ひしがきが、やばい。
この人でなしぃ!
艶のある長い黒髪。赤と白の紅白を配色した巫女服。以前の歴戦の猛者を思わせる威圧感は今は感じない。戦いの前線を退いたせいだろうか、落ち着いた…とはまた違う空気を纏っていた。
「こうしてお会いするのは初めてですわね、博麗の代理。一応自己紹介をしておきましょう。私は八雲紫、妖怪の賢者と呼ばれている者ですわ。もっとも、私の式からすでにいろいろ聞いているでしょうが」
ひしがきが先代巫女に視線を囚われたままの状態で、八雲紫は割って入るように言葉を入れる。
ひしがきが八雲紫に視線の向けると、扇で口元を隠しこちらを見通すような目で妖怪の賢者はひしがきを見ていた。
「…………」
「あ……」
こちらを無言で見ている八雲紫の後ろに、ひしがきは見知った顔を見つけた。八雲藍。数年をこの神社で共に過ごしてきた彼女はこちらを見ずに、目を伏せたまま八雲紫の後ろに控えている。
声をかけようとしたが、思わず思いとどまった。八雲紫の後ろにいる彼女は、まるで主人の命を待つ番犬の様に佇んでいる。その姿に、ひしがきは無言で拒絶されているかのような錯覚を覚えた。
「ら、藍………」
それでも、今は何かにすがりたいひしがきはその名前を呼ぶ。しかし、彼女は目を伏せたままひしがきを見ようとはしない。
「っ……藍!」
いつもなら理知的で、優しくこちらの目を見て応えてくれた。その存在にひしがきは心から感謝していた。目の前の藍は、それを否定しているかのようで、気が付いたら無意識にひしがきは声を上げていた。
「…………」
すぅ、と静かに藍は目を開いた。ようやく目を開いた藍はそこではじめてひしがきと目を合わせた。
「……!」
藍と目があった瞬間、ひしがきは深く暗い底に突き落とされたような気がした。そこにはひしがきが望んだ、かつて一緒に過ごした女性の顔はなく、敵意さえ含んだ冷たい目でこちらを見据える姿があった。
思わずひしがきはその場に膝をついた。里の人間からの非難以上の衝撃がひしがきを打ちのめした。藍はそのまま無言で再び目を伏せた。言葉すらも、彼女はかけてくれはしなかった。
「……ひしがき」
そのやり取りを眺めていた八雲紫は今だ自分の式を呆然と見ているひしがきに語りかける。
「これまで博麗の代行、御苦労でした。まあ、最後はその役目を十分に果たせなかったようですが、それはいいでしょう。藍から聞いているでしょうが新たな巫女の準備が整いましたので今回はそれを伝えに来ました」
新たな巫女。その単語に、ひしがきはゆっくりと八雲紫に顔を向ける。
「もう一度言うわ。あなたはもう博麗になる必要はない。これからは好きな所で、好きな様に暮らしなさい」
「―――」
言葉が出ない。それほどに、あまりにもあっけなく唐突に、それは告げられた。
博麗の任を降りる。近く来ることはわかっていた。だがまさかこんなタイミングでそれを通告されるとは思わなかった。次々にやって来る衝撃に、ひしがきはもはやどう応えていいかわからなかった。
呆然とするひしがきに、八雲紫は淡々と話を続けていく。
「それでは、あなたにはこれまでの歴代の巫女たちと同じ処置を施させてもらうことになるのだけれど…聞いているのかしら?」
僅かに八雲紫の目が細くなると同時にひしがきの上に思い重圧が圧し掛かった。
「………!?」
いきなり襲い掛かってきた重圧から反射的にひしがきはすぐにその場から飛び退く。たとえ疲労困憊していようと、これまで一人で戦ってきたひしがきはその攻撃で一気に我に返った。
「話を続けますわ。あなたに施す処置、それは他者からのあなたへの認識を変える事です」
我に返ったひしがきは、しかし有無も言わせずに話を進める八雲紫の言葉を聞いていることしかできない。
「……認識?」
