追想 ‐少女と花畑の妖怪‐【完結】   作:鷹崎亜魅夜

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『親』として学んだもの。
 ではどうぞ。


第五話

 文に案内させ、幽香は妖怪の山を歩いていた。一歩一歩歩くたびに、森の動物たちがざわめきだす。

 

「……ねえ、天狗」

 

 呼びかけると、先導していた文は肩をすくませながら振り返った。

 

「は、はいっ、なんでげすか!?」

 

 緊張や恐怖からか、口調が乱れていた。

 

「……アナタには裁判権があると言っていたけど……。……それはどれほどのものなのかしら?」

「と、言いますと?」

「……勢い余って殺しちゃって、カスも残らなかった場合、どうなるの?」

 

 ごくり、と文は唾を飲み込んだ。心なしか震えているように思える。

 

「ま、まあ、ケースバイケースと言いますか、これも私の一存による裁判の一つなので……。アナタが責められることはないでしょうはい」

「……被害の規模は、どこまでかしら?」

「うえぇっ!? さ、流石に山を消し飛ばすとか勘弁して下さいよ!? 始末書どころの騒ぎじゃないです、異変扱いされて私が博麗の巫女に退治されちゃいますよ!」

 

 だったら消し飛ばさない範囲なら良いか、と幽香は解釈した。自分を押さえられるかどうか分からないが、まあそうなったらそうなっただ。

 

「随分とおっかないこと聞きますね……。それを聞いたらなんだか胃のあたりがキリキリしてきましたよ」

「……胃痛に効果のある花を煎じたものでも教えましょうか? ……まあ、胃の中のモノを全部戻すくらい苦いけど」

「それ意味無くないですか!?」

 

 良薬は口に苦しという。しかし、今から行う行動が、あの妖怪の『良薬』になるかどうかは分からないが。

 しばらく歩いていると、文が「ここです」と言って立ち止った。

 

「一応、私は空から監視させてもらいます。何かあったら博麗の巫女を呼びに行かなくてはいけないので」

 

 言外に忠告をしているのだろう。それくらいは分かっているつもりだ。

 

「……ええ」

「……それでは」

 

 文はそう言って翼をはためかせ、飛び立った。

 森の中は月明かりが届かず、薄暗い。そして不気味なほどに山は静まり返っている。

 そのまま歩を進めるともぞりと動く影があった。

 

「……誰だ、オレの眠りを邪魔するヤツは」

 

 ドシ、ドシ、と足音を響かせながらその妖怪は振り返った。そして自分よりも小さな幽香を見つけると僅かに驚いたが下衆な笑みを浮かべていた。

 

「ほう……。山菜でも採りに来て道に迷ったのか? こんな妖怪だらけの山に来るなんて、余程のバカなんだろうな」

「……」

 

 耳障りな声が幽香の鼓膜を揺らす。それだけで幽香の内側から激情はふつふつと込み上げて来る。

 

「そう言えば……だいぶ前に人間の小娘が沢に来て何かしてたな」

 

 ギリッ、と日傘を握る力が強くなる。

 

「人間なんて弱いだけで醜い……。まあ、仕方ないだろうな」

 

 妖怪は心底小馬鹿にしたような笑い声をあげながら

 

「所詮はオレたち妖怪のエサでしかないんだからな」

 

 そう、言った。

 

「……」

 

 幽香から感情の全てが消えた。女性の歩幅で幽香は、その妖怪に近づく。

 

「この前の娘は惜しかったな……。まだ若ぇが、それなりに食い応えのありそうな感じだったんだが……。あの時、河童が邪魔しなければすぐに食えたんだがな」

 

 妖怪は惜しむように言い、舌舐めずりをした。

 

「そう言えば、あの人間……なんか言ってたな」

 

 妖怪はアゴに手を当てながら思い出そうとしていた。うんうん唸っていると、「ああ、そうだそうだ」と手を叩いた。

 

 

 

 

 

「おかあちゃんにお花をあげるの、だったっけ」

 

 

 

 

 

