ウルトラ5番目の使い魔   作:エマーソン

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第6話  波乱の二学期、やってきた新人先生たち

 第6話

 波乱の二学期、やってきた新人先生たち

 

 昆虫型甲殻怪獣 インセクタス 登場!

 

 

 光陰矢のごとし。二ヶ月にも及んだトリステイン魔法学院の夏休みもあっという間に終わり、今日から新学期がやってきた。

「うーん、帰ってきたなあ」

「ええ、ここに帰ってきて、これまで懐かしさを感じることなんてなかったけど、なんか昔とは違って見えるわ」

 もちろん、才人とルイズの二人もヴァリエール領から馬に乗って帰ってきた。

 ほかにも、始業式に間に合わせるために国中から続々と生徒たちが集まってきつつある。

 残った夏休みの日々を、カリーヌとエレオノールによってときに厳しく、カトレアといっしょにときに楽しく過ごした二人は、結局ルイズの父のヴァリエール候に会うことはできなかったが、どうにか無事にこうして帰ってこれた。

「おーいサイト! 久しぶりだな」

 見ると、もう見慣れた金髪の少年が大声で叫びながらやってきた。

「ギーシュ、早いな。もう登校か」

「なあーに、実家で父上や兄たちの武勇伝を聞かされるのに飽きただけさ。やっぱり美しい薔薇は温室よりも、太陽の下でレディたちを楽しませないとね」

「ギーシュ、それは浮気の予告ととっていいのかしら?」

「ギクッ! モ、モンモランシー、そ、そんなことは……」

 例によって、いいタイミングでやってきたモンモランシーに耳元でささやかれて、ギーシュに暑さとは違った汗が流れたのはいうまでもない。とはいえ、この掛け合いも二ヶ月ぶりに見るとなにかじんわりしてくるのも不思議なものだ。

 ほかにも見渡せば、ギムリやレイナールなど、見知った顔がちらほらと見える。みんないい具合に黒く焼けていて、夏休みをエンジョイしたようだ。

「ところでサイト、君たちはアルビオンに旅行に行くといっていたけど、よく無事だったね。突然トリステイン軍がアルビオンに出撃するというので、うちの親父たちなんか大慌てだったんだぜ。まあ間に合わなくてしょんぼりしてたけどな」

「ああ、そりゃあ……な」

「うん? まあ、なにはともあれ無事でよかったよかった。君がいないと、どうにも学院も刺激がないからね。あまり命を粗末にしないでくれよな」

 才人は、へえこいつ心配してくれてたのかと、少し彼を見直した。

「それでアルビオンはどうだったい? こっちにいるといまいち正確な情報が来なくてね。先頭きってアルビオンに乗り込んだ姫さまの勇姿、この目で見たかったなあ。どうだい、見てきたのかい?」

「いや、別に……」

「そりゃもう、王家の危機に立ち上がらなくちゃトリステイン貴族じゃないわ。姫さまを助けて、敵のスパイを見つけたり、裏切り者を相手に大立ち回りを演じたりと、大活躍だったんだから」

「なんだって! そりゃすごいじゃないか」

 よせばいいのに、ルイズが自分の活躍をおおっぴらに、このおしゃべりに語ってしまったものだから、波風立てられるのを嫌がってる才人は、あーあとため息をついた。

「うらやましいなあ、これならぼくも君たちに同行すればよかった。でもな、ぼくだってこの夏のあいだ遊んでたわけじゃない。なあ、モンモランシー?」

「まあね、多少は見直してるわよ」

 そこで才人は、モンモンが普通にギーシュのことをほめるなんて珍しいなと、彼らのあいだにも何があったのかなと、ふと興味を持った。

「そういや、お前もモンモンとデートしながら帰るって言ってたな。さては……?」

「おっと、下世話な想像はやめてくれたまえよ。まあ、互いに土産話は後で腰をすえてやろう。しかし、事前に通知をもらってたが、学院もひどいものだな」

「ああ、ウルトラマン三人と怪獣六匹の乱闘だったからな。よくまあこれですんだもんだぜ」

 近づくごとに、あのヤプールの最後の大攻勢で破壊された痕跡がまだ痛々しい魔法学院の惨状が目にはいってきた。ドラコ、グドン、ギール、ガギ、グロッシーナ、エレドータス、今思い出してもぞっとする。

 やってきた学生たちも、大破した正門や、焼け焦げた城壁、草原に無数に開いたクレーターを見て呆然としている。さすがにグドンやエレドータスの死骸などは取り除かれているが、オスマン学院長やロングビルの苦労が忍ばれる。本当に、よくもまあ休校にならなかったものだ。

