短編ですので数話で終わる予定です。
鮮やかな朱に染まる髪。可愛らしい白いリボンで長い髪をひとまとめ。刺繍入りの白いドレスは鮮血に染まっていた。
ポニーテイルの少女は泣いている。
幼い少女は泣いている。
泣いて鳴いて啼いて……だけど牙だけは男の首筋を捕らえて離さない。
男は想う――このまま死んでも良いと。
少女は願う――生き永らえて欲しいと。
――――奇跡は、起きた。正気を取り戻した少女は慌てて離れる。
泣きじゃくりながら、ゴメンナサイと謝り続ける。
男はこの後の死を覚悟した。
少女はこの後の終わりを覚悟した。
でも、訪れない。終焉は来ない。
その事実に男は歓喜し、少女を抱きしめる。
この日初めて心の底から神に感謝した。
それが絶望へと続くことも知らずに――――
ボロボロの机。薄汚いキッチン。
廊下にはゴミ箱に投げ損ねたティッシュや紙くずが並び、ぺったんこのセンベイ布団には無精ひげを生やした男が大の字で寝ている。
衛生環境という言葉を辞書で引くなら、彼の部屋は対極に位置する汚宅といってもいいだろう。
締め切ったカーテンから日差しが差し込み、茶色や黒いシミが付着した白衣の男が眩しそうに手をかざす。
安眠を妨害した太陽様を一睨み。
肺一杯に深呼吸をしたあと嘆息しようとしたが、
「ぶッ!? ゴはぁッ、ぐへぇッ!?」
埃が気道を刺激したのか盛大に咳き込む。
数回咳き込んだあと、やっとのことで治まった。
涙目で起き上がり、置時計を見る。
「いやー……はやー……これはイカンねぇ。随分寝てしまってたようで」
時刻は一〇〇〇。世間一般のサラリーマンなら大遅刻も良いところだ。下手すれば一発クビになりかねない。
だが男は慌てた様子もなく、ボリボリと自身の黒髪を掻く。白埃が被って若白髪が混じっているように見えるが、その奥には若者特有の艶があり、肌も乾燥しているだけ。二〇代前半に見えた。
男はそのまま幽鬼のように覚束ない足取りで部屋を出る。
ペタ……ペタ……。
コンクリートが剥き出しの冷たい床を歩くこと十数秒。
木製のドアを開けるとL字型のフロアへと出る。男の部屋に比べると存外小奇麗に片づけてあった。
ただ良く見ると枯れた観葉植物があったり、部屋の隅には埃が雪のように積もっている。天井には蜘蛛の巣も張っていた。
Lの字の掛けた部分は「うけつけ」と汚い文字で書かれており、男はカーテンが掛かったそれを横に引く。
中には小分けされた棚や紙の束が雑多に置かれていた。
そのまま通り過ぎると砂や埃が付き過ぎたガラス張りの入り口へと向かう。
そしてのんびりとした動作で表の看板を立て掛ける。
――
何が気に入ったのか、自分の名字であろう葛永の文字を満足そうに見ながら頷くと「腹が減った」と声を漏らし、そのまま中に戻っていったのだった。
地面はひび割れ、瓦礫がそこかしこに転がっていてスラム街そのもの。
見た目の中身もボロボロな建物。うだつの上がらない中間管理職のような雰囲気を醸し出す男が経営する小さな医院は、東京の外れで隠れるようにひっそりと佇んでいた。
西暦二〇三一年――――一〇年前に世界中で突如大発生した寄生生物『ガストレア』により、人類は巨大なモノリスに囲まれた『エリア』で肩を小さくしながら暮らしていた。
世界は元より、日本も東京や大阪など一部の地域を除き、大半は化け物が闊歩する魑魅魍魎もかくやという状況だった。
蜘蛛、蠅、蟻等々――中には形容しがたい東京ドームはあろう巨大生物すら存在する。
厄介なのは人に感染すること。そして感染した人間は時を於かずして新たなガストレアとなる。寄生生物とは言ったものだ。
だがそれでも人は生きている。
男が住む東京郊外はともかく、中心部は過去ガストレアの脅威に晒されなかった綺麗な町並みが広がっている。
「ふぁぁぁ~…………
ポカポカ陽気に誘われて睡魔が彼に眠れと誘う。
暢気に欠伸をしながら、受付でのんびりとうたた寝している白衣姿の男。
平和を思わせる暖かな日差しが東京の街に降り注いでいた――――
ジリリリリン! ジリリリリン!
