ウルトラ5番目の使い魔   作:エマーソン

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第21話  無能王、英雄王

 第21話

 無能王、英雄王

 

 破滅魔虫 カイザードビシ 登場!

 

 

 空を闇が包んでいる。それは人類滅亡の前触れなのであろうか……

 才人とルイズが教皇によって消され、ロマリアで聖戦の布告がなされた悪夢の日からいくばくか。物語は舞台を再び現代のハルケギニアへと戻して進む。

 

 

 ロマリアを起点として、ハルケギニア全土へと広がった昆虫の雲は、もうひとつの陰謀の中心であるガリア王国へも当然のように到達していた。

 分厚い黒雲が空を覆いつくし、時間は正午だというのに深夜のように暗い。大国ガリアの首都リュティスは、その繁栄を象徴して、数万の市民たちによって喧騒の絶えない音と楽の都であるはずなのに、今のリュティスにあるのは無と恐であった。

 人々は息を潜めて家に篭り、街の店々は固く戸を閉めて開かない。

 最初、リュティスの人々は事態を深刻には捉えなかった。突如、空が闇に包まれても、珍しいこともあるものだとくらいしか思わなかった。しかし、黒雲を調査に向かった竜騎士が子供の背丈ほどもある巨大な昆虫に襲われて街中に墜落し、次いで黒雲から数十匹の昆虫が街に舞い降りてきて人々を襲うと、街の人間たちも太陽の光をさえぎる雲がおぞましい虫の大群だと知って、戦慄した。

 だがそれでも、リュティスの人たちは、自分が大国ガリアの首都に住んでいるのだからという自信からなおも楽観していたが、虫の退治に向かった空軍の魔法騎士がその度に全滅し、朝の来ない日が二日、三日と続くごとに、しだいに不安に負けるようになり、今ではすっかり、その恐怖に縮こまってしまっていた。

 唯一、ヴェルサルテイル宮殿の前でだけは、事態の解決を要求する市民たちが押しかけて騒動となっているが、王宮警護隊に阻まれて、そこで押しとどめられている。まだ流血騒ぎになっていないのが奇跡的なありさまだった。

 また、そのヴェルサルテイル宮殿にしても常の華やかさは失われている。使用人たちはもとより、貴族たちは屋敷にこもって出てこないか、大臣たちと実にもならない会議に時間を費やすばかりである。すでに、ガリアを捨てて逃げ出す貴族も少なからず現れていた。逃げ場など、どこにもないのであるが……

 

 

 今や、リュティスにあって常と変わらないのは、よほど豪胆なものか、よほど阿呆なもののどちらかに限られるようになっていた。

 いや……ただひとり、これらの光景を眺めながら愉悦の表情を浮かべている人間が一人いた。誰あろう、ガリアの王である。

「フフ、子供の頃から眺めてきたリュティスの街よ。強欲と虚飾の支配するこの街も、意外にしおらしい顔があったものだなあ」

 ジョゼフは、グラン・トロワのテラスから、街と宮殿を見下ろしながらワイングラスを傾けていた。

 彼が落ち着いている理由はふたつある。ひとつはむろん、この事態の当事者のひとりがほかならぬジョゼフだからである。

 そしてもうひとつは、彼にとってリュティスも宮殿も、さらにはガリアやハルケギニアそのものすらどうでもいい存在だからだ。昔は、ジョゼフもガリアやこのリュティスの街が好きだった頃もあった。しかし、今は違う。

「子供の頃、宮殿を抜け出してふたりで城下へ遊びに出かけたのを思い出すなあシャルルよ。思えば、あのころは俺の人生で一番満ち足りていた頃だった。どんなにバカをやっても説教と形ばかりの懺悔で許された。俺たち兄弟ふたりで、どんなことでもできると思っていたなあ」

 懐かしそうにジョゼフは独語していた。

「だが、楽しい時代はあっという間だったな。すぐにふたりともやんちゃ坊主ではいられなくなり、俺はろくな魔法も使えない無能で、お前はまれに見る天才だと、俺たちは真っ二つに分けられた。おれはひがんでそねて、歪んでいったよ。けれども、思えばひがんですねてられるだけ俺は幸せだったんだ。お前が死んでしまったら、もう思い出の街並みも箱庭のようなものだ」

 今は亡き弟に語りかけるようにジョゼフはつぶやき、感情のない目でリュティスを見渡した。そこには、幼い日の思い出にいくら胸を焦がしても、決して戻ることはかなわないという虚無感が浮かんでいる。自分はもう、決して取り戻すことのできないものを失ってしまった。ならば、その入れ物だけ残していてもなんの価値があるだろう。

 少し離れたテーブルの上には、貴族や市民からの、この事態をなんとかしてほしいという嘆願書が山と積まれているが、ジョゼフはその一枚にも目を通してはいない。最初からやる気がないのと、第一それらは無能な大臣たちが責任を押し付けようとこちらにまわして来た物だ、無能王なら失敗しても当然だからどうとでもなるというわけだろう。笑う気にもなれない。

 それでもジョゼフが王の座から引き摺り下ろされないのは、単に代わりがいないからに他ならない。ジョゼフが王位につくときに敵対する貴族は粛清され、王位の継承権のある人間はジョゼフの娘のイザベラしかおらず、ジョゼフに換えてイザベラをなどと考える人間は皆無である。タバサことシャルロットを担ごうとするオルレアン派は権力から遠い少数派に過ぎない。

