ではどうぞ。
既読の方もいらっしゃると思いますが、輝夜のセリフの一部を編集させていただきました。
少女の命が尽きるまで残り四日。
今日は沢まで来ていた。なんでも、この少女はあまり人里から遠くに出掛けたことが無いらしい。出掛けた先で大怪我を負ってしまえばそこで事切れてしまうからだろう。老いぼれに「人里から離れてはいけないよ。妖怪が出るからね」ときつく言われていたらしい。
「きれーっ」
初めて見るらしい沢に、少女ははしゃいでいた。幽香はそれを日傘をさしながら見守る。
本当なら同種である同年代の人間と遊んだ方がいいのかもしれない。しかし、あの少女は幽香に懐いてしまい、離れようとしなかった。
「……母親に依存していたのね」
幼くして父を失っているらしい少女は、父がどう言う存在であるか分からない。きっと彼女の中心は母親だったのだろう。
少女は水をぱしゃぱしゃしながら遊んでいた。
「あまりはしゃぐんじゃないわよ」
「うーんっ」
分かっているんだかいないんだか。幽香は小さく笑っていた。
ガサガサと背後で音が聞こえたので振り返ると、そこにはいつぞやの烏天狗が居た。
「あややや、見つかってしまいましたか」
「今日は空を飛んでいないみたいね」
「ええ。山の妖怪がヤンチャしてるらしくて、その身周りを兼ねているんです」
「山にはもう一、二匹の天狗が居たでしょう? そっちにやらせれば?」
「はたては『暑いからイヤだ』と言って引き籠り、椛は別の領域の見回りです」
どうやらちゃんと働いているのはあの真面目な白狼天狗だけらしい。
「まあ、ヤンチャしているヤツらを見つけたら教えてください。私には裁判権が与えられているので、私の一存で適当な罰を与えますから」
「襲いかかられたら返り討ちにしても良いかしら?」
「灸を据える程度にしておいて下さいよ?」
文はけたけた笑っていた。
「うみゃっ」
後ろから悲鳴と水しぶきの音が聞こえた。幽香は慌てて振り返った。
「どうしたの!?」
幽香は少女に駆けよって無事を確認する。
「ケガは無い、大丈夫?」
「あい……大丈夫です……。滑って転んだだけです」
幽香は「はぁ~……」とため息を吐き、眉尻をあげた。
「だからはしゃぐんじゃないって言ったでしょう!? 怪我したらどうするの!? アンタのところの婆が哀しむでしょうがッ!」
思いの外、声に怒気が含まれていた。少女はビクッと肩をすくませると涙目になりながら「ごぇんなしゃい」と謝った。とにかく、怪我がないだけでも良かった。
「まったく、心配させんじゃないわよ……」
幽香は「次は気をつけなさい」と言って少女から離れた。
岸のところでは文がポカンと口をあけながらこちらを見ていた。
「なによ」
「あ、いえ……。アナタ、本当にあの風見幽香ですか?」
「どう言う意味よ」
幽香はジト目を文に向けた。
「嗜虐愛好家、オーバーキラー、花に対するヤンデレ……。そう呼ばれているアナタが、ましてや人間を見下している節のあるアナタが……人間の子どもを叱るなんて……。それどころか『心配させるな』と言うなんて……。今日は雪でも降るんですか?」
どうやら妖怪の界隈ではそう呼ばれているらしい。自分がどう呼ばれているかなんてどうでも良い幽香はため息をついた。
「しかもあの娘にどれだけご執心なんですか。もう母性全開じゃないですか」
基本的に妖怪は子どもを作らない。寺子屋の教師や雑貨店の店主と言った例外も存在するが、妖怪は父にも母にもならない。文にそう言われようと、どこがどう母性全開なのかが分からない。そもそも、母性とはなんだろうか。
「あやややや、これはこれで面白い記事が書けそうですが……。許してくれます?」
「生きたまま内臓を引きずり出されて放置されるのと、死ぬ一歩手前までボコって木の天辺に縛り付けられる……。アナタはどちらがお好みかしら?」
「いやですねー、冗談に決まってるじゃないですかー」
文は冷や汗をだらだら流しながら笑っていた。
「さて、休憩はこれくらいにしておいて見回りに戻りますか。まあ、アナタが居ればあの人間の娘は大丈夫でしょう。任せましたよ」
それでは。文はそう言って藪の中へと消えて行った。
「……母性……」
幽香は母になった事は無い。妖怪である以上、子を作らないのだから当たり前のことだろう。自分はあの人間の娘の母親に似ているらしいが、所詮は『似ている』だけだ。その本人では無い。
幽香の胸中に、よく分からない感情が芽生え始めているコトは自覚している。果たしてそれは一体、何なのだろうか。
「……考えても仕方ないわね」
幽香は頭を振り、傍の岩に腰を下ろし、恐る恐る遊んでいる少女を見て苦笑いを浮かべた。どうやら、幽香が先ほど言った「気を付けなさい」を守っているらしい。
「おバカな子……」
自然と頬が緩んでいたことに、幽香自身も気づかなかった。
「あれ?」
振り返ると今度は河童が居た。
彼女の名前は河城にとり。妖怪の山に住むエンジニアらしい。良く分からない肩書だが、要は発明家か何かだろうと判断する。
「なによ」
「あー、いや……特に理由は無いんだけど……。アナタがここに居るのは珍しいな、と思って。って、あれ? あれって……」
にとりは目を凝らしながら川で遊ぶ少女を見ていた。
「人間の子どもかい!? 珍しいねえ!」
河童は臆病な妖怪だ。しかし、好奇心の強い妖怪でもある。彼女らは人間を『盟友』と呼び、親交を深めようとアレコレ試行錯誤しているらしいが、臆病であるため、その夢は叶わずにいるらしい。
