ウルトラ5番目の使い魔   作:エマーソン

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第73話  悪魔に魅入られた姉妹

 第73話

 悪魔に魅入られた姉妹

 

 くのいち超獣 ユニタング 登場!

 

 

 人には歴史があり、歴史とは過去の積み重ねに他ならない。

 生きるうえで、人間は他者と関わりを持たずに過ごすことはできない。それは友人関係だったり、買い物で店員と話すなど大小さまざまで、いちいち数えていたらきりがない。

 しかし、人と人との関わりは、必ずしも直接会ったことによるものだけとは限らないのだ……

 

 クルデンホルフ大公国の一人娘、ベアトリスに仕えるエーコ、ビーコ、シーコの三姉妹。彼女たちはトリステインのある貴族の出身で、実家が没落していたところをたまたま側近になりうる人材を求めていたベアトリスに拾われた。

 それ以来、彼女たちは貧しい生活から救ってくれたベアトリスへの恩を返すため、彼女の手足となって働いている。その献身ぶりは恩義を受けているからとしても非常に熱心で、ベアトリス自身も歳が近いこともあって彼女たちを非常に信頼していた。

 が、ベアトリスは彼女たちを”偶然”見つけただけだと思い込んでいるが、本当にベアトリスとエーコたちが偶然出会ったという証拠はどこにもない。世界は複雑にからんでつながっている。初対面だと思っていた相手が、過去にどこかで関わっていたことなどはざらにある。

 だが、普通ならば「奇遇だね」の一言で、笑い話ですむものが、時として思いもかけない因縁を秘めていることもある。

 

 少し時間をさかのぼり、小さな昔話を語らねばならない。

 それは、決して特別な人間ではなく、ごく平凡なある貴族の姉妹の物語。

 

 ……昔、といってもほんの半年ばかり前のこと、トリステインにとても仲のよい十人の姉妹がいたという。

 トリスタニアに建てられた、大きくてきれいな屋敷。

 庭には花が咲き乱れ、白亜の大理石でできた邸内はきれいなクリスタルのシャンデリアに照らされて夜でも明るい。

 そんな屋敷に、その姉妹は父や母といっしょに住んでいた。

 

 責任感が強く、妹たちのことをいつも思っている長女セトラ。

 働き者で、姉妹の世話を一手に引き受けている次女エフィ。

 頭がよく、姉を支えることを生きがいにしている三女キュメイラ。

 姉にあこがれて、勉強にいそしんでいる四女ディアンナ。

 堅苦しいことを嫌い、貴族である自覚もなく遊び歩いている赤毛の五女ユウリ。

 おしとやかで、一つ上の姉のことをいつも心配している六女イーリヤ。

 自由奔放で、思ったことをすぐ口にする七女ティーナ。

 そして、姉たちの愛に包まれて育った三つ子の八女、九女、末娘。

 

 彼女たちは、裕福な家庭で何不自由なく暮らしていた。

 父は国の仕事で忙しく、めったに帰ってこないものの、その分の愛情は母から与えられ、彼女たちは仲良く健やかに育っていった。

 

 そんなある日、久しぶりに家に帰ってきた父が、母と話しているのを姉妹は立ち聞きした。

「まああなた! そんな大役をおおせつかるなんてすごいわ。本当なんですの?」

「もちろん本当さ。今度、トリステイン軍の大幅な改編増強がおこなわれることになる。それで、私にその施設の一式を築き上げる任務が与えられたのさ。わかるかい、そうなれば私は数千人を指揮する大監督さ」

「わかります、わかりますとも……こんな名誉……いいえ、ついにあなたがトリステインに認められたのですね」

 涙ぐむ妻の肩を、夫は優しく抱いた。

「泣かないでくれ、まだ始まったわけでもないのだからね。でも、長年トリステインのために努めてきたのが、ようやく認められたのは私も大変うれしいのだ。姫殿下には感謝しなければならん」

「ええ、あなたの献身ぶりに私心がないのは誰が見てもわかりますもの」

「ありがとう。しかし、そのせいでお前や娘たちにはずいぶん寂しい思いをさせてしまった。だが、この仕事が片付けば位も上がり、収益も増えて家に帰れる時間も増えるだろう」

 

 そこまで言ったとき、部屋のドアが開いて彼の娘たちが部屋になだれ込んできた。

 

「父さま、今のお話ほんと!?」

「これからずっと家に帰ってきてくれるの!」

「こらあなたたち、お父様になんて失礼な態度なの。ちゃんと淑女としてふるまいなさい」

「そういうエフィ姉が一番ドアにかじりついて覗いてたくせに、よく言うぜまったく」

「はーい! ティーナもユウリといっしょに見てました。まちがいありませーん!」

「ちょ、あなたたちそれは」

「もう、姉さまたちはいつもそうなんだから。ほら、みんなしゃんとしなさい」

「まったく、どちらが姉か妹かわからないわね。イーリヤは六番目なのに、わたしたちの中で一番しっかりしてるんじゃないかしら? さあみんな、お父さまにご挨拶よ」

 長女がつややかな金髪をなびかせながら諭すと、姉妹は一列に並んで父の帰宅を祝った。

「お父さま、お帰りなさい!」

「ああ、ただいま。みんな、元気にしていたようでなによりだ」

 娘たちに祝福されて、父は心から満足げに微笑んだ。

 と、しかしそこに三人ばかりが足りないことに気がついた。

「おや、エーコたちがいないようだな?」

「まったくあの子たちったら、せっかくお父さまが帰ってきたというのに、照れてるのね。エーコ! ビーコ! シーコ! 早くいらっしゃーい!」

「は、はーいっ!」

 三人の声が唱和され、どてどてと慌てた足音がしてドアから三人の少女が飛び込んできた。三人とも部屋着が乱れて息も切らし、茶色と金色と緑の髪も飛んでしまっているけど、久しぶりに会う父を目にすると表情を輝かせた。

