プロローグ
ヴァルケンハインが、転移を終えた見えざる方陣から脚を踏み出したとき、聖堂の最下層には、生臭くこもった血臭が鼻につく惨状が広がっていた。それはヴァルケンハインが間に合わなかった事を示していた。
光が満ちた広間から刺し込んでくる帯の上に、埃が舞っているのが見える。長年封印されていた窯が活性化し、狭い地下の空気を撹拌しているのだ。
調度など何もない広大なだけの一室に、二人の男がいた。一人は血溜まりに倒れ伏して身じろぎもしない。もう一人は、腹に傷を負いながらも自力でここから去ろうと歩みを進めていた。
自分と同じくクラヴィスの命を受け動いていたトモノリが敗れ去ったのだ。独断とは言え信念のために動いたトモノリを悼む心はあっても責める心をヴァルケンハインは持ち合わせていなかった。
おもむろにヴァルケンハインが歩み出す。魔道協会には似合わない手入れの行き届いた革靴が鏡面仕上の床を音もなく踏む。広間からかすかに流れる風が、背中で結った長い髪を徒に揺らす。周囲に干渉せず同時に周囲からの干渉も退けて動く巨躯の男が、逃げる男の退路を塞ぐべく静かに立ちはだかった。
「なっ……」
俯いていた男がそれに気付き顔を上げる。
長身ではあるがヴァルケンハインよりも背が低く、何より細い肉付きの悪い体格をした男だった。日に焼けない肌と緑の髪から覗く切れ長の目だけを見れば、精悍な印象を受ける風貌ではあった。
しかし、驚きながらも陰湿な引きつり笑いを浮かべる口元が男の下品な本性を物語っていた。
「テメェ……ヴァルケンハイン」
気品のない薄い唇が忌々しげに吐き捨てる。左足を引いて臨戦の構えを見せるが、じっとりと肌に浮いた脂汗を見ればもはや戦える体ではないのは明らかだ。短いマントの下の白いシャツはトモノリが付けた傷から流れ続ける血で染まっている。
身構えるでなく、悠揚迫らぬ態度でヴァルケンハインは男を見下ろしていた。向かい合った男は訝しげにしながらもいつでも飛びかかれるようにと視線を鋭くする。
年の頃で言えば二十に届かぬだろう人の子の姿をとったそれに、三十をいくらか過ぎた人の姿をした人外が諭すような態度で口を開いた。
「貴様に用はない、早々に立ち去れテルミ」
名を呼ばれた男は、今度こそ驚愕に目を見開いて喉の奥から声を上げた。
「ハァ?」
ヴァルケンハインがこの男の心底驚いた顔を見たのは、これが初めてだった。
そもそもあまり深く付き合いがあるわけではないし、関わり合いたくない人種の男だ。トモノリが敵視する、ともすれば主のクラヴィス=アルカードに害を成しかねない男の内情を、ヴァルケンハインは多く知らない。
「なに?何か思ってたのと違うけどよォ、何かあったのジジィに?」
ユウキ=テルミに関する事物に最も詳しいのは我が主であろう。咄咄と口を開くテルミにヴァルケンハインが不快そうな顔をする。
「慎め。主を貶める言葉を口にすれば容赦はせんぞ」
首を傾げ下卑て笑うテルミがヴァルケンハインの構えに慌てて手を振って静止を掛ける。それでも鉤爪にした指を鳴らすヴァルケンハインに、血を撒きながら広間の方へ飛びすさった。
十分距離をおいてからテルミが怒鳴りつける。
「気になっただけだろがよ!あの吸血鬼が猫嗾けといて俺を見逃すなんてよぉ!オカシイだろ普通に!」
テルミを止めようとトモノリを派遣した主が、テルミを捨て置くようヴァルケンハインに命を下したのは事実だ。それを不可解に感じはしても、異論を挟むヴァルケンハインではない。主の思考の妨げとなるものは例え自分自身であったとしても排除し、命じられれば仇敵と背中合わせで戦うことも厭わない忠誠が何にも勝るヴァルケンハインの行動原理である。
「貴様が知る必要はない」
問いを切り捨ててヴァルケンハインが構えを解くと、ため息をついたテルミも緊張していた身体から力を抜いた。
傷が痛むのか顔をしかめ、一番出血が酷い腹部をまた手で押さえ始める。
いつまでもテルミになど構ってはいられないのだ。主の命を遂行するためにヴァルケンハインはここまで来たのだから。
「テメェも知らねぇんだろ、どうせ」
返事をしてやる必要もないと無視を決め込んで窯へと向かうヴァルケンハインの横を、外へと向かうテルミがふらふらと通り過ぎていく。