 トン、と軽い音が聞こえた。数秒後には何か巨大なモノが落ちる音と、「ぎぃぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!?」という絶叫が森を揺らした。

 

「ぐ……ぅぁ…………ああアアぁあアあ……ッ」

 

 妖怪は苦悶の表情を浮かべながら幽香を睨みつけた。

 

「てめぇ……ッ。よくも、良くもオレの腕を……ッ」

 

 体中からは汗を。右肩からは血を噴き出しながら妖怪は叫んだ。

 

「……腕が一本なくなったくらいでぎゃあぎゃあ五月蠅いわよ」

 

 日傘の先に光が集まる。そして幽香は落ちていた肉塊に標準を合わせると光線を放った。ジュッ、と肉が焼ける音と焦げ臭いニオイが辺りに充満する。

 

「……あら、焼き過ぎちゃったかしら。これじゃあ犬も食わないわね」

 

 日傘を叩きつけると、炭化した腕だったモノは容易に砕け散った。パラパラと辺りに炭を巻き散らかし、それは消えた。

 

「許さねぇ! てめぇは絶対に許さねぇ! 生きたまま内臓引きずり出して妖怪の巣窟に放置してやる! 殺す一歩手前でボコボコにして木のてっぺんに括りつけてやる!」

 

 それはいつぞや幽香が言ったセリフに似ていた。

 ブチブチブチィ、と筋肉の繊維が切れる音が聞こえそうなほど、幽香は壮絶な笑みを浮かべた。幽香の目からはハイライトが消え、不自然なほどに瞳孔が大きくなっていた。髪の毛の数本が口に入っていたが、そんなことはどうでもよかった。カクン、と首が傾いた。

 

「……許さない? ……格下のクセに、大きく出たものね。……さっきの右腕みたいになりたい?」

 

 妖怪は「うがぁぁぁあああああああッ」と叫びながら残っていた左腕を鞭のようにしならせながら振るってきた。

 ズドンッ!! と辺りに衝撃音が響く。幽香に剛腕がぶつかったのだが、幽香はそこから一ミリも動いていなかった。

 幽香のその細い腕に、丸太のように太い剛腕が受け止められていた。

 

「て、てめぇ……何モンだ!? このオレの腕を防げる人間なんて……ッ!?」

「きひ、きひひ、きひひひひひひひひひひひひっ」

 

 妖怪は足から無数の虫が這い上がって来る、嫌な錯覚を感じていた。目の前の存在は自分よりも遥かに強い存在。今さらになってそれを理解したのだ。

 ゾクゾクゾクッ、と薄気味の悪い恐怖がまとわりついて来る。

 

「く、クソっ……」

 

 妖怪は幽香に背を向けて駆けだした。しかし、鈍重な妖怪に追いつけないほど幽香は遅くない。

 

「……どこに行こうとしているのかしら?」

「!?」

 

 目の前には化け物がいた。

 カウンターの要領で幽香の拳が妖怪の顔面に叩きこまれる。ゴキゴキゴキィッと骨の砕ける感覚が幽香の腕を伝って来た。

 

「げばぁっ!?」

 

 鼻の骨が折れたらしい。鷲鼻は左に折れ曲がり、両方の鼻の穴からはダラダラと血が流れ出ていた。妖怪はもんどりうって木に激突する。しかし、激突の衝撃が強かったせいか、大木は根元から圧し折れてしまった。

 ズズン……と倒木の音が鈍く森にこだました。妖怪は「痛てぇ……痛てぇよ……」と言いながら鼻を押さえていた。

 ザリッ、と靴が地面を舐める音が聞こえ妖怪は肩をすくませた。視線の先には左右に揺れながら近づいて来る幽香の姿があった。

 

「……ッ。オレがてめぇに何したって言うんだよ!?」

 

 妖怪の鼻声が辺りに響く。

 

「てめぇ、山の妖怪じゃねぇな!? 余所モンが勝手なことしてんじゃねぇぞ!? お前がいくら強かろうと、山での勝手は許されねぇ! このことが天狗どもにバレたら、お前は袋叩きだぞッ!」

