ウルトラ5番目の使い魔   作:エマーソン

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第53話  悪夢を越えたその先に……

 第53話

 悪夢を越えたその先に……

 

 超古代植物 ギジェラ 登場!

 

 

 ルイズたち一行がアーハンブラ城にたどり着く前の夜、タバサとロングビルは互いの存在理由を賭けて戦った。

 そして、敗れたタバサは仲間たちのもとから去った。いや、逃げ出した……

 飛び出した後、どこをどう進んだのかは覚えていない。走ったのか、魔法で飛んだのか、あるいはどこかから転げ落ちたのか。

 気がついたときには、タバサは見知らぬ原っぱの中で、土のベッドに雑草をシーツにして夜空をあおいでいた。

「ここは、どこだろう……」

 全身疲れきり、鉛のように重くなってしまった体を投げ出してタバサはつぶやいた。

 見慣れぬ風景、嗅ぎなれぬ風、北花壇騎士として方々を旅してきたけれど、初めて感じる空気。

 いったい、みんなのいた場所からどれだけ離れてしまったんだろうか……体の疲れ具合と、魔力の消耗具合から推測するに、元いた森から半径十リーグ前後のどこかというところか。シルフィードに乗ればひとっとびの距離だが、人の足だけに限ると世界はとたんに狭くなる。

 気がつけば、月は天頂から主役を星々に譲り、山間にその姿を没しようとしていた。一人で戦ってきたときから、シルフィードの背に揺られているときまで、何十回、何百回と見上げた夜空、見慣れた星座。けれど今は、生まれ育ったガリアのどこかだというだけで、まるで違う世界に来てしまったように思える。いや、ほんとうに違う世界に来てしまったのと同じだろうと、タバサは顔をおおった。

「わたしは、みんなを裏切った……」

 心が落ち着くと、続いてやってきたのは逃れようのない罪悪感の波だった。

 シェフィールドからの残酷な命令と、それに従ってみんなを手にかけようとした自分。

 止めようとしたロングビルを殺す寸前まで追い詰め、あげくその相手に心の弱さを指摘され、無様に逃げ出した自分。

 走っているあいだは忘れられていた。けれども、どんなに遠くまで逃げても、心に刻み込まれた痛みから逃れることはできなかった。

 わたしは結局、なにをしていたんだろうかとタバサは思った。

 はじまりは、忘れることもできない三年前の誕生日のあの日から。すべてを失い、体のいい処刑として送り込まれたキメラドラゴン退治を乗り越え、シュヴァリエになってから、ひたすらに戦いにあけくれてきた。

 ジョゼフとイザベラの気まぐれで与えられる過酷な任務。狡猾冷酷な悪党や、残虐凶暴な怪物退治。

 そのすべてをやり遂げてきたのは、奪われた母の心を取り戻し、父の仇のジョゼフに復讐するためだけのはずだった。

 なのに、自分にはいつの間にか、目的以外にも大切なものができてしまっていた。

「友達なんて、わたしには一番似合わないものなのに」

 誰かとつながりを持とうなんて、今まで考えたこともなかった。でも、入学してすぐになれなれしく声をかけてきたキュルケから始まって、次々と面倒ごとに首を突っ込む学友たちをほっておけずに関わりあってたら、いつの間にか仲間の一員みたいになっていた。

 なんだ、ほんとうはお前は一人でいるのに耐えられなくなっていたんだなと、タバサは自分を笑った。

 どんなに無視しても、平然と話しかけてくるキュルケの声が心地よくて、いつしか逃れようとするのをやめていた。

 フーケのときからそうだ。命に関わるような危険なとき、関わり合いになるまいとすれば、いくらでも逃げることはできたのに、自分からみんなと行動をともにするようになっていた。

 皆が危険なことをする。自分の力がないとみんなが危ないというのは口実で、ほんとうは皆とともにいたかっただけだ。

 結局、お前は孤独に住んでいるつもりで、人にすがっていた弱い人間なんだと、心の中から別の自分が冷笑してくる。

 そのとおりだ……わたしは、魔法の力ではずっと強くなったけど、本質的なところでは、父と母に甘えていたころからなにも変わってはいない。今回だって、ティファニアを救うというのも、シェフィールドの命令だからというのも名目で、本音はまたみんなと旅がしたかっただけだ。

 なのに、わたしはそのみんなを自ら裏切った。裏切って、殺そうとした。もう、取り返しはつかない。

 涙があふれ、喉から嗚咽が漏れてくる。なにもかも夢だったらよかったらいい。もう一度、過去に戻ってやり直したい。けれど、そんなことはできない。過ちは消しようもない。

 タバサの心に、昔暗記するほど母に読んでもらった『イーヴァルディの勇者』の一小節が浮かんでくる。

 

