ウルトラ5番目の使い魔   作:エマーソン

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第25話  愚か者の勇者

 第25話

 愚か者の勇者

 

 大ぐも タランチュラ 登場!

 

 

 古来、蜘蛛は悪魔の使いだという。

 八本の足で這い回り、網の目のような巣を貼って獲物を待ち受ける姿は人間の生理的な嫌悪感を刺激する。

 また、中には恐るべき猛毒をもって音もなく忍び寄り、多くの命を殺めて恐れられる種類もある。

 地球でも、東西を問わずにその不気味な容姿は様々な神話・民話で語られ、代表的な妖怪の一つとなっている。

 

 しかしその反面、朝見る蜘蛛は神の使いと呼ばれ、殺してはいけないものとされている。

 さらに、蜘蛛はその巣を使って蝿や蚊などの害虫を捕獲する益虫としても知られ、珍重される虫でもある。

 

 悪魔と神、両極の顔を併せ持つ蜘蛛の本当の姿とは何なのであろうか……?

 

 

 トリステイン魔法学院のはるか地下、秘密書庫にやってきたアニエスと二人の教師に五人の生徒。

 彼らはこの書庫に隠されているという、貴族たちの不正の証拠を見つけ出すために、広大な書庫の方々へと散っていった。

 だが、まだ彼らはこの地下書庫のよどんだ空気に隠された、本当の秘密には気づいていない。

 

 

 地下書庫の一角、「財務関連書・ブリミル暦六二〇〇~」と分類された書棚の前にアニエスはいた。数百年の年月で積もりに積もったほこりにまみれながら、古書を一冊ずつ手に取り、貴族たちの賄賂の証拠の書類を捜す。しかし、苦労に見合うだけの成果は、アニエスに達成感を与えはしなかった。

「リキャード大橋修繕工事、正規見積もり六万エキューのところが七万エキューに増額。ゲルマニアのシュルツ伯爵の歓迎式典も、下請けのユーノフという商店は実は存在しないか……」

 ここ二十年ばかりの資料に絞って調べても、嘆息を抑えきれないほどに不正な金の動きに関する証拠は出てきた。それに関わった貴族の名も、リッシュモンや前回捕らえた貴族を含め、まさか!? と驚くような人物も散見している。

「姫様が言っておられたが、国よりも黄金を愛するものたちは……いや、むしろ我々のほうが異端なのかもしれないな」

 自嘲げな笑みを浮かべて、アニエスは証拠となるその本をかばんの中にしまい込んだ。

 人間、誰しも欲はある。しかし、国の柱となるべき貴族たちの中に巣食っている白蟻の数は、こうして見てみると、むしろ真面目に勤務に打ち込んでいる自分たちのほうが異常なのではないかと思えてしまう。

「ふっ」

 だがアニエスは含み笑いをすると、馬鹿な幻想を頭から追い出した。周りが異常なものばかりだから、真面目にしているのが馬鹿らしくなって、自分も不正をするようになる。この書類に記された貴族たちは、そうした負の連鎖に呑まれて手を汚していったのだろう。それに、今は自分も下の下とはいえ、貴族の一員であるのだ、彼らと同じ轍を踏むわけにはいかない。

「常に誇りを持ち、身分ではなく精神の高貴さで人を判断すれば、あなたは誰よりも貴族らしい貴族になれるでしょう……か」

 アニエスはもう一つ、以前アンリエッタから教えられた言葉を繰り返した。

 すると、後ろで書類探しを手伝っていたコルベールが振り返った。

「いい言葉ですな。誰の言葉です?」

「姫様だ」

「ほお、アンリエッタ姫殿下の……精神の高潔さですか。そうですな、私も生徒たちにはそうして貴族のありかたというものを教えていきたいものです」

「ぜひそうしてくれ。私も、将来お前の生徒たちを切り捨てることになるのは愉快ではないからな」

「ははっ……これは、ご厳しいことで」

 アニエスの苛烈な言葉に、コルベールは冷や汗をかきながら後頭部をなでた。

 笑い事ではない。今の魔法学院には、このまま大成したら第二第三のリッシュモンになりかねないものがまだまだ多くいる。彼らがまだ感受性が高いうちに、人としてのありかたを教えなくては、いつまでもトリステインはよい方向には向かえないだろう。

 コルベールは、自分がまだまだ未熟な教師であることを痛感した。教師とは、生徒の将来を左右する。半端な気持ちで勤まるような代物ではない。

 しかし、財務関連から軍事作戦関連の計画書や報告書がまとめられた場所にやってきたときのことである。コルベールはふと、アニエスが探している書類とは関連のない項目に視線を泳がせているのに気がついた。

「アニエスくん。ほかにまだなにか探し物が?」

「いや、これは私的なものだ。気にするな」

「まあそう言わずに、袖触れ合うも多少の縁というし、若者は素直に年配を頼りたまえ」

 人のよさそうな笑顔を浮かべるコルベールを見て、嫌悪する人間はまれだろう。だが、アニエスがぽつりと、しぼりだすように告げた名前を聞いたとき、コルベールの顔から笑顔は消えていた。

