「冗談でしょう……?」
信じられないといった様子で口を開いたのは、折紙の上司でありASTの隊長を務める女性、日下部燎子一尉だった。
折紙達は、空間震を起こさずに現れた〈プリンセス〉を発見し、討伐することを決定。
霊装を纏っていない隙を突き、折紙が対精霊ライフル〈
そして、折紙の放った弾丸は間違いなく精霊の胸を貫いた。
即死とまではいかずとも、大きなダメージを与えられるはずだったのだ。
「なんなのよ、この馬鹿げた霊力は!」
風穴を開ける一撃が、精霊の本気を引き出してしまったのか。
立ち上がった〈プリンセス〉は、周囲一帯に暴風を巻き起こし始めた。ASTの隊員達による銃撃が行われているが、それらは霊装に届きすらしていない。
「………」
随意領域により強化された視力で、折紙は冷静に敵の様子を観察する。
ライフル弾に貫かれたはずの穴は、すでに跡形もなく消え去っていた。驚くべき治癒力と言わざるをえない。
現在の〈プリンセス〉が狙う対象は……不明。彼女の虚ろな目は、焦点が定まっていないように見える。
特に狙いを定めることもなく、ここにいる全員を始末するつもりなのか。
「……あ」
と、そこで折紙の口から小さく息が漏れた。
理由は、視界の端で青年が動く姿を捉えたため。
先ほどまで〈プリンセス〉の近くにいた彼――五河士道は、風に吹き飛ばされて地面に倒れたままだった。しかし今、彼はゆっくりとその身を起こし、立ち上がろうとしている。
「よかった」
意識があって動けるのなら、最悪の可能性は考えなくて済む。折紙にとって、士道は特別な人間であり、決して失いたくない存在なのだ。
……〈プリンセス〉の注意はどこにも向かっていない。誰がどう動いても、意に介さずその場に留まり続けている。
ならば、ここで折紙が士道を確保するために移動しても狙われる可能性は低いはずだ。
下手に標的にされて彼に危険が及ぶのを危惧していた折紙だが、これで動かない理由はなくなった。
「五河先生……」
彼をこの状況に巻き込んでしまったのは、〈プリンセス〉に不用意な一撃を与えた折紙自身の責任だ。
自分の失敗の尻拭いは自分でしなければならないと強く思い、彼女は暴風の中を飛ぼうと腰を上げた。
しかし。
「………っ」
その光景に、思わず息をのんだ。
立ち上がった士道が、あろうことか暴風の中心源――〈プリンセス〉に向かって歩き出したのだ。
「何やってるのよ、彼は」
驚愕を顔に表す燎子。折紙もまったく同意見だった。
……あまりに、危険すぎる。
「ちょっと、折紙!?」
一瞬の硬直の後、折紙は真っ直ぐ士道のもとへ飛び立った。
*
「ぐっ……!」
意識が戻った瞬間、士道は自分の体が仰向けになっていることに気づいた。
風に飛ばされて地面に叩きつけられた衝撃で、気を失ってしまっていたらしい。
「そうだ、十香……うっ!」
起き上がろうとするが、支えにしようとした右腕に力が入らない。骨折かどうかはわからないが、怪我をしていることには違いなかった。
仕方がないので左腕だけで上半身を起こそうと考えた、その時だった。
「あ……」
右腕に小さな炎が燃え上がったかと思うと、さっきまで感じていた痛みがきれいさっぱり消えたのである。
まるで、その炎が体の傷を癒したかのように。
「話で聞くのと実際に体験するのとじゃ、結構違うよな」
琴里が士道を精霊との交渉役に選んだ理由。そのうちのひとつが、この治癒力だと聞いている。彼女によれば、たとえ腹に大穴が開いても余裕で復元できるとのこと。
「そこまでいくと、まるでゾンビだな」
自分の体が異常なことにはいまだに抵抗があるものの、それを気にしている場合ではない。
体を起こすと、10メートルほど先に十香が立っているのが見えた。相変わらず風が吹き荒れており、士道のいる場所ですら結構な強さだ。
「十香……」
彼女が撃たれたところまでは把握している。あの後、いったい何が起こったのか。
士道が必死に頭を働かせていると、ズボンの右ポケットに入っている携帯電話が震え始めた。
表示されている名前は、五河琴里。
「もしもし」
『意識が戻ったようね。傷は治ってる?』
回線越しに聞こえる妹の声は、若干の焦燥をはらんでいるように感じられた。