狭い室内で耳を覆いたくなるほどの大音量が響く。
昔懐かし黒電話がさっさと取れと叫んでいた。
椅子を四脚並べた即席ベットにゴロンと横になっていた男は、寝たままの姿勢で手を彷徨わせる。
手に当たる硬い感触。電話ごと近くまで引き寄せながら、受話器を取った。
「ふぁい……葛永医院の、葛永ですがぁ…………へぇ、手術依頼? いやいやー、そういうのは大きなビョーインでおねげーします。ではまたのご来店を――」
安眠妨害をされた所為か彼の眉間にはシワが寄っていた。電話を切ろうとすると相手が大声で静止する。
会話の相手は必死な口調で何かを訴えかけていた。
「いえ、ですからね? ウチは内科医で外科医じゃないんすよぉ………………え、紹介? あー、前のお客さんがベラったんすか…………しゃーないっすねぇ。確かにウチではその“ヘラ”をやってますが」
“ヘラ”という言葉を強調しながら言う男。普通ならご飯を掬う以外にさして意味の無い言葉だが、明らかに別のニュアンスを込めていた。
「一つ聞きますが、やっこさんは……どのくらいで? 49? 確かにもうヤバイ域ですねぇ。でも貴方は本当に彼女を助けるおつもりで? ウチは修理屋じゃないんすよ、ええ。場末でチンケな医者ですが、キチンと医師免許だって持ってます。改めて、聞きますよ。…………“ソレ”は代えの利く部品じゃないんですか?」
電話口からは今にも泣きそうな男の声が届く。
その声は悲痛で、切実で、大切な家族や恋人を失う恐怖と戦っているような雰囲気を察せられた。
そしてある言葉に医者らしき男が反応する。
「家族で親友、ですか。………………判りました。お受けしましょう。本日の二〇〇〇にその患者だけで医院にいらしてください。……お金? いえウチでは民警のIP序列が四桁以上なら相応の額を要求しますが、そちらは六桁とか。なら誠意で十分です、ええ……ええ……あとから過剰請求も致しません。一円でも良いですよ? それが貴方方の“誠意”なら、ですが」
最後にヘラヘラと笑うと受話器を降ろした。
本日二回目の伸びをするとゴキゴキと音が鳴る。
頭を掻きながら立ち上がり、ポケットに手を突っ込む。
チクリと、鋭利で冷たい感触がした。左手を見ると掌に走る赤い線。
訝しげにポケットの中身を掴みあげるとメスが入っていた。
それを見て男は呟く。
「ああ……料理の材料がなかったねぇ。特売でもやってたらいいけど……おっとサングラスサングラス。眩しいのは嫌ですよっと」
手の傷はほっとけば治るだろうと放置し、何故か食材がないことを思い出す。
右ポケットからサングラスを取り出し、装着。無精ひげにサングラス、薄汚れた白衣というあまりにも胡散臭い装いだが男は特に気にした様子はなかった。
ただ、しかし。何気なくに顎を擦ると、病的なまでに白い手に付いていたのは数本の短い黒毛。それを大層嫌そうな目で見つめた後、息をかけて吹き飛ばす。
「いや、はや……」と呟くがその後の言葉はなかった。肩をすくめながら彼は適当な手提げかばんを片手に外出した。
青空の広がる東京。時刻は午後三時だった。
葛永の経営する医院は東京の郊外。必然的に買い物をするときには苦労することが多い。
医院の近辺はお店どころか人が住んでいるかも怪しい場所にあるのだ。
何故そんな場所に居を構えているのかは彼のみぞ知るところ。
そんな彼は紫外線を浴びていない――医者なのに患者と間違われそうなほど真っ白な肌をしているにも関わらず、意外なほどの健脚ぶりを見せていた。
かれこれ一時間近く歩いているのに流れる汗は少ない。
ようやく住宅街が広がる通りに出たところで正面から男がぶつかってきた。
半ば倒れるような動作をしていたので、両手で支える。
「おう? ちょいちょい、二日酔いっすかお兄さん。まだ日は高いですよ?」
「あ……うぁ……お、俺は…………どこに……」
声にならない呻き声を漏らすだけで、男は葛永に一瞥もせず去っていった。
何だったのか?