「ダングル……テール?」

「そうだ。今はもうない私の故郷の、それが名前だ」

 アニエスはとつとつと、以前ミシェルにも語った滅んだ故郷と、自分とリッシュモンらとの因縁を語った。三歳のころに肉親も親類も友も皆殺しにされ、それ以来復讐を果たすことを願って生きてきたと。

「リッシュモンは死んだが、まだ直接手を下した奴らは残っている。そいつらの記録がここにあるはずだ」

 アニエスが、今回あえて一人でここまで来た本当の理由がここにあった。ミシェルにとっての敵討ちはリッシュモンが死んだときに終わったけれど、自分の復讐するべき相手はまだ残っている。ようやく人間らしい人生を取り戻した妹を、また得るもののない戦いに巻き込むわけにはいかなかった。

「それで、仇を見つけられたらどうするのです?」

「……答えなければわからんか」

 アニエスの言外の意思は、少なからずコルベールの背筋を寒くした。でも、コルベールはそれで黙らずに、悲しげに言った。

「せっかく助かった命を、復讐ですり減らすなんて」

「なんとでも言え。貴様のように、毎日のほほんと研究していればすむほど楽な生き方はしてこなかった」

 ぞんざいにアニエスは吐き捨てた。他人の言葉で簡単に生き方を変えるには、二十年という歳月は長すぎた。今復讐心を捨ててしまうことは、たとえできたとしても、高く積み上げた塔から柱を抜いてしまうようなものだった。

「そういえば、何か顔色が悪いな。何か知っているのか」

「あ、いえ……若い時分にあの地方には立ち寄ったことがありましたので……まさか、そんなことになっていようとは」

「ふん……」

 それっきり、アニエスはコルベールに背を向けて振り返ろうとはしなかった。

 そうして、古書をあたっているうちに、アニエスは今から二十年前の資料。ブリミル暦六二二二年、ダングルテール事件と書かれた本を見つけ、手に取った。

「これだ……」

 表紙のほこりを払ってページを開いたその本は、事件の事後報告書としてまとめられたものだった。背中のコルベールの視線を無視しつつ、アニエスはページを追う。リッシュモンによって、新教徒狩りと銘打っておこなわれた虐殺の全容が、この中にあるのだ。

「命令書……疫病蔓延を阻止するため、ダングルテール一帯の人間を焼却処分せよ……疫病だと!?」

 アニエスは、その命令書に書かれていた内容に愕然とした。これまではリッシュモンはロマリアからの新教徒狩りの依頼を利用して虐殺を指示したと思っていた。だが実際に発行された命令は、書面を読む限りでは、極めて致死性と伝染性が高い疫病が発生し、やむを得ずに人間ごと焼き払うことに決めたという、苦渋の選択をうかがわせる内面になっていた。むろん、どこにも新教徒狩りの気配も見せない。

 間違いなく、リッシュモンの仕組んだ隠蔽工作の一環であった。対面を疫病対策としておけば、涙を呑んで苦渋の決断をしたとして同情と、決断力の高さを評価される材料になる。ありとあらゆるものを私欲のために利用してきた奴らしいと、怨讐の炎がアニエスの中で燃え上がる。

 だが、死んだ人間への復讐は不可能だ。その恨みを向ける相手は別にいる。そう、ダングルテールに火をかけて焼き払った実行部隊だ。

 ページを進めるうちに、作戦に携わったと思われる貴族の名が記された名簿に行き当たった。

『魔法研究所実験小隊』

 その総勢三十人ほどの部隊が、アニエスの故郷を焼いた張本人であった。

 名前を一人一人確認していくごとに手が震える。少数精鋭の部隊であったらしく、当時かなりの年齢ですでに故人となっていたり、傭兵メイジで本名かどうかも怪しいものも混じっていて、手出しのしようがないものも多い。

 ならばせめて、虐殺の命令を下した指揮官だけでもと、ページをめくったアニエスの口から強い歯軋りの音が漏れた。

 なんと、小隊長の名前のところが破られていたのだ。自然に破けたものではなく、明らかに誰かの手によって破られている。これでは、もっとも罪深い男の名がわからない。アニエスは、恐らくはその小隊長に先手を打たれていたことを知って、思わず本を床に叩き付けた。

 

 と、そこへ本棚の影から数冊の本を抱えたエレオノールがやってきた。

「あら、あなたたちここにいたの?」

 ちょうどよかったと言って、エレオノールは抱えていた本のうちから数冊、アニエスに探すように頼まれていたタイトルの本を手渡した。アニエスは受け取ると、こちらもちょうどよかったと言って、エレオノールに尋ねた。

「感謝する。ところでミス・エレオノール、貴女は王立アカデミーの主席研究員だそうだが、魔法研究所実験小隊というものをご存じないか?」

「は? なんの話よ」

 アニエスは、エレオノールに事情を説明した。

「そう、なるほどね。確かにざっと調べてみたけど、アカデミーも昔はかなりエグいことをしていたみたいね。でも悪いけど、今その実験小隊とやらは存在していないわね。噂も聞いたこともないわ」