「あんたたち、なにを軟弱なこと言ってるの? トリステインの未来をになう学院が、こんなもので休みになるわけないじゃない」

「いやルイズ、みんな君みたいに強いわけじゃないからね。女子生徒の中には、撤去される前の怪獣の死骸を見て、泡を吹いて気絶した子もいるらしいじゃないか」

「そうよルイズ、誰もがみんなあなたみたいに神経が竜のひげでできてるなんて思わないでよね。わたしみたいなか弱い女の子もいるのよ。ね、ギーシュ」

「そうとも、水面に咲く一輪の花のように、はかなげな君は美しいよモンモランシー」

 本当に、相変わらずであった。ルイズは惚れ薬を調合してギーシュを洗脳しようとした女が、よくもまあ抜け抜けとと呆れた。もっとも、そんなルイズも才人から見たら、あのお母さんと姉貴たちの妹がなにいってんだかと思ったが、馬から蹴落とされるのは勘弁なのでその場は自重した。

「さてと、じゃあぼくらはちょっと学院長にお話があるんで先に失礼するよ」

「ん? 休み中になんか問題でもやらかしたか?」

「とんでもない。真逆のことさ、あとで君たちもわかるよ、とてもすばらしいことさ」

 はて、この目立ちたがり屋がもったいぶるとは珍しいことだ。見た目は特に変わらないが、やはり休み中に何かあったのだろうか? 怪訝に思った才人はもう一度問いかけようかと思ったが、その前に空気を読まないこの能天気はとんでもないことを叫んでいってしまった。

「それじゃあ! 二人仲良く相乗りしての登校を邪魔するほど野暮じゃないんでね。いやあ仲良くなっていてうらやましいかぎりだが、さらばだよお二人さん。わっはっはっはは!」

「いっ! バ、バカ!」

 言われた瞬間、二人に衆目が集中し、新学期早々恥ずかしい思いをする羽目になった才人とルイズが、ギーシュを今度会ったら張り倒してやろうと誓ったのを、当の本人が知るよしもない。

 

 そうして、教室につくまでのあいだにキュルケやタバサとも再会し、寮に荷物を運び込んだ二人はホールへ集合し、始業式を迎えることになった。

 だが、いつものように退屈に終わるだけだと思っていた通過行事で、二人はとんでもない事態を迎えることになる。

 食堂上の、まだまだ蒸し暑いホールに一年から三年までの全生徒が集合し、こればかりは地球の学校とも少しも変わることのない、オスマン学院長の無駄に長いあいさつが終わった後に発表された、新任の先生の紹介。それで壇上に上がってきたのは。

 

「本学期より、風系統の授業を請け負うことになりましたカリーヌ・デジレです。夏季休暇中に不幸な事故で入院療養することになりましたギトー先生の代わりになれるよう、皆さんといっしょに頑張ろうと思っています。よろしくお願いします」

「エレオノール・ド・ラ・ヴァリエールです。アカデミーより、土系統と学術面で皆さまをご指導せよとおおせつかってまいりました。どうぞ、仲良くお勉強にはげみましょうね」

 

 なんと、見間違えるわけもなく、数日前に別れてきたはずの、教員服に身を包みながらも鋭い眼光は変わらないルイズのお母さんと、なんか最後に会ったときとは別人みたいに優雅に会釈するエレオノールがそこにいた。

「な、なんで!?」

 顔を引きつらせる才人と、これは悪い夢に違いないとルイズは頭を抱えた。

 周りからは、はやくもあの先生ルイズと似てないか? それにヴァリエールって、まさかという声が上がり始めているし、事情を知っているキュルケは、なんか面白いことになってきたじゃないと言っているが、とても受け答えする余裕はない。

 その後、式が終わると同時に職員室に駆け込んだルイズが、母と姉を問いただしたところ、返ってきた答えはこうだった。

 

「先日アンリエッタ姫殿下が魔法学院を行幸なさったおり、学院全体の風紀が著しく緩んでいると思われたそうです。学生の堕落はすなわち未来の国の堕落、そこで私に姫殿下より直々に、老朽化した校風の建て直しをしてほしいとおおせつかりました」

 

 そういえば、終業式のときにシエスタたちからもいろいろと話を聞いていたのを思い出した。その結果がこれだったのか。

 ルイズは、確かに効果は上がるだろうと考えたが、とてもじゃないが明るい未来の展望は浮かんでこなかった。おまけに、本当におまけになんで……?

「は、はぁ、それはよろしいのですが、なぜエレオノールおねえさままで?」

「私の助手ということでアカデミーから週の半分ということで許可をとりました。このまま見合いを続けようにも、この子の噂はもう国中の貴族のあいだで知らないものはいませんからね」

 なるほどとルイズは合点した。これ以上見合いを繰り返しても、貰い手の見つからないエレオノールのための苦肉の策ということか。しかし、学院の男子生徒も気の毒だが、このエレオノールも。

「あら? わたくしの顔になにかついてるかしらルイズ。そんなにじろじろ見つめられたら、わたくし怖いですわ」

「……」

 違う、違うといってなにが違うかといえば全部としか答えられない。一応、顔だけは同じなのだけど、歩き方や話し方がしずしずとしていて、眼鏡がふちが大きく目つきを柔和に見せるものになったことで、どこか落ち着いたものになっている。