「もしかして、アナタ……あの人間を狙って……?」
ガクガクブルブルと震える河童に「はっ」と鼻で笑った。
「この私がわざわざ格下を相手にすると思う?」
「……」
「説明は面倒だからしないけど、あの人間の娘のお守をしてるのよ」
「……」
疑わしげな視線を寄越して来るが、じろりと睨むとにとりは冷や汗を流した。
「ま、まあ、最近は山の妖怪が悪さしてるらしいからね。アナタくらいの強さを持つ妖怪がそばに居れば近寄って来ないだろうようん」
「アナタ、あの子と遊ばないの?」
幽香はなんとうは無しに問いかけると、にとりは「いやぁ」と照れていた。
「恥ずかしいじゃん?」
「このヘタレ」
なにが『盟友』だ。そんなんだから人間と打ち解けられないのだ。
「でも、人間が私たち河童の『盟友』であることには変わりないからね。何かあったら力を貸すし、人間の役に立つ物を作ろうと頑張っているよ」
「そのやる気を対人に回しなさい」
幽香は小さくため息をついた。
「それはそうとなにしに来たのよ」
「いや、少し木材を集めていてね。喉渇いたから水を飲みに来ただけだよ」
にとりはこそこそしながら沢に近づき、顔面を水に突っ込んでいた。
「ぷはぁっ。ごちそうさん。それじゃあ、私は材料集めに戻るよ」
にとりはそう言って森の中へと去って行った。
幽香は視線を少女へと戻し、その様子を微笑ましく眺めていた。
日もだいぶ傾いて来た頃、幽香は立ち上がった。
「そろそろ帰るわよ」
「あーいっ」
水遊びに厭き、傍の草むらで遊んでいた少女に呼びかける。草むらか妖怪が出てこないとも限らないのだが、幽香は辺りに殺気を飛ばしていたので大丈夫だろうと踏んでいた。幽香は名の知れた妖怪なのだ。そんじょそこらの妖怪では太刀打ちできない。
少女は立ち上がって歩き始めたが、何かを見つけたらしい。そこで立ち止まってしまった。
「? 何をしてるの、早くしなさい」
少女が来ているものだと思って歩き始めていた幽香は振り返り、再び呼びかける。少女は何かを迷っているようだったが、言い付けを守るために「わかった」と言って駆け寄ってきた。
「今日も楽しかった」
「そう」
手を繋ぎ、一緒に帰る。それはもう、日課になりつつあった。
少女の命が尽きるまで残り三日。
今日はどうやら『永遠亭』に行く日らしい。幽香は少女を抱えながら歩いていた。
「今日も暑いわね」
「あつーい」
蝉が騒がしく大合唱をしている。少女はふと、道に転がっている蝉の死骸に視線をやっていた。
「せみさん、うごかないよ?」
「寝てるのよ」
永遠に覚めない眠り。幽香は遠回しにそう言ったのだが、少女はその言葉をまんまの意味で受け取ったみたいだ。
「おきたらとぶかな?」
「……」
その純粋な質問に幽香は答えられない。そのまま歩を進める。
他愛の無い話をしながら『永遠亭』に辿り着く。少女は鈴仙に預け、自分は呼ばれるまでぶらぶらと歩いていた。
ふと庭に目を向けると、このクソ暑い中、十二単を身につけた黒髪の少女がいた。
「あれは、確か……」
蓬莱山輝夜と言ったか。『永遠亭』の者が姫様を呼称する少女だ。なんでも、月からこの地に逃げて来たらしいが、詳しいことは知らないし、知ろうとも思わない。
幽香の視線に気がついたのか、輝夜は「あら」と口元に手をやった。
「珍しいわね。アナタのような妖怪がここに来るなんて」
「なんだっていいでしょ」
「妖怪でも罹る病があるのかしら?」
「それはあの医者に聞いてみたらどうかしら」
それもそうね。輝夜はそう言ってくすくす笑っていた。
「でも、どんな存在でも罹る病は知っているわ」
輝夜は幽香に視線を向けながら、意味深な笑みを浮かべながら言った。
「恋の病よ」
こちらが何も聞いていないのに輝夜はそう答えた。
「鯉の病? なに、あの半漁人みたいになるの?」
「ありがちな誤変換ありがとう。恋と言うよりは愛の病と言った方がいいかしら?」
愛の病。幽香は聞いたことがなかった。
「まあ、それは人それぞれ症状が異なるのだけれど。ある者は自分よりも遥かに年下の者を。ある者は同性を。またある者は別の種を。かつて、私に求愛をしてきた人間も、その病に侵され、死んでいったわ」
輝夜は庭から廊下の縁側へと歩み寄り、腰を下ろした。
「恋は盲目。この場合なら、愛は猛毒……といったところかしら。その毒に侵された者は、じわじわとその心を腐らせる。愛と言う名の毒が切れたとき、その者は凄絶な症状に苛まされる。その毒が、愛が……大切であれば大切である程、その病は治りにくくなる。その者が死んだあとも、残された者はその『想い』に苛まされる」
輝夜はこちらを見上げながら問うてきた。
「アナタはどうなの?」
「なにがよ」
「愛を知っているのかしら?」
「……知らないわ」
解らない、とは言わなかった。言えなかった。ここ数日で、幽香は『愛』が何なのか、ほんの少しわかった気がした。老婆が孫に向ける視線、言葉、態度、微笑み。それら全てが『愛』によるモノなんだと思ったからだ。だから、幽香のこの答えは一種の惚けに入る。
「知らないのなら結構」
その答えをどう受け取ったかは解らないが、輝夜は笑っていた。
「愛にも多くの種があるわ。純粋な愛、歪んだ愛、友の愛、親子の愛、男女の愛。妖怪や蓬莱人とは違って、脆くて弱い人間の僅かな人生で最も輝かしいと思える感情よ。人の営みとは、そう言うモノなのよ」