 誰からも好かれない無能王だが、いなければ国がつぶれるので仕方なくいてもらっている。ジョゼフはそのことを十分に自覚しており、それを最大限に利用してやるつもりでいた。そのためなら、無能と蔑まれようが痛くもかゆくもない。

 無能王の仮面の下の悪意に、彼をあなどるガリアの人間は気づかない。気づいているのは、彼の悪意を利用しようとするロマリアの人外の者たちだけで、彼らの野望はまだジョゼフを必要とし、ここに使者を送り込んでいた。

 それは、ジョゼフを居丈高な美丈夫とするなら、対してすらりとした美少年であり、その双眼にはオッドアイが光っていた。今や教皇とジョゼフのパイプ役を担うジュリオの人を食った笑顔が、部屋の奥からテラスのジョゼフを見ていたのだ。

「ご機嫌ですね。人の不幸を喜ぶのは、あまりいい趣味とは言えないと世間では言いますよ。リュティスの市民も気の毒ですねえ」

「ふっははは、その不幸を作り出した張本人がよく言うわ。これ以上白々しい文句は他にあるまいな。それに、余は市民の不幸など喜んではいないぞ。使い飽きた玩具を捨てられるのでほっとしているだけだ」

 ジョゼフはジュリオのまるで人事のような態度に愉快そうに笑った。

 しかし、ジョゼフとジュリオの互いを見る目は少しも笑ってはいない。互いに相手を利用する存在としては認めても、信頼関係などは生まれるはずもないことを最初から承知しているからだ。

 それゆえか、ジョゼフはジュリオから眼を離すと、まるで最初からそこに誰もいなかったように虚空に話し続けた。

「シャルル、俺と血を分けたのになにもかもが似ていなかった弟よ。俺はなんのために生まれてきたのだろうな? 俺が生まれず、お前だけ生まれていたら、今頃ガリアはまれに見る名君をいただいて大いに繁栄していたろうに。そんな弟を持った兄の俺は本当に大変だったんだぞ。だがそれでもよかった。俺はお前を一度でも見返して、悔しがらせてやることだけを思ってあの頃を生きてきた。しかし、それが絶対にかなわないとなった今、俺にできるお前へのはなむけは、お前の愛したこの世界を壊しつくすことだけじゃないか。どうだ? あの世とやらで、少しは怒ってくれているかな」

 人はひとりでいるときにもっとも多弁になるというが、ジョゼフもそうした面では人間らしかった。ただし、同席しているジュリオを人間と見なしていないという意味と、独語する内容はもっとも非人道性に値しているが、相対する相手はそもそも人間ではない。

「先の両用艦隊とロマリア軍の戦いで何人が弟さんのところに行かれたんでしょうねえ? 地獄の特等席はあなたの予約でいっぱいでしょう」

「なるほど、それは我ながら善行を積んだものだな。これで本来地獄行きになるはずだった悪人が救われることになる。いったい何百何千人の盗賊や詐欺師が余に感謝してくれるのか、むずがゆいものよ」

 ロマリアの陰謀に加担し、両用艦隊をロマリアに攻め入らせたことに後悔はない。無能王という蔑称はあくまで他人が勝手に呼んでいるだけで、ジョゼフは自分のやることがどのような結果を招くのかを想像できない暗愚の器どころか、世界をゲーム盤に見立てて遊ぶような悪魔的な頭脳を持っている。

「お前たちと組んだことを、余は今のところは正解だと思っている。このまま日が差さなければ作物は腐り、民は飢えで遠からず死に絶えることになるだろう。たいした力を持っていると、褒めてやってもいい。しかし、どうにも地味で退屈だな。余としては、やはり英雄譚のように派手に血みどろなほうがよい」

「できますとも、陛下にご承認いただければ、血沸き肉踊る最高の活劇が幕を開くでしょう。どうです? エルフを相手に世界の覇権を争ってみるつもりはありませんか」

「うわっはっはっはは! 馬鹿め、最初から誰にも勝たすつもりもないくせによく言うわ。お前たちに比べたら、余は公明正大な善君だとよくわかる。だがまあいい、余と対局できる相手も絶えて久しい。勝ち目のないゲームで世界を道連れにするのもまた一興かもしれん」

「では、陛下」

「うむ、ガリア王国はロマリアの要請に応じて聖戦に全力で参戦する。ふはは、日ごろ始祖への信仰を口やかましく唱える貴族どもは教皇様の勅命には逆らえん。自分で言い出したお題目どおりに死地に赴けるなら本望だろう」

 ジョゼフは何十万人という命を奪う決定をしたというのに、まるで夜店でくじを当てた子供のようにうれしそうにわらった。あの日、ロマリアで起きた天使の奇跡と聖戦の開始はガリアにもすでに届いていた。それは両用艦隊がロマリアに攻め入った件を、司令官の反逆という形で対内的にはやっとおさめたばかりの大臣たちを愕然とさせるに充分なものだったが、大臣たちが二の足を踏んでいるうちに、ジョゼフは何のためらいもなく決めてしまったのだ。