頭の湧いた人が多い季節だったかな、と思いながらふと手に液体が付着していたことに気づく。
赤。ドス黒い赤。
まさかと思い、端っこだけを舌先で舐めると広がるのは鉄の味。
暗がりであることと、相手を直視していなかったことで、よく見ていたなかったが明らかに尋常の事態じゃない。
ハンドティッシュを取り出し、急いで血を拭う。左手の傷を強く押し付けたせいで新たな血が出てきたが、それは仕方無いと割り切った。
「いつもなら華麗にスルーしたいけど…………ねぇ?」
空を見上げる。青い青い空がただ広がるだけ。その先に見えない誰かを幻視していた。
(ウチで対応できるモノかもしれんし……行ってみるかね)
地面を良く見ると、血痕が続いている。
小走りで男の後を追っていった。
だが彼にできることは既に無かった。
細い路地を通り抜けること数分。
途中で血痕が途切れた上に別れ道で袋小路に当たったりと四苦八苦しながら、広い通りを抜けるとそこには異形の化け物がいた。
それは蜘蛛。大きな蜘蛛。
タランチュラなんて生易しいものではない。乗用車のさらに一回り大きい。
(ガストレア!? やっぱりさっきの人は、感染者だったのか……)
ガストレアウィルスに感染し、遺伝子を書き換えられた生き物の成れの果て。鮮血よりも紅い瞳と醜悪な異貌。
ガストレアは種によって様々なタイプが存在する。
蜘蛛型ならさしずめ『モデル・スパイダー』というところだろう。
ギチギチと不揃いな歯を鳴らし、その牙は人間の拳をゆうに超える。周囲には糸らしき粘着質の液体が散らばっていた。
逃げなくては喰われてしまう。
気付くと葛永はへたり込んでいた。医師のくせに意思に反して腰が抜けてしまっていた。
持ち前のチンケな根性は何処までいっても変わらないことに、歯ぎしりしたくなる思いだった。
――せめて明日だったら――
『たら』『れば』で語っても仕方がないことだ。
だが、しかし。
一度目を瞑って人生の終わりに嘆いたところ何故か相手は何もしない。
チラと薄めを開けて見る。
よく見ると、大蜘蛛はこちらを向いていなかった。
路地裏から覗くと、黒い学生服を身に纏った人物。
他にコートを纏った警察風の男がいた。
黒い学生服の男が拳銃を構える。
「モデル・スパイダーステージⅠを確認! これより交戦に入る!」
「あれは……民警、か?」
コートが男が先に拳銃を撃つもダメージはない。
しかし学生服の方が撃った弾丸は直撃した途端、大蜘蛛が苦しみ出す。
「黒い弾丸……バラニウムか!」
「ああ、奴らの再生能力を阻害する」
コートの男が声に出す。
裏で隠れていた葛永はその言葉に思い出す。
(あのモノリスにも使ってるっていう特殊な金属……だったっけね……?)
