これが終われば物語は進む筈。
前回、美海と誠はいちゃつきました。
「あっ、あれ……?」
ナースステーションの中、椅子に座りながらポケットの中をゴソゴソと探っている美和は立ち上がり、ちゃんと確認しようと服にパタパタと手を当てていく。
「どうされたんですか、美和さん」
「えっとね、ないの」
目の前で探し物をしている先輩の行動を観ながら文香は聞き返した。それに行動を続けながら美和は答えるも、やはりポケットの中に入っていた探し物は見当たらない。
「どのような物なんですか?」
「ん、ピンク色の包み紙だよ」
「ピンク色の包み紙?」
音も立てずにお茶を飲む文香は首を傾げると、マグカップの中の液体を飲み干そうとしながら――
「避妊具だよ」
「ゴ、ケファッ―――ケフっケフっ!?」
――気管に流れ込んだお茶を吹き出した。
「ご、ごご、ごむ………………ですか?」
「そう、それ」
興味はあるのか、年頃の女の子は赤面しながらも話に食いついてくる。文香ちゃんもまだまだそういう事には興味があるのだろう、とは……男嫌いの文香ちゃんからはあまり予想ができなかったけど、それでもその辺りについては少しくらいは理解しているんだね。と、美和自身流しながら少なからず彼女の人間らしさに安心していた。
後輩がタオルで口元を拭き始めた頃、美和の頭の中を一つの光景が過ぎる。
「あ〜……もしかして、あの時かな」
「あの時って……落とした場所がわかったんですか?」
一息を着こうとお茶をまた口に含む文香は、冷静になるために温かいお茶を啜り、
「うん。誠君と一緒に寝たベッドの中と思う」
ガシャン!!
文香の手からマグカップが滑り落ち、大きな音が鳴る。派手な音がナースステーションに響いたかと思うと、それは激しく飛び散り砕け散った。
「え……っ?」
「だ、大丈夫、文香ちゃんっ!?」
「あ、すみません……聞き間違いですよね」
落ちて壊れたマグカップより詳細が気になるのか、美和を見つめる彼女の目はなんというか……ものすごく怖かった。
「え? 何が?」
「で、ですから、その!」
言い澱み言葉に困る文香は、内心決心して言葉を続ける。
「……誠さんと、寝たって、いうのは」
「あぁ、うん」
「ど、どこでですか?」
まさか、自宅で娘やチサキさんがいる中、二人して夜の営みに耽ってはいないはず。
なら、何処か? 街の方のホテルか何か、そう予想した文香に告げられたのは予想外の場所だった。
「病院。誠君が入院しているベッド」
「び、びび、病院……美容院じゃなくて?」
「病院だよ。誠君はいま部屋にいるはずだし外出もしてないし、昨日寝たのは美海ちゃんとだし」
「びょういんでそんなこと、いやらしいです!」
彼女の脳内で再生されたであろう光景は正しく子作りとも言えるもので、年相応な知識が誤解を招き、文香は顔を真っ赤にしてアタフタと取り乱す。
ただ、残念なことに話がどこかズレていることに気づくわけもなく、そんなお互いの立場に気づかないながら美和は心配そうに後輩の顔を覗き込んだ。
「顔真っ赤だよ。大丈夫……?」
「ふあっ、誰のせいですか」
「んー? 私? でも、寝るくらい普通でしょ」
「普通じゃないです! 小説でも漫画でもそんな近親相姦だなんて、イケナイことですよっ!」
ついに言い切り、文香はハァハァと荒い息で胸を抑えながら自分の先輩を見る。しかし、さっきの言葉でようやく会話のズレを理解したかと思えば、そうでもなかった。
「でもねー、私は誠君と血は繋がってないんだ。なのに誠君ってば誘惑しても何しても平気そうなんだよ」