 こうなってしまったら、聖戦に反対する者は異端者として罰せられる。ジュリオは満足というふうに、うやうやしく頭を垂れた。

「ご英断に感謝します。陛下のように理解あるお方がおられたことは我々にとってたいへんな幸福です。もうあと短いことと思いますが、今後ともよろしくお願いいたします」

「なに、お前たちには借りがある。始祖の円鏡か、なかなか使えそうなおもちゃよな」

 そう言うとジョゼフはテーブルの上に目をやった。そこには、乱雑に積まれた書類に混じって古ぼけた小さな鏡が置いてあった。だが、一見すると町の古道具屋にでも行けば二束三文で手に入りそうなこの鏡こそ、始祖の祈祷書と同じ始祖の四つの秘宝のひとつであり、ロマリアに伝わっているものであった。

「それはお譲りします。わたくしどもにはすでに不要なものですが、陛下のお役になら立てるでしょう」

「フ、お前たちには虚無の力などは、大衆をその気にさせる奇跡だけ演出できればいいのだからな。だが、余がこれでさらなる強力な虚無を身につけて、お前たちをもつぶしにかかったらどうする?」

 教皇たちは、ジョゼフが虚無の担い手であることをかなり前から知っていた。別に見せびらかしてきたつもりはないが、何百年も前から虚無を研究してきたロマリアのこと、虚無の系統は始祖の血統から現れるという伝承を頼りに、その可能性のある人間をマークし続けていたのだろう。

 もっとも、ジョゼフには秘密にするつもりは毛頭なかった。火竜山脈でメルバを復活させるためにエクスプロージョンを使ったときでも、おもしろそうなおもちゃをひとつ手に入れたくらいの感覚しかない。むろん、虚無の担い手の使命感などは欠片もない。

 そのことをジョゼフが強調すると、ジュリオは予定していたように笑いながら答えた。

「そのときは、我々も真の力をお見せいたしましょう。まあ当面は、我々の利害は一致しております。血迷ってロマリアに攻め込んだ狂王ジョゼフは実はエルフに操られていましたが、教皇聖下は寛大なる慈悲の心でこれをお許しになられました。そして改心したジョゼフ王は教皇聖下の素晴らしき友人としてともにエルフと戦う。よいシナリオでしょう? ぜひ共演願いますよ」

 ジョゼフは失笑を抑えきれずに、くっくと喉を鳴らした。

 国民からロマリアに弓引いた悪王と、大臣たちの必死のもみ消しも空しく過去最悪の評判のジョゼフだが、国民の支持を取り戻す方法はたやすい。リュティスの中で適当に怪獣を暴れさせ、それをジョゼフがエクスプロージョンなりを使って倒す芝居をする。そしてそれをロマリアが虚無の系統だと認定して褒め称えれば、凶王一転して英雄王の誕生だ。

 笑える笑える。あまりに簡単すぎて笑うしかない。ほんの一時間ほども道化を演じれば、無能王ジョゼフはガリアの歴史に燦然と輝く名君になれる。努力? 才能? なんの必要もありはしない。

「ああ、確かにいいシナリオだ。大衆というやつは、こういう単純な美談が大好きだからな。そして、我がガリアが動けばゲルマニアや、トリステインも黙ってはいられない。さて、ゲルマニアの野蛮人やトリステインの小娘はどう出るか? 確かに見ものではあるな。教皇聖下には、ジョゼフが友情を誓っていたと伝えてくれたまえ」

 そう言ってジョゼフはジュリオを下がらせた。後には、また人気のなくなった部屋が茫漠と広がっている。

 恐らく、もうジュリオはこの城のどこにもいないだろう。ジョゼフは、教皇たちの持つ魔法ならざる異世界由来の力を別に恐れてはいなかった。この世には、思い通りにならないことやわからないことが山のようにある。いちいち驚いているのも面倒くさいことだ。それに、大事なのは力の意味や質ではない、それをどう利用するかにある。

 そう、ゲームは手駒がなければはじまらない。それも優秀なものが必要だ。多少腕に自信があったところでキングだけで勝てるチェスなど存在しない。ポーンはしょせん捨て駒、ビショップやルークは優秀だが派手好みのジョゼフの趣味からすれば地味だ。ならば、縦横に動いてキングの望みをかなえるクイーンがなくては話にならないだろう。

 ジョゼフは呼び鈴を鳴らした。使用人の待機する部屋の扉が開き、黒い髪の女性が入ってくる。

「お呼びですかジョゼフ様」

「話は聞いていたろう。ロマリアの奴らめ、余を絞りつくせるだけ利用するつもりのようだぞ。はは、プレゼントまでくれおったわ。どうやらもう勝ったつもりでいるようだが、ゲームとは不利なときからはじめるほうが楽しいものよ。お前も連中には借りを返したかろう? ともに逆転の秘策を練ろうではないか」

 楽しげにジョゼフが話しかけると、女は顔を上げてジョゼフを見返した。

 シェフィールドであった。

 しかし、その顔は左ほほに引きつったような火傷の痕が残り、心なしか左足をかばっているように見える。それは、あのガリア・ロマリア間の戦争の際、才人たちのメーサー車の爆発で受けた傷であった。

