「あー、医者の不養生っていいますが、自分からダウンしにいくスタンスは免許はく奪されるかねぇ……」
イニシエーターの少女に手術を施した次の日の昼。
いつもの地震で倒壊しそうなボロ医院のカウンターで、葛永はのんびりとカップラーメンを一人寂しく
サイコロ肉、ネギ、ニンジンに化学調味料たっぷりのカップメン。
細い麺を口に運ぶたびにスパイスの利いたチープな味が舌で踊る。
適当に刻んだ生葱と、揚げニンニクも加えながら味を楽しむ。
「シャキシャキとカリカリが混ざり合って最高に良いねぇ。…………独り言が増えたのは良いことなのか悪いことなのか」
外は暖かな陽気が差しこんでいるが、室内ががらんとしてコンクリートの床は冷たく反射している。
匂いだけならラーメン屋だが火を入れた寸胴鍋などないし、そもそも食事をする場所ではない。
どうでもいいことを寂しく呟きながら食べ終わった容器を流しで洗い、ゴミ箱に放り込む。
手を洗いながら、葛永はふと自身の服を見た。
(いかん、服がほつれてるぞー。さすがに二年間も使っていると駄目になっちまうかぁ。……勤勉な都民の皆さまの視線が刺さりそうだけど、中央に向かうしかないですかねぇ。ちょうどいいタイミングですし)
体臭には気を使っているものの、長年着古した彼の服にはカレーやソース痕が点々と残った代物が多い。
そして自分がどういう目で見られるかも判っていた。休診日の看板を表に出す。
洗面台でコンタクトを付けて準備完了。
面倒だと思いながらも裏口の車庫へと向かう。
結局、着替えない辺りが葛永という人間を良く表していた。
東京近辺。
外周区と違い、街は小奇麗に整理され、ガストレアに襲来された一〇年前の悲劇を感じさせない平和な様子が見て取れた。
耳を済ませば携帯を片手に打ち合わせをしている会社員。ケラケラと笑い合いながらアクセサリーショップを覗いている女子高生。ゲームセンターでたむろする不良グループ。
駐車料金を取られたくないというみみっちさを発揮した葛永は、駅や高層ビル群がある場所から少し外れたところに車を置き買い物をする。
店員や都民のひそひそ声をスルーしながら真新しい服や衝動買いした食料を大量に手から提げていた。
かなり重そうだが、意外にもその歩みは軽い。
車に向かっている途中で葛永は裏路地を見つけた。
(おや、こんなところに。もしかして近道になるかな?)
事の始まりはそんな理由からだった。
特に意味はない。
ただたまには退屈な毎日にちょっとしたアクセントがあってもいい。どうせ家に帰っても暇なのだ。
葛永は急がば回れという言葉を脳のゴミ箱に捨てながら足先を裏路地へと向ける。
元々発展するがままに建設を続けてきた東京の裏路地は複雑だった。
裏路地は当然のごとく薄暗い。
足を踏み入れると、車の走る音、人々の話声が遠くなる。空気もひんやりとしていた。
ゴミ箱が倒れ、中身が散乱していたり、古いエロ本が無造作に開き、肌色成分の多い内容がページを支配していた。
前に進み、右に曲がり、左へ戻り、時たま後ろに戻る。
天然で人工の迷宮にうんざりしつつ、しかし幼少時の探険をしているかのようなワクワク感も覚えながら三〇分程歩く。
両サイドを灰色の壁に挟まれながら前方を見ると、光の柱が見えた。
迷宮の出口だ。
まったく違う場所に辿りついただろうなと内心苦笑いしながら出ると、予想通り、見覚えの無い道に出てしまう。
そのときどこかで甲高い声が聞こえた気がした。
(声? どこか切羽詰まったような……まさかガストレアとか? いやいや、そこは我らが民警のお歴々が駆除しているでしょうし、大丈夫ですかね)
携帯で地図検索すると車を置いた場所は声のした方向だった。
さすがにこれ以上回り道をしたくはない。
