学生の皆さんはもうすぐ卒業シーズンですね。卒業式の心境は何とも言えないくらい切ないものでした。当時のクラスメイトの何人かは結婚し子供も生まれています。学生だった頃のはしゃいでいた事を想うと、何とも言えない気持ちになりますね。
それは少し昔の物語。
博麗の役割を背負わされた少年ではなく、武器を扱う天才の少女でもなく、少年にとっての弟であり少女にとっての兄である少年の物語。
その少年はあまり苦労というものをしたことが無かった。少年の家は貧しく、幼い頃はよくお腹が空く事が多かったが、そんな日はある日を境に直ぐに無くなった。彼の母親が、兄弟全員が十分に食べれるだけの食事を作ってくれるようになったからだ。
その少年はあまり孤独というものを感じたことが無かった。母が食事を沢山作ってくれるようになってからしばらくして、少年は寺子屋に通うようになった。少年はそこで半人半獣の智者から学ぶとともに学友と遊んだ。寺子屋から帰っても、家では弟妹たちと戯れた。そして何より少年が楽しみにしてたのは、たまに自分たちと一緒にいる兄と遊ぶことだった。不思議な力で見た事のない遊びを教えてくれる兄は、少年にとって家族でもまた特別だった。
その少年はあまり不安というものを感じたことが無かった。少年にとって兄は何でもできる存在だった。兄は少年の質問になんでも答えてくれた。少年にできない事を何でもできた。そんな兄が、この里を守ってくれている。少年はそれだけで無邪気に安心していた。
その少年はあまり悩みを抱えたことが無かった。少年は父の仕事の手伝いをしていた。里の大工である父の真似をして家の修理や里を囲う柵の修繕などを手伝った。筋が良いと、父やその仲間たちから褒められた。将来いい後継ぎが出来たと言われた父は、嬉しそうに笑っていた。少年も自分は将来父と同じ仕事になろうと思った。少年は自然と自分が進むべき進路を見つけていた。
ある日、少年の兄が、家からいなくなった。母に尋ねると、兄は神社に一人で住むことになったという。その頃から、少年にも苦労と孤独と不安と悩みが少しずつ出始めてきた。同時に少しずつ知るようになってきた。自分が住む里の現状、家族の暮らし、兄を取り巻く環境、人と妖怪の関係。それを知っていく中で、少年は兄に頼ってばかりではいられないと知った。
甘えてばかりはいられない。しかし自分では兄のようになれない。必死に考えた少年がたどりついた答えは、自分が兄の代わりに家族を支えるというものだった。自分たちが兄に支えられていたのなら、代わりに自分が家族を支えれば、兄の負担が減るのではないか、そう思ったからだ。
少年は奮起した。大工の仕事を学び職人としての腕をめきめき上げた。弟妹たちの面倒も常に気にかけて見るようにした。家の手伝いを自分から率先して手伝い他の弟妹たちに教えた。ある日、兄が家に帰ってきた時に少年は真っ先に自分がしたことを兄に報告した。兄は笑って少年の頭を撫でた。
それからまたしばらくして、少年は更に兄の置かれた状況を知ることになった。自分にできることは無いか、そう兄に尋ねると、家の事を頼むと、ただそうやって兄は少年の頭を撫でた。自分の不甲斐なさに少年は、俯いた。
何かできることは無いだろうか?少年は兄の為に少しでも役に立とうと出来る事を探した。しかし、厳しい兄の現状を変えることは、幼い少年には出来るはずもなかった。
また時がたつと、次第に兄に元気が出てきた。兄に訳を尋ねると、どうやら頼りになる同居人が出来たという。相変わらず怪我の絶えない兄だったが、少しずつ余裕が出てきたようだった。自分が大したこともできない事は心苦しかったが、兄が嬉しそうで少年は安心した。