 第一、エレオノールが教員服の上からとはいえ、こんなカトレアが着るようなゆったりしたドレスを着るか? 才人とルイズが、この世のものではないようなものを見るように、何もいえずに立ち尽くしていると、教員用の書類をまとめていたカリーヌが説明した。

「なにを驚いているの? エレオノールには、私からあらためて貴婦人としての心得を教えなおしてあげただけよ。これまで我が子だからと甘やかしていたのが間違いでした。即席の教育ですが、ないよりはましでしょう」

「そうですわ。ルイズ、いままで意地悪ばかりしてごめんなさいね。お母さまのおかげでわたくしは目が覚めました。これからは、優しい姉になるように心がけますから、どうか仲良くしてくださいね」

「……」

 これは再教育というより洗脳ではないだろうか? 姿を見なかったあのわずかな日数のうちに、いったい何が……? 知りたいが、知ったら一生後悔することになりそうな……ルイズと才人は、なにがあってもこの人だけは怒らせまいと、あらためて心に誓った。

「さあ、休憩時間はもうすぐ終わり。はやく教室にお帰りなさい。それから、ここでは私たちは家族ではなく、あくまで教師と生徒です。よろしいですね」

「は、はーい……」

 こうして、二人の新学期は始まって早々に、目の前に嵐の予感が見えたのだった。

 

 

 おかげで、教室に戻ったルイズは頭を抱えたまま、先生の新学期のあいさつやら授業予定などもろくに耳に入らないまま昼休みを迎えることになる。

 もっとも、暇ができたらできたで今度はクラスメイトたちの好奇に囲まれることになった。

「ねえルイズ! 今度の先生たちってあんたの身内じゃないの! どうなってんのよ?」

「おい、とうとうゼロが行き過ぎて身内のコネに頼ることにしたのか? いい身分だな」

「どうせゼロのルイズの家族だろ、たいしたことないんじゃね?」

「ちっ! これじゃ下手にルイズに近寄ったら成績下げられかねねえな。んったくいい迷惑だぜ」

 予想していた野次ややっかみが降り注いできても、今は言い返す気にもならない。

 平然としているのは事情を知っているキュルケやタバサくらいだ。

 ただ、そんななかでもルイズの興味の一端を引いた問いかけはいくつかあった。

「なあさルイズ、あのエレオノールって人、君のお姉さんだろう? いやあ、美しい人だったなあ」

「そうそう、清楚で優しそうで、おまけにあの眼鏡が知的な雰囲気も与えるし」

「聞けば、あの王立魔法アカデミーの主席研究員だっていうじゃないか。いやすごい、身持ちは固そうだが……で、できればぼくを紹介してくれないかな?」

「あっ! 抜け駆けは汚いぞてめえ、あの方のような女神には、ぼくのほうがふさわしいのだ」

 知らないというものは恐ろしい。いや、幸せというべきか。早くも女郎蜘蛛の巣に哀れな羽虫がふらふらと足を踏み入れつつある。

 それに、カリーヌのことはほとんどの人間が知らなくて当然だが、こんな下品な笑いをこだまさせているやからを、あの人が見逃すとは思えない。

 ルイズは細目でそうした野次を飛ばしてくるクラスメイトや、無邪気に興奮する男子生徒たちを見ながら、ただ一言だけつぶやいた。

「そうやってのんきに笑ってられるのも、今のうちよ」

 

 そんでもって、やっとこさ明るさの欠片も見えない未来を見る気にもならず、ふらふらと食堂に向かったルイズだったが、悪いことの後にはすばらしい出会いが待っていた。

 隣でやや遠慮がちにスプーンを使う才人すら目に入らぬように、ルイズは機械的にろくに味も感じない昼食を口に運んでいた。ところが、ある料理に手を伸ばしたとき、はっとして思わず叫んでいた。

「なにこれ! すごくおいしい」

 ふと、デザートについていたクックベリーパイを口にしたとき、一気に生気を取り戻したルイズに、周り中の視線が集中した。元々ルイズはこのパイが大好物で、機会があれば菓子屋を食べ歩きをしているほどだが、この味はこれまでの食堂はおろか、トリスタニア中のどこの店よりもはるかにまろやかで、それでいてさっくりとした、まさに絶品であった。

「なによこれ、一級のパティシエなみじゃない」

 ぼんやりしていた頭が一気に覚めて、あっけにとられている才人たちの前でひたすらスプーンをルイズは動かした。一口ごとに、幸せな気持ちが口中に広がっていく。やめられないとまらない、あっというまに皿は空になっていた。

「我慢できない。おかわりもらいにいくわ」

「おいおいおい、マジか?」

 席を立ったルイズを追いかけて、才人も慌てて立ち上がった。

 いつもは貴族がどうのと口やかましくて、テーブルマナーにも非常にこだわるあのルイズとは信じられない。やはり人間の最大の欲求は食欲なのか? つか、こんな姿お母さんに見られても知らないぞと思いつつ、いつもシエスタに食事をもらいにいく厨房のドアをルイズに続いてくぐった才人は、そこでおもいもかけなかった相手と鉢合わせした。