大きなビルの横を通り過ぎる。さすがに荷物を持っての長時間の行動は彼の筋肉にいささか負担を掛けていた。
ふぅ、と息を吐くと荷物を降ろす。
一息付いていて汗を拭うと葛永の視界に、大きな建物が目に入った。
「ん、大瀬コーポレーション社長宅……? 都内にあって屋敷があるとは豪勢な」
自分とは住む世界が違う人種。手でひさしを作りながら空を見上げる。
青く澄んだ空。どこか遠くを見るような目をしたあとで葛永は首を左右に振った。
(十分……生きているだけで十分……。都会の街は私にゃ無理。世は並べてことも無しっと)
脳裏を掠めたのは白い壁と薬品の匂い。
顕微鏡を嬉々として覗き込み、小さな微生物相手に研究研究、そのまた研究。どこかズレた正義感と使命感に取りつかれていた。
研究室へとこもりきり、第二の故郷と思えるほどの時を過ごした。
三徹など当たり前の生活。その成果の末に手に入れた奇跡。そして――――
「いかん、いかんね。昔のことを考えるのは」
何かを振り払うかのようにして歩きだす。その背中はどこか哀愁が漂っていた。
歩み始めた足はしかし、すぐ止まることとなる。
最初に覚えたのは違和感。
屋敷の通りは人が少ない。都会でもメインストリートから外れたら存外煩くない場所も何か所かある。
葛永が今歩いている場所も、金持ちたちが住む高級街の一角だった。
それはいい。
問題なのは視界の端に映る赤色。風が吹く。
彼にとっては嗅ぎ慣れた匂い。文字に表すなら血なまぐさい。
人型をした
それを脳が理解した瞬間、彼は硬直した。
昨日の今日――正確には一昨日の出来事だが、重要なのはそこではない。
(これは……ひょっとしなくてもヤバイです。かなーりヤバイ。徹夜明けで殺人ウィルス入り試験官を割りそうになったときくらいに……逃げない、と)
自身の予想が正しければ、この場にいることは非常に危険だ。
殺人犯が人間かガストレアか。どちらにしてもご対面などしたくない。今すぐにでも逃げだしたい。しかし自身が面倒臭がりの駄目人間だと理解していても、彼は同時にお人好しの側面もあった。
――命ヲ、大切二して……して、ください――
過去の声が彼に語りかける。
幼い、舌ったらずで少しイントネーションが狂っている……だけど意志の強さだけは感じさせる少女の声。いつも誰かを気に掛けていた。
人命救助を優先すべきか、自分の命を優先させるかと判断に迷っていると真横からの声で振り向かざるを得なかった。
「ん~? まだ生き残りがいましたか」
「パパ? どうする? 切る?」
「そうですねぇ~、お土産は用意しましたが、さて……」
「え、あ……え? 仮面にシルクハットに、イニシエーター…………ッ!?」
舞踏会の帰りかと問いたくなる赤い燕尾服にシルクハット。白い仮面が不気味さを増している。片手にはラッピングした箱を持っている。
三日月型に口を歪めた少女が隣にいる。だが注目すべきは別の所にあった。
赤い瞳――それはガストレア抑制因子を持つ呪われた子供の証。彼女たちは何かしらの動物因子と特性を持ち、人類の枠を超えた極めて高い身体能力を有する。
イニシエーターという単語が自然と出てきたのは、先日出会った民警たちのことがあったからだ。
民警なら大丈夫かもしれない――そう思った矢先に、好奇心旺盛な葛永の双眸は嫌な現実を直視してしまう。
それは武器。
少女が持つ二本の刀の切っ先からポタリ、ポタリと赤い滴がこぼれ落ち、赤黒い斑点がアスファルトをまだらに染める。
仮面の男の赤い服にも、赤では表現しえないドス黒い返り血が一部付着し、背後にはバラバラになった人らしき肉塊が転がっていた。
「ひ……ッ!?」
一歩、二歩と下がると葛永は尻もちを付いた。
異様。異質。彼らの全てが尋常とは程遠い。
刀を持つ少女は無垢な笑顔を浮かべいる。
