ウルトラ5番目の使い魔   作:エマーソン

143 / 338
第44話  大切なもののために

 第44話

 大切なもののために

 

 深海怪獣 ピーター 登場

 

 

 エルフの少女ルクシャナの協力を得て、才人たちはティファニアの捕らえられているガリアに向かって旅立った。

 目的地はガリアの、そしてハルケギニアの最辺境の地アーハンブラ。

 そこにガリア王ジョゼフの命を受けたビダーシャルとともにティファニアはいる。

 再び人間に『変化』したルクシャナに案内されて、才人たちは急ぐ。

 ビダーシャルが精製している心身喪失薬によってティファニアの心が奪われるまで、あと十日。

 

「アーハンブラ城ってのは、そんなに遠いのか?」

 学院から旅立って、最初の馬車駅で才人は聞いた。アルビオンにまで旅をしたことはあるけれど、ガリアに行ったことはまだ一度もない。それはルイズも同じだったので、ガリア出身のタバサが答えた。

「遠い。わたしも行ったことはないけど、ラグドリアン湖とは正反対の位置にあるから簡単にはつけない。馬でいくなら、ざっと見込んで最低一週間……悪くすれば、九日はかかる」

「それはまずいな。下手をしたら間に合わなくなるぞ」

 思った以上に時間がかかることに、才人はいらだたしげに固いパンを食いちぎった。ガリア国内はトリステインと違い、ルイズや才人の持っている特権は通用しないので、あまり無理に急ぐことはできそうもない。ルクシャナ一人だけならば、ジョゼフから発行された通行証ですぐにどこでも行けるけど、ご丁寧に一人分しか有効性がなかった。

 なお、シルフィードで飛んでいこうという考えはキュルケがはじめに言って、タバサに即座に却下された。

「シルフィードはまだ幼体、この人数を乗せたら一時間も飛べない。それに、これから行くのは敵地だということを忘れないで」

 その警告は、ルクシャナを除く全員の胸に深く突き刺さった。

 そう、ガリア王ジョゼフがこの一件の黒幕であるならば、ガリア王国全土が敵地であるということになる。いつどこで、敵襲を受けるか想像もできない上に、ガリアの官憲も実質敵であると言える。そんなところで、飛び疲れて動けなくなったシルフィードを抱えて立ち往生するのは自殺行為でしかない。シルフィードの翼は、万一の際に備えて温存しておくべきだった。

「結局、馬を乗り継いで行くしかないってことか」

 楽はできないらしいということに、才人はため息をついた。馬で旅をするのはこれで何度目かになるけれど、地球育ちの才人にとって馬はいまだに尻が痛くなるので、どうも好きになれないのである。

 しかし、ぜいたくは言ってはいられない。こうしているうちにも、ティファニアは刻一刻と最後のときへと近づいている。それに、ただ一人で見知らぬ土地で囚われの身となっている彼女のことを思えば、尻の痛みなどは些細な問題だった。

「さて、じゃあそろそろ出発しようぜ。ルイズ、準備はいいのか?」

「問題ないわ。ここの馬を見てきたけど、どれも十分に旅に耐えられそうよ。今から行けば、明日には国境を越えられると思うわ」

「ようし、ならみんな行こうぜ!」

 一行は借り入れた馬に分乗して出発した。ここからは馬車駅を経由しつつ、馬を乗り換えながらアーハンブラを目指すことになる。

 街道をガリアに向かって走り、山を越えて、途中の宿場町で一泊して夜を明かした。

 

 翌日、宿場町を出発した一行はガリアとの国境を目指して街道を南下した。

 馬を疲れさせない程度に走らせ、道草を食ませて休み、途中で会った農家の親父からりんごを買って腹を満たしながら進む。

 そうして国境の関所にまでやってきたときだった。関所の門の前で、一行を思いもかけない人が待っていた。

「ようやく来たね。あんまり遅いもんだから、もう置いていこうかと思ってたところだったよ」

「ミ、ミス・ロングビル! どうしてここに」

 なんと、一行の前に立ちはだかるように、今はオスマン学院長の秘書としてトリスタニアでアンリエッタ姫の結婚式典に参加しているはずのロングビルがいたのだ。彼女は驚くルイズたちを馬から下ろすと、すぐさま激しい剣幕で怒鳴りつけてきた。

「この大馬鹿トンマのガキども! ティファニアが得体のしれない連中にさらわれたっていうのに、なんで私に教えないんだい!」

「す、すみませんミス・ロングビル! あなたに心配をかけてはいけないと思ったんです!」

 ロングビルはルイズの胸倉をつかんで、足が宙に浮くほど強く引き上げていた。才人が慌てて止めようとしても、「邪魔だよ!」と、一喝されて相手にもならない。いつもオスマンのそばで地道に事務をしているときの、温厚で知的な雰囲気は微塵も残ってはいなかった。

