ウルトラ5番目の使い魔   作:エマーソン

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第29話  サビエラ村の惨劇

 第29話

 サビエラ村の惨劇

 

 巨蝶 モルフォ蝶 登場!

 

 

「思い出したわ。エルザ、あなたがわたしをさらうために、わたしの仲間たちを誘い出して罠にはめたのね」

「そうよ。お姉ちゃんのお仲間たちは、みんなお人よしだって聞いていたから必ずひっかかると思ってね。まあ、屍人鬼を一匹つぶしちゃったけど、たいしたことないわ。代わりは、いくらだっているからね」

 ティファニアとエルザ、囚われた者と捕らえた者。立場を異にするふたりが、遠見の鏡を前にして成り行きを見守り続けていた。

 鏡には、エルザの仕掛けた罠にはまって苦しんでいる仲間たちの姿が映っている。ティファニアはその様子を苦悩して見ていたが、得意げに自分をさらった手際のよさを語るエルザをきっと睨み付けた。

「わたし一人を捕まえるためだけに、なんの関係もない人を屍人鬼にして、わたしの仲間に倒させるなんて。なんてひどい」

「ひどい? うふふ、わかってないなあ。屍人鬼はもう人間じゃないの。私がお腹を満たした後の絞り粕の再利用。どうせ生きていたところで、適当に歳を取って死ぬだけのでくの坊さんが、私のご飯になれた上にオモチャにもなれたんだから、むしろ光栄と思ってほしいなあ」

 ティファニアの弾劾にも、エルザは余裕を崩さずに冷酷な笑いを続けた。

 あのとき、水精霊騎士隊と銃士隊が屍人鬼を倒している隙に、仲間たちと引き離されて無防備になったティファニアを別の屍人鬼が襲い、まんまとさらわれてしまったのだ。

 吸血鬼は、人間を食料としてしか見ていない。その命を奪うことには何の躊躇も見せないし、死者の魂を冒涜するに等しい屍人鬼の使用も当たり前に行う。

「エルザ、あなたの狙いは私でしょう? 関係ない人たちを巻き込むのはやめて」

「それはダメだよぉ。お姉ちゃんの身柄は無事に、ほかの人間たちは皆殺しがロマリアのお兄ちゃんとの契約なの」

「ロマリア……くっ」

「うふふ、お姉ちゃん、私が憎い? 人間は私たちを妖魔と呼ぶよね。別にいいよ? 人間なんて、私たち美しい夜の種族からしたら、たいした力もないしすぐに死ぬつまらない生き物なんだもの。そんなのが楽しそうにしてると、私とってもムカムカするんだ。いじめたくなるんだよ」

 嗜虐的な笑みを浮かべると、エルザは座っていたベッドから立ち上がり、床に転がっていた村人の娘のミイラを枯れ葉のように踏み潰した。

「人間なんて大っキライ。数が多いだけで、バカで弱っちくて。けど、人間たちは一日の半分を太陽に守られているから私たちは敵わなかった」

「吸血鬼は、お日様の下では生きられない……」

「ええ、私たち吸血鬼は夜の種族。太陽の光は、私たちの体を焼いてしまう。だけど、ロマリアの教皇さまは救世主だったのよ。そして私に言われたわ。我々の同志となってくれるのなら、永遠の夜をプレゼントしてくれるってね。アハハハ」

 愉快そうに笑うエルザを見て、ティファニアは納得した。吸血鬼の唯一にして最大の弱点が太陽であるが、現在空は無数の昆虫が雲を作って日差しをさえぎっているために昼でも暗い。まさしく、吸血鬼にとってはユートピアに等しい。

 太陽のない世界の吸血鬼は完全無欠と言っていい。好きなように人間を蹂躙できるだろう。エルザは楽しそうな笑いを続けたまま、ティファニアの隣に無防備に座り込むと、劇場でお気に入りの英雄譚が始まるのを待ちわびる子供のように遠見の鏡を覗き込んだ。

「さあお姉ちゃん、時間はたっぷりあるからいっしょに見よう。お姉ちゃんのお友達が、モルフォの毒鱗粉にやられてダメになっていく姿をね? くふふふふ」

「エルザ……みんな、逃げて、逃げて……」

「あら? そんなこと言ったらかわいそうだよ。あの人たち、みんなお姉ちゃんを助けるために涙ぐましくやってきたんだから」

 エルザはティファニアにじゃれるようにしながら、自分が見てきた彼らのこれまでを語り始めた。ティファニアは自分の無力をかみ締めながら、この無邪気な殺人鬼の言葉を聞くしかなかった。

 

 

「本当はね、あの人たちがお姉ちゃんを見捨てて逃げられたらちょっとやっかいだったの。けど、そうならないように工夫しておいたんだ。なんだと思う? うふふふ」

 

