうして向かい合い話をするのは二度目だ。

 全てが嵐のように過ぎ去った一週間は、当人たち以上に世界を大いに巻き込みひっくり返した。文字通りひっくり返った人間も多かっただろう。人類存亡を掛けての大戦争が唐突に終息したのだから。今もテレビを付ければ緊急報道がどの局でも流され続けている。

 この部屋にテレビはないが。

 最低限の家具と、家具を保護していた梱包資材の残骸、回収日まで間があるために室内で保管されているいくつものゴミ袋。あのユウキ=テルミがゴミ捨ての日を守っている事は、少なからずラグナに衝撃を与えた。ラグナは面倒になって適当に捨ててセリカに怒られたばかりだった。

 さらに言えば、比較的部屋が片付いているのが気になった。物がないわけではない。同じ間取りのラグナの部屋に比べると多いと言っても良い。ラグナはセリカが持ち込んだ毛布で寝起きしているので、ベッド自体部屋にない。つまり、テルミが腰掛けているベッドは作り付けではなく、ここに入居してからのわずかな時間で用意されたものと言うことになる。自分で手配したのだろうか。近くのデスクにはとんでもなく旧式の真新しい機械端末が置かれているので、ネット通販で買ったのかもしれない。その姿を想像してラグナの微妙な気持ちは加速した。

「見られて恥ずかしいようなもんでもあんのかよ?」

 多分ないだろう、とは思うが。ベッドの下を覗き込む仕草をしたラグナに、テルミが露骨にしかめ面をする。

「ねぇよ」

 これで熟女モノの映像素子なんかがきっちりベッド下に隠されていたら、それで心にダメージを負うのはラグナの方だろう。仇敵の性的な好みをこう言う形で直視して耐えられるほどラグナの精神は強くない。そういう意味では、それ以上深入りする前に割り込んだ声はラグナを救ったとも言えた。

「ベッドの下に何があるの?」

 きょとんとしてラグナの隣で同じ姿勢で同じように身体を前屈させている少女が疑問符を浮かべる。慌ててラグナは上体を起こした。

「なんでもない!」

 まず全力で否定しておく。けっしてやましい気持ちで探したわけではない。

 何を探していたかさえよく分かっていないセリカも身体を起こす。動かない右手で不便がないようにと、セリカはラグナの右側に座っている。どういうわけか、テルミの部屋にはローテーブルはあるがソファの類いがない。仕方なく床にラグナとセリカは座っていた。玄関から土足禁止と言うテルミの謎のルールために二人は靴を脱いでいる。床自体が汚れているわけではないのだが、室内でも靴を脱がないのが習慣づいているので低い視線は居心地がなんとなく悪かった。

 未だ不思議そうな顔でちょこんと座っているセリカの話を流すように胡座をかいたラグナは咳払いをする。

 それを高い視点からテルミが見下ろした。テルミは躊躇いなく口を開く。

「ラグナ君は俺が持ってるセッ」

「何マジで説明しようとしてんだよ!テメェ馬鹿かっ!」

 後半の単語をラグナが声でかき消した。片手しか使えないラグナにはセリカの両耳を塞ぐことは叶わないからだ。

 機嫌が上向いたテルミが薄い唇を歪めた。思わずラグナが掴みかかる。

「あぁ?どの口でそう言うこと言ってんだ?人様の家に無理矢理上がり込んでAV探そうとしてるラグナちゃんよぉ!」

 ラグナが胸元を掴んだ黒いシャツは部屋着らしかった。テルミの言うとおり、ラグナはゴリ押しでテルミの家に上がり込んでいた。そのために滅多にしない早起きまでして。そうでもしなければほとんど自室にさえいないテルミを捕まえて話をするなど無理だったからだ。

「んなもん探しに来たわけじゃねぇよ!」

「やっぱラグナちゃんお年頃ってやつ?俺様の持ってるAV見てオナ」

「言わせねぇからな!」

 再度遮るがテルミの声は止まらない。

「健全な性少年なのにしねーの?マジで?やっべーイン」

「んな気に食わねぇかよ!部屋に上がり込んだ程度でネチネチうるせぇんだよテルミ!」

 これ以上教育上よろしくない言葉を吐かれてセリカに聞こえたら事だ。ましてや非常によろしくない単語の意味をセリカに尋ねられたら。いや、セリカがナインに尋ねでもしたら、ラグナの人生は終幕を迎えかねない。

