平日の昼間から街の大通りを歩いている。学生の身でありながら。
だが、やましいことなど何もないし、誰に気兼ねすることもない。だってそう、今は夏休みだから。
長期の休暇、我々だけの特権だ。明日も明後日も学校に行かなくていい、一日中が自由な時間である。
そんな恵まれた環境にもかかわらず、足取りは軽やかなものではなかった。
季節は夏真っ盛り。
めらめらと輝く太陽からは、痛いほどに光線が降り注ぎ肌を刺す。加えて、足元のアスファルトの道路はそれを吸収して熱を蓄える。
早い話が、非常に暑いのだ。
「……あつぃ」
無言で歩いている俺のほんの少し後ろで、日向縁はポツリと呟いた。蚊の鳴くようなかすかな声で。
今この一帯にいるほぼ全ての人間の心情を、端的にかつ正確に表している、そんな一言を。
まったくもってその通りだ。心の底から同意する。だが、口にした所で何が変わる訳ではないことも十分に分かっている。
それ故に、少女の言葉に反応するようなことはしなかった。
振り向くなんてことは勿論、言葉を返すこともせずに、ただただ足を前へと進める。
そんな俺の心中を知ってか知らずか、彼女は再び口を開く。
「ねぇねぇ、優ちゃん」
「……何だ?」
続く言葉が想像できただけに、彼女の問いかけに答えるかどうか迷った。が、名前を呼ばれてしまっては無視するわけにもいかなかった。
「優ちゃん……暑ぃ……」
「……」
「ふみゃ」
あまりに予想通り過ぎる縁の発言に、俺は無言で彼女の脳天に手刀を落とす。当然、加減はしたけれど。
それを食らった彼女は、酷く間抜けな声で鳴いた。
「痛いよぉ、優ちゃん~」
言葉とは裏腹に、全く痛そうな素振りも見せずに縁はそう言った。
「暑い、暑いって言ったって涼しくなるわけじゃないだろ」
「それはそうだけどぉ」
縁は不満げに、というか駄々をこねる子供のような口ぶりで言う。
まあ、彼女の気持ちも分からないでもない。
確かに暑い時には暑い、寒い時には寒い、痛いときには痛い。そう口に出してみると意外とそれが和らぐような気がするのだ。
だが、それを聞かされる側としては堪ったものではない。口にしている人間が放出している分、周りの人間がそれを吸収しているような、そんな感覚。
「むぅー……あっ、そうだ! 優ちゃん、手っ」
「は?」
「優ちゃん、てー出して、手!」
唐突な縁の発言を、今の茹で上がった頭では上手く処理することが出来なかった。発言の意味は分かる、が、意図が分からない。縁に理由を問うてみても、いいから早く、と言われるだけで。
「ほら」
「……えいっ!」
あまり気乗りはしなかったが、彼女の要求通り自分の右の手を差し出した。
すると、彼女は可愛らしい掛け声と共に俺の腕に絡みついてくる。
「ぬぅわぁあ!?」
刹那、俺の口から奇声が飛び出る。自分でも何処から出たのか分からないような、そんな声を。
そして、ついつい彼女の手を勢いよく振りほどいてしまう。
「ああっ! もうっ、何で離しちゃうのぉ」
「いや、だって、お前さぁ……」
縁は頬を膨らませながら、抗議の視線を向けてくる。
だが、むしろこちらの方が、縁の取った行動の理由を教えて欲しい位だった。
この夏は猛暑日が続いている。例に漏れず、今日もまた気温は非常に高い。
そして人間、暑ければ汗をかく。これは至極当然の生理現象。
加えてこちらはポロシャツ、あちらはワンピース。俺も縁も装いは違えど半袖で腕は露出している。
そんな状況で腕を組むなんてことをすれば、俺が先程のような反応をするのも納得できるはずだ。
お互いの汗の浮いた皮膚と皮膚が触れ合って、何というかこう、早い話が気持ちが悪い。ましてや不意打ち。
いくら相手が可愛い女の子だったとしても、その感情をゼロにすることは出来なかった。
「何なんだよ、急に」
「えと……あのね、この前、部活のときにたまたま見たんだけど」
「……うん」
「気温がすっごい高くなるとね、体感温度の方が体温よりも高くなるんだって」
いつもの様にざっくりとした、抽象的な感じで縁は説明を試みる。
いわく、例えば気温が30℃だったとしても体で感じる、いわゆる体感温度も同じく30℃とは限らない。
