第16話
タバサの冒険 タバサと火竜山脈 (前編)
毒ガス怪獣ケムラー 登場!
ここで物語の時系列はややさかのぼる。
才人がツルク星人が気がかりになり、深夜学院を飛び出したとき、走り去る馬の姿を見ていた者がいた。
「きゅい、こんな夜更けにわたし達以外に誰なのね。あ、あれはギーシュさまをやっつけた平民の男の子なのね。でもあんなに急いでどうしたのかね?」
「知らない……それより目的地が違う」
奇妙に陽気な声と、つぶやくように静かな声は、才人の耳に届くことなく彼とは別の方向へと消えた。
その翌日、トリステインの南方の国、ガリアの首都リュティス
人口三十万、ハルケギニア最大のこの都市の郊外に、巨大で壮麗なるヴィルサルテイル宮殿がある。
この宮殿の、中心から離れた別荘といった感じの小宮殿『プチ・トロワ』に昨晩の学院の声の主はやってきていた。
「花壇騎士七号様、おなり!」
衛士の声に続いて、広間に姿を現したのは、水面のような青い髪と瞳を持った小柄な少女、タバサであった。
そして、一段高い壇上からタバサをもう一対の眼が見下ろしていた。その髪と瞳の色はタバサとまったく同じで、ふたりに血縁関係があるのは容易に想像できる。ただし、その瞳に宿る光は澄んだ湖の湖畔を思わせる青さを持ったタバサとは対照的に、荒れた曇天の海のような黒ずんだ青に見える。
対極の光を宿した二対の青い瞳は、時間にしておよそ瞬き5、6回分ほど視線を合わせていたが、沈黙を破って空気を震わせたのは、上段にいる暗い目の少女のほうであった。
「ふんっ、ようやく来たかい。ったく、何十回見ても安物の絵画見てるみたいで変わりばえしないねえ。いっそのこと同じ顔の仮面でもつけたらどうだい、そうすりゃあたしもつまらないもん見なくて済むんだけどねえ」
いきなりの暴言、とても宮廷内で吐かれる言葉とは思えないが、それを咎める者はいない。それは声の主がこの場でもっとも強い権威を持つということに他ならない。
彼女の名はイザベラ、この国の王ジョゼフの娘にしてプチ・トロワの主、タバサから見れば従姉妹に当たる。
だが、そうすると王族の血縁であるはずのタバサがなぜこうして下僕のように彼女にかしずかなければならないのか? それはこの国の中にも巣食う欲望と怨念に満ちた政争ゲームの、その敗者の立場にタバサの一門はいたからで、特にそうした者への勝者の一族からの感情は、時に残酷さえ超えて禍々しい。
そして、今タバサが置かれている立場は、国の公にできない難題を秘密裏に処理する暗部の騎士団、その名も北花壇警護騎士団といい、その一員の騎士七号が彼女の肩書きである。
それはいつ死んでもおかしくない危険な仕事であり、彼女にあからさまな嫌悪と敵意を抱く従姉妹姫は、常にもっとも危険で難解な任務を与えるのだった。
「…………」
「ちっ、反論のひとつもしないんだから、人形どころか空気に話しかけてるみたいだよ。まあいい、今回のお前の仕事だ、受け取りな」
無造作に放り出された書簡をタバサは拾い上げて一瞥した。
「了解した」
「……おい、お前それ本気で言ってるんだろうな。字が読めないわけじゃないだろ」
顔色一つ変えずにそう言ったタバサに、イザベラは歪めた口元をぴくぴくと震わせて言った。しかしタバサはまるで今晩の食事のメニューを言うように、指令書の内容を復唱してみせた。
「火竜山脈周辺で、最近頻発している火竜の人里への襲来の増加の原因を調査し、これを解決させる。および、降下してきた火竜の討伐」
「あんた、わかってるのかい。火竜はハルケギニアじゃエルフに次いで敵にすることが危険とされてるほど危険な幻獣、その炎のブレスは優に炎のトライアングルクラスに匹敵する。飛翔能力は高く、さらに皮膚は鉄の硬度にも達するという。火竜山脈にはそんなのが何百匹と巣くってるんだぞ」