 ラグナの必死さがにじむ剣幕に、すっとテルミの目が細くなる。

「ニートが人の休み潰していいと思ってんのかよコラッ!オラッ!朝からクソみてぇな空気にしてんじゃねぇよ!」

 ローテーブルを挟んで掴みかかっていたラグナの胸に一発拳が入る。そのままテルミはラグナの襟元を掴みあげた。

 ラグナもテルミの胸元に掛けた手に力を込めるが、身体を強く引き上げられあっさり引き剥がされた。ラグナの手からむしり取ったボタンがころげ落ちる。

「このまま御退場願おうかクソ犬ちゃんよぉ」

 本当に、テルミは機嫌が悪かった。寝ているところをセリカの接近による体調不良で叩き起こされ目覚めは最悪。しかもセリカは今、自分の部屋の中にいる。これで機嫌が上向くはずもない。

 好き好んでテルミが二人を部屋に上げたわけではない。実力行使で部屋に上がり込まれたのだ。

 そのセリカを連れてきたラグナのことも、大いに気にさわった。

「なに笑ってんだ?あ?」

 勝ち誇った笑み、とでも言えばいいのだろうか。首もとを締め上げられた息苦しさに歪んではいるが、ラグナが浮かべているのは余裕のある笑みだ。

「セリカ」

 穏やかささえもって、ラグナは少女の名を呼んだ。

「えいっ」

 愛らしい声がなにか気合を入れるように短く発せられる。

 テルミが事態を把握できたのは、機嫌以上に急降下する自身の体調変化を感じた後だった。膝が崩れ落ち、ラグナを締め上げていた指先から力が抜ける。

 テルミの手から救われ、あぶなげなくラグナは床に足をつけた。その顔は確信を得た、より深い笑みを浮かべている。ラグナが再び立った横では、先ほどと同じ位置にセリカがいた。もう座ってはいない。膝立ちになった彼女は、本人としては凛々しい、周囲から見ると可愛らしい気合の入った表情でなにかを構えていた。

 テルミはベッドの上に倒れ込みながらセリカを見る。突っ伏したテルミの視界に、セリカの手の中のものが映った。テルミの足をはたいたセリカの『武装』は、子供だましにしか見えない安っぽい色をしている。

「ラグナをいじめないでカズマさん」

 未だテルミのことをカズマと呼ぶセリカは、紙の筒を持っていた。つやつやとした白い紙質と数十センチはある長さから察するに、元になったのは破り取ったカレンダーだろう。綺麗な円筒になった形状の先っぽが少し凹んでいるのは、先ほどテルミの足を叩いたからだ。

「やっぱりな」

 叩くとぽこんっと間抜けな音がする、ラグナがセリカに持たせた対テルミ専用必殺兵装は、ラグナの目論見通り一撃必殺の威力でテルミをベッドに沈めていた。ラグナは片手しか使えないので、カレンダーを巻いたのはセリカだ。

「セリカ、テルミが怪しい動きをしたらためらうな。叩け」

「カズマさんをいじめないでラグナ」

「んじゃぁ、そいつが悪いことしそうだったら叩くってのはどうだ?」

「悪いこと?」

「そうだ、さっきみてぇなこととかだな。しそうになったら、叩いて止める」

「わかった」

「絶対に割り込んで止めようとすんじゃねぇぞ?その棒でテルミを叩けよ」

 テルミにも話が見えてきた。

 セリカは紙筒を構え直す。

別に紙筒そのものがテルミにダメージを与えているわけではない。スラックスの布地だけで紙筒による衝撃は十分に分散できる。

問題はその紙筒に込められている力だ。

持ち主の属性が附加された紙筒は、触れるだけでテルミの体力と気力をごっそりと削り、吐き気とめまいをともなう状態異常を引き起こす。

「どうしたテルミ?俺をどうするってんだ?」

 口の端を吊り上げ、ラグナが倒れたままのテルミを見下ろす。碧色の左目は、それは楽しそうな輝きを見せる。もし右腕が動いていたなら腕組みをして仁王立ちしていただろうほどの上から目線、勝ち誇ったラグナの表情はなかなかの悪人面だった。