 しかし、なぜロングビルがティファニアがさらわれたことを知っているのだろうか? そのことを恐る恐るたずねると、彼女はルイズを放り出して吐き捨てるように答えた。

「お前たちがトリステインに連れてきた、ウェストウッドの子供たちが伝えにきてくれたのさ。衛士隊に捕まりそうになりながら、私がトリスタニアに来てるってことだけを手がかりにして、右も左もわからない土地で泣きながら私の居場所をつきとめて、「おねえちゃんがさらわれた」って言ってきたときの、あの子たちの顔があんたたちにわかるかい!」

「あ、あの子たちが……」

 ルイズたちは、修道院に預けてきた子供たちがそんなことをしていたのかと愕然とした。まさか、子供たちだけでそこまで無茶をするなどと考えてもしなかった。いや、子供たちは子供たちなりにティファニアを助けようと必死だったに違いない。

 ロングビルは子供たちから知らせを受けて、大急ぎで学院に向かった。しかしそのときにはすでに一行は出発してしまった後で、まずは学院の馬の世話係からトリスタニアに向かったことを聞き出した。ついでトリスタニアの馬車駅で、それらしい一行がガリアに向かったということを聞いて先回りしてきたのだと語った。

「簡単に足取りがつかめた上、先回りしたとはいえ何時間も待たされたあんたらの間抜けさには感謝さえするよ。けどね、あなたらのうかつのせいでテファに万一のことがあったら、あたしはあんたたちを許さないからね。あまつさえ、自分たちだけで敵地に乗り込もうなんて身の程知らずにもほどがある。まとめて一網打尽にしてくださいって言ってるようなもんじゃない。どこまでも、自分たちだけで片付けようなんて、うぬぼれるんじゃないよ!」

 雷鳴すら子守唄に聞こえるようなロングビルの怒声に、才人、ルイズはおろかキュルケすら縮み上がった。

 返す言葉は一つたりとてない。ティファニアがさらわれてしまった原因は、すべて自分たちのうかつさにある。ウェストウッド村に向かっていたときにもっと警戒していたら、少なくともマグニアに襲われたときに真っ先に事態の異常さを疑っていたら、ティファニアがさらわれるのを防げた可能性はあったのである。

「ともかく、過ぎてしまったことはもういいわ。ここから先は、私も同行します。問題はないわね」

「そ、それはもう……あなたに協力していただけるのでしたら助かります」

 少し落ち着きを取り戻したロングビルに、ルイズはほっとしながら了承の意を伝えた。実際、ロングビルが協力してくれるとなったら非常に心強い。元盗賊、土くれのフーケとして裏社会で生きてきた経験は、これからの旅で未知の土地を渡っていく大きな助けになるだろう。ほかの面々も異存はなく、一行はロングビルを仲間に加えて国境を越えた。

 

 これより先はガリア王国。ルイズの虚無を狙うジョゼフ国王のお膝元。

 

 いよいよ旅はこれからが本番だと、身構える才人たち。一人ずつ別の馬に乗り、どこから襲われてもいいように間隔をとって進む。特に誰かが言い出したわけではないが、敵地侵入という緊張感が自然とそうさせていた。とはいえ、まだ旅は長いというのに、これでは気が持たないだろうから、しばらくすればやめるだろう。

 才人はその中で、なにげなく一行の最後尾を歩いていた。そこへ、さきほどの騒ぎをじっと見ていたルクシャナが声をかけてきた。

「あなたたちって、見てておもしろいわね。あなたたちの世界でもハーフエルフは嫌われてるはずなのに、あんなにまで必死になって助け出そうとする人が、まだいたとは思わなかったわ」

「あんたたちエルフは、肉親や友人がさらわれても平気なのかよ?」

 ロングビルや自分たちの必死さを、まるでどうでもいいことのように言うルクシャナに、才人はやや口調を荒げた。

「そんなことはないと思うわよ。あなたたちは、エルフのことを特殊な生き物と思っているようだけど、実際にはほとんど差はないってことが体験してみてわかったわ。生物的にもハーフエルフなんてものができるとおりに、両者はかなり近い。精神文化にしたって、形は違っても理解しあえないってことはない。こっちではほとんど知られてないようだけど、サハラでは人間とエルフの商人での取引が普通におこなわれてるのよ」

 あくまで論理的にルクシャナは答えた。しかし才人は、そんな理屈がほしいわけではない。

「そんな建前はどうでもいいんだよ。あんたはたとえば、母親や恋人が敵に連れ去られて平気な顔してられるのか?」

「怒るかもね。私だって、国に母もいるし恋人も待たせてる。恋人のほうはアリィーっていうの、ちょっと怒りっぽくて私の研究に理解を示してくれない頭の固い男だけど、愛してるわ……ああ、あなたそれで不機嫌そうなのね。でもね、私はどうも情より先に理屈や研究欲が出てくるタイプなのよね……」

