ではどうぞ。
ちょろちょろと鬱陶しい。最初に抱いた感想がそれだった。
大人と子どもだと歩幅が違うことを理解していない幽香にとっては、少女が自分の周りでばたばたと忙しなく足を動かしている感じがうるさくて仕方なかった。
「はぁ……はぁ……」
おまけに息切れまでしている。この程度で音を上げる人間の脆弱さが煩わしい。
「……ちょっと」
あまりにもうるさいので幽香は振り返って言った。
「もう少し静かにできないの?」
「ご、ごめんなさい……」
少女は滝のように汗をだらだらと流しながら謝っていた。幽香は知る由もないだろうが、その構図は『自分の子どもにさほど興味も無い親』に見える。
「まったく、これだから子どもは……」
幽香はこれ見よがしにため息をついた。
「ごめんなさい、おねいちゃん。私、生まれつき身体が弱いから……」
少女は申し訳なさそうに、俯きながらそう言った。
「アンタの身体の事情なんてどうでも良いわよ」
「……」
「さっさと行くわよ」
「……ぁい」
少女は何も言わず、幽香の後を追いかけた。
途中途中で小休憩を挟みつつ、幽香たちは竹林を抜けた。竹林から出るとあり得ないほどの熱波が幽香たちを出迎えてくれた。
「……」
むわっ、とくる空気に顔をしかめ、幽香はそのまま歩く。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
先ほどよりも感覚が短く、息も絶え絶えといった感じの吐息が聞こえた。先ほどうるさいといったばっかりなのに、また言わなくてはいけないらしい。幽香は「あのね」と言いながら振り返る。
「さっきも言ったけど、もう少し大人しく歩けな――」
幽香はそこまで言って言葉を失った。
なぜなら、少女は二メートルほど後ろでぶっ倒れていたのだ。
「……チッ」
幽香はそのざまに舌打ちをする。身体が弱いと言っていたが、弱すぎるにもほどがあるんじゃないだろうか。
彼女は忌々しげに少女のところに歩み寄る。少女は小さく痙攣していた。
「何寝てるのよ」
そう言葉を投げかけるも、少女は何も答えない。幽香にイライラが募る。
「ちょっと、いつまで寝て――」
ぶわっ、と風が吹いた。片目を閉じながらその風をやり過ごすと、「とんっ」と何かが着地する音が聞こえた。
「あやややややややややっ。これはこれはお花の妖怪さんじゃないですか」
うるさい奴が増えた、と幽香は辟易した。
今しがた現れたのは射命丸文と呼ばれる烏天狗だ。何でも彼女は『文々。新聞』なる情報紙を書く為だけに、この『幻想郷』中を飛び回っているらしい。
簡単に言ってしまえばただの野次馬だ。烏なのに馬とはこれいかに。
「珍しいですね、アナタがこんな辺鄙なところにいるなんて」
「情報屋が何の用よ」
「いやいや、私の役目は『幻想郷』の情報をいち早く読者様にお届けするのが使命なワケでして。空をピューンと飛んでいたら珍しいことに、アナタが居るじゃないですか。これは取材するっきゃねーな、ってことで降り立った次第ですはい」
そのまま過ぎ去ってくれればよかったのに。心の底からそう思う幽香だった。
「花のあるとこにフラフラと行くアナタが、花も無い所をうろつくなんて正気の沙汰じゃないですからね。これは何か裏があるんじゃないかと、ジャーナリストの勘が告げておりますっ」
「アナタは私をなんだと思ってるの?」
怪訝な表情で問いかけるも、文は聞いている様子が無い。