バラニウム――ガストレアに絶大な効果をもたらす人類の希望の結晶。
日本はバラニウムの一大産地であることで知られる。
ただ葛永の興味を惹いたのは、壊れた瓦礫から飛び出した人物。
それは数mという人類には不可能だろう跳躍力を見せ、上空から蜘蛛に襲いかかる。
「ちょいやーーー!」
可愛らしい女の子の声。
小学生程度の体躯から繰り出される蹴りはガストレアに直撃するとドンと響く。
空気の波が葛永の髪の毛を揺らすほどであった。
一条の弾丸と化した少女の蹴りは蜘蛛の硬い――硬いはずの皮膚を容易に貫き、肉塊へと変貌させる。
そして地上に降り立った少女はニコニコと学生服の少年に駆け寄り、
「やはり
「うるせぇ
ぎゃあぎゃあと騒ぎ始める。
その様子に葛永は少しだけ眉を落とす。
結婚や将来を誓い合った――などと声が聞こえる。
仲睦まじい様子。無邪気に騒ぎ合う姿はとても眩しくて、明るくて……心がとてもざわついた。
(……ウチでどうにかできる件じゃぁ、無かったね。……さっさとお暇しますか)
足を反対側に向けようとしたのだが、そもそも一度腰が抜けた身。
うまく足が動かず、ゴロンと転んでしまい、挙句の果てにゴミ箱へ盛大にダイブ――大きな音を立ててしまっていた。
当然、通りにいた三人はそちらへと目を向け、近づいてきた。
学生服の少年が一歩前に出る。
ボサボサともウルフカットとも取れるワイルドな黒髪の少年は、警戒しているのか目を吊り上げながら問う。
「アンタ……ここで何してるんだ?」
「あ、ははは……。ちょっと買い物に来てまして、ええ。そしたら様子のおかしい男性がいらっしゃるじゃありませんか。気になったので後を追ったら……まああの姿を見て、今の今まで腰を抜かしてたんですよ」
「……そうか」
下手に誤魔化しても意味がない。疾しいことなどしていないので葛永は素直に答えた。
相手から更に詰問する空気も感じられない。ただ黙っていると質問を重ねられるかもしれないと思い、適当に話題を変えようとする。
「それで、そちらの学生さんは民間警備会社の方、ですかね?」
「あ? ああ、そうだが……。俺は天童民間警備会社でプロモーターの里見蓮太郎。こっちは――」
「妾は愛する蓮太郎の将来の妻にしてイニシエーター、藍原延珠だ! よろしくな怪しいオジサン!」
民間警備会社――通称『民警』。ガストレア討伐のスペシャリストであり、彼らは二人一組で行動する。
プロモーターとはイニシエーターを管理および指揮する者達の総称。
イニシエーターとは一〇年前に起きた大災害『ガストレア戦争』以後に生まれた子供たちの間で、ガストレア抑制因子を持つ特異な子供たち……『呪われた子供』と呼ばれる者の中で戦うことを選んだ子供たちの総称。
彼女たちはガストレアの遺伝子を持ちながら人の姿を保っている。その遺伝子の力ゆえ人類の限界を超えた身体能力を有し、その力をガストレア討伐の為に振るう。
イニシエーターおよび呪われた子供は女性しか存在しない。ガストレアの強力な遺伝子の影響で全員女性となってしまうのだ。
「こら延珠! 見た目が少しおかしくて浮浪者っぽいからってオジサンと呼ぶのは失礼だぞっ! あと勝手に妻になるな」
「アンタらどっちとも失礼だと思うが……」
蓮太郎が延珠を叱っているが、後ろに居た警官風の男がさりげなく突っ込む。
しかし彼らの言う事ももっともだった。
平日の昼間にサングラスと無精ひげ、薄汚れた白衣の男が路地裏に居る。
字面に表しても怪し過ぎる男。ただ胡散臭いというより、ゴミ箱に突っ込んだ姿があまりにも情けなく、哀愁を誘う。