イザベラの言葉は誇張でもなんでもない事実である。普通のメイジならトライアングルクラスでも五人で一匹をどうにかできるかどうか。普通なら「死んでこい」と言われるに等しい内容であるのに、眉一つ動かさないタバサに、てっきり恐怖におののくであろう姿を想像していたイザベラは、自身の下卑た想像を外されて歯噛みした。
「あーあー、もういい。さっさと行きな、言っとくけどこの時期火竜は産卵期で気性が荒くなってるから精々気をつけることだね。健闘を祈ってるよ」
忍耐力の限界に来たイザベラはそう言ってタバサを追い出すと、ちっと舌打ちした。
しばらくして窓の外を見ると、タバサが数ヶ月前に召喚したという使い魔の風竜に乗って飛んでいくのが見える。イザベラにとっては、それが忌々しく、なによりうらやましかった。
(なんであいつばっかり魔法の才が……)
彼女は王族であるが、若くしてトライアングルクラスに上り詰めたトリステインやアルビオンの後継者らと違い、未だにドットクラス。最低限の魔法しか使いこなすことができず、それがタバサに対して強いコンプレックスとなってタバサへの執拗な嫌がらせの原動力となっていたのだが、どんな非道な言葉にも命令にも黙々として従うタバサを相手に、その陰惨な欲求が満たされたことは一度として無かった。
イザベラは、メイドが運んできたロマリア産五十年物の極上ワインのグラスを取り上げ、一口すすると、ぺっと吐き出した。
「まずい」
彼女は、どうせ火竜山脈に行かせるなら、ついでにそこに生息する極楽鳥の卵を採って来させればよかったと思ったが、今更呼び戻すこともできず。風竜が見えなくなるまで窓の外を見ていた。
「使い魔か……サモン・サーヴァント、そういえばまだやったことはなかったな……」
火竜山脈はガリアの南西、隣国の宗教国家ロマリアとの国境線にそびえ立つ六千メイル級の壮大な山脈である。
しかし、そこは地球で言うアルプスのような白銀の雪に覆われた寒冷の地ではなく、火竜の名が現すとおりに、絶え間なく噴出する溶岩と噴煙により黒々とした地肌を現す、活火山の灼熱地獄であった。
タバサはシルフィードを一昼夜飛ばし、翌日の昼間には山脈近辺の街までやってきていた。
そこで食糧調達と、情報収集をおこなったわけだが、なるほど火竜が頻繁に襲来するというのは本当のようだった。街のあちこちに黒くすすけた家や、全焼して土台しか残っていない家がちらほら見え、屋上に立って山脈方向を見張っている人間の数も五人や十人ではない。
だが肝心の火竜が降りてくる原因については有力な情報を得ることができなかった。
竜は幻獣の中では頭のいいほうに入り、人里に近づけば攻撃を受けることを知っている。人間の力では倒すことは困難でも、多数を持って目や口を狙い、撃退することはできる。餌場としては大変不適当なのに、わざわざ困難を承知で降りてくるほどの何かが山脈に起きたのか。
けれど、その何かがわからない。こんなときに自分から火竜山脈に乗り込んでいこうなどという物好きはいないからだ。ただ、ここ最近小さな地震が頻発しているということだけはわかった。
「火山活動が活発になり始めたから、地上に降りてきた……?」
タバサはそう推測したが、すぐにそれを打ち消した。多少火山活動が活発になったところで、熱さを好む火竜にはむしろ望むところのはずだ。
タバサは、街で得られる情報に見切りをつけるとシルフィードに乗り、火竜山脈を目指して飛び立った。やがて遠目でも火竜山脈の黒々と切り立った峰々と、その上を乱舞する火竜の群れの姿が見えてきた。
「火竜の縄張りの外側ぎりぎりを飛んで、空からできるだけ観察してみる」
シルフィードにそう命じると、タバサは街で買い求めた望遠鏡を取り出した。するとシルフィードはいやいやをするように首を両方に振ってタバサに"言った"。