「私は、すべてジョゼフ様のお心のままに」

「ミューズよ、傷はまだ癒えぬか?」

 沈んだ様子で答えたシェフィールドに、ジョゼフは短く問いかけた。その言葉には、相手を思いやる愛情が込められているわけでもなく、ただイエスかノーかを問うそっけなさだけがあるようなものだったが、身を案ぜられたシェフィールドは、喉になにかが詰まったような声で、苦しげに口を開いた。

「なぜで、ございますか?」

「なぜ、とは?」

「なぜ、私を生かしたのでございますか? 私はあのとき、トリステインの虚無に敗れて死ぬはずでした。あの炎の熱さ、皮の焼けていく感覚はしっかりと覚えています。事実、私は今日まで死線をさまよっていました。ジョゼフさまのご期待に応えることができなかった負け犬の私めに、なぜでございますか!」

 シェフィールドは一気にまくしたてた。

 事実、彼女はあの戦いの最後に、確実に死んでいたはずであった。それを救ったのは、驚くべきことにジョゼフだった。

「ふむ、なぜかと問われたら一応答えねばならんか。とりあえず、新しく覚えた魔法を使ってみたかったからかな。始祖の円鏡が教えてくれた、『テレポート』か。いろいろ役立ちそうな魔法だ」

 そう、ジョゼフは『テレポート』を使い、焼死寸前のシェフィールドを救い出していたのだ。ただし、ルイズの使った『テレポート』と魔法は同じであるものの、跳ぶ距離がルイズの場合は見える範囲がせいぜいだったのに対して、ジョゼフはガリアから一気にロマリアへとケタが違う。また、再びガリアへと瞬時に戻ったことでルイズたちに存在をまったく気取られなかったことも含めると、ジョゼフの才覚はルイズのそれを大きく凌駕していた。

 しかし、無傷ですんだわけではない。ほんの一瞬でも灼熱地獄に身をさらしたことは、ジョゼフの身にも少なからぬ痛みを強いていた。魔法薬で治療してはいるものの、ジョゼフの体のあちこちにはまだ水ぶくれや腫れが残っており、痛みもかなり残っているはずだ。

「ご期待に添えられないばかりか仕えるべき主人に助けられるなど、私は役立たずの能無しでございます。いかなる罰をもお与えください」

「ううむ、そうは言ってもな。正直、罰といっても何も思いつかんのだよ。余は命じた、お前はしくじった、ただそれだけのことではないか」

「お怒りではないのですか?」

「怒る? 俺がか? そういえば三年ほど、怒った覚えがないなあ。もっとも、怒れるほど余が感情豊かであれば、世界を灰にしようなどとは思うまいが」

 ジョゼフは自嘲げに言った。普通の人間なら持っていて当たり前なものを失ってしまい、それでも狂うことも壊れることもできない、心に大きな虚無を抱えた人間のあがきを自分自身であざ笑う。そんな笑いだった。

「では、なぜお怪我を負ってまで私をお救いになられたのですか? 私のような非才の身、代わりを見繕われたほうがよろしくありましょうに」

「ほほう、お前でもそこまで落ち込むことがあるのだな。うらやましい限りだ。もう一度正直に言うが、余はお前を怒ってなどおらん。代わりをなどと言われても、次がお前より優秀である保証もないしな。なによりめんどうくさい」

 言葉を飾っている様子はなく、シェフィールドはジョゼフの言葉がすべて本音だと呑み込むしかなかった。

 要するに、自分はジョゼフにとって適当な駒であり、ゲームの上で必要であるから助けられた。一心に忠誠を尽くしても、人格はどうでもよくて求められるのは能力のみ、それだけの価値なのだと、悲しげに目を伏せた。

 だが、ジョゼフはそんなシェフィールドの葛藤に気づく様子は見せないが、彼女に驚くことを告げた。

「だがまあ、そんなことよりも、余はお前に頼みたい仕事がある。お前にしか頼めないことだ」

「は……」

「これまでどおり余に仕えよ。そして、余よりも長生きしろ」

「は、えっ……?」

 シェフィールドは意味がわからなかった。ジョゼフの言葉を何度反芻しても理解できず、思わず呆けた顔になってしまう。

 するとジョゼフは、くっくといたずらを成功させた子供のように笑った。

「神の頭脳の異名のお前も意外と頭が固いものだな。簡単なことだ。余がこれからなにをどうするにせよ、勝とうが負けようが余はあと一年も生きてはいまい。しかし、その果てに余がどんな形で最期を迎えるかは問題だ。世界最悪の大罪人として後悔と絶望の中で死ぬのか、それともほかのなにかか……興味は尽きぬが、どんな形になるにせよ、それを見届ける役が必要だ。お前は余の死に目に立ち会って、余がどんなふうに死んでいくのかを余に教えろ。そして、いずれあの世とやらでまとめて聞かせろ……そのために、一分、一秒でも長く余より生きて見届けるのだ。どうだ? お前にしか頼めないことだ」

「はい……はい、ジョゼフ様」

 シェフィールドは涙声になっていた。失敗を重ねて、自己の存在価値をすらなくしかけていたのに、それどころか主人の残りの人生にすべてを捧げろと言ってもらえたのだ。

「これに勝る光栄はありません。ジョゼフ様」

 

 と、そのときであった。彼らのいるグラン・トロワの床が揺れ、次いで街の方向に火の手が上がるのが見えた。

 