「……え、あれ?」
そこで後輩である文香だけが会話のズレに気づいた。
『誘惑しても何しても平気そう』ということは、男女間のねるという言葉とは意味とは違ってくる。それを理解すると同時に、文香の頭の中は羞恥に呑まれバグを起こしシステムエラーを起こしそうになり、ついには処理限界を超えてオーバーヒートしてしまう。
“寝ただけ”
エッチな事や交配ではなく、そのままの意味の“添い寝”と言われる就寝行動。
美和自身が誠に迫っていたのは事実なので近親相姦に関しては何も突っ込まれなかった。
その事実にすら頭はピントを合わせられず、目の前の問題提起に気づかないまま文香は狼狽え、全てにおいて切り捨て忘れ去ることを選んだ。
「うわわぁ、ごめんなさい忘れてください!」
「何を……?」
「ナニについてです!」
言葉が伝わらなかったのか美和は首を傾げる。
後輩である彼女、文香は先輩の馴れた天然ボケにも対応出来ず混乱し状況は混沌と化す。
―――その時、助け舟か泥船かナースコールが発せられた。
いきなりの事に二人して驚き、飛び跳ねるとそちらに振り向く。名前の横、点灯したランプには『長瀬誠』と表記されていた。件の議題の原因の一つである男の子がどういう要件か、タイミングよくナースコールを発したのだろう。
「あれ、誠君……だよね」
「そうですね。間違いないと思います」
だとして、美和自身疑問に思ってしまう。
彼は並大抵のことではナースコールを押さない。さらに言うと、傷口が開いたところで自分でどうにかしてしまう性格で、元より傷口を開かせるような事をする人ではなかった。
「あっ、もしかして楓ちゃんじゃないですか」
「なるほどね。じゃあ、私が行ってこようかな」
受話器を取り、相手の言葉を待つ。
が、受話器の向こうからは何も聞こえず美和は首を傾げるのみで、聞き返しても反応はなかった。
「うーん、おかしいな」
「誰も出ないんですか?」
「……もしかしたら」
――応答できないほど、危険な状態なんじゃないか。
不安が募り込み上げると、どうしても確かめたくなった。
「急いで行ってくるから、他の人が鳴らした時のために文香ちゃんは待機してて」
「わかりました」
返事が早いか、美和はナースステーションを出て廊下を駆けていく。焦燥感が胸の中で胸騒ぎとなり、もしものために走り出す。
そうして辿りついた病室、心臓病の少女と相部屋の部屋の前で美和は立ち止まり、躓きかけながらも扉を開き中に入る。
「誠君、いったいどうした……の?」
しかし、少年の姿は――なかった。
名前を呼びすぐに出てくることを願うも、どこかに抜け出したのかベッドの上は空っぽだった。
隣のベッドの上を見れば、見知った少女がスヤスヤと気持ちよさそうに寝ている。添い寝をしているために彼がその女の子と寝ているわけでも、ない。
部屋には誠はいなかった。
ただ、抜け殻のような布団だけが彼女を不安にさせたのだ。
□■□
同時刻、日の境目に入る前に院長室と書かれた部屋の中で男が笑みを浮かべながら、机にあるモニターを凝視していた。
「……思った通りだな」
モニターにはナースステーションが映っている。
その中、一人の女性――文香が出て行った先輩の心配をしながら椅子に座っていた。
受話器を取り、番号を打ち込む。
数回のコールの後、画面の中の文香は内線に驚きつつも電話を取るべく机に向かい、男はそれを見ながら相手が電話に出るのを待った。
『はい、ナースステーションです』
可憐な声が響く。その音に身を震わせながら、男は鼻息荒く応対する。