「クソがッ」

 テルミを一撃で沈め、ラグナの右腕と右目を封じているものが、セリカの存在に起因している同じ力だと、ラグナは確信した。ただの紙筒でしばかれただけで面白いようにテルミが倒れた。今も、テルミの視線は自分に向けられたセリカの紙筒を警戒している。

 邪悪な考えがラグナの脳裏にひらめき、ニィッと悪い笑みが自然と浮かぶ。ラグナが声をはるため小さく息を吸う。

「セリカ!」

「やめろぉっ!」

「なにラグナ?」

 うつぶせだったテルミの肩が跳ね上がり、咄嗟にベッドの上にあった枕を掴んで盾にする。丸まったテルミの身体は、むろん枕からはみ出ている。

 ラグナはセリカの名を呼んだだけだ。呼ばれたセリカは座ったままラグナを見上げる。

枕の下から用心深くのぞいた金色の瞳は、セリカとラグナの表情を交互にうかがう。

「オラどうしたテルミ?別に俺はセリカを呼んだだけだぞ」

「?」

 なにかテルミに仕掛けるでもなくきょとんとしたセリカを見て、ラグナにからかわれたことに気付いたテルミの血圧が一気に上昇する。

 セリカがテルミを迎撃する約束をしていたのは、最初の一撃のみだった。

「コケにしやがってぇぇっ!クソが!」

 持った枕を振り回しテルミがベッドの上で勢い良く立ち上がった。フードをかぶっていないため、不健康に青白くなっていた肌が、怒りのあまり胸元まで赤く染まっているのがラグナにはよく見えた。

「なにマジにしてんだよ、くっそ笑えるぜテルミ!」

 耐え切れなくなって、ラグナは吹き出した。動く方の左手でテルミを指差し、ぞんぶんに笑いものにしてやる。いつだったかテルミがラグナにしたことを、そっくりそのままラグナがテルミに仕返す。ラグナにその記憶がなかったとしても、テルミはしっかりとその事を覚えていた。それがなお、テルミの怒りと羞恥をあおる。思い起こされる記憶と、今自分がとった行動、そしてラグナの態度。

「クソがクソがクソがクソがッ!」

 自分がなにを振り回しているかも分からなくなるほどの羞恥がテルミを襲う。枕とは思えない俊敏な動きで振り下ろされ、手首のスナップで切り返されるふわふわした鈍器。

「ぶっははははははははははははははばーかっ!ばーか!」

 ラグナの腹筋はその光景に耐久限界を超え、果てどない痙攣の連鎖へ陥る。

これを見るためだけに、セリカを朝から呼び出し準備をして乗り込んだのだ。

テルミの弱点がセリカそのものであると察した時、ラグナは今までの人生で一番と言っていいほど頭を働かせた。ラグナはテルミを恨んでいた。それはそれは深く、テルミの存在を世界に定着させるほどに、深く憎んでいた。

 けれど今のラグナには、例え可能であったとしてもテルミを殺すことは叶わない。殺すどころか、傷つけることさえ、歴史を改編する可能性を孕んでいる以上行えない。

だが、テルミが憎かった。のうのうと生きているテルミが少しでも惨めに苦しめばいいのにと、心から思った。だからテルミを傷つけず、けれど最もテルミが苦しむであろう方法を考えた。

「はははははははははっはっ腹痛ぇ!ぶははははははは」

 これはラグナが生まれて初めて編んだ稚拙な計略だ。

 ラグナが一歩引くと、枕はもう当たりようがない。ラグナとテルミの間にはセリカがいる。テルミはラグナを追って踏み込んで行くこともできず、ベッドの上で枕を振る。この枕がナイフであったとしても、テルミの行動は変わらないだろう。わずかでもナイフがセリカに触れることを恐れて、威嚇するしかできないはずだ。