 

 妖怪の山のヒエラルキーの上位に存在する天狗。自分の縄張りで、そこに住まう者が攻撃されたとなれば襲撃者を粛正するだろう、と妖怪は判断したのだ。

 

「はは、はははははっ! そうだよ、なにをビビってんだオレは!」

「……本当に、無知で救いようのない憐れな虫けらね。……私がその程度で怯むと思っているのかしら? ……そもそも、その天狗から許可を貰っているのよ、私?」

「う、嘘ついてんじゃねぇよ! そんなこと、あるわけ――」

「……だったら、これだけ派手にドンパチやってるのに、なぜ一向に天狗はやって来ないのかしら?」

 

 幽香がそう言うと、妖怪の顔が青ざめて行く。

 

「……マジ、なのかよ……」

 

 天狗からの庇護のない妖怪など、恐るるに足りない。庇護があったとしても、天狗に後れをとることはないが。

 幽香はゆらりと妖怪に近づく。妖怪は恐怖で足がすくんでしまったのか、その場でじたばたするだけだった。

 

「お、おいお前……オレを殺すつもりなのか……?」

 

 答えない。

 

「オレが何したって言うんだよ!? 人間を襲っただけじゃねぇか!? お前だって妖怪なら人を襲ったことくらいあるだろう!?」

 

 答えない。

 

「妖怪が人間を襲う! これがここでのルールのハズだ! それを守っただけなのに、なんで殺されなくちゃならねぇんだよ!?」

 

 妖怪を間近で見下ろす距離まで近寄ると、日傘を閉じ、鋭利な先を妖怪に向ける。

 

「なんでだよ……なんでだよ!?」

 

 妖怪は目に涙を浮かべながら叫んだ。

 

 

 

 

 

「別に人間なんて殺したって構わないだろう!?」

 

 

 

 

 

 決定的だった。

 この妖怪は自分が行った罪深さをまるで理解していない。どれだけの大罪を犯したのかも、分かっていない。

 こんな虫よりも役に立たない妖怪など、滅ぼしても誰も文句を言わないだろう。

 

「死ね、虫けらが」

 

 日傘を持つ手を限界まで引き、妖怪の心臓を目がけて突き出した。

 

 

 

 

 

 

 

――どんな小さな虫もいっしょーけんめー生きてるんだから殺しちゃダメって

 

 

 

 

 

 

 

 少女が、そこに、見えた。

 ビタァッ!! と日傘は妖怪の皮膚に触れる直前に止まった。

 妖怪はガタガタ震えながら不思議そうに幽香を見上げていた。対する幽香も、ガタガタと震えていた。

 殺したいのに殺せない。そんな葛藤に苛まされているように見えた。

 

「……なんで、止めた?」

 

 妖怪が問いかけると、幽香は「はっ」と鼻で笑った。

 

「……止めたんじゃないわ。……止められたのよ」

 

 妖怪は怪訝な表情を浮かべていた。

 

「……私はアンタを殺したくてたまらない。……この胸に宿る『憎しみ』を晴らすには……。仇であるアンタを殺すほかない。……それで復讐は終わる。……そのハズなのに……。……アンタは生きる価値も無い虫けら同然の存在なのに。……私の大切なモノを奪った、憎むべき相手なのに」

 

 ギリッ、と奥歯を噛み、幽香は眉をハの字にしながら言った。

 

 

 

 

 

「それでも、アンタにだって『命』があるんだもの……ッ」

 

 

 

 

 

 どんな小さな虫もいっしょーけんめー生きてるんだから殺しちゃダメって。

 少女の言葉が幽香を留まらせた。『憎しみ』に囚われていた幽香の手を引っ張って、立ち止まらせた。

 幽香はあの少女に教えられたのだ。

 

「アンタはあの子を殺した。その事実は変わらない。でも……アンタを殺したところで、あの子は、もう、戻って来ない……っ」

 

 あの太陽よりも眩しい笑みは。愛くるしい笑みは。

 なによりも。

 幽香の愛した少女は、生き返らない。

 失った命は、蘇らない。

 