「あぁ、文香君か。実は少しこっちに来てもらいたくてね」
『はい…? えっと…私が出てしまうと無人になってしまうのですが…』
「院長命令だ。責任は私が取ろう」
『わ、わかりました……!』
すぐに伺うことを伝えると相手の方、ナースステーションの方から電話を切られる。彼女自身、上や下などの上下関係についてはある程度遵守するつもりで、性格も真面目なほうなのだ。だからこそ、院長命令とあらば従わないわけにもいかず戸惑いながらも仕事だと理解した。
電話を終えて数分後、扉をノックする音が響き渡る。
その音に誰が来たか確信を持っていた男は、期待に胸を膨らませながら扉を遠隔操作で開ける。
ピッ、という電子音を後に、
「入ってくれ」
と、言ったが外からは何も聞こえない。
この扉、部屋、防音加工が施されていて中の音は全て外に出ないようになっている。即ち、中から声をかけようが外には全く伝わらないのだ。
浮かれていた男は自分の今日この日のために重ねた計画から出た失敗に内心笑うと、椅子から立ち上がり些細なことだと割り切る。
「さあ、入って入って。君を待っていたよ」
「え、あ…はい…」
扉を開け、遠慮気味に文香は扉の中に足を踏み入れ後ろ手に扉を閉めた。途端、ピッという電子音とともに施錠され部屋は密室となる。
「座りなさい。楽にしてくれて構わない。すぐに紅茶を淹れよう」
「いえ、そんな…! 私がいれますので院長はお座りになっていて下さい」
上司に対する敬意から紅茶をいれようと申し出るが、ここはあまり入ったことのない場所であり、普段のように生活している院長とは違い全部の場所が判らない。
彼女自身、そう言ったはいいがポットなど勝手がわからない状況では、普段紅茶やコーヒーをいれることがあっても道具類を探すしか道はない。
―――ガシャン!!
そして、当たり前のように周りにあるものをひっくり返して、顔を青くする始末。
「はっはっは。いいから座ってなさい。道具の場所も判らないのであろう。客をもてなすのは私の仕事だ」
「は、はぃ……」
ひっくり返してしまったものを片付け、文香は大人しく椅子に座ることにした。ふかふかのソファーに腰掛け院長が手際良く紅茶をいれるさまを観ながら、ふと院長が取り出した包に視線を向けた。
「あの、それは……?」
「あぁ、これかな。砂糖だよ」
納得し、サラサラと零れ落ち紅茶に降り注ぐ光を見ながら疑問を抱いたまま胸を撫で下ろす。
何故か、胸騒ぎがした。どうしてかは判らないが彼女自身にはその粉は見慣れないものだった。そう、感じたことが一番の要因であるというのに、院長だからと内心安心していければ良いのだが……職務中とありそちらが気が気で仕方ない。
なら、早く紅茶を飲んで去ってしまおうと決めて院長の邪魔をすること無く終わらせようと思った。
漸くして紅茶がいれおわり、文香の前に紅茶が差し出される。差し出された紅茶は、
「アールグレイですね」
「正解。つい先日仕入れたんだ」
「そうなんですか?」
「ああ、君もこれが終われば立派な看護師だからね。その前祝いにと思ったんだ」
「それ…では、遠慮なくいただきます」
カップを持ち上げ、口元に持っていく。院長はその間ずっと文香の方を見ており、その視線が気になり手の動きを止め目を瞑る。
「……見られていると非常に飲みにくいのですが」
「すまないな。感想が聞きたくてつい」
顔をゆっくりと背ける院長。
目を開けその姿を捉えた文香は、ゆっくりとカップを口に近づけ……そして。
―――ガシャァァン!!!!