 よくないことだと友人にはよく忠告される。それはわかってるんだけどねと、ルクシャナは苦笑してみせた。

 才人はそんな態度をとるルクシャナがますます不愉快に思えて、目じりにしわをよせて横目で彼女をにらんだ。

「もう一回言っとくけど、ティファニアやルイズに手を出したらただじゃおかねえからな」

「そんな怖い目をしなくたって大丈夫よ。私にだって、良識ってものはあるから。でも、どうしても私を信用できないっていうなら、あなたも私を観察してみたらどう?」

「おれが、あんたを観察する?」

 思いもかけないことを言われた才人は、うっかり面食らった間抜けな顔をさらしてしまった。

「ふふ、さっきより今の顔のほうがおもしろいわよ。話を戻すけど、あなたと私の間には大きな価値観の差があるのは疑いようもないわね。けれど、私は学者だから自分で見て確認してものしか信用しない。あなたも私が敵か味方か、そのことは言葉よりもあなたの目で確かめて結論を出してみるのがなによりじゃないかしら?」

「いいのかよ? おれがあんたをどう見てるかは、あんたももうわかってるだろ」

「エルフも蛮人も、ひとつ絶対に共通してると断言できることがあるわ。それは、どんな人間であろうと物事を見るときには、必ずその人なりの善悪の色をつけた色眼鏡を通して判断してる。黄色い眼鏡をかけたら黄色いものは見えなくて、赤い眼鏡をかけたら赤いものは見えない。あなたの眼鏡の色では私の色は見えないようだけど、眼鏡の色が塗り変わることはよくあるわ」

 それだけ言うと、ルクシャナは自分の乗った馬の横腹を蹴って才人の馬から離れていった。

 残った才人は馬の背で揺られながら、じっとルクシャナが言ったことを考えていた。

 自分が色眼鏡でものを見ているなど、いままで考えたこともなかった。自分の見ている世界に、ルクシャナは映っていない。その理由はわかる。ルイズやティファニアを人ではなく、研究対象というモノとしか興味をしめしていないあの女が許せないのだ。

 今でも正直にいえばルクシャナは嫌いだ。しかし、自分の見る正義が本当にルクシャナの本質を示しているものなのだろうか?

 あの女は、そう思うのであれば自分を観察してみろと言った。ならば見てやろうじゃないか。最初に思ったとおり、自分の研究欲のためであれば人を人とも思わない文字通りの人でなしか、それとも別のなにかであるのか。

 才人はルクシャナの挑戦を受けてたつことを心に決めた。

 

 ガリアに無事に入国を果たした一行は、それぞれの思いを胸に旅を続ける。

「ここがガリア王国か。ようしシェフィールドめ、矢でも鉄砲でも持ってきやがれってんだ!」

 今でもどこかでこちらを見張っているかもしれないシェフィールドに向かって、才人は思いっきり叫んでやった。ガリアに自分たちが入ったことを知れば、ティファニアを救出しにきたということは子供でもわかるだろう。でなくとも、ルイズの虚無の力を狙っているのだ。有形無形、どんな方法で妨害してくるか知れない。

 しかし、ここまで来たら、もう引き返すことはできない。一行は勇躍してガリアの領内奥深くへと足を踏み入れていった。

 ところが、懸念していたジョゼフからの攻撃もなく、拍子抜けするほど平穏に旅は続いた。わずかにひやっとしたことといえば、パトロール中のガリアの官憲に呼び止められることくらいである。それも、ロングビルやキュルケの機転で切り抜けて、怪しまれることもなく一行は町や村を通り過ぎることができた。

「何も起きないな。もしかして、奴らティファニアをさらったことで満足して、おれたちがガリアに入ったことに気づいてないんじゃないか?」

「それは十中八九ないと思うわよ。わたしたちに一切感づかれずに見張ってて、ここぞというときに先んじてティファニアをさらったほど抜け目ないやつらが、私たちをノーマークなんて間抜けすぎる」

 なんの妨害もない旅路に、思わず口からでた楽観を、才人はルイズにぴしゃりと否定されてしまった。相手は虚無の担い手を探すために、怪獣を使って街ひとつつぶそうとした相手、せっかく見つけたルイズという担い手をそうそうあきらめるはずはない。

「ジョゼフとかいう野郎、いったいなにを企んでるんだろう。それにしても、いったいどうやって人間が怪獣を操ってるんだろうな?」

 実際、それこそが現在才人たちを悩ませている最大の謎だった。ラ・ロシェールを襲ったやつに、ウェストウッド村に現れたやつ。ジョゼフは間違いなく怪獣を使役する術を持っていて、しかも一匹や二匹の単位ではない。普通の人間にはそんなことは絶対に不可能、現代の地球の科学力をもってしても無理だ。

 ルイズも首をかしげて、「さあ、見当もつかないわ……」と言うしかない。相手が人間であるというのに、謎だらけであるということが、ヤプールとは違った形での不気味さを彼らに覚えさせていた。

 だが、今はなによりもティファニアの救出こそが第一である。ジョゼフがなにを企んでいるにしろ、襲ってくるなら迎え撃つのみ。謎もそのたびにしだいに解けていくだろう。

 

 いつ襲われてもよいように、最低限の警戒だけは忘れずに一行は進む。

 