「お、お父さま! お帰りなさいませ」

「ただいま、また少し大きくなったかな? さあおいで、再会の接吻をしてくれるかな?」

 三人の娘は、それぞれ父の両ほほと額に軽くキスをした。姉たちは、その様子をなんとなくうらやましそうに見ていたが、ぐっと我慢して見守っていた。この中で、もう半年近く帰ってきていなかった父とずっと会いたがっていたのは、ほかならぬ末っ子の三人だということは、みんなよく知っていたからだ。

 でも、父はそんなことはお見通しだった。

「ははっ、セトラ、エフィ、お前たちも遠慮することはないんだぞ。家族なんだ、みんなこっちに来なさい」

 そうして、父と娘たちは久方ぶりの再会を喜び合った。さすがにすでに大人の仲間入りをしている長女から四女までは恥ずかしがって、五女のユウリはつーんとそっけない態度をとったものの、結局はみんな父のことが好きで、わいわいと騒いで幸せな時間をすごした。

「ところでお父さま、これからはずっと屋敷に戻ってきてくださるってほんと?」

「ああ、本当だとも。この計画はすでにマザリーニ枢機卿が裁可され、アンリエッタ姫殿下の認可も下りている。あとは私が開始の合図をするだけさ。これまではたまにお土産をもってきてやるくらいしかできなかったけど、終わったらみんな揃って旅行にでも行こう」

「わーい! じゃあティーナは海に行きたいな」

「でしたら、わたしは火竜山脈で温泉などとお望みしたいのですけど」

「ああ、どこでもいいさ。みんな行こう!」

 旅行の行く先を考える声が途切れずに流れ、家族の楽しそうな笑い声がいつまでも続いた。

 

 しかし、家族の幸せは長くは続かなかった。

 

 姉妹の父は、有能で、かつ誠実な人柄で部下を取りまとめ、与えられた仕事を着々とこなしていた。トリステインへの忠義心に溢れる彼は、真面目に一心不乱に働き、スケジュールは常に前倒しで上層部も彼に大きく期待するようになっていた。

 ところがある日を境に、姉妹の父をとりまく環境は一転する。

「建設資材が届かないだって? なぜだ、今日には確実に運ばれてくるはずだろう」

「それが、契約した材木商と今朝から連絡がとれません。商店の者たちも姿を消しました、もしかしてペテンにあったのでは……」

「そんなバカな! 絶対に信頼できる相手だったはずだぞ。私も何度も店主とは会った、急に魔が差したとでもいうのか!」

「どうします。すでに費用は振り込んであります、これを逃せば大損害に……」

 それが始まりであり、二度と栄光の戻ることのない悪夢の序の口だった。

 

「大変です! 先日雇ったばかりの平民たちが現場の道具を盗んで逃亡しました!」

「駄馬の小屋が野犬に襲われて、馬が多数死傷しました。これでは資材を運べません」

「火薬庫から火の秘薬が消えています。軍が責任は誰がとるんだと、押しかけてきておりますが」

 

 これはほんの氷山の一角である。連日連夜、それまでの快調が嘘であったかのようにトラブルが続き、仕事の能率は見る見るうちに下がっていった。

 むろん、彼は全力を持ってトラブルが起こるたびに解決に努めてきた。しかし、彼の努力をあざ笑うかのように次々に新たなトラブルが生まれ、しかも信じられないことにそれらのトラブルのほとんどが原因に身に覚えがなかったり、原因不明で起こったことばかりだったのである。

「主任、これはもう、誰かが我々の妨害をしているとしか思えません」

「誰かとは、誰だ? このトリステインの将来のかかった大任を、誰が邪魔しようというんだ? 人を疑うものではない、私たちは私たちにできることをやればいい……」

「主任……」

 彼にとっての不幸は、皮肉にも彼自身が善人であったことだろう。もう少しひねくれた人間ならば、現状を別の方向から眺めて方向転換するくらいはできただろうが、彼はまっすぐすぎた。

 だが、彼の努力もむなしく、事態は悪化の一途を辿っていった。上層部も当初は彼の前歴と人柄から大目に見てきたが、次第に冷断な態度に変わっていき、さらに予算を大きく上回る支出を食い止めるために、彼は私財を食い詰めていった結果、財産は底をつき領地も借金のかたに消えた。

 彼の顔は疲労でこけ落ち、生気は消え去った。

 ある夜、変わり果てた姿で彼は唯一残った財産である屋敷に帰ってきた。そして、そのとき沈みきった声で話し合う彼と妻の会話を立ち聞きしたのが、姉妹が聞いた最後の父の声になった。