カップを手から滑らせ、派手な音を立てて砕け散る。砕けると共に残った中身が飛び散り、それを見ることもなく文香は僅かに肩を震わせ、体の異変を感じた。
「わ、たし……あ、れ……」
二の句を継げられずに開いたままの口を塞げもせず、ソファーの上に倒れ込む。
そして、目に入ったのは院長――彼が下卑た笑みを浮かべて椅子の上に満足といった顔でこちらを見ている姿だった。
(私、なんで、動かないの……? 院長は、なんで……あれ、すごく眠くなって、きた……)
「疑問に思うこともあるだろうが、まずは眠るといい。おやすみ。そして、目覚めた時、君は新しい生活を手にするだろう」
微睡みに襲われる中、手放してはいけない意識を文香は手放した。
◇◆◇◆◇◆
私がナースステーションに戻ると、そこに後輩である彼女――鷹白文香ちゃんの姿はなかった。トイレかな、と思ったけど何が違う気がする。
そう言えば、誠君も院内にはいなかった。ベッドの上はもぬけの殻で……まさか、美海ちゃんに会いに行ったんじゃないかと思うけど……それはそれで安心だ。きっと明日の朝にはケロッとした顔で上機嫌に本を読んでいるに違いないのだから。
「どこに行ったのかなぁ……二人とも」
それでも気になる。
もしかしたら、あの子達……。
「……逢引?」
いやいや、あの子に限ってそれはない。
「文香ちゃんは男の子、無理だもんねぇ。誠君と会っているにしても、誠君って……いやいや、せがまれたら断れない性格だしなぁ。どっちかと言うと愛してくれる人を末永く愛しちゃう性格だし。まぁ、生まれて育ちがあれじゃあ歪んじゃうのも仕方ないんだけど」
時計が差す時間は午前1時。
時計を見る私は、今か今かと文香ちゃんが帰ってくるのを待っていた。
それにしても遅い。彼女は職務怠慢をやらかすような性格ではなくすごく真面目で、肩の力の抜き方を知らないくらいの真面目さを持っている。冷静で優しくてそんな彼女に限ってどこかに行く、というのもおかしな話だ。
「……やっぱりなんか可笑しいよね。探しに行こう」
親として、先輩として、ナースステーションを離れてはいけないけどそれでも探しに行く。
そう決め、懐中電灯を手に私はナースステーションを出た。緑の薄い光以外、全てが黒に染まった廊下で身震いを感じながら勇気を振り絞る。
「オバケなんていない、よね……ハハ」
幽霊なんているはずない、って信じたい。
病院で誰も死んでない、って信じたい。
噂では、たまに出るらしいのだ。
昔、この病院で亡くなった患者さんの霊が今でも何かを求めて夜な夜な徘徊する。
その時だった。
「あれ……? あの部屋……」
何回廊下を曲がったのか、気がつけば院長室の前まで来ていた。部屋から漏れる光は間違いなく、院長室からの光だった。
こんな時間に仕事なのか、今まで夜勤に参加したなど聞いたことは無い人、その人がこの時間帯に院内に残っているのはどうも不思議というよりも、何かしらの不安があった。
足音を抑えるように歩き、扉に忍び寄る。
そうして、私が中の気配に耳を澄ませた時――不意に手はいつものパスワードを入力してしまう。
文香ちゃんがこの中にいるかも。もしくは、院長が行き先を知っていたら。見ていないか、そう尋ねようと扉を開き私は胸騒ぎの……
「やぁ。よく来たね、美和くん」
―――元凶を知るのだ。
「えっ、あ…っ…文香、ちゃん?」
まるで来るのがわかっていたかのような口調に、私は驚愕に目を見張る。
部屋に入り、院長と同時に目に入ったのが――
あの娘、鷹白文香ちゃん。後輩だったのだから。
手錠のようなものでソファーに拘束された後輩。
眠るような表情、いや眠っているのだろう。両手はソファーの端に広げられるように手錠で固定されて、僅かに身動ぐことが出来るかどうか。両足も同じように広げられ、足首で同じ手錠のようなものを付けられている。
それは、そう……。
まるで、奴隷の拘束具のような物だった。
「院長、何やってるんですかっ!?」
「何って、セレモニーさ」
「セレモニー? こんなこと……っ!」
「許されるはずがない、とでも言いたいのか」
最初から問答は無用、議論する余地すらないと院長は最後の拘束を終えてこちらに向き直った。
それでも、まだ、間に合うかもしれない。院長も、文香ちゃんも幸せになれるようなハッピーエンド。まだ、彼は間に合うかもしれない、そう願い声を掛ける。
「これ以上はやめて下さい。そうしないと、本当に戻れなくなる。取り返しのつかないことになる前に、文香ちゃんを解放してください」
「ハハ……取り返し、ね」
嘲笑うように、院長の浮かべた酷く歪んだ笑みに私は一歩下がった。
「取り返しなどとっくにつかないところまできてるさ。それに私が告発されたところで、私の裏には暴力団が付いているから何の問題もない。むしろ、この娘を傷つけられて困るのは君だろう?」
「……っ!」
文香ちゃんから離れ、私に近づく院長はそう耳元で呟いた。
どうすればいいの。
そう聞いたところで、誰も答えてくれはしない。
文香ちゃんを置いて逃げて、電話で警察を呼ぶ?