 途中のいくつかの関所や検問を通る際も、やはり手配などはされていないらしく容易に通り抜けることができた。中にははしこく、旅人に難癖をつけて金をせびり取ろうとする小役人のいる場所もあったけれど、適当な賄賂を渡すとあっさりと通してくれた。どうやら、ガリアもそんなに国政がしっかりしているわけではないようである。

 また、先を急ぐ上で、思ったとおりにロングビルの昔の経験が一行の助けとなった。

 一日目から二日目は街道の宿場町で宿をとり、三日目からはロングビルの誘いで街道を外れて山道に入った。

「このさびしい道が、近道だっていうんですか?」

「ええ、地元の人間くらいしか知らない裏道だけど、表街道を行くより半日は早くなるはずよ」

 地図にない道を知っているロングビルのおかげで、当初予定していたよりもかなりショートカットすることができた。むろん、これは彼女が昔ガリアで『お勤め』をしていたころに身に着けた知識である。貴族に恨みを持っていたとはいえ、ティファニアと子供たちを養うために誇りを捨てて得た経験が、こうしてティファニアを救うためにまた役立つとは、ロングビルは運命の皮肉を感じずにはいられなかった。

 しかし、ガリアに入ってから五日が過ぎたころには、裏道を通ったことで距離と時間がかなり稼げていた。

 懸念していたジョゼフからの攻撃も相変わらずなく、ロングビルによると明日にはアーハンブラの地方にたどり着けるという。

 ただ、砂漠に近づくにつれて宿場町なども少なくなり、人間の気配も目に見えてなくなっていった。

 これより先は人間の侵入をこばむエルフの世界。そこに近づいているという実感が、一行の心臓の鼓動を高鳴らせる。

 

 そして、五日目の夜。もうアーハンブラ城まではひとつも町や村はないという山中で日暮れを迎えた一行は、森の中にテントを張って夜営を行っていた。

「おい、焚き木を拾ってきたぞ。こんなもんでいいか?」

「ごくろうさま。そのへんに積んでおいて、もうすぐ夕食ができるってさ」

 高さ三十メートルはあろうかという、杉によく似た木が天を突く森の中に、小枝を燃やす焚き火の灯りが揺れていた。火の番をしているキュルケの隣に集めてきた木の束を置くと、才人は椅子の代わりの丸太に腰を下ろした。長旅の疲れからか、キュルケは特に話しかけてこずに、ひざを抱いて座ったままぼんやりと焚き火の炎を眺めている。

”きれいだな”

 焚き火の灯りに照らされたキュルケの横顔を見て、才人はふとそう感じた。彼女の燃えるような赤い髪と合わさって、一枚の絵画のようによく映える。ルイズの魅力をかわいいと表現すれば、彼女の場合は美しいという言葉こそがふさわしい。

 少しの間だけ見とれると、才人はざっと周りを見渡した。少し離れたところでは、ロングビルがナイフを使って簡単な夜食を作ってくれている。もともとティファニアに料理を教えたのは彼女だけはあるので、手際は見事なものだ。

 目を遠くにやれば、タバサが見張りをしてくれている。ルイズは二件建っているテントの隣で、三つ目のテントと悪戦苦闘している。おれが建てるから休んでろと言ったら、それくらいわたしにだってできるんだからと取り上げられてしまった。才人はそういう負けず嫌いなところがかわいいんだがなと思ったが、このままだと寝床がゴミにされてしまいかねない。

「あいつは少しは自分の不器用さを自覚したほうがいいんだがな」

 頭のよさと手先の器用さは比例しない。つい最近、ルイズが編み物が趣味であることを部屋の中で毛糸をいじっているのを見かけて知った。とはいえ、意外と女の子らしいところもあるなと感心したのもつかの間、編み物針の中でこんがらがっているつぶれたクラゲのような物体が目に入ると、声をかけないのが優しさだなと思ってそのまま立ち去った。

 ルクシャナの姿は見えない。代わりにテントのひとつからランプの明かりが漏れてくるところから、旅のあいだに見聞きしたものを日記にまとめているのかもしれない。

 夕食ができるまでには、もう少し間がありそうだ。才人は焚き火の番はキュルケにまかせて、ルイズを手伝おうかと立ち上がった。ところが、ルイズに声をかけようとしたとき、急にきつく呼び止められた。

「ちょっと平民、待ちなさい」

「う……ルイズの、お姉さん」

 思春期の少年なら、女性に声をかけられるのは歓迎ものであるが例外もある。いやな感じを半分顔に出して振り向くと、そこには眼鏡を鈍く輝かせて、やや乱れた金髪を顔にかけた女性が、口元を鋭く結んで立っていた。

「ずいぶん迷惑そうな顔をしてくれるわね。私に声をかけられたことが、そんなに不愉快だったのかしら?」

「あっいえ! そんなことはないです。これはちょっと、立ちくらみしちゃっただけで」

 エレオノールの、ねずみを前にした猫のような視線に、才人は慌てて弁解をいれた。

 今回の旅で、一番意外であったのはエレオノールが同行を申し出てきたことだろう。ガリアに向かうことが決まったとき、アルビオンのときと同じくエレオノールはトリステインに残るものとみな思った。なにせ、見知らぬ土地で身分を隠してのつらい旅となることは明白である。ところが、彼女はいやがるどころか当たり前のように旅に同行してきたのである。