せめて自分の出来ることをやろう。少年はそう思った。
ある日、里を鬼が襲った。里の人間は驚き、恐怖に逃げ惑った。兄はどうしたんだろう?心配する少年だったが、今は兄の代わりに家族を守らなくてはいけない。そう思った少年は両親や弟妹たちを安全な場所へと連れて行こうとした。
だが、一番下の弟と妹の姿がない。9歳になる妹は兄に太鼓判を押されるほど退治屋として優秀であるからまだ安心はできる。だが、6歳になる末っ子は好奇心旺盛な性格で目を離すと直ぐにどこかに行ってしまう困った子だった。少年は必死になって弟と妹を探した。鬼が暴れ迫る中で、里の中を走り回り二人の姿を見つけようとした。……だが、二人を見つける事は出来なかった。探し続けようとする少年を、退治屋たちが強引に避難所へと連れて行った。
弟と妹の安否が分からないまま、少年は残る家族と合流した。周りには、少年たちと同じく里から逃げてきた人たちがいた。皆が恐怖で混乱する中、誰かが言った。博麗は何をしているんだ!その言葉を切っ掛けに、徐々に里の人間の中で兄に対して穏やかではないものが生じ始めてきたことに少年は焦った。
このことを兄に伝えなければ。瞬時に少年はそう思った。それから妹が治療場に運ばれたと知らせが届いた。直ぐそこに行くと、妹が酷い怪我を負っていた。意識が無く横になる妹だが、幸い命には別状はないという事に少年は一先ず安心した。後は弟だけだ。
するとそこに兄がやってきた。弟は兄に伝えようとした。弟がまだ見つかっていない事、里の人達が良くない雰囲気であること。だが少年は兄の姿を見て言葉が出なかった。兄は重症だった。それも常人なら倒れてもおかしくない程の怪我を負い、全身が血に塗れていた。満身創痍で更に疲労困憊の兄は、それでも一番最初に聞いた。みんなは無事か、と。
その時、少年の脳裏にこれまでの事が過ぎった。家族を、里を支えるために必死な兄。何もできない自分。里の人間の兄を責める声。安否の分からない弟。怪我をしている妹。そして、今ボロボロで目の前にいる兄。
そして、少年はすぐにこう答えた。みんな無事だよ、と。
それは、少年が兄についた初めての嘘だった。今まで苦労しながら傷ついてきた兄、そして今なお自分たちの為に傷ついている兄の為に、自分が出来ることは無いか。それは少年の、拙い思いやりから来るとっさの言葉だった。
それを聞いて心から安心した兄の顔に、少年はもう引っ込みがつかなかった。結局、そのまま真実を言えないまま少年は兄と別れた。そして、兄は里の人間に追われ、いなくなってしまった。何故あの時、本当の事が言えなかったのか。少年は自分の愚かな行為を激しく後悔した。
だが、その後悔は次に日には消えていた。大好きだった、兄の記憶と共に。
その後、行方不明者の捜索が行われた。弟が、見つかった。崩壊した家の下敷きになって、息を引き取っていた。
そして、数年後。少年は青年になっていた。今や里の大工の若頭として、立派に成長していた。
青年は里のはずれにある墓地にやってきた。墓地の傷んだ塀を直そうと大工道具と、あの時亡くなった弟の墓参りの為に華を持って。
「……あ」
青年は墓に着くと小さく驚いた。墓地にあるすべての墓に、彼岸花が添えられていたのだ。
「また、か」
青年はこの墓地に度々訪れるのだが、たまにこのように全ての墓に華が添えられている事があった。それが誰なのか、里を探してみても誰もそれを知らなかった。一体、この華たちを添えているのは誰なのだろうか?
