第17話
タバサの冒険 タバサと火竜山脈 (後編)
毒ガス怪獣ケムラー 登場!
鉱山村を破壊したケムラーは、そのまま街道に沿って、この近辺最大の都市に向かって進んでいた。
タバサとシルフィードは、高空からのしのしと草原を踏み潰しながら進むケムラーを見下ろしている。
火竜の群れを全滅させ、タバサの渾身のジャベリンをも跳ね返したこの怪獣に、現在のところ彼女達に打つ手は無かったが、このまま放置すれば奴の進む先すべてが危険にさらされる。
タバサは、街に到達する前にケムラーを倒すことを決意したが、シルフィードはそんな主人の無謀としか言えない決意に、胃が痛くなる思いを味わっていた。
「はぁ。それでお姉さま、戦うのはわかったけど、これからいったいどうするのね。お姉さまの魔法でもあの怪獣には通用しません。お姉さまが玉砕なんて愚劣なことする人じゃないのは知ってますけど、犬死はごめんなのね。きゅいきゅい」
むろん、タバサも無謀な玉砕戦法などとる気は毛頭ないし、こんなところで死ぬ気もない。ただそれでも、今目の前にある状況は、彼女がこれまで数多くこなしてきた怪物退治の任務はおろか、今回の火竜退治の任務をはるかに超える難易度であることは間違いなかった。ただし、同時に『あきらめる』という選択肢も持っていない。上空から、冷徹に澄んだ目でタバサは怪獣の攻略法を探していた。
見たところ、あの怪獣にこれといった弱点は見当たらない。頭部から尻尾の先まで頑強な皮膚に覆われ、比較的薄いと思われた尾の付け根でもジャベリンの直撃を跳ね返しただけに、どこを狙っても結果は同じだろう。
目や口の中ならある程度の攻撃は効くかもしれないが、火竜のブレスに全身を包まれながら無傷だったために、まぶたや口内も相当な強度だと思っていい。また、そんなところへやすやすと攻撃などさせてくれるはずもないし、どうにか傷つけられたとしても致命傷には到底なりえないので、逆上して暴れられたらそれこそ近隣が根こそぎ壊滅させられてしまう。
ここから都市までの距離は残りおよそ十リーグ、時間にしたら三十分ほどしかない。
都市には、すでに鉱山村から逃げた山師達によって怪獣出現の報は入っているだろう。しかし怪獣がこちらに向かっているという情報が裏付けられ、住民全員が避難するには三十分ではとても足りない。
空からはすでに街陰が見え始めている。そして、人間が生活するうえで必ず出る調理や暖房の煙、鍛冶場やパン工場などの煙が立ち昇っているのがいくつも見える。明らかにケムラーはそれらを目指して進んでいた。
「お姉さま、もう余裕がないのね。良い考え浮かばないなら逃げようなのね。きゅいきゅいきゅい!!」
シルフィードが焦ってわめきだした。
タバサはうるさいと思ったが、シルフィードの言うとおり余裕が無いのも確かだ。街に接近された、街に入られた後で戦いを挑んでも、奴の吐き出す毒ガスで街が壊滅してしまう。
また、シルフィードの言うとおり良い考えも浮かばない。ただし思考停止には及んではいなかったタバサは、街道の傍らにあった小さな宿場町に目をつけた。すでに怪獣の接近で、そこの住民は避難しているようだ。
「あそこに降りて」
タバサは先回りして、シルフィードから降りると、シルフィードに上空で待っているように指示して、その宿場町の倉庫に備蓄されてあった暖房用の石炭に『発火』の魔法で火をつけた。
たちまち倉庫に火が回り、石炭の燃える黒い煙が空に立ち昇る。それを見たケムラーの行く足が変わった。
「これでしばらくは時間が稼げる……」
黒煙に喰らいつくケムラーを、近くの建物の陰から観察しながらタバサは言った。動いている最中は下手に近づけないが、食事に夢中になっている今ならかなりの距離まで近づける。石炭が燃え尽きる前に、なんとしても怪獣の弱点を見破ろうと、タバサは眼鏡の奥から青い目を怪獣の隅々まで這わせていた。
「どんな生き物でも、必ず泣き所が一つはあるはず……」
だが、頭の先から尻尾の先端まで見渡しても、黒々と分厚そうな皮膚が連なっていて、急所らしきものは見当たらない。