普段ならこちらも自然と笑顔になってしまうほど、無邪気で純粋な表情なのに、背後の死体たちが逆に彼女の例えようのない内面の狂気を露わにさせていた。
仮面の男もまた同様。
弧を描いている仮面の口と両目は笑っていて不気味。そして服装に違わぬ紳士然とした様子が人を殺すことに何の
死体だけならまだいい。死体単体だけなら見習い時代に何度も見ている。
しかしそれは死体だけであって、リアル殺人鬼がセットで付いてきたことなど一度だってない。
そんなセットを送りつけられた日には、現在ガストレアの大攻勢によって小さくなってしまった日本地域のうち、東京エリアを統べる聖天使さまとやらに抗議の電話を掛けることも辞さない。
無論、それまで彼の命があればの話だが。
葛永は一縷の望みを託して聞いてみた。
「う、後ろの、死体は……」
「ああ、あれかね。我々の邪魔をしたから殺したまでだが?」
「あぁ……ぁ」
まるで日常会話をするかのように人殺しを肯定した。
絶望が更に深まるだけだった。
「ねえパパ。コイツ、あーあーうるさい。切っていい?」
「……そうだね。折角、面白い人間を見つけたのに、通報されたらつまらないか。小比奈、やりなさい」
「うん」
「……ぁ」
少女が刀を左右に広げる。それはカマキリが両手の鎌を広げているようにも見え、否が応にも自分の死を予期させた。
声ならぬ声を漏らした葛永に少女の鎌が襲いかかる。
死の恐怖からか葛永の視界が走馬灯のようにゆっくりになり、左右の刃が首筋目掛けて狭まっていく。
このまま座していれば首を跳ねられる。物言わぬ屍となる。
それを理解した瞬間、
「うあああああっ!?」
条件反射でのけぞった。
火事場の馬鹿力か、死にたくないという一心で回避しようと咄嗟に動く。
「アレ? 外れた? ちょこまか動かないで」
奇跡的にも切っ先は、彼の目の前を掠めていくに留まった。
しかし小比奈と呼ばれた少女はどうして避けられたか判らず、小首を傾げた。
後ろからその様子を観察していた仮面の男の目が細められる。
手を上げて少女を制した。
「待ちなさい小比奈」
「パパ? どうしたの」
「ちょっと気になる事が出来てね。僕がやる」
「えぇ~パパ良いって言った!」
「聞きわけなさい小比奈。屋敷の中で十分動いただろう?」
「ぶぅー、パパおーぼー」
おもちゃを取り上げられた子供のように不満の声を漏らすも、小比奈は仮面の男の言葉に素直に従った。
仮面の男は少女に箱を手渡すと、靴音を鳴らしながら歩いてくる。
対峙する相手が変わったが、葛永にとってはまったく嬉しくない。それもそのはず、自身の命を狙う狩人が少女から大人の男性に代わっただけに過ぎない。雀の涙ほども好転していないのだ。
葛永は人生でも一、二を争うほど心臓の鼓動が激しく鳴っていた。学生時代に学校行事でやらされたマラソン大会でもこれほどの心臓を酷使したことはないと断言できるほど。
二人が会話している隙になんとか立ち上がるも逃げだせない。
無様に命乞いをしても、最初から問答無用で襲いかかってきた彼らが願いを聞き届けれくれるとも思えない。
それくらいは理解できる程度に葛永の頭は回っていた。
(はは……はぁ。医療現場の殺伐とした空気に一時とはいえ親しんでいたせいか、土壇場で冷静になれる自分の頭が恨めしい……。いっそのこと豚みたいに無様に鳴き叫びながら思考停止した方が楽だったんですかねぇ……)
腐っても医師免許を貰える程度には勉学をしてきた葛永。その頭脳か、それとも経験故か頭だけは冷静になる――なってしまった。
葛永は地面にこすれて少し穴の空いた白衣の懐に手を入れる。
(一応、逃げる手立てはあるんですよねぇ……しかし彼らが自分を逃がしてくれるとは思えませんし……)
どうすべきか?