―――ダメだ、その間に逃げられたり、文香ちゃん自身を傷つけられたら本末転倒、助けたとはいえない。
誠君なら、どうするのか。
私は必死で考え、思考を遮るように院長は一つの取引を囁き持ち掛ける。
「……もし君が私の提案を呑むというのであれば、この娘だけは解放しよう。なに、まだ一切手はつけていない」
「……提案って何ですか」
そう言うと思った。
ニヤリと院長が笑みを浮かべ、一つのマグカップを差し出す。
「簡単だ。君には私の妻になってもらうんだ。その上で今ここで、夫婦の営みをするのだよ。簡単だろう?」
「そのマグカップは……?」
「避妊用の液体さ。要らないかね」
簡単、とは口では言えたものの。
その行為は全てを裏切ることになる。
もしも、私が従ったら、文香ちゃんは返してもらえるのだろうか。
迷う必要なんてない。
迷う必要なんてない、筈なのに……思い出すのは家族たちの、私の大切な宝物たちの顔。こんな関係を持ってしまったら、美空にまで飛び火してしまうのだろうか。誠君はこれを知ったら、きっと……
「おこるんだろうなぁ」
差し出されたカップをひったくるように奪い、私は一つだけ約束をさせる。
「この娘だけは、解放する。私の家族には手を出さないって約束出来ますか」
「ああ、もちろんだとも」
その言葉を聞くと同時に、カップに口をつけて一気に中身を口の中に流し込む。味は普通の紅茶、のはずだけどやはり薬品の味がする気がする。
―――あ、れ?
突如、私の手からカップが滑り落ち、大きな音を立てて床に衝突すると砕け散った。それに続くように私の体からは力が抜け、倒れ込むようにして床に伏す。
そんな私の目に見えたのは、院長のニヤリと浮かべる笑みだけだった。
「因みに、副作用は体が動かなくなることだよ。それと、避妊効果があるというのも嘘だ。実は……この薬、媚薬よりも強力な効果があるんだ。むしろ妊娠しやすくなる」
首も、体も、足も、手も、指一本すら動かない。
そんな何も出来ない私を放置して、院長は――文香ちゃんの方へと向かった。
「おや、お目覚めかい。文香君」
「え、あ……院長? 私、なんで縛られて……」
「ふむ。同じものを飲ませたにしても、睡眠薬を混ぜたからか喋れるか。と言っても、十分には動けないようだけどね」
起きて漸く状況を理解したのか、倒れている私を見ると次第に文香ちゃんの顔は青くなっていく。言葉を口にしようとしても、パクパクと音を立てるだけで恐怖故か一言も発せないようだった。
「い、……いやあああぁぁぁぁぁ!!」
そして、泣き叫ぶように喚く文香ちゃん。
瞳からは大粒の涙を流して、抵抗しようにも薬のせいで動くこともままならず、ゆっくりと手足を動かすだけ。首だけは意外にも早く回り――ふと気づいたことがある。
「見当違いか。どうやらこの薬は筋肉そのものを抑制するのではなく、神経性のものだったようだな」
飲まされた薬は、筋肉そのものを動かせなくするものではなく、神経に抑制を働きかけるのか、と実験のように仮定していく院長。
つまり、本来は、神経系統に異常をきたしているということで、脳から神経に行われる命令そのものを無効にし動けなくするといったところだろうか。
それを打ち破ったのは、そういう理屈でもなく彼女の中にある恐怖心が無理矢理に体を動かしている。彼女には、それだけ怖い思いがこの状況にある。
なのに、私は何も出来ない。