やがて、燃え盛っていた石炭の煙も細くなり始め、さしものタバサの額にも焦りの汗が浮かび始めた。
と、そのとき上空に待機していたシルフィードが、タバサが心配なため低空に降りすぎたのか、ケムラーの視界にもろに入ってしまった。
「きゅい? きゅ、きゅいーっ!?」
タバサのほうばかり見ていたシルフィードは、すぐ下から響いてきたうなり声を聞き、そちらを見下ろして盛大な悲鳴をあげた。怪獣が口を大きく開け、背中の甲羅のような羽根をいっぱいに広げて威嚇してくる。そうなるともはや風韻竜の誇りもどこへやら、半泣きになりながらガスも光線も届かない高さまで逃げていった。
だがそのとき、ちょうどケムラーの真横から見ていたタバサは、ケムラーが背中の羽根を広げたとき、その下ににぶく光って、さらにドクンドクンと脈動する大きなこぶがあるのを確かに見た。
すぐさま、タバサの小さな脳髄からあるだけの知識と経験が引き出され、そのこぶの正体を推測した。
まず、あんな頑丈そうな甲羅でガードしているからには重要な器官であることは間違いない。そして、脈動していたということは、それが生物にとってもっとも重要な器官、心臓である可能性が高い。
考えがまとまったタバサはすぐさま口笛を吹き、シルフィードを呼び寄せた。とはいえ、相当な高さまで逃げていたらしく降りてくるまで五分もかかった。その間ケムラーが残りの煙を吸い込むのに集中して、付近に毒ガスを撒き散らさなかったのは幸運と言うしかない。
やっと降りてきたシルフィードにまたがり、「お姉さま、怖かったのね」と泣くシルフィードをややなだめると、ケムラーの上空およそ千メイルで、タバサはこの怪獣を倒すための作戦を話した。
「……む、無茶なのね! いくらお姉さまの腕でも無謀なのね、少しでもずれたら即死なのね、他の方法を考えるのね、そうするのね!!」
タバサの提示した作戦とは、シルフィードが囮になり、怪獣に甲羅を開けさせたところをタバサが撃つというシンプルなものであったが、囮役がシルフィードしかいない以上、タバサは自力で怪獣の至近距離まで接近せねばならず、当然移動と攻撃の同時に魔法を使えないため、威力の高い攻撃魔法を詠唱する余裕がない。だが、移動と攻撃を同時におこなうためにタバサが考え出したのはとんでもない方法だった。
「空から落ちながら呪文を唱えれば、接近と攻撃が同時にできる」
そう、タバサは高度千メイルの高さから自由落下しながらケムラーの心臓を狙おうというのだった。
これには当然シルフィードが大反発した。空中での微妙な方向転換などは、携帯している風石を使えば呪文を唱えながらでもできるかもしれないが、ちょっとでもタイミングを間違えば、怪獣の背中にしろ地面にしろ、高速で激突することになり命は無い。しかしタバサの決意は固かった。
「考えたなかで、最善の手段がこれ……失敗したら、あいつは二度と急所は見せなくなる。街もすぐそこまで来ている……」
もう、ああだこうだと考えている時間も無いとタバサは決行を決めていた。
街の人々も、ようやく迫り来ている怪獣に気づいたようだが、逃げるには間に合わないし、下手に迎撃などされたら、それこそ死体の山ができるだけだ。
あきらめたシルフィードは、しぶしぶ主人をケムラーの頭上、高度千メイルに連れて行った。
「ここでいい、降りる」
タバサはケムラーの真上でシルフィードから下り、フライで浮遊の体制に入った。メイジにとって空中に浮遊するのは基礎の基だが、高度千メイル近くの高空に停止し続けるのは精神力をかなり削る。
シルフィードは、いつも無茶ばかりして、自分にもそれをさせる主人を呪いながらケムラーの真正面に飛び出し、大きく翼を広げて火竜の真似事のような威嚇を始めた。
「きゅい、きゅいきゅいきゅい、きゅーい!!」
お世辞にも迫力があるとはいえなかったが、シルフィードは本気も本気である。