「ジョゼフ様、あれを」

「ほう、なるほど仕事の早いことだ。奴らめ、本格的にガリアを道具にするつもりらしいな」

 ジョゼフはあざけるように言った。

「怪獣だ」

 街では、巨大な一つ目を持つ甲虫のような怪獣が暴れていた。片腕が鎌になっており、それで建物を破壊し、さらに家々を踏み潰しながら、またたくまに街の一角を火の海に染めている。

 しかも一匹だけではない。同じ姿をした怪獣がさらに二匹、計三匹で街を蹂躙していた。

「ロマリアの連中のしわざでしょうか?」

「ほかに誰がいる? 教皇め、確かに協力するとは言ったが気の早いことだ。せっかくの酒がこぼれてしまったわ」

 他人事のように、迷惑げにジョゼフはつぶやいた。

 空気を震わせて、およそ数十リーグはあるかなたから怪獣の暴れる振動が伝わってきてジョゼフとシェフィールドの顔をしびれさせる。

 ガラス窓が震え、テーブルの上に置いてあったワイングラスが床に落ちて赤い水溜りを作っていた。このワインは、産地がオークに襲撃されて全滅したために、今ではもう手に入らない逸品ものの最後だったのに、もったいないことだ。

「代わりを持て」

 つまらなさそうにジョゼフは命じた。すぐさまシェフィールドが走るのを横目で見て、ジョゼフはテラスの手すりに大柄な体を寄りかからせた。

 眺める先では、三匹のグロテスクな容貌を持つ怪獣が彼の国の街を破壊している。普通なら、自分の国が壊されていくのを目の当たりにした王は激昂するものなのだろうが、ジョゼフの心にはなんの機微もない。

 人間の街というものはよく燃えるものだ、と、ジョゼフは妙な感心をした。あの炎の下では、何十か何百かの人間が悲鳴をあげてのたうっているはずだが、そんなものは数十リーグのかなたまでは届かない。もっとも、届いたとしてもジョゼフはうるさいという感想以外は抱かないであろうことだけは確かといえるが。

 そうそう、うるさいといえば大臣の一人が血相を変えて飛び込んできたが、ジョゼフは適当に手のひらを振って追い返した。わめいていた内容は聞かずともわかるので一字たりとも耳孔の通過を許可していない。

 そうこうしているうちにシェフィールドが新しいワインを用意してやってきて、ジョゼフは乾いていた喉をうるおすと、再び燃えている街に目をやった。

「見てみろ、我がリュティスの街が稚児のたわむれに使う積み木のようだ。いやはや、なかなかの破壊力であるな。しかし、なんとも醜い姿ではないか。あれがこの世でもっとも尊く美々しい教皇陛下の僕だとは、まったく世も末じゃないか」

「なかなかの破壊力でありますね。ですが、あれほどの数の怪獣をどこから呼び出してきたのでしょう?」

 シェフィールドの疑問は案外すぐに解決することになった。暴れる三匹の怪獣を食い止めようと、やっと出動してきた竜騎士隊の姿が認められたとき、空を覆っている黒雲から数千、数万匹の虫の群れが舞い降りてきたかと思うと、それが合体して同じ怪獣になってしまったのだ。その数二匹、合計して五匹。

「なるほど、あの雲は太陽をさえぎる以外にも使えるのか。おお、さっそく意気込んで出て行った竜騎士どもが蹴散らされているぞ。簡単に作り出せる割にはなかなか強力な怪獣じゃないか」

「ですね。チャリジャが残していった、我々の残りの手駒の中で、あれより強力なものはありますが、もしも空を覆いつくしている虫をすべて怪獣に変えられるのなら、話になりませんね」

「戦はなにをおいてもまず数であるからな。無尽蔵の数を相手に勝てるものはおらん。ははあ、なるほど、教皇め。ここで圧倒的な力を誇示して、余に逆らうだけ無駄だと間接的におどしをかけるつもりだな。念の入ったことだが愚かだな、余は進んでお前たちの暴挙に協力してやろうと言うのに」

 ジョゼフは呆れたようにつぶやいた。今言ったことは嘘ではない……世界を滅亡させるなどという、歴史上のいかなる王も嗜んだことのない遊戯が目の前に転がっているというのに、ここで台無しにするのはもったいないではないか。廃墟に転がる何万という屍を眺めて、無限の後悔を得られるか否かを試すまで、裏切る必要などないではないか。

「さて、街にもいい塩梅に火が回ってきたし、竜騎士どもも適当な数が落ちたな。そろそろ頃合かな、ミューズよ?」

「はい、今なら市民と軍の両方の視線を釘付けにできます。これ以上は、観客を減らす一方になるかと。ジョゼフさま」

「では行くか、主演俳優という柄でもないが、たまには自分の体を動かすのも悪くない」

 ジョゼフは背伸びをしながら立ち上がると、愛用の杖を持って歩き出した。その先には、シェフィールドが飛行用のガーゴイルを用意して待っている。

 シナリオは確認するが簡単だ。暴れる怪獣をエクスプロージョンで吹き飛ばす、待機しているロマリアの手のものが伝説の虚無の力だと騒ぎ立てる、英雄が誕生する。以上で終わりで、田舎劇場の三流脚本家でも書ける単純極まりない筋書きである。もっとも、愚民を騙すにはこの程度の三文芝居で十分であろう。