”それは、とある地方のお話。

 ひどい領主が村人を苦しめていたところにイーヴァルディがやってきました。

 重い税と、役人の横暴に苦しめられる人々を見て、彼は心を痛めました。

 そんなとき、彼はふとしたことから、領主の娘のルーと知り合いになったのです。

 心優しい娘のルーは、イーヴァルディに頼んで父の圧政から村人たちを助けてもらおうとしました。

 ところが、村人たちとともに領主の屋敷に乗り込んだイーヴァルディはルーの案内ではいった部屋で罠にはまり、捕らえられてしまいました。

 ひどい拷問がくわえられる中で、イーヴァルディたちはルーが裏切ったことを知ります。

『なぜだ! どうしてぼくたちを裏切ったんだ』

 悲しみに満ちた叫びを、ルーは泣きながら聞いていました。彼女は、残酷な父の命令で、イーヴァルディを罠にかけなければ軍隊を呼んで村人を皆殺しにするとおどされていたのでした。

 ところが、横暴な領主の最期は突然やってきました。山を越えた竜の洞窟に潜むという伝説のドラゴンが、領主の屋敷を襲ったのです。

 屋敷はつぶされ、領主はドラゴンの炎で焼き殺されました。そしてルーは、邪悪な神への生贄としてさらわれてしまったのです。

 ドラゴンは、真っ暗な小部屋にルーを閉じ込めると、お前の命はあと三日だと言い残して去っていきました”

 

 最後に読んだのは、もうずいぶん昔のことなのに、概要がすらすらと浮かんでくる。

 そして、幼いときにはなにげなく読み飛ばしていた、閉じ込められたルーの心を表した一節が、タバサの心にありありと蘇ってきた。

 

”ルーはじっと考えました。でも、ただ友を裏切り、ひどいめにあわせたという事実だけが残りました。

 だから、わたしがこんな目に合うのは当然の報い……

 ルーの最後の望みは、裏切った友に許してもらうこと。でもそれは、かなわない望みなのでした……”

 

「決して許されることは、ないのだから」

 あのころは漠然と、かわいそうな囚われのお姫様だと思っていた。イーヴァルディという勇者に助けに来てもらえるルーのことを、うらやましいと思って、自分に重ねて楽しんだりもした。

 けれど、今ならばイーヴァルディを裏切ったルーのほんとうの気持ちがわかる。

 悪気はなかった。そんなことはなんの言い訳にもならない。ただ、みんなの信頼を裏切って、あげく残ったのは深い絶望だけ。今更あやまちに気づいたところで、どうして許してくれと言えるだろうか。

 ルーは最後にイーヴァルディに救われて、この物語はハッピーエンドを迎える。しかし、自分には助けに来てくれる勇者はいない。それどころか、逃げ出してきた自分になんの救いを求める資格があるだろうか。

「もう、わたしには何も残っていない。からっぽ……はは、ほんとうに中身はからっぽの、人形の……タバサ」

 例えようもない虚無感がタバサを包んだ。もう、終わりだ何もかも……仲間たちには見捨てられ、任務に失敗した以上、母も処刑されてしまうだろう。もう、何一つ自分には残ってはいない。

 これからどうしよう? いっそのこと、グラン・トロワに切り込んで討ち果てて最期を迎えようか。どうせもう帰るところはない。みじめな人形の末路には、それがふさわしいかもしれないな。あは、あはははは……

 絶望の果てに、自己破壊の願望にとりつかれたタバサは、壊れたように乾いた笑いをあげ続けた。

 

 だが、ひびの入ったタバサの心が砕け散る直前に、突然吹いた突風がタバサのほおを打ち、聞きなれた翼の音がタバサの正気を蘇らせた。

「いたーっ! 見つけたのね、おねえさまーっ!」

 大きく翼をはためかせ、流れ星のようにシルフィードが空から落ちてきた。着陸の衝撃と風圧が激しすぎて、小さなタバサの体は巻き上げられて、何度も草の上を転げまわった。

 しかし、痛いと思う暇はなかった。しりもちをついて、半身だけ起こしたタバサの目の前には、シルフィードの背からさっそうと降り立って、星空を背に女神のように立つ赤毛の親友の姿があったからである。

「キュルケ……」

 ぽつりと友の名を呼ぶと、タバサはそれ以上なにも言えずに押し黙った。

 どうしてここにという疑問はない。シルフィードは自分の使い魔なのだから、自分の居場所はすぐにわかる。

 それよりも、どうしてキュルケがいっしょにいるの? もしかして、ロングビルから全部聞いたのでは? いや、絶対に聞いている。だったら、裏切り者の自分を始末しに来たのか? キュルケは誇り高い武門の家の出身だ。たとえ身内といえども、裏切り者は決して許さないだろう。

 最期は、一番の親友と思っていた友に引導を渡されるのか……まあ、裏切り者にはちょうどいい末路だろう。キュルケの炎でだったら、苦しまずに一瞬で死ねる。

 覚悟を決めたタバサは、目を閉じると魔法が来るのを待った。

 でも、やってきたのは身を焼く炎の熱さではなかった。ほおをなでる、柔らかくて優しい絹糸の感触。

「あらまあ、こんなにもう汚しちゃって。シルフィードが慌てて下りるものだから、せっかくのかわいい顔が台無しよ」

 目を開けたとき、キュルケの顔に怒りはなかった。呆れた様子でタバサの顔についた泥をぬぐい、乱れた衣服を整えてくれている。

 タバサは虚を突かれた目で、まるで何も知らないままでここに来たような友の顔を見た。しかし、タバサがキュルケに呼びかけようと口を開きかけたとき、小さな唇はルージュをひいた人差し指でふさがれた。