すると、外敵の存在に気づいたケムラーは前進をやめて、先程のようにうなり声をあげて威嚇し返してきた。野太い声が耳を突き、シルフィードは生きたここちがしなかったが、まだ逃げ出すわけにはいかない。
「きゅーい!! きゅいきゅーい!!」
喉も枯れよとばかりに叫び声をあげる。
それに対してケムラーもうなり声を高くして反撃してくる。どうやら、シルフィードが一匹だけなのでなめられているようだったが、しつこく逃げ出さないためにケムラーもとうとう我慢を切らして背中の羽根を開き、口を大きく開けてひときわ大きなうなり声をぶつけてきた。
「お姉さま、今なのね!!」
待ちわびた瞬間を見て、シルフィードは叫んだ。だがその瞬間ケムラーの口の中がピカッと光る。百匹以上の火竜の群れを全滅させた猛毒の亜硫酸ガス、それがシルフィードに向かって放たれた。
「!?」
とっさにシルフィードは口と鼻をつぐんで急上昇に入った。間一髪、ケムラーの吐き出した毒ガスは、足の先、ほんの爪のわずかな先を通り過ぎていく。
その瞬間、タバサはフライを解除して自由落下に入った。たちまち小さな体が重力に引っ張られて、真下の怪獣に向かって猛烈な速度で加速していく。
だが、頭から落ちながらタバサは呪文の詠唱をおこなっていた。使うのは最大威力のジャベリン、落下しながら空気中の水分を結集させて巨大な氷の槍を形成していく。いくら露出している急所とはいえ、怪獣の体を人間の力で打ち抜くには、落下による加速度も最大限に利用しなければならない。
ケムラーは飛びのいたシルフィードに目を奪われて、まだタバサには気づいていない。
可能な限りの精神力をつぎ込んだ、全長八メイルものジャベリンを作り上げたタバサは、ケムラーの頭上、およそ二百メイルの高さで目を見開き、脈動する心臓を目掛けて一気にジャベリンを打ち下ろすと、すぐさま詠唱をフライに切り替え、高速で詠唱を開始した。
たちまち、落下のGとそれに逆らう魔力がせめぎあい、彼女の全身を押しつぶされるような圧力が襲い、意識が遠のいていく。人間が自由落下した際の終末速度は時速約二百数十キロ、最大速度のジェットコースターが急ブレーキをかけたようなものだ。だがタバサは強い精神力で強引にそれをねじ伏せると、ケムラーの背中のほんの十サント上で、完全に落下の勢いを相殺し、岩肌のようなそこに、倒れるように着地した。
(やった……の?)
急速な気圧の変化で悲鳴をあげる頭を抑えながら、タバサが確認したのは当然攻撃の成否。振り返り、ぼやける視界を目をこすって振り払ったそこにあったのは……。
「お姉さまー!! やったのねー!!」
ジャベリンは見事ケムラーの心臓を真上から深々と貫き、ガラスの塔のようにそこにそびえ立っていた。
そして次の瞬間、ケムラーは喉から搾り出すように苦悶の声をあげると、両足を震わせて、地面に地響きとともに崩れ落ちた。
「かっ……た……っ! う、はぁ……はぁ……はぁ」
目的を果たしたという安心感が、なんとか彼女を立ち上がらせていた精神力を切り、タバサは一気に襲い掛かってきた頭痛と全身を貫く圧迫感に耐えかねて、がくりとひざを突いて荒い息を吐き出した。
これが常人なら、痛みに耐えかねて気絶していたに違いない……。
「やったやったーっ、お姉さま本当にやったのね。シルフィはお姉さまを信じていたのね。きゅいきゅい」
シルフィードは喜びのあまり、きゅいきゅいとはしゃぎながらタバサの頭上を旋回している。
だが、このときタバサは頭痛と体中のしびれで、狩人が獲物を仕留めたときに、もっともしなければならないことである『獲物の死亡』を確認するということができなかった。
そう、ケムラーはまだこの時点では完全に死んではいなかったのである。
再び遠吠えをあげ、両足をふんばって立ち上がったケムラーの上で、タバサは転がり落とされないようにしがみつくので精一杯だったが、シルフィードの絶叫が耳を打ち、とっさに上を見上げた。
「お姉さま!! 逃げて!!」
なんと、開いていたケムラーの羽根が背中の上にいるタバサに向かって閉じてくる。