「あなた大丈夫ですか? そんなにお痩せになってしまって、お願いですからもっとご自愛なさってください」

「なあに、まだ大丈夫さ。倒れてなんかいられない……私には、トリステインの将来がかかっている」

「いいえ、お願いですからお休みになってくださいませ。我が家の財産もほとんど使ってしまって、もうこの屋敷には使用人すらおりません。それはよいとしても、あなたにもしものことがあれば、私はともかく娘たちはどうなるのです!」

「心配するな、金の工面ならばクルデンホルフが融資してくれることになった……このときさえなんとかすれば、きっとまたうまくいくようになるさ。そうすれば、みんなで……」

 翌朝早く父は出て行き、姉妹は父と話す機会さえなかった。

 それから姉妹が伝え聞いた父の話が、目を覆わんばかりであったことはいうまでもない。

 そして、運命の日はやってくる。ある日、姉妹たちは全員で金の工面のために出かけていた。その途中で父が帰ってきていると聞き、姉妹は急いで屋敷に戻った。

 しかし、そこで待っていたのは姉妹を絶望のどん底に叩き込む光景だったのだ。

「ねえお姉さま……なんでおうちが燃えてるの……ねえ、なんで?」

「お父さま、お母さま……?」

 呆然と立ち尽くす姉妹の前で、彼女たちの屋敷は業火に包まれていた。

 それからの記憶は、全員があいまいでまともに覚えているものはいなかった。しかし、焼け跡から父と母のものと思われる結婚指輪をした焼死体が発見されたとき、少女たちは自分たちがすべてを失ってしまったことを悟った。

 父と母は、仕事の行き詰まりと借金を苦にしての心中だと世間に判断され、両親も家もなにもかもなくしてしまった少女たちの地獄がはじまった。

 貴族の屋敷から路上に放り出された姉妹は、慣れない手でその日の銭をやっと稼ぐだけで精一杯だった。破産した貴族への国からの援助も、国の事情に悪影響を与えた者の一族だからないと言われ、親戚や父の友人だった者たちも、あいつの一族など疫病神だと、助けてくれるところはなかった。

「トリステインも親戚連中も親父のダチだって言ってた奴らも、みんな手のひらを返しやがって! 畜生、親父がてめえらのためにどれだけ命を削ってがんばったと思ってるんだ、裏切り者どもめ!」

 ユウリの怒声が姉妹全員の思いを代弁していた。

 そんなとき、姉妹の耳に父が生前取り組んでいた事業の噂が入ってきた。あの事業は父の死後、成り上がりで有名なクルデンホルフが後を継ぎ、危なげなく進めてすでに一部の施設の稼動が始まっているという。もちろん、父のときにあった理不尽なまでのトラブルは一切なく、恐らくクルデンホルフが前任者を陥れて主任の座を奪うために画策していたのだろうと、まことしやかに語られていた。

「クルデンホルフ……そいつが、お父さまを死なせた本当の敵なのね」

「許さない、絶対に……」

「それに、そんなやつをのさばらせて平然としてるトリステインも、誰も手を差し伸べてくれなかったこの世界も、なにもかも大嫌い!」

「殺してやる、皆殺しにしてやる。親父の敵も、こんな国も、世界も」

「もうあたしたちには、みんなしかいないもの」

 セトラからティーナまでの七人に、ほんの少し前まで平和に暮らしていたときの明るさは微塵も残っていなかった。ただ、受け入れたくない現実に耐えるために今を呪い、最後に残った姉妹の絆だけを頼りにする限界の儚さ……

 また、エーコ、ビーコ、シーコの三人も疲れきっていた。

「ビーコ、シーコ、大丈夫? つらいけど、もう少しがんばって」

「うん、わたしは大丈夫……でも」

「おうちに、帰りたいね」

 自分より下の子を守らなければという、使命感からの精一杯の空元気。怒る元気すらなくなって、幸せだったころを思い返すしかない虚無感。

 小さな、しかしとてつもなく深くて黒い絶望の闇。煮えたぎる憎悪の渦……しかし力を持たない彼女たちにできることはなく、怨念の炎は十姉妹の中で日増しに巨大になっていった。

 そんな、ある雨の日だった。橋の下で雨宿りをしていた姉妹のもとに、地獄から這い出てきたような気配を漂わせる、あの男が現れたのは。

「この世界が憎いか? 父の仇に復讐したいか? ならば我々が力を与えてやろうではないか」

「だ、誰! あなたは!」

「クロムウェルと、空の上の国では私のことをそう呼んでいるな。だが、そんなことよりもお前たちが欲しいのは、復讐を果たすための力だろう? 与えてやろう、お前たちのすべてを奪ったものを壊せる悪魔の力を」

 この当時トリステインで話題にされていたレコン・キスタの首領と名乗った男の言葉を、姉妹は寒さとは違う震えの中で聞いていた。

 常識で考えれば、アルビオンでレコン・キスタを指揮しているはずのクロムウェルがこんな場所に現れるはずはない。それなのに、男の声は心臓を凍えさせるような冷たさで、耳をふさぐことすら許さずに心に忍び込んでくる。信じられないと理性は思っても、本能が恐怖という形で体を震わせるのはなぜか。それは、このときすでに人間のクロムウェルがこの世に存在しないということで説明がつくのである。