 主席研究員であるエレオノールが言うのだから間違いはないだろう。考えてみれば、自分の悪事の証拠となるような部隊をリッシュモンが長々と存続させておくはずもない。

 また、エレオノールの顔にも皮肉な笑みが浮かんでいた。極秘の魔法実験の資料を閲覧したいと、彼女は確かにそうした関連の書物をいくつか見つけていた。が、それには添付して、非道な実験の数々の記録も残されていたのだ。

「罪人を利用してのポーションの人体実験。辺境の村の井戸水に薬品を混入しての観察……異端どころか狂気とさえいえる実験。これなら少し前の、神学一辺倒のほうがまだましだったわ」

 その当時在籍していなかった幸運を、エレオノールは感謝した。そういえば、よくよく思い出してみたら、酒の席でヴァレリーから聞いた噂では、その昔非合法な魔法実験を専門にする闇の部隊があったとか……そのときは、よくある与太話として気にも止めていなかったけれど、こうしてみると現実味が湧いてくる。

 まさか……と、アニエスに睨まれると、エレオノールははっきりと首を横に振った。

「だーから! 今はやってないわよ。いくらなんでも、そんなことをやるところに私も籍を置くものですか。それに、今のアカデミーの所長は保守的で小心な年寄りですから、うかつなことには手を出さないでしょう」

 どうかな、とアニエスは思った。小心者ほど姑息な悪事をろうするものだ。自身へのリスクを最小限に、隠れて何をしているのかは知れたものではない。けれど、今はそれを考えるときではないので、余計なことは言わずに、素直に書類を仕舞った。

 

 そのときだった。

 

「きゃあぁぁぁーっ!」

 突然、絹を引き裂くような女性の悲鳴が響き渡り、書庫に散っていた者たちは一斉に振り返った。

「今の声は!? ミス・モンモランシ」

 生徒の声にとっさに反応したコルベールが真っ先に駆け出し、半歩遅れてアニエスとエレオノールも走り出した。

 一方、別所にいたギーシュたちも当然ながら駆けつけている。

「うぉぉぉ! モンランシー、今このぼくが行くからねえ!」

「おいギーシュ! あいつあんなに足が速かったけっか!?」

 まるで迷路のようになっている書庫の本棚のあいだを、一同はモンモランシーの悲鳴だけを頼りに走り抜けていく。

「いゃあ! 誰か! 誰か来てえ!」

「こっちだ!」

 声が壁に反響して聞きにくいが、大まかに聞こえてくる方向を見当をつけて一行は走った。

 そして、大きな本棚の角を曲がったところでモンモランシーを見つけた彼らは例外なく絶句した。

 

 そこには、蜘蛛がいた。

 

 蜘蛛、全長二メイル以上はあるような巨大なクモが、倒れこんでいるモンモランシーに覆いかぶさるようにして、口から吐き出す糸で絡みとろうとしている。

「ギーシュ! 助けて! は、早く!」

「ま、待ってろモンモランシー! 今助けるよ!」

 恋人の悲鳴で我に返ったギーシュは懐から杖を取り出した。だが、魔法を唱えようとしたその手をアニエスが抑えて怒鳴る。

「待て! ここで魔法を使うなと言ったのを忘れたか。それに、下手な魔法では彼女を巻き添えにするぞ」

 はっとしたギーシュは呪文の詠唱を途中でやめた。大グモとモンモランシーがほぼ密着している状態では、ギーシュの得意技のワルキューレは床から作り出せても、モンモランシーも踏み潰してしまう恐れがある。

 だが、メイジたちが魔法を使えずにとまどって、アニエスが剣を抜こうとした瞬間、はじかれるようにコルベールが飛び出して大グモに飛び掛った。

「このっ! 彼女から離れるんだ」

 大グモの毛むくじゃらの胴体にためらいもなく掴みかかって、ひっぺがそうと力を込める。それを見たギーシュたちも、勇気を振り絞って大グモに向かっていった。

「化け物め! モンモランシーから離れろ!」

「ギ、ギーシュ隊長に続け!」

「うわぁぁっ!」

 奇声を張り上げながら、ギーシュたちは大グモを蹴っ飛ばしたり、本棚から取り出した本を投げつけた。しかし大グモも、巨体ゆえの重量と怪力でなかなかモンモランシーから離れようとはしない。それどころか、巨大な口から粘着性の高い糸を吐いて反撃してきた。

「くそっ、こんな糸なんかに!」

 ギーシュたちはすぐに振り払おうとするが、糸はへばりつくだけでなく意外に頑強で、引きちぎるにもかなりの力を必要とした。日本の昔話にも、池のほとりで休んでいた旅人のわらじに糸を結びつけて引きずり込もうとした水蜘蛛の話があるが、あれは実は単なるおとぎ話ではない。蜘蛛の糸は集めて紐にすればワイヤーロープ並の強度を持つようにさえなるのだ。

 しかし、糸で足止めされたギーシュたちが手を出せず、ついに大グモの牙がモンモランシーにかかろうとした瞬間。

「いゃーっ!」

「どけっ!」

 大グモの注意が逸れた一瞬の隙に、アニエスの剣が大グモの喉元に突き刺さった。その一撃で大グモは激しくけいれんし、アニエスが剣をねじって引き抜くと、足をだらりとさせて動かなくなった。