このままでは押しつぶされると、タバサは残った力で『レビテーション』を自分にかけて、飛び上がった。
だが。
「く……不覚……」
完全に閉じられたケムラーの羽根の上で、かろうじて杖だけは握っているが、息を切らして四つんばいになった状態でタバサはいた。
ケムラーは、心臓を貫かれたというのにまだ動こうとしている。それなのに、なぜかタバサはケムラーから離れようとしない。それを見たシルフィードが驚いてタバサの目の前に着地してきた。
「お姉さまどうしたの!? はやく逃げないと、さっ、シルフィに乗るのね」
だが、タバサは苦しそうに首を振ると。
「だめ……」
「だめって、なにがだめなの? もうこいつは放っておいても死ぬの……お姉さま、足が!?」
シルフィードは、驚きのあまり絶句した。
なんと、タバサの左足の足首から先が、閉じたケムラーの羽根の間にがっちりと挟みこまれていたのだ。
あの瞬間、かろうじて羽根につぶされるのだけは防いだものの、疲労のせいでレビテーションをかけるのが一瞬遅く、左足だけ間に合わずに、タバサは虎ばさみにかかった熊のようにケムラーの上に磔にされてしまったのだ。
ただ、この時点ではそこまで深刻な問題ではなかった。急所を撃ち抜いた以上、ケムラーが力尽きた後でゆっくり手段をこうじればいいからだ。
しかし、事態はふたりの思惑とは反対に最悪の方向へと向かおうとしていた。苦しみながら立ち上がったケムラーは、振り返るとゆっくりと足を引きずりながらではあるが、やってきた道を引き返し始めた。
「……まさか!?」
タバサは引き返し始めたケムラーの考えを悟って愕然とした。彼女の以前読んだ本の中に、動物の中には死ぬときに、生まれた場所など、ある特定の場所に戻ろうとする本能を持つものがいることを思い出したからだ。
それは、一般的には『象の墓場』と呼ばれているものが有名だが、ケムラーの場合は逃げ帰ろうとしているのか、帰巣本能か、あるいはどうせ死ぬなら生まれた場所でと思ったのかはわからない。だがその行く手には、確実に火竜山脈が、最終的にはその火口が灼熱のマグマを煮えたぎらせた口を開いて待っていた。
「きゅい! まずいのね、早くなんとかするのね、なんとか!」
シルフィードに言われるまでもなく、タバサもこのままでは道連れにされてしまうとわかっている。
山脈はまだ遠く、到達までには一時間以上、さらに登ることを考えたら二時間以上はかかるだろう。それまでにケムラーが絶命してくれればいいが、例えばハルケギニアに元々生息する亜人の一種であるミノタウロスは、首を切り落とされてもしばらくは生きていられる生命力を持つ、それよりはるかに大きく強靭なこの怪獣が、心臓をつぶされたからといって二時間くらい生きていられないと誰が断言できるだろうか。
ケムラーは、グググと苦しそうな息を吐きながらも、確実に一歩ずつ山脈に向かって前進していく。
ようやく息を整えたタバサは、両手を使ってはさまれた左足を引っ張るが、型にはめこまれてしまったようにびくともしない。
力技では無理だと悟ると、次に当然魔法を使っての脱出を図った。
『錬金!』
魔力の輝きが彼女の足を覆う頑強な羽根に吸い込まれて消えていく。けれども羽根にはまったく変化が見られない。ケムラーの羽根の強度が『錬金』の威力を上回っているのだ。
その後も、タバサは思いつく限りの魔法をこの羽根にぶつけてみたが、ひとつとして羽根に変化を与えられたものはなかった。
そうしているうちにも、ケムラーはじわじわと山脈の方向へ近づいていく。
シルフィードは、誰か助けが来てくれないものかと周りを見渡したが、街の方からも人影はまったく見えない。怪獣を恐れて近づくのを拒んでいるのだとすぐにわかった。懸命だが、今は誰か愚かでもいいから来て欲しいと思わずにはいられない。
それならばと、街に行って誰かを呼んでくると言ったら、駄目だときっぱりタバサに命じられた。どうせ誰が来てもどうにもできないだろうし、危険に余計な人を巻き込みたくない。それより疲れたから水がほしいと言われ、シルフィードは背中に乗せられたままになっていたバッグから、器用に水筒を取り出してタバサに渡した。
