白紙のルーズリーフを袋から出した後、当然の様に袋をバックの上に放る。
放ったときの向きが悪かった。口が下を向いた状態でバックに乗り、そのまま袋からルーズリーフの束が滑り出る。
そのまま机の上に乗ってくれればいいものを、ルーズリーフの束は机の端からダイブして、空中にばら撒かれる。
「あー・・・。」
そんな光景を一切止めようともせず、僕は間抜けな声をあげながら見送った。
「一体何がしたいんだい、君は。」
その様子を僕の目の前で見ていた冷渦さんが、呆れたように呟く。
「ああいや、疲れてて追いかける気力が無いんですよ。」
「別に私は君が止めたいならいつ止めても良いのだが?」
思わず漏れた本音に、冷渦さんが恐ろしい言葉を言う。
「いえ、続けてくださいお願いします。」
「先ず拾え。」
促されるままに椅子から立ち上がって、足元に散らばったルーズリーフを回収する。
束にして、駄目元で袋に入れてみようとしたところ、結構あっさり入った。
そんな僕らは今、大学の演習室に居る。
講義用の教室とは別に、大学が自習用に用意した小部屋で、数人でミーティングが出来るような広さと、長机が置いてある。
部屋自体はその長机に合わせる様に長方形で、部屋の面積の実に8割方をその長机が占領している所為で、酷く狭い印象を受ける。
そんな部屋の、机の上には大量の参考書と、僕が書き散らしたルーズリーフ。そして僕の対面には冷渦さんが居る。
因みに大学はそろそろ試験で、もしかしなくても僕は冷渦さんに試験の面倒を見てもらっている。
「さて、続きだ。」
ルーズリーフを集め終わった僕がテーブルに着くと、少し嬉しそうな声で冷渦さんが宣言する。
どうも彼女は人に何かを教えるのが好きな性質のようだ。
但し、その教え方は決して上手くない。
そもそも彼女は秀才と言うより天才だ。だから勉強と言うのは、参考書を読むことであって、練習問題と解いたりして、反復練習する必要はそもそもない。
第一、大抵の書物に書いてある事は一度読めば概ね理解できると言うのだから、その才能は本物なのだろう。
僕らが解らないといって角つき合わせて相談している間に、彼女はその単元の学習を終えて、次の単元に1人で進むのだ。そりゃ飛び級できるわけだ。
つまり、彼女は勉強で苦労した事がなく、だから僕みたいな凡人が何故理解できないのかが理解できない。
彼女にとって公式や、定理は丸々無理矢理に覚えるものではなく、理解の末に導き出されるものだから、『覚え方』とでも言うべきものを知らない。
乱暴に言うと勉強の仕方を知らないのだ。
「で、ここの何が解らないんだ?」
先程一杯になったルーズリーフと、参考書を見比べて冷渦さんが首を傾げる。
今やっている教科は解析学で、彼女の専門分野の土台だ。
微積が出来なきゃ量子力学は語れない。
「そもそもこの微分ってのが何してるか解らないです・・・」
「そこからか・・・って言うか前に説明しなかったか?」
理解できなかったとは言えない。
「全く・・・良いか、微分というのはだな――」
冷渦さんのハイレベル解説が始まる。
間隔としてはwikipediaを読んでいる時に近い。いかに簡単な計算であっても、その基礎理論や、厳密な処理及び定理にまで言及すれば、それが曲がりなりにも学問の1分野である以上、それなりの難解さを誇るわけだ。
高校数学では、その辺をある程度掻い摘んで、いわば結果や美味しいところだけを教えてくれていた訳だが、彼女はそんな手順など踏まずとも理解できたから、それを他人でも出来ると思ってしまう。
必死で付いて行こうと頭をフル回転させている人を置き去りにして理論を展開して行く様は、少し孤独だ。
「でだ、導関数を計算するためには、関数の極限を求めればいい。従って――」
彼女の説明は続き、ルーズリーフが物凄い勢いで埋まって行く。
最早僕は理解する事を放棄していた。
明日の試験は持ち込み可だから、このルーズリーフを持ち込んでゆこう。僕がとったノートなんかよりよっぽど役立つだろう。
「まぁ以上が微分だな。最後に初等関数の微分公式を書いておいてあげよう。」
そう付け足して、ルーズリーフの余白に見慣れた公式が書き込まれていく。
ホント、この紙1枚で明日のテスト乗り切れそうだ・・・
「えっと、この紙貰っていい?」
「勿論。家でも復習するといい。明日のテストは持ち込みできるからこれ一枚で乗り切ろうとか考えているのなら、止めた方がいいと言っておこうかな。少なくともこの内容は理解しておいた方が良いよ、熊井教授だろう?担当。」
そんな事話しただろうか。
とは言え合っているので頷いた。