「ぶははげほっゲホッ」

 ついにラグナはむせた。息を吐き続けて吸えないせいで肺が痛いが、まだまだ笑い続けていたい気持ちだった。笑いすぎて目尻には涙が浮かんでいる。

楽しすぎて笑いが止まらない。

 ラグナが思い描いたとおりに、テルミが罠にかかり、おちょくられ、醜態を晒し、憤慨している。味わったことがない仄暗い快楽がラグナの意識を高揚させていた。

「ラグナ落ち着いて」

 痙攣するほど笑ってむせるラグナの背中をセリカがさする。やわらかな手の持つ浄化の力もラグナの心までは今は届かない。

「フー……ッ……フーッ」

 ベッドで膝立ちになったテルミはもはや言葉を発していなかった。血管が浮いたむき出しの額は真っ赤になっている。特に顔の中でも耳は羞恥で血が集まって、目で見て熱を感じるほど赤い。ラグナにからかわれたと言う事実がざっくりとテルミのプライドに傷をつけていた。

「カズマさん大丈夫?」

「大丈夫じゃねぇよッ!」

 そう言い返すのがテルミには精一杯だった。

 そしてその叫びがとどめの一撃となった。また吹き出したラグナは、今度こそ膝を折って床に転がった。

 笑いの衝動に身を任せて片手で床を叩くラグナは気づかない。頭に血が上りきって殺気を黒々とまとうテルミも気づかない。

おろおろしながら二人の間にいるセリカがようやく壁にかかった時計で、今が遅刻に値する時間であることに気づくが、文字通り時は既に遅かった。

 今日は平日であり、学生は勉学に励むべき曜日だった。

時計が針刺した始業時間は、魔法の解ける時間ではなく、魔法の掛かる時間。いるはずの人間が教室にいないことに気づく時間。

セリカに限って言えば、気づくのは教師や同級生だけではなかった。

「セリカ」

 テルミの部屋からは遠い学園の一室で発せられたはずの声が、セリカをすぐそこで呼んだ。ラグナとテルミの耳にもそれは届く。凛とした芯のある若い女の声。なぜかその声を聞くだけでラグナの笑いがぴたりと止んで、部屋に静寂が戻った。

 さっきまで誰もいなかったはずの窓際、開いたカーテンから差す朝日の中に、逆光に負けない鮮やかな桃色がたたずんでいる。

 これから計略の対価とも言える惨劇が起こるのだとラグナは早々に察した。

「お姉ちゃん」

 ラグナの伏した床には、くっきりと見覚えのある魔法陣が浮かび上がっていた。

    

    

    

    

 テルミの頬は赤く染まっていた。羞恥や怒りや、まして歓喜でではない。物理的な打撃で負傷した患部を治癒させるため、生態反射により皮膚細胞がヒスタミンを放出し血流増加が起こっているからだ。

ありていに言えば、平手打ちを食らったテルミの頬には綺麗な手の跡が残っていた。

 平手を食らわせたナインは、テルミの前に立っている。

先ほどまで騒がしかったテルミの部屋は、招かれざる客が強制転移で減って静かだった。時間はもうホームルームを終えて一時限目も半ばに差し掛かっている。

「もうちょい、ラグナ君に目ぇ光らせといた方がいいんじゃねーか?」

 そこまで責任は持てないと悪態をついて、テルミは頬の回復具合を指先で確かめる。イシャナは結界に覆われているために魔素の流入が皆無だ。正しくは結界内のセリカの力が逃げ出す場所がない土地だ。外に比べればテルミの回復は遅くなっている。

「アンタに言われるまでもないわよ」

 テルミの部屋のラグナをナインはヒールで踏みにじる。その顔は先程までの怒りで未だ赤味がさしている。多少息が荒いのは精神的なもの以上に、転移魔法を乱発したための疲労だ。人間の身で扱える最上位の魔法を日に何度も使えばそうなるだろう。

「セリカを部屋に上げたアンタも同罪よ」

 ナインはラグナに暴行を加えた返す手で笑っていたテルミの頬を引っ叩いた。とっさに反応できなかったのは、今までこう言った反応をナインから返されたことがないからだった。だいたいにして蹴りが入るので、下段で構えていたら真横から一撃が入った。