輝夜は訳知り顔で、悟った様な口調で語った。
「死んでも『愛』は語り継がれていくものなのよ。『愛』とは永遠で、一瞬なの」
「……理解できないわね」
幽香はそう答えた。輝夜はくすくす笑っていた。
「人は様々な物を忘れる。勿論、『愛』も。なんて悲しいのかしらね。それだけの感情を持っていたのにそれすらも忘れてしまうなんて。『愛』なんて、朽ちてしまうのよ」
この少女は一体、どんな体験をしてきたのだろうか。この少女は『愛』を向けたことがあるのだろうか。
「でも、『愛』とは諸刃の剣……。『愛』と『憎しみ』は、繋がっているのよ」
私とあの娘みたいに。と輝夜は言った。あの娘が誰を指しているか今一分からないが、どうせ教えるつもりもないのだろう。そんな笑みを浮かべていた。
「『愛』を奪ったモノを恨み、妬み、嫉み……殺したいと思う。『憎しみ』に囚われた心は癒されることはない」
ふと、輝夜の瞳に悲しげな――憐憫の感情が宿っていた。その瞳は一体、誰を写したのだろうか。
「『憎しみ』を癒す唯一の方法は……『本当の愛』を、知ること」
輝夜は幽香を見上げ、幽香の目を見ながら問いかける。
「『憎しみ』の先に、『本当の愛』があるんじゃなくて? ならば『憎しみ』を超克した時……人は、妖怪は……真の愛情を知れるんじゃないかしら?」
「知らないわよ、そんなこと」
幽香は輝夜から視線を逸らした。そんなもの、分からない。
「……アナタは多分、その欠片をもう持っているわ」
輝夜は不意に、そんな事を言った。輝夜は立ち上がり、廊下にあがるとそのまま消えて行った。幽香はそれを見送り、呆然と立ち尽くしていた。
「幽香さん」
ハッとして振り返ると、そこには鈴仙と少女がいた。
「検査終わりましたよ。こんなところで何をしてたんですか?」
「アンタんとこの姫にワケ分からないコトをずらずら聞かされてたのよ」
「ああ……」
鈴仙は何か納得がいったかのように頷いた。
「なんか最近、仙人みたいなことを言うようになったんですよね。悟りを開きたいんでしょうか?」
「だとしたらいち早く人里の仏門にでも入れてあげなさい。あの魔法使いも喜ぶんじゃなくて?」
狂喜乱舞しながら巻物を散らかし「なむさーーん」と言う様が容易に想像できる。
「そうでしょうか。それより、この子をよろしくお願いします」
少女は幽香に近づくと満面の笑みを浮かべた。
「さて、じゃあ帰りましょうか」
「あいっ」
幽香は少女の手を引いて『永遠亭』を後にした。
竹林の中を歩いていると、少女が自分の腕を見つめていた。
「どうかしたの?」
幽香が少女の視線の先に目を向けると、そこには一匹の蚊が止まっていた。
この少女は自分で血を造ることが出来ないのだ。ただでさえ外部から血を与えているくらいなのだから、多寡が蚊に吸われた量でも失ってはいけないだろう。
「ああ」
すっ、と叩き殺そうしたが、少女は「だめっ」と言って幽香を制した。少女に制され、面を喰らってしまった幽香はそのまま固まってしまった。
血を吸い終えたのか、蚊は少女の腕から去って行った。案の定、刺された個所は小さく膨れていた。
「なんで殺さなかったの?」
「おかあちゃんが言ってたの」
少女は腕をぽりぽり掻きながら
「どんな小さな虫もいっしょーけんめー生きてるんだから殺しちゃダメって」
幽香は目を見張った。
弱い人間がそれよりも弱い存在を思いやることは、幽香にとってはとても衝撃の大きなことだった。
ましてや蚊など、血を吸うだけに留まらず、病気の菌を運ぶ(永琳がそんな事を言っていた気がする)役割を担っている。下手をしたら死ぬ病気だってあるそうだ。そんな害悪をもたらすくらいなら殺してしまうのが普通だ。
それでも、この小さな少女はそんな殺生をしなかった。
大人の言うことを守れ。
きっとこの少女は母にそう言って育てられたのだろう。だから、母の言葉を信じている。
一寸の虫にも五分の魂。確かそんな言葉があったはずだ。
「かゆいけど、がまんすればいいの」
一通り掻いて治まったらしい。少女は微笑んでいた。
「おねいちゃんは、殺しちゃうの?」
そう問われ、幽香は視線を逸らす。
「……ええ。かゆいのはイヤだからね」
「でも、お薬を塗ればだいじょーぶだよ?」
「……それもそうね」
幽香はぷっくりふくれた少女の腕を見つめた。
「自分のモノを奪われるのは、釈然としないのよ。どうしても、奪った者に対してなにかしらの罰を与えたくなるの」
「痛い痛いするの?」
少女が問いかける。幽香は「そうね」と答えた。
「でも、そうね……。無益な殺生は……ダメよね」
幽香は花を間引く。きちんとしたモノを育てるうえでは仕方のない行為とはいえ、花からすれば「ここまで育ったのに殺されるのか」と言いたいだろう。それは果たして、無益と言えるのだろうか。
「花にも命がある……。間引いて記憶から消してしまった、忘れ去られた花の為にも、真摯に向きわないと……ダメよね」
「おねいちゃん?」
少女は首を傾げていた。幽香はそれを見下ろし「何でもないわよ」と言った。
「でも、覚えておきなさい」
幽香は少女の目を見ながら言った。
「失っても、また蘇るのよ」
間引いたとしても。忘れてしまっても。
種さえ残っていれば。きっかけさえ残っていれば。
何度だって、花は芽を出す。新たな命を芽吹かせる。
少女はポカンとしていたが、すぐに小さく頷いた。