 ここで時系列を少し戻し、ティファニアがさらわれて、ギーシュたちが駆けつけてきた直後へと返る。

 モンモランシーからティファニアがさらわれたことを聞き、慌てて追いかけようとした水精霊騎士隊の一同であったが、飛び出していこうとしたところを銃士隊に止められた。

「待て! 今から追いかけても森の中では追いつけん。追うだけムダだ!」

「なんですって! ちぃっ、それでも誇り高いトリステインの騎士ですか。ティファニアさんの危機です。僕らは行きますよ」

「バカ者! 土地勘のない人間が森に入ってなにができる。迷子になったところを吸血鬼に襲われたらどうする? 冷静になれ!」

 一時は頭に血が上り、血気にはやったギムリたちであったが、その一喝と、吸血鬼という単語に思いとどまった。

 悔しいが、屍人鬼にすらあれだけ苦戦したのに、水精霊騎士隊だけで吸血鬼なんてものに対抗できるとは思えない。仕方なしに、彼らはひとまずモンモランシーとルクシャナを介抱することにした。

「大丈夫かいモンモランシー、どこも怪我はないかい?」

「ええ、ギーシュ、心配いらないわ。ちょっと、殴り飛ばされて痛かっただけよ」

「よかった。いったい何があったんだい? 詳しく教えてくれないか」

「何って言われても、突然のことで……急に後ろから、目をギラつかせた男たちが襲ってきて、気がついたらわたしとルクシャナは殴り倒されて、ティファニアがさらわれてて。ごめんなさい、わたしたちが油断していたせいだわ」

 君のせいじゃないさ、とギーシュはモンモランシーを慰めた。ルクシャナは、レイナールたちが介抱しているが、あちらもどうやら殴られただけですんだらしい。

 不幸中の幸いは、モンモンシーとルクシャナだけでも助かったことか。しかし……ギーシュはぎりりと歯軋りをした。

「くそっ、屍人鬼は複数いたのか」

 だが、地団太を踏むギーシュたちと違って、銃士隊員たちは怪訝な表情を見せた。

「屍人鬼が複数いた? いや、そんなはずがあるわけは……」

「どういうことですか?」

「いや、まだはっきりしたわけじゃない。その前に、彼女の話を聞いてみようか」

 と、そこでギーシュたちは、街道のわき道からミシェルに付き添われて、先ほど屍人鬼に襲われていたあの少女がやってきたのを見た。確かに、今からティファニアを追っても手遅れな以上、手がかりはこの少女しかいない。

 自然と、全員の視線が少女に集中した。だが、それらの視線が怖かったのだろう。少女はミシェルの胸に顔をうずめて、かむっていた赤い頭巾をおさえて震えている。無理もない、たった十二歳ばかりの少女にとって、怪物に殺されかけたショックはもとより、こんな大勢の騎士や貴族に囲まれるなど心が持たなくて当然だろう。

 怯える少女を、ミシェルは無言のままで優しく抱いている。その姿はまるで母親のようにも見えたが、重く沈んだ表情からは彼女がなにを考えているのかを読み取ることはできなかった。

 このまま、少女が落ち着くのを待つべきか。いや、事は一刻を争うかもしれないのだ。しかし、ギムリやレイナール、ミシェル以外の銃士隊員が話しかけても少女は怯えるばかりで、モンモランシーも努めて優しく話しかけたのだが要領を得なかったので、モンモランシーは仕方なくギーシュをうながした。

「こうなったら方法はこれだけね。ギーシュ、あなたの出番よ」

「へ? ぼくが」

「そうよ。いつもレディの扱いはどうのって自慢ばかりしてるじゃない。手並みを見せてみなさいよ」

「い、いや、幼女はちょっと専門外なんだけど……」

「ぐずぐず言わない! あなたの特技なんて、こんな時くらいしか役に立たないんだからね。今回だけはわたしも見逃すから、テファの無事がかかってるのよ!」

「わ、わかったわかったわかったから!!」

 さっさとやるか魔法を食らうかどっちがいいかとモンモランシーに詰め寄られ、ギーシュはしぶしぶながら少女の隣に行って、彼女の視線にかがんで顔を覗き込んだ。

「こ、こんにちは。ミ・レイディ」

「……っ!」

 少女は少しだけギーシュの顔を見たが、すぐに頭巾をかむって視線をそらしてしまった。

 ギーシュでもダメか……皆に落胆の空気が流れかけた。だが、それでギーシュのプライドに火がついた。

”ギーシュでもダメ? 冗談じゃない。グラモンの男子に女性からの撤退などあってはならないのだ”

 それに……こんなに怯えている女の子を見てそっぽを向いては、男としても人間としてもすたる。ギーシュは足元に落ちていた小枝を拾うと、片手に杖を持って少女の前にかざして見せた。

「ねえ君、ちょっとこれを見てくれるかな?」

「……ん?」

「イル・アース・デル……それっ」

 ギーシュが呪文を唱えて合図すると、ただの小枝がポンっと鳴って小ぶりなバラの造花に変わった。

「わあっ」

 少女は驚いたようであったが、興味深そうにギーシュの作ったバラを見ている。ギーシュの錬金の実力では、ものを作っても原色のままで、ワルキューレもブロンズの地肌そのままをしていたが、そのバラは手のひらサイズなおかげか彩色もされていて、本物のバラそっくりな美しさをしていた。