「おおサイトにルイズ! やっぱり君もこっちに来たかい、待っていたよ」

「ギーシュ! なんでお前がここに!?」

 思わず大声をあげてしまった才人の目の前で、ギーシュがとりあえずは厨房の皆の邪魔にならないようなすみっこに置かれた椅子に腰掛けて、例のパイをかじりながら手を振っていた。

「なあに、ぼくも最近ではここのコックたちと知らない仲ではないんでね。ふふふ、それにしても思ったとおり、やっぱりこの味に釣られてきたな、このくいしんぼめ」

「うぐっ!」

 おもいきりニヤリと見つめられ、やっと正気に戻ったルイズは冷や汗を流してあとずさった。

「う、うるさいわね! それよりもなんであんたがここにいるのよ! ここがどういうとこだか知ってるんでしょう!?」

「もちろん、だから迷惑にならないようにこうして隅にいるんじゃないか」

 そういう意味ではなかった。今でこそ多少ましになってきているが、この魔法学院でも貴族と平民のあいだには溝が深く、特に厨房は料理長のマルトーはじめ貴族ぎらいが揃っているのに。

 けれど、そこへシエスタといっしょに、白いエプロンを着てコック帽をかぶった見慣れない少女が二人のもとへやってきた。

「ギーシュさま、わたしのパイのお味はどうでしたか?」

「おおリュリュくん。もちろん文句なしさ、さすが諸国めぐりをしてきただけはあるね。そうだ、さっそく紹介しよう。この二人がサイトとルイズ、ぼくの親友たちさ」

「あっ! あなたがたがサイトさんとミス・ルイズですか。ギーシュさまからお話はうかがっております。はじめまして、本学期からこの魔法学院に転入してきました。リュリュと呼んでください」

 にこやかに笑って、軽く会釈した明るい雰囲気を持つ少女に、つられて思わず才人とルイズも頭を下げ返した。

 それは、あの夏休みの、ある山奥での冒険でギーシュとモンモランシーが出会った料理人志望の少女のリュリュだった。

 才人とルイズは、ギーシュからそのときの怪獣タブラとの戦いのことや、彼女が錬金を使って平民にもおいしい料理をたくさん作ってあげたいと望んでいて、そのために魔法と料理の腕を同時に磨ける場所として、彼女をこの学院に推薦したことなどを聞かされて目を丸くした。なるほど、朝オスマン学院長にあいさつに行っていたのはこのためだったのか。

「すごいなあ、貴族なのに平民のために頑張りたいなんて。リュリュさん、俺尊敬しちゃいますよ」

「くす、リュリュでいいですよ。ただのお菓子作り好きが高じて、家出までしちゃいましたけど、シエスタさんやここの方々にもよくしてもらってますし、そんな堅苦しいのはやめてください」

 才人は、リュリュに貴族らしい高慢さが少しも見られないので驚いた。この学院にも何百人も女子生徒はいるが、こんなわけへだてをしないのは彼の知る限り数人だけだ。

 二人は、リュリュが焼いたという新しいクックベリーパイを受け取り、この若さだというのに本場のコックたちにもまったくひけを取らない腕前に、あらためて感心した。

「うーん、うちの家の専属コックにほしいくらいね。たいしたものだわ。でも、転入してくるってことは、この学院の生徒でもあるってことなんでしょ? コックとしての修行と学業の両立なんて大変じゃない」

「いいえ、多少できるのはお菓子作りくらいで、デザート以外はまだまだ見習いです。それにその心配なら大丈夫です。学院長のおはからいで、通常の魔法の授業はそのままで、地理や歴史といった分野は免除していただくことになりました。おかげで、魔法とお料理、どっちもバッチリ勉強できてます!」

 ルイズの問いにも明るく答えたリュリュだったが、それでも朝から晩まで働き通しで、休めるのは寝るときくらいなのに違いない。なのに、彼女の顔には暗さなどはかけらもなく、夢に向かって驀進しているという充足感で満たされていた。

 

”うらやましいな”

 

 ルイズはパイの味を噛み締めながらそう思った。自分の進むべき道に、彼女は少しの迷いもない。それに対して、自分は国のため、姫さまのために命をかけるという信念はあるが、漠然としていて具体的な目標はない。

 と、そのとき感心しながら立ち食いを続けていた才人とルイズの耳元で、シエスタがこっそりとつぶやいていった。

「ところで、ミスタ・グラモンもけっこうすごいんですよ。サイトさんたちがここを去って、新学期の準備のために一足早くわたしたちが帰ってきたときに、ミスタ・グラモンがリュリュさんを連れてきて、マルトーさんたちに紹介したんですけど、最初マルトーさんたちひどく渋ったんです。俺たちの大切な職場に、貴族の遊び半分を入れられるかって。そしたら、どうしたと思います?」