耳元でいい音がしたが、手のひらには魔法による強化は仕込まれていなかった。自分の指でなぞる頬は見た目こそ赤いが、痛みはとっくに引いている。

「上がり込んだラグナ君が悪いのですよ、ナインさん。僕は悪く無いですよ~?」

 わざとらしく生ぬるい緩んだ声を出すと、怒りが一気に冷えた目でナインが見返してきた。またベッドに座っていたテルミの顔を覗き込むようにナインが頭を下げる。ピンクの髪の上に乗った三角帽から黄色い目が怪訝そうにテルミの、その顔を見つめた。

「……その気持ち悪い猫なで声、カズマ=クヴァルを『思い出す』からやめなさい」

 ナインがまじまじと観察したのはテルミの顔だった。白いと言っていい肌も、鮮やかすぎてうさんくさい緑色の髪も、ひょろ長い骨格そのままの輪郭も、こうして観察したのは二度目だ。

 くくっと喉を鳴らす仕草をしてテルミが目を細める。金色の瞳だ。いつも長い前髪に隠されて、あるのかないのかわからなかった目の色など、ナインは知らなかった。

「『カズマちゃん』のことスッゲェ嫌がってたもんなぁ、監視まで付けやがって」

 瞳が見えるだけでまるで表情が違う。前髪を上げて逆立てると、切れ上がった蛇のような目が大きく顔の中で主張している。あの最初会った時の、箸にも棒にも掛からない陰気な青年とコレが同じものだとは、ナインにはにわかに信じがたかった。

「当たり前よ、トリニティが気に掛けてなかったらとっくに消してたわ」

 人ひとり消すくらいはわけない、と言い放つ女子学生の言葉にテルミが口の端を下げて嫌悪をあらわにする。カズマならば浮かべなかっただろう心情そのままの顔だ。

「で、オトモダチが火の粉被らねぇようにってか?俺のモン全部処分しやがって。証拠隠滅って立派な職権乱用だろが十聖サマよ」

「叩いたら埃しか出そうになかったアンタの後始末をしてあげたのよ?感謝くらいできないの」

 カズマ=クヴァルの聖堂侵入と結界の破損、セリカの失踪。事件後の騒ぎを調査しながら要所要所でもみ消しを行ったのはナインだった。セリカやトリニティの事もあったが、純粋に警戒心からカズマという生徒が何者なのかを洗いざらい調べた。

「埃どころか、真っ黒な経歴だったわ。よくイシャナに忍び込めたわね」

 思い出すのはファイリングされた、空欄ばかりで白紙に近い入学届と身分証明書。外部から情報を盗もうとするスパイの侵入を食い止めるため、入学者は厳重に身元を洗われるはずだ。事務が通すとはとても思えない不備書類しか、カズマ=クヴァルの出自を示すものはなかった。

「手続きしたのは俺じゃねぇから知らねーよ。どうやってここに来たかなんざなぁ」

 嘘をついている風ではなく、面倒くさそうにしている。本当に知らない可能性もあったが信用はならない。

「記憶喪失だった、なんて言い訳が通ると思っているの?アンタみたいな得体の知れないモノが、何年もこの島で普通の人間のふりをして生きていたのかと思うと、寒気がするわ」

 ナインはカズマ=クヴァルを、いや、カズマ=クヴァルと名乗りこのイシャナに侵入したユウキ=テルミと言う男を人間だとは思っていなかった。六年前の書類に貼られていた証明写真に写る少年は、あどけなさを残していたが、外見通りの年齢でない人外などいくらでもいる。

「アンタこの島で何をしたの」

 六年間、目の前の男が誰にも怪しまれることなく、この魔法の島で何をしていたのか、ナインはまずそれが気がかりだった。

 聞かれて、すぐ何かしらの答えを口にするかと思われたテルミは口ごもった。悪事を隠して気づけぬ他人を嘲るくらいは呼吸をするのと同じ程度でしそうな男が、すぐに言い返さなかったことにナインが困惑を浮かべる。

テルミの表情をもう一度じっくりと観察できる程度には時間が掛かった。

    

    

      

      

    


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