「うん、忘れない。でも、血は吸われちゃった。戻してって言っても、無理だよね」
落胆するワケでもなく、少女はそう言った。
「おねいちゃん、帰ろう? ばあばが待ってる」
「……そうね」
幽香は少女に引っ張られる形になった。
蚊を殺しても、吸われた血は体内に戻らない。
殺しても失ったモノは返って来ない。
そう、言われた気がした。
少女の寿命まで残り二日。
幽香は少し用事があったので花畑に来ていた。
「さて、目的のモノを探さないとね」
幽香は辺りを捜索し始めた。
明朝、少女は鉢を幽香に得意げに見せてきた。鉢から花の芽が出ていたのだ。寝ぼけていたので種類までは分からないが、取りあえず道具は持って来た方が良いだろう思ったのだ。
「……これくらいでいいかしら」
一通りの道具を揃えた幽香は小さく頷いた。これだけあれば困ることはないだろう。
「あの人間の命も今日を入れて残り二日……」
明日は少女の誕生日。明日以降は、冷たくなっていることだろう。しかし、それは仕方の無いことだ。
死とは生まれた瞬間に誰もが平等に与えられるモノなのだ。最初のプレゼントが『死』とは生かすつもりがないのかもしれない。
「人間はやっぱり、弱いわね」
幽香のように強い妖怪には関係の無い問題だ。
「……持って行かないと。あの子は私が居ないとぐずりはじめるのだし」
幽香は微笑みながら道具を持ちあげた。
彼女は気付いていないが、少女への一人称が「人間」から「あの子」へと変わっていた。
人里に近づくと、妙に騒がしい。幽香は怪訝な顔をしながら辺りを見渡す。
「……」
妙な胸騒ぎがする。幽香は急いで少女の家へと向かった。
「邪魔するわ――」
「おお、そなたか!」
扉を開けると老婆が幽香に縋り付いてきた。
「なによ、どうしたのよ」
老婆は両目に涙を浮かべながら叫んだ。
「孫が消えてしまった!」
幽香から表情が、消えた。
「つい先ほどまではここに居たのに、少し目を離した隙に居なくなってしまった!」
ガタガタと震えながら老婆は喚く。
「どこかへ行く時は儂に言うようにと、あれほど言ったのに……っ」
嗚呼、と老婆は土間に崩れ落ちた。幽香は冷静に老婆の腕を掴み、引き上げる。
「捜して来るから、アンタは大人しく待ってなさい」
「し、しかし……っ」
「大人しく、してなさい」
凄味を利かせて言うと、老婆は小さく頷いた。幽香は荷物を置いて家を飛び出し、人里から少し離れたところで叫んだ。
「出てきなさい、居るんでしょう!?」
幽香の声が一体に響く。
「出てこないならこの辺一帯を焼け野原にするわよ!?」
そう叫ぶと、空間に裂け目が入った。そしてその中から「うるさいわよ」と声が聞こえた。
中からは一人の少女が現れた。
腰まである金髪をいくつかの房に分けて、房の先を赤いリボンで結んでいる。赤紫色の瞳はどこか眠たそうで、紫色のドレスを纏っていた。
彼女の名前は八雲紫。この『幻想郷』の賢者にして管理者だ。
幽香は彼女に食ってかかった。
「返しなさい!」
「なにを?」
「惚けるんじゃないわよ、人間の子どもよ! 里で居なくなったって騒ぎが出てる。どうせアンタが隠したんでしょう!?」
この少女は『境界を操る』能力を宿している。空間に裂け目を造り、その中に落としてしまうなど造作もない。
きっとこの女があの子を隠したに違いない。幽香はそう考えたのだが、当の紫は疑問符を浮かべていた。
「アナタ、何を言っているの?」
「良いから早く返しなさい!」
「私、この時期は暑いから動きたくないのよね。だから、仕事は専ら藍にやらせてるから、そんなこと知らないわ」
ふぁあ、と欠伸をしながら紫はそう言った。その態度が気に食わず、幽香は地面を踏みならした。
「良い加減にしなさい!」
「その言葉、アナタにそっくりそのまま返してあげるわ。人がせっかく気持ち良く寝ていたのに叩き起こされたのだから……。それに言い掛かりは止してちょうだい」
伸びをしながら言う紫に幽香は激しい怒りを覚える。
「アナタがそう怒るのは珍しいわね。なあに、花でも圧し折られたの?」
「……」
怒りは飛び越えると静かになるらしい。幽香は静かな殺気を放った。辺りに居た鳥がぎゃあぎゃあ言いながら飛び立つ。
「……私は何も知らないわ」
流石にまずいと思ったのだろう、紫はそう言った。
「ウソをつくんじゃないわよ」
「本当よ。人里で人が消えた? それでなんで私が犯人扱いされなくちゃいけないのかしら?」
「アンタの能力で――」
「私は『外』から『内』に招き入れるだけよ。なんで筋肉を骨の中に入れなくちゃいけないのかしら?」
紫の言い回しはとても分かりにくい。どこか斜に構えた口調の所為だからかもしれないが、彼女は「内側のモノをさらに内側に入れる意味が分からない」と言っているのだろう。彼女の言う『外』は『現世』であり、『内』は『幻想郷』のことだろう。『幻想郷』に居る人間を神隠しする意味は無い。
「アンタじゃないなら誰なのよ」
「知らないわよ。他の妖怪なんじゃないの?」
紫はぞんざいに言い放つ。
幽香はそこでハッとした。確か、てゐは「ここら辺で性質の悪い妖怪が出た」と言い、文は「ヤンチャしてる山の妖怪が居る」と言っていた。
だとしたら。
「邪魔したわね」
「アナタの尊大な態度に物申したいところだけど、見逃してあげるわ」
紫はそのまま消えた。
幽香は足に力を入れると飛び立った。そしてそのまま妖怪の山へと向かった。
妖怪の山の上空に滞空し、見下ろす。