 そのとき、憤慨して去っていこうとするマルトーたちを引き止めたギーシュは、彼らを唖然とさせたことに、いきなり床にひざを突くと、頭を下げて土下座してみせたのである。

「彼女のことについては、ぼくが誇りにかけて全責任を持つ。一生の頼みだ、彼女をここにおいてやってほしい。お願いする!」

 不器用で、下手な頼み方だったが、マルトーたちも、嫌っているとはいえ貴族にここまでされてはむげにするわけにもいかなかった。

 あくまで見習い。この世界は実力だけがものを言う、泣き言は許さないぞと念を押すマルトーに、リュリュがどう返事をしたのかは、今の彼女を見れば明らかだ。

「やるなあ、この野郎」

 目の前でのんきにパイの残りを食っている本人に気づかれないように、才人はぽつりとつぶやいた。女性のためなら火の中水の中のギーシュらしいといえばらしいが、そのために平民に頭を下げるなど、昔のあいつでは考えられないことだ。

 まあ、問題があるとしたら、リュリュと仲良くしすぎるとモンモランシーの堪忍袋の尾がいつまで続くかということだが、そこまで心配してやる義務はない。

 

 そうして、世の中が自分たちの知らないところでも止まらずに進んでいくことを感じながら、新学期の一日目はあっという間に過ぎていった。

「なかなか、二学期も面白くなりそうだな」

 波乱の一日が終わり、久々に帰った寮のルイズの部屋で、就寝前に才人はルイズの机に座りながら、ベッドに入ろうとしているルイズと話していた。

「冗談じゃないわよ。戦いが終わって、やっと平穏に過ごせると思ったのに、なんで学院でまでお母さまに監視されなきゃならないのよ」

 ネグリジェをだらしなく着崩して、精神力を使い果たした様子でつっぷしているルイズは、残暑の暑苦しさからか毛布をかぶらずに、首だけを才人に向けて答えた。

「まあ、姫さまの決めたことだから文句も言えないしなあ。それ言い出せば、おれだってあの人は怖いよ。けど、下手に逆らって『教育的指導』を受けたくはないだろ?」

「それこそ冗談じゃないわよ」

 暑さとは別の汗が大量に浮かんでくるのは、人間の精神の根源に刻まれた恐怖の発露に他ならない。カリーヌにも、規則違反などの禁忌にさえ触れなければ寛容さはあるのだが、その度を越えてしまったときの怒りの恐ろしさで比肩しえるものは現世には存在せず、少なくとも、エレオノールと同じ目には死んでも遭いたくない。

 才人は、ルイズの母親へのプレッシャーは相当なものだと思って話題を変えていった。

 キュルケやタバサも、夏休みの残りのあいだ中に特に何もなかったらしく、いつもどおりに再会したし、ギムリやレイナールたち悪友連中も元気だった。

 また、放課後になってオスマン学院長にあいさつに行ったときに、ロングビルとも再会した。その場で聞かされたことには、破壊を頼まれていたゼロ戦は、どうせこちらに残ると思ったから固定化をかけて森の中に隠したということで、感謝するのとともに、そのうちこちらに持ってこようと思った。

 そして、ウルトラマンAを補佐するためにこちらに残ったウルトラマンヒカリことセリザワ・カズヤとも再会し、しばらくは警備員としてこの学院を守りつつ、この世界に慣れるつもりだとも聞かされた。

 ほかはといえば、コルベール先生が夏休み中どこかへ行っていた旅から帰ってきて、せっかくだからとあいさつに出向いた。が、先生の小屋がいろいろとわけのわからないもので埋め尽くされていて、結局近づく気にもならなかった。そのあたりで日も暮れて今に至るわけだが、やっぱり今日一番喜ばしいことはあれだった。

「しかし、ギーシュの奴も見直したぜ。やっぱり女の子がらみってところではいつもどおりだが、自分だけで怪獣に挑んでいくとはな」

「ばーか、どうせあいつのことだから誇張された話半分に決まってるじゃない。でも、確かに相当な変わり者ね。類は友を呼ぶということかしら」

 お前が言うなと才人は思ったが、それを言えば類友に自分も入ってしまう。

 もっとも、ランプの灯りでよくルイズの口元を観察してみたら、緩んだ唇からよだれが光って見えるので、ルイズがリュリュのことを大いに歓迎しているのはわかった。

「ま、ともかくよかったじゃねえか。虚無の曜日とかは練習をかねてお前の好物とかを作ってもらえることになって。おれもこれでもうお前に付き合って、苦労して菓子屋めぐりをしなくてすむってもんだ」

「わかってないわねえ、自分で苦労してお店をまわるから、当たりにめぐり合ったときの感動が大きいんじゃない。菓子屋がなくても、服にアクセサリーとか、探し歩きたいものはいくらだってあるわ!」

 やれやれと才人は肩をすくめた。気の強さは男の何十倍なのに、こういうところばかりは普通の女の子なんだからな。ま、そこが可愛くもあるんだが。

 とはいえ、そうしていられるのも平和の証といえばそうなのだ。少なくとも、誰かが傷つき死んでいく場面に立ち会わされるよりは、ルイズの荷物持ちをさせられているほうがよっぽどいい。