「なにも言わないで……少し、お話しましょうか」

「キュルケ……!」

「はいはい、深刻ぶってる女の子は不細工よ。はい、涙と鼻水を拭いて……時間は、あるんだしね」

 キュルケはタバサの隣に座ると、ぽんと背中を叩いて空をあおいだ。

 夜空はいまだ満天の銀河を瞬かせ、人里を遠く離れた山奥の自然は二人と一匹を、虫の音で穏やかに包んでくれている。

 邪魔するものもなく、なににせかされることもなく、キュルケはタバサにすべてを知っていることと、それでなお迎えに来たことを告げた。

「まったくあなたは、人がちょっと目を離すと危ないことばっかりして心配かけるんだから。わたしたちが来なかったら、どうせまた危ない橋に突撃しに行ってたんでしょ?」

 完全に図星を指されて、タバサは返す言葉がなかった。けれど、自分は命をとろうとしていたのだ、これまでとはわけが違う。なのになぜキュルケはこうもあっけらかんとしているのか? 自分の知る限り、キュルケは憎い相手には憎いとはっきりと言う性格だ。追い詰めた敵を笑顔で弄ぶようなことはしない。

 キュルケの心がわからず、タバサは問いかけようとした。しかし、今度もその直前でキュルケの指がタバサの口を塞いで、キュルケは微笑を浮かべたまま告げた。

「なぜって聞く必要はないわよ。聞かなくても、今のあなたの思いつめた顔を見たら、なにを考えてるのかは一目瞭然。ツェルプストーのキュルケさまの読心術をなめるんじゃないわよ。まったく、あなたは昔から物事を悪いほうにばっかり考える悪いくせがあるんだから。そんなことくらいで、わたしが怒るとでも思った?」

「そんなことって! わたしはキュルケたちを……」

「殺そうとした。わかってるって言ったでしょ。でもね、わたしは全然怒ってはいないのよ。むしろ、すまないと思ってるくらい。親友のあなたが、それほど思いつめてたときに、気づいてもあげられずにのほほんとしていた自分が情けないわ」

 キュルケは、自分の衣服の胸元の部分を、引きちぎりそうな強さで握り締めた。

「あなたが自分を責めてるのはわかるわ。でも、悪いのはあなたじゃない。憎むべきなのは、あなたの弱みにつけこんで裏で笑ってる卑劣な奴らのほう。違う?」

「でも、実際にわたしは」

「ああもうっ! ほんとにあなたは生真面目なんだから。そういうときはね、「悪いのはジョゼフだ。わたしは全然悪くない」って、思いっきり責任押し付けてふんぞりかえってればいいのよ。わたしならそうするわ」

 からからと陽気に笑い、キュルケは今度は少し強めにタバサの背中を叩いた。

「きっとシェフィールドも、あなたのお母さんの心を治す薬なんて最初から渡すつもりはないわ。まったく、世の中、だますやつよりだまされるやつのほうが悪いなんて、ひどいこと言うものがいるけど、だますやつのほうが悪いに決まってるじゃない。だから、タバサは全然悪くないの。わかる?」

「う、でもキュルケはいつも」

「ん? ああ、わたしに言い寄って燃えてく男の子たちのこと? あれはいいのよ。男ってのは、女にだまされるために存在するものなんだから。でも女をだます男は最低だけどね、タバサも将来ためになるから、よーく覚えておきなさいよ」

 けっこうひどいことをしれっと言いながら、キュルケはにこやかな笑顔をタバサに向けた。その笑顔を見ているうちに、タバサの中で渦巻いていたどろどろしたものも、少しずつ消えていく。

「ほんとうに、わたしを憎んでいないの?」

「疑り深いわね。ま、タバサらしいけど、わたしがタバサに嘘をついたことがこれまであった? それにね、仲間を裏切らなきゃいけないほど追い詰められて、苦しめられた人をどうしてそれ以上憎めるっていうの? タバサ、あなたで二人目だけど、どんな過ちも、つぐなおうという気持ちがあれば必ずやり直せるのよ」

 二人目……その言葉で、タバサは以前アルビオンでレコン・キスタの間諜だったというミシェルのことを思い出した。

 ミシェルがアルビオンで才人たちと再会したとき、タバサはティファニアたちを送っていていなかった。しかし、後に皆と合流したあとや、その後にトリステインで会ったときには、とても罪を背負った人間とは思えないほど、強く、明るい笑みのできる人間になっていた。

「サイトが、命をかけてミシェルを救おうとしたとき、人はそれぞれ重いものを背負ってるんだって知ったわ。それを知らずに怒ったり、ましてや憎むなんてとんでもなく傲慢なこと。だからタバサ、あなたの背負っているものをわたしに分けて。ただの友達じゃなくて、同じものを分け合った親友としてあなたを助けたいの!」