「失ったモノは返って来ない……ッ。アンタを殺しても、あの子は返って来ないッ!!」

 

 ダンッ!! と地面を踏みならすと、そこから蜘蛛の巣のように地面にヒビが入った。

 

「例え妖怪が人間を襲うのがここのルールだとしても! それが妖怪の本来あるべき姿だったとしても! でも! それでも!」

 

 幽香の瞳から、温かな雫がこぼれた。

 

 

 

 

 

「あの子を殺していい理由にはならないのよッッ!!」

 

 

 

 

 

 この夏を通して。四日と言う短い期間だったが、幽香は学んだのだ。

 

 

 

 

 

『愛』を。『命』を。

 そして『本当の愛情』を。

 

 

 

 

 

 少女がいたからこそ幽香は『憎しみ』に囚われなかった。少女は幽香に『愛』の素晴らしさを、『命』の尊さを、教えてくれたのだ。

 その小さな命が、幽香を導いたのだ。

『憎しみ』の先にある『本当の愛情』に、辿り着かせてくれたのだ。

 ああ、世界はこんなにも残酷で、冷酷だ。大切なモノを奪われる理不尽や、それによって苛まされる不条理に満ち溢れている。

 しかし。

『本当の愛情』を知ったからこそ。『憎しみ』という枷を外したからこそ。

 幽香は、少女が愛した世界を、少女がいた世界を、少女と過ごした世界を。

 守りたかったのだ。ほかならぬ、幽香の手で。

 母を喪った少女は少なからず、母を殺したコイツを憎んだかもしれない。しかし少女はそれをおくびにも出さなかった。母の居ない世界を、受け入れていた。幼くして『本当の愛情』に辿り着いていたのだ。

『本当の愛情』とは、どんな理不尽に晒されても、どんな不条理に飲み込まれても。耐えがたい絶望を体験したとしても。心を引き裂かれる程の凄惨な痛みを味わったとしても。

 それら全てを受け入れ、その世界を愛そうという気持ちなのだ。

 幽香は少女と同じ真理に至ったのかもしれない。

 愛する存在を喪った時こそ、その者の『本当の愛情』が試されるのだ。

 

 

 

 

 

 守りたかったのだ。ほかならぬ、幽香の手で。

 母が子の世界を守って、何が悪いのだろうか。

 

 

 

 

 

「私はアンタを絶対に許さない。他の妖怪がアンタの行動を『当たり前のことだ』と言っても、私は断じて認めない。報復しに来たければ来るがいいわ。その時は、容赦しない」

 

 溢れんばかりの殺気を妖怪に浴びせる。妖怪は歯の根が合わないのか、カチカチと鳴らしながら震えていた。

 

「右腕と鼻のことは謝らないわよ。腕一本と鼻でチャラにしてあげるって言ってるんだから、泣いて悦びなさい。本当ならズタボロにして、全身の骨を一本も残らず粉砕して、生皮を全部剥ぎ取って、汚い花火として扱おうとしたんだけど……その程度で済んだんだもの。安い買い物でしょう?」

 

 幽香は震える妖怪の頭を掴み、自分の顔に近づけさせた。

 

「私の目が黒い内は、里の人間に手を出すんじゃないわよ」

 

 幽香の瞳の色は赤銅色だが、誰もその事にツッコむ者は居なかった。妖怪はボロボロと涙をこぼし、震える声で「わ、分かりました」と言った。

 

「誓える?」

「ち、誓います……。お、オレはもう……里の人間には、手を、出さない……」

「もし万が一、破ったとしたら……そうね」

 

 幽香は悪魔のような、サディストのような笑みを浮かべて問いかけた。

 

「生きたまま内臓を引きずり出されて放置されるのと、死ぬ一歩手前までボコボコにして木の天辺に縛り付けるの……どちらがお好みかしら?」

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 全てが終わり、幽香は空を飛びながら永遠亭へ向かっていた。

 

「私としては禿山になることを覚悟してたんですけどねえ」

 