「……おいしい」
ただの水だったが、それは戦いに疲れたタバサの喉をうるおしてくれた。彼女は、水筒の水を半分飲み干すと、残った分をシルフィードの大きな口の中にそそいでやった。
シルフィードもふぅと息をつき、張り詰めていた空気が少しだが和らいだ。
「これからどうするのね……」
悲しそうに言うシルフィードに、タバサは空を見上げて答えた。
「まだ時間はある……でも、最後には……」
空は、火竜山脈の噴煙にも負けずに青く広がっていたが、ふたりの行く先には、黒く冷たい岩肌しか待っていなかった。
それからは、タバサはもてる知力のすべてを駆使して脱出を図った。
もう一度『錬金』を最大で、一点に集中して羽根を土に変えようとしたが通じなかった。
杖を岩をも切り裂く刃物にする『ブレイド』の魔法で、羽根を切りつけてみたが、傷一つつかなかった。
シルフィードがもう一度ケムラーの眼前に出て、可能な限りの挑発をおこなって羽根を開かせようとしたが、死期の近づいたケムラーは、もうシルフィードに見向きもしなかった。
氷の塊を羽根のすきまに押し込んで、こじ開けようとしたがびくともしなかった。たまりかねたシルフィードがすきまに爪を差し込んで引っ張っても同じだった。
そしてそうしているうちにも、ケムラーは進む道は街道から荒野に、荒野から山肌に変わり、ゆっくりと、しかし確実に火口が迫ってきていた。
タバサは小さな手の中にある、節くれだった大きな杖を見つめた。
彼女は、この任務が始まってから今まで使用した魔法のひとつひとつを思い出した。フライ、ジャベリン、ブレイド、それらをすべて足して自分の最初の精神力の最大値から引いたとき、残った精神力はあとラインクラスが一回くらいという結果が出た。
左足は、まだはさまったままで、まるでケムラーの背中からタバサが生えているかのようだった。どこかの国の伝説に、半人半馬のケンタウロスという魔物がいたが、そのなかのある賢者は、不死の力を持っていたが、哀れにも毒矢に射られて最後を迎える。
数多くの怪物を倒し、不死身のように生き延びてきたタバサも、最後は毒の怪獣とともに、火山に落ちて悲劇の幕を閉じるのだろうか。
次第に高度が上がり、空気が薄くなるとともに硫黄の臭いが強くなっていく。
火口も目前に迫ってきたとき、遂にタバサは覚悟していた最後の手段をとることに決めた。
杖を振りかざし、淡々とした様子で呪文を唱えると、杖を魔力がまとい、それを鋭利な刃物に変えていく。『ブレイド』の魔法だ。しかし、ケムラーの羽根にはブレイドの切れ味でも通用しない、ならば代わりに斬るべきものは……
「シルフィード」
魔法を完成させたまま、タバサは静かな声で使い魔の名前を呼んだ。
「なんなの? 何かいい考えでも浮かんだのね?」
「うん……だから、わたしがいいって言うまで目を閉じててくれる」
シルフィードは、主人の奇妙な命令に首をかしげた。
「きゅい、そうしたらお姉さま逃げられるの?」
タバサは無言でうなづいた。すると、シルフィードはうれしそうにきゅいきゅいと笑うと、両手で目を覆ってみせた。
「これでいいのね?」
「そう、そのまま……」
言い終わらないうちに、タバサは目をつむると、『ブレイド』をかけた杖を自分の左足に向かって強く振り下ろした。
だが……
「!? シルフィード」
タバサが目を開けて見ると、なんと杖が振り切られる寸前に、目を閉じていたはずのシルフィードが杖を咥えて止めていた。
「お姉さま、悪いけど今回だけはお姉さまの命令に逆らうのね。シルフィは、にぶいかもしれないけど、その魔法とお姉さまの雰囲気を見たら、お姉さまが何を考えてるかくらいわかるのね」
「っ、離して。もうこれしかここから逃れる術はないの、もう時間がない!」
初めて声を荒げてタバサは怒鳴った。もう火口はすぐそこに迫っている。時間にしたら一分もない。