何が面白いのか、先ほどの事などなかったかのように喉を鳴らして笑みさえ浮かべている。
「面白ェことしやがるぜ、あの糞ジジィも」
「テルミ」
あ?と声を出して振り向いたテルミのむき出しの鼻っ柱に、筋肉が隆起した手首に支えられた白色の拳が至近距離から叩き込まれた。テルミの顔ほどもある手袋に覆われた手の突端たる拳頭が、打撃の対象物の骨格を粉砕し、その奥の脳を打ち揺らす。余力だけで壁際に跳ね飛ばされたテルミの身体が、床との接触で推進力を失いながらも何度かバウンドし、つるりとした床を回りながら横滑りして壁に当って止まった。
「言ったはずだ、愚弄すれば容赦はしないと」
返り血を浴びる前に拳を引いたために汚れ一つないバトラースーツを正し、ヴァルケンハインが冷たい視線をテルミに浴びせかけた。大の字でうつ伏せにのびたテルミの身体の下から、じわりと血溜まりが、主に顔の下のあたりから広がっていく。
不意を突かれ対処の仕様もなく一撃で沈められたテルミは沈黙したまま、指先をわずかに痙攣させている。
「……やりすぎたか」
困ったように拳を口元に当てたヴァルケンハインの金の目がさほど困ったように見えないのは、テルミの自業自得だからで、自分に非がないと確信しているからだ。
だが気絶したまま放置すると、テルミを見逃すという主の命に背く事になってしまう。どうすべきか。手負いに追い打ちを掛けた自覚もなく、ヴァルケンハインは思案しながらトモノリの遺骸の回収へと向かう。本来の命は、そして自分が急いでまでここに向かった意味は、テルミではなくトモノリに会うためなのだ。
目の前にしたトモノリは、美しかった白銀の毛並みの縞柄もわからぬほど血にまみれていた。だらりと下がった二股の尾も、血に濡れて萎んでしまっている。赤い外套も引き裂かれ孔が開き、その下がどうなっているのかを容易に想像させた。
跪いたヴァルケンハインが衣服に血が付くことも厭わず抱き上げた身体は軽く、ずっと握りしめていたのだろう右腕から刃がこぼれ落ちたことでさらに重みを失った。
「トモノリ」
もう言葉をかえさない猫は、この小さな体で信念を貫いたのだ。それが主の命に反しても正しいと信じて。
「貴公の最後は私がクラヴィス様に必ずお伝えしよう」
うっすらと開いたままだった全てを見た目を押さえて閉じさせ、片手で抱き上げられる矮躯を胸元に寄せる。床に落ちていた怖気を促すような冴え冴えとした刀身の刃もトモノリの下げていた急造らしい拵えの異なる鞘へと収めた。
よどみなく立ち上がったヴァルケンハインが、広間の入り口を見つめる。最下層まで昇降する魔道式のエレベーター脇に、テルミが未だ転がっていた。
トモノリを抱えて歩いても思ったほど服が汚れないことが心を暗くする。もう、流れ出る血が残っていないのだ。服越しでもまだ暖かさが残った身体が、どれほどに傷を負えばすべての血を失うのかと考え悲痛な面持ちになる。折れてしまった細い足をこれ以上痛めないようにと、トモノリを抱え直した。
ヴァルケンハインの歩幅をもってすれば、距離はごく短いものだった。転がったテルミは完全に落ちているのか、あるいは死んだのか静かなままだ。
「起きろテルミ」
屈みもせず足先を差し込んで顎を上げさせるが、首が横にそれてテルミの血まみれの額が靴の上に落ちる。
ヴァルケンハインの靴に唇が当たっても何も反応を示さない。ヴァルケンハインは嫌そうに足を払ってテルミの頭を床に落とした。
蹴っても良かったのだが、それで起きそうにもない。活を入れる術は熟知しているが、感情のままうっかり背骨をへし折ってしまいそうなのでやめた。
仕方なく、ヴァルケンハインはテルミの襟首を片手で掴んで引きずりながらエレベーターへと向かった。
意識は右手のトモノリにすべて向けられ、左手はゴミでも持っているように粗雑だった。
「面倒だな」
常のヴァルケンハインにはない荒いため息を付いて金属製の扉が開くのを待つ。テルミがいなければ転移で城へと帰れるというのに、わざわざ外まで出なければならないのは面倒でしかない。
最下層で停止していた昇降機の内部が点灯し、じきに三人の影を扉の中に飲み込んだ。
ほんの少しずれてしまったフェイズを見守るかのように、タカマガハラは沈黙を保っていた。