「むむっ、そこで倒れているのは人間じゃないですか? おおっと、ここでスクープですか!? もしかしてアナタが殺っちゃったんですか!? こんないたいけな少女を!? あややややや、これはショッキングですねー。こう言ってはあれですが私、アナタは思慮分別の付いた妖怪だと一目置いていたんですけどねー。いやはや、人は見かけに寄らないですね。人じゃなくて妖怪ですが。まあ、妖怪の本分は人間を襲うことにあるんですけど、こんな白昼堂々とやるなんて、ちょっと考えられないですねー。あれですか、欲求不満なんですか? えー、だとしても若すぎやしませんかねー? 見た感じだと一○にもいって無い感じじゃないですか。どれだけ青い果実が好きなんだよ、果実じゃなくてまだ蕾じゃねぇかとツッコミを入れてしまいますよ。どれどれ、まだ息はあるんですかね?」
よくもまあ、そんなに舌が回るものだと感心してしまう。そして後でぶっ飛ばそうと思った。
「…………………………………………………え?」
ふいに、文は動きを止めた。そして文の顔色がどんどん悪くなっていく。
「どうかしたの?」
「どうもこうも!」
文はバッと顔を上げると差し迫った表情を浮かべながら言った。
「この娘、熱中症じゃないですかっ!」
幽香は彼女が慌てている意味が分からなかった。
「あややややややっ!? どうしましょうどうしましょう!? そうです、ここはまだ『永遠亭』の近く! この『幻想郷』で最速の私が急いで運び込めばまだ……っ」
言うが早いか、文は少女を抱き抱えると飛ぶ準備を始めていた。
「ちょっと、何してんのよ」
「ちょっと黙っててください! 時は一刻を争うんです!」
文の剣幕に少し押されてしまった幽香はそれ以上何も言えなかった。そして文は少女を抱き抱えたまま『永遠亭』へと向かった。
「……なんなのよ、全く……」
釈然としないながらも、幽香は遅れて文の後を追った。
少し遅れて『永遠亭』に着くと、疲れた様子の文が壁に寄りかかっていた。
「つ、疲れました……。今期最速なんじゃないんですかね……」
「アナタは何をそんなに慌ててたのよ」
ぐったりとした様子の文は視線だけを寄越してきた。
「アナタという妖怪は……。いえ、なんでもないです……。私のように、人里に近い妖怪じゃないアナタには分からないでしょうし」
カチンとくる物言いだ。幽香はそれに対して何かを言おうとしたが、「あら」と声が聞こえて言うタイミングを失ってしまった。
「また会ったわね」
「……」
「それはそうとアナタ、あの娘をあんな状態になるまで放っておいたの? その天狗が抱えて持って来なければ間違いなく死んでいたわよ?」
永琳はふぅ、とため息をついていた。
「あの程度の距離を歩いただけで死ぬなんて……本当に人間はヤワな生き物ね」
「私たち妖怪が頑丈に出来てるだけですよ。人間だってその気になれば長生きできますよ。まあ、精々一○○歳が関の山ですが」
文は額から流れる汗を拭おうとせず、肩をすくませて言った。
「あの人間の娘はどうしてます?」
文が問いかけると永琳は腕を組んで答えた。
「取りあえず処置はしておいたから大丈夫でしょう。今はウドンゲに診てもらってるわ」
「そう言えば、あの小さい兎はどうなったの?」
「てゐのことかしら? てゐなら……」
永琳はちらりと廊下の隅に気の毒そうな視線を送っていた。そこには目の焦点が合わず、口から涎を垂らしながら「うぇひっ、うぇひひひひひ」と笑っている、見るも無残なてゐの姿があった。
「どうせウドンゲを罠に嵌めて、捕まって幻覚か何かでも見せられてるんじゃないかしら。いつものことだし、気にしなくていいわよ」
いつもあんな状態にされるのだろうか、とか。結局は捕まるのか、とか。そんな事を考えているのは、なにも幽香だけじゃないだろう。座り込んでいる文までもが気の毒そうな顔をしている。
「今日も『永遠亭』は平常運転の様ですね」
「お陰さまでね」
「さてと、私はそろそろ取材に行くとしましょう」
文は立ち上がると、そのまますたすたと玄関へ向かった。