 そして、クロムウェルの姿を借りた悪魔の化身の言葉は、負の感情に塗り込められていた姉妹の心を支配していった。

 姉妹の誰の目にも色濃く映る、疲労と絶望の暗黒。長女セトラは覚悟を決めた。

「本当に、あのクルデンホルフを地獄に落とせる力が、手に入るというのね」

「ああ、だがその代わりに……」

「わかったわ、どうせこんな世界に未練などない。けど、こちらもひとつ条件がある……」

「よかろう、契約は成立だな」

 その日、トリステインから十人の人間が姿を消した。しかし、それに気づいた者はいなかった。

 

 嘘のような、本当の話。悲劇の女神に氷の吐息をかけられた、ただの姉妹の物語……

 

 しかし、現実という物語はつむぎつむがれ絡まりあって、はてしなくめまぐるしく変わりゆく。

 世界が侵略者の魔手にさらされ、人々の生活が脅かされ続ける中に、十姉妹はどこからか帰ってきた。

 彼女たちはそれぞれ一人、もしくは数人のグループに分かれて世界中に散っていった。そこで彼女たちがなにをしていたのか、知る者はない。

 そして今、姉妹は新・東方号の建造されている造船街に集まってきた。

 はたして、彼女たちが授かった悪魔の力とはなんなのか。それを授けた悪魔の思惑も重なり、破滅の門の入り口は誰かを飲み込むべく、すぐそばまで迫ってきている。

 

 ひとつの夜が明けて、朝が来た。しかし、太陽の光は必ずしも人の心にまで差し込むとは限らない。

「超獣だぁーっ!」

 家を壊し、店を踏み潰す異形の獣。再度の襲撃におびえていた人々は逃げ惑い、広くない道を川のように流れる。

 昨日に引き続き、再び現れた超獣ユニタングはハサミ状になった手で頑丈な石造りの建物も容易に破壊し、街の一角から艦船の建造がおこなわれているエリアに進撃していく。

 目的は当然、東方号であろう。というよりも他に考えられるものはない。工事も最終段階に入り、明日には出港して飛行テストもおこなわれようかという、まさにこのタイミングにおいて、なにがなんでも発進を阻止しようというヤプールの思惑は阿呆でもわかる。

 しかし、そうはさせじと待ち構えていた軍の竜騎兵や緊急発進してきた才人のゼロ戦が迎え撃った。

「やっぱりきやがったか! 今日こそ逃がしはしねえぜ。ルイズの姉ちゃん発明の新兵器、今度こそおみまいしてやる!」

 必ずもう一度襲ってくるものと信じて、才人はいつでも飛び立てるようにゼロ戦のコクピットの中で寝て待っていた。硬い座席に毛布を引いて耐えていたかいがあり、待ちに待ったチャンスの到来に意気はすでに最高潮だ。

 ユニタングについての情報はすでにGUYSメモリーディスプレイから引き出して、対策となる秘密兵器も用意した。

 ゼロ戦を旋回させて、才人は操縦桿のトリガーに指をかけた。すでにユニタングには竜騎士が魔法で炎や電撃を浴びせている。効果は薄いようだが、気を引くには十分だ。才人はユニタングの正面から軟降下をかけると、五十メートルほどまで近づいたところでトリガーボタンを押し込んだ。すると、ゼロ戦の翼の下に取り付けられていたフットボールのような物体が四つ外れてユニタングの足元に落ちた。

 外れたのか? ゼロ戦の攻撃を見ていた竜騎士のひとりはそう思った。もっとも、あれが爆弾でも、あんなに小さければたとえ直撃したとしてもダメージにはならなかっただろうと、彼は次に考えた。

 しかし、外れたフットボール状の物体は地面に落ちると、陶器製の本体が割れて中からゲル状の液体が流れ出してきた。すると時間差で内部に仕込まれた少量の火薬が発火して、高い可燃性を持っていたと思われるゲル状の液体は一気に高さ数十メートルにも及ぶ火柱を吹き上げた。

「やったぜ! 魔法アカデミーも伊達じゃねえな。よく燃えてるぜ」

 才人はコクピットの中で快哉をあげた。ユニタングは突然目の前に起こった火炎地獄に驚いて、さらに体の一部にゲル状の液体がかかったところが燃え上がってひるんでいる。

 これがゼロ戦に搭載されていた新兵器、火炎爆弾であった。王立魔法アカデミーは以前、怪獣ザラガスを倒すことができた火石の爆弾に相当するものがなんとか作れないかと苦心したあげく、一つの結論として爆発的に燃える性質を持った油の一種を散布して命中範囲を焼き尽くす爆弾を作り上げた。地球で言えばナパーム弾に相当し、内部に詰める特殊な油の錬金がアカデミーの数人のメイジにしかできないことを除けば、火薬の爆弾とは比較にならない威力を発揮することが証明された。