「どこ……どこ……っ!?」
焦りが幽香の視野を狭める。視線は忙しなく少女らしき人影を探していた。太陽に近い所為か、熱波が強い。じりじりと肌を焦がし、体の水分を奪って行く。
「どこなの、一体どこにいるの……っ!?」
きょろきょろとあたりを見渡す。
ふと、沢のあたりで騒がしい一団を見つけた。遠目だからはっきり分からないが、河童らしき妖怪が大きな妖怪と戦っていた。
「相撲でもしてるの? でも……」
とりあえず、今は情報がほしい。幽香はそこへ降りることにした。
「なにしてるの」
「「っ」」
河童たちは「助かった」と言う表情を浮かべ、大きな妖怪は「ちっ」と舌打ちをすると森の中へ逃げて行った。
幽香はなんの妖怪かは分からなかったが、取りあえずその妖怪を覚えておくことにした。
「河童たち、聞きたいことがあるんだけど……」
「そうだよ! アナタ、この娘の知り合いだろう!?」
そう言って傷だらけのにとりは隠していた、守っていた物を見せる。
そこには血だらけの少女が横たわっていた。
幽香の、身体から、何かが、消えて行く。
「私が来た時にはすでにこうなってた。さっきの妖怪が止めを刺そうとしてたから、水をぶつけてこっちに気を逸らしたけど……仲間も呼んで、どうにか守りきったよ」
傷らだけの河童たちはへなへなと崩れ落ち、その場に尻餅をついていた。
「なんでこんな所に人間の娘がいるのか分からない。何か理由があるのかもしれないけど……。山の妖怪が悪さをしてるって、烏天狗は紙をばら撒いてたはずなんだけど……」
「あ、あ、あ……」
幽香の耳に、にとりの説明は届いていなかった。
日傘が手から滑り落ち、両手で頭をかきむしる。
目を限界まで見開き、眼球は僅かに血走る。
瞳孔がきゅーっと小さくなり、呼吸が浅くなる。
あレハ、なんダ? なンで、アんナに、あカいんだ?
「あ、あ、あ、あ……あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」
幽香の絶叫が山に響き渡る。あまりの大音声に、にとりたち河童は耳を塞いでいた。
「あややややっ、何の騒ぎですか!?」
「どうしたんですか!?」
幽香の絶叫を聞きつけ、文と早苗がやってきた。
「わ、わかんないっ! でも、アイツがあの人間の子を見たら急に……っ」
文も早苗も、血だらけの少女を見て瞠目した。この二人も、その少女には見覚えがあったのだ。
「まさか、あの時の人間の娘ですか……!?」
「ウソ、なんで……!?」
文も早苗もなぜこんなことになっているのか分からない。幽香はふらふらとした足取りで少女に近づく。そして自分の服が汚れるのも厭わず、血の海に伏した少女を抱きあげる。
「なんで、なんで……ッ!?」
少女を抱きしめると、僅かに拍動を感じ取った。
「……お、――……ちゃん……?」
少女が僅かに口を動かす。何を言ったかまでは聞き取れなかったが、少女は奇跡的に言葉を発していた。
(まだ、生きてる……ッ!)
幽香は立ち上がると、少女を抱きしめた。
「ちょっとアナタ、どこに行くつもりですか!?」
「うるさい! 黙ってて!」
あまりの剣幕に文は出しかけていた手を引っ込めた。
「この子はまだ生きてる。だったら、永遠亭に連れて行って月の医者に診せる!」
文はハッとした。
「それならば私の方が適任です! 私は『幻想郷』最速なんですから!」
そう言って文は幽香から少女を取ろうとしたが、幽香はその手を払った。
「なんで邪魔をするんですか!? 時は一刻を争うんですよ!?」
文は大声をあげながら幽香ににじり寄る。
そして幽香は奪われないように、取られないように守りながら叫んだ。
「この子は私が連れて行くッッ!!」
文は、早苗は、にとりたち河童は。
不意に、自分の子どもを守ろうとする野生の生き物を連想した。
自然界の動物は自分の子が傷付くと親が守ろうとする。近寄って来る敵には容赦することは無い。母は強し、なんて言葉があるように、自分の子を守ろうとする母親は、強い。
文は「そうですか」と言って退いた。
「ならば私は随伴させてもらいます。私の風の加護をこの子に!」
それならばいいだろう、と幽香は頷いた。
幽香と早苗は空を飛び永遠亭を目指す。
太陽の『暑さ』など気にならない。
それよりも『熱い』何かが、幽香の身体を駆け巡っていた。
永遠亭に着くと、てゐが「うわっ」と驚いていた。
「なんだいなんだいいきなり――って、なんだそりゃあ!?」
血だらけの少女を見ててゐは目を丸くしていた。
「てゐさん、八意先生は!?」
「ちょ、ちょっと待ってな!」
「待つワケ無いでしょう、このバカ!」
時は一刻を争うのだ。そんな悠長なことは言っていられない。
幽香は戸を蹴破り、土足のまま廊下を走る。
診察室らしき部屋に幽香は乱暴に入る。
「ちょっと何よ騒々しい――」
診察をしていたらしい永琳は眉をひそめていたが、幽香が血まみれの少女を抱きしめているのを見ると言葉を失っていた。
「お願い、この子を……この子を……ッ」
幽香が「お願い」と言う所を、誰もが初めて聞いた。しかし、逼迫した様子の幽香はそんなことにかまかけて居られない。
「この子を助けてッッ!!」
泣きそうな表情を浮かべ、幽香は叫んだ。永琳は診察していた患者に「急患が入りましたので」と言って立ち上がった。
「てゐ! ウドンゲを呼んで来て!」
「鈴仙は里の方に薬を渡しに出払ってる! 今ウサギを使いに出したけど、戻って来るにはまだ時間がかかる!」