青年は墓地の奥にある弟が眠る小さな墓に添えると、塀の修理に取り掛かった。何時かこの華を添えた人と会ってみたい、そう青年は思った。
ひしがきが弟の死を知ったのは、里を追われた後、魔法の森にも住処を作った頃だった。抜け殻のように無為に過ごしていたひしがきは、罪悪感から鬼の襲撃で命を落とした人たちの墓参りをした。
ひしがきは一つ一つの墓を丁寧に磨き華を添えた。守れなくてごめんなさい、せめてどうか安らかに眠って下さい。そうやって懺悔するように手を合わせて祈った。そして、最後に一番奥にある墓にたどり着いた時、その墓に刻まれている名前に驚愕した。
「 あ」
よく知る名前だった。
「 ああ」
よく知る相手だった。
「 あああああ」
覚えている。まだ小さかったその子を抱いてあやしたことを。成長したその子が初めて自分を呼んでくれたことを。無邪気に笑いながら駆け寄って来るかわいい弟を。
その名は、弟以外に里にはいない事も。
「 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
よく覚えている。あの時の事は。同時に、なぜあの時いろはが自分を斬ったのかも理解した。里の多くの人間と同じく、いろはもまた自分の家族を守れなかった俺を憎んでいたのだ。
だから、いろはが自分を憎んでいても、それは仕方のないことだと諦めていた。むしろ、弟の死を知ってからはそれで良かったとさえ思った。それほどに、弟の死は自分にとって重かった。
なのに、いろははそれを許すといった。俺は悪くないと言った。ただ今は、昔交わした約束の為に俺を斬ると言った。
それを言われて、ひしがきは途方に暮れた。そして、その隙を逃すほどいろはは甘い相手ではない。
シャンッ
鈴の音のように澄んだ迷いのない太刀筋と共に、鮮血と数珠が弾けて飛んだ。
「はぁっ…はぁっ…はぁっ…」
ぐったりと力なく動かない影狼を背負いながら、蛮奇は霧の湖目指して飛んでいた。万が一にも見つからないように森の中を低空で飛びながら一刻も早く先にいるであろうわかさぎ姫と合流しなくてはならない。
その後どうするかは分からない。永遠亭に行くのかそれとも自分たちで影狼を治療するのか。とにかく今はひしがきの言われた通り早く行かなくては。
蛮奇の顔のすぐ横で影狼の呼吸が聞こえる。それは弱弱しいが確かに聞こえるその音は影狼の命の火がしっかり灯っている証だ。
大丈夫、蛮奇はそう自分に言い聞かせる。もうすぐわかさぎ姫がいるはずの湖の入り江に出る。後はそこでひしがきを待てばいい。大丈夫だ。
影狼を担ぎ直し、蛮奇は森から飛び出した。
「――――」
そして森から出た直後、蛮奇は凍りついたように硬直した。
そこに、わかさぎ姫がいた。問題は、わかさぎ姫が驚くでもなく慌てるでもなく泣きさけぶ事もなく……その場に倒れている事だ。
「………」
そしてその側にもう一人、蛮奇の知らない者がいた。紅白の巫女服を着たその女性は、無表情で倒れているわかさぎ姫を見下ろしている。そしてその視線を蛮奇に移した。
「……あ」
その視線を受けた時、蛮奇は瞬時に理解した。わかさぎ姫が倒れているのは目の前の女性がやったという事。自分たちを襲った女と目の前の彼女は同じ目的だと。そして、今度は自分たち二人を狙う気だと。
「ああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」
蛮奇は影狼を背負ったまま、全力で巫女服の女めがけて弾幕を放った。影狼を助ける。わかさぎ姫も助ける。ひしがきが来てくれるまで、自分が二人を守る!