蓮太郎があまり追求できなかったのもそのせいだった。
ただ葛永は彼らのオジサンという言葉に、眦を下げて微笑む。
「いや、いや。むしろオジサンで良いですよ。オーケーオーケー。ドンと来いってー奴です」
「そ、そうか…………にしても変に高い声だな。風邪でも引いているのか?」
蓮太郎の言葉に一瞬声が詰まる葛永。どちらかと言うとグサッという擬音が聞こえそうな、少しショックを受けた様子だった。
「な、何言ってるんですか。オジサンに高い声なんて酷過ぎですよ、里見少年!」
「あー……悪い。別にそういう意味で言ったわけじゃ……」
「まったく! それでもう行ってもよろしいですかね? 買い物の途中だったもんで」
「ああ……いや、ちょっと待った!」
うまく切り抜けたと思った矢先呼び止められる。
葛永はドキッとしながら振り返ると蓮太郎は険しい表情で葛永に聞く。
「仮面の男を見なかったか。白い仮面に赤いシルクハットや衣服を身に纏った奴なんだが」
「シルクハットに仮面……? 仮面舞踏会でもあるんですか?」
「……いや、知らないならいい。邪魔をした」
「ええ、それでは」
「ではな、なのだっ! 怪しいオジサンっ!」
「こらっ延珠!」
「は、は、はっ! ありがとうお嬢さん。それではね」
軽く手を振りながら去っていく。
歩きながら考えるのは先ほどのこと。
(いや、はや……東京は何処も危険、ですねぇ……。これならジェットコースター三〇回連続搭乗の方がまだマシですよ、まったく)
想像すると身震いする。ジェットコースターが大の苦手な彼でも、目の前に迫った生命の危機の方が何倍も怖い。
暖かいはずなのに寒気を感じ、腕をさすりながらデパートへと向かっていった。
デパートに到着して買い物をすること三〇分。
パンパンに膨らんだ買い物袋を手に下げる。
片手には手提げかばんは満杯。買い過ぎた所為で一枚五円の袋も買う羽目になってしまった。
本当はそこまで必要ないのだが、もやしがお一人さま一袋六円。
二つ以上は通常のお値段だと言われたが、葛永は気にせず買ってしまっていた。
五円の買い物袋の大半はもやしなのだから衝動買いも良いところ。
でも得も知れない満足感に浸りながら外に出ると、不思議と見た覚えのある二人とバッタリあってしまう。
付き合いなんてない。昨日の時点では、名前はおろか出会ったことさえない。
その相手は、
「あれ、君は……里見少年?」
「アンタはさっきの……」
「おー、先ほど出会った怪しいオジサンなのだー」
つい数十分前に出会った民警の二人組、里見蓮太郎と藍原延珠だった。
一緒に帰る必要性も無いのだが、帰り道が途中まで同じということもあり、なし崩し的な形で歩いていた。
単純に蓮太郎からガストレアがもう一体いるかもと漏らしたので、怖がった葛永が途中まで居てくれと懇願したせいもあるが。
そうして歩くこと数分。葛永がそう言えばと言いながら懐から名刺を取り出す。
「それは……」
「いやはや申し遅れました。私、葛永医院を経営している葛永といいます。以後よしなに」
「おー、オジサンは葛永だったのかー!」
「延珠お前な。アンタ、医者だったのか」
「ええ、主に内科医として働いております。町はずれの兎小屋もかくやという小さい医院ですがね」
「兎小屋って……。それにしても名刺に名前がないんだが」
葛永が差しだした名刺には住所や電話番号の他に、名字がでかでかとプリントされているだけだ。
それを指摘した蓮太郎だが葛永は曖昧な笑みを浮かべる。