 そして、大グモの絶命を確認したギーシュたちは、急いで死骸に下敷きになっていたモンモランシーを引きずり出した。コルベールが、彼女をがんじがらめにしていた糸をナイフで切って無事を確かめる。

「大丈夫か、怪我はないかね?」

「は、はい。ありがとうございます、先生」

 自由になったモンモランシーは、立ち上がると傷一つないことを皆に見せて安心させた。

「よ、よかった! 君があんなクモの餌食になったらぼくはもう生きていられなかったよぉ!」

「ギーシュよしてよ。みんな見てるじゃないの! 第一、本当ならあなたが真っ先に助けに来てくれなきゃいけなかったのよ! なによ! コルベール先生に先を越されたりして」

「そ、そんなぁ」

 情けない顔をするギーシュの前で、モンモランシーは腕組みをして怒った態度を見せたが、それは彼女なりの照れ隠しだった。本当は、自分のためにギーシュが素手で怪物に挑んでくれたことがうれしくてたまらないのである。

「わたしの騎士を気取るんだったら、もっと勇敢になりなさい」

「とほほ」

 落ち込むギーシュを見て、ギムリやレイナール、アニエスからも笑いがこぼれた。

 それともう一つ、モンモランシーは糸を切ってもらったとき、自分が無事だったことに、それならよかったと安堵の表情を見せてくれたコルベールの顔に、なぜか自分が安心できていくのを感じていた。さえないはげ頭の中年教師だけど、真っ先に助けに来てくれた先生の顔が、このときはとても頼もしく見えたのはなぜだろうか。

 

 しかし、そんななかで一人だけ何もせずに突っ立っていたエレオノールは、なにか物悲しさを感じていた。

 頭では、あのとき自分が飛び込んだところで何の役にも立たず、むしろアニエスが剣を突き立てる邪魔にしかならなかったと理性が主張している。しかし、今笑いの輪に加わっているのは、愚かにも素手で怪物に挑んでいった馬鹿者達のほうで、正しい判断をしたはずの自分は見るからに阻害されてしまっている。

 

「ミス・エレオノール」

 結局、コルベールが声をかけてくれるまで、エレオノールは一人でじっと立ち続けていることしかできなかった。

「はっ……なにかしら?」

「貴女は、アカデミーの主席研究員として、学内の他の研究にも多く携わっているとのこと。この巨大なクモですが、貴女から見てどう思われますか」

 その一言で、とにもかくにもエレオノールの頭脳は再回転を始めた。絶命した巨大なクモを見下ろし、自分の頭の中にある生物学の知識と照らし合わせてみる。

「ロマリアに生息するという、ある種類の毒グモに似ていますね。ですが、それは大きくても十サント前後しかないはず。突然変異か、新種か……どちらにしても、わたくしも初めて見ますわ」

「そうですか……」

 一同はあらためて巨大グモの死骸を見下ろした。全身に針金のような毛を生やし、鋭い牙を隠した口を持つ姿は、悪魔の化身と呼んでも差し支えはなかった。

「まさか、学院の地下にこんな奴がいたとは、夢にも思わなかったな」

 ギムリがぽつりとつぶやくと、ギーシュとレイナールもそうだなとうなずいた。

 モンモランシーは、もう見たくもないらしく、ギーシュに寄り添って目をそむけている。

 そして、光を失ったクモの目をじっと見つめていたコルベールが、ぞっとするくらい重い声で言った。

「これまで、地下に入って帰ってこなかった人たちは、みんなこいつにやられたんでしょうな」

 ギーシュたちは一様に身震いし、特に餌食になる寸前だったモンモランシーは短く悲鳴をあげた。身の毛もよだつことだが、ほかに考えられない。アニエスは集めた書類を確認すると、簡潔に全員に向かって告げた。

「長居は無用のようだ。さっさと引き上げるぞ」

 反対意見は出なかった。まだ足りない本はあるけれど、ここは危険すぎる。書庫は逃げないのだから、いずれまた戦力を整えて来ればよい。

 モンモランシーは言うに及ばず、ギーシュたちも下心はとうに吹き飛んでいた。

「は、早くこんなところから出ましょうよ!」

「落ち着きたまえよモンモランシー、これまでも君はぼくが守ってきたじゃないか」

「その度にわたしは死にそうな目に会ってたじゃないのよ!」

 今にも二匹目のクモが出てくるのではと怯えるモンモランシーをギーシュがなだめるが、本能的な恐怖が言わせてるのだからいかんともしがたい。

 このままではヒステリーを起こしかねないモンモランシーに、困り果てたギーシュは助け舟を求めるように周りを見渡した。しかし悪友二人は贅沢な悩みだと言わんばかりに目を逸らしていて、アニエスは知らん顔、コルベールとエレオノールは「そういうのは恋人のあなたの仕事でしょう」と言わんばかりに静観している。

 まったく頼りにならない連中に、ギーシュはみんなの薄情者と心の中で叫んだ。

 ああ、モンモランシーは可憐で美しいけれど、ちょっと怖がりなところが玉にキズだなあ。いやいや、そんなところも可愛いんだ。これがキュルケだったら、こんなクモなんかは……