ちっ、と永琳は舌打ちをした。
「私に何か手伝えることはありませんか!?」
早苗は自分の胸に手を当てながら問いかける。永琳は何か言おうとしたが、一瞬だけ口を噤むと頷いた。
「てゐ、守矢の巫女、一緒に来て」
「「はいっ」」
「お嬢ちゃん、貸して」
幽香は渡す事を拒もうとしたが、ここでぐずってはダメだと思い、少女を永琳に手渡した。
「行くわよ」
永琳はてゐと早苗を連れて廊下に出た。
「輝夜、力を貸して!」
なぜそこで輝夜の力が必要になるのか分からないが、永琳がそう言うのだ。何か考えがあるのだろう。
「わ、私に何かできることは……っ!?」
憔悴した様子の幽香が問いかけるも、永琳は小さく首を横に振った。
「アナタは十分役目を果たした。だから、今は休んでて」
「……」
遠回しの戦力外通告に、幽香は言葉を発することが出来なかった。
去っていく永琳たちを見送り、幽香はダンッ!! と机を叩いた。あまりの衝撃に机が真っ二つになってしまい、イスに座っていた患者は「ひぃっ!?」と悲鳴をあげて腰を抜かしていた。
「……ッ」
強いだけでは何もできない。
幽香は初めて、自分の『弱さ』を呪った。
永遠の時間とはこういうことを言うのかもしれない。
永琳が手術を初めて相当の時間が掛かっている。使いのウサギが鈴仙を連れてきて、鈴仙は息切れをしながらも手術室へと入って行った。
ただ時間だけが過ぎて行き、幽香は何度も少女が入って行った部屋を見ていた。
日もとっぷりと暮れ、夕暮れの帳が降りはじめていた。
ガラッ、と扉が開いた。
「ッ」
幽香は顔をあげてそちらを見た。そこには浮かない顔をした永琳たちの姿があった。
「……助かったの?」
「「「……」」」
誰も何も言わない。
「助かったの?」
誰も何も言わない。
「助かったのッ!?」
誰も、何も言わない。
「……まさか」
想定しうる最悪の想像を問いかけた。
「死んだ……の?」
永琳は何も言わず瞼を下ろした。
幽香は永琳の胸倉を掴むとダンッ!! と壁に叩きつけた。いきなりの行動に他の四人は目を丸くしていた。
「どうして……ッ」
幽香の頬を、伝う何かがあった。
「どうして助けてくれなかったのよッッ!?」
それは止め処も無く溢れ、幽香の頬を濡らしていく。
「アンタは医者でしょ!? あの月からやってきた、天才なんだろう!? 私みたいな妖怪じゃ手も足も出ないくらい、頭がキレるんでしょう!? その頭で、作った薬で!! 多くの人間を救ってきたんでしょう!? なのに、なのになんで……ッ!?」
幽香は、叫んだ。
「なんであの子を救えなかったのよぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!?」
その叫びに、早苗は大粒の涙を零した。
その叫びに、鈴仙は悔しそうな顔を背けた。
その叫びに、てゐは静かに目を閉じた。
その叫びに、輝夜は読めない表情で耳を傾けていた。
「なんでなのよ!? なんであの子がこんな目に遭わなくちゃならないのよ!? あの子はまだ九つなのよ!? 明日、一○になる誕生日を迎えるはずだったのに……ッ! どうしてなのよ!? 答えなさい、永遠亭の医者!!」
ボロボロと涙をこぼしながら幽香は問い詰める。永琳は努めて冷静に口を動かした。
「保っても明日までの命。遅いか早いかの違いよ」
ガッ! と永琳の顔面に拳を叩きこむ。
「そんなことはどうでも良いわよ!! アンタは何でも治せる医者なんでしょう!?」
「私は何でもは治せないわ。病気や怪我なら治せるけど」
「じゃあ治しなさいよ!!」
ゴッ! ともう一度拳を叩きこんだ。
「……言ったはずよ。あの娘は自分で血を造れない」
「だから何よ!?」
「手術を知らないアナタに教えてあげるけど――」
永琳はいつもの口調で告げる。
「手術にはあの娘に合う型の血液が必要なの」
それが一体どうしたと言うのだろうか。以前来た時、輸血とか言うヤツをしていたじゃないか。
「アレはあの子自身の血。血が造れないと言ったけど、全くと言うワケでは無い。微々たる量の血を抜き取って、いざという時の為に備えていたの。とても手術を賄えるほどの量は採れないわ」
分からない? と視線で訴えて来る。
「血が足りないと、あの娘に手術なんて出来ないのよ」
それじゃあ、一体、何のために、少女を幽香から取り上げたと言うのだろうか。
期待させておいて結果は最悪。
「……なんなのよ、もう……」
幽香の声からは怒りすら消えていた。
「あの子は何で、死ななくちゃいけなかったのよ……。あの子が何をしたって言うのよ……。……返してよ」
縋るように、幽香は言った。
「あの子を、返してよ……ッ!?」
その姿は。
我が子の死を受け止める事の出来ない。
『母親』のようだった。
永琳は何も答えず、瞼を下ろすだけだった。
「幽、香さん……」
涙を流しながら早苗が近づいてきた。
「あの子がなんで……あんな、妖怪が出て来るところに居たか……分かりますか?」
そんなの、分かるワケが無い。
「……あの子、これを、握っていたんです」
そう言って早苗が差し出してきたのはいくつかの植物――とある花だった。
「……!?」
幽香はそれを見て絶句した。
「……これ、何て言う花なんですか? とても綺麗で……」
所々赤い斑模様があるが、それを差し引いても綺麗な花だった。
まさか、あの娘はこれを取って来るためだけに!?