「さすがはルイズの姉ちゃん、恐ろしいもの作ってくれるぜ。けど、ユニタングには通常の攻撃は効かないからこいつはいいぜ!」

 ユニタングは火炎爆弾で作られた炎で足止めされ、さらには右腕が激しく燃え上がって苦しんでいる。ユニタングはある理由によって、体をバラバラにされても再生できる能力があるために、物理的な攻撃では効果が薄いと判断したのは正解だったようだ。ユニタングは胸から腹に並んでついている乳房状の突起から白い消火剤を噴出して消しとめようとしているが、高位の錬金で作られた油の炎はそう簡単には消えない。むしろ、爆発の影響が強すぎて、周辺を飛んでいた竜騎士があおられているほどである。

「ようし、あとはルイズたちが来たらエクスプロージョンで一気に大ダメージを……なにっ!?」

 今度こそは倒してやると意気込んでいた才人はその瞬間絶句した。ユニタングは、才人や竜騎士たちがいっせいに攻撃態勢に入ったと見るや、またしても反撃せずに発光して消滅してしまったのだ。

「くそっ! また逃げられたか」

 思わず風防のガラスをこぶしで叩いたが、もうユニタングはどこにもいなかった。後には破壊された町並みと、火炎爆弾の炎がまだ消えずに燃え続けており、その周囲を竜騎士隊がやはり呆然とした様子でうろうろと飛び回っていた。

 肩透かしを食わされた人間たちは、やっと駆けつけてきた軍の主力部隊や、この時のために精神力を温存してきたルイズも含めて、一様に悔しがらずにはいられなかった。

 

 再び姿を消した超獣ユニタングに対して、人間たちは怒りを胸にして次に来るときに備えるしかできなかった。

 いかに相手が超獣とはいえ、万全の態勢で迎え撃つことができれば、現有の兵器だけでも有利に戦うことができる。そう信じて武器を調えて、訓練を積んで戦いに望もうとしていた戦士たちにとって、二度に渡って戦うことすらできずに撤退された相手に対する憤りは噴火寸前の火山も同様に煮えたぎっていた。

 しかし、いくら腹を立てても才人やルイズも含めて人間たちにはなす術がなかった。ヤプールが潜んでいる異次元空間への進入は容易なことではなく、ウルトラマンAでさえ一回しか成功したことはない。そのときでさえ、TACの科学力のサポートを受けて、なおかつエースに変身できる北斗星冶だったからこそ成功したのだ。

 現在、ヤプールに直接攻撃できる方法は皆無。ルイズの虚無魔法を持ってしても次元の壁を越えることはできない。あるいは、高位の虚無魔法ならば可能かもしれないが、始祖の祈祷書はルイズのそうした願いにいまだに答えない。

「ああもう腹が立つわ! せっかくこんなときのために、ずっと魔法を使わずに溜めてきたっていうのにぃ! あの超獣、わたしに恐れをなしてるんじゃないかしら。もう!」

「まあメフィラス星人を倒したくらいだし、警戒されても仕方ないかもな。しっかし、あの目的のためには粘着質なくらいしつっこいヤプールにしては引き際がよすぎる気もするな。なにかまた企んでるのか、やれやれ今日もまたコクピットの中で寝るしかねえか」

 しばらく風呂に入っていないので、ぼろぼろとふけを落としながら才人は後頭部をかいた。ルイズはその不潔な様子が気に入らず、かといって入浴を勧められるような状況でもないので、不機嫌そうな声で言った。

「あんた、よくあんな狭苦しいところで寝られるわね。わたしも何度か入ったけど、あれならあんたが昔寝床に使っていたわらのほうがまだ寝心地がいいじゃないのよ」

「そりゃ、狭苦しさじゃ日本の飛行機は世界一だからな。でも人間我慢する気になればなんとかなるもんさ。それよりも、おれのカンじゃ明日が勝負だな。ヤプールも、東方号の発進までも見逃してくれるはずはねえ。必ず全力で妨害しにくるはずだ」

「不愉快だけどあんたと同感よ。多分、ウルトラマンAになることにもなるでしょうね……けど、やっぱりもどかしいわ。好きなように攻められて、まんまと逃げられてしまって追いかけることもできないなんて」

「ヤプールの陰湿な性格をそのまんま表す戦法だよな。おれも悔しいんだよ……でも、ついか必ず住処ごとヤプールの野望もぶっつぶしてやるぜ」

 才人の決意にルイズもうなづき、二人は決戦となりうるであろう明日を思った。

 

 超獣の脅威は晴れず、またしても不快な緊張感の中に取り残されてしまった街。あとほんの数日で苦労が報われるというところになっての、この重圧はかなり厳しい。先人が『千里を行く者は九百九十九里をなかばとせよ』と教えているとおりに、何事も一番危険なのは終わるその直前なのだ。

 それでも職人たちは、せっかく完成間近まで来た仕事をつぶしてなるかと意地にかけて、自らにかせられた役割を果たそうと工場や工事現場で働き続けた。

 そして、東方号の工事も明日には、最後であり一番難しいところに入る。コルベールはこの日のために、自らの生命をも削る思いで戦艦大和を改造してきた。その飛翔のために、風石や水蒸気機関以上に重要な部品が魔法アカデミーから納入されてくる。それの組み付けを成功させたとき、ようやくコルベールは安眠に沈めるだろう。