「ん? ちょっと待てよ。そういえばキュルケはどうした?」

 皆はギーシュの一言ではっとした。慌しかったので気がついていなかったけれど、こんなときに普通なら真っ先に駆けつけているはずのキュルケの姿がどこにも見えない。モンモランシーもそのことに気がついて見渡すが、あの燃えるような赤毛だけがこの場から欠けている。

「まさか……」

 悪い予感が場を駆け巡る。もしや、いやあのキュルケに限ってそんなはずはない。きっと、悲鳴を聞き逃したか、まだたどり着いていないだけだろう。そんな楽観的な考えが浮かんだ、そのとき。

 

「うあぁぁーっ!」

 

 絶叫が、断末魔の叫びにも似た絶叫が響き渡り、一同ははじかれたように振り返った。

「しまった!」

 コルベールが真っ先に駆け出し、遅れてアニエス、ギーシュたちが続く。

 こんな場所で、ちょっとでも気を緩めたのが間違いだった。コルベールは、生徒を助けられたことで安堵し、その生徒のことを忘れていたことを深く悔いたが、今はそんなことを言っている場合ではない。

 しかし、当然というべきであろう。逃げ場を塞ぐように、天井や本棚の上から新しい大グモが何匹も現れる。

「正面突破するしかない!」

 立ちふさがる大グモを、コルベールとアニエスが先頭になって排除しながら彼らは走った。

 そうして、なんとか入り口の玄関ホールまで戻ってくると、コルベールは皆に告げた。

「よし、ミス・ツェルプストーは私が助けに行く。皆は先に地上に逃げてくれ!」

「先生!? いや、一人では危険ですよ」

 無茶だと、レイナールが抗議した。

「大丈夫、若い頃にはそれなりに場数も踏んできた。アニエスくん、ミス・エレオノール。すまないが、生徒たちを頼む」

「わかった。気をつけろ」

 アニエスは、ホールに入ってこようとする大グモにナイフを投げつけながら答えた。すでにあちこちの通路から何十匹もの大グモが集まってきている。この調子では、あと数分もせずにここはクモで埋め尽くされてしまうだろう。

 

 だが、アニエスたちが入り口のドアを開け、コルベールが走り出そうとしたときだった。突然書庫全体が地震のように身震いを始めて、不気味な地鳴りの音が書庫に響き渡り始めた。

「いかん! 防犯用の魔法が動き始めた」

 コルベールの言ったとおり、書庫の本棚が動き始めて通路の幅を狭め始めている。中で違法な行為をおこなったものを抹殺する、機密保持のための恐るべき仕掛けだ。しかし、この仕掛けが動き出すためのスイッチは、中で魔法を使うこと。この中の誰もが魔法を使っていないことを考えたら、答えは一つだ。

「そうか、キュルケが魔法を使ったんだ」

「ということは!」

「彼女はまだ無事だ!」

 ギーシュたちの歓声が唱和された。正直、彼らもいくらキュルケでもこれほどの大グモに襲われたら、もしかしたらと不安に思っていただけに、喜びも大きい。けれど、魔法を使ってはいけないとわかっているはずのキュルケが魔法を使ったということは、それだけ追い詰められているかもしれないということだ。

 猶予は無い。コルベールは『フライ』の魔法で飛び上がった。

「みんな、急いで! ここにいては命が危ない」

「待ってください先生、ぼくらも手伝います」

「馬鹿な! 危険すぎる」

「一人で行くほうが危険ですよ。それに、もう魔法を使ってもかまわないんだったら、ぼくらでも役に立てます」

 ぐっと、コルベールは言葉に詰まった。確かに、この広い書庫のどこにいるかわからないキュルケを探すのには人手がいる。しかし、一刻も早く立ち去りたいエレオノールは怒鳴った。

「あなたたち何を言っているの! あなたたちのようなひよっこが出て行っても、なにもできるわけ無いでしょう」

 だが、ギーシュたちはひるまなかった。

「エレオノール先生、すみませんがお逆らいいたします。友を見捨てては騎士の恥! 先生はモンモランシーを頼みます。では!」

 あとはギーシュたちは振り向かなかった。『フライ』で生き物のように荒れ狂う本棚の上に飛び上がっていく。

「さあて、ギムリ、レイナール、久しぶりに三人で戦うとしようか」

 薔薇の杖を杖を芝居臭く振るギーシュに、ギムリとレイナールも懐かしそうに笑った。この面子だけなのは、スチール星人とヒマラのとき以来になるか。彼らの前には、本棚の上に上がってきた大グモどもが立ちふさがっている。さっきはやってくれたが、今度はこっちの番である。

「レイナール、作戦を頼む」

「作戦って、コルベール先生を助けてキュルケを探し出す。バケモノ退治は二の次、それ以上あるかい?」

「上等だよ。ようし! 次期水精霊騎士隊、WEKC出撃!」

「了解!」

 久々に名乗る自分たちの騎士隊の名を高らかに宣言し、三人は邪魔者をありったけの魔法で蹴散らして突っ込んでいった。トリステイン王宮でバム星人と戦って以来の腐れ縁だが、隣に戦友がいるということは限りなく勇気が湧いてくる。