 ちなみに、歴代防衛チームの隊員の間でも、北斗星司と南夕子のように、休暇を利用した女性隊員のショッピングの荷物持ちに駆り出されて大変な目に合った男性隊員が幾人もいたという。

「ふわぁーあ……それじゃ、あたしはもう寝るわ。あんたも寝たら?」

「いや、おれはもう少し勉強してから寝るよ」

 机の上には才人のパソコンが置かれ、液晶の明かりを煌々と部屋の中に照らしていた。

 そのディスプレイには、GUYSライセンスの講習ビデオが映し出されていて、傍らには筆記試験の教本などが詰まれている。早ければ三ヵ月後にやってくるGUYS入隊試験に向けて、才人の受験勉強はすでにはじまっていた。

「そう、でも明日ちゃんと起こしてよ。寝坊なんかしたら許さないからね」

「ああ、ほどほどにしとく」

「……おやすみ」

「おやすみ」

 熱心にパソコンに向かい始めた才人をちらりと見て、ルイズは目を閉じた。

”サイトも夢に向かって努力してる。あたしは将来、なにになればいいんだろう”

 睡魔に身をゆだねる前に、ルイズの心に小さな疑問が浮かんで、すぐに安眠の中に飲み込まれていった。

「ほんとに、寝顔だけは世界一可愛いんだけどな」

 それにしたって、新学期早々ここも一気ににぎやかになったものだ。悪く言えば、騒々しいとかやかましいともいうが、人の多く集まるところには必ず何か事件がつきものである。

 もっとも才人は、平穏が続くよりは、そうしたアクシデントやハプニングを無意識に望む若者らしい鋭気に満ちた心を忘れてはおらず、不謹慎ながらも明日が来るのが楽しみでしょうがなかった。

 

 

 けれども、期待と現実というものは往々にして反比例するものである。

 才人の期待やルイズの不安とは裏腹に、翌日からは意外にもそこそこ平穏な日々が帰ってきた。

 

 

「では次、教本の一七四ページを、ミス・シャラント、読んでください」

 いつもどおりの教室の中で、黒板の前に立って、左手に教科書、右手にチョークを持ったカリーヌの声が、ペンを動かす生徒たちのあいだを通り抜けていく。余所見をしたり、ふざけあう生徒は一人もいない。

 この日の一時限目から始まった風の授業。はじめに教室に入ってきたカリーヌは、ごく普通に自己紹介をし、ついでなにか質問はないかと言ったところ、一人の男子生徒が立ち上がり、胸をそらして恐れを知らないというふうに野次をとばした。

「どうしたらルイズみたいな『ゼロ』を育てられるんですか?」

 思い切り挑発的に、大人をなめきった世間知らずな子供の、他者の心を傷つけることをなんとも思わない残酷さの、醜悪な発露がそこにあった。

 だが、その下品な野次に彼の友人の追従は得られなかった。

 ルイズの激怒、他の生徒の笑いよりも早く、ほぼ無詠唱で唱えられた雷の魔法がその生徒を直撃し、気を失う寸前で崩れ落ちたその生徒を一瞥して、カリーヌは冷然と言ったのである。

「プライベートなことには答えられません。ほか、何かありますか?」

 口を開くものがいるはずがなかった。ほとんど瞬きをしている瞬間ぐらいしかない超高速詠唱、わずかでも反応できたのはタバサとキュルケの二人くらい。その二人でさえ、反応するだけがやっとだった。

「では、授業を始めます。教科書の一六五ページを開きなさい」

 誰もが、無神経な男子生徒の二の舞になる気はなかった。全員が慌てて教科書を開き、しんと押し黙って先生の講義が始まるのを待つ。ただしその後のカリーヌの態度は、ルイズやほかの生徒達が予想していたものを裏切った、完璧なまでの教師のそれであった。

 黒板に文字や図形を書き、解説をし、生徒に教科書を読ませ、頻繁に質問や、生徒の独自の考察を述べさせて授業に飽きさせないようにし、ノートをとらせる。むろん、居眠りをするような生徒には、チョーク代わりに魔法で目覚ましが飛んだが、講義自体は高圧的ではなく、ほかの教師は自分の系統の魔法の有意性について延々と語るばかりの授業が多い中で、特に独自性や個性はないが、最後まであくまで客観的に授業をおこなった新しい先生に、生徒達は新鮮な感覚を味わっていた。

 

 放課後になって、教員室で書類を相手にしていたカリーヌの元にルイズが駆け込んだのは、そうした普段の母親との激しいギャップを感じたからである。

「強権で言うことを聞かせたところで、目に見えないところでは恨みと反発を蓄積させていくだけでしょう。ここは軍隊ではありませんからね。時には鞭も必要ですが、教えるべきことをきちんと教えていけば、あとはこれぐらいの年頃の子供は、自分で自分を育てていくものです」

 てっきりすぐにスパルタ教育が待っているものと思っていたルイズは、カリーヌのその意外にも寛容な教育方針に、母の懐の深さをあらためて知った気がした。

 というより、子供はある程度育つと、正しいとわかっていても大人に逆らいたくなるもので、自分が世界で唯一正しくて、大人はみんな悪者だと思いがちになる。これが自我の目覚めであり反抗期なのだ。