 誰にとっても長い一日になるであろう日は、すぐそこまで迫っていた。

 

 一方で、ほとんどの役目を終わったベアトリスは、早ければ明日にもおこなわれるであろう竣工式に主賓として出席するために、宿でドレスの試着をメイドに手伝わせていた。

「外が騒がしいわね。厳戒態勢はまだ解除されないのかしら……」

「今朝現れた超獣は、また逃げられたそうです。これからというところで消えてしまったそうで、街中には殺気だった兵隊がうろうろしています。とてもではないですが、出歩ける雰囲気ではないですよ」

「そう……こんなことで、無事に竣工式を迎えられるのかしら」

 メイドに着付けしてもらった自分のドレス姿を姿見に映しながらベアトリスはつぶやいた。鏡には、豪奢なドレスとは裏腹に憂鬱そうな自分の顔が映っている。メイドはよくお似合いですよと言っているが、これではクルデンホルフの本家からわざわざ取り寄せたドレスも台無しだろう。

 にこりと愛想笑いをしてみても、いまいち様にならない。式のときにはいつものツインテールも下ろして、令嬢らしい姿に戻すけれども、どうも納得がいく顔になれなかった。

 理由はわかっている、不安なのだ。父の力を借りずにはじめておこなう大仕事、しかもトリステインはおろか世界の命運がかかっているとなったら、失敗したときにはその反動は一気に自分に返ってくる。それで不安にならないほうが、人間としてどうかしているといえよう。

「はぁ……この街に来てから、もう何度もひどいめにあったおかげですっかりわたしも臆病になってしまったわね。少し前のわたしなら考えられもしなかったわ……ところで、エーコたちはまだ戻らないのかしら? 式典にはあの子たちも出席させるから、打ち合わせは早くしたいのだけど」

「はい、いまだお戻りには……あっ、今帰られたそうです。すぐにこちらに来られるとのことで」

「わかったわ、それじゃこちらに通してちょうだい」

 ドレス姿を見せて、少し気晴らししようとベアトリスは思った。本家からはほかにも何着かドレスが届いているので、彼女たちに着せるぶんも十分ある。あの子たちにはどんなドレスが似合うだろうかと、着せ替えする様子を想像してベアトリスはくすりと笑った。年頃の女の子らしく、ベアトリスもおしゃれにけっこう興味があった。

 やがて衣裳部屋にエーコたちがやってきた。三人とも、今日はかなり冷え込んでいたので長袖のコートを着込んでいたが、見せるのを楽しみに待っていたベアトリスは、そのまま自分のドレス姿をお披露目した。

「どう、このドレス? お父さまがわたしの晴れ舞台のためにって、トリスタニアで一番のお店にオーダーメイドしてくれたんですって」

「とてもおきれいです。さすが姫殿下、アンリエッタ姫のウェディングドレスにも匹敵するかと思いましたよ!」

「んもう、そんなに褒めてもなにも出ないわよ。でも、これで今度着ていくドレスは決まったわね」

 シーコの褒め言葉に、ベアトリスは照れながら微笑んだ。彼女もおせじや追従がわからないほど愚かではないが、やっぱり褒められると悪い気はしない。さっきまでの憂鬱はどこへやらで、くるりとダンスを踊るようにステップを踏むと、スカートがなびき、金髪が舞い上がって一瞬妖精のようなきらびやかさを見せた。

 さて、これで自分の着ていくドレスは決まったと思ったベアトリスは、メイドに命じて隣室から別の衣装ケースを持ってこさせた。エーコたちは、たぶん予備のドレスの着付けも見せられるのだろうなと思ったが、ベアトリスは待ってましたとばかりに彼女たちに言った。

「それじゃ、今度はあなたたちのドレスを選びましょうか」

「えっ! わた? 姫殿下のドレスじゃないんですか?」

「なにを驚いてるのよ。あなたたちはわたしの片腕も同然なんだから、式典には当然出てもらうわよ。まさかそんな格好で出席するわけにもいかないしね。心配しなくても、普段よく働いてもらってるんだからこれくらい当然よ」

「姫殿下……!」

 にこやかに、かついたずらっぽく笑いかけてくるベアトリスにエーコたちは正直意表を突かれた。三人顔を見合わせて、予想もしていなかった出来事にどう答えたらいいのかうろたえている。

「え、えーと姫殿下、我々はもう家名もない身ですし、姫殿下の晴れ舞台のお目汚しにしかならないと思いますが」

「なによ、その嫌そうな顔は。せっかくのわたしの好意が受け取れないって言うの? ははあ、見たこともないような高級品だから遠慮しちゃってるのね。大丈夫よ、破こうが汚そうが、ドレスなんかよりあなたたちのほうが大事なんだから」

「えっ、その……これ一着一万エキューはしますよね。それを」

「ああもうっ! ビーコ、あなたも疑りぶかいわねえ。一万エキューとあなたたちを天秤にかけて、一万エキューに傾かせるほどわたしはケチじゃないわよ。ほぉーら、いいかげん覚悟してそんな暑苦しい服脱いじゃいなさい!」