「そんな! だめよ、これはわたしたちガリア王家の問題。無関係なあなたを巻き込む」

「はいはい、それはもう聞いた聞いた。そういう面倒ごと一切合財承知で首を突っ込みたいって言ってるのよ。わたしの親友に手を出した以上、ガリアの王様だろうがゴキブリだろうが消し炭にしてやるわ。タバサ、もう付き合いも長いんだし、わたしがどういう女か、わかってるんでしょ?」

 キュルケにとっては、一国の王もゴキブリも同格らしい。タバサは、キュルケの乱暴な優しさが心に染みて、自然と涙を流していた。

 しかし、それでもなおタバサの心には大きな罪を犯したという意識がぬぐえない。理由はどうあれ、うやむやにするにはあまりにも重過ぎる罪だ。なんの罰も受けずに済んでいいはずがない。

「キュルケ、ありがとう。でも、わたしはこのまま免罪されていいとは思えない。わたしは……」

「許すわ」

「えっ……?」

 タバサの言葉をさえぎり、キュルケの放った一言がタバサの心を捕らえた。

「タバサがどれだけ自分を責めても、たとえ世界中の人間全部がタバサを弾劾しても、わたしは許すわ。たとえ世界中の人間すべてがタバサの敵になっても、わたしはタバサの味方でいる。だってわたしは、タバサのことが大好きなの。優しくて、気高くて、賢くて、わたしにないものをいっぱい持ってる……けど、小鳥のように危なっかしくて、心配ばかりかける。この世に二人といない大事な親友。タバサがほんとは弱虫で甘えん坊だってこと、ちゃんと知ってるんだからね。だから、遠慮しないで頼って甘えて……タバサの力になれることが、わたしの喜びなんだからね」

 優しく頭をなでてくるキュルケに、タバサは失われる前の母の面影を見た。

 いつしか、タバサはキュルケの胸に抱かれて、心の中に溜め込んだものを全部吐き出そうとするように、声をはばからずに泣きに泣いた。

「キュルケっ、ごめん。ごめんなさいっ……」

「ばか、許すって言ってるでしょ……でも、今日はじめてわたしとあなたは本当にわかりあえたのかもね。もう、お互いに仲間はずれはなしよ。シャルロット」

 友の絆は、邪悪な策略などに負けたりはしない。罪が人を苦しめても、許す心が人を救う。

 タバサはキュルケの優しさに、本当に人を信じるということを知った。それは、妄念でもなければ願望でもなく、相手の心の光が闇に勝つことを信じ、その肩を抱いてともに歩くということ。そして、頼り頼られるだけではなく、ましてや傷をなめあうのでもなく、互いの苦しみも受け止め、いっしょに背負って歩くということ。

 はじめは命じられたからやってきただけだったトリステイン魔法学院。でも、そこにはキュルケがいて仲間たちがいた。凍て付いた雪風の心の中に平然と入り込み、なんでもないことのように溶かしてくれる人たちがいた。もし彼らがいなければ、今の自分は昔となんら変わらずに、孤独な灰色の道を歩いていたかもしれない。

 その出会いは運命だったのだろうかとタバサは思う。いや、考えるだけせんないことだ。出会いがどうであれ、声をかけたのも、それを受け止めたのも自分たちの意思だ。その選択は、運命などとは関係ない。

 タバサは思いのすべてを涙と声に変えて吐き出し、涙を拭くと同時に決意した。

「ガリア花壇騎士のタバサはもういない。これからは、トリステイン魔法学院の二年生、キュルケたちのクラスメイトのタバサとして生きていく」

 それが、タバサのジョゼフとの決別の証であった。復讐よりも友とあることを強く願い、くびきを解き放って飛び立つ時がきた。

 もう、何があっても仲間に杖は向けない。もう、何者にも束縛されたりはしない。

 強い光を目に宿して蘇ったタバサの姿に、キュルケは、シルフィードは青い小さな妖精が生まれたような感動を覚えた。

「キュルケ、シルフィード、こんなわたしだけど、これからもよろしく」

「もちろんよ! シャルロット」

「ううん、タバサでいい。その名前も、キュルケたちといっしょにすごしたわたしの大事なものだから」

「おねえさま! 元気になってよかったのね。色ボケ女もたまには役に立つのね」

 一言多いシルフィードの頭を軽くこづくと、タバサとキュルケは顔を見合わせて笑った。

 

 しかし、タバサが完全に自由になるためにはもうひとつだけ、どうしても挑まなければならない戦いがある。

 

「行くのね?」

 そうキュルケに問われると、タバサは黙ってうなづいた。

 囚われている母の元へ行き、その安否を確認する。シェフィールドは、裏切ったら母の命をとると明言していたから、無事でいてくれる可能性は低いものとタバサは考えていた。けれど、たとえ死体と対面することになっても、自分を生み育て、心と引き換えにして守ってくれた母を切り捨てることは絶対にできない。