 そしてこの時期が人格形成にとって重要なのだが、ここで挫折や失敗を繰り返して、世界は自分だけの論理で動いているのではないと知れば他人の苦悩も理解できるようになり、一個の人間、一人の大人として成人していく。ただし失敗したら、自分のためには他者を省みないエゴイズムの塊みたいな人間ができてしまうので、まわりの大人は細心の注意を払う必要がある。

「それに、お前やエレオノールのように気心の知れた間柄ならともかく、昨日今日急に現れた人間の言うことを、素直に誰もが聞くと思いますか? 教師と生徒というものは、軍隊の上司と部下とは違いましょう?」

 もとより、教育というのは地道なものなのである。かつて、地球で数ヶ月間教師を務めていたウルトラマン80こと、矢的猛も、徹夜でテストの採点をしたり、朝のあいさつの練習をしたりと人の知らないところで努力を積み重ねて、生徒の信頼を勝ち取っていった。

 それに、カリーヌはルイズに対して教育ママかといえばそうともいえない。ルイズが学院に入る前には、勉強しろと口やかましく言ったりもしたが、度を越えて怒鳴りつけたり、できばえが悪いからとヒステリーを起こすようなことはなかった。

「さて、私はそろそろ客が来る。そろそろ帰りなさい。宿題を忘れでもしたら、ただではすまさないぞ」

「あっ! はいっ!」

 すっかり長居してしまったことにようやく気づいたルイズは、慌てて教員室の外へと駆け出していった。

 それを追って、才人も教員室を出ようとしたのだが、その前にカリーヌに呼び止められて、意外なことを告げられた。

「サイトくん、私も姫さまの命とはいえ、慣れない教職という仕事だ。完璧をこなせるとは思わないし、特にあの子は私の子というので、しばらくは風あたりが強いでしょう。苦労すると思うがなだめてやってほしい」

「ええ、それはもちろん」

 ルイズをなだめるならいつもやっていることだ。その点に関しては是も非もない。ただ才人が少々面食らったのは、あの厳格そのもののカリーヌが、自分に頼みごとなどをするとは思わなかったことだ。

 カリーヌは、才人から了解をとると、周りで誰も聞いていないことを確認し、軽く息をつき、力を抜いて彼に言った。

「サイトくん、君から見て、この学院の教師というのはどういうものですか?」

「はぁ……えーと、コルベール先生は平民のおれにもよくしてくれますけど……えーっと」

「つまり、その他の教師は語るにも値しないということね。ねえサイトくん、私はこれでも、理想的な教師になろうなどと傲慢なことは考えてはいない。ただ、せめて受け持った子供が世に出ても人に迷惑をかけない程度の、普通の人間になるくらいにはするつもりだ。どうも不器用で、娘にはすっかり嫌われてしまったようだけどね」

「そんなことはないですよ、ルイズはああですが、本当はお母さんのことが大好きですって」

「本当にそう思いますか?」

「もちろん」

 才人は、カリーヌもこの新しい仕事に不安を感じていたことを知った。普段誰にも弱みを見せず、強く見える人でも、人間である以上悩みや不安とは無縁ではいられない。特に、もはや荒療治をして直すしかなかったエレオノールと違って、人生で一番多感な時期のルイズのことは、誰よりも心配なのだろう。

「やれやれ、親はなくとも子は育つ、とはうまく言ったものね。三人も生んでおきながら、誰も親の思い通りには育ってくれない。あなたの母上も、さぞご苦労なされたことでしょうね」

「……はい」

 やれやれ、この親にしてこの子ありとはよく言ったものだ。才人は、この人も充分甘いではないかと思って苦笑しかけたが、ほおの筋肉を引き締めると、退室しようと腰を上げた。

「失礼します……あ」

「才人か、さっきお前のパートナーが慌てて走って行ったぞ」

 入れ違いに、警備兵の制服を着た偉丈夫とすれ違うと、才人はルイズを追って寮へと向かった。

 

 それらの言葉どおり、それからのカリーヌは地道に教師としての地歩を築いていった。授業をし、宿題を出し、テストの成績がよければ褒め、態度が悪ければ魔法を飛ばす。

 笑顔を見せることはなかったが、元々前任の風の教師であったギトー教諭が傲慢な性格で生徒たちから嫌われていたこともあり、そうした堅実な態度はしだいに周囲に認められていき、一週間もするころにはルイズの母親だからとやっかむ声も自然に消え、職員室にノートを持ってくる生徒も現れ始めた。

 逆に言えば、それまでの魔法学院の教師はそんな当たり前のことさえできていなかったということであった。だが、カリーヌはひたすら堅実に努め、生徒たちと馴れ合いはせず、必要以上に恐れられもせず、そこにこの先生がいるという存在感を、学院の中に構築していった。

 