 今頃はジュリオが手を回して、ジョゼフが登場するのを今か今かと待っているに違いない。お膳立てはすべて整った。

「シャルルよ、見ているか? 無能王と呼ばれているお前の兄は今日から英雄王だ。お前は王子だったころ、将来はガリアの歴史に残る賢王になるとうたわれていたが、俺は英雄だ、英雄だぞ。どうだ、俺はすごいだろう? いくらお前でも、英雄にはなれなかったろう。だがまあ心配するな、いずれ世界の人間どもをみんなお前のところに家来として送ってやるから、そうしたらお前は天国でハルケギニア大王でも名乗るがいい」

 空を見上げてジョゼフは独語した。闇に包まれた空のかなたに天国があるかどうか、そんなことは知らない。

 ただし、ひとつだけ確信があるとすれば、自分が行くのは生であれ死であれ地獄だということだ。そして自分は、その地獄を望んで深くしようとしている。幾万という魂を冥府に送り、暗い望みを満たそうとしている。

 果たして神がいるとしたら、どういう罰を自分に下すのだろうか? いいや、神など存在しない。なぜなら、このでたらめな世界のありさまと、自分という人間のできそこないがいることがそのなによりの証だ。

「準備できました、ジョゼフ様」

「行け、そして我が親愛なるガリア国民たちに希望をプレゼントしようではないか。今まで王様らしいことをしてこなかった無能王の罪滅ぼしだ。お前たちの前に天国の門を開いてやろうじゃないか!」

 その言葉に嘘は一片も含まれてはいなかった。完全に、文字通りの意味で。

 希望からいっぺんに転落したとき、人はもっとも深い絶望に包まれる。その絶望を抱えたまま、天国の門をくぐることになる罪なき民はいったいどんな顔をするのか、興味は尽きない。そしてうらやましい。なにを奪われようが失おうが、反応する感情はとうに枯れ果ててしまった。

 だからこそ求める、真の絶望と後悔をこの心に取り戻すために。そのために、この世は地獄になってもらわねばならないのだ。

 

 ジョゼフとシェフィールドを乗せたガーゴイルは飛び立ち、怪獣が暴れるリュティスの市街へと向かう。

 破壊と絶望を約束した茶番劇の幕が上がった。脚本・ヴィットーリオ、演出・ジュリオ、主演・ジョゼフの豪華キャストが自慢のこの劇の鑑賞券の代金は命と流血である。

 

 

 だが、完全にジョゼフの箱庭と化してしまったかに見えるリュティスにあって、強い意志で彼らに逆らおうとする者たちがいた。

 怪獣が暴れるリュティスの、その地下数十メイルの地底。トリスタニア同様に、無数の下水道や地下道がクモの巣のように行き交うその中を、二人分の足音が響いていた。

「本当に、この下水道が王宮までつながってるのかね? なんかさっきから同じようなとこばっかり回ってる気がするのね」

「そりゃ当然だ。抜け道ってのは追っ手を撒けるように作ってあるんだから。心配するな、方角は確かに王宮のほうへ向いている」

「でも、暗いし怖いし汚いし、さっきネズミの家族が足元走っていったのね。きれい好きのシルフィとしてはたまらないのね、きゅいい……」

 カツンカツンという義足交じりの足音と、ペタンペタンというたよりない足音がせまい石壁の通路に響いている。

 ひとりは町娘の着こなしながらも引き締められた肢体と鋭い眼光が野性味を覗かせ、もうひとりは大人びた容姿ながらもおどおどしていて長身にも関わらず幼い雰囲気を出している。だが、ふたりとも先に進もうという意思だけは強く瞳に宿していた。

 何者か? などと聞くまでもなく、こうしてヴェルサルテイル宮殿を目指す者はジルとシルフィードのふたりしかいない。

 レッドキングとゴルザが戦った、あのファンガスの森での戦いから、ふたりはリュティスにやってきて機会をうかがっていたのだ。

 目的はもちろん、宮殿に幽閉されているタバサの母とキュルケを奪還するため。だが、警戒厳重な宮殿に侵入する方法が見つからずに、日に日に焦燥に駆られていたのだが、意外な人物が救いの手を差し伸べてくれた。

「そこの横穴に入れば、今は使われていない水道跡に出られる。そこから、王宮内部の噴水につながる水道へ出られるはずだ」

「本当に、その地図信用できるのかね? あのわがまま王女のことだから、衛士隊の宿舎のまん前に出たなんてことになったら冗談じゃすまないのね」

「……疑うということは、安全を保つ上で必要なことだ。だが、行動を起こすには信じないと始まらないよ。あのお姫様、イザベラ様だっけ? 私はそんなに悪い子には見えなかったけどね」

 

 そう、ふたりにこの抜け道を教えてくれたのは過去何度もタバサを苦しめてきたはずのイザベラだった。

 

 もちろん、イザベラのことを好いていないシルフィードはイザベラに力を借りようなどとは考えていなかった。出会ったのは偶然で、施しのパンを求めて立ち寄った聖堂で、たまたま隣に並んだ黒いフードを目深にかぶった女性に、ジルがなにげなく声をかけたのだが。