「気に入ったかい? ミ・レイディ」

「うん……」

 少女はこくりと小さくうなづいた。すると、ギーシュは「君にプレゼントするよ」と言って、バラを少女に手渡した。すると、少女はぱあっと笑顔を浮かべてバラを受け取った。

 ギーシュはちらりと皆を振り返り、「どんなもんだい」とでも言うように片目をつぶってみせた。むろん、皆が感心したのは言うまでもない。

「気に入ってもらえたようでうれしいよ。花も、君のような可愛いレディにもらわれて喜んでいるだろう」

「うん……おにいちゃん、あり、がと……」

「ぼくの名はギーシュ・ド・グラモン。以後、お見知りおきを。小さなレディ、君の名前を教えてくれるかな?」

 ギーシュがきざったらしく会釈しながら尋ねると、少女は少し迷ったそぶりをしてから、小さな声でおずおずと答えた。

「アリス……」

「ミス・アリスか、いい名前だ。君はまるで、その髪の色と同じ野菊のような可憐なレディだね」

「ん、うん。ありがと……ギーシュおにいちゃん」

 自信たっぷりに褒めちぎるギーシュに、アリスは顔を真っ赤にして照れていた。

 さすがギーシュ、女たらしの腕は子供相手でも健在であったかと皆は呆れながらも、少女の心を開かせてしまった手際には感心していた。しかし、このままギーシュに調子に乗らせていたら子供相手に行ってはいけない領域にまで踏み込みそうだったので、モンモランシーはわざと聞こえるように咳払いしてギーシュにそのへんにしておけと促した。

「う、うん、わかったよモンモランシー……ごほん、それでミス・アリス。君はさっき、屍人鬼に襲われていたけど、いったい君や君の村になにがあったんだい?」

 すると、アリスはまたびくりとすると、まるで思い出したくないものをこらえるようにうつむいてしまった。しかしギーシュは、アリスの恐怖心をほぐすように優しさをつとめて呼びかけ続けた。

「よほど怖い思いをしたんだね。でも大丈夫、ここにいるのはみんな君の味方だから安心してくれていいよ。ぼくたちはね、悪い奴をやっつけるために旅をしてるんだ。必ず、君の力になってあげるから、ね」

 アリスは迷った様子だったが、すがるように抱きつき続けていたミシェルの顔を見上げた。すると、ミシェルは口元に笑みを浮かべると、アリスに優しくうなづきかけた。

「大丈夫、わたしたちにすべて話してみて」

「……はい」

 決心した様子で、アリスはギーシュや皆に向き直って話し始めた。

「お願い、助けて……助けてください。わたしの、わたしの村が吸血鬼に……」

 それは、思い出すのもおぞましい記憶だった。

 

 

 サビエラ村、それがアリスの住んでいた村の名前である。

 ガリアの首都リュティスから南東に五百リーグ程度に位置し、山と森に囲まれた人口三百五十人ほどの、取り立てて何もない辺境の寒村であった。

 アリスはこの村の農家の娘で、つい最近まで村は貧しいながらも平和に過ごしてきた。

 だが、ある日のこと、森に狩猟に出かけた男たちが一日経っても戻らないということが起きた。さらに、探しに出た男たちも、さらにその後に探しに出た男たちも帰ってこないということになり、村はパニックに包まれた。

”いったい何が? 森に化け物が住み着いたに違いない! このままじゃ村も危ないぞ”

 ハルケギニアの人間にとって、人食いの怪物というのは身近な脅威であるだけに、村人の危機意識は強かった。相手はオーク? トロル? それともコボルド? それはわからなくても、大挙して襲われたらサビエラ村程度の村落が全滅するのは目に見えていた。

 すぐさま、村長を中心に村の人々で相談が行われ、ふもとの町から王政府に向けて救援を呼ぶことになった。

 数人の若者がその使者に選ばれ、彼らは村中の期待を一身に背負って出発した。

 しかし、それから半日後……村に、若者のひとりが恐怖に顔を引きつらせて帰ってきた。一体何があった? 他のみんなはどうしたのかと問いかける村人たちに、その若者は震えながら答えたのである。

「みんな、みんなやられた。村を出てしばらくして、急になにかが襲ってきたと思ったら、俺は気を失っていた。だけど、目を覚ましたときに見たんだ。血の海の中で、目を光らせて、獣みたいな牙をむき出しにして笑ってる化け物を! あれは噂に聞く吸血鬼に違いねえ! しかも、あの顔は村はずれのアレキサンドルだった。あいつが吸血鬼だったんだよ!」

 彼のその言葉で、村の人間たちの怒りに火がついた。

 アレキサンドルというのは、一年と少し前にこのサビエラ村に越して来た老占い師の息子のことである。老いた母親の静養のため、とのことらしいが、よそ者には冷たいのがこうした寒村の常であり、当初は無理に追い出されこそはしなかったが村八分的な扱いを受けていた。ただ最近では、特に問題を起こすこともなく、ぼんやりした見た目をしていることもあって人畜無害な男として村人たちも気を緩めていた。なのに。