 エレオノールは、コルベールを先頭にして荒れ狂う書庫の奥へと飛んでいく四人の男たちを唖然として眺めていた。

「馬鹿なんだから、ドットの駆け出しメイジができることなどないわ。黙ってトライアングルに任せておけばいいのに」

 その評価は恐らく正しいだろう。メイジとしては最下級のドットメイジは使える魔法の威力も小さく、使える精神力の量も少ない。あんなに派手に飛び回ったらあっという間に精神力切れを起こしてしまうのに。

 でも、同じように彼らを見送ったモンモランシーは、そんなエレオノールに抗議するように、微笑んで言った。

「ええ、ギーシュもあの連中もたいしたバカですよね。でも、ああいう人たちを、”勇者”っていうんじゃないですか」

「ああいうのは蛮勇っていうのよ。考えなしで動く男は、早死にするだけよ」

 口先だけで実のともなわない男を、エレオノールは山のように見てきた。戦争になったら真っ先に突撃すると言い、そのとおりに戦死した馬鹿もいる。そんな男たちを知っているからこそ、エレオノールにはギーシュたちの行動が愚かに見えた。

 しかし、モンモランシーはそんなエレオノールの言葉に苦笑しながら。

「そうですね。おかげで、わたしはいつも冷や冷やさせられっぱなしで……でも、男ってのはそんなバカなところが可愛いんじゃありませんの?」

 モンモランシーの、その若いのに達観したような笑いに、エレオノールはため息をつくのと同時に、「なるほど、だから女は苦労するのね」と、自身も悟ったような笑みを浮かべた。

 お母さま……お母さまなら、こんなときどうなさいますか……?

 

 だがそのころ、キュルケはまさに死の門のふちに片足をかけた状況に陥らされていた。

 全身を糸でがんじがらめに巻き取られ、顔だけをかろうじて出して身動きひとつできない状態の彼女に、大グモたちが我先にと群がってくる。モンモランシーが襲われたのとほぼ同時刻に、キュルケも大グモの大群に襲われていたのだ。

「わたしとしたことが、こんな不覚をとるなんて! こ、こないでぇ!」

 叫んでも、クモに言葉が通じるはずはない。杖だけはかろうじてまだ握っているけれど、振ることができなくては意味がない。今のキュルケには、逃げることも、抵抗する術も残されてはいなかった。

 大グモに最初に襲われたとき、誇り高い彼女はモンモランシーとは違って助けを呼ぼうとはせずに、自力で切り抜けようと考えた。でも、いくら強力な炎の使い手のキュルケでも、こんな狭くて可燃物があふれた場所では下手をすれば自分まで焼いてしまう。おまけに、魔法を使えば防犯用の魔法が作動すると言われていたのが彼女の判断力を鈍らせた。走って逃れようとして、気がついたときには四方八方を取り囲まれ、やっとファイヤーボールを一発使ったときには手遅れだった。

「ああっ……や、やだ」

 抵抗できないということと、相手に言葉が通じないということが、炎の女王のような気丈なキュルケの心の鎧の中に、恐怖という冷たい水を浸透させていく。

 ミイラのようにされ、身をよじることもできないキュルケに向かって大グモが口から唾液を垂らしながら迫ってくる。キュルケは、本棚に書き残されたメッセージの言葉を思い出した。

『タスケテ、タベラレル』

 ああっ……こんなことなら変ないたずら心なんか起こさなければよかった。いつもなら窮地に陥ったとき助けてくれるタバサもここにはいない。クモの口腔の奥までが覗けるようになり、捕食されるという、動物的な恐怖がキュルケの胸を支配する。

 毒の唾液が垂れる蜘蛛の牙が目の前に迫り、思わずキュルケは目をつぶった。

 だが、クモの喉から突然うめき声が漏れ、おそるおそるキュルケは目を開いた。

 そこには、クモの背に自分の杖を槍のように刺して、自分を見下ろしているコルベールの姿があった。

「大丈夫かね、ミス・ツェルプストー」

「せ、先生……」

 キュルケは、それを口にするだけで精一杯だった。自分が涙目になっていることすら気づかずに、火の魔法で自分を拘束している糸を焼ききるコルベールを見上げている。

「先生! 急いで!」

 周りでは、ギーシュたちがクモの大群を相手に必死になって防戦しているのが見える。それで、キュルケはやっと皆が助けに来てくれたのだと理解した。

「ミス・ツェルプストー、どこも怪我はないかい?」

「はい、でもみんな、どうやってここに?」

「なあに、クモが一番集まっている場所に君がいるなとギムリくんが気づいてくれただけだ。それより、さあ早く私につかまって」

 腰を抜かしているキュルケを背負おうと、コルベールは彼女の傍らにかがもうとした。しかしそのとき、この場所でも防犯の魔法が作動し、彼らのそばの本棚から大量の本が吐き出されてきた。

「危ない!」

 二メイルはある本棚から、二キロはある分厚い本が雨のように降り注ぐ。コルベールはとっさにキュルケの上に覆いかぶさり、彼女の傘になった。その背や頭に、容赦なく鈍器と化した本が叩きつけられる。