「多分な。それより、今どういう状況なのか説明してくれ」
『胸を撃たれた十香は、生存本能が働いたのか霊力が暴走。傷はもう塞がってるみたいだけど、あの暴風は収まる気配がないわね。多分彼女、意識飛んでるわ』
「このままだとどうなるんだ」
『霊力の勢いはどんどん増してる。放っておけば、どんどん被害の範囲が拡大して……最悪、住宅街まで及びかねない』
住宅街まで被害が及ぶ。
それはつまり、一般人まで巻き込んでしまうということに他ならない。
『とにかく、一度〈フラクシナス〉に戻って来なさい。作戦を立て直さないと』
「……いや、少し待ってくれ」
『はあ?』
「俺なら、十香の霊力を封印できるんだよな」
『ええ、それはそうだけど……でも、碌に近づけない今の状況じゃ』
「試してみないとわからないだろ。その間に、そっちは代替案を考えといてほしい」
『ちょっと、待ちなさい士道! 試すったって――』
通話を切り、携帯をポケットに入れて立ち上がる。
琴里の言いたいことはわかる。今しがたあっけなく暴風に吹き飛ばされた士道が、一度試したところで十香のもとまでたどり着けるわけがない。下手に体を傷つけるだけだ、と。
「ふー」
深呼吸をして、体に力を入れる準備をする。
たとえ限りなく無駄に終わる確率の高い行為だとしても、やらずに諦めることは士道の思考が許さなかった。
時間が経てば経つほど、何も知らない一般人に危害が加わる可能性が増してくる。彼らに怪我をさせるわけにはいかないし、後で十香が正気に戻った時、自分が街や人々を傷つけたと知ればきっと悲しむだろう。自責の念に駆られ、再び心を閉ざしてしまうかもしれない。
士道にとって、それは絶対に許容できないことだった。
「よし!」
だから、前に進む。
自身を鼓舞する意図もこめて、大声で叫ぶ。
「待ってろよ、十香……!」
一歩足を前に出すごとに、加速度的に風が強まっていく。風圧に負けないよう、しっかり地面を踏みしめる。
左足を出す。踏ん張る。右足を出す。また踏ん張る。
「くっ……」
3メートル進んだあたりから、一気に風の勢いが増したように感じられた。
時々、刃物のような鋭さを持った空気の塊が飛んできて、容赦なく士道の肌や肉を切り裂く。その都度、傷を塞ぐように炎が燃え上がった。
当然痛みは感じるが、すぐに癒えるため強引に歩き続けることができている。
……だが、いくら回復力が高くとも、もともとの体の頑丈さは一般男性と変わりない。足を進めるうちに、どうしても風に逆らう力が足りなくなってくる。
「がっ……!」
なんとか左足を前に出そうとしたその時、軸となっていた右脚に空気の刃が突き刺さった。
踏ん張るための力が伝わらなくなり、あっさりと士道の体は宙に浮かんでしまう。
まずい、と思うもすでに遅い。先ほどと同じように、いとも簡単に後方に吹き飛ばされ――
「………?」
体を襲った衝撃は、想像以上に小さかった。一瞬困惑した士道だが、後ろを振り向いて事情を理解する。
「と、鳶一?」
「大丈夫?」
吹き飛ぶ士道を空中で受け止めてくれたのは、CR-ユニットと呼ばれる装備を身に纏った折紙だった。
「ここは危険。安全な場所まで連れて行く」
「ま、待ってくれ。俺はまだ、やらなきゃいけないことがあるんだ」
飛び立とうとしていた折紙の瞳が、再び士道を捉える。いつもの通り無表情だったが、若干顔の筋肉が硬くなっているようにも見えた。
「それは、なに」
「あいつのところに、行かなくちゃならない。今の状況を打開するために」
「危険すぎる。到底了承はできない」
「わかってる。けど、それでも俺は諦めたくない」
自身の感情をぶつけるように、真っ直ぐ折紙を見据える士道。
「鳶一。お前は、今のあいつのそばまで近づくことができるか」
「……近づくだけなら難しくはない。その状態でまともに戦闘ができるかと問われれば、おそらく不可能」
「そうか。なら十分だ」
士道が精霊との対話に踏み切ったのは、折紙を危険な目に遭わせたくないと思ったからだった。まだ少女の年齢である彼女に、命のやり取りなんてしてほしくなかったのだ。
だが、今は彼女の力が必要だ。精霊を倒すためではなく、守るために。