 ただ、ルイズたちと違い『貴族は平民の上に立つもの』という意識が強固なエレオノールを才人は敬遠し、旅の途中もほとんど話すことはなかった。むろん、エレオノールのほうも才人を意識的に無視してきたところがある。なのに今になって何の用かと怪訝な表情をする才人に、エレオノールは人差し指を立てて、自分のほうへ招くしぐさをしてみせた。

「ちょっと顔を貸しなさい」

「拒否権は……ないですよね」

 なにせ、あのルイズのお姉さんなのだ。逆らうだけいらない生傷が増えるだけだと黙って従った。

 招かれるまま行くと、エレオノールはキャンプからやや離れた森の中で、『サイレント』の魔法を使って周辺の音を消した。

「これでいいわね。さて、平民、少し話があるからよく聞きなさい」

 やはり面倒なことだなと、才人はいやな予感が当たったことに内心でげっそりした。大方、ルイズと付き合うことに関してあれこれと言ってくるのだろう。そう考えた才人は、これまでの不満もあって声を荒げた。

「その前に、平民ってぽんと呼ぶのはやめてもらえますか?」

「あら、生意気なことを言うわね。平民を平民と呼んで、なにか悪いの?」

「腹が立つんだよ。おれにだって、親父がつけてくれた名前があるんだ。あんたは自分の名前が人に勝手に変えられても平気なのかよ?」

 まっこうから睨み付けてくる才人に、エレオノールは一瞬杖を取り出すしぐさをした。しかし、才人が動じないのを確認すると、手の甲で眼鏡を押し上げて苦笑した。

「なよなよした見てくれの割には、度胸があるようね」

「ルイズと付き合ってれば、いやでもそうなっていきますって」

「なるほど、言われてみればそのとおりかもね。サイト・ヒラガだっけ? その度胸に免じて、無礼は見なかったことにするわ」

 相変わらず居丈高だが、とりあえず自分の名前を覚えていてくれたことには感謝して、才人も肩の力を抜いた。

「それで、わざわざみんなから離れて、なんのお話ですか?」

「その前に、前提として尋ねておくけど、今現在ヴァリエールの家系以外で、ルイズともっとも親しい人間はあなたと思っていいのね?」

「は?」

 突然の斜め上からの質問に、意表を突かれた才人は目をしばたたかせた。しかし、エレオノールはまじめな顔で問い詰めてくる。よくわからないけれど、一応自分とルイズは恋人宣言もしてしまっている。そのことで文句をつけてくるにしても、いいえといえばそれを口実に攻めてくるだろう。才人は「はい」と答えた。

「そう……ただの平民のくせして……いえ、そのことはまた別の機会で話しましょう。もう一つ聞くけど、旅に出る前にルクシャナが私にアカデミーの研究資料を持ってきたのを覚えてる?」

「はい、それがなに……あっ!」

「思い出したようね。そう、あのとき彼女が持ってきたものは虚無に関連するもの。ルクシャナがエルフだったどさくさで、すっかりみんな忘れてるようだけど、この資料にはアカデミーが虚無に関して調べた情報の詳細が記されてるわ」

 エレオノールは懐から、羊皮紙五枚ほどのレポート用紙を取り出した。才人から見える裏側には、王立アカデミー発行であることを証明する印がついている。彼女はそれを手の中で扇のようにあおぐと、才人に差し出した。しかし、才人がトリステインの文字を読めないために断ると、ため息をついて仕方無げに説明した。

「本当はアカデミーの機密事項なんだけどね。トリスタニアの近郊で、先日古代の遺跡が発掘されたの」

「はい」

 古代遺跡と聞いて、才人は先日のアボラス・バニラの事件のことを思い出した。心の中で、なるほどミイラ人間やドドンゴが眠っていたあそこなら、その可能性はあると思っていた。ただし、コルベールから存在自体は聞いていたものの、さすがにアカデミーに口を出すのは怖かったのでそのままにしていた。

 エレオノールは遺跡の発見にいたる経緯や、発掘された遺物について簡単に説明し、その遺跡が始祖ブリミルの生きた六千年前に建造されたもので間違いないと告げた。なぜなら、遺跡に残されていた碑文を解読した結果、そこにはまぎれもなく始祖ブリミルの名が刻まれており、彼がそこで戦った記録、すなわち虚無のことも残されていたのだ。