「せ、先生!?」

「だ、大丈夫だ……それより、早く」

 本の雨を耐え抜いたコルベールは、キュルケを担いで『フライ』で飛び立った。力が足りない分は、ギーシュたちが途中立ち止まりながら、『レビテーション』で補佐しているが、コルベールの額は切れ、血が垂れ落ちている。

「先生……苦しくないんですの……?」

「ん? そりゃあ、痛いし苦しいさ。でも、私の大切な生徒のためなら、なんてことはないさ」

 空元気を張っていることくらい、声色でキュルケもわかる。けれど、こんな立派な、先生らしい先生がほかにいるだろうか。キュルケは思わず、ぎゅっとコルベールにしがみついた。

「先生、出口です!」

 先行していたギムリの声が響く。あと少しで、この魔宮と化した書庫から脱出できるだろう。

 けどそのとき、天井から落下してきた大グモがコルベールにのしかかり、キュルケを奪い取ろうとしてきた。

「くそぅ、みんな、彼女を頼む」

「先生!?」

 背負ったキュルケをギーシュたちに放り投げ、コルベールは一人で組み付いてくる大グモに立ち向かう。

 すぐにギーシュたちが駆け寄ってコルベールを救い出そうとするものの、大グモはまだこんなにいたのかと思うくらいに集まってくるではないか。

「だめだギーシュ! これ以上の戦いは、もう精神力が持たない」

 『フライ』を使いながら、断続的に攻撃魔法を使わざるを得ない戦いが、ドットの彼らから急速に精神力を絞りつくさせていた。ギーシュに肩を借りたキュルケが、コルベールを救おうと杖を向けるが、その手をギーシュが止める。

「だめだキュルケ! 炎の魔法では、どう撃っても先生を巻き添えにしてしまうぞ」

「そんな! じゃあどうしろってのよ」

 助けられたまま、借りを返せずに終わるなどキュルケは許せなかった。そうしているうちにも、大グモは糸を吐き出し、コルベールを奥へ奥へと引きずり込もうとしてくる。

「みんな! 私のことはかまうな! はやく出口に行くんだ!」

「先生! そんな、そんな卑劣なことぼくらにできると思ってるんですか!」

「行くんだ! 私は教師だ。生徒を道連れになどしては、地獄で私の肩身がなお狭くなる。早く!」

 コルベールは大グモから逃れようとするどころか、自ら大グモを抱え込んで生徒たちに向かわないように押さえつけて叫んでいた。

 両手両足を糸で拘束され、連れ去られていくコルベールをギーシュやキュルケたちはどうすることもできずに見守るしかできなかった。そう……あきらめかけたとき。

『念力!』

 突然、本棚に納められていた書物が浮き上がり、弾丸と化して大グモたちを襲った。

 群れはそれで隊列を崩し、ひるんだところにさらに本が叩きつけられて、コルベールを捕まえていた足が緩む。ギーシュたちは何が起こったのか正確に理解する間もない。そこへ、間髪いれずに魔法の光が飛んだ。

『錬金!』

 魔法の光がコルベールを拘束していた糸を砂に変え、それ以外の糸は鉄に変わって大グモたちの動きが封じられる。魔力を飛ばしての遠隔地からの錬金。土系統の中でも高等なそれに、やっと振り向いたギーシュたちは、その魔法を飛ばした張本人が誰かを知った。

「まったく、世話の焼ける生徒に先輩なんだから! 急ぎなさい! 早くこんなところからはおさらばするわよ!」

「エレオノール先生!」

 歓喜の声がギーシュたちの口から飛び出る。エレオノールが、逆三角のメガネの下の顔を心底腹立たしげに歪め、母から命じられた清楚の仮面を脱ぎ捨てることを承知で、それでも助けにきたのだ。

 自由になったコルベールは残りの力で『フライ』を使って脱出し、皆も残りの精神力で飛んで続く。

 そして、玄関ホールで持ちこたえていたアニエスたちと合流し、一行は今度こそ書庫からの脱出に成功した。

「ここからはもう走るしかない。みんな、急げ!」

 精神力が尽き、あとは体力に頼るしかない。書庫と地下通路を隔てる谷間にかかる石橋を一行は全力で走った。しかし、渡ろうとする人間に連動するかのように石橋はひび割れて、見る見る間に崩落をはじめる。

「わたしたちを帰さない気ね! どこまで意地の悪い仕掛けなのよ」

「駆け抜ける以外ない、走るんだ」

 ここさえ突破すれば後はもう仕掛けはないはずだ。一行は必死で崩れ落ちていく橋を渡る。しかし、怪しい気配を感じて後ろを振り返ったモンモランシーが叫んだ。

「クモ! クモが追ってくる」

「なに!?」

 見ると、書庫から這い出てきた大グモたちが追いかけてくる。よく見たら、来るときは気づかなかったが谷のあいだには糸が通してあって、連中はそれを伝って追いかけてくる。途中で捕まったら今度こそ助からない。しかし、人間の走る速さよりクモが糸を這うスピードのほうが速い。魔法で迎撃しようにも、少しでも足を緩めたら崩落に巻き込まれてしまう。

 これまでか! だがその瞬間、谷の上から青い光芒が放たれてクモたちをなぎ払った。

 