だが事態は彼の結論を待ってはくれない。
仮面の男が手首を軽く回すと、
「恨みはありませんが――君に耐えられますか、なッッッ!」
「――ぃ!?」
白手袋の拳が葛永に襲いかかる。
葛永は反射的に両手を交差して顔面をガードするが、相手はそのままの勢いで殴り、地面に叩きつける。
「か……はぁ……ッ!」
あまりの衝撃に肺の中の空気が強制的に吐き出される。
葛永を中心にしてアルファルトに蜘蛛の巣状のヒビが広がり、数cm陥没する。
だが仮面の男は別の感想を抱いていた。
(硬い! まるで巨大なバラニウムの塊を殴りつけたかのようだ! だが彼は壊れてはいない。しかも私の拳を防いだときの感触――まさしく筋肉ッ! そして骨! 決して金属などではない。彼は生身のままで私の一撃を防いだのだ! ハハ、ハハハハハ、面白いねぇ~~~)
仮面の男の内心はともかく、葛永は急いで立ち上がる。その様子に相手はさらに笑い始める。
「ハハハハハ! 素晴らしい、実に素晴らしいぃぃぃ! 人間離れした頑強さ、立ち直りの早さ。これほどまで私は幸福であっただろうか!」
「はぁッ……はぁッ……」
「面白い、やはり人生とは出会いと別れの連続にある。そうは思わないかね、人の皮を被った異質な者よ!」
「うぁ……ぁぁぁあああ!」
さすがに頭に血が昇ってしまったのか、葛永はやぶれかぶれに拳を振るう。しかし戦いなどド素人の彼の拳は直線的で街のチンピラですら避けれそうなほど素直だった。
だが仮面の男は避けない。先ほどの葛永と同様に両手を交差する。
葛永の地面が僅かに陥没した瞬間、彼は仮面の男の目前へと肉薄していた。
「――疾い!」
「らぁぁぁぁぁ!」
腰など碌に入っていない正真正銘の素人の拳。しかし技術を軽く凌駕する剛の一撃は仮面の男をのけぞらせることに成功した。
地面と皮靴が激しくこすれ、仮面の男は数mほど後退する。
それをチャンスと見た葛永は懐から液体の入った試験官と小袋を取り出す。
割れないようにしていたゴムカバーを外しながら、試験官の中に小袋の中身をぶちまける。
「塩素酸カリウム、重炭酸ナトリウム、ラクトース、染料を化合」
「……?」
「これでさよならだ!」
大声で叫びながら葛永は試験官を地面に叩きつける。
ガシャンとガラスが割れる音と共に、白い煙が吹きだす。
「煙幕か!」
「もう命の危機に遭うのは勘弁ですってのー!」
仮面の男の声を聞かないまま、葛永は背を向けて遁走し始める。
彼の投げた煙幕は即席ものらしく、効果はあまりない。ハッキリいえば目くらましにもなっていなかった。
しかしその逃げ足は早く、すぐに路地裏へと消えていった。
「パパ、まだ間に合う。切ってくる!」
「止めなさい小比奈。楽しみは後にとっておくものだよ」
「……たのしみ?」
「そう、ふふふ……実に嬉しい誤算だ。いつかまた逢える気がするよ。彼とはね。それまでは、しばしの別れだ。さあ僕らも急ごう。パーティーが始まってしまうからね」
「うん、わかった!」
何がおかしいのか、仮面の男は不気味な笑いを残しつつ、彼らもまたその場を後にしたのだった。
「はぁはぁ、はぁ~~~っ……最近、自分の運のなさには呆れの感情しか湧きませんねぇ……ふぅ」
まだ夏には程遠い季節なのに葛永は汗びっしょりで荒く息を吐いていた。
遮二無二逃げだし、ときおり背後に怯えながら逃走を続け、気付いたらまた廃墟に倒れ込んでいた。
携帯で検索すると幸いなことに自分が車を置いた場所からそう遠くない場所にある。
体感時間では夕方になってそうなものだが、意外にも太陽はまだ高い。
せいぜい午後二、三時といったところだろう。
コンクリート製の柱に背中を預ける。ひんやりとした感触が熱くなった身体を冷やしていく。
やっとのことで心臓が落ちついてきたところ、
「――――ぃや!」
「お――ら! とっとと死ね!」
「ん……?」
何かを争う声が聞こえてきた。耳を澄まそうとした瞬間。
ドンドンドンドン!!