「ついでだし、ウチの姫様の相手をしてくれると助かるのだけど」
「竹林が燃える真相を聞かせてくれるなら、いくらでもお相手しますけど?」
「残念」
永琳は特に残念がってる様子も無かった。
「それでは私はこれで」
ドンッ、と音がしたかと思えば文は勢いよく飛び立って行った。幽香と永琳はそれを見送る。
「……アナタに言っておくことがあるわ」
先ほどとは違って、永琳の声の質が硬い。真面目くさった話なんだろうな、と幽香はため息をついた。
「あの娘はとても身体が弱いの。それこそ、他の人間よりも遥かに」
「だからなによ」
「もうちょっと気を使ってあげなさいって言ってるのよ」
なぜ自分が弱い存在に気を使わなければならないのだろうか。
そんなことが顔に出ていたのか、永琳は大きなため息をついた。
「あの娘は特殊な病気に罹っていて、次に大きな怪我をしたら間違いなく助からないわ。あの娘は自分で血を造れないの」
ぴくり、と幽香の眉が動いた。
「自分で造れない?」
「そう言う病気に罹っているの。だからときどき、ここに来てもらって点滴を打ってるのよ」
そんな病気があるのか、という驚きと同時に、人間はなんて面倒な生き物なのだろうと思わされた。
「誰があの人間を連れてきてるのよ」
「ウドンゲに決まってるでしょう? 私は薬を創ったり他の患者の相手をしたり、姫様の相手をしたりで忙しいの」
ふぅ、とため息をつく永琳。今度のため息は純粋に疲れから来るものかもしれない。
「全部を理解しろだなんて言わないわ。ほんの少しでも良いから、あの娘のことを思ってあげてって言ってるの」
幽香は顔をしかめる。そんなの、幽香には関係の無い話だ。あの人間の少女がどんな病気に罹っていようと幽香には微塵も関係が無い。
「……アナタは似てるわね」
ボソリと、永琳がそんな事を言った。その意味を聞き出そうとしたが、奥から「お師匠様」と声が聞こえた。
ウサミミの少女だ。てゐよりも身長は高く、薄紫色の髪に、深紅色の瞳をしたブレザーを身に纏ったウサギ。
「どうしたの、ウドンゲ」
「はい。あの人間の娘の容体も安定しましたし、そろそろ大丈夫かと」
彼女の名前は鈴仙・優曇華院・イナバと、少々長ったらしい。個人を識別するのが面倒な幽香としては『大きいウサギ』にしか見えないが。
「そう、良かったわ。ついでと言ってはあれだけど、そろそろてゐを許してあげたらいいんじゃないかしら? いつまでも狂気に中てられてると精神が壊れちゃうわよ」
廊下の端で未だに「けへっ、けへへへへへ」と笑っているてゐは、正直、サディストの幽香でも見るに堪えない。永琳の言うように、精神が壊れた患者にしか見えない。
「大丈夫ですよ、お師匠様。私の『狂気を操る』能力は恒久的なものじゃないですから。一瞬の、刹那の快楽を魅せてるだけなので、あと数分もすれば自然と治ります。まあ、その幻覚内での体感時間は悠久に感じるかもしれませんが」
彼女の『狂気を操る』能力で、てゐは永遠とも思える夢を見ているようだ。しかし、現実からすればそれはものの数分程度らしい。なぜか知らないが、とある忍のとある幻の術が脳裏を過ぎった。
「一種の催眠術のようなものです。すぐに我に返りますよ」
「だといいのだけれど……。……そうだわ。ちょっとウドンゲ、こっちに来て。それで、アナタはそこで待ってて」
幽香の了承も取らず、永琳はウドンゲに近づくと何か耳打ちをしていた。鈴仙もふんふんと頷きながらこちらを見ている。視線がばったりあった。廊下が暗い所為か、鈴仙の目が赤く光ったように見えたが、鈴仙はすぐに永琳との話に戻った。
話し合いが終わったのか、永琳と鈴仙は離れた。
「ついでだからアナタ、あの娘の所に来てくれる?」
出し抜けに、永琳はそう言った。
「なんで私が」