「どうかお気になさらずに。我ながら子供っぽいとは自覚しているのですが、珍しい名前といいますか、幼少の時分には苛められるような名前でして。軽いトラウマがあるのですよ。なのでどうかその辺りのご指摘は勘弁していただけたら幸いです」
「そう、か。まあ言いたくないなら別に聞く必要もないが。にしても、ちょっとへりくだり過ぎじゃないかアンタ。俺はまだ高校一年の餓鬼だ。口の利き方は……まあ成っちゃいないって判ってるけど、つい癖で言っちまう。だけど医者って言えば人命を救う立派な職業だろ。民警の俺なんかよりよっぽど胸を張って生きられる仕事じゃないか。だから普通に話してくれよ。こう、何かムズムズしちまう」
「蓮太郎、背中がかゆいのか? 掻いてやろうか?」
「お前はちょっと黙ってろ延珠」
「ぶー……れんたろーがツレない」
頬を膨らませて口の尖らせる延珠に蓮太郎は溜め息を吐く。
その様子に葛永は眩しそうな、何処か遠くを見るような優しい目を向けていた。
彼はゆっくりと顔を左右に振る。
「民警なんて、とか言うもんじゃないですよ里見少年。こちらからすれば、あんなドデカイ生物を前に腰を抜かさずに戦えること事態が偉業に等しい行いです。誇りは持てど、卑下する理由はありませんよ?」
「そう言って貰えると、こっちとしても助かるな……ん?」
素直に褒められたことにどう対応していいか判らず、蓮太郎は頬を掻きながら名刺を見る。
その住所は見覚えるある場所にとても近く、興味を惹いた。
「この住所……三九区に近いな」
「ええ少し歩けば、河を挟んで向こう岸に三九区が望めますよ」
「医者ってことは大学は出てるんだよな。つまりアンタも奪われた世代だろ。怖く、ないのか?」
三九区――そこは東京内でありながら、碌に整備されず打ち捨てられた地域。
親に捨てられて身よりの無い呪われた子供たちが寄り添い合いながら生活している。
蓮太郎の言葉に葛永はどうしてとばかりに、不思議そうな顔を見せる。
「十年前のガストレア戦争を経験した奪われた世代、ですか。そういうレッテル貼りは正直好きじゃありませんね。医者の前いるのはお客――――じゃなくて患者か健常者しかいません。それが、ウチの流儀ですんで」
「そうか…………アンタは、良い奴だな」
「ただのうらぶれた医者ですよ。暇してこんな場所でほっつき歩くようなね」
「おーーーーっ!? 凄いぞ蓮太郎!」
葛永がおどけると蓮太郎は先ほどより、少しだけ肩の力を抜いた。
その様子から延珠を含め呪われた子供たちに彼なりの想いがあるのだろう。
会話がひと段落を付いたところで延珠が大きな声を上げる。
目線を降ろすと、彼女は何故か葛永の白いビニール袋に小さな顔を突っ込んでいた。
蓮太郎が呆れたように延珠の首根っこを掴んだ。
「お前は人様の袋に顔を突っ込んで何やってるんだ」
「しかしな、しかしな蓮太郎っ! このオジサン凄いぞ! モヤシが十袋以上も入っておるのだ! ブルジョア、ブルジョアだーっ!」
「それは……まあ。いや、でもな」
言葉を濁す。金欠が常態化している蓮太郎と延珠ならともかく、普通に働いていればモヤシなんて五〇円もしない格安野菜だ。
否定するのもあれだが、肯定してもたかがモヤシでブルジョアと呼ぶなど馬鹿にしているにも程がある。
ただ葛永は延珠のオジサン発言に頬を緩めた。
「あっはっはっ、オジサンはブルジョアか!」
「ああ、モヤシのブルジョアだぞ!」
「延珠いい加減にしろっ! 悪い、葛永さん。こいつはまだ子供というかな」
「子供っていうなーーー!」