 だが、悲壮な覚悟で死地に赴こうとするタバサへキュルケは笑ってみせた。

「大丈夫。十中八九、お母さんは無事でいるわ」

「えっ?」

「ジョゼフが冷酷で残忍な男だってのはよくわかったわ。きっと奴はタバサがお母さんを奪いにくることを読んで、待ち伏せさせてるに違いないわ。けれど、お母さんが死んでいたらあなたの必死の反撃を呼ぶことになる。わたしはガリアの花壇騎士のレベルには詳しくないけど、今のタバサの実力はそこらの傭兵メイジなんかじゃ相手にならないくらいに強くなってる」

 キュルケはそこで一度言葉を切り、タバサはうなづいた。確かに、ありとあらゆる無理難題をこなしてきたタバサの実力は、北花壇騎士でも最強クラスだろう。早々対抗できる相手がいるとは思えないし、メイジの力は感情で引き上げられる。母を殺されて怒るタバサの実力は、軽くスクウェアクラスに匹敵するのはジョゼフならわかる。

「まともに激突すれば返り討ちにあう可能性が高い作戦を、タバサの力を知ってるジョゼフやシェフィールドがとるとは思えない。けど、なによりも殺すならあなたの目の前でむごたらしくなんて考えるでしょう。きっと、人質として使うはず、うまくすれば救出の可能性は十分にあるわ」

「わかった」

 短く答えたタバサの言葉の続きに、「来るな」とも「来てくれ」という単語も接続されることはなかった。もう、一蓮托生なのはわかりあえている。あとは、行動に移すだけなのだ。

 二人を乗せるために、シルフィードは背を向けて翼を広げる。その広い背中を仰ぎ見て、キュルケはタバサに言った。

「ねえタバサ、お母さんを助けたら、いっしょにゲルマニアに来なさいよ。二人や三人の居候、わたしの屋敷ならどうとでもなるわ。しばらく身を隠して、家族で仲良く過ごしてみたら?」

「え? でも」

「お母さんに盛られた薬のことを気にしてるのね。それなら、ルクシャナに頼んで解毒薬を調合してもらえばいいじゃない。エルフが作った薬なら、エルフが元に戻せるでしょ」

 あっ! と、タバサはキュルケの言葉に雷に打たれたような衝撃を覚えた。なんでこんな簡単なことに、これまで思い至らなかったのか。もともと学者であり、ビダーシャルがわざわざ手助けを求めるほどの知識の持ち主である彼女ならば解毒薬も製造可能だろう。なのに、ルクシャナのエルフにしては軽すぎる性格や、アルビオンから張り詰めた気持ちが続いていたせいもあるだろうけど、気づこうとすれば簡単にわかったはずだ。

 しかし、愕然としたのはほんの数秒だった。すぐに自らのうかつさなど、記憶の地平に追放してしまうほどの希望が胸にわいてくる。

「お母様が……帰ってくる!」

 それはここ数年味わったなかで最大の喜びだった。人は新たなものを得たときと同様か、それ以上に失ったものを取り戻したときに幸せを味わう。子供のころになくしたおもちゃを大人になってから見つけたときに、自然と顔がほころびるというような経験は大勢の人が経験したことがあるだろう。

 魔王の城へ向かう勇者が、洞窟に眠る財宝を探しに行く冒険者に変わり、キュルケとタバサは強く手を握り合った。

 これがジョゼフとの長きにわたる因縁に決着をつけられる千載一遇のチャンスだ。泣いて耐えていた自分と決別して、運命を自分のもとへとひきずりよせる。

 そのとき、二人のもとへ一羽のフクロウが飛んできて、足に抱えていた書簡をタバサの元へと落とした。

 それは、確かめるまでもなくガリア北花壇騎士への伝書フクロウであり、差出人は中身を見るまでもなかった。

「ジョゼフからの挑戦状ってわけね。しかし、さっきの会話も聞かれちゃったかしらね?」

「大丈夫、これはわたしの持っているシュヴァリエの任命状の魔法の印を察知して飛んでくるだけだから。もしも誰かが盗み聞きしてたら気配でわかる」

「そ、まあ女の子の会話を盗み聞きしてたら変態以外の何者でもないしね。それじゃ、向こうさんもやる気らしいし、お相手してあげましょうか。場所はタバサの実家か、いつごろ到着できる?」

「ガリアの反対側だし、ワイバーンの生息地やシルフィードが休憩できない山岳や森林地帯を避けていくことになるから、

ざっと二日は必要だと思う」

「二日ね。それじゃ、到着するまではのんびり旅行でもしゃれこみましょうか。行きましょ、タバサ」

「うん」

 こうして、タバサとキュルケは旅立った。その間、才人たちがアーハンブラ城で戦い、ティファニアを奪還するのに成功したことを彼女たちは知る由もないが、彼女たちは彼らなら必ず成功させてくれるだろうと確信していた。

 

 そして今、最後の戦いに望み、ジョゼフの罠にタバサとキュルケははまってしまった。

 二度と抜け出したくなくなるほどの快楽を味わわせる、甘美な夢の世界を与える古代植物ギジェラの花粉。けれども、どんなに誘惑にあふれていようと、眠って見る夢は所詮過去の焼きなおしや妄想の産物に過ぎない。未来に続き、本当にすばらしい世界を築くための夢は、目を覚ましているときしか見ることはできないのである。

