「ただいまー」
玄関の扉を開けると、一足の靴がそこにはあった。おそらく我が家の人間のものでは無い。明らかに女性が履くようなサイズで、デザインも若年層が好みそうなものだったから。
母が若作りをして履いている、というような事でもない限りは十中八九他人のものだろう。
「ただいま」
リビングを覗き込みながら、再び声を掛けるが返事は無い。それどころか人の居る気配すらそこには無かった。
しかし玄関に在ったそれを見ても、誰かしら居ることは明らだった。
母の姿が見当たらないということは、おそらく客人に留守番させて出かけたのだろう。そしてそんなことを頼めるのは、ある程度親しい間柄の相手のはずだ。
誰に披露するわけでもないのに、無駄に推理を脳内で展開しながら二階への階段を上っていく。
「ただいま」
自分の部屋の扉を開けて、本日3度目の帰宅の挨拶を口にする。
「おかえりー」
確かにそこに来訪者は居た。
人様のベッドに横たわって本を読んだまま、視線もよこさずに返事をするような奴が。
「おかえりじゃねーよ。何で居んの?」
「おばさんが、あら、ゆずこちゃん久しぶり。あの子ならもうすぐ帰ってくるから、部屋に上がって待っててね……って」
「いや、声までマネなくていいから」
若干似ているのが妙にイラッとくる。
「で、そのおばさんは?」
「ちょっと買い物行って来るわねーって」
案の定、客に留守番させて外出しているらしい。
それ自体は構わないのだが、人の部屋に勝手に他人をあげるのは止めてほしい。年頃の男子学生の気持ちをまるで分かっちゃいない。ましてや男なら兎も角、女の子をだ。
俺に限らず思春期男子にとっては、少なからずいろいろと触れられたくないところがあるのだ、いろいろと。
「あ、特に部屋の中漁ったりしてないから」
「何で聞かれてもいないのに言うんだよ。逆に怪しいわ」
まるで俺の心の内を察したかのようにゆずこは言う。
しかし、まぁ、本当に何もしていないだろうということは分かってはいる。普段の態度の割りに、意外と常識的な奴ではあるのだ。
「それで?」
「え!? ああ、えっと。ゆずこちゃん綺麗になったわね、って」
「そんな事聞いてないっての。つかモノマネはもういいから。あとそれただのお世辞だから」
「……ツッコミしんどくない?」
……誰のせいだ誰の。
「あ、そういえばさ」
「ん?」
何かを思い出したようにゆずこは声を上げる。
「……うがいと手洗いちゃんとした?」
●
「息あがってるよ」
「うるさいよ」
二階とはいえ階段の上り下りは実際しんどい。平屋にしてくれてたらな、と毎度の事ながらそう思う。
「……で、結局何しに来たんだよ」
「ん~……暇だったから?」
何の面白みもない回答に、俺は肩を落とす。まあ、正直そんなとこだろうとは思ってはいたが。
「唯とか縁はどうしたんだよ」
「あー、何かふたりとも用事あるっぽくて。それに、いきなり押しかけたら迷惑だし」
「いや、そっちに遠慮するなら俺んところも遠慮しろよ」
「そこはほら、優くんの家だし、ね?」
「ね、っじゃねーよ。用がないなら帰れよ」
こっちは買ってきたばかりの新刊を読みたいんですが。
「えーいいじゃん。あ、それじゃ一緒に読も」
ゆずこはポンポンと自分の隣のベッドを叩く。
……いやそんな状況で落ち着いて読めないから。ゆずこが相手とはいえ、寝そべっている女の子の隣で平静でいられる自信は無い。
「んーと……じゃあ、カラオケでも行く?」
「いかないよ、もうこんな時間だし。つか、じゃあってなんだよ」
時刻は既に5時を回っている。さすがに、外に遊びにいくには中途半端な時間だ。
「むー。何だったらしてくれるわけ?」