 だが、エレオノールはそこでいったん説明を切った。そして、ごくりとつばを飲み、神妙な顔になった才人に、レポートを片手に問いかけた。

「このことはまだルイズには言ってないわ。どういう意味だか、わかる?」

「なにか、危険なことが記されていたとか……?」

 才人の心音が少しずつ高くなっていく。エレオノールは才人の答えにはっきりとうなづくと、自分自身にも言い聞かせるようにレポートの一枚目をめくった。

「実を言うと、あまりにも非常識な内容なんで、私自身も信じきっているわけじゃないわ。けれど、虚無の担い手になってしまったルイズにはいつか伝えなければいけないし、知ることになるかもしれない。そのときに大きく傷ついて、とまどうかもしれないあの子を支えてあげられるのは、ルイズとつねにいっしょにいるあなたしかいないのよ」

 だから、ルイズよりも先にあなたに虚無の秘密を伝える。心の準備を整えていてもらうためにね。

 エレオノールは才人の決意をうながすと、ヴァレリーが解読した遺跡の碑文を読み上げ始めた。

 それは、六千年前の戦争のこと。ハルケギニアからサハラにいたるまで、世界のすべてとそこに住む生き物を巻き込んだ戦いの記録。

 かつて始祖の祈祷書から見せられたビジョンのとおりの歴史が、エレオノールの口から語られた。

 

 そして、悪魔の光の出現によって混迷と化していく世界。あのビジョンや、ミイラに見せられた記憶では語られなかった部分に話が及んできた。

「ここから先が本題よ。覚悟して聞きなさい」

「はいっ」

 やはり、見せられなかった空白の場所にこそ重要な何かが起きたのだ。才人は無意識に左胸に手のひらをあて、鼓動の高鳴りを抑えようと試みた。ミイラ人間に見せられた記憶によれば、追い詰められたブリミルはそこで禁じ手とされていた、ある方法をとることを選んだはずだ。エレオノールの読むレポートも、すでに最後の一枚になっている。彼女は、そこに記された未知の歴史、すなわち始祖ブリミルと虚無の秘密に迫る記録を、自らも一度呼吸を整えてから一気に読み上げた。

 刹那……最大まで高鳴っていた才人の鼓動は、心停止の一歩手前まで下降させられた。

「そんな……バカな!」

 吐き気を抑え、ようやく搾り出した言葉は、今聞いたことを全否定する悲鳴であった。エレオノールもあえてそれを止めようとはしない。それほどまでに、エレオノールが語った空白の時間の記録は、才人にとってもエレオノールにとっても衝撃的かつ、信じがたいものであった。ブリミルが選んだ禁断の虚無の最終魔法と、それが招いた破局の運命。

「こんなのでたらめだ! ありっこない。きっと解読が間違ってるんだ」

「それは絶対にないわよ。これを解読したヴァレリーは、アカデミーでも三本の指に入る才女。彼女の優秀さは、私が誇りにかけて保障する。これは、間違いなく碑文の真実そのものよ」

 才人の否定をエレオノールは否定した。アカデミーには選りすぐりの優秀な学者が揃っているが、ヴァレリーほど才覚のあるものは自分も含めてほとんどいない。本業はポーション開発であっても、古代の書物を読み解く必要から語学の知識にも精通している。

 ただ、そんな説明をされなくても才人にも碑文の正しさはわかっていた。空白の期間にいたるまでの内容は、自分たちが見たビジョンのものと完全に一致する。空白の期間だけが間違っているなど、そんな都合のいいことはありえない。しかし、そうして一種の現実逃避に向かっても仕方がないだけの衝撃さが、碑文の内容にはあった。

「記録はここまでで、あとは遺跡の崩落で完全に破壊されて再生は不可能だったそうよ。もし、世界に再び危機が迫っているならこの歴史が再現される可能性もあるわ。いえ、むしろ再現させるために虚無が目覚め始めたと考えるほうが理にかなっているわ」

「ありえねえよ。ブリミルが、そんなとんでもねえことをしようとしたなんて……それで、ガンダールヴと……」

 才人は最後の部分を言葉にしようとしたが、それが音に変わることはなかった。

 始祖ブリミル……ビジョンで見たのは、小柄などこにでもいそうな青年だった。ガンダールヴ……名前は知らないけれど、エルフの美しい女性であったことを覚えている。凶暴な怪獣軍団を相手に力を合わせて戦っていた。それこそ、現代の自分とルイズのように。なのに、碑文はビジョンからはまったく想像もできないような記録を残していた。

「まさか、その禁じ手の魔法が、そこまで恐ろしいものだったなんて……いや、まてよ!」

 才人はそこで、碑文の内容と自分たちの見たビジョンの内容の矛盾に気がついた。

「どうしたの?」

「あっ、いえなんでも」

 祈祷書やミイラのビジョンのことはエレオノールには伝えていないので、才人はごまかした。

 だが、心中では気づいてしまった大きすぎる矛盾のことが離れない。碑文の内容が正しいとすれば、この時点で始祖ブリミルたちの歴史は終わってしまっているはずだ。なのに、ミイラ人間はブリミルとガンダールヴが、”その後”も仲間として戦っている場所に居合わせている。これはいったいどういうことだ?