 キュルケと誓った母を救うという目的を思い出し、タバサは悪夢の残滓を振り払って立ち上がった。

「ごめんキュルケ。わたしはまた、同じ過ちを繰り返すところだった」

「いいわよ。元はといえば、わたしの不注意が原因だったんだし。でも、あの快楽の泉から、よく帰ってきてくれたわ」

「うん、正直迷った。けど、決めたの……どんなに苦しいことが待ってても、逃げないし、黙って耐えたりもしない。未来をつかみとるために、前を向いて立ち向かっていくって。だって、わたしには痛みを分かち合ってくれる友達がいるから!」

 その言葉に、キュルケの顔に最高の笑みがあふれた。

「もー! なんてかわいいこと言ってくれるのかしら。感激しちゃったじゃないわたし! んじゃ、ちゃっちゃとこの趣味の悪い罠をぶっつぶしちゃいましょうか」

「うん!」

 顔を見合わせて、杖を交差させた二人は同時に魔法を放った。

『ウェンディ・アイシクル!』

『フレイム・ボール!』

 極低温の冷気と、高熱火球が同時に部屋を封じ込めていた鉄檻に炸裂する。ガリア製の鋼鉄でできた檻は、そのどちらかだけであれば耐えられたであろうが、正反対の熱攻撃による熱膨張と収縮による、分子の過剰運動には耐えられなかった。

「シルフィード!」

「ええーいなのね!」

 シルフィードの体当たりでもろくなっていた檻は叩き壊され、空へと続く道ができた。

 さあ、もはや地を這いずる時は過ぎた。シルフィードは自らの主人の親子と、その友を乗せて大空に飛び立つ。

 だが、高空へ逃げようとしたシルフィードへ向けて、ギジェラは体から生えた触手を伸ばして襲い掛かってくる。速さはたいしたことはなく、シルフィードの機動性ならかわすのにはさして苦労しないが、なおも花粉を花弁の中央から撒き散らし続けるギジェラに、タバサはシルフィードに命じた。

「シルフィード、止まって」

「きゅい」

「タバサ?」

「あれをこのままにしておくわけにはいかない。キュルケ、お願い」

「タバサ……」

 ギジェラを杖で指して頼むタバサに、キュルケはその意図をすぐに察知した。しかし、それはこの場所とは赤の他人であるキュルケにとっても、ためらわざるを得ない意味合いを持っていた。

「いいの? あれを焼き払えば、あなたの屋敷も無事じゃすまない。ここは、あなたとご家族の大事な場所なんでしょう?」

「かまわない。あれがこのまま育ち続ければ、この周囲一帯が危険にさらされる。ジョゼフはそんなことを考慮してはいない。それに……ここには悲しい思い出のほうが、多い」

 目を伏せたタバサの胸中には、空虚だった三年間、自分の家なのに悪夢にうなされ続けた暮らしが消えずに残っているのだろう。

 話にだけは聞いているが、狂った肉親と暮らし続けるというのはどんなに苦痛か。わずかに想像するだけで、震えが走る。

 しかし、いくらつらい思い出があるとはいえ、それを消し去りたいというのは……いや、それは邪推だなとキュルケは考え直した。タバサの味わってきた苦痛を、安易に否定する権利はない。それに、あれをほってはおけないし、タバサが選択したことならば、わたしもそれを尊重しよう。

「わかったわ。けど、あのどでかいのを焼き尽くすのはわたしの炎でも少々骨ね」

「大丈夫、わたしが合図したら火を放って」

 そう言うと、タバサはシルフィードをギジェラの真上あたりに向けて飛ばせた。ギジェラの触手は動きが大味なので当たる心配は少なく、シルフィードは三人を乗せたままでも余裕を持ってかわす。

 そうか、タバサが待っているのはあれね、とキュルケは理解した。この巨大植物を人間の力で焼き尽くすには普通の方法では無理だ。本人は決して好いてはいないが、北花壇騎士として数々の戦いを潜り抜けてきた経験は確かにタバサの中に息づいている。

 触手の攻撃がいくらやっても当たらないことに業を煮やしたギジェラは、花弁の奥からくちばしを伸ばしてきた。獲物を狙う怪鳥にも似たそれがシルフィードを狙い、開いた口内から黄色い花粉が毒ガスのように噴射される。

 だが、それこそがタバサの勝利への賭けだった。確かに、水と風を得意とするタバサの力では、植物であるギジェラに対して決定打となりうる攻撃魔法は打てない。ただし、魔法は攻撃だけではなく、その中には応用しだいで直接攻撃以上に効果を発揮しえるものも数多く存在する。

 その中でも、やはりタバサの得意系統とはずれるものの、魔法難易度としては低く、この状況を逆用できるものがあった。

『錬金!』

 タバサの杖が光り、花粉にかかった魔力の光が花粉を引火性の強い油に変える。むろん、全部は変えきれず、花粉と油の混合した気体がシルフィードに向かって襲い掛かってくるが、タバサはそれに向かって残りの全精神力を使った魔法をぶっつけた。