「もう、お姉さまも無茶言うのね! 火竜はすごく気が荒い上に貪欲なのね。うかつに近づいたりしたら、それこそ何十匹もやってくるのね!」
なんと、竜のシルフィードがしゃべったではないか。
「でも、あなたよりは遅い……風韻竜はハルケギニアで最速の生き物」
「そ、そりゃそうだけどね! 怖いものは怖いのね、お姉さまも一度目を血走らせた火竜の群れに追われてみなさいなのね。尻尾のとこまで炎のブレスの熱さがやってくるのを感じたら、そんなことは言えないのね、わたしたち韻竜は知識は発達してるけど、戦う力はたいしてないのね!」
そう、シルフィードはただの風竜ではない。ハルケギニアではすでに絶滅したと言われている、人間並みの知能を有する伝説の竜族、風韻竜だったのだ。
ただし、表向きはただの風竜ということにしてある。幻の絶滅種などということが世間に知れたら、周りに何をされるか分かった物ではないからで、ルイズ達の前では一切しゃべらなかったのはそのためだ。
もっとも、その反動からか、もしくは生来のおしゃべり好きか、タバサとふたりきりのときは無口な主人の分も合わせてよくしゃべる。
「もう、もう、お姉さまは本当に火竜の怖さがわかってないのね。そんなんだからあの馬鹿王女がつけあがって無茶な命令ばかり言い出すのね。そのうち吸血鬼とかエルフとか、そんなのを相手にさせられたらどうする気なのね!!」
タバサはシルフィードの抗議を右から左に聞き流すと、望遠鏡をかまえて山脈の頂上付近を念入りに観察した。噴火口あたりから噴煙が噴出していることを除けば、特に異常はない。ただし、もしタバサが以前にもこの火竜山脈を訪れていたことがあったとしたら、宙を乱舞する火竜の群れが噴火口を大きく避けて飛んでいたのに気がついただろう。
次に山脈の中腹あたりに目をやったタバサは、そこの明らかな異変に気がついて目を細めた。
また、シルフィードもタバサのそんな様子に気づき、背中の主人に声をかけた。
「どうしたのね。お姉さま?」
「まだ初夏なのに、木々が全部枯れてる。調べてみる、あのあたりに下りて」
「はいはい、まったく韻竜使いが荒いご主人様なのねー」
シルフィードはぶつくさ文句を言いながら、火竜を刺激しないように低空を飛んで中腹へ向かった。
だが、下りてみると中腹の山林や草原の状況は想像以上にひどいものだった。
「ひどいのね。なにもかも死に絶えてるのね……」
草木は一本残らず茶色に変わり、地面にはあちこちに鳥や鹿、ネズミから昆虫にいたるまであらゆる動物の死骸が横たわっていた。
タバサは、きゅいきゅいと落ち着き無く周りを見回しているシルフィードを置いておいて、無表情のまま地面に横たわっている鹿の死骸を検分した。すると、傷の具合から喉のあたりをなにかにこすりつけたあげく、血を吐いて死んだことに気がついた。
「お姉さま、何かわかったのかね?」
「窒息死してる、呼吸器官を破壊されて息ができなくなったのね。周りもみんなそう、原因は……」
「な、なんなのね? もったいぶらずに早く言ってなのね!」
「恐らく、毒」
タバサは喉の奥から搾り出すようにその忌まわしい単語を口にした。『毒』、その言葉が脳裏をよぎる度に、彼女の胸に熱い怒りの炎が湧いてくる。しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。問題にするべきは、これだけの生き物を殺した毒の正体である。
シルフィードは、タバサに毒と言われてうろたえていたが、やがてどうにか落ち着くと、人間に劣らないという韻竜の知識を総動員してタバサに聞いてみた。
「ふぃーびっくりしたのね。けど、ここは火山なのね、ときたま毒の煙が噴出すのはあることじゃないのかね」
「……」