 決定的に矛盾する二つの出来事が、ともに真実だとすれば、両者をつなぐ間にはさらに何があったのだ? 空白の歴史の、さらに空白の期間に、すべてを解き明かす答えがあるような気がする。才人は考えてみたものの、それこそカラスを孔雀に変えるような突拍子もない話である。とても想像の及ぶ領域ではなかった。

「あなた、なにか心当たりがあるなら言いなさいよ」

「違いますよ。あんまりのことでパニくってて、頭の中が整理つかないだけです。でも、ひとつだけ確信を持てることはあります」

「聞くわ」

「お姉さんは、歴史が再現されるかもって言ったけど、それは違うと思う。わざわざいろんな形で未来に記録を残したってことは、自分たちと同じ道を子孫に歩んでほしくなかったからじゃないですか」

 歴史が再現されるかもと聞かされたときから、才人は絶対にそうはさせるかと決意していた。世界の危機が訪れたとき、ルイズが担い手になったのが虚無に選ばれた運命だったとしても、そんなものに黙って従ってやる義理はない。それに、ブリミルだって、子孫に悲しい思いをさせたくないから、始祖の祈祷書にあれだけ念入りな封印をしていたのだろう。

「直接会ったことはないけど、ブリミルって人はいい人だったと思いますよ。ルイズが読んだ祈祷書の前文じゃ、子孫に使命をたくさなきゃならないすまなさがにじみ出てきてました。それに、過去がどうあれ、おれはなにがあってもルイズを傷つけるようなことはしない。それだけは間違いねえ」

 エレオノールは、才人の決意を聞き届けると、自分も不安を吐き出すようにため息をついた。そして、レポートを懐にしまうと、才人に告げたのだ。

「わかったわ。あなた、ほんとにルイズのことが好きなのね」

「はい」

「即答したわね。由緒あるヴァリエールの娘にたかが平民の男が……ルイズにしたって、こんなのの……まあいいわ。私がどうこう言おうと考えを変える気はないんでしょう。その頑固さだけは認めてあげるわ。死ぬ気でルイズを守りなさいよ」

「はいっ!」

 再び即答した才人に、エレオノールは苦笑した。口の中で、才人に聞こえないように「どうしてこの程度の男が社交界にはいないのよ」とつぶやく。と、そのとき木の陰ごしに、ルイズがまわりになにやら叫びながら歩いてくるのが見えた。どうやら、長話がすぎて探しに来たらしい。エレオノールは今日はここまでねと、才人の額を指先で鋭く指すと宣告した。

「ただ、勘違いするんじゃないわよ。ものには優先順位というものがあって、今回はルイズの安全が最優先されただけ。私はそこらの平民がラ・ヴァリエールの娘をたぶらかしたなんて、天地がひっくり返っても許すつもりはありませんからね」

 サイレントが解除され、ルイズの自分たちの呼ぶ声が耳に入ってくる。エレオノールはきびすを返し、才人はごくりとつばを飲み、エレオノールの剣幕の恐ろしさに戦慄しながら後を追った。

 

 キャンプに戻り、夕食が過ぎ、夜はふけていく。

「明日はいよいよアーハンブラよ。交代で見張りを立てて、今日は早く寝ましょう」

 ロングビルの提言で、腹を満たした一行は睡魔に従って床に入った。キュルケとルクシャナのテントから灯りが消え、ロングビルにタバサが眠るテントも暗くなる。そして、ルイズと才人の崩れかけのテントから灯が消えると、あたりは獣避けの焚き火の音を残して静寂に包まれた。

 

 見張りは二時間交代で、まずはエレオノールが預かって、次に才人が代わった。

 何事もなく時間は過ぎて、森の中は時間が停止したかのように変わらない。

 才人はやがて、焚き火に薪をくべるだけの単純作業にも飽きてまどろんでくる。肩を叩かれて、交代の時間を告げられたときには半分眠ってしまっていた。

「交代」

「わっ! タバサか……いけねえ居眠りしてたぜ」

「疲れてる……もう寝たほうがいい」

「そうするか……じゃあ悪いが頼む……ふわぁぁ……」

 大きなあくびをすると、才人はテントの中へと帰っていった。

 残ったタバサは、焚き火にまきをくべると、さっきまで才人が座っていた丸太の上に腰を下ろした。

 それからしばらく、タバサは人形のようにじっと動かず、揺れる炎を見つめていた。

 だが、一時間ほど過ぎたころ、タバサは突然立ち上がるとキャンプを後にした。

 森の奥へと足を踏み入れ、油断なく周りを警戒する。

 すると……森の闇の中から、枯れ葉を踏みつける乾いた音が少しずつ近づいてきた。

「こんばんわ、お嬢さん。こんな夜更けに女の子が一人で出歩くなんて、無用心じゃない」

 現れた人影は、言葉の内容とは裏腹に、せせら笑うような口調でタバサに言った。

 夜の森の中で、口元だけが浮かんでいるような黒いローブをまとった女は、いまや見慣れた姿になってしまった。

 シェフィールドは、タバサの敵意に満ちた視線をなんでもないことのように近づいてくると、フードをずらしてタバサに目元までを見せた。

「さすが、北花壇騎士髄一の使い手と呼ばれるだけのことはあるね。私の気配に気づくなんて」

「……最初から、ずっと見張ってたくせに」

「あら、やっぱり気がついていたの。それは失礼したわね。ふふふ……」

 シェフィールドは、タバサの指摘にもまるで動じた様子を見せない。

「いつでも襲撃してこれたのに、どうして放置しておいたの?」

「ふふ、あのお方はお優しいお方だからね。すぐに希望を絶ってはかわいそうだと思われたのよ。あなたのことも、ちゃんと褒めておいでだったわよ。見張っているのには気づいているはずなのに、それを誰にも言わずに黙ってたんだから」