「あいつ、これまで俺たちを油断させていたんだな。畜生、許さねえ!」

 村人たちは激昂し、吸血鬼アレキサンドルをやっつけろと口々に息巻いた。

 しかし、相手は吸血鬼である。村中の男が総出で退治をおこなうことになり、女性たちはその間、村で一番の高台にある村長の屋敷に避難しておくことになった。

 もちろん、アリスもそこにいて、山刀を持って出かけていく父親を見送っていた。

「お父さん、行っちゃいやだよ。吸血鬼って、なんでアレキサンドルさんをやっつけに行くの? どうして」

「アリス、いい子だから村長さんの家でおとなしく待っていておくれ。アレキサンドルは、人間に化けて血を吸いに来た怪物だったんだ。必ずお父さんたちが退治してきてやるから、少しの辛抱だよ」

 そう言い残し、アリスの父親は村人たちと出かけていった。

 村人たちは手に手に武器を持ち、すきやクワを持った者から槍や弓矢を携えた者までいた。村中の男集、二百人近い人数がたったひとりの男を狩るために向かったのである。これだけの人数がいれば、たとえ相手が吸血鬼でも負けはしないと誰もが思っていたはずだ。

 だが、これが吸血鬼の張った罠だということに、村人たちは気づいていなかった。

 それから数時間後、大挙してアレキサンドルの家を襲った村人たちは、女たちの待つ村長の屋敷へと戻ってきた。全員が屍人鬼に変えられて。

「お、お父さん……」

「あ、あなた、どうしちゃったの……」

 夫や父、恋人の帰りを待っていた女たちは、彼らの変わり果てた姿を見て愕然とするしかなかった。

 罠……すなわち、アレキサンドルの家を取り囲んだ男たちは、火を放ってアレキサンドルの家を彼の母親の老婆ごと焼くことには成功した。しかし、そこに四方からこれまで森で行方不明になっていた男たちや、使者として出されて帰ってこなかった男たちが屍人鬼になって襲い掛かってきて、ふいを打たれた村人たちはことごとく血を吸われ、血を吸われた人間もまた屍人鬼になって村人を襲い、男たちは全滅したのであった。

 そして、屍人鬼と化した男たちに村長の屋敷は包囲され、女たちも逃げる間もなく捕らえられた。使者の若者がひとりだけ村に逃げ帰れて、アレキサンドルのことを報告できたことも、吸血鬼が村人を一網打尽にするために仕掛けた罠だったのだ。

 村の男たちは全員が屍人鬼にされ、女たちは捕らえられた。しかも、それだけでは終わらなかった。捕まった女たちも、アリスのような少女から比較的若い娘だけを残して、あとは屍人鬼に変えられてしまったのである。

「あなた、あなたやめて! やめて!」

「お父さんやめて! お母さん! お母さん! いやぁぁーっ!」

 目の前で屍人鬼になった父が母の血を吸い、屍人鬼に変えていく様を見せ付けられたアリスや少女たちは気が狂わんばかりに泣き叫ぶしかできなかった。

 地獄のような時間が過ぎ、サビエラ村の住人は六十人ばかりの女性を残して屍人鬼へと変えられてしまった。そして、吸血鬼はついに村人たちの前にその正体を現したのである。

「うーん、やっと終わったぁ。まったく、めんどくさかったけど、この村の人たちってバカばっかりだったから助かったなあ。けど、これでこの村は私のものだね」

「え、エルザちゃん? あなた、なにを言ってるの?」

「んー? ああ、アリスおねえちゃんはまだわからないの。みんなが探してる吸血鬼はね、この私、エルザなんだよ。ほぉら、ね?」

 突然、人質の中から立ち上がり、鋭い牙を見せ付けて吸血鬼の正体を明かしたのは、村長の家で養女として育てられていたエルザであった。

 エルザは二年ほど前に、両親を亡くして放浪していたところを村長に拾われたという少女だった。よその人間を村に入れることに対しても、たった五歳くらいの幼女であるし、若くして子や連れ合いを亡くして家族のいない村長に気を使って、村人たちも気にかけず、最近は体が弱いそうなので家の中だけではあるが村の子供たちとも遊ぶようになり、大人たちもそんな彼女を可愛がるようになってきていた。そのエルザが吸血鬼だったのだ。

 本性を現したエルザは屍人鬼たちを操り、女たちを村長の屋敷に閉じ込めた。屋敷の周りは常に屍人鬼たちが見張り、逃げ出すことはできない。そして、ときおり女たちのなかからひとりずつ連れ出されていき、二度と戻ってくることはなかった。

 逐殺場の豚のように、檻の中で飼われて吸血鬼に食われるのを待つだけかと誰もが絶望していた。

 ところがである。あるときふと、村長の屋敷の壁の一部に痛んで穴が空くようになっているところが見つかり、見張りの屍人鬼も少なくなっているのが見受けられた。

 今なら逃げ出せる。しかし、壁の穴は小さくて子供しか潜れないし、屍人鬼の目をごまかして逃げ隠れするのも大人では無理だ。穴を潜り抜けられて、かつ遠くまで走れるだけの体力を持っているのは、子供たちの中でもアリスしかいなかった。

「アリスちゃん、ふもとの町まで行って、お役人さんにサビエラ村が吸血鬼に襲われたって知らせるの。そうしたら、きっと王国の軍隊が来てくれるわ。ごめんなさい、つらいだろうけど、あなたしか頼れる人がいないの。がんばれる?」