タバサは即答しなかった。確かに火山は時としてふもとの街一つを全滅させるほどの火山ガスを噴出することがある。常識で考えればシルフィードの言うとおりだろう。また、毒性ガスのせいで火竜が山脈にいられなくなり、ふもとに降りてきたと説明もつく。けれども、どうにも釈然としなかった。
これといって、物的証拠があったわけではない。しかし、火山から吹き出す有毒ガスが致命的な毒性を見せるのは、窪地などに空気より重いガスがたまって濃度が濃くなった場合などがほとんどで、風通しのよい山腹でこれほどの生物を殺すとは、よほど濃度の濃いガスが一度に大量にやってきたとしか考えられない。そして、それだけのガスを発生させたにしては火山はおとなしすぎる。
タバサが、どうにも自分を納得させられずに、石像のように固まって考え込んでいると、元々こらえ性のないシルフィードがしびれをきらしてわめいてきた。
「もー、お姉さまったら、これは自然のせいなんだから人間にはどうしようもないのね。いえ、人間どころか精霊の力、人間の言う『先住の力』でもこればっかりは止められないのね。大地の怒りには何人も逆らえません。お姉さまはシルフィより頭がいいけど、これだけは間違いないのね」
一気にまくしたてたシルフィードのご高説をタバサはやはり黙って聞いていたが、やがてどうしても納得のいく答えを出せなかったらしく、短くため息をつくと、再びシルフィードの背に乗り込んだ。
「もう少し調べてみる。飛んでいける限り山頂に向かって」
「えーっ、ほんとお姉さまはあきらめが悪いのね。火竜に目をつけられたら大変な……のっ!?」
シルフィードはタバサへの抗議を中断せざるを得なくなった。突然、足元から突き上げるような衝撃が伝わってきたかと思うと、彼女達の立っている山腹が激しく揺れ動き、立ち枯れた木々がメキメキと音を立てて倒れていく。
「地震!? 大きいのね!!」
「飛んで! 早く!」
慌ててシルフィードは揺れ動く地面を離れて宙へ飛び立った。その瞬間、槍のようにとがらせた枝を振りかざした枯れ木が、今までシルフィードのいた地面に覆いかぶさってきた。一瞬遅かったらふたりとも串刺しになっていただろう。
崩壊していく山林を見ながら、ふたりはこれが並の地震ではないことを瞬時に悟った。
「ふぃー、危なかったのね。けどまさか、噴火なのかね!?」
「かもしれない。離れて」
二人は同時に火口を見上げた。異変に気がついた火竜や極楽鳥が次々飛び立っていくのが遠目でもはっきり見える。普段なら恐ろしいものからはさっさと逃げ出すシルフィードであったが、今回は好奇心のほうが勝るようで、空中に静止して噴火が始まるのかと息を呑んで山頂を見つめていた。
だがやがて山頂から吹き出していたのは、赤いマグマや黒い岩石ではなく、真っ白い霧のようなもやであった。
「あれは……水蒸気? いや、あれは!?」
そのときタバサは見た。もやの中を動く二つの光る点を。
さらに、もやの中から、まるでガマガエルの声を数倍野太くしたような唸り声が響き、次の瞬間、風が吹いてもやを一気に吹き払ったとき、二人はそこに信じられないものを見た。
「か、か、か、か、かかか、怪獣なのねーーっ!!」
シルフィードの叫びは、それを極めて簡潔かつ具体的に表していた。
姿は、全身灰色で四足歩行、トカゲのように地面をはいずっているが、背中には頑丈そうな甲羅がついていて、背面を完全にガードしている。頭はカエルをさらに扁平にしたようにつぶれていて、大きく裂けた口の上にぎょろりと目がついている。先程のもやの中に見えた光はこいつの目玉だったのだ。だが、何よりもそいつの全長は少なく見積もっても三十メイルを超え、火竜がまるで小鳥のように小さく見える。
もし、この場に才人がいたら、そいつを見て。
「ケムラーだ!!」
と、言ったに違いない。
地球では、怪獣頻出期の初期に大武山に出現し、初代ウルトラマンや科学特捜隊と激戦を繰り広げた怪獣。先程の地震はこいつが地上に出てくるために引き起こしたものだったのだ。