「アナタの所為で倒れたのよ。アナタが面倒を見ないでどうするの?」
永琳の言うコトは正論だったので、幽香は舌打ちをして土足のまま廊下を歩いた。若干だが、鈴仙が何か言いたそうな顔をしていたが、幽香がジロリと睨み、目が合うとと委縮していた。
「こっちよ」
永琳は気にも留めずに先を歩く。その後ろを幽香が続き、その後ろに鈴仙が続く。某ゲームのような行進となったが、気にしない。
少女がいると思われる部屋に辿り着くと、永琳は襖を開けた。
少女は布団に横たわっていた。腕には透明な細い何かが付けられており、その何かを視線で辿っていくと、上には何やら赤黒い液体の入った袋がつるされていた。
初めて見る、幽香の理解の範疇を越えた物体に、さしもの幽香は気味が悪そうにしていた。
「何、あれ」
「見ての通り血よ。その中に生理食塩水やブドウ糖など、その他栄養を溶かしてあるから一概に血液とは言い難いけど」
永琳が丁寧に説明をするが、そんなことはどうでも良い。どうせ説明されても理解できないだろうし、しようとも思わない。
「私は何をしてるのかと聞いたのよ」
「説明が足りないから分からないわよ。……言ったでしょ? あの人間の娘の身体は遥かに弱いと。ああやって、外部から血を与えないと生きていけないの」
少女からは「すー……すー……」と規則正しい寝息が聞こえてきた。
「哀れだと思った?」
永琳に問われ、幽香は答えた。
「所詮は脆弱な人間ね」
「感想を言えだなんて言って無いわ。質問に答えて。私は哀れかどうかを聞いたの」
「……」
再び永琳に問われ、幽香はため息をつきながら少女を見下ろす。
弱い人間の中でも輪をかけて脆弱な少女に、幽香はある種の憐憫を感じていた。これでは死に損ないどころか、生き損ないだ。自分で生きることを許されず、生かされている少女に、幽香は何とも言えない感情を抱いた。
「……さて、ね。私にはどうでも良いことよ」
「……少しでも、あの娘を慮ってあげて。あの娘は――」
永琳が何かを言おうとしたが、少女が「んゅ……」と言って起き上がった。
「ここ、は……?」
少女はきょろきょろとあたりを見渡す。そして永琳と幽香を見ると、小さく笑っていた。
「おはよう、ございます」
「おはよう。気分はどう?」
永琳は歩み寄ると膝を折り、少女の傍らに座った。
「悪く、ない、です……」
たどたどしく答えるも、意識ははっきりしているようだ。
「そう。でも、これからは気分が少しでも悪くなったら周りの人にちゃんと言わないとダメよ?」
め、と永琳は少女の額に自分の人差し指を押しあてた。
「あぅ……。ごめん、なさい……。……」
少女は謝ると、幽香に視線を向けてきた。
「なによ」
「おねいちゃんが、運んで来て、くれたんですか?」
まだ眠いのか、言葉がぶつ切りだった。幽香はイライラしながら答える。
「ちが――」
「ええ、そうよ。あのお姉さんが連れて来てくれたの」
「……ねえ」
永琳が途中で遮った。幽香は恨みがましい視線を向けるも、こちらに背を向けている永琳は分からない。
「めーわくを、おかけして、ごめん、なさい……」
少女は頭を下げる。彼女はどうやら永琳の言うことを信じてしまったようだ。実際はあの烏天狗が運んだのだが。なんだかごっつぁんゴールな気がしてやまない。
「気にしなくて良いのよ。これからはこのお姉さんがアナタの面倒を見てくれるみたいだから」
寝耳に水とはまさにこの事だ。そんな話、聞いた覚えもない。珍しく呆ける幽香をよそに、話は進んでいく。
「アナタの宿題も、ここまで連れて来る役目も、ヒマな時間はアナタの為に使ってくれるそうよ」
何を言っているのだこの腐れ医者は。それではまるで、この子どものお守をしているようなものではないか。