決死の覚悟を決めた蛮奇を前に、巫女服の女―――先代巫女は静かに戦闘の構えを取った。
「……っ!!」
「くっ!」
人里から霧の湖へ向かう魔法の森の上空。そこでもはやごっこではない弾幕の応酬が繰り広げられていた。
片や幻想郷を守護し、多くの異変を解決してきた現博麗の巫女である博麗霊夢。もう一方は同じく幻想郷を管理する賢者の式であり、日本で最も有名な妖怪の一角である九尾の妖狐、八雲藍。
霊夢は霧の湖に向かう途中、正面にいる藍に気付いた。それが自分の足止めであると直ぐに気付いた霊夢は、もはや弾幕ごっこでは相手は引かないと察すると迷いなくごっこではない霊力弾を放った。対する藍もまたすぐそれに応戦した。
両者は一歩も譲らず弾幕を放つ。一見するとそれは通常の弾幕ごっこにしか見えない。実際その形だけ見れば霊夢と藍の戦いは弾幕ごっこそのものだ。ただ、その弾幕の一発一発が確かな殺傷能力を持っており、弾幕に逃げ場など作っていない事を除けばだが。
それが弾幕ごっこに見えるのは、両者が驚くべき実力を有している者同士であるからだ。本来ならば逃げ場のない弾幕を、もはや壁とも言っていいそれを、互いに無傷で潜り抜けている。弾幕で打消し、逸らし、あるいは相手を牽制し、誘導し。また結界で防ぎ、移動して。一歩間違えれば両者ともに無事では済まない。だが眼前に迫る本物の弾幕を前に、二人は瞬時に最適な対処をやってのけすぐさま反撃へと転じている。それがどれほど驚くべきことか、それはまさしく幻想郷に住まう強者であればこそできる戦闘だった。
互いに引かぬ戦況。だがもちろん、弾幕ごっこでない以上、その戦いはルールに縛られたものではない。藍は霊夢の弾幕を潜り抜け一気に間合いを詰める。長く時を生きてきた彼女にとって不得手な分野は全くと言っていいほどない。もちろん戦闘においても妖力弾での遠距離だけでなく接近戦も彼女にとっては容易い。
白魚の様な白い手。その先にある爪が、鋭く伸びる。その切れ味はいろはの刀にさえ引けを取らないのではないだろうか。並みの妖怪ならば触れただけで真っ二つになるだろう爪で、藍が大きく薙ぎ払う。
藍には、霊夢を殺す気などない。藍の目的はただ霊夢の足止めである。にも拘らず彼女が接近戦に出たのは霊夢の実力が彼女の予想以上に高かったからである。長い時を生きている彼女をして霊夢は間違いなく強敵だった。このまま弾幕での勝負を続けていたとして、負けるつもりなどないが……勝とうとしないまま足止めし続けられるとも言えなかった。だが手加減など出来る相手ではない。ならばこちらが有利な土俵で押すべきだ。そう判断した上での接近戦。弾幕ごっこに慣れ、本気の接近戦など殆ど経験したことなどないだろう霊夢相手ならば問題ない。藍は霊夢が動けない程度に手加減しつつ爪を振るう。
確かに藍のその判断は間違ってはいない。霊夢自身、基本的に遠距離での戦いを好んでいる。経験で言っても圧倒的に接近戦よりも遠距離戦が多い。もし戦うのであれば、接近戦という選択は正しい。ただし……それでも霊夢は間違っても手心など加えていい相手ではない。
霊夢は真横から迫る藍の爪をお祓い棒で受け止める。そしてそのまま力を受け流すようにして回転すると、その勢いを利用して藍の頭めがけて蹴りを繰り出した。
「っ!!」
予想外の事に藍は驚きに僅かに目を見開く。それでも寸での所で後退し蹴りを交わす。だが霊夢はその隙を逃すまいと近距離で弾幕を放ちつつ藍に迫る。藍もまた迎撃するが後手に回ってしまったため霊夢に押される形になってしまう。そして、ついに霊夢の霊力弾が一発、藍の肩を捉えた。