ケムラーは、のそのそと火口から這い出ると、山肌をゆっくりと下り始めた。
だが、その様子は当然火竜たちの目に触れる。自分達の縄張りを荒らされた彼らは、翼を震わせ、喉からうなり声を上げて怒りを露にし、住処を荒らす不貞な侵入者に向かって一斉に襲い掛かっていった。
「あわわ、火竜たち、怒ってるのね。あっけないけど、あの怪獣もう終わりなのね。百匹以上の火竜に襲われたら、炭も残さず灰にされちゃうのね」
シルフィードは、火竜に取り囲まれるケムラーに同情するようにつぶやいた。だが、シルフィードは大事なことを忘れていた。ケムラーが出てきたのは火山の火口なのだということを。
そして次の瞬間、火竜たちの口から一斉に炎のブレスが吐き出され、ケムラーの全身を影さえ見えなくなるくらいに火炎が覆い尽くした。
「大トカゲの丸焼き、一丁あがりなのね」
のんきそうにつぶやくシルフィードの見ている前で、次第にケムラーを包んでいた火炎が収まっていく。そしてそこには、先程までとまったく変わらない姿のケムラーが、平然と煮えたぎった岩石の上に居座っていたのである。
「ななな、なんなのねあの怪獣、岩をも溶かす火竜の炎を浴びて無傷だなんて、信じられないのね」
「……生き物の常識を超えてる。まさに、怪獣」
シルフィードもタバサも、その怪獣のあまりにも生物の常識からかけ離れた光景に驚かずにはいられない。生き物を超えた生き物、それこそが『怪獣』と呼ばれる生物なのだ。
だが、効く効かないは別として『攻撃を受けた』という事実は、ケムラーの防衛本能をしたたかに刺激していた。
突然、ケムラーの背中の甲羅が、昆虫の羽根のようにがばっと空へ向けて割れて跳ね上がり、ケムラーは火竜の群れに向けて大きくうなり声を上げた。威嚇しているのだ。
けれど、空を舞う火竜にとって、いかに大きく頑丈であろうと、地を這いずるだけのトカゲを恐れる必要はない。彼らは、生意気にも吼えてくる相手に向かって威嚇し返してやろうと、ケムラーの正面に集まった。その驕りが、破滅をもたらすとも知らずに。
ケムラーは、火竜が集まったのを見ると、大きく口を開いて火竜たちに向けた。すると、口の中が一瞬稲光のように発光した直後に、煙幕のような真っ黒い煙が放たれて、瞬く間に群れのほとんどを包み込んでしまった。
「煙!?」
てっきり炎でも吐き出すのかと想像していたタバサやシルフィードは、いったい何が起こったのかすぐには理解できなかったが、煙を浴びた火竜たちが撃たれたツバメのように力を失い、バタバタと地上に落下していくのを見ると、タバサは血の気を無くしてシルフィードに怒鳴った。
「逃げて!!」
「えっ、な、なんなの!?」
「逃げて、風上へ向けて、早く!!」
「わ、わかったのね!」
訳の分からぬままシルフィードは全速でその場から離脱して風上へ回った。風韻竜であるシルフィードにとって、風向きを読むなど児戯に等しいが、普段からは考えられないタバサの慌てようにさすがに無関心ではいられなかった。
「これでいいのね? でも、なんなのね?」
タバサは地上に墜落した火竜の群れを杖で指した。すでにほとんどが絶命しており、その惨状は目を覆わんばかりだった。泡を吹いて倒れているもの、白目を向いて血を吹いているもの、なかにはまだピクピクと痙攣しているものもいたが、やがてすべて動かなくなっていた。
「猛毒の煙……あれを浴びたらひとたまりも無い」
「毒!? ということは、森を枯らしたのも、動物たちを殺したのも!!」
「あいつの仕業……間違いない」
ふたりは憎憎しげに前進を再開したケムラーを睨みつけた。
ケムラーの別名は『毒ガス怪獣』、奴の口から吐き出される高濃度の亜硫酸ガスは生き物を殺し、大地を腐らせ、空を濁らせる。その猛威は過去も、大武山周辺の生態系を壊滅させ、大武市を死の町にしかけたほどだ。