「これもまた面白い。それとだな美和、残念なことに私はこの娘を解放する気などないよ」
制服に手を掛け、ビリビリといとも容易く破かれていく。
文香ちゃんはさらに声を高く、普段の彼女からは想像もできないほどに泣き叫び、目の前の男を見た。
看護師の制服が破け、白い肌が顕になる。最後の防衛ラインの下着ですら、無意味に見え、彼女の心の色と同じ明るい色が……薄暗く染まって見える。
そう見えたのは、院長が彼女を穢して、汚して、そういう未来が見えてしまったからだろうか。
院長は楽しんでいた。
泣き叫ぶ文香ちゃんを見て、何も出来ない私の反応を見て嘲笑うかのように、騙された私を『君もこうなるんだ』というように。
文香ちゃんの瞳は虚ろで、何も映していなくて、読み取れたのは助けを乞う色だけだった。
そして、思いつく限りの人の名前を呼ぶ。
泣き叫びながら、そう助けを乞うのは――私じゃなく。
「お父さん! お母さん! 助けて……!」
予想外の人物だった。
「―――誠さん、助けてっ!」
――――ピッ。
突如、誰も来ない筈の部屋に電子音が鳴る。続けて扉はガチャリと開き、1人の少年が入ってきた。
「……誠さん?」
静かに入ってきた少年が何事も無かったかのように文香ちゃんを見ると、その少年――誠君は僅かに微笑み安心させるように穏やかに……そして、院長へと向ける目は鋭く私へとチラッと視線を寄せると、そのまま目の前の的に何が起こっているか判っているかのように右手に怒りを灯らせた。
「もう大丈夫。絶対に手は出させないから」
「あ……っ!」
今度は別の涙が彼女の頬を伝う。
文香ちゃんの瞳には、僅かながら希望の色が見えた。
私が約束できなかった、その言葉に救われたのだろうか。
歳上なのに、そこまで気が回らなかった自分が悔しい。と同時に、いつもの誠君だと私自身嬉しかった。
そのいきなりの登場人物に、院長は驚愕に目を見開き文香ちゃんから離れ誠君を正面に捉える。
「お前、どうやって入ってきた! ここの扉は電子ロックが付いていてパスワード無しには開かないはずだぞ!」
「見れば判るでしょう? そのパスワードとやらを入力してこの部屋に入りました」
「巫山戯るなっ! ここのパスワードは美和にしか教えていないぞ!」
「馴れ馴れしく呼んで気持ち悪い。パスワードなんていくらでも見て盗める。例えば―――誰かがこの部屋に入る時に手の動きを観察したりとか」
確か、1度だけ誠君の前でパスワードを入力してこの部屋に入ったことがある。その時、間違いなく誠君は後ろにいて、多分その時にパスワードを覚えたんだろう。
……いつから手癖が悪くなったんだろう。
どうしようもない親としての叱らなければいけない気持ちと、今はこれのおかげで助かっている、という矛盾した思いが心を温かくしてくれる。
ありえない、有り得ない。
そう呟き続ける院長ははたりと口を止め誠君を見た。
「……待て、お前は何故ここにいる?」
「さぁ、どうしてでしょう。何故だか新型の危険指定の麻薬作っているあなたに辿りついちゃいました。そこで提案ですが、あなたには大人しく自首して欲しいのですが、如何でしょうか。その方が刑も軽くなりますよ」
「……残念ながら、その気は無い。成功を目の前にして逃げるなど愚か者のすることだ。もう止められはしないし、君にも止められない。君ごとき子供に何が出来る? 最後まで準備も全て計画済みなんだよ!」