 優しげな声で、まるで珍しい虫を見つけてきた幼児を褒めるように言うシェフィールドを、タバサは眼鏡の奥の瞳を怒りで燃え上がらせて睨み上げる。しかし、シェフィールドはタバサから決して手を出されないと確信しているように、薄ら笑いをやめない。

「でもね。そろそろ近づけるのも限界、あきらめてもらわなきゃいけないのよ。けど、下手に武力を使って虚無を損なっては大変だわ。そこで、あなたにもうひと働きしてもらうことにしたってわけ」

 シェフィールドは、タバサに赤と青の液体の入った二つの小瓶を手渡した。

「明日の朝食に、虚無の娘とエルフの食べるぶんに赤い薬を混ぜなさい。ほかの連中には青い薬よ。あなたの腕前なら、気づかれずにそれくらいできるでしょう?」

「なんの薬?」

「赤い薬は、単なる睡眠薬よ。ぐっすりと眠らせて、あとは簡単に主のもとにご招待できるってわけ」

「青い薬は……?」

 尋ねられたシェフィールドの瞳が、死に掛けた小動物を見つけた肉食獣のような光を宿した。

「虚無と先住の力以外を、あのお方は所望しておられないわ。不要な駒など、ゲームを楽しむうえで邪魔にしかならないでしょう」

 タバサの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。体中の血液が沸騰し、歯が自らをも砕くのではないかと思うくらいに強く噛み締められる。

 あらかじめ聞く覚悟をしていなかったら、間違いなく激発して魔法を放っていただろう。シェフィールドは、そんなタバサの反応を楽しむように、彼女の耳元でゆっくりと最後の宣告をした。

「まさか、天下の北花壇騎士さまが、知り合いだからって私情をはさんだりしないわよね? わかってるわよね。この任務に成功すれば、母親の心を取り戻せるのよ……でも、もし飼い犬が主人に逆らうようなことがあれば……オルレアン公邸でふせってる母君の身に、なにが起こっても知らないわよ?」

 シェフィールドの姿は闇に溶け込むように消えていき、あとには身動き一つできずに立ち尽くしているタバサ一人が残された。

 まるで、すべてが夢であったかのような現実感のない時間だった……しかし、手のひらの中に残っている二つの小瓶の冷たさが、確かに現実のものであると主張してくる。タバサは、それを思い切り地面に叩きつけたい欲求に駆られたが、どうしても腕を振り下ろすことができずに、一人でうずくまって泣いた。

 

 時間は平等に流れ、星空はハルケギニアのすべてを見下ろしている。住民が消え、沈黙の街と化したアーハンブラもそれは例外ではない。

 かつて、人間とエルフの血みどろの死闘の場となった古城には、砂漠の物悲しい風が吹きつける。エルフの寿命すら遠く及ばないほど、この地の歴史を見守ってきた城は、生き物たちの果てしない愚行をあざ笑うかのように、千年この地にあり続けてきた。

 しかし、この夜だけはアーハンブラは愚かしい歴史を忘れた、安らいだ眠りに身を任せていた。

 

”神の左手ガンダールヴ。勇猛果敢な神の盾”

 

”神の右手がヴィンダールヴ。心優しき神の笛”

 

”神の頭脳はミョズニトニルン。知恵の塊、神の本”

 

”そして、最後にもうひとり……記すことさえはばかれる……”

 

”四人のしもべを従えて、我はこの地にやってきた……”

 

 優しげなハープの音色とともに、人間とエルフの両方の血を引く娘の歌声が星空に吸い込まれていく。

 城の中庭にある池のほとりに腰を下ろしたティファニアは、うっすらと涙を流しながらハープを奏でていた。

 母の故郷、エルフの地は目の前だというのに、その距離はアルビオンよりも遠い。

 幼い日、忘却の魔法とともに知ったこの歌は、意味はわからなくても、ティファニアを懐かしい感じのする世界へといざなってくれた。

 しかし今は、懐かしさよりも同族に心を奪われようとしている悲しさが心を満たしてくる。

 ビダーシャルは、明日には私の連れが来る。薬の完成が早まるかもしれんが、悪く思わないでくれと言っていた。

 あと何回、この星空を見上げることができるのだろうか……

 

 悲しくも美しい音色を聞きながら、今の彼女の唯一の友達は池の中から顔だけを覗かせて見守っていた。

 

 

 続く


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。