だが、このまま奴をふもとに降ろしたら近辺の街はおろかガリア全域が危険にさらされる。意を決したタバサは杖を握り締めた。
「あいつに後ろから近づいて」
「えっ、お姉さま、もしかして……やる気なのかね?」
そんな冗談でしょうと聞き返したシルフィードに、タバサは思いっきり真顔でうなづいてみせた。
「じょじょじょ、冗談じゃないのーね!! 今火竜の大群が全滅させられたの見たでしょう!! どこをどうしたら戦おうなんて考えがでてくるの!? もうこれは騎士の領分を越えてます、軍隊を呼ぶしかないでしょう!!」
「ガリア軍全軍が集まったとして、あれに勝てると思う?」
うっ、とシルフィードは言葉に詰まった。たった一匹の超獣相手にトリステイン軍全てが敗退したのは、シルフィード本人も見てきている。ましてやあの毒ガスの威力、人間ごとき何十万集まろうと、呼吸をしなければならない以上勝ち目はない。
「それに、わたしの任務は、どんな理由があろうと失敗は許されない」
さらに、タバサは強い意志のこもった声で言った。
タバサの北花壇騎士という立場は、国の暗部を担当するだけに、どんな仕事でもできませんとは言えない。第一、王位継承戦に敗れ、暗部の仕事でかろうじて命脈を保っているタバサが、仮に一度でも失敗したら、イザベラをはじめとする彼女に敵対する王宮の勢力は、それをたてにタバサからその生命を含む全てを奪い去ることだろう。
だがそれとこれとは話が違う、シルフィードは悲しそうな声で、もう一度だけタバサに聞いた。
「じゃ、じゃあ、軍隊でも敵わないっていう、そんな相手にお姉さまは勝てると思ってるの?」
「それをこれから試してみようというの」
シルフィードは頭の上から氷の塊を落とされたような衝撃を感じた。
「あー、シルフィは目の前が真っ暗になってきたのね。きっとこれは夢なのね、今頃本当のシルフィはやわらかいわらの中で気持ちよく寝てるのね。そして朝になったら、お日様におはようって言うのね……って、痛っ!!」
タバサは杖の先で思いっきりシルフィードの頭をこずいていた。
「大丈夫、起きてる起きてる……心配しなくても、後ろからなら毒煙は受けないし、あいつの首は後ろを向けない」
言外に「行け」と言っているタバサに、シルフィードは心底がっくりしたが、仕方無しにその指示に従うことにした。
「シルフィはときどき自分がハルケギニア一不幸な竜なんじゃないかと思うのね。でも、お姉さまはどうせシルフィがいなくてもやる気なんでしょう。はいはい、そんなお姉さまをシルフィはほっておけません。こんなお人よしな韻竜を使い魔にできたことを始祖とやらに感謝するがいいのね。じゃあ、いくのねーっ!!」
長い独白の後、シルフィードは急上昇すると、ケムラーの真後ろ、山頂方向から一気にケムラーに接近した。たちまち、怪獣の巨体が眼前に迫ってくる。タバサは呪文の詠唱を始め、攻撃目標を定めた。
選択した攻撃呪文は『ジャベリン』、氷の槍を作り出し敵を串刺しにする魔法。先の火竜の攻撃で、怪獣の皮膚が熱に対して極端なまでの防御力を持つことを把握したうえで、物理的に皮膚を打ち抜くのが狙い。そして目標とすべきは、比較的皮膚が薄いと思われる尻尾の付け根。
目標の真上に出たとき、タバサは小さな目を見開き、渾身の力で完成させた全長五メイルにもなる巨大な氷の槍を打ち下ろした。
だが、ジャベリンはケムラーの皮膚に一サントも刺さることなく、先端からぐしゃりとつぶれて、美しいがまったく無価値な氷の破片へと姿を変えてしまった。
「!?」
タバサは一瞬自分の目を疑った。数十サントの鉄板も打ち抜けるほどのジャベリンがまったく通用しない。
怪獣の防御力を完全に見誤っていたことに彼女は遅かれながら気がついた。だがそれは彼女の責任ではない。ケムラーは鈍重な外見に反して、ジェットビートルのミサイル攻撃はおろか、ウルトラマンのスペシウム光線さえ跳ね返した恐るべき経歴を持つ怪獣なのだ。