「いや、何もしないから。」
「えー、つまんないー」
そう言ってゆずこはベッドの上で手足をバタつかせる。
「優くんはさ、もっと幼馴染に優しくするべきなんじゃない」
「……わりかし優しい方だと思うんですが?」
「ぜんっぜん、足りないです。優太って名前なのに全然です」
俺として付き合いが長い分、ゆずこに対しては甘いつもりでいた。だが彼女的にはまだご不満らしく、かぶりを振って否定する。
「ほら例えば、唯ちゃんと縁ちゃんは小学校からの知り合い同士でしょ?」
「そうだな」
「んで、唯ちゃんは私より縁ちゃんに優しかったりするわけじゃない?」
「……」
一応、彼女の名誉のために言うと、櫟井唯という俺の友人は、相手によって露骨に態度を変えるような人間ではない。無論ゆずことて本気で言っているわけではないだろうが。
仮にあるとすれば、付き合いの長さとかじゃなくて、普段のゆずこの言動が原因だろう。えこひいきだとかそんなのじゃなくて、単純に縁とゆずこの立ち位置の違いみたいなものだろう。
「それで、私と優くんは小学生になる前からお互い知ってるわけじゃん」
「まあ、そうだな」
俺と唯、縁は同じ小学校に通っていて、その頃からの付き合いだ。だが、ゆずことは親同士で親交があったこともあり、それ以前から見知っていた。俺の記憶にはないがうちの親曰く、物心つく前から一緒に遊んでいたらしい。
「だから、幼馴染である私に優しくする義務があると思います」
「……優しくって、具体的にはどういうことよ?」
「え!? うーん……のどが渇いている私の為に飲み物を持ってきてくれる、とか?」
随分と即物的な話だった。
「めんどくさい。つか帰ってくんないっすかね。俺は落ち着いて本読みたいんだけど」
「えぇー。だって、今家帰っても誰もいないんだもん。お父さんもお母さんも遅くなるって言ってたし」
「お姉さんは?」
「お姉は友達と旅行だって」
子供のように駄々をこねるゆずこに、俺は白旗を上げて立ち上がる。そして、はぁ、とため息を一つついてから彼女に問いかけた。
「……お湯沸かすの面倒だから麦茶かなんかでいいか?」
●
「あら優太、帰ってたの」
キッチンを覗くと母の姿があった。いつの間にか帰ってきていたらしく、買ってきた食材などを収納しているところであった。
「んー。おかえり」
母の横を抜け、冷蔵庫から常備している麦茶のポットを取り出して、それをコップに注ぐ。
「それにしてもゆずこちゃんは明るくていい子ね」
「……騒々しいだけじゃないの」
「またそんな事言って。そのうち愛想尽かされるわよ」
友人の娘であるからなのか、理由は知らないが母はゆずこのことを大層気に入っている。
ゆずこが家に来るたびに、礼儀正しいだの、しっかりしているだのとやたらと褒めるのだ。そして最後には決まって、ちゃんと優しくしてあげるのよ、と母は言う。
幼い頃に一緒に遊ぶ際に言われていた言葉を、未だに常套句のように言われるのだ。
はいはい、と母の言葉を受け流しながら、自分の分と合わせて二つのコップをトレーに載せて再び母の横をすり抜ける。
そのままキッチンから撤収して、自室へ続く階段の一段目に足を掛けたところで立ち止まった。
「……やっぱり優しい気がするけどなぁ」
誰にも聞こえぬようにそう呟いてから、引き返してキッチンを覗き込んだ。
「……今日、ゆずこに晩飯食わせてやっていいかな? 家帰っても誰も居ないらしいから」
「元からそのつもりよ」
母のそんな答えを聞いてから、俺は再びキッチンを後にした。
毎日いろんなことに振り回されれてしんどいです。
どうせなら、ゆずこみたいな可愛い女の子振り回されたい。