「うん、みんな待ってて。わたし、がんばってみる。だから、待っててね」

 こうしてアリスはひとりで村を抜け出し、助けを呼ぶためにひたすら走ってきた。しかし、途中で追いかけてきたアレキサンドルの屍人鬼に捕まって、そこへ一行が駆けつけてきたというのがこれまでのいきさつであった。

 

「お願い、助けて、助けてください、わたし、もう……うわぁぁぁっ」

 そこまでを話したところで、アリスはもう耐えられないとばかりにまた泣き出してしまった。

 無理もない。たった十二歳の少女が体験するにしては過酷過ぎる。ここまで話してくれただけでたいしたものだ。アリスはミシェルの腕に抱かれて泣き、一行の心に怒りの炎が灯る。とにかくこれで、敵の正体がわかった。

「なるほどつまり、そのエルザって吸血鬼が黒幕なわけだな。だが、五歳くらいの子供が吸血鬼なんて」

「吸血鬼の寿命は亜人の中でもかなり長い。見た目が子供でも、人間の年齢では老人くらいに歳を重ねていることなどざらだ。覚えておけ」

「なるほど、見た目が子供なら人間は油断しますしね。それにしてもひどいことを、まるで悪魔のような奴だ」

 ギムリが憤慨したようにつぶやき、水精霊騎士隊の仲間たちも同感だというふうにうなづいた。

 だが、感情に逸る少年たちとは反対に、銃士隊の仲間たちは納得できないというふうに考え込んでいた。

「村全部が屍人鬼に、だと? そんな馬鹿な」

「馬鹿なって、どういうことですか?」

 苦渋の表情を浮かべている銃士隊員に、レイナールが問いかけた。一般的に吸血鬼に対する知識はあまりなく、専門的なことは秀才のレイナールも知らないが、遊撃部隊に近い銃士隊は幻獣退治もするので亜人全般に知識があるのだ。

「さっきも言ったが、屍人鬼が複数体いるという時点でおかしいのだ。なぜなら、吸血鬼は血を吸った人間を『一人しか』屍人鬼にして操ることはできない。屍人鬼をふたり以上操っているなんてあるはずがないんだ」

「えっ! でも、しかし」

「確かに例外はある。吸血鬼が徒党を組んでいれば屍人鬼が複数いることもあるし、屍人鬼を次々に乗り換えることで複数いるように見せかける手もある。しかし、トリックを使っているにしては多すぎる。それに、屍人鬼に噛まれた人間までが屍人鬼になるなんて聞いたことがない」

 ありうるはずがないのだと彼女は断言した。それに怒ったのはギーシュである。

「ちょっと待ちたまえよ。それじゃ、まるでミス・アリスが嘘をついているというのかね?」

「そんなことは言ってない。ただ、吸血鬼の常識とあまりにかけ離れていると言っているのだ。それでも、アリスを襲っていたのは間違いなく屍人鬼だった。敵が吸血鬼なのは間違いないが、仮にそのエルザという娘が吸血鬼だとしても、ただの吸血鬼だとは思えない」

 吸血鬼は恐ろしい妖魔だが、できることは限られている。村ひとつを丸ごと乗っ取るなんて真似ができるような力があるはずはないのだ。

 ところが、そのとき別の銃士隊員が厳しい表情で現れた。

「いえ、ひとつだけ全部のつじつまが合う答えがありますよ。それはアリス、その娘こそが吸血鬼だってことです!」

 きっと鋭い目でアリスを睨み付け、アリスは怯えて震えだした。それを見て、ギーシュが慌てて叫ぶ。

「お、おい君! 突然なにを言い出すんだね」

「なんだも何も、さっきまでの話も、屍人鬼に襲われていたのも自作自演だったってことよ。そうしておいて、まずはティファニアをさらっておいて、吸血鬼本人は被害者を演じながら隙を見て我々を食っていけばいい。それだけなら本物の屍人鬼のほかに、薬で操った人間を数人使うだけで済むわよね」

「そ、そんな……アリスは、吸血鬼なんかじゃないよ」

「どうかな? 吸血鬼は人間に完璧に化けられるのが特徴よ。牙さえ隠しておける。なにより、そうして人間の油断を誘うのが常套手段」

 その隊員は完全にアリスを疑っていた。しかも、彼女の仮説には無視できない説得力があったので、銃士隊員の中には賛同する者も現れ、アリスをかばいたい側もうまく言い返すことができなかった。

 アリスはミシェルの腕の中で歯を鳴らして震えている。このままでは、ティファニア以前にアリスをどうするかで一行が真っ二つに割れてしまう。まずい……と、思われかけたときだった。