「はははははっ! いや、いいよいいよ。それにしてもモヤシか……そういえば里見少年の買い物袋、モヤシや特売の野菜ばかりだ。肉を喰わんと大きくなれないんじゃないかい?」
「う……まあ、そうなんだが、うちは万年貧乏会社だから依頼がな……? あれ…………あ、ああーーーっ!」
その時蓮太郎が何かを思い出したのか大声をあげる。
延珠と葛永は驚いて蓮太郎を見ると、ガックリと地面に手を付いていた。
「おいおいどうしたんだい、そんなこの世の終わりみたいな表情で」
「依頼の報酬を受け取り損ねた…………クソッ、間に合うか? 悪いがもう行かせてもらう!」
「どうしたのだ蓮太郎?」
「依頼だ依頼! さっきの警察から報酬を貰わねえと今月は収入ゼロだ!」
「そ、それはいかんぞ! 久しぶりにお肉を食べたいぞ!」
「というわけで俺達は、もう行かせてもらうわっ! それじゃあな!」
「ああ……そうだ。ちょい延珠ちゃんや」
「んあ? オジサンどうしたのだ?」
走りだした蓮太郎を追いかけはじめた延珠はくるりと回転し、ツインテールがそれに釣られてふわりと動く。
「オジサン買い物し過ぎてね。モヤシを全部食べきる前に駄目にしそうなんだよ。これって良くないことだよね」
「うむそうだな! 勿体ないお化けが出るって蓮太郎が言ってたぞ!」
「だからモヤシがいっぱい入った白いビニール袋の中身、全部あげるよ。もったいないしね」
「い、いいのか!? で、でも知らない人から物を貰っちゃいけないって言われているし……」
「オジサンは葛永。延珠ちゃんは延珠ちゃん。お互い知ってるから知らない人じゃないんじゃない?」
「おおーっ! 確かにそうなのだ! では遠慮なく頂くぞッ!」
「ああ、里見少年と一緒に食べるといいよ」
「うむ! ではさらばなのだ、親切なオジサンーっ!」
手をぶんぶんと力一杯振りながら延珠は去っていった。その微笑ましい様子に手を振り返す。
腕を降ろして時計を見ると午後四時。一六〇〇。
ぐぅ~~と腹の虫が鳴り、栄養を要求していた。
「ん、んん……帰って、飯食って、ひと仕事と行きますかねぇ……」
軽い調子で言うと、そのまま家路へと向かっていったのだった。
――次の日――
普段は患者がひとっ一人居ないはずの葛永医院に珍しく患者が居た。
三つ編みに薄いブラウンの少女が眠たそうに目を擦りながら階段から降りてくる。
降りた先はLの字型の受付の広場。
きょろ
右を見る。入り口があった。
きょろ
左を見る。男女別にトイレがあり、問診室やレントゲン室が並ぶ。
くいっ
前を見て、平仮名で『うけつけ』と書かれた部屋の奥でぐったりとする駄目医者が一人。
自分の背と同程度のカウンターに手をかけて「んしょっ」と言いながら身を乗り出す。
「う~……うぇはぁっ!? ごほっごほっうほっごほっ! ぶぇ~……身体あつー、風邪っぴきだぁー……」
「あ、あの! あの! あの! お医者さんっ」
「ヴぇ~い? あ゛あ゛んんっ。……ちょいと、その棚からマスクを取ってくれんかねぇお客さん」
「へ? ええ……いいです、けど」
風邪引きな上に、二、三度ほどワザとらしく咳き込んだあとで患者にマスクを取らせる葛ならぬ屑医者の鏡。
医者の不養生では済ませられない。
ただ少女は気の利く子らしく、三つ編みにした自分の髪を撫でながらそちらへ向かう。
困ったときのクセなのだろう。
指を差した場所に向かうとマスクが無造作に置かれていた。
一つ取り出して葛永に渡す。
再度、咳き込んであーうーと低い声を出すと、彼は満足そうに頷いてから起き上がって少女を見た。
「コホン…………んで、体調はどうかね?」
「あー……はい。何か身体が軽い気が、します」