「歴代の巫女は、その役目を終えた後に巫女であったことを他の人間や妖怪からは認知できなくなる。もちろん例外はいます。ある程度の以上の力を持つ存在には認識を変える事はできませんわ。」
博麗の巫女は、新たな巫女に代替わりをする時、その存在を分からなくする。それは何も巫女がいたこと自体を無かったことにするわけではない。巫女がいたという記録は残る。ただそれが、誰であったかは分からないようにするということだ。
博麗の巫女は幻想郷の重要人物。たとえ引退したとはいえその立場にいたことは変わりはない。妖怪の恨みから被害を受ける事や里でよからぬ人間に利用されてしまう事もあるかもしれない。
それを防ぐために巫女を退く者には博麗の巫女であった事実は隠され里、あるいはそのまま博麗神社で暮らす場合が殆どであると言う。その説明を受けた時、ひしがきは暗く覆われ空に光が差したような気持ちになった。一瞬でこれまでの疲れが吹き飛び思わず飛び上がりそうにさえなった。
自分が博麗の代理であった事実が消える。それならば自分は博麗を降りた後にまた里に戻ることができる。今回の件でもはや里に自分の居場所は無くなってしまったかと思っていたがそれは間違いだった。そうだ、自分は力を尽くしたのだ。たとえ力が及ばなかったとしても自分がこれほどまで酷い仕打ちを受けていいわけがない。
ひしがきの顔に安堵の色が表れる。
―――――だがしかし、
「ですが、」
妖怪の賢者はそれを嘲笑う。
「それはあなたのためになりませんわ」
「…………………は?」
俺のためにならない?一体彼女は何を言っている?
「別にあなたがこれまでの巫女たちの様に認識を変える事に何の問題もありません。……ただし、あなたの大事な家族はどうかしら?」
「……どういうことですか?」
一体家族がどうというのであろうか?
「………っ!!」
そうかっ!認識を変えるということは俺の今までの経歴そのものが里の人間からわからなくなるということ。それはこれまで俺が生きてきた人生を隠して生きていかなくてはならないということだ。それは俺の家族も例外ではない。つまり自分の家族達に、俺が家族だったということもわからなくさせるということになる。
ひしがきの脳裏に弟妹が、共に戦ってくれたいろはの顔がよぎる。自分があの子達の兄であった事実を変えるということはあの子達を、特に自分を慕って共に戦ってくれたいろはの想いに対する裏切りでもある。
ギリッ、っとひしがきは奥歯を噛みしめる。自分をこれまで支えてくれた子達の想いを踏み躙るなんてことはできるはずもない。……だが、それでは自分はどうなるのか里にも居場所は無く、行く当てがなくなってしまう。それに今更になって気づいたが自分の家族たちも俺の身内というだけで里の人から責められるかもしれない。
避難所にいるであろう家族の身が気がかりになる。しかし、今更自分が戻るわけもない。なれば、たとえ裏切ることになってしまったとしても、やはり認識を変えた方があの子達は静かに暮らせるのではないだろうか?家族で無くなったとしても、その姿を近くで見守れるならば。
「……何か勘違いしているようだから忠告しておきましょう」
「え?」
「私は別に、あなたとあなたの家族の関係を危惧しているのではありませんわ」
冷たく言い放つ八雲紫に、ひしがきは背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
……そうだ、今までこの妖怪の賢者が自分の事に気を配ったことがあっただろうか。藍という存在を自分の元に着けたがそれもすべては幻想郷のため。事実今、役目を終えようとしている俺の側に藍はいない。言葉さえも掛けてくれない。なら一体、八雲紫は何のつもりで俺に忠告などと言っているのか?