「はいはい、あなたたちそのへんにしておきなさい。現実主義もいいけど、そう断言するものじゃないわ」

 両者のあいだに割って入ってきたのはルクシャナだった。これまでじっと成り行きを見守っていたのだが、突然出てきた彼女は殺気立っている銃士隊員の前に立って言った。

「確証もないのに、推測だけで人を吸血鬼よばわりはわたしから見てもちょっとひどかったわよ。それだけ言って、もしアリスが吸血鬼じゃなかったらどうする気よ?」

「あなたは吸血鬼の恐ろしさを知らないからのんきなことが言えるのよ。奴らは本当に恐ろしい。我々銃士隊が正式に結成される前の傭兵集団だったころ、一度だけ吸血鬼と戦ったことがあるけど、十人以上の村人を殺したそいつの正体は盲目の少年だったわ。正体をあばきだすまでに、こっちの仲間も三人もが犠牲になって、かろうじて朝が来たから討伐できたようなものなのよ!」

「そうね、気持ちはわかるわ。でも、わたしは学者でね。人が間違った答えを口にしてると我慢できなくなる性分なのよ。ここはわたしに任せなさい、吸血鬼がいくらうまく化けても、絶対に隠せないものはあるのよ」

 そう一方的に宣言すると、ルクシャナはアリスの下に歩み寄り、怯える彼女の肩に手を置いた。

「ひっ!」

「大丈夫、わたしはあなたの味方よ。あのわからずやのお姉さんたちをぎゃふんと言わせるから、少しだけじっとしてて。心配しないで、すぐ終わるから」

「う、うん」

「いい子ね。では、この者の体内を流れる水の息吹よ。我に、そのあるべき姿を示せ……」

 ルクシャナが呪文を唱えると、彼女の手がわずかに光ったように見えた。そしてルクシャナは少しのあいだ、何かを確認するようにうなづいていたが、おもむろに立ち上がると自信を込めて言った。

「アリスは間違いなく人間よ。吸血鬼でも屍人鬼でもないわ」

「待て! いったい何をしたの。私たちにはわけがわからないわよ」

「あら、単純なことよ。アリスの体の中の水の流れを確認してみたの。吸血鬼がいくら人間に化けてもしょせんは別種の生き物。人間の目はごまかせても、わたしたちエルフの、もっと言えば精霊の目をごまかすことはできないわ」

 アリスの体内の水の流れは、間違いなく生きた人間のものだと断言したルクシャナの眼光の強さは銃士隊員をもたじろがせた。そして、自分たちが間違っていたことを、隊員たちは認めざるを得なかった。

「も、申し訳ない。私が軽率だったわ」

「わたしはいいわよ。そんなことより、あなたたちはもっと別に謝らなきゃいけない人がいるんじゃないの?」

 ルクシャナはあっさりと引き下がり、隊員たちの前にはアリスがぽつんと残された。目と目が合い、先ほどまでアリスを疑っていた隊員たちは一瞬迷ったような表情を見せた。だが、彼女たちは一瞬だけ呼吸を整えると、すぐにぐっと頭を下げたのだ。

「う、ごめんなさい。あなたのことを吸血鬼だなんて疑ってしまって。なんというか……許してほしい!」

「え? あ、ええっと」

 大の大人に頭を下げられてアリスは戸惑うばかりだ。けれど、そんな彼女に、モンモランシーが明るく告げた。

「ごめんね、このお姉ちゃんたち、真面目すぎるのが玉に瑕なの。でも、本気で悪い奴をやっつけようとしてるだけで、悪い人じゃあないの。許してあげて」

「う、うん。おねえちゃんたち、わたしは怒ってないよ。だから……」

「……ありがとう」

 過ちを正すにはばかる事なかれ。悪いことをしてしまったら、償う気持ちと態度を表すのを惜しんではいけない。銃士隊の隊員たちは、その心得を騎士道としてきちんと心の中に持っていた。

 そして、それだけではなく、アリスが彼女たちを許したことで、アリスは隊員たちを罪悪感に蝕まれることから救っていた。

 人は罪を犯す。しかしそれを重荷として引きずっていくのはつまらないことだ。罪を犯せば償い、それで許すことできりをつけ、どちらも清清しく前へ進むことが出来る。たった、それだけでいいのだ。

 隊員たちとアリスは手を取り合い、互いに笑顔を向けた。

 だが、これでアリスの話が本当だと証明されて、敵が単なる吸血鬼ではないことがはっきりした。そこで新しく推理する必要が出てくる。とはいえ、あまり難しく考えるまでもなかった。このメンバーの中で、ティファニアだけがさらわれたことからつながって、どんな非常識なことでもやりかねない相手となれば、おのずと集約される。

「ガリアのジョゼフ、ないしロマリアの教皇か……」

 レイナールが眼鏡の奥の目に自信を宿らせて言った推理に、異論を挟む者はいなかった。非常識さといえばヤプールが一番にいるが、ヤプールにはティファニアを狙う理由がない。

 と、なれば後は裏づけだが、これも難しくはなかった。

「ミス・アリス、吸血鬼騒ぎが起きるより前に、村にガリアかロマリアの偉そうな人が来たりとかはしなかったかい?」

「うん、あるよ! 前に、ロマリアの神官だって人が村長さんを尋ねてきたの」

「それがどういう人だったか、覚えてるかい?」

「えっとね、金髪のすごくかっこいいお兄ちゃんだったよ。みんなの間ですごく噂になったし、目の色が左と右で違ってたから、よく覚えてる!」

「やっぱりそうか……」

「ジュリオだ、間違いない」

 ギーシュやギムリは苦い顔をした。そんな容姿の神官など、ハルケギニアでも二人といまい。脳裏に、あの人を馬鹿にしたニヤケ面が浮かんでくる。

 しかし答えは決まった。吸血鬼の後ろには、ロマリアが糸を引いている。

 とうとう来たか、と一行は息を呑んだ。このまますんなりトリステインに戻れるほど甘くはないだろうと思っていたが、まさかこんな方法でやってくるとは誰も想像もしていなかった。