「ひぃッ」
突如響く銃声に葛永はしゃがみこむ。
傍目から見ると情けないの一言だが、無理もないだろう。
殺人鬼の恐怖からやっとのことで解放されたところでの銃声。怯えるなという方が難しかった。
「やっと動かなくなったかこの化け物め」
どこかから話し声が聞こえてくる。
声から察するに良い歳をした男性の声だった。
少なくとも先ほどの殺人鬼たちは明らかに違うことに安堵の息を吐く。とはいえ別の犯罪者の可能性はある。
(ど、どうしましょうか……。好奇心は猫を殺すといいますし、逃げればいいのでしょうが、しかし――)
銃声の直前、幼い子供の声が聞こえてきた。
怪我をしているなら助けた方が良いのではないか?
しかし銃声と話の内容を考えたらもう助からない。逃げた方が良いのではないか?
心の天使と悪魔がせめぎ合う。しかし、
(……罪もない子供が無為に死ぬのだけは……目覚めも悪いですし、ええ)
最終的には天使が打ち勝った。意を決して室内に足を踏み入れると、血まみれの少女。そしてそれを助け起こそうとしている――
「君は……里見少年?」
「おい、しっかり――ッ? アンタはこの前の医者か!? 丁度いい、助けてくれ! この子が死にそうなんだ!」
「あ、ああ……良し判った! 自分の車が近くにある。応急キッドがあるから応急処置をしたあと、医院に彼女を連れていこう!」
「はいっ」
「ああそうだ。長い頑丈そうな棒を二本と自分の白衣を使って即席タンカを作って――――」
葛永は先日出会った民警、里見蓮太郎の気迫に少し圧倒されつつも、急いで医院へと向かう。
――数時間後――
葛永医院の手術室から葛永が汗を拭きながら出てくる。
待合室で待っていた蓮太郎が詰め寄ってくる。
「あ、あの彼女の容体は!?」
「大丈夫。腐っても医者だからね。容体は安定したよ」
「そ、そうです、か。よかった……」
黒髪を掻きながら蓮太郎は心底安心したように深く息を吐いた。
葛永はそんな様子を見ながら、先ほど蓮太郎に伝えられた事実を反芻する。
(しかし警察の人間が犯人だなんてね……呪われた子供たちが酷い差別を受けていることは知っていたけど、法を護るべき人間が率先して法を犯してまで、というのは些か……)
手術を施した少女の衣服はボロボロで、その瞳は赤い――つまり呪われた子供たちの一人だった。
彼女は窃盗を働き、警察に捕まった。
そこまでは良い。
しかし蓮太郎の相棒、
そして廃墟に木霊する銃声。蓮太郎が彼女の側に駆け寄ったところで、葛永とはち合わせた。
葛永は溜め息を吐く。
どうしようもない。
眉をひそめながらも、しがない医者である自分になにができるというものではなかった。
ただ目の前の命が助かればいい。
首を振りながら、嘆息していると蓮太郎が話しかけてくる。
「それで治療費なんだが――」
「いやいいよ。お金のためにやってるわけでもないし」
「いやでも……」
「室内を見てくれよ、里見少年」
「室内……?」
蓮太郎が待ち合い室を見回す。
クモの巣が張った天井。枯れた観葉植物。カウンターの奥にはゴミやカルテが無造作に散乱し。床やガラス張りの玄関にはヒビが入っている。お世辞にも清潔感とは言えない真逆の環境だった。