『ウィンド・ブレイク!』

 突風が花粉と油の霧を押し返し、それはギジェラに向かって降り注ぐ。この瞬間に、得意ではない錬金と、花粉を押し返すだけの風を作り出したタバサの精神力は尽きた。しかし、同時にタバサが待ち望んだ勝利への条件は整った。

「キュルケ、今!」

「わかったわ。『フレイム・ボール!』」

 キュルケの放った全力の火炎弾がギジェラに命中する。それは、通常ならば、直撃したところでギジェラの巨体にはたいしたダメージは与えられなかったであろうが今回は違った。花粉と油、ともに可燃性の物質が細かい粒子状になり、それが空気と混合したものがギジェラを包んでいたために、引火点を超える熱を与えられたそれにたやすく燃え移ったのだ。

 一瞬、太陽が出現したのかと錯覚するほどの火炎がギジェラを包み、高熱が一気に全体を覆う。その閃光と衝撃波が通り過ぎていき、恐る恐る目を開けたとき、そこには自らの持つ油分に引火し、轟音を立てて燃え上がるギジェラの姿があった。

「や……やった!」

 キュルケはタバサに抱きつき、喜びを全身で表現した。タバサは疲れた様子ながら、口元だけはほころばせて心の内が親友と同じことを示している。

 

 一方そのころ、そこを遠く離れたグラン・トロワでは、ゲームの開催者であり対戦相手が、自らの敗北を悟っていた。

「どうやらシャルロットの勝ちのようだな。やれやれ、途中までは順調だったのだが……敗因は赤毛の小娘のことを計算に入れていなかったことか」

「ジョゼフさま、それはいたしかたありません。まさか、あの幻想世界から連れ戻すことが可能だとは」

「いや、あやつらの底力を過少評価した余の落ち度だ。余と対局できる相手もいなくなって久しいから、少々かんが鈍っていたか……いや、本当の敗因は、余がどうあがいても手に入れることができないものを持っている、シャルルがシャルロットに残した遺産のせいかな」

 ジョゼフは苦笑すると目を閉じて、常に誰からも慕われて囲まれていた弟のことを思い出した。思えば、幼少のころから自分たち兄弟はくっきりと分かれていた。魔法の才がなく、母からも無能と呼ばれて孤独だった自分と、対照的に天才的な魔法の才に恵まれて、なおかつ人望の厚さでもてはやされていた弟。

 生まれついての差は変えがたく、神はまったく人間を不公平に作る。シャルロットにしてもそうだ。国内のオルレアン派の貴族はすべて抑え、シャルロットに味方は一人もいないはずなのに、どこからかあの子を助ける者が現れてくる。自分がいくら孤独であっても、助けようなどという者は現れなかったのに……

 その考えは、タバサが聞いたらきっぱりと否定するであろう。キュルケや仲間たちとの友情に、魔法の有無などは関係ないと。だが、ジョゼフにとっては真実だった。持てる者と持たざる者の価値観の差は、時に残酷なまでに人の心に壁を作り、運命を狂わせる。

「余は、生涯通じてシャルルには勝てなかった。いや、余が勝手にあいつを勝ち逃げさせてしまった。そして、その娘にも、これだけ有利な条件を揃えても勝てぬか。ははははは」

 敗北を認めたジョゼフの哄笑が寝室に響いた。彼の顔には憎しみや怒り、屈辱感などはなく、単純な愉快さだけが浮かんでいる。

 実は意外にも、ジョゼフの心には敗北感はなかった。いや、それ以前にジョゼフにはそもそも「勝ちたい」という意欲が欠落しているといったほうがいいかもしれない。なぜなら、彼が心の底から勝ちたいと思っていた相手は、もうこの世にいないのだから。

 ただ、勝利の高揚感も敗北の屈辱感もない代わりに、ゲームが終了したことでジョゼフの心には例えようもない空虚さが生まれてきていた。

「ふぅむ……シャルロットとのゲームも今回でお終いか。しかし困ったな、シャルロットがいなくなった後の暇つぶしを考えていなかった。やることが特にないというのは退屈だな。虚無での遊びのほうもなかなか進展せんし、面倒だからエルフとの戦争でも起こすかなあ」

 まるで子供が鬼ごっことかくれんぼのどちらをするかを迷うように気楽に、しかし冗談は一切なく本気でジョゼフはつぶやいた。

 この世での目標を当に喪失し、それを取り返すことは絶対に不可能だとわかっている彼にとって、この世は退屈な暇つぶしの場でしかなかった。残った関心は、このくだらない世界をいかにしてもてあそんでやるか、その果てに自分がどうなれるのかということだけ、そのためならばこの世のあらゆる美徳や理想も踏みにじってくれよう。

 

 だが、ジョゼフが破滅的な夢想に心を任せようとした瞬間、遠見の鏡から聞き覚えのある声が響いてきた。

「陛下、エルフと開戦なさるのは結構ですが、まだ時期尚早であるとお止めいたします。それよりも、陛下には新たなゲームのステージをわたくしどもといっしょに構築していただきたいものです」