流石にこれ以上の厄介事はゴメンなので否定をしようと思ったが、少女は心底嬉しそうに「ほんとう!?」と問いかけてきた。
「……」
そのあまりにも純真無垢な笑顔に、幽香は蹈鞴を踏んだ。ここで断ったら、否定をしたら幽香がとんでもない外道になってしまう。
元より、人間のことはどうでも良い幽香だったが、ここまで純粋な笑顔を見せられるとどうも渋ってしまう。
「……………………………………………………………………………………チッ」
幽香は舌打ちをした。少女はビクッと肩をすくませると、恐る恐る問いかけてきた。
「ダメ、なんですか……?」
「ふふ。あのお姉さんは素直じゃないの。言葉に出さないだけで、分かってくれているわ」
このクソ野郎!! と心の中で叫ぶ。ギリギリと奥歯を噛みながら永琳を睨みつけるが、永琳は悪びれている様子も無い。
「これからはあのお姉さんに甘えると良いわ」
「……」
少女ははにかんだ笑顔をこちらに向けて来る。その笑顔があまりにも眩しすぎて、幽香は視線を逸らした。
ちらり、と少女に視線を向けると、本当にうれしそうに微笑んでいる。
「……」
厄日ね、と幽香は嘆息しながら少女の下へと近づいた。
少女を抱えながら幽香は黄昏に染まる道を歩いていた。本当なら縄で縛って飛んで行けたら楽だったのだが、永琳に「くれぐれも安全に、外道なことを考えず、ちゃんとその娘を家に送り届けるように」ときつく言われたのだ。
「まったく、なんでこの私が……」
自分の腕に抱かれた少女は小さな寝息を立てていた。あの後、この少女は糸が切れたように眠ってしまったのだ。
人間を抱えながら歩くなど、かつての自分では考えられない所業だ。
「……面倒ね」
落とせたらどんなに楽だろうか。しかし、幽香は「この娘は身体が遥かに弱い」ということを思い出し、舌打ちをした。
「大妖怪たるこの私が、なぜこうして甲斐甲斐しく、人間の、しかもガキのお守をしなくちゃいけないのよ……」
ブツブツ言いながら幽香は人間の住まう里に入る。夏場の夕暮れはまだ明るく、外で遊んでいる子どもや、談笑をしている大人がちらほらと居た。
人間は幽香を見ると驚いていた。人間とあまり変わらない見かけとは言え、人里では見た事の無い存在だと思ったのだろう。ジロリと睨むとバツが悪そうに視線を逸らした。
少女の住んでいると思われる家に着く。手がふさがっているので足で扉を叩く。失礼にも程がある。
「はい、どなたかな?」
聞こえてきたのは年老いた、しわがれた女性の声だった。
「良いからさっさと開けなさい」
不遜にもそう言い放つ幽香。中からは「はいはい、ちょっと待って下され」と声が聞こえる。
がらりと戸が開くと、中からは幽香の身長より頭一つ分ほど小さな老婆が現れた。
「おや、見かけない顔ですな……。どちらさまで?」
「どうでも良いでしょ。さっさとこのガキを引き取って頂戴」
自分の腕に抱えられている少女を見せると、老婆は「おお」と感嘆を漏らした。
「お医者様のところに行ったっきり戻らないと思ったら……。どこで倒れていたんだろうねぇ。孫が迷惑をかけたようで」
老婆は深く頭を下げた。そんなことより、さっさと受け取ってくれないだろうか。
「迷惑ついでに、この婆の頼みも聞いて下され。儂は見ての通り、骨と皮だけで力が出ません。儂には孫を受け取り、運ぶだけの力もありません。どうか運んで下さらないだろうか」
「……」
確かに、この老婆にそんな力があるとは思えない。本当に人間とは脆くも弱い生き物だと思わされる。
「どこに置けばいいのよ」
「しばしお待ちを。布団を敷かせて下され」
老婆はよたよた歩きながら戻り、押入れから布団を取り出すとえっちらおっちらと敷き始める。
「ここに寝かせてくだされば」
幽香はすたすたと入り、これまた土足で家に上がると布団に少女を置いた。