だがシルフィードは頑として杖を離そうとはしなかった。
「だめなのねだめなのねだめなのね!! どんなになってもシルフィはお姉さまのそんな姿見たくないのね。こんな奴のためにお姉さまがこれからずっと苦しみ続けるなんて、絶対認められないのね!!」
「お願い……いい子だから、このままじゃこの先どころか明日さえわたしにはなくなってしまう。そのために痛みを背負う必要があるなら、わたしはそれを選ぶ」
タバサも必死になってシルフィードを説得する。力では人間が竜に敵うはずもないのだから、どうにかシルフィードに杖を離させるしかない。けれどもシルフィードは杖を噛み潰すほど強く咥え込んで離そうとしない。
「だめなのね……お願いだから、シルフィの目の前でこれ以上苦しみを背負わないで……もう、シルフィのほうが苦しくて見てられないのね」
いつの間にか、シルフィードの瞳からは人間のものと変わらない大粒の涙がボロボロと零れ落ちて、杖とタバサの手を濡らしていた。
このままでは、自分もろともシルフィードまで道連れにしてしまう。タバサは、それだけは避けようと、渾身の力をこめて杖を引っ張った。しかし、涙で濡れていたために、杖はすべり、タバサの手のひらから抜けて、シルフィードの口に咥えられたたまま取り上げられてしまった。
「う……!?」
だがその瞬間、絶望に染められていたタバサの脳裏に、一筋の光が閃いた。
それは、まったく単純で、なぜこれまで思いつかなかったのかと情けなく思うほどのことであったが、この状況から唯一、他に脱出できるかもしれない手段であった。
「杖を返して」
「だめ、いやなのね!」
「そうじゃない。別の方法を今思いついた、だから、早く!!」
シルフィードは、涙を拭いてタバサの顔を見ると、そこには先程までの悲壮な覚悟ではなく、新たな道を見つけた『希望』の光があった。
「ほ、ほんとうに?」
半分鼻声で聞くシルフィードに、タバサは黙って、しかし今度は力強くうなづいた。
シルフィードも馬鹿ではない、タバサの残り精神力は『ブレイド』を不発させた今、ドットどころかコモンスペル一回がせいぜいだろう。それなのに、トライアングルクラスのスペルを駆使しても脱出不能なこの状態から挽回できるとは思えない。ただ、こういうときにタバサがシルフィードの期待を裏切ったことは一度も無い。
「わかったのね。お姉さまを信じるのね」
そしてシルフィードから杖を受け取ると、すぐさま涙と唾液で濡れたそれを足元に構えて、呪文の詠唱を始めた。ただし、それは上級スペルの複雑で長いものではない、むしろシルフィードもよく知っているような単純でありふれた、『錬金』のコモンマジックだった。
「錬金? でもそれが効かないのはもうわかってるでしょ!」
「かけるのは、甲羅じゃない」
そう言うと、タバサは魔力を開放し、『錬金』の魔法がタバサの足元に吸い込まれていく。
確かに、ケムラーの羽根、甲羅にはいかなる魔法も通用しない。だが甲羅以外ならば話は別だ、『錬金』の対象となったのは、左足といっしょにはさみこまれたタバサの靴とソックス、これを瞬間的に油に変えることによって、わずかではあるが足と甲羅の間に隙間が生まれた。
「くっ!」
一瞬拘束が緩んだ隙を逃さずに、タバサは左足を引き抜いた。油のおかげで摩擦が軽減されているとはいえ、こすれて皮がずりむける痛みが走るが、タバサはなんとかギリギリのところで死神の足枷から脱出した。
だが、すでに火口は目の前に迫っている。あとケムラーが二、三歩も歩けば火口へとまっ逆さまだ。
「お姉さま、早く乗って!!」
慌ててシルフィードが背中を差し出すが、長い時間拘束されていたせいか、足が言うことを聞かずに立っていることができない。やむなく、シルフィードの足に杖を握ったまま抱きつくと、すぐさまシルフィードは空へと飛び上がり、次の瞬間ケムラーはマグマの煮えたぎる噴火口へと向けて落下していった。
刹那、火竜山脈はケムラーを飲み込むととともに、激しく身震いし、やがてその山頂部をも吹き飛ばさんばかりの勢いの火焔と黒煙を上げて、大爆発を起こした。