「……っぅ!!」
手加減なしの霊夢の一撃はたかが一発とはいえ藍の顔を大きく歪めた。追撃しようと今度は霊夢が藍の脳天めがけお祓い棒を振り下ろす。が、
「舐めるなぁ!!」
九尾の狐。その象徴たる九本の尾が急激に伸びるとそれぞれが槍のように霊夢に向かって突き出される。それを今度は霊夢が後退して避けると、二人は距離を置いて向かい合った。
「……まさかこれほどとは、な。さすがは紫様が見込んだだけの才の持ち主というわけか」
藍は肩の痛みを噛み締めつつそう言った。
「紫が見込んだかどうかは別として、
そう言って霊夢は軽くお祓い棒を振るった。互いに言葉を交わしつつも、二人は一部の隙もなく相手の出方を伺っている。
「先代の真似事、という訳か」
霊夢の動きに藍は霊夢の母である先代巫女に当たりを付ける。いくら霊夢が天才といっても、あの動きはいきなり出来るものではない。少なくともある程度の経験がなければ力を受け流しつつ反撃するなどできはしない。
「はずれ」
だが藍の予想を霊夢はバッサリと切り捨てる。
「先代っていうのは間違っては無いけどね」
続く霊夢の言葉に藍は一瞬怪訝な顔をすると、その意味する事に気付き、今度は不快そうに眉を顰めた。
「……あいつ、か」
それが誰を指しているか、言わずとも理解できた。
「『戦いは、常に変化する。故に戦いにおいて不測の事態など当たり前。だから手札は多く持っているに越したことはない』。先人の言うことは素直に聞いておくものね」
その言葉に藍は小さく舌を鳴らした。その言葉に覚えがあったからだ。かつて里に重積を負わされた少年に一時、教授した際に同じような言葉を藍は教えていた。
「不愉快なものだ。命とは言え少しばかり手をかけ過ぎたか」
「……ねぇ」
吐き捨てる様に言う藍に霊夢は僅かに目を細めて問いかける。
「何年か一緒に暮らして色々教えた相手に、少しでも何か思わないの?」
霊夢は知っている。八雲藍は、ひしがきの師とも言える立場にいたことを。他ならぬひしがき本人から聞かされていた。その時ひしがきが浮かべていた表情は、怒りでもなく今藍が浮かべているような嫌悪でもなく、憂いを帯びた諦観だった。
「何も」
だが、間を置かず藍はあっさりと答えた。
「霊夢よ。お前も何かの上に立つ立場なら知っておくことだ。犠牲とは常に生まれるものだ。非道と言われようが外道と罵られようが、誰かが其れを成しえなければならない」
「……そうね。でも、それとひしがきと何の関係があるの?」
そう、霊夢の最も知りたいところはそこだ。紫にせよ藍にせよ、幻想郷を管理し守ってきた彼女たちが何故ひしがきをここまで追い詰める必要があるのか?しかもただ命を狙うならまだしも、あらゆる面においてひしがきはもがき苦しんでいる。何故ひしがきがそのような目に合わなくてはならないのか?
「心配せずとも、すぐわかる。そしてお前も知ることになる。あいつの中のモノを」
「そ。まあ、どうせ紫も先にいるんでしょ?ならいい加減力ずくで聞くことにするわ」
「させるとでも?」
藍は今度こそ手加減なしで霊夢に構えた。もはや接近戦においても霊夢は自分と対等だと認識し足止めをする。先ほどより手強くなった藍を前に、霊夢はやれやれと頭を掻く。
「悪いけど、時間もないしあんたの相手は疲れるからしたくないわ」
そう言う霊夢に藍は何のつもりかと内心首を傾げる。するといきなり藍の背後に無数の陣が出現した。
「なっ!?」
見間違えるはずがない。その陣は間違いなく霊夢の霊力によって描かれた陣。
(いつの間にっ!)