『ナイトシュート!』

 

 一瞬で、一行に追いすがっていたクモたちは吹き飛ばされ、残ったものも糸を断ち切られて谷底へと落下していく。

 そのおかげで、コルベールたちは石橋が完全に崩落する前に、かろうじて渡りきることができた。

 それを見届けると、彼らを救った何者かは青い光を残して幻のように消えて、洞穴には再び静けさが戻った。

 地下書庫は谷の向こう側に蜃気楼のようにたたずみ、もうあそこに行く手段は無い。

 ようやく、すべての罠から解き放たれたことを悟ったギーシュは、気が抜けたように地面にへたりこんだ。

「はぁ、死ぬかと思ったよ」

 緊張から解き放たれて、大きく息をついたギーシュを見てギムリやレイナールも笑った。

 エレオノールも軽く額の汗を拭き、コルベールも相貌を崩した。

 もう大グモも追ってくることはできない。アニエスは、目的が失敗した悔しさよりも、窮地を切り抜けた仲間たちが全員無事だったのに満足そうな笑みを浮かべ、先頭に立って宣言した。

「さあ、こんなところに長居は無用だ。地上に帰るぞ!」

「おーっ!」

 全員そろって、こんな辛気臭いところには一秒も早くおさらばするために歩き出した。

 道中は、ギーシュたちがそれぞれの活躍の自慢話をしたり、モンモランシーがそれに突っ込みを入れたりして、あんな騒ぎの後だというのに行きと変わらないようなにぎやかさに包まれた。

 そんな中で、生徒たちから一歩下がって歩いていたコルベールに、エレオノールが話しかけた。

「ミスタ・コルベール、少しよろしいかしら?」

「ああ、ミス・エレオノール、先程はどうもありがとうございました。あなたのおかげで助かりました」

「勘違いしないでくださる。わたくしはただ、ヴァリエール家のものとして、恥ずかしくない行動をしたまでです。同僚を見殺しにしたなどとしたら、家名を剥奪されますわ。それよりも、なぜ貴方はあんな無茶を? あなたには、やりたい研究や信念があるのではなかったのですか?」

 エレオノールは、コルベールの才能を内心では認めていた。彼に匹敵する頭脳の持ち主は、めったにいはしないだろうに、なぜその頭脳をむざむざ危険にさらすのか、自分なら何が何でも危険は避けようとするだろう。すると、コルベールは照れたようにしながら、しかし口調は強く答えた。

「確かに、それも私の生涯をかけてやりたいことだと思っています。ですが、それ以前に私は教師なのです。生徒を守るという、その義務を果たせずして何の信念でしょう」

「それで、あなたの研究が未完に終わってもよいと?」

「人の命に代えられるものなどありませんよ。特に若者はね。彼らは今はひよこですが、いずれ私よりも大きなことをなせるようになるでしょう。そう、貴女にもあんな時期があったでしょう」

 コルベールはそう言って生徒たちを指差した。そこには、バカ話を続けているギーシュたちがいる。エレオノールは、そんな彼らをうとましく思いながらも、そういえば確かに私にもあんなころはあったかなと、風化しかけていた学院生時代の記憶を呼び起こした。

 いつの間にか忘れていた、心の赴くままに行動できた時期。それに、エレオノールは橋を渡りきった後で、ギーシュたちや、モンモランシーから送られた言葉を思い出した。

「エレオノール先生、ありがとうございました!」

 淑女として振舞うのを忘れ、気丈な本性を出してしまったというのに、彼らは恐れるどころか笑っていた。なにか、利口ぶって気をはいていたのがバカみたいだ。さて、なにが悪かったのだろうか。

 そして、エレオノールは、あなたは研究者としては二流ですわねと前置きをした上で、恐縮しているコルベールに言った。

「……でも、我が身を捨ててでも生徒を守ろうとする、教師としてのあなたの使命感には感心しました。今度、お茶でもしながらお話でもしませんか?」

「は、はい! よ、喜んで!!」

 男やもめ歴、四十とうん年。ミスタ・コルベールは、跳ね上がらんばかりに喜んだ。

 しかし、そんなコルベールの背中を、キュルケが熱いまなざしで見つめていたのに、二人は気がついていない。

「ヴァリエールの女……ふふ、やはりこれは宿命なのかしらね」

 

 

 

 人の気配が去り、地下書庫には物音一つしない静寂が蘇った。

 アニエスは地上に上がると、太陽の光の中で、まるであれが夢だったように思えた。

 広大な地下書庫も、凶悪な大グモたちも、現実のものだったのだろうか。

 もしかしたら、あの大グモたちは、過去数百年に渡って地下に葬られてきた人間たちの怨念が形をなしたものかもしれない……なかったことにされたものたちが、自分たちの存在を認めさせようとした。あるいは、地の底への道連れを増やそうとしたのか……

 アニエスは、ふとそんなことを考えると、首を振った。

「埒もないな……」

 ぽつりとつぶやくと、アニエスは白昼夢に別れを告げた。

 どうせいつかは地に帰るのなら、そのときまでは太陽の下で生きていたいなと、そう思うのだった。

 

 

 続く


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