幽香の目から滂沱の涙があふれる。
「あ、あ、あ……あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」
幽香はそれをむしり取り、胸に抱き寄せて泣いた。何度も何度も嗚咽を繰り返し、あのプライドの高い幽香が醜態をさらしていた。
なぜこんなバカなことを!! あれほど心配をさせるなと言ったのに!!
そう叫びたくても、ろれつの回らない舌では何を言っているのか分からない。
なぜ少女はこんな花を取りに行ったのだろうか。山に行ったと言うことは、見かけたと言うことだ。確かに山に水遊びをしに向かったが、そんな暇はなかったはずだ。
ふと、幽香は思い出す。
確かあれは帰る頃だったはずだ。あの時少女は何かを見ていた。
もしかしたらあの時に見つけたのではないだろうか。そして、何か理由があって取りに行ったのだ。
「バカじゃないの!?」
幽香のその叫びに、皆は肩をすくませた。
「どれだけ私を振り回せば気が済むのよ!? どれだけ私に心配をかけるのよ!? 大人の言うことをちゃんと聞きなさいよッ!!」
今となっては叱る相手が居ない。それは幽香の、ただの独り言だ。
「やっと花の芽が出たじゃない! やっと宿題が出来るじゃない! アンタ、あれだけ楽しみにしてたじゃない! 花を育てる約束をしたじゃない! 道具だって持って来たのよ!? なのにどうして……っ!?」
幽香は胸に抱き寄せたそれらを見遣った。
忍冬――花言葉は『愛の絆』
酸葉――花言葉は『親愛の情』
銭葵――花言葉は『母の愛』
どれもこれも、『愛』に満ちた花たちだ。
「バカじゃないの!?」
幽香の叫びが永遠亭に響き渡る。幽香はうずくまり、泣き喚いた。
その姿は誰がどう見ても、『母親』のそれだった。
幽香は今になって理解した。
あの時に――星々に問いかけた時の答えを、理解した。
風見幽香という妖怪は、人間の娘に情を移し。
我が子のように、愛していたのだ。
初めての喪失感は幽香を苛ませた。
流石の永琳も、これを治す手段は分からない。
なぜなら。
永遠に生きる薬を作ることは出来ても。
愛の病を治せる薬など、作れないのだから。
「……」
幽香は虚ろな目で三つの植物を見つめていた。そんな姿は見ていて痛々しい。
「……正直なところ、意外だったわ」
壁に背を預け、腕を組みながら幽香を見ていた永琳が呟く。
「アナタがこんなにも、愛情深い妖怪だとは思ってもみなかった」
「……」
「アナタが過度に人間を見下すのは、そう言う本能を隠そうと言う、自己防衛が働いているのかもしれないわね」
幽香はちらりと永琳を見たが、すぐに花々に視線を戻した。あの子の遺品となった花を、いつまでも見つめる。
「だからこそ謝るわ。ごめんなさいね」
永琳は一体、何に謝っているのだろうか。側に居た鈴仙までもが申し訳なさそうにしている。
「私はアナタに細工をしたの」
「……」
「覚えている? アナタ、ウドンゲと目を合わせたと思うのだけれど」
覚えていると言えば覚えている。永琳と何か内緒話をしている時と、土足で廊下を歩いた時に、幽香は鈴仙と目を合わせていた。
「……私の『狂気を操る』能力は、目を合わせることで効果を発揮します」
彼女の瞳が僅かに発光する。
「私の【狂気の瞳】に魅入られた者は例外なく、効果を発現させます」
彼女の能力はを簡単に説明するなら『波長を操作する』だ。怒っている人間に静かな波長をぶつけることで怒りを鎮め、泣いている人間に楽しい波長をぶつけることで泣きやませる。それとは反対の波長をぶつけることで対消滅を起こし、元の波長を無かったことにする能力だ。
「私はウドンゲに頼んで、アナタに術をかけたの。人間に対する壁を取り払う術を」
鈴仙は幽香の『人に対する壁』の波長に、反対のベクトルの波長をぶつけることでそれを無くしたのだ。
だからか。と幽香は納得していた。
この自分があっさりと情に絆された理由は、鈴仙の能力によるモノだったのだ。
「勘違いをしないでください」
鈴仙は否定するように言う。
「確かに私はアナタに術をかけました。しかしそれは、あくまで壁を取り払うだけ。それから先の感情は、アナタのモノです」
アナタの偽りの無いモノです。鈴仙はそう言った。
「本来愛情深いアナタは、あの子と関わることで『深い愛情』を知ってしまった。だから、アナタは今もこうして途方に暮れている。アナタを捻じ曲げてしまった。少しでも人間に対して友好的な態度になれば良いと思っていた、浅はかな私の所為よ」
「お師匠様の所為じゃないです。それを咎めなかった弟子の私の所為です」
「……どうでも、いいわよ」
掠れた声が永琳と鈴仙の耳朶を打つ。
「どちらにせよ、あの子は明後日には死んでいた……。アンタの言う通り、遅いか早いかの違いだけ……。滑稽ね、私……」
じわり、と目尻に涙が浮かぶ。
「何がどうあれ、もう少しあの子に優しくしてあげればよかった。けちけちせず、沢山の花をあげればよかった。もっともっと、遊んであげればよかった。もっともっと」
愛してあげればよかった。
一滴の涙が頬を伝う。
「でも、でもせめて……せめて……一○歳に……してあげたかった……ッ! だって、そうでしょう!?」
幽香は顔をあげて叫んだ。
「あの子の今の母親は私なんだから!!」
幽香は、認めた。
少女の母親は自分であると、人間の、他種族の、自分よりも遥かに幼い子どもの、母であることを。