「もし、さっきから顔を伏せられていますが、具合でも悪いのですか?」

「……うるさいね、ほっといてくれよ」

「んなっ! なんなのね、ジルがせっかく親切で言ってあげてるってのに! ん? お前……あっ! バ、バカ王女!」

 それがイザベラだったのだ。

 もちろんその後、シルフィードの大声で騒ぎになりかけ、慌てたジルがふたりを無理矢理に連れ出してなんとか事なきを得た。

 だが、突然わけもわからずに連れ出されたイザベラはたまったものではない。

「なんなんだいお前たちは! わたしをどうしようって言うんだ。人買いか? 身代金でもとろうってのかい!」

「キンキンうるさいのねバカ王女! おねえさまにこれまで散々ひどいことしておいて、ここで会ったが百年目なのね」

「おねえさま? 誰のことだい? わたしはあんたなんか知らないよ」

「タバサおねえさまのことなのね! あんたの悪行、わたしがきっちり思い知らせてあげるの」

「タバサ? そう、お前たちシャルロットの知り合いってことかい」

 それでシルフィードがイザベラと乱闘になりかけたのを、ジルがおさえたのは言うまでもない。

 しかし何故こんな街中に王女のイザベラが? ジルも、無能王の娘の悪い評判はしばしば耳にしていたが、実際に目にするのは初めてというよりも信じられないのが大きい。そのため事情を納得するまでには少々時間がかかったが、要約するとイザベラの身が危険になってきたということであった。

「こないだの両用艦隊の反乱くらい知ってるだろ。あれで、王権への信頼が一気になくなったのさ。それで、カステルモールの奴が言うには、一部の貴族たちの中でとうとう王の暗殺まで持ち上がってるらしい。当然、王の娘のわたしも安全じゃないから、プチ・トロワから逃げ出してきたわけさ」

 吐き捨てるようにイザベラは言った。普通に考えたら、王宮の中にいたほうが安全と思われるが、イザベラはそれを捨てていた。今の王宮に、いざとなったときイザベラを本気で守ろうとする兵士がどれだけいるか? イザベラは少なくとも、兵士は主君に無条件の忠誠と奉仕をおこなう人形ではないということを、今は知っていたのだ。

 権力あってこそ、人は人にかしづく。イザベラの横暴は、その権力を失ったときへの恐怖の反動でもあったかもしれない。

「わたしは嫌われ者で、家臣たちは本音ではシャルロットを好いていることくらい理解してるさ。カステルモールのやつくらいかね、わたしの味方なのは……ま、そいつも各地の小反乱を抑えに出て行って、もう、宮殿でわたしの安全なとこはないのさ」

「あんたの父親、ジョゼフ王に守ってもらおうとは思わなかったのかい?」

「父上は、会ってさえくれなかったよ。バカ娘に愛想を尽かしたのか知らないけど、わかってるさ……父上は、わたしに愛情なんか持っちゃいない。物は与えてくれるけど、思い返せばそれしかしてくれたことないんだ」

 そうして、イザベラは生まれてから今日まで、あの父に頭をなでてもらった思い出のひとつもないと自嘲げにつぶやいた。

 そんなイザベラの、冷え切った親子関係を聞いて、ジルとシルフィードも心にやりきれない思いを抱かざるを得なかった。

 ジルは以前、家族の復讐のために命をかけた。そうするだけの愛が家族にあったからだ。

 シルフィードも、タバサの使い魔になる前は両親と暮らしていた。厳しいながらも、大切にしてくれた父と母だった。

 けれども、イザベラにはそれがない。家族に愛されることなく育たなくてはいけなかった、そんな苦しみを吐露した彼女に、憎らしさを感じ続けてきたシルフィードでさえも言葉を詰まらせずにはいられなかった。

「なんだい、同情なんかいらないよ。それより、お前たちシャルロットの連れなんだろ? 呼び出した覚えもないが、あの人をバカにした面が見えないがどうしたんだい」

 それでやっと、シルフィードは自分の目的を思い出した。

 ただこのとき、シルフィードにイザベラに助けを求めようという気持ちはなかった。ひねくれた育ち方をした環境には同情するが、その腹いせにタバサに無理難題を何度も押し付けてひどいめに合わせてきたのは事実だ。そのことを思い出すとむかっ腹が立ち、シルフィードはジルが止めるのも聞かずに、タバサの身に起きたことをイザベラに洗いざらいぶちまけた。

「シャルロットが、行方不明? しかも、叔母上が宮殿に幽閉されてるですって!?」

「そうなのね、全部あんたのお父さんのせいなのね。お前なんかに関わってる暇なんかなかったのね! ジル、行こうなのね」

 嫌いな相手に思う様言い尽くせたことで、シルフィードはもう顔も見たくないというふうに立ち去ろうとした。

 だが、肩をいからせて立ち去ろうとするシルフィードをイザベラは呼び止めた。

「待ちな、意気込みはいいが、どうやってヴェルサルテイルに忍び込むつもりなんだ? わざわざ捕まりにいくようなもんだよ」

「そ、そんなこと、お前に言われなくてもわかってるのね。だから困ってるのね!」

「ふん、嘘のつけない奴だね……まあいい、こいつを持ってけ」

 そう言うと、イザベラはジルに畳まれた羊皮紙の紙片を投げ渡した。それが、王宮へとつながる地下道の地図だったのだ。

「あんた、これは!」

「少し前ならわたしが連れて入ってもよかったが、今のヴェルサルテイルは要塞みたいなもんだ。だが、その抜け道は王族が万一のときのために用意されたもんで、存在を知ってるのは王族だけだ。やる気があるなら使ってみな、たぶん気づかれずに忍び込める唯一の方法だよ」