 文はそう言いながら幽香の隣を飛んでいた。

 

「どういうことよ」

「いやあ、だってあれだけ病んでたんですよ? 原型が分からないくらいもうボッコボッコのタコ殴りにするとか、切断した自分の肉体を自分自身に食わせるとか、ワザと急所を外してねちねちと攻撃するとか……拷問をするのかと思ったんですけどね」

「あら、そういう方法もあったわね」

 

 やぶ蛇だった!? と文は戦慄していた。

 

「例えアンタが言った方法が思いついても、結局は殺せなかったでしょうね」

 

 どんな小さな虫もいっしょーけんめー生きてるんだから殺しちゃダメって。

 あの子は母親にそう言われて育って来た。だとしたら、母親である自分がその言葉に反することをしてはいけないだろう。

 その言葉を忘れない限り、幽香は無駄な殺生は出来ないだろう。元より、するつもりはないのだが。

 

「変わるもんですねえ」

 

 文はしみじみと呟いた。

 

「どうしたのよ、いきなり」

「いえ、人は……妖怪はこうも変われるものだと思いまして。価値観の違う存在と触れ合うと、その人の思考にもある程度の変容がもたらされるんですね」

 

 かつての幽香は人間を見下していた。かつての幽香は人間を守るだなんて考えてもいなかった。

 たった一人の少女と出会ったことで、幽香のアイデンティティは大きく変わったと言えるだろう。

 

「これを機に、アナタも心変わりしますか?」

「バカ言うんじゃないわよ」

 

 幽香はため息をつきながら言った。

 二人が永遠亭に辿り着くと、永琳と鈴仙が迎えてくれた。心なしか、二人の表情に暗い色は無い。

 

「おかえり」

 

 永琳がそう言って来るが、幽香は「ふん」と鼻を鳴らすだけだった。

 

「……その様子から判断するに、一線は越えなかったみたいね」

「案外、殺してスッキリしてるかもしれないわよ?」

「それは無いわね。だってアナタ、とても穏やかだもの」

「……」

 

 永琳は疑いもせずそう断言した。なんとなく悔しい。

 

「復讐を果たした人間は、得てして喪失感を漂わせるわ。目的を達成してしまったから、どうしていいのか分からずに呆然とするの。でも、アナタはその様子がない。……乗り越えた、と言っていいのかしら?」

 

 永琳は穏やかの声色で訊ねてきた。

 

「……ふん」

 

 と、幽香は鼻を鳴らすだけだった。

 

「波長を見る限りでは安定しています。この調子なら問題ないでしょう」

 

 鈴仙は波長を見る能力者だ。永琳は「そう」と言って頷いた。

 幽香は思い出したことがあり、鈴仙に視線を向けた。

 

「ねえ、大きいウサギ」

「私には鈴仙・優曇華院・イナバと言う名前があるのですが……」

 

 名前なんてどうでも良いわよ。幽香はそう言ったあと

 

 

 

 

 

「私の波長を元に戻しなさい」

 

 

 

 

 

 そう、続けた。

 

「出来ないとは言わせないわよ? まあ、出来なかったそこの医者に頼んで記憶を消す薬でも作ってもらうけど。私の考えが正しければ、今回私が陥ったのは、アンタの瞳力により相手に幻を見せる催眠術のようなもの。だとしたら、それが解けたとき、その時に体験した全てのモノを忘れるはずよ。全てとは言わず、その時に感じていた強い想いは消えるはず」

 

 夢の内容を忘れるが、夢を見たと言うことは覚えている。

 そう言った現象は万人が体験あることだろう。それを起きた状態で行うだけの話だ。

 幽香は『少女と過ごした四日間』の夢から覚めようとしているだけだ。

【少女】という夢を見たことは覚えているが、【少女に関する事柄】と言う内容を忘れる。

 それだけの、簡単な話。

 

「……考えを改めるつもりはないんですか?」

 

 あらかじめ予想していたのだろう。鈴仙は縋るような視線を向けて来る。

 