藍が驚くのも無理はない。これほど広範囲にわたって複雑な陣を退くのは霊夢と言えども容易な事ではない。何かしらの事前準備が必要である。
「やっぱり、先人の言葉は聞くものね」
そう言って自分の足元に同じ陣を霊夢は展開する。藍は次に来るであろう霊夢の攻撃に身構える。全身に妖力を漲らせ全力で迎え撃つ気でいる藍に霊夢は軽く挨拶するようにそう言った。
「それじゃ、行くわ」
そして藍の前から霊夢の姿が消えた。
「!!」
驚愕する藍。しかし霊夢が向かう場所を知っている藍はすぐに後を追おうと背後に向く。だが、目の前にある無数の陣から今度は藍を足止めするべく、無数の弾幕が放たれた。
「――――ぁ」
斬られた。
自分が正面から袈裟斬りにされたとひしがきが理解したのは、肩から脇腹にかけて自分の肉が綺麗に斬られているのと、そこから噴き出すようにして流れる血と一緒に落ちる数珠を呆然と見てからしばらくたってからだった。
それからひしがきは正面を見る。
目の前に、いろはがいた。その目は静かにひしがきを見つめている。決意のこもった真っ直ぐな目だった。
―――ああ、そうか。
ひしがきの視界が横にずれる。糸が切れたかのようにひしがきの体は本人の意思とは無関係に膝から崩れて倒れていく。
―――もう、お前は大丈夫なんだな
ひしがきが、地面に倒れる。それと同時にようやく悟った。妹は、もう自分の妹ではなく、一人の人間として立っているのだと。あの頃の自分が守ってきた弱い少女は、一人で立って歩いて行けるほどに強く成長したのだと。場違いにもそんな事を今更に思いながら。
「………」
いろはは無言で刀を納めると、ひしがきを置いて進んでいく。その方角は蛮奇が影狼を抱えて走っていった方角。いろはは今度こそ二人を斬り、そしてわかさぎ姫をも斬るために先へと進む。
「………ょ」
ひしがきが、小さく口を動かす。もはや聞き取れないほど弱弱しいその言葉に、いろはは一瞬足を止めるが、自分がやるべきことがあると、再び歩を進める。
「ごめんよ、いろは」
いろはには聞こえない程に、小さくひしがきが呟く。するといろはがひしがきと一緒に斬って散らばった数珠が、いろはに向かって殺到した。
「…!!」
いろはがそれに気づき刀を抜こうとするが其れよりも早くひしがきの結界がいろはの両腕を拘束する。数珠はいろはの下に集まりと、斬られたにもかかわらず一本に纏まった。そしていろはの体に巻き付くと、そのまま締め上げた。
「…くっ、うぅ!」
いろはは逃れようと全身に霊力を纏わせ抵抗する。しかし、刀で斬るならともかく、霊力で強化しただけで斬れるほどひしがきの数珠は脆くはない。それどころかいろはを締め上げる数珠の珠一つ一つが、徐々に大きくなって余計にいろはを強く締め上げていく。
「……ひゅ…っ…!」
いろはの呼吸が、徐々に苦し気に擦れていく。それでもひしがきは数珠に籠めた力を抜くことなく、いろはを締め付けていく。そして、いろはの抵抗が弱まり、とうとう力なくぐったりと抵抗が止むと、ひしがきは数珠の拘束をゆっくりと解いていった。
「………」
斬られた傷に、乱暴に血止めを塗りたくる。鈍い痛みがひしがきに伝わるが、それよりもひしがきは今、心の方が悲鳴を上げていた。
苦し気に顔を歪ませいろはが倒れている。いろはをこんな顔にさせたのは他でもない自分だ。かつて守ると誓ったはずだった。大切な家族だった。今でもひしがきにとってはかわいい妹だ。だが、妹はもう一人前だった。一人で立ち、自分の意志で前に進んで生きているのだ。ならばもう、ひしがきも認めなくてはならなかった。妹は、自分を慕ってくれた少女は、とうの昔に自分の元を離れ、巣立っていたのだという事を。
ひしがきは横たわるいろはの頭に僅かに触れた。数年ぶりに触れる妹の頭。昔はよくこの頭を撫でてやっていた。いろははいつも嬉しそうにしていた。すぐに触れていた手を放すと、ひしがきは小さく呟いた。
「…………ごめんな、情けない兄ちゃんで」
今の自分には、他に守りたい相手がいる。何を捨ててでも守りたい笑顔がある。それを昔、俺が兄だった時にできなくて、ごめんなさい。
そして、ひしがきはいろはに背を向けて走り出した。
霊夢やったのはひしがきの転移の真似事。ぶっちゃけ亜空穴ですね。ここらの説明はまた後々話の中でしていきます。
さて、紫たちの言うひしがきの中のモノが何なのか?ひしがきや霊夢は間に合うのか?草の根は無事なのか?色々一気に明らかになっていきます。お楽しみに。
あ、あと草の根との絡みがまた見たいとの要望があったのでまた近々番外編を投稿します。そちらも楽しみにしていてください。