 突然、タバサたちを映していた遠見の鏡の画像が乱れ、別の人物の姿が映し出された。それは、端正な美貌の月目が目を引く美少年で、不敵と呼んでさえいい笑顔で鏡の向こうからジョゼフを見つめている。

 しかし、突然の乱入者に声をあげたのはジョゼフではなく、鏡を操作していたシェフィールドだった。

「お前! どうやってこの映像に割りこんだ!? これには、傍受を防ぐ仕掛けが何重にも施されていたのだぞ」

「ふふ、ご無礼をお許しください。まあ種明かしをいたしますと、我がロマリアには世界各国が研究した魔法技術の成果が蓄積されていますので。この程度のことは、わけはないですね」

 悪びれもせずに、彼、ジュリオはシェフィールドに向かってポーズをとってみせた。そのふてぶてしさに、シェフィールドは歯軋りをして、なにかを怒鳴りつけようとしたがジョゼフに静止された。

「くくく、まあよいミューズよ。貴様、ジュリオとか言ったな。このアイテムの機能に割り込んできたことは驚いたが、そんなことを自慢したいわけではあるまい。神の奇跡を見せてくれるはずだが、準備ができたのかな?」

「さすが、お話が早くて助かります。まずは、こちらをご覧ください」

 ジュリオはそう言うと、体をどかして鏡の映像に彼の背後の風景を映した。するとそこには……

「なっ!?」

「ほぅ」

 シェフィールドは絶句し、ジョゼフは口元を歪めた。なんと、ジュリオの後ろに映っていたのは燃え盛るギジェラの姿と、その周辺を旋回するシルフィードの姿。彼のいる場所は、オルレアン邸の正門近くの街道だったのだ。

 しかし、それはありえるはずがなかった。リュティスからオルレアン邸までは、風竜で全力で飛んでも数時間かかる。なのに、さきほどジュリオが立ち去ってからまだ一時間も経っていない。

 ならば、ここか向こうにいるどちらかがスキルニルなどを使った擬態か? もしくは映像を加工しているのかとシェフィールドは思ったが、ジュリオはそのどちらも違うというふうに首を振った。

「これが、まずは奇跡の前座といったところですか。わたしにとって、あの程度の距離はたいした意味を持ちません」

「ほお、瞬間移動でもしたというのかな。だが、そんなものではたいして驚けんな」

 チャリジャという、人間を超越した存在と手を組んでいたジョゼフにとって、この程度は驚くに値しない。だが、ここまでくるとジュリオもそんなことは承知していると、軽く笑うと空を見上げてから返答した。

「はい、わたしもこんなもので陛下のおめがねにかなうとは思っておりませぬ。さて……ころあいもそろそろよろしいようですし、お目にかけましょう。我らの奇跡、力の一端を……そのあかつきには、我らの神の使途に名を連ねること、ご考慮いただけたら幸いです」

 ジュリオはそれだけ言うと姿を消し、映像は元のタバサたちを屋敷から見上げたものに戻った。

 

 ギジェラは噴火する火山のように燃え上がり、一時もがくように激しく動いていた触手も力尽きた。

 燃え続ける巨体から葉がもげ、花びらがちぎれて燃えながらオルレアン邸に降り注ぐ。火の雨を受けた屋敷は燃えあがりはじめ、タバサとキュルケはそれを少し離れた空からじっと見つめていた。

「タバサ……」

「……」

 タバサはなにも言わずに、ただギジェラと屋敷の最期を見守っている。やがてギジェラの巨体が燃えながら崩れ落ちていくと、タバサが幼少のころからすごした屋敷は、炎の海の中に沈んでいく。

 だが、炎によって明るさを増していた風景が、突如として暗さを増し始めたのだ。

「な、なに!?」

 ずっと屋敷を見下ろしていた二人はとっさに空を見上げた。そして、信じられない光景が二人の目に飛び込んできた。

「あれは、月が……欠けていく」

「月食……!?」

 なんと、空を煌々と照らしていた青い月の半月が、虫食いをされたように欠けていく。しかし馬鹿な、今は月食などが起きる時期ではないはずだ。

 そのとき、呆然とする二人の頭の中に、悪意に満ちた恐ろしげな声が響いてきた。

 

〔君たちの存在は、我々の計画の妨げになる恐れがある。この世界から、消去させてもらうよ〕

 

 その言葉が終わると同時に、反応する時間さえ与えられずに異変は起こった。

 何が起きはじめたのかすらわからない二人の目の前で、森の中から白い光の塊が立ち上った。それは、見る見るうちに小山のように大きくなると、次第に人の形を取り始める。そして、光の塊は黒々とした体を持つ異形の怪物として実体化した。

「あれは! 新しい怪獣!?」

 骨格が全身に浮き出たような不気味な容姿に、顔のない頭には頭頂部から首に至るまで黄色く点滅する筋が通っている。

 新たな敵は、キュルケの絶叫を合図としたかのように肩を震わせて迫りくる。

 悪夢は終わった。しかし、悪夢よりも残酷な現実が迫りつつある……

 

 

 続く


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