「似てたとか似てないとか、そんなんじゃない! あの子が母親だと思ったら、私はあの子の母親なのよ! 自分がそうだと思ったら、私はあの子の母親なのよ! 自分の子どもを愛して何が悪いの!?」
少女と幽香の間に血のつながりなどない。出会ってたったの四日しか経っていないが、時間など些細な問題だ。
問題は、当人同士がどう思っているか。それだけで幽香は『母親』になれるのだ。
「自分の胎を痛めて産んだワケでも、赤子の時から育てたワケでもないけど……。それでも、あの子は私の、子どもなのよ……」
少女が取ってきた花たちは、それぞれが親子に関係する、もしくはそれに準ずる関係の意味の花言葉を持っている。少女は幽香のことを母親だと認めていたのだ。
幽香が意地を張って認めなかったが為に、最悪の結末を迎えてしまった。
「ただの一度も、抱き締めてあげられなかった。ただの一度も、名前を呼んであげられなかった……」
幽香はそれを後悔していた。母親であるならば、名前を呼ぶくらい普通のことなのに。
永琳と鈴仙は静かに目を閉じていた。
そこへ
「お邪魔しますよ」
「おいっす」
入ってきたのは文とにとりだった。
「話は先ほど守矢の巫女から聞かせてもらいました。……なんて言えば良いか分かりませんが、幽香さん……」
「……記事にしたければすれば良いわ。こんな滑稽な私……もう二度と見れないわよ」
ふざけないでください。思いの外、文の声は真剣だった。
「私のモットーは『清く正しく』です。絶望を味わっているアナタを記事にするほど、私は落ちぶれちゃいません。そしてアナタに、一つ情報を渡したいと思います。ロハで結構です」
「おい天狗、本気なのか?」
文はゴソゴソと何かを探っている。にとりは文の正気を疑うかのような声色だった。
「これを」
文はそう言って一枚の写真を手渡してきた。
「そこに写っているのは、仇です」
幽香は大きく目を見開き、その写真を引っ手繰った。
そこに写されているのは幽香の身長の倍はありそうで、横幅もそれなりで、体重に至っては倍じゃ利かなさそうな巨漢の妖怪だった。その妖怪に、幽香は見覚えがあった。
「……あの時の、妖怪……ッ」
にとりたちが必死に戦っていた。少女の命を奪った。
憎むべき仇敵。
先ほどまでは死人のような目だった幽香だが、その瞳にはギラついた『何か』が灯っていた。
「河童たちから聞いた風貌と、この河童を連れて確認しました。間違いなく、その妖怪だそうです」
「……」
幽香は穴が開くほど写真を睨みつけた。
「他にも山の妖怪や人間たちにも聞いて回ると、少しヤンチャが過ぎる件がちらほら出てきましてね。里の人間の証言によると、数年前に里の人間を襲い、とある女性が喰い殺されたそうです」
ドクンッ、と幽香の心臓が強く鳴った。
その話は聞いたことがある。あの老いぼれが、言っていた。
「……」
この妖怪は。
あの少女だけではなく。
その実の母親をも、殺していたのだ。
グシャッ、と写真を握りつぶす。
「「「……」」」
その場に居た誰もが言葉を発することが出来なかった。
なぜなら。
気を抜いたら幽香の放つ殺気で気絶しそうだったのだ。
あの永琳までもがそう思うくらいだったのだから、今の幽香はこの場の誰よりも強いのだろう。
幽香から放たれている殺気は尋常じゃなく、キシキシと床や壁、天井までをも軋ませるほどのものだった。
「……私は山の妖怪に対する裁判権を持っています」
そんな中、文は喉に強い渇きを覚えながら声をだした。心なしか、声がかすれている様な気がする。
「私はその裁判権を今回限り……アナタに譲渡したいと思っています」
幽香はゆっくりと、文へ視線を向けた。
血走った憎しみ一色の瞳に射抜かれ、文はごくりと粘ついた唾液を嚥下した。
「……アナタはこれから、どうしますか?」
「……それは、質問のつもり?」
ゾワリッ、と文の背筋は凍りつく。にとりはガクガクと身体を震わせ、鈴仙は永琳の陰に隠れていた。永琳の額には一筋の汗が流れていた。
「……そう言えば、アンタのとこの姫と風祝と小さいウサギはどこにいるの?」
今になってこの場に居ない三人を思い出す。その質問に答えたのは永琳だった。
「少し頼みごとをしているわ。上手くいけば全てをひっくりかえせる」
永琳が何を企んでいるかは知らない。興味も無い。
幽香はゆらりと立ち上がった。そしてそのまま文の前まで歩むと、グシャグシャになった写真を見せながら問いかけた。
「……こいつが居る場所、分かる?」
「え、ええ……」
「……案内しなさい」
有無を言わせない、強烈な圧力を浴びせる。文はただ頷くことしか出来なかった。
「……行くわよ」
幽香は静かな口調でそう言った。幽香が歩くと自然と道が作られた。その道を歩き、幽香は玄関を目指す。
「復讐なんてやめておきなさい」
そう釘を刺したのは永琳だ。
「……」
幽香は非常に緩慢な動きで振り返った。
「『憎しみ』に囚われた復讐はなにも生まないわよ。私は大昔から続き、今も終わらない悲劇を見ているわ」
「……はっ」
幽香は鼻で笑った。
「……復讐? ……そんな大それたものじゃないわ」
幽香は正面を向き、恐ろしいまでの声色で言った。
「これは我が子を殺された『母親』の、ささやかな仕返しよ」
次回、動きます。
ではまた。
前書きにも書かせていただきましたが、輝夜のセリフの一部を編集させていただきました。
それが後に大きな意味を持つので……。