ただ、タバサが自分を失っていたのは、時間にしてほんの刹那のあいだだけだった。
戦いにおいて予想に反したことが起こるのは珍しいことではない。彼女はすぐに、自分の攻撃がこの怪獣には通じないことを悟って、シルフィードに離脱するように命じた。
しかし、効かなかったとはいえ攻撃を受けたことに気がついたケムラーは、尻尾を持ち上げると、二股に分かれているその先端をシルフィードに向けた。
「避けて!!」
とっさにそれが攻撃を意味すると察したタバサは、シルフィードの右の翼の付け根を叩いて叫んだ。
瞬間、怪獣の尾の先端から白色の光線が放たれふたりを襲ったが、タバサのおかげでシルフィードは間一髪のところで、右旋回でそれをかわした。だが、外れた光線は山肌をえぐり、固い火山岩でできたそれをバラバラに粉砕してしまった。
「あ、危なかったのね……」
どうにか攻撃の届かない高空まで逃げ延びたシルフィードは、寿命が百年は縮んだと息を吐き出した。
タバサのほうは、いつもの無表情に戻っているが、杖を握り締めた手は力を込めたあまり真赤になっている。怪獣の防御力だけでなく、攻撃力も読み誤っていたことに、自分の判断力の甘さを痛感したからだ。なにが後ろは死角だ。あんな武器がある以上、どこにも安全な場所などありはしない。
現状では、この怪獣の前進を止める方法は何も無い。ケムラーは文字通り無人の野を行くがごとく、山肌を悠々と降りていく。その進行方向に小さな村があった。
「か、怪獣だーっ!!」
「た、助けてくれっー!!」
村にいた山師達が慌てふためていて逃げていく。
ここは、山脈のふもとにいくつかある鉱山村のひとつで、火山から採れる硫黄や、近辺で採掘される砂鉄などを石炭を使って精錬している十軒ほどの小規模集落だが、ケムラーはその中央に一軒だけある大きな工場に近づくと、火を落とす間もなく、煤煙を噴き上げていた煙突にかぶりつき、煙をゴクゴクと飲み込み始めた。
「け、煙を飲み込んでるのね……!?」
唖然と見守るシルフィードの眼下で、ケムラーはしばらくのあいだうまそうに煙を飲んでいたが、やがて満足したのか、煙突から離れると、集落の家々に向かってあの真っ黒な煙を吹きつけた。
するとどうだ、煙を浴びた家々が土台からふわりと宙に浮き上がったではないか。そして、浮き上がった家はわずかに宙を舞っていたが、ドアや窓からガスが抜けると、次々地面に落下して瓦礫の山に変わった。
「い、家が空を飛ぶなんて、いったいなにがどうなっているのね?」
「風船と同じ、煙を中に吹き込んで、その力で宙に浮かせてるの。多分、あいつは排煙が好きで、吸い込んだ煙を猛毒に変えて吐き出すことができる。恐らく、これまでは火竜山脈の煙で満足してたんだけど、火山が活動を開始したから、中にいられなくなって煙の多い人里に下りようとしてる……」
「ちょちょ、煙って、この近辺だけでも鉱山村はごまんとあるし、工場や製鉄所も入れたら煙の出るところなんかガリア中にいくらでもあるのね!」
シルフィードは言いながら自身の言葉の恐ろしさを悟っていった。つまり、あの怪獣にとってガリア中、いやハルケギニア中の町々が餌場ということになる。
なんとしても、ここでこいつを食い止める。タバサは任務とは関係無しに、ケムラーと戦う覚悟を決めた。
それは、愛国心や使命感といったものでは言い表せない。
父が、母が愛したこの国、そこに生きる人々を守る。愛する両親に教えられた"クニ"を守ろうとする心。
そしてもうひとつ、彼女はまだ気づいていないが、あの毒ガスによって苦しみながら死んでいった火竜の姿に、キュルケやルイズ達の姿が重なって、絶対にこいつを進ませてはならないと、彼女にそれを命じていたのだ。
続く