シルフィードは、その爆発の影響圏から逃れるために必死で飛んだ。
タバサも、振り落とされまいと必死でシルフィードの足にしがみついた。
やがて、火山弾も衝撃波も届かない距離まで逃げ延びたとき、ようやくシルフィードは速度を落とし、足にしがみついて震えている主人の襟首を咥えて背中に乗せてやった。
「助かった……のね?」
「うん……任務は終わった……じき噴火も治まる、帰ろう」
ほこりと汗で黒く汚れた顔を、いつもどおりの無表情に戻してタバサは言った。すりむいた左足が痛むが、今は確かに生きているという証拠で、むしろありがたくすら感じた。
任務の内容の、火竜の人里へ降りてくる理由の調査は済んだ。そして山脈に生息する火竜の数は激減し、怪獣もいなくなったので、もう人里に降りてくることもないだろう。
噴火も、本格的なものではなく、膨大な質量の物体を飲み込んだことによる表面的なもので、長続きはしないだろう。付近の街も、火竜山脈近辺では噴火はつきものなので被害もそうは出ないはずだ。つまり、もうここに居る理由はなくなったのだ。
シルフィードは、解放感から大喜びで翼をひるがえした。
「じゃあ行くのね。こんな忌々しい場所からはさっさとおさらばしましょう」
「シルフィード」
「うん、なんなのね?」
頭の後ろから話しかけてきた主人に、シルフィードは目を後ろに向けて答えた。
すると、タバサはぽつりぽつりと、ゆっくり、そして優しく言った。
「今回は、あなたがいなければわたしは勝てなかった。万一、勝てたとしても大事なものを失っていた。あなたがいてくれたから……」
それは、なんとも予想もしなかったタバサなりの、不器用だが、精一杯の感謝を込めた言葉だった。
シルフィードは、とたんに気恥ずかしくなって、きゅいきゅいわめきながらなんとか答えようとした。
「なな、急になに言い出すのね!! お姉さまらしくもない。そ、そりゃあシルフィはお姉さまの使い魔だからお姉さまを助けるのは当たり前なのね。それに、えーと、人間は仲のいい人同士をお友達って呼ぶのね。お友達は助け合うものなのじゃないのかね!?」
しどろもどろになりながら、シルフィードは言葉をつむいだが、タバサからの返事はなかった。
もしかして、任務を終えたときはいつもみたいに、また無表情で本を読んでいるのかと思って背中を覗いてみたら、タバサはシルフィードの背中に顔をうずめて、すぅすぅと寝息を立てていた。
それを見て、シルフィードはほっとするとともに、そういえばお姉さまの使い魔になって以来、今回ほど精神的にも肉体的にもすり減らす任務は無かったと思い、目元を緩めて微笑んだ。
「まったく、いつもこんなだったら可愛げもあるのにね。でも、疲れたのね……」
そのとき、タバサがぽつりと、苦しそうに寝言を言った。
「う……お母様……」
それを聞いて、シルフィードは悲しげな顔をした。タバサの母親は、過去に彼女を守るために自ら犠牲になった。タバサは、夢の中でまでもそのときの光景に苦しめられているのだろう。
見ていられなくなったシルフィードは、しばらく考え込んでいたが、やがていいアイデアが浮かんだらしく、くすくす笑いながら、首を回すと、うなされているタバサの耳元でこしょこしょとささやいた。
「こらーっ、この馬鹿犬ーっ」
それはとある人物のものまねであった。
するとタバサは、ぴくりとし、やがてくすくすと微笑を浮かべ始めた。
「やれやれ、まったく手間のかかるご主人様なのね。でも、せめてシルフィの背中でくらい、いい夢を見るといいのね」
シルフィードの背後で、噴火を続ける火竜山脈がみるみる小さくなっていく。
燃え滾る炎と、どす黒い煙が、火竜山脈が自ら生み出した怪獣への弔いの灯火のように立ち上り、連続する爆音が、鎮魂歌のように高く遠く響いていた。
だが、今のタバサには、それらすら心地よい子守唄のような響きとなって聞こえていた。
なぜなら、その爆音は、彼女の友の魔法の音とそっくりだったからだ。
続く