「じゃあ、私は帰るわ」
役目は終わった。幽香はすっと立ち上がる。
「茶の一杯でも飲んで行って下され」
振り返ると、老婆は人のよさそうな笑みを浮かべていた。この子どもには手を焼かされているのでそれぐらいは構わないだろうと判断する。
「そう」
幽香は再び腰を下ろす。老婆は立ち上がると竈の方へ歩いて行った。
湯が湧くまで手持無沙汰となり、幽香は辺りを見渡す。
一言で言えば質素だった。必要最低限の生活道具があるだけで、贅沢品は一切ない。
「ねえ」
幽香は寛ぎながら問いかける。
「なんでしょう?」
「この子どもの親はどうしたの?」
この時間になれば帰ってきてもおかしくは無い。しかし、一向にそんな気配がないのだ。周りを良く見てみると、二人分の食器しかない。
「……儂よりも早く、死んでしまいました」
老婆の声に悲しみが宿る。
「世は何と酷なものなのでしょう……。儂よりも若い輩が死んでしまうなんて……」
「しょうがないんじゃない? 死ぬ時は死ぬ。それだけよ」
人間とはそういうモノだ。争いの無い人里だが、病気などはある。件の少女が罹っている奇病も死に至る要因の一つだろう。あの医者が来てからだいぶマシにはなったようだが。
「そなたの言うことはごもっとも」
老婆は何かを思い出したかのようにハッとした。
「そなたは、孫が奇病に罹っているコトを」
「知っているわ」
つい先ほど、あの月の医者に聞かされた。
自分で血を造れない病気。幽香は聞いた事の無い病気だった。
「孫は生きて一○になるまでと……お医者様にそう言われました」
老婆は悲しげに湯飲みにお茶を注いでいた。
「一○ねえ……」
幽香のような妖怪からすれば一○歳など赤子でも何でもない。まだ生まれてすらいない状態と変わらない。
「その子どもの歳は幾つなの?」
寝てる少女を指さしながら問いかけると、老婆は一拍だけ間を取り
「九つ。六日後に一○の誕生日を迎えます」
幽香は絶句した。
あの月の医者がそう言った計算を間違えるとは思えない。だとすると、この少女の寿命は――余命は六日。それよりも早く死ぬ可能性だってあるだろう。だとしたら六日以内。
羽化した蝉だって一週間は生きる。それよりも短い。
「孫にとって、この夏休みは最後になりましょう……」
「……この事をこの子どもは知ってるの?」
いいえ、と老婆は首を振った。
「自分の残りの命を知るとは……まだ若い、幼いこの子に『死』を教えるのは……酷だと、思いませんかえ?」
老婆は茶の入った湯飲みを盆にのせて持って来た。
「こんな老いぼれには……人間には、どうすることも出来ないことです……。せめて、この子が笑顔で逝けるよう……そう、願うだけです」
奇跡でも起きない限りは。老婆はそう言った。
骨と皮だけで、しわくちゃの手で、老婆は少女を優しく撫でる。壊れないように、とても優しく。
「出来ることなら……誕生日は、この子の大好きな花を……見せてやりたいものですな」
花。幽香はその単語に反応をした。
「……どんな花が好きか、知ってるの?」
「それが困ったことに、教えてくれないのですよ」
ほっほっほ、と老婆は楽しそうに笑う。
「下手な鉄砲数打てば当たる……と言いまして、この儂でも出来るだけの野花を集めて来ようと思っていますよ」
そんな老体では無理に決まっている。この老婆は、この子どものことを愛しているのだろう。
「……」
幽香は寝ている少女に視線を落とす。なぜ永琳があんなにもお節介を焼くのかが分かった気がした。
「……ねえ」
「はい、なんでしょう?」
老婆は首を傾げて問いてきた。幽香は少女の頬を撫でながら彼女に話しかける。
「今日、ここに泊まっても良いかしら?」
彼女の気まぐれか、否か……。
ではまた。