 じれたベアトリスは、にやにやしながらエーコたちに近づいていった。それがまた非常に楽しそうで、いたずら大好きな森の妖精のようである。

 が、妖精にいたずらされるほうではたまったものではない。主人の好意ゆえにむげにすることもできずに、じりじりと後ずさりする。しかしすぐに壁に行き詰ってしまい、ベアトリスに詰め寄られてしまった。

「ひ、姫殿下、おたわむれもそのへんに……」

「ふっふっふ、このわたしから逃げられるわけがないじゃない。さぁて、覚悟を決めて脱い……?」

 と、エーコたちに近寄ったときにベアトリスは、妙な匂いを感じて立ち止まった。

「なに? 焦げ臭いわね。あなたたち、焚き火にでもあたってきたの?」

「えっ! それは、その」

 口ごもったエーコたちに、ベアトリスは顔を寄せて匂いをかいでみた。厨房で料理がこげたときのような、あの独特の匂いがつんと鼻をついてくる。そういえば、かすかだがマッチをすったときのような匂いも混じっている。これはよほど火に近い場所で長時間いなければつかない匂いだ。

 と、そのときベアトリスはシーコの右腕の袖口にうっすらとすすがついているのを見つけた。いやそれだけではなく、よく見たらシーコは右腕をかばうように左手で抑えている。

「ちょっとシーコ、あなたの右手見せなさい」

「えっ!? 殿下、な、なにを」

「いいから見せなさいっ! なにこれ、ひどい火傷!」

 袖をまくると、シーコの手首から二の腕までがひどく焼け爛れていた。皮膚がめくれて、赤黒く変色し、なんでもないような顔をしているのが信じられないような重傷だ。

「なんでこんな傷を黙ってたのよ! 早く医者を! ほかに怪我してないの? はっきり言いなさい」

「あっ、そのっ! だ、大丈夫です。これはちょっとその、見た目ほど痛くないんで」

「バカ言いなさい! まるで腕が燃やされたみたいな、こんなひどい傷見たことないわ。エーコにビーコ、あなたたちもなんでこんなことになってるのに黙って来たの!?」

「そ、それは……」

 ベアトリスの怒声に、エーコとビーコは口ごもった。いつもはベアトリスの命令ならば、すぐに反応する彼女たちにしては歯切れが悪い。ベアトリスはもどかしさを覚えたが、それどころではないとメイドを叱咤した。

「なにぼやっとしてるの! 早く宿の医者を呼んできなさい。でなくても、軍の街なんだから医者なんていくらでもいるでしょう。それに泊り客の中に水のメイジがいないか探す! 早くしなさい」

「は、はいっ!」

 メイドたちははじかれたように部屋を飛び出していった。それを見送るとベアトリスは、杖を取り出すと治癒の魔法を使おうと試みた。

「わたしの治癒なんて、ないようなものだけど。じっとしてなさい」

「ひ、姫殿下、そんなおやめください! もったいない」

「お黙り! 主人の命令が聞けないというの。わたしの勝手でやってるんだから、あなたたちに遠慮される筋合いはないわ。それよりも……まあいいわ。治癒の魔法なら、ビーコのほうがずっと上手なのに、なんでやらなかったのかとか聞きたいことはあるけど、どうせ聞いても言わないでしょうしね」

「……」

 それから、ベアトリスたちは医者がやってくるまでの間、ずっと無言で過ごした。

 やがてやってきた医者は、教科書どおりの火傷の治療をすると帰っていった。メイドたちも下がらせ、ベアトリスもドレスは脱いでいる。

 沈黙が支配する室内に、不機嫌そうな顔で立つベアトリスと、じっと主人の言葉を待つエーコたちがたたずんでいる。シーコの火傷は包帯が巻かれていて、今は三角巾で首から吊るされている状態だ。

 もうすでにドレスがどうとかいう雰囲気はない。ベアトリスは、軽く息を吸って吐くとエーコたちに言った。

「水の秘薬を使ったら、なんとか痕は残さずに治せるそうだけど、一歩遅れてたら化膿して命に関わるかもしれなかったそうね。なにがあったの? 怒らないから言ってみなさい」

「……」

「黙秘ね。そういえば、最近のあなたたちはどこか妙だったわよね。やたら休みをほしがるし、ちょっと目を離したらいなくなってることもしばしばあるし、隠れてなにをしているの?」

「……」

「そう、どうしても言いたくないのね。まったく、わたしにも言えない秘密があるなんて、主人として見くびられたものね」

「い、いえわたしたちは」

 なんとか言いつくろおうとするビーコに、ベアトリスは目を伏せたままで手を振った。

「言い逃れなんて聞きたくないわ。どうせ無理に聞いたところで、嘘か本当か見分けられるわけでもないもの。今日はもう下がっていいわ」

 冷たく言い放つベアトリスに、エーコたちは一礼するとドアに向かった。しかし、扉を開けて退室しようとしたとき、彼女たちの背中にベアトリスの声がかかった。

「ああ、そうそう言い忘れるところだったわ。今度の式典、わたしは欠席するからそう伝えておいて」

「えっ! ど、どういうことです? 今度の式典は、クルデンホルフの名誉だと、前々から準備なされていたではないですか!」

 銃口の前の孔雀を見逃すようなベアトリスの言葉に、当然ながらエーコたちは驚いた声をあげた。しかしベアトリスははぁとため息をつくと、つまらなさそうに答えた。

「やっと大きな声を出したわね。答えは簡単よ、シーコがそんな状態じゃ従用として出すわけにはいかないでしょう。ひとりでぽつんと大きな顔をしに行ったところでつまらないわ」