「何故、博麗の巫女は一人きりで戦うのだと思うかしら?」
「……何故って、それが博麗の仕事だからだろう。人妖のバランスを保つために、妖怪に対する抑止力となる人間。そんな人間なんて元々多くはないだろうし」
「間違ってはいないわね。でもこの場の回答としては外れよ」
俺の考えを八雲紫はあっさり切って捨てる。
「あなたの言う通り博麗の巫女は特別な存在であるがゆえにその責務も大きくのしかかる。その重荷は巫女にしか背負うことはできない。一人きりで戦わなければならない理由は多くあるけれど、ここでの正解は認識を変えられるのは巫女だけになるという事よ」
「………巫女だけ?」
「わからないならヒントをあげましょう。あなたは鬼と一人で戦ったのかしら?」
「――――あっ」
違う。俺一人じゃない。あそこにはいろはもいた。つまり俺の認識は変わってもいろはは変わらないということだ。
「もちろん、それだけであの子がどうなるわけでもないでしょう。しかし、あなたは里に被害を出してしまった博麗として認識されている。そしてあの子はその博麗と共に戦った存在。あなたは認識を変えられても、彼女は変えられない。今回の件で里の人間は今代の博麗に対する憤りをぶつけるようとするでしょう。しかし、それが誰だかわからない。ならその矛先はどこに向かうかしら?」
体が、恐怖に震える。それはこれまでの恐怖とは違う恐怖。自分の身に降りかかる災悪に対する恐怖ではない。自分のせいで自分の大切なものに悪意が降り掛かってしまう事への恐怖。
「博麗が一人で戦わなければならない理由。それはその責務の重さゆえに迂闊に博麗にかかわってしまえば被害が増してしまうから。だからこの博麗神社も里から離れた場所にある」
「どうすればいい……」
ひしがきは地面に膝を着き首を垂れる。
「どうすれば……どうすれば、いろはは……どうしたら………」
ひしがきは初めて戦い以外で心を折られた。苦しくても辛くても逃げることはなかった、折れることはなかった。かつて一度だけ花の妖怪に心も体も痛めつけられた時以外に、失意したことなどなかったのに。途方に暮れたひしがきは、かつてと同じく絶望に暮れる。
「とはいえ、あなたは正規の博麗というわけでもなかったわね。元々は里の人間が不安を拭い去るためだけに用意した異端の博麗。……けれど最後にその役目を果たせなかったとは言え、確かにあなたはよくやってくれましたわ。おかげで次代の巫女を探し出し育てる準備もできた」
八雲紫の声の含むところにひしがきは顔を上げてすがるように彼女を見る。八雲紫は口元に小さな笑みを浮かべてひしがきに語り掛ける。
「あなたが望むなら、条件付きであなたの妹は博麗とは別に鬼と戦ったということにしてあげてもよいわ」
「分かった!」
その言葉を聞いた瞬間に、すぐにひしがきは答えた。ひしがきにとって、それは当然だ。自分のせいでいろはを苦しめるなどあってはならない。そのためならば条件などいくらあっても関係はない。
「契約成立ですわね」
ひしがきの返答に満足気に笑うと、八雲紫はスキマを出して藍とともにその中に入っていく。
「条件は追って伝えますわ」
それだけ言って、妖怪の賢者は式とともに姿を消した。
風が静寂の中で冷たく吹く。
その場に残されたひしがきは、さきほどから打ちひしがれその場に蹲っている。
「……博麗の巫女は」
それまで何も語らずに黙っていた先代巫女が静かに語りだした。
「孤独な立場だ。その役割は、代々巫女たちによって受け継がれてきた。歴代の巫女たちの背負ってきたもの、その想いごと受け継いでな」
ひしがきは、変わらずその場から動かない。その表情は窺い知れず、声が聞こえているのかさえ分からない。それでも先代巫女は語り続ける。
「お前はその間に入り込んできた。たとえお前にその意思がなかったとしても、受け継がれてきたその責務をお前は守れずに、結果その立場を危ぶめた。……紫が言わなかった条件をここで言おう。お前はこれまでも、この先も、一生博麗の『代理』であり続けろ。自分で背負いきれなかった重荷の責は、お前だけが背負え」
そう言って先代の巫女神社の奥へと入っていった。
「……………」
ひしがきは、動かない。
動けないのではない。身体は怪我もしていれば疲労も色濃いがこの程度、これまで戦い続けてきたひしがきにとっては問題ではない。
それでもひしがきは、動かない。
わかるのは、その体が小さく震えていることだけだった。まるで身を隠すように小さく身を縮め、ひしがきは震えていた。苦しいのか。辛いのか。それとも泣いているのか。
………そのどれでもない。ひしがきは堪えていた。今の孤独と、これから来るであろう、本当に独りぼっちになってしまうであろう未来に。
今更何のために堪える必要があるのか。ひしがき自身、その理由はわからなかった。今はただ、立てるようになるまで堪える事しかできなかった。
長くなりましたがここまでで一章が終わったという所です。
次回からはまた時間が一気に飛びます。異変は全部飛ばします。オリジナルの異変を書く予定です。
そしてお待ちかね、ひしがき君救済タイム&ヒロイン登場となるのでお待ちください。さて一体だれがひしがきを救う女神になるのか?
……もちろん絶望も沢山あるので安心してください。