付け焼き刃の訓練でもただその動作をするためだけに極限まで効率化された物を受ければ、素人を実戦投入しても案外何とかなってしまうものらしい。
そんな感想を、背後から腎臓に致命的な一刺しを受けて崩れ落ちていく彼女の体を抱きとめながら僕は思った。
或いは十中八九失敗するだろう作戦の、ごくごく小さな成功を幸運によって手繰り寄せただけかもしれない。
殆どプログラムされたと形容しても良い程に染み付いた動作の結果として、支給されたナイフは刃をほぼ根元まで彼女の体に埋め込んだ後軽く捻りを加え引き抜かれたが、その後どうするかまで僕は教わって居なかった。
決定的瞬間からほんの少し遅れてやってきた恐怖や困惑が、反射として僕に彼女の恋人としての動作をさせる。
邪魔者として放り捨てられたナイフが床に落ちる硬質な音を意識の端に捉えながら、仰向けで僕に抱きとめられた彼女の顔を確認すると、そこには非道な裏切りへの絶望や、或いは理解不可能な現象に対する困惑ではなく、諦めにも似た表情が浮かんでいた。
「いやぁ、これはちょっと想定外だったなぁ。」
彼女らしからぬ薄っぺらな笑みを浮かべながらそう自嘲して、やれやれというように自らの腰に空いた穴を手で確認する。
「一体誰にこんなことをするよう命令されたんだい?」
その笑みを継続したまま、彼女は僕へ特に重要なことでは無さそうに質問したので、僕はそれに大国の諜報機関を示すアルファベット列を答えた。
「やれやれ、あそこにまで恨みを買ってるとは思ってなかった。」
その答への驚きを、軽く眉を上げる事で表現してみせた後誰にともなく彼女が呟く。
「私はただ、君と面白おかしく生きたかっただけなのに、どうしてこんなことをさせてるんだろうねぇ。」
その、人によっては些細とさえ言えるだろう動機が、現在世界を包む混乱を引き起こした。
先程彼女がした質問への答えだって、厳密に言えばもう間違いになっている。その組織を運営していた国家はもうこの地上に存在しないのだから。
僕の下腹部から太ももを伝って床へと広がる温かみとして彼女の命を感じながら、僕も僕で君と面白おかしく生きたかったと、どうしてこんな事になっているのかわからないと訴えた。
加害者は僕の筈なのに泣いているのは僕で、彼女は重そうに掌を僕の頬に添えてそれを慰める。
僕を安心させるためだろう。彼女は自分が行ってきた事を僕に打ち明け、それが現代社会に於いてどれほどの悪事なのか、それを既に手遅れとは言え終わらせてみせた僕の行動がどれほど英雄的なのかを、いつかの教室でしてくれたように僕へ説いた。
それから、そんな僕の記憶に触発されたようにいつかの思い出を語り始め、僕はそれに相槌を打ったり、また自分から思い出を話たりした。
彼女の命が全てその体から流れ出してしまうまで、僕たちはそうやってとりとめのない話をした。
「と、いう夢を見たんだよ。」
ごくごくありふれた休日の昼下がり、僕と冷渦は見るともなしにテレビのワイドショーを垂れ流しながら軽食を摘みつつお茶をしていて、意識はと言えば専らお互いの会話に向いていた。
「それは…なんと言えば良いのか…」
人が見た夢の話なんて、その相手のことがよっぽど好きでもない限り面白いとは思えないものだが、僕たちはその限られた条件にしっかりと当てはまっているので問題ない。尤も、それが話の面白さを底上げすることは無く、ましてやその後会話が続くかどうかなんて完全にサポートの対象外だったらしい。
「確かに私は間違いなくサイエンティストだけども、残念ながらその頭にマッドは付かないんだよ。」
しばしの間を開けて、冷渦はそう言葉を続けた。
「しかし、凡庸な青年が天才少女と関わることで世界の命運をその手に握る―なんて、まるで大昔に流行った十代向けのライトノベルだね。」
今まで全く気付いていなかったけど言われてみればその通りだったし、そう指摘されると自分が見たあの夢がなんだかとても恥ずかしいもののように思えてきた。
「こういうのを総称してなんと言うんだったか…セカイ系?」
中高生の頃の肥大化した自意識がもたらす数々の忘れたい記憶があたかも走馬灯のように脳裏を駆け巡りかけ、年相応に落ち着いた自意識がそれを総動員して封印しにかかる。そろそろ許して欲しい。
「残念ながら世界に混乱をもたらす発見なんて私にはできないねぇ。」
僕の膝の上に一回り小さい体躯を収めた冷渦が、わざとらしく顔の横で掌を天井へ向けつつ首を振ってみせる。
態々確認するまでもなく今彼女は獲物を飼い主に見せびらかす猫のようなやり遂げた表情を浮かべているに違いない。
ともすれば苛立ちさえ覚えかねない表情だが、彼女の容姿は恋慕によって曇りに曇った僕の目がもたらす補正効果を十分に差っ引いてなお整っているのでこれがまた様になるのだ。
少女と呼ばれる年齢を脱却して、女性と形容されて然るべき年齢に差し掛かった冷渦は時折こういった、自分の容姿を十全に理解した上でそれを武器として用いるたぐいの一撃を決めにくるようになった。後生だからそれを決める相手は僕だけにして欲しい。
当然の成り行きとしてフェイタルKOされた僕はと言えば、彼女がした一連の発言に一切の異議を挟めず、ただうつむくことしか出来ない。冷渦が使っているシャンプーのいい匂いがする。
「しかしその内容だと、キミは僕に対して何らかのストレスを持ってることになっちゃうねぇ、このTV曰く。」
そうだ、ワイドショーが何を思ったか夢診断なんて物を取り上げたせいでこんな話になったんだった。
「違うね、あの夢はもうそろ30になろうと言う僕の自意識が今なお思春期の如く肥大化しているという暗示だ。」
怪しくなった会話の雲行きを僕の脊髄が反射的に口から有る事無い事吐き出すことでうやむやにしかかる。
「ほほう、と言うことは思春期のキミにはそういう傾向が有ったということだし、その分だとなにやら封印したいエピソードも幾つか有るね?」
都合よく新しい流れに冷渦が乗っかってきてくれたお陰で、僕は考えたくもないことを考えなくて良くなった代償に自ら先程施した封印を解かねばならないらしい。まぁ冷渦が楽しそうなので些末な問題だ。
「勿論ある。ちょっとまってて、多分実家から持ち出してきた荷物の中に色々入ってるはず。」
封印と忘却の彼方にあった荷物が、無差別に押し入れから持ち出された荷物の一員として当然のように鎮座ましましていたときの絶望感は向こう数年語り継げる。
しかしまぁ世の中何が役に立つかわからないとはよく言うが、あんなものにまで利用価値が有るとは思いもよらなかった。
この後僕は、延々自らの屍を積み重ねることで無限に彼女の笑いを引き出すことが出来るという人生最大のライフハックを得るが、それはまた別の話になる。