「手術室とか重要なところは清掃しているけど、普通なら患者から石を投げられても言い訳できないレベルの汚さなんだ。お金を受け取ったら申し訳なさすぎるよ」
「でも、アンタにだって生活があるんだろう? それなら……」
「お兄さんに格好付けされてくれよ学生さん。それにちょっとした収入源はあるし…………両親の遺産も、まああるしね?」
「あ……」
その言葉に蓮太郎は黙る。
両親。遺産。
一番高い可能性は、一〇年前のガストレア戦争による被害者。
それでも尚、呪われた子供たちに対して嫌悪感を抱かない。
優しく微笑む葛永に、それ以上蓮太郎が治療費の話題を出すことはできなかった。
「恩に着る」
「いえいえ。ん……でも、そうだ。御礼をと言うなら一つだけ頼まれて欲しいかな?」
「ああ、大丈夫だ。俺にできることなら」
「ありがとう。実はね、君が言っていた仮面の男に出会ってしまったんだ」
「仮面の男!? それは刀を持った少女を連れていたか!?」
「あ、ああ」
「何処に居たんだ!?」
葛永の言葉に蓮太郎が予想以上の反応を見せる。その様子に驚きながらもコホンと咳払いを一つすると話続ける。
「大瀬コーポレーションの社長宅だ。いやー、死に物狂いで逃げてきたけど、正直生きた心地がしなかった」
直接やりあったことは言わなかった。
ズブの素人の自分が信じて貰えると思っていなかったし、葛永は自身の秘密にも関わることなので言えなかった。
蓮太郎を腕を組んで考え込む。
「大瀬……ああ、なるほど。俺たちのところに来る前か。それじゃあ奴は別の場所に……。でも頼まれて欲しいというのは? 護衛か?」
「いや、逃げたときに荷物やら手持ちの薬品やら落っことしちゃってさ。後で警察に事情聴取で呼ばれたら面倒事になるし、ね? 先ほどのこともあったし、警察署とか行きたくないんだよ。そこら辺をうまく誤魔化してくれないかと思って」
「警察、か。そうだな……ちょっとお偉いさんの伝手があるから頼んでみる。それでいいか?」
「うんうん。それでオッケー! あとは、と。彼女についてはどうするんだい? 友達か何かかな?」
手術を終えた少女は、痛み止めと鎮静剤を打って静かに眠っている。
目が覚めるのは今しばらく時間がいるだろう。
蓮太郎は首を振る。
「延樹の知り合いらしんだが、緊急の依頼が入ってて、しばらく会いに来れないんだ」
「そうか。そうだね……彼女が目を覚ましたら行先を聞いてみよう。彼女が家に帰っても、それなら大丈夫だと思う」
「……何から何まで済まない。ありがとう」
「どういたしまして」
礼儀正しく頭を下げる蓮太郎。御礼を言ってそのまま医院を去っていった。
シャッターを下ろして戸締りをする葛永。一通りの準備が終わったあと、葛永はそのまま寝室に向かい、ふとんに倒れ込んだ。
「あ~~~……死ぬかと思った……もうあんな目に遭いませんように……」
疲労困憊の葛永は睡魔の囁きを素直に受け入れた。
全身を包み込む、センベイ布団が心地良い。
怖い目に遭ったのにその日見た夢は、どこか優しく暖かい気持ちになるものだった――――