己の力が足りないがために、教え子に頼らざるを得ないことを悔やみながらも、士道はしっかりとした口調で折紙に語りかけた。
「俺を、あいつの……十香のところまで連れて行ってほしい。お願いだ」
「先ほども言った通り、危険すぎる。あなたの体がもたない」
「それについては心配いらないさ。ほら、俺の右脚見てみろ」
言われた通りに視線を移した折紙は、士道の右脚に燻る炎を見た。
裂かれた傷は塞がり、何事もなかったかのように元に戻る。
「……これは」
揺れる瞳で士道の顔をうかがう折紙。
あなたは何者? 何を知っているの? そんな風に尋ねているように感じられた。
「俺は行かなきゃならない。俺のためにも、あいつのためにも、そして鳶一のためにも」
「………」
黙り込む彼女を見て、やはり一から事情を説明しなければ納得してもらえないかと考える士道。抽象的な言葉だけでは――
「わかった」
「えっ」
「私が断れば、あなたは単独で精霊のもとへ向かうはず。それなら、私がついていた方がまだいいと判断した」
淡々と話す折紙。だが、彼女が士道の頼みを聞き入れてくれたことには違いない。
「ただし、後で話は聞かせてもらう」
「……ああ、ありがとうな」
「わかっているなら、それでかまわない」
小さくうなずき、折紙は士道を抱きかかえる腕に力をこめる。
心強い仲間を手に入れ、士道は再び荒れ狂う風の中へ身を投じた。
「くっ……きっつー」
先ほどよりも風圧が増している。琴里の言っていた通り、放出される霊力の勢いが激しくなっているのだろう。
軽い言葉遣いで誤魔化そうとしても、やはり体のあちこちを襲う痛みからは逃れられない。
「あと5メートルほど」
十香に近づくにつれ風も強くなる。しかし、折紙は一定の速度を保ったまま飛び続けた。
ゆっくりとではあるが、確実に中心までの距離は詰まってきている。
「残り3メートル」
一段と勢いをつけた暴風が、容赦なく襲いかかる。士道の服はいつの間にか血まみれになっていたが、気にすることではない。
折紙も覚悟を決めたのか、士道がどれだけ傷を負っても止まることはなかった。
「………!」
そして、ついに十香に手が届く位置までやってきた。
「十香!」
喉の奥から声を絞り出し、少女の名前を呼ぶ。
同時に、士道の両手は彼女の肩をがっちりつかんでいた。
「……シ、ドー?」
虚空を見つめていた瞳に、光が灯る。
「ああそうだ、士道だ!」
風は止まないが、十香の視線は確かに士道に向けられている。
まだ間に合う。後はただ、童話にあるようなおまじないをやればいいだけだ。
「ファーストキスの相手が、こんなおっさんでごめんな」
迷いなく、自らの唇と彼女の唇を重ねあう。柔らかい、とろけるような感触が伝わってきた。状況が状況だけに、ゆっくり味わうなんて余裕は当然ない。
「ああ……」
十香の唇を通して、体中に温かい何かが流れこんでくるのを士道は感じる。それと同時に、彼女が纏っていた霊装が粒子となって消え去った。
その際発生した光に面食らったのか、それとも風の勢いに負けたのか。折紙の手が、士道から離れてしまう。
「シドー……」
一糸纏わぬ姿になった十香は、ぼーっとした様子で士道の名を呼んだ。どうやら、まだ意識がはっきりとしていないらしい。
だが、彼女を取り巻いていた暴風は、次第に弱まり消滅していった。
「うまくいった、のか」
安堵を覚えた途端、士道の体から一気に力が抜ける。緊張の糸が切れてしまったらしい。
そして、彼がつかんでいる十香の体にも、さして力は入っていなかったようで。
「おわっ」
2人一緒に地面に倒れこんでしまう。全裸の少女(巨乳)と絡み合う形になってしまい、士道は邪な感情を振り払うのに一生懸命だった。
そうこうしているうちに、彼は妙な浮遊感を覚える。これは、〈フラクシナス〉の空間転移装置を使う時のものだ。
転移する直前に士道が見たのは、十香と抱き合う彼を無表情で眺める折紙の姿だった。
折紙さんとの初めての共同作業により、無事十香の霊力を封印することに成功しました。
次で「十香デッドエンド編」は最終回です。あんまり原作と展開を変えられませんでしたが、次章からはもっといじる予定です。
次回もよろしくお願いします。