「ですが、そんなものはすぐに揃えられるでしょう。なにせクルデンホ……」

「安い日銭で集まってくるような人間に背中を任せるほど、わたしは自分を安売りするつもりはないわ。同時に、部下も安く扱うつもりもない。あなたたちがどう思っているかは知らないけど、わたしは自分で選んだあなたたちを雇い入れたときから、片腕として扱うつもりでいるのよ。増して人に働かせて栄光は自分のものなんて、わたしの誇りが許さない!」

 きっと視線を鋭く尖らせたベアトリスの瞳の強さに、エーコたちは一瞬圧倒された。こんな目は、彼女たちがベアトリスに雇われたときから一度も見たことがない。あのころは、虚栄を胸にいっぱいに膨らませているだけの凡庸な小娘に過ぎないと評価していたのに、今はまるで正反対ではないか。

「わかったなら行きなさい。あなたたちに働いてもらう場面は、これからいくらでもあるわ」

「はい……」

 瞳の中に、若者らしく自分を強く信じる心と、同時に虚栄を嫌う信念を強く息づかせているベアトリスの変わりよう。それが何に基点を持つものなのか、三人の少女はずっと彼女をそばで見てきたにも関わらず、確信を持てる答えを導き出すことができなかった。

 いや、実を言えばその答えは最初から漠然とではあるが三人の胸中に存在していた。傲岸な世間知らずに違いなかったほんの一月前のベアトリスを大きく変えたもの……平民との触れ合いで彼らも自分も同じ人間だと知ったこと、銃士隊から人と人とが肩を並べて生きることを教わったこと、魔法学院の女生徒らと親しくなって、他人同士が頼り頼られることを学んだこと……そして、その最初のきっかけとなった不思議な風来坊……それらの積み重ねが、ベアトリスの中に元々あった優しさを引き出し、人間として欠けていた部分をおぎなっていったのだと。

 しかし、うっすらとそれを理解していても、彼女たちはそれを認めるわけにはいかない理由があった。認めてしまえば、これまで自分たちが積み上げてきたことがすべて否定されてしまうかもしれないから……

 ドアの外に出て、見送るベアトリスにもう一度一礼してエーコたちは扉を閉めようとした。

 だが、閉じかけたドアの向こうからベアトリスの声が響いた。

「エーコ、ビーコ、シーコ、そのままで聞きなさい。この仕事が終わったら、いっしょにクルデンホルフ公国に帰りましょう。もちろん、あなたたちのおねえさんたちもいっしょにね。そこで……ううん、今はやめましょう。ともかく、怪我だけはしちゃだめよ。あなたたちは、わたしにとって……と、特別なんだからねっ!」

 穏やかな口調の後に、突然怒鳴り声に変わり、その後ベアトリスが走って別室に入っていった音で静かになった。

 

 宿の中は超獣騒ぎのせいで他の客の影もなく、たまに通り過ぎるボーイやメイドの姿しかない。そんな廊下をエーコたちは、うつむいた様子で歩いていたが、ふとシーコは立ち止まると、つぶやくように言った。

「ねえ、エーコ、ビーコ、わたしたち……これでいいのかしら」

「シーコっ! あなた、なにを言い出す気」

「ううん、わたしだってみんなと気持ちは同じつもりだよ。でも、今の姫殿下はもうわたしたちの見てきた昔の姫殿下じゃない。ビーコ、あなただってわかってるでしょう?」

「う……そりゃ、だけどね」

 シーコに問いかけられて、ビーコは答えに窮して言葉を詰まらせた。

 わかっている……シーコに言われるまでもなく、そんなことはわかっている。本当なら、それを認めてしまいたい気持ちでいっぱいなのだが、もうすでに遅すぎるのだ。

 そのとき、エーコが迷う二人に向かって、感情を押し殺した声で告げた。

「二人とも、ちょっと優しくされたくらいで心を乱されていちゃだめよ。思い出して、この数ヶ月わたしたちがどんな思いであいつの下働きをしていたのか……それにもう、わたしたちはこの世界では生きられないんだから……」

 最後を自嘲げにつぶやいたエーコの言葉に、ビーコとシーコも力なくうなづいた。

 

 様々な人間の思いを乗せて、運命のレールは分岐点まであと一息のところまで達しようとしている。

 飛翔のときを待つ、新・東方号に希望を寄せる人々と、それを阻止しようと企む悪魔たち。

 そんな中で、人は見えない運命のレールに乗せられたまま、終着駅まで運ばれるしかないのだろうか。

 

「どうしたのシーコ? 眠れないの?」

「ビーコも? うん、どうしてもあのことが気になって。エーコは?」

「ぐっすり寝てるよ。ねえシーコさ」

「なに?」

「ふふ、少し夜の街を散歩しようか」

 

 

 続く


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