 そんな大事なものを惜しげもなく……さすがのジルも驚いたが、イザベラは一顧だにしなかった。

「勘違いするんじゃないよ。別に罪滅ぼしなんてつもりじゃない。あのシャルロットが簡単にくたばるものか、わたしがなにをやってもいつも悔しがらされるのはこっちだった。いずれまた、わたしを笑いに帰ってくる。だから、あいつの一番大切なものをわたしのものにしておいてやるのさ。「あんたの母上はわたしのおかげで助かったんだよ」ってさ! ははっ、あいつは一生わたしに頭が上がらなくなるんだ!」

 そうやって一方的に笑うと、イザベラはすっとジルとシルフィードに背を向けて歩き出した。なかば唖然として見送るジルとシルフィードの前で、粗末なフードに身を隠したイザベラの姿はあっというまに町の風景の中に溶け込み消えていく。

 どこへ向かったかはさだかではない。去り際に、ジルがどこへ行くのかと尋ねたときも、知人のところでしばらく身を隠して、あとはそれから考えると言い残しただけであった。

 しかし、嫌われ者のイザベラをわざわざかくまう奴がいるのだろうか? まして権力も金もない今のイザベラをかくまうなど、そんな物好きな人間が……?

 イザベラの考えはシルフィードにはわからない。しかし、大切なことは、念願であった王宮への侵入方法が手に入ったということである。

「あいつ、本当におねえさまを助けるつもりなのかね……?」

 わからない……シルフィードの知っているイザベラは残忍酷薄で、タバサの不幸を知っても笑いこそすれ助けようなんて絶対にしなかったはずだ。

 それでも、立ち止まることは許されない。今の自分たちには、あえて虎穴に飛び込むしか道はないのだから。

 

 イザベラの地図を頼りに、ふたりは下水道から迷路のように地下道を歩き、とうとう宮殿の真下に位置する終点にたどり着いた。

「ここだ、上がるぞ」

 暗い通路の行き止まりに、古びた鉄のはしごが十数メートルの高さにまで伸びている。その上はふたになっているようで、人一人分くらいのすきまから地上の光がわずかに漏れてきている。

 ジルがまず、さびだらけのはしごを昇り始めた。それに続いて、シルフィードも昇り始める。

「うう、汚いはしごなのね。シルフィはきれい好きなのに」

「文句を言うな。シャルロットはきっと今頃、もっと大変な戦いをしているんだぞ」

「そ、そうね! おねえさまのためなら、ばっちいのくらいなんてことないのね!」

 シルフィードは甘えてなんかいられないと自分を叱りつけた。だがそれにしても、ジルはするすると猿のようにはしごを昇っていく。とても片足が義足だとは思えない身軽さに、さすがはおねえさまのおねえさまだと信頼を深くした。

「出るぞ、これから先は私がいいと言うまでは一言もしゃべるな」

 天井のふたに手をかけてジルは言った。シルフィードは慌てて手で口を抑えようとして、はしごから手を外しかけてまた慌てて戻した。

 抜け穴のふた、多分外からはマンホールのようになっているのであろうそれを、ジルは力を込めて持ち上げた。

 パラパラと砂が降ってくる。そして、そっとすきまから顔を覗かせてあたりを確認し、素早く外に飛び出すと、シルフィードに上がってこいと合図した。

”ここは……やった! 間違いなく王宮なのね”

 そこはヴェルサルテイル宮殿西花壇の水車小屋の片隅であった。ジルが注意深くあたりをうかがっているが、どうやら回りに衛兵はいないようであった。

「案内できるか?」

 ジルの問いに、シルフィードは自信たっぷりにうなづいた。幸いなことに、ここからキュルケとタバサの母がとらわれている牢はさして離れていない。王宮の地形は何度も空から見てバッチリ頭に入っている!

 シルフィードは駆け出し、ジルは辺りを警戒しながら小走りで続く。よくわからないが、今王宮の中は手薄なようだ。

”おねえさま、あなたの使い魔は立派にお役に立ってみせますなのね。がんばるのね!”

”おかしい。宮殿の中だってのに妙に人の気配がしない。いやな予感がする……思い過ごしならいいんだが”

 ふたりは走る。キュルケとタバサの母を奪還し、帰りは抜け道を使ってリュティスの郊外まで逃れる。

 あとは頃合を見てシルフィードで一気にトリステインに飛び込む。そうしたらもうガリアは手を出せない!

 

 

 だが、ふたりの計画が成功する可能性はこの時点で限りなく低くなっていた。

「ジョゼフ様、王宮に侵入者が……おや、これはこれは。シャルロット様の使い魔の仔竜ですよ」

「ほお、おもしろい。シャルルへのみやげ話がもうひとつできそうだな。遊んでやれミューズよ、なんなら殺してもかまわんぞ」

 

 

 続く


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