「あの教授は重箱の隅を突くような問題を出す事で、教授間でも結構有名なんだ。気をつけた方が良い。」
ありがたい忠告だ。が家に帰った自分が勉強をするビジョンが見えない。
何となく明日の試験であたふたする僕が見えた気がしたけど、気の所為だと信じよう。
会話が途切れたタイミングで、彼女がポケットからスマートフォンを取り出して、時刻を確認する。
それにならって時間を確かめて、驚いた。午後6時を過ぎている。
「そろそろ帰りましょうか?」
「そうだな。」
僕が授業の跡に冷渦さんに助けを求めたのは確か3時過ぎだった記憶があるから、実に3時間以上ここにいた計算になるわけだ。
そういえばお腹が空いている。時間を意識するといきなりお腹がすくのはきっと僕だけじゃないはず。
「そういえば、お腹空いてませんか?」
帰り支度をしている冷渦さんに問いかける。
「ん、そうだな。」
まぁ晩御飯には少し早いのだけど、お店に移動している間に丁度良い時間になるだろうと思い、誘ってみる事にした。
「一緒に食べませんか?奢りますよ、今回とテストで勉強を見てもらったお礼に。」
テストは明日で最終日。長かった戦いもこれで終ると思うと、感慨も一入だ。
「そうか、悪いね。」
少し笑みながら、僕の申し出を快諾する。
その瞬間に高鳴る鼓動と、はしゃぎ出す心。我ながら現金なものだ。
「で、何処の店に行くんだい?」
「候補は駅前のファミレスか、ファストフードかってとこですね。」
我ながら貧相な提案だ。とは言えそんなに洒落た店のストックは無い。
「ハンバーガーと言う気分では無いから、ファミレスで。」
「解りました。」
その答えに頷いて、部屋を出る。
学校のバス乗り場から、バスに乗って駅まで。道中特に会話は無いが、それは何時もの事で、数時間話した後で大抵訪れるこの沈黙は、お互いが頭の整理に使う時間であり、また次の会話の取っ掛かりを見つける為の時間でもある。
まぁそんなに都合よく会話の取っ掛かりが見つかることもなく、そのまま30分近くの間ほぼ無言でバスに揺られ、駅へ到着。そこから僕が普段友人と行くファミレスへと冷渦さんを連れて行く。
「所で晴喜君。」
いきなり名前を呼ばれて面食らう。普段僕の名前を呼ぶことなんて無いのに。
「どうかしました、冷渦さん?」
「いや、漸く思い出したんだが。」
聊か深刻そうな口調で話し始める。ひょっとして僕は何かを忘れているのだろうか。
「そろそろ私と君が知り合って1年になるんだ。」
言われて記憶の糸を手繰る。
確かに、冷渦さんが僕に始めて声を掛けたのは去年の夏だったから、そろそろ1年になる。
思い出してみれば、僕があの日図書館を利用する為に大学を訪れなければ冷渦さんとこういった関係になる事も無かったのかもしれない。
「で、君はいつまで私に敬語で接する心算なんだい?」
言われてみれば、確かに。
そもそもは僕がとっていた授業で教授の補佐をする為に来ていたのが冷渦さんで、僕は当然の様に大学院生だと思っていたから年上だと考えていて、敬語で接する事は当然だった。
本来なら彼女のような有名人の事を知らない人間が居る訳ないのだが、僕は学校で殆ど友達と呼べる人間が居なかったことと、僕自身が殆ど編入に近い形でこの学校に入学した所為で、彼女が飛び級制度を使った年下の院生であると見抜けなかった。
まぁ幼い容姿の上級生だなとは思ったけども。
とにかくその感覚が強すぎて、僕は彼女とタメ口で話すことに強い違和感を覚える。
「大体名前もさん付けだし。いつか慣れるだろうと思って放置しておいたが、そろそろ寂しいぞ?」
思わず口元を手で押さえて、呻く様なポーズをしてしまう。
不意打ち効果と相まって『こうかはばつぐん』なのは僕だけだろうか?
「いや、すいません。」
「ほら、まただ。」
う・・・。
「いやでも急に変えろと言われましても、ね?」
思わず言い訳じみた言葉を口にしてしまった。
「いいかい、私は17歳だ。忘れているかもしれないが、年下なんだよ。」
ごもっともでございます。
ただそれとこれとは話が別といいますか、何と言うか。
「兎も角、これからいくファミレスでは敬語とさん付け禁止だ。」
そう言いながら微笑んだ冷渦さんに、僕はこれ以上反発する事は出来なかった。
「ぜ、善処します。」
「ふふ、そうし給えよ。」
僕は一体何回、この後注意されるのかが心配でならないが、楽しそうに「今後はこうやって慣らしていこうか。」なんて呟いている冷渦さんを見ていると、まぁそれでも良いかと言う気分になってきて。
とりあえず、意識することから始めようと思った。