「これはぼくたちを狙った罠だね」

 レイナールの言葉に、一同はうなづき、ギーシュも同意した。

「ああ、ここまで来たらぼくにだって敵の考えがわかるよ。囮を使って、まずはティファニアを無傷でさらう。それから、取り返そうとぼくらが追いかけてきたところで、屍人鬼にした村人を使って皆殺し。そんなところだろうね」

「ギーシュに見破られるようじゃ、たいした作戦じゃないな。しかし悪辣ではあるね。これでぼくたちは選択を強いられるわけだ。ティファニアを見捨てて先へ進むか、それとも罠だとわかっている中へ飛び込んでいくか」

 ここで突きつけられた困難な二択は、簡単に答えが出せるものではなかった。これまでに何度も危機を潜ってきた水精霊騎士隊であるが、つい先日に才人とルイズを失ったばかりだというのに、ここでティファニアまでを失えというのか。

「騎士は友を見捨てない。女王陛下から杖を預かった我らトリステイン貴族が、おめおめと敵に背を向けるなんて名折れだ」

 ギーシュはそう気を吐く、しかし銃士隊は冷静だった。

「だったら親切に罠の中に飛び込んでいって全滅するか? アリスの話を忘れたか。吸血鬼は三百人近い屍人鬼を従えている。一匹でもあれだけ苦戦したというのに、勝ち目などあると思うか」

「わかっているよ、ぼくも言ってみただけさ。だけど、それじゃティファニアを見捨てろってのかい?」

「そうは言っていない。しかし、ロマリアはティファニアを無傷で手に入れたいはずだから命をとったりはすまい。だが我々がここで全滅してしまったら、誰がトリステインに事の次第を伝えるというんだ」

「う……」

「それと言っておくが、お前たちだけで救出に向かうというのもなしだ。ただでさえ少ない戦力で、さらに人数を半分にしてしまったら、それこそ全滅する」

 返す言葉がなかった。ティファニアは最悪、ロマリアに連れて行かれた後でも取り返すチャンスはあるかもしれない。だがここで、三百の屍人鬼が待つ村に飛び込んでいったら、待っているのは間違いなく全滅だ。

 悔しいが、現実的な判断では銃士隊のほうが一歩も二歩も先を行っていた。彼女たちは、厳しい視線で言う。

「戦場では、勝利のためにあえて味方を見捨てねばならんときもある。どのみち、お前たちも将来軍人になるのなら避けて通れない道だ。今のうちに慣れておいたほうがいい」

 ぐうの音も出なかった。相手はハルケギニア最悪の妖魔である吸血鬼に、村いっぱいの屍人鬼の群れ。しかも吸血鬼の背後には、得体の知れないロマリアの力が加わっている。

 対して、こちらの戦力は剣士と半人前のメイジを合わせて二十人そこそこ、比較にすらなっていない。

「ティファニアを見捨てる……それしかないのか」

 ギムリが口惜しげにつぶやいた。残念だが、どう勘定しても戦力がなさすぎる。せめて才人とルイズがいれば……と、思ったときである。アリスの、か細く消え入りそうな声が流れた。

「おにいちゃんたち、行っちゃうの……? サビエラ村は、村のみんなはどうなっちゃうの……」

 はっとして、一同はお互いの顔を見合った。

 そうだった。アリスは、外の誰かに助けを求めるために、たったひとりで逃げ出してきたのだった。ここで一行が立ち去れば、吸血鬼は残りの村人たちを喜々として餌食にするだろう。

 ならば、アリスの最初の目的のようにガリアの役所に訴えるか? いやダメだ。世界中がこんな様になっているのに、あの無能王の軍隊が辺境の村ひとつのためにすぐ動いてくれるとは思えない。よしんば動いたとしても、その頃にはすべてが手遅れになってしまっているだろう。

「お願い行かないで。村には、お隣のおねえちゃんも、リーシャちゃんもクエスちゃんも待ってるんだよ。早く助けなきゃ、お願いだから助けて!」

 アリスの必死の訴えは、一同の心を乱した。

 自分たちだって、ティファニアがさらわれているのだし、助けられるものなら助けたい。しかし、今回はいくらなんでも相手が悪すぎるのだ。幼いアリスには、説明してもわかるものとは思えない。

 だが一同が決断しかねているとき、それまでずっと黙っていたミシェルがアリスの涙をぬぐって言った。

「わかった。わたしが力になってあげる。行こう、君の村へ」

「お、おねえちゃん……?」

「ふ、副長! なにを言い出すんですか」

 部下の隊員たちは慌てて叫んだ。しかしミシェルは落ち着いた声で言う。

「お前たちは、このままトリステインへ帰れ。わたしはこの子といっしょに、やれるだけやってみる」

「副長、サイトの後を追って死ぬ気ですか!」

 隊員たちにはそうとしか思えなかった。いくらミシェルが優秀な魔法戦士とはいえ、三百の屍人鬼に太刀打ちできるとはとても思えない。

 しかしミシェルはかぶりを振って言った。

「そうじゃない。わたしはどうしてもこの子を見捨てられない。わたしにもあった、十年前に……」

 