「そうかいそうかい……おっと検査キットの結果を見てなかったな」
葛永はカウンターの下に置いてある冷蔵庫らしき物体から、赤い血液の入ったフラスコを取り出す。
薬品に付けたり、顕微鏡を覗いて調べたり、最終的には部屋の隅にあった少女二人分程の大きな機械に入れて数値を見ていた。
ピーという甲高い音と機械の共に真横から小難しい文字の羅列が並んだ紙を吐き出す。
その間、三つ編みの少女は不安げな表情でせわしなく辺りを見回していた。
血液は今朝早くに採取されたものであり、医者の男がそれを使って検査しているということは自ずと何を指し示しているかは幼い少女の頭でも十分理解できた。
そして運命の時。
葛永は咳しながら椅子に座ると、一言。
「おめでとう――――手術は成功だ」
「そ、それじゃ本当に!?」
「ゴホゴホッ……ああ。先日の君の体内侵食率は四九・一%。今測ったら二九・八%。約二〇%の減少だ。これなら無茶さえしなければガストレア化の心配もないだろうね」
葛永がそう伝えるとポロポロと少女が泣き始める。
よほど不安だったのだろう。身体を震わせながら葛永の手を小さな両手で包み、何度も御礼を言った。
「ぐすっ……ぐすっ……本当に、本当にありがとうございます!! その、あの、これってどういえばいいのかな……ずずっ」
「医者なんで仕事をだけですよ、ゴホッ……」
「あの、大丈夫ですか? 顔が少し青いような」
「大丈夫大丈夫。こんな薄汚い医院だからね。いやはや、情けないことこの上ない」
「じゃあじゃあ、御礼にお掃除でも――」
「おおぅ……そりゃありがたいけど、御免ね? なにぶん精密機器が多いところだから専門の業者に頼まないといけないんよねぇ。今度来る予定だから気持ちだけ、頂いておくよ」
「そ、そうですか」
しゅんとする少女。根が純情なのか助けてもらったのに何もしないことに罪悪感を覚えている様子だった。
葛永からすれば貰うものは貰っているので余計な気を使わせているのだが、どうにも罰が悪い。
彼女の気を反らすために努めて明るい声で話しかける。
「これで診療は全て終わったから早くパートナーのところに行きなさい。彼、ずっと君を心配してたんだからさ」
「あ、そ、そうでした。亮一さんに元気になったって言わないと! それじゃ先生、ありがとうございました!」
「あいあいよ。それと先生は一週間ほど忙しくなるから、君の相方にも伝えてくれる? 他の子を紹介するときは時間を置いて連絡してってさ」
「はいっ! 判りました!」
「大変元気でよろしい。それじゃあね」
葛永はそう言いながら手を振って、少女の姿が見えなくなったら入り口に『休院日』の札を掲げたあと中に入っていく。
途端に彼の様子がおかしくなる。
ふらりふらりと足取りが覚束なくなり、何度も壁にぶつかってしまう。
最後は倒れ込み、這いながら診察室と書かれた部屋に入っていく。
診察とあるが実質自分の部屋だ。
いつもの汚いセンベイ布団に寝っ転がり、荒く息を吐いていた。
「はぁ……はぁ……くあ……ッ! 熱い熱い熱い熱熱熱厚圧篤、あつあつあつ、い…………――――――」
汗をぐっしょり掻きながらもがき苦しむ。
何度も両手で胸を掻いて掻いて掻きまくり、血の球が浮かび上がる。
白衣に血液が付着し、室内を仄かに血臭が満たしていった。
意識はないのに激しく寝返りをうち、ゴミが撹拌されて室内がさらに荒れていく。
午前九時から次の日の昼まで、葛永は地獄の炎に焼かれる夢を見ながら苦しむのだった――――
いつもと違う主人公ってなかなか難しいですね……。