それは湿度や風量、日照量等によって左右され、高温多湿な傾向にある日本の夏においては高くなりがちだと。
そして最終的に、それが体温を超えるとむしろ人肌の方が冷たく感じるんだ、と。
「でもなぁ……」
話半分ぐらいにしか信用していない此方の態度を見て、縁はこれまた不満そうに暫し考え込む。
そして、おもむろに自分の鞄に手を突っ込み、その中からハンドタオルを引っ張り出した。
「ねねっ。手、貸して」
「えぇー」
「もうっ。ほらっ、早く」
「……」
「んっしょっと……うんっ! これでおっけー」
縁はそのタオルでまず俺の腕の汗を拭い、そして次に自分の腕を拭く。
それを終えると、縁は満足そうに笑う。
「……」
「……」
会話が止まる。
汗が嫌ならばコレで文句は無いだろう。縁の笑顔は、無言ながらそう告げているような気がした。
「……はぁ」
俺は小さくため息をついてから降服する。そして、自分の右腕を再び縁の方へと差し出した。
「っ! えへへっ」
一瞬の驚きの後、これまた嬉しそうに笑いながら、縁は今度はゆっくりと自分の腕を絡ませる。
「……へえ」
「おおっ」
俺と縁、二人揃って感嘆の声を上げる。
お世辞にも冷たいとか、涼しいなんて感想は湧かなかった。
そこはあくまで人の体温。いくら低くても35℃以上はあるのだから当然だろう。
とはいえ、想像していたよりも遥かに抵抗感みたいなものはない。汗を拭いたおかげか、先ほどまでの嫌な感じもなくなっていた。
「……ああ、なるほど」
そして、一つ全く別のところにあった疑問みたいなものが氷解した。
真夏だというのに腕を組んだり、手を繋いで歩くカップルたち。
今までそんな光景を目にするたび、この糞暑いのに馬鹿なんじゃないだろうか、と半ば嫉妬交じりの思いを抱いていた。
しかし、なるほど。傍で見ているよりも、本人たちには不快感みたいなものは少ないのかもしれないと。
とはいえ、触れ合っている肌と肌の間に熱が篭るのは確かだ。ましてや歩きながら、動きながらだと尚のこと。
更には、歩きにくいのは勿論、以前の自分が感じていたように、他の人間から見て暑苦しいのも間違いない。
そもそもこれは実験みたいなもので、このままくっ付いている理由も見当たらないわけで。
だからもう離れてもいいのではないか。そう縁に提案しようと、彼女の方へと視線を向ける。
するとその動きを察したのか、縁もこちらへと顔を向けた。結果、ふたりの視線が交差する。
「ん? どうしたの優ちゃん?」
「えっ!? あ、いや、なんでもない」
俺は思わずそう答えていた。
縁の顔がいつもより遥かに近くある。その事実に狼狽してしまったから。
そしてまた、縁は何事も無かったかのように前を向いて歩き続ける。自分の左腕を俺の右腕に絡ませたまま。
腕を離すという考え自体、今の彼女の頭の中には存在していないようだった。
「……」
再び、チラリと横目で縁の顔を窺う。
ニコニコとした表情は見慣れたいつものそれで。何が楽しいのかは知らないけれど、少なくとも先程までの暑さにうだる彼女は姿を消していて。
そんな縁を見て、喉元まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。
縁が楽しそうならば、まあそれでいいかと自分を納得させながら。
しかし、そうやって現状を受け入れてしまうと、不思議と冷静さが戻ってくる。そして気付く。
今、恐ろしく恥ずかしい状況なのではないかと。
だが、それももう手遅れで。
今更離れてくれというのもばつが悪い。
とすれば、恐らくこれから向かう唯の家までずっとこのままなのだろう。
こうなってはもう、耐える以外他はなかった。
気温とは無関係に顔と頭に蓄積していくの熱も、直接触れ合っている肌の間の熱も、街行く人々の視線も全て。
それも縁の笑顔の対価だと思えば、甘んじて受け入れられるのであった。
久しぶりすぎて色々としっくり来ないこの感じ。
ましてやこのネタ考えたのが一年以上前だという現実……。
次はもうちょっと何とかしたいです。
そして、これだけ間隔が開いているにもかかわらず読んだくださり、更には感想をまで書いてくださる読者様には感謝してもしきれません。
本当にありがとうございます。