”お父様、お母様。なんでふたりだけで行っちゃうの……帰ってきてぇ、わたしをひとりぼっちにしちゃやだよ”

 

「この子は、昔のわたしだ……」

 皆ははっとした。そして思い出した。ミシェルも幼い頃に両親を失った孤児だったことを。

 このまま村が全滅してしまったら、アリスは本当に世界中でひとりぼっちになってしまうだろう。誰よりも孤独の悲しさや苦しさを知っているミシェルだからこそ、たとえ死ぬとわかっていてもアリスを見捨てられないのだ。

 ミシェルはアリスを促して、村へ続く道へと歩いていこうとする。だが、このままでは確実に殺されてしまう。一行は苦渋の末に、ついに決心した。

「待ってください副長、我々もお供します」

「お前たち、だが……」

「サイトたちに続いて副長まで見殺しにしてきたとあっては、それこそアニエス隊長に合わせる顔がありません。だが、犬死にもごめんです。副長、銃士隊副長として、我々に指示をお願いします!」

 部下からの 咤に、ミシェルは戦士ではなく、軍人としてまだ部下の信頼を失っていなかったことを知った。

「わかった。お前たちの命を預かる。作戦目標は、ティファニア及びサビエラ村の生存者の救出だ。アリス、サビエラ村は山の上にあると言ったね。なら、近くに村の畑へ続く水場があるんじゃないかな?」

「うん、村の裏手に沼があって、そこから水路を通してるの」

「やはりな。よし、その水路を通って村に侵入しよう。アリス、道案内できるかな」

「うん! あの、おねえちゃん……ありがとう」

 照れながらお礼を言ったアリスへのミシェルの返答は、母のような暖かい抱擁だった。

 屍人鬼たちが群れる村へは、まともな侵入はできない。だが足元は、誰であろうと死角になる。ミシェルはリッシュモンがトリスタニアの地下水道を利用していたことを思い出したのであった。

 

 アリスに案内されて、一行はサビエラ村の沼池へと向かった。だが、そんなところにまで吸血鬼が罠を仕掛けていたことは、さすがの彼らの想定をも超えていた。

 水辺を好む毒蝶モルフォ蝶に襲われ、水精霊騎士隊も銃士隊も麻痺毒を受けて動けなくなった。そんな一行のみじめな姿を遠見の鏡ごしに眺めて、エルザは愉快そうに笑う。

「バカだねえ。人間に気がつくようなことを、わたしが気づいていないわけはないじゃない。吸血鬼が正体を隠してひとりで生きていくって、すごく頭を使うんだよ」

 エルザは一年以上サビエラ村に住むうちに、この村の地形もすべて熟知していた。それゆえに、どこが監視の死角になるかも最初から読んでいたのである。

「子供なんかほっておいて、さっさと逃げればよかったのに本当にバカ。でも、人間って子供に甘いんだよね。ティファニアおねえちゃん?」

「壁にわざわざ子供だけが通れる穴を作って、アリスちゃんを逃がさせたのも、最初からそのために企んでいたのね」

「ええ、全部わたしの作戦どおり。もっとも、これだけできたのは、ロマリアのおにいちゃんがわたしの中に眠っていた特別な血の力を目覚めさせてくれたおかげだけど。とりあえずはこれで終わりね。後はあの人たちをモルフォのエサにしたら、おねえちゃんをロマリアに引き渡して、残った村の女の人たちも食べてあげる。そして屍人鬼をどんどん増やして、世界はわたしたち美しき夜の種族が支配するようになって、人間は家畜になるの。素敵でしょ」

 うっとりとしながらエルザはティファニアに吸血鬼の理想郷の夢を語った。

 しかし、ティファニアはエルザが期待したような絶望を浮かべてはいなかった。そしてエルザを睨み付けて毅然として言う。

「エルザ、わたしの仲間たちをなめないで。わたしが会う前から、あの人たちは多くの困難を乗り越えてきた。笑ってると、後悔することになるわ」

「アハハハ、おねえちゃん、ハッタリはもっとうまく言ったほうがいいよ。けど、まだそれだけ強がりが言えるんだ。その根拠、どこから来るのかな?」

「あの人たちは、まだ誰もあきらめていない。ただ、それだけで十分よ」

 ティファニアの見る鏡の中では、苦しみながらも必死に杖や剣を握ろうとする人たちがいた。そして、我が身を挺してアリスを毒鱗粉から守ろうとしているミシェルの懸命な姿があった。

 がんばって、みんな……

 勇気を捨てない限り、未来もまた死なない。ティファニアは自分もあきらめないと心の中で誓って勇気を振り絞る。その胸の中では、サハラからずっと大切に身につけてきた輝石が、静かだが力強い輝きを放ち始めていた。

 

 

 続く


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