「しょーもない。じゃあ、俺の勝ちですね」
おちゃらけた雰囲気の誠君は院長に見えない敗北を突きつける。それを鼻で笑い、相手にしなかった院長。それも予想通りだったのか、誠君の手回しは陰湿なようで、一触即発の事態に、私の頭はもうついていけなかった。
院長が懐に手を入れる。
次に手を出した時、その手には銀色の光るメスが握られていた。
「証拠がないだろう。人質がこっちにいるんだ。大人しくしていてもらおうか。それとも、君は目の前で彼女が凌辱されるさまを見るのがお好みかね?」
「あー、ほんと手遅れです。俺が何もせずに勇敢に死地に飛び込んだ馬鹿だと思ってるんですか」
誠君からすればそれは有り得ないほどの失態だ。
ここに一人で来ている、そう確信していた私は、後ろからの走る足音に一瞬ビクリと体を震わせた。
何故だか、すごく怖い。殺気が漏れ出ており近づくにつれて身震いが酷くなる。ただ、それは温かく心地のいいものだと知るのには十分だった。
「文香ぁぁぁぁ!!」
「誰―――あぐぉぉぁッ!?」
院長が一瞬、扉に視線を向けた瞬間、誠君が袖から何かを取り出し投擲すると、見事にそれは院長のメスを持つ手に刺さった。
煌めくナイフが、血を滴らせ、院長は無我夢中で手を抑え今にも転げ回らん勢いで悶絶する。
「この野郎ぉぉぉぉぉ!!」
悶絶する院長に扉からいきなり入ってきた人は、怒声を浴びせながら殴りつけ、突然のことに反応できず院長は床を転がる。
見たことのない人だった。
いや、そう言えば……1度だけ見たかも。
文香ちゃんと院内で言い争っていた。その時、喧嘩の内容はお父さんが心配して娘の職場を見に来た、んだっけ。
その人は院長の胸ぐらを掴み持ち上げると、あの時の娘から叱られている顔とは別に、激昴していた。今の娘の現状を見て、それも当然だろう。
「落ち着いてください鷹白警部。それ以上殴ったら謹慎になりますよ」
「構うか! よくも娘を、娘を」
「あんたが謹慎処分になったりしたら、生活費はどうするんですか。文香さんに頼みます?」
「貯金がある」
場を諌めようとする誠君は文香ちゃんの前に座り、鍵穴に針金を差し込みながら彼女を安心させようとしていた。怒り心頭の男の人は、娘にコートを着せることすら忘れているようで、ぐったりとしている文香ちゃんに代わりに誠君が持っていた毛布をくるまらせる。どこから出したんだろうか。
それよりも、気になる言葉があった。
「こんなことしてただで済むと思っているのか! 今にも私の仲間がここに――」
「あっ、来ませんよ。先に交渉してお帰りいただいたんで。因みに契約は破棄だそうです。それともう一つ、もう既にあなたの証拠という証拠は全部、この鷹白警部に渡したんで……というか現状を刑事に見られただけで詰みですけど。それ以前にこんなことしてただで済まないのはあなたの方でしょう」
誠君はいつから全てを知っていて、いつからこの時を止めようと必死に動いていたんだろう。また危ないことをしていたのか、私は気が気じゃない。
脱力する院長の肩、尚も激昴し怒りの矛先を向け損ねた男の人、被害者のケアをする誠君、そして安心し脱力すると共に眠ってしまった後輩の顔を見て私もまた安心するのだ。
警察車両に乗せられていく院長。
何事かと、騒ぎ始める病院。
誠くんはその日、勝手に退院した。
院長さん物語から退場。
殴り込むお父さんカッコイイね!
殺しかねない勢いでしたけど。