 なお余談ではあるが、すっかり人格を変えられてしまったエレオノールは、一部の生徒の間にファンクラブまでできているそうだが、ルイズは触らぬ神にたたりなしで不干渉を決め込んでいる。付け焼刃の淑女の化けの皮がはがれる、そのときに恐怖しながら。

 

 そうして魔法学院の二学期は、新しい先生や仲間を増やして過ぎていき、ルイズは本来の生活である学生としての平穏な生活に徐々に慣れていった。

 

 だが、ルイズも誰も気づかないところで、事件の幕は上がっていた。

 

 週に一度、トリスタニアの市場から学院に運び込まれている大量の食品。

 野菜、肉、穀物、それらは学院の食堂で調理され、豪勢な料理となって食卓に並ぶ。

 その、膨大な食品の中に、どんな注意深い人間でも気づかないような異物が紛れ込んでいた。

 ほんの、二ミリほどの大きさの紫色のそれは、二本の触覚を伸ばして、ちょこまかと虫のように跳ね回る生き物。これをもし地球の学者が見たら、カニやエビなどの甲殻類の幼生『ノープリウス』だと言うだろう。

 ただし、それは食料庫のなかを縦横に飛び回り、一人のコックが小麦粉などをとりにやってきたときに、こっそりと彼の体をよじのぼり、耳の中に飛び込んでそのまま寄生してしまったのである。

 もはや、それはただのノープリウスではなかった。

 これこそ、地球にも出現したことのある昆虫型甲殻怪獣インセクタスの幼生体だった。

 この個体は、かつてのインセクタスが、危機的状況にあって成長が加速されて孵化からわずか一日で成体になったのとは異なり、何日もの時間をかけて寄生した人間の体内でじっくりと成長を続けて、ミクロ単位から巨大怪獣になろうと細胞分裂を繰り返していった。

 おまけに、インセクタスは寄生した人間に風邪に似た症状を引き起こしはするものの、人体に致命的な影響を与えることはないので誰にも存在を感づかれることはなかった。それをいいことに、奴は人から人へと宿主を変えていき、せいぜい夏風邪がはやっている程度にしか、人々は異変を感じることはなかったのである。

 

 事件の火種は、いつも平和の中でくすぶりながら、大火になる準備を進めていく。

 数日のあいだは、シエスタやマルトーが食料庫に入っても。

「なあシエスタ、最近食料庫の在庫の数が異様に減ってるんだが、心当たりないか?」

「いいえ、別に」

「そうか。俺は貴族のガキの誰かがつまみ食いにでもきてるんじゃないかと思うがな。やつらは味の好みにうるさいくせに、平気でこっちで作ったものを残しやがるから」

 そうした立ち話がかわされるだけで、すぐに日常に埋もれて忘れられていく。

 

 音もなく、気配も見せずにインセクタスは成長を続けた。そしてある日とうとう食料庫のかたすみに繭をはって、ノープリウスから一気に全長二メートル大の一次変態を迎えて、小型ながら怪獣の姿を現した。

 太くたくましい六本の足で地面を踏みしめ、その上に乗った兜のような大きな頭部からは、黄色の大きな角を左右に二本、上部に一本生やし、金切り声にも似た鳴き声を上げて動き出す。こいつは、雌雄がはっきりと分かれているインセクタスの雄だ。

 まだ大きさとしては小さいものの、姿かたちはすでに成体と同じ。しかも無害に近かったノープリウス状態と違い、凶暴性も上がっている。もしも、こいつが何も知らない学院の生徒たちの中にいきなり飛び込んでいったら、大変なパニックが起きるだろう。

 インセクタスは食料庫の中を這い回り、やがて大きな鉄の扉の前に出た。

 これを突き破れば、外にはちょうど昼休みでのんびりとティータイムを楽しんでいる生徒たちの正面に出る。むろんインセクタスはそんなことを知るはずはないが、生徒たちがインセクタスの姿を見て悲鳴をあげでもしたら、インセクタスは即座に彼らを外敵とみなすだろう。

 

 十メートル、八メートルとインセクタスは扉に近づいていく。

 

 だが、不思議なことにインセクタスの前、すなわち扉の前に直径三メイルほどの真ん丸い穴がぽっかりと空いていた。

 こんなところにこんな穴があったか?

 インセクタスは本能的に巣としていた食料庫の構造を思い出し、その齟齬に一瞬動きを止めたが、すぐに警戒心より外に出たい欲求が上回って、穴を避けて扉に向かった。

 その瞬間、インセクタスが穴から目を逸らしたほんの一瞬のことだった。

 穴はまるで生き物のようにすばやくその場から動くと、気が逸れていたインセクタスを逃げる間もなく落とし込んでしまったのだ。

 そして穴は、そのまま並行に動いて食料庫に詰まれていた小麦粉の袋をいくつか飲み込むと、後は地面に吸い込まれるようにして消えていった。

 

『ワハハハハハ……ウハハハハハ……』

 

 地の底から響いてくるような不気味な笑い声が食料庫にこだまする。

 

 本当の事件は、ここからはじまる。

 

 

 続く


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