「ないわね」

「言葉が過ぎますけど……。アナタのような妖怪でも、人を想うことができるんです。その心を持ったまま、これからを過ごすと言うのは」

「……正直な話ね」

 

 幽香は鈴仙の言葉を遮って言った。

 

「辛いのよ……」

 

 その場に居た一同は口を噤んでいた。

 

「あの子が居ない……。あの子一人に対してこれだけの激しい感情を抱くのよ? これから先、それを何回繰り返せばいいの?」

 

 人を想ったがゆえに知った『愛』は、幽香には重すぎたのだ。

 

「こんな思いをするくらいなら、人間と関わりたくないわね。……こんな思いは、一度経験するだけで十分よ」

 

 有り体に言えば、幽香は臆病になっていた。

 愛しい存在を喪うことが、これほどまで恐ろしいと思ったことはなかった。

 

「アナタ達も、暴走する私を止めることができるのかしら?」

 

 今回はたまたま止まることが出来た。しかし、抵抗をするのであれば相手を無力化させるまで暴れるだろう。そうすることで、里の人間を傷付けることになったら元の木阿弥だ。何の意味も無い。

 

「そう言う意味も兼ねて、元に戻せって言ってるのよ」

「……」

 

 鈴仙はちらりと永琳を見遣った。永琳は逡巡した後、小さなため息をついた。

 

「元に戻してあげなさい」

「……お師匠様」

「この騒動の原因を作ったのは私……。けじめはつけないとね」

 

 永琳はそう言って肩をすくませた。

 

「でも、良いの?」

「なにがよ」

 

 永琳は悲しそうに眉根を寄せながら問いかけた。

 

 

 

 

 

「あの子のことを、あの子との思い出を……全部、忘れちゃうのかもしれないのよ?」

 

 

 

 

 

 たった四日だけの思い出。長い時間を過ごしてきた幽香だが、この四日間だけは、黄金よりも価値のある日々だったに違いない。幽香はそれを、捨てようとしているのだ。

 幽香は僅かに口角をあげながら

 

 

 

 

 

「時間が経てばどうせ忘れるわ。遅いか早いか……それだけの違いじゃなくて?」

 

 

 

 

 

 鈴仙の目尻に涙が溜まっていた。文は「あー、すいません、目にゴミが入りました」と言ってこちらに背を向けてしまった。永琳は、聖母の如き微笑みを浮かべていた。

 

「そういえば、ここに居ないヤツらはどうしたのよ」

「守矢の巫女は帰ったわ。てゐは……どこかで遊んでるんじゃないかしら? 姫様は疲れたらしくて既に寝ているわ。河童には少し頼みごとをしてるの」

 

 どうやら、各々のやることに戻ったようだ。ならば幽香も、戻ろう。

『風見幽香』に、戻るとしよう。

 鈴仙は目をごしごし擦ると「私の目を見てください」と言った。幽香は鈴仙の前に立ち、その瞳を覗いた。

 鈴仙の瞳に自分が写っている。

 その幽香の表情は、とても、優しげだった。

 

「いきます」

 

 鈴仙の瞳が紅く光る。【狂気の瞳】が発動したのだ。

 ズクンッ、と幽香の脳に衝撃が走る。

 ふらっ、と足元がおぼつかない。

 鈴仙にそのまましなだれかかるように、幽香は倒れた。

 ガラガラと音を立て、幽香の『記憶』が消えて行く。

 少女との一つ一つの思い出が、真砂のように滑り落ちて行く。

 幽香の瞳から一滴の涙が零れた。

 時計の針は丁度、午前零時を指し示していた。

 今日は、少女の、誕生日。

 不意に幽香は、少女の名前を一度も言っていないコトを思い出した。

 もう殆ど少女に関する『記憶』を失いながらも。

 薄れゆく意識の中。

 幽香はぼんやりと。

 まどろみに誘われながら。

 確か、少女の名前は

 

 

 

 

 

「ばいばい、――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幽香は、ひと夏の夢に。

 別れを、告げた。

 

 

 

 

 

